驍宗は今回、李斎を後宮ではなく正寝に迎えたことで、官にどれほど負担をかけたか
を、よく承知している。それでも、彼にとって譲れない一事であれば、あえて通した。
それでここしばらく、極力天官への改革の手も控えておとなしくしていた。いずれは、
天官府も大きく整理し、さまざまに改革せねば立ち行かぬだろう、と驍宗は考えている。
少なくとも、王の私的生活に関わる官は、どう考えても多すぎるのだ。それに、信の問
題もあった。信で選ぶなら、ほとんどの官を残せない実情を、驍宗は分かっている。
――阿選と折り合いをつけて生き延びた官の全てが、あの女官長のように生きたわけ
ではない…。
――――――――――――――――
女官長が処刑されなかったのは、ひとえに、彼女があの阿選に対してさえも、一貫し
た天官の立場を徹(とお)したがためだった。
内殿に居座り、やがて臆面もなく正寝に乗り込み、王の部屋で寝起きするようになっ
た阿選に、当時正寝の官としてとどまっていた彼女は、直ちに宮中作法の遵守を説いた
という。
王でないゆえ軽んじてかくも無礼な口をきくかと、気色ばんだ阿選に対し、彼女は言
い放った。
あなたが誰であろうと関係はない。ここは正寝である。小官のただいまの役目は、正
寝の主の教育である。正寝で主として起居される以上は、相応のことを申すし、相応の
ふるまいをしていただく。それは誰であろうと、絶対に変わらない。と。
阿選は怒りを和らげた。
驍宗にも、そのような口をきいたと言うか。
問う阿選に、女官長は毅然と答えた。
先王にも、先々王にも。あなた様がここに住まうと仰るならば、あなた様にも。
命は惜しくないか。
成敗を恐れては、小官の職は勤(つと)まりませぬ。
実はこのとき、女官長は死んでいいと思っていた。阿選は驍宗を慕うものを決して許
さなかった。もっとも、彼女の考える天官とは、王に個人的な感情をもつべきではなか
った。実際のところ彼女は、たった数月余ではあったが、たいそう手を焼かせた、あの
禁軍上がりのやんちゃな主君を、嫌いではなかった。が、そもそも好き嫌いを思うこと
自体、天官の資質に欠けるものだともいえる。仕える対象の人格がどうであろうと感情
にかられず態度を変えぬことこそが、天官の本分である。そして彼女は、筋金入りの天
官であった。
それゆえ、天官として死のうと思ったに過ぎなかった。それが、己自身の負い目と引
け目で、卑屈なほどに疑心暗鬼にかられる当時の阿選の気に障らず、以後彼女の指導に
従わせることになったのは、あくまでも結果でしかない。
阿選は身の安全に必要な数以上は、天官に彼の幻術を施すことをしなかった。大多数
をあえて洗脳せずにおき、息のかかった者に監視させた。そうしておいて自分にわずか
でも叛意ある者、逃亡しようとする者を、抹殺していったのだ。
言葉にも態度にも、驍宗を懐かしみ阿選を厭う様子など毛ほどもみせなかった彼女を、
阿選は、信用したわけではなかった。殺す機会が、たまたまなかった。
驍宗が彼の王宮に戻ったとき、天官の多くが泣いて出迎えた。その涙には残念ながら、
阿選に仕えたことへの温情を乞う保身が含まれていた。阿選の疑いから身を守り、助か
った者たちは、今度は驍宗の追及に怯えていた。驍宗は、その処分を現在に至るまで保
留している。彼にしても、七年恐怖の中で永らえた彼らを不憫とは思え、もはや手放し
で信に足ると考えるわけにはいかなかった。
そんな中、昔と変わらぬ顔で伺候した女官長が、昔と変わらぬ態度で、最初の苦言を
呈したときに、驍宗は問うている。
阿選も教育してやったか。
女官長は答えた。
もちろんでございます。
そうか、と答えが返った。それきり、驍宗は女官長が部屋を去るまで何も言わなかっ
た。
女官長は、このときもやはり、目の前の男から死を賜る覚悟で上殿したのだった。
彼女は退室の際、伏礼した後、立とうとしなかった。
どうした、行ってよいぞ、と声がかかると、畏れながら、と口を開いた。
偽王に仕えたこの身へのご処分、如何ようにも受ける覚悟は出来てございます。なに
とぞお命じ下さいますよう。
驍宗は答えた。
お前は、仕事をしただけだ。
はっと女官長は顔を上げた。
違うのか。
言葉のない女官長に、驍宗はいま思い出したような調子で告げた。
なにかしてくれるというなら、ひとつ、貴官に命じたい仕事があった。
驍宗は穏やかに続けた。
近々、后妃を迎える。その教育を頼みたい。
黙っている女官長に重ねて言った。
引き受けてくれような。
このとき、女官長の変わる事のない表情が歪んだ。
つつしみまして。
その声は少しかすれていた。すぐに下げた面(おもて)から床に、はたと雫が落ちた
のを、驍宗が見る事ができたかどうかは分からない。
この女官吏が、宮中で泣いたのは、生涯にこれ一度であった。
(了)
を、よく承知している。それでも、彼にとって譲れない一事であれば、あえて通した。
それでここしばらく、極力天官への改革の手も控えておとなしくしていた。いずれは、
天官府も大きく整理し、さまざまに改革せねば立ち行かぬだろう、と驍宗は考えている。
少なくとも、王の私的生活に関わる官は、どう考えても多すぎるのだ。それに、信の問
題もあった。信で選ぶなら、ほとんどの官を残せない実情を、驍宗は分かっている。
――阿選と折り合いをつけて生き延びた官の全てが、あの女官長のように生きたわけ
ではない…。
――――――――――――――――
女官長が処刑されなかったのは、ひとえに、彼女があの阿選に対してさえも、一貫し
た天官の立場を徹(とお)したがためだった。
内殿に居座り、やがて臆面もなく正寝に乗り込み、王の部屋で寝起きするようになっ
た阿選に、当時正寝の官としてとどまっていた彼女は、直ちに宮中作法の遵守を説いた
という。
王でないゆえ軽んじてかくも無礼な口をきくかと、気色ばんだ阿選に対し、彼女は言
い放った。
あなたが誰であろうと関係はない。ここは正寝である。小官のただいまの役目は、正
寝の主の教育である。正寝で主として起居される以上は、相応のことを申すし、相応の
ふるまいをしていただく。それは誰であろうと、絶対に変わらない。と。
阿選は怒りを和らげた。
驍宗にも、そのような口をきいたと言うか。
問う阿選に、女官長は毅然と答えた。
先王にも、先々王にも。あなた様がここに住まうと仰るならば、あなた様にも。
命は惜しくないか。
成敗を恐れては、小官の職は勤(つと)まりませぬ。
実はこのとき、女官長は死んでいいと思っていた。阿選は驍宗を慕うものを決して許
さなかった。もっとも、彼女の考える天官とは、王に個人的な感情をもつべきではなか
った。実際のところ彼女は、たった数月余ではあったが、たいそう手を焼かせた、あの
禁軍上がりのやんちゃな主君を、嫌いではなかった。が、そもそも好き嫌いを思うこと
自体、天官の資質に欠けるものだともいえる。仕える対象の人格がどうであろうと感情
にかられず態度を変えぬことこそが、天官の本分である。そして彼女は、筋金入りの天
官であった。
それゆえ、天官として死のうと思ったに過ぎなかった。それが、己自身の負い目と引
け目で、卑屈なほどに疑心暗鬼にかられる当時の阿選の気に障らず、以後彼女の指導に
従わせることになったのは、あくまでも結果でしかない。
阿選は身の安全に必要な数以上は、天官に彼の幻術を施すことをしなかった。大多数
をあえて洗脳せずにおき、息のかかった者に監視させた。そうしておいて自分にわずか
でも叛意ある者、逃亡しようとする者を、抹殺していったのだ。
言葉にも態度にも、驍宗を懐かしみ阿選を厭う様子など毛ほどもみせなかった彼女を、
阿選は、信用したわけではなかった。殺す機会が、たまたまなかった。
驍宗が彼の王宮に戻ったとき、天官の多くが泣いて出迎えた。その涙には残念ながら、
阿選に仕えたことへの温情を乞う保身が含まれていた。阿選の疑いから身を守り、助か
った者たちは、今度は驍宗の追及に怯えていた。驍宗は、その処分を現在に至るまで保
留している。彼にしても、七年恐怖の中で永らえた彼らを不憫とは思え、もはや手放し
で信に足ると考えるわけにはいかなかった。
そんな中、昔と変わらぬ顔で伺候した女官長が、昔と変わらぬ態度で、最初の苦言を
呈したときに、驍宗は問うている。
阿選も教育してやったか。
女官長は答えた。
もちろんでございます。
そうか、と答えが返った。それきり、驍宗は女官長が部屋を去るまで何も言わなかっ
た。
女官長は、このときもやはり、目の前の男から死を賜る覚悟で上殿したのだった。
彼女は退室の際、伏礼した後、立とうとしなかった。
どうした、行ってよいぞ、と声がかかると、畏れながら、と口を開いた。
偽王に仕えたこの身へのご処分、如何ようにも受ける覚悟は出来てございます。なに
とぞお命じ下さいますよう。
驍宗は答えた。
お前は、仕事をしただけだ。
はっと女官長は顔を上げた。
違うのか。
言葉のない女官長に、驍宗はいま思い出したような調子で告げた。
なにかしてくれるというなら、ひとつ、貴官に命じたい仕事があった。
驍宗は穏やかに続けた。
近々、后妃を迎える。その教育を頼みたい。
黙っている女官長に重ねて言った。
引き受けてくれような。
このとき、女官長の変わる事のない表情が歪んだ。
つつしみまして。
その声は少しかすれていた。すぐに下げた面(おもて)から床に、はたと雫が落ちた
のを、驍宗が見る事ができたかどうかは分からない。
この女官吏が、宮中で泣いたのは、生涯にこれ一度であった。
(了)
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