風が、鳴っていた。すでに夜も遅い。
李斎はちらと夫の様子を見、それから、見ていた冊子を閉じた。
どうも、なかなかお起きになるふうではない。
こういうことは初めてなので、どうしたものか、と思案してみる。李斎は首を傾けた。
本人は意識していないが、驍宗が起きて見ていたなら、頬がゆるんだに違いないほど、
可愛らしい傾げ方になった。
このままお休みになるということでよいのだろうか。私が灯りを消してもよいだろう
か。
李斎はまた首を傾けた。夜着の肩を、艶のある重い髪が滑った。
お目覚めになるのをお待ち申し上げるにしても、この時間だし、寒いから、蒲団を着
て温もっていたら、眠ってしまうかもしれない。眠るだろう…。
――いいや。御用がおありなら、お起こしになられるだろうから。
このようにあれこれ忙しく考えをめぐらせた後、書を帙に片付け、主上のお蒲団の具
合をもう一度見てから、后妃は自分の蒲団を肩までひっぱり上げると、しっかりと着込
んだ。
今夜は、本当に冷える。
驍宗は目を開いた。牀榻の灯りはついたままであった。
足指を揉んでもらううち、いつしか眠気がさしたようだ。驍宗は周囲を見た。十分に
広いとはいえ、驍宗が牀の丁度真ん中を占めていたので、いつもよりは少しばかり端近
に、李斎の背があった。
驍宗が寝入ったので、灯りをそのままにして、李斎も体を横にしたのだろう。様子か
らすると、眠っている。一瞬まどろんだくらいの気でいたが、それよりは長かったらし
い。揉ませるために出していた足が、蒲団に包まれて温もっていた。
驍宗は妻の様子を見るために、そっと体を起こし側に寄った。そのときに、視線が李
斎の向こうの、枕机の上に落ちた。小型の帙はきちんと閉じて置かれていたが、それを
李斎は自分が眠った後で、また読んでいたのだ、と驍宗は思った。
驍宗はかすかな寝息を立てている横顔を、見下ろした。掌が、その傍らに上を向いて
いる。
ゆっくりと、その手の近くに驍宗は己の腕をつき、そして軽く指先に触れた。
ぴく、とわずか手が動き、ほんの少し握るように閉じたが、また緩んだ。
驍宗は小さく笑んで、その軽く指を曲げた手を眺め、そしてまた顔に目をやった。
起こそうと思ったのだが、結局やめた。かわりにしばらく、寝顔を見ていた。
灯りの下で、これほどとくと妻の寝顔を見るなどは、初めてだった。
その顔は化粧していない。
昼間は、襦裾に不似合いでないほどの化粧を施されている李斎だが、華燭から数日は、
夜には更に艶やかに、眉や紅を引かれていた。驚くほどの美女ぶりだったが、李斎には
これが、大変に苦痛であるらしいと、すぐに驍宗は気がついた。驍宗にしても、確かに
美しいのではあるが、李斎を月並みの美人顔に拵えられることを、あまり嬉しく思えな
かった。なにより、夜具に紅を着けてしまうのを気にして、肩を出して寝むので、風邪
を引かせそうで案じられた。
とうとう三日目にして、素顔が好みであるゆえ夜は無用、と、驍宗から直接申し付け
たので、以後はもう、就寝前の化粧がなしになったのだった。
李斎は、頬を、掛蒲団の縁(へり)に、心置きなく埋めて眠っている。
元気さと、どこか往年のお転婆ぶりを伺わせる気質が多少、見受けられはしても、女
としては、容貌にも雰囲気にも、大人らしい柔らかな落ち着きを持っている李斎だが、
光の加減か、その寝顔は、むしろあどけない。
ふと見覚えがあることに気づいた。初めてではないのだ。ずっと昔に、この寝顔を自
分は見ている。
――私がいて、お眠りになれそうか?
ええ。――なぜです。
いや、と答えた。それきり黙った。蓬山の夏の午後。
よもや本当に眠るとは思わなかったのだが、しばらくすると驍宗がすぐ側にいるのに、
怪我人はいとも安らかに寝息を立て始めたのだった。
常に他人を緊張させる己であることを、驍宗は経験上知っている。去るために立ち上
がり、寝顔を顧みたときに、かつて覚えない心持ちがした。
明日下山という日、帰国後どうするかは、既に決めてあった。
翌日には永久に見失う相手であるのに、それがまるで他人でないかのように、思えた。
驍宗は首を傾け、静かに幕屋を後にした。様々な思いにある胸の内が、その寝顔ひと
つに暖められたように、ひどく穏やかになっていた。
その女が、いまは妻としてここにいる。
連日天官にしごかれて、不平を言うでもなく、熱心に勉強している。もともと男勝り
の性分である上に、武将としての動きが身についているのだが、いつのまにやら、ずい
ぶんとしとやかに振舞えるようにさえなっている…。
仕事を終えて、己は、この場所に帰ってくる。
終わりのない長い明日を、また迎えることを、かように喜ばしいと思える。
驍宗の顔に、穏やかな微笑があらわれた。
見飽きぬ寝顔から驍宗はようやく身を起こした。灯りを消して、自分の蒲団にもぐり
こむ。
ふぅっと息が漏れた。――やはり少し、つまらぬかな…。
だが、ほぐしてもらった指先から、眠りが気持ちよく這い登ってきた。驍宗は間もな
く、眠りに落ちた。
李斎はちらと夫の様子を見、それから、見ていた冊子を閉じた。
どうも、なかなかお起きになるふうではない。
こういうことは初めてなので、どうしたものか、と思案してみる。李斎は首を傾けた。
本人は意識していないが、驍宗が起きて見ていたなら、頬がゆるんだに違いないほど、
可愛らしい傾げ方になった。
このままお休みになるということでよいのだろうか。私が灯りを消してもよいだろう
か。
李斎はまた首を傾けた。夜着の肩を、艶のある重い髪が滑った。
お目覚めになるのをお待ち申し上げるにしても、この時間だし、寒いから、蒲団を着
て温もっていたら、眠ってしまうかもしれない。眠るだろう…。
――いいや。御用がおありなら、お起こしになられるだろうから。
このようにあれこれ忙しく考えをめぐらせた後、書を帙に片付け、主上のお蒲団の具
合をもう一度見てから、后妃は自分の蒲団を肩までひっぱり上げると、しっかりと着込
んだ。
今夜は、本当に冷える。
驍宗は目を開いた。牀榻の灯りはついたままであった。
足指を揉んでもらううち、いつしか眠気がさしたようだ。驍宗は周囲を見た。十分に
広いとはいえ、驍宗が牀の丁度真ん中を占めていたので、いつもよりは少しばかり端近
に、李斎の背があった。
驍宗が寝入ったので、灯りをそのままにして、李斎も体を横にしたのだろう。様子か
らすると、眠っている。一瞬まどろんだくらいの気でいたが、それよりは長かったらし
い。揉ませるために出していた足が、蒲団に包まれて温もっていた。
驍宗は妻の様子を見るために、そっと体を起こし側に寄った。そのときに、視線が李
斎の向こうの、枕机の上に落ちた。小型の帙はきちんと閉じて置かれていたが、それを
李斎は自分が眠った後で、また読んでいたのだ、と驍宗は思った。
驍宗はかすかな寝息を立てている横顔を、見下ろした。掌が、その傍らに上を向いて
いる。
ゆっくりと、その手の近くに驍宗は己の腕をつき、そして軽く指先に触れた。
ぴく、とわずか手が動き、ほんの少し握るように閉じたが、また緩んだ。
驍宗は小さく笑んで、その軽く指を曲げた手を眺め、そしてまた顔に目をやった。
起こそうと思ったのだが、結局やめた。かわりにしばらく、寝顔を見ていた。
灯りの下で、これほどとくと妻の寝顔を見るなどは、初めてだった。
その顔は化粧していない。
昼間は、襦裾に不似合いでないほどの化粧を施されている李斎だが、華燭から数日は、
夜には更に艶やかに、眉や紅を引かれていた。驚くほどの美女ぶりだったが、李斎には
これが、大変に苦痛であるらしいと、すぐに驍宗は気がついた。驍宗にしても、確かに
美しいのではあるが、李斎を月並みの美人顔に拵えられることを、あまり嬉しく思えな
かった。なにより、夜具に紅を着けてしまうのを気にして、肩を出して寝むので、風邪
を引かせそうで案じられた。
とうとう三日目にして、素顔が好みであるゆえ夜は無用、と、驍宗から直接申し付け
たので、以後はもう、就寝前の化粧がなしになったのだった。
李斎は、頬を、掛蒲団の縁(へり)に、心置きなく埋めて眠っている。
元気さと、どこか往年のお転婆ぶりを伺わせる気質が多少、見受けられはしても、女
としては、容貌にも雰囲気にも、大人らしい柔らかな落ち着きを持っている李斎だが、
光の加減か、その寝顔は、むしろあどけない。
ふと見覚えがあることに気づいた。初めてではないのだ。ずっと昔に、この寝顔を自
分は見ている。
――私がいて、お眠りになれそうか?
ええ。――なぜです。
いや、と答えた。それきり黙った。蓬山の夏の午後。
よもや本当に眠るとは思わなかったのだが、しばらくすると驍宗がすぐ側にいるのに、
怪我人はいとも安らかに寝息を立て始めたのだった。
常に他人を緊張させる己であることを、驍宗は経験上知っている。去るために立ち上
がり、寝顔を顧みたときに、かつて覚えない心持ちがした。
明日下山という日、帰国後どうするかは、既に決めてあった。
翌日には永久に見失う相手であるのに、それがまるで他人でないかのように、思えた。
驍宗は首を傾け、静かに幕屋を後にした。様々な思いにある胸の内が、その寝顔ひと
つに暖められたように、ひどく穏やかになっていた。
その女が、いまは妻としてここにいる。
連日天官にしごかれて、不平を言うでもなく、熱心に勉強している。もともと男勝り
の性分である上に、武将としての動きが身についているのだが、いつのまにやら、ずい
ぶんとしとやかに振舞えるようにさえなっている…。
仕事を終えて、己は、この場所に帰ってくる。
終わりのない長い明日を、また迎えることを、かように喜ばしいと思える。
驍宗の顔に、穏やかな微笑があらわれた。
見飽きぬ寝顔から驍宗はようやく身を起こした。灯りを消して、自分の蒲団にもぐり
こむ。
ふぅっと息が漏れた。――やはり少し、つまらぬかな…。
だが、ほぐしてもらった指先から、眠りが気持ちよく這い登ってきた。驍宗は間もな
く、眠りに落ちた。
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