忍者ブログ
Admin*Write*Comment
うろほろぞ
[86]  [87]  [88]  [89]  [90]  [91]  [92]  [93]  [94]  [95]  [96
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

 雲海の底を、分厚い雪雲が覆っている。夜半にかかると、白圭宮でも、いよいよ天候
が荒れ始めた。雲が吹き寄せられ、星を隠した。風がひどくなり、窓がずっと鳴ってい
る。この冬一番の寒波が到来したようである。
 下はとうとう、本格的に降り出したぞ――そう言いながら、外套と髪に雪の名残をつ
けて、寒そうに夫が戻ってきたのは、もう夜もだいぶ更けてからだった。


「珍しいな。条文ではないのか」
 声をかけられるまで、気づかないくらい夢中で読んでいて、李斎は慌てて、くるまっ
ていた蒲団から起き上がり、座りなおした。湯殿から戻ってきた驍宗は、牀に腰掛ける
と、彼女がいま置いた冊子を手に取り、捲ってみた。
「――これは…」
「お勉強の、参考書です」
 李斎がしかつめらしく答えた。そのわざとらしく真面目に言ったあとの顔つきが、と
ても愛嬌があり、なんとも可愛らしかったので、驍宗は笑って、李斎の方へ首を伸ばし
た。
 李斎はちょっと瞬くが、逃げることはしない。
 牀榻の中でなら、前触れなしにこういうことをしても、もう大丈夫になったのだ。も
っとも、同じことは部屋ではしてはならないと、驍宗は学んでいた。
 一度、どのような話をしていたときだったか、そういう心持になったので、顔を寄せ
たことがあった。そのとき――驍宗にとってはあまり詳しく思い出したくないことだが、
――驍宗が迫るにつれて李斎は目を見開いたまま後ろに引いていき、そのままひっくり
返った。時ならぬ物音に女官長が部屋に駆け込んできたとき、部屋の真ん中でしりもち
を搗いた后妃と、呆然としながら助け起こす主上が、目撃されたのだった。
 李斎にしてみれば、主上の行動として、意外すぎて恐慌しただけだったが、驍宗は以
後、女官の離席時であろうと室内では李斎に手出ししないように気をつけた。
 このように多少、笑えるようなこともやってはいるが、それでも概ね夫婦の仲は順調
に進んでいる。
 当初は、字を呼ばれるたび臣下の顔に立ち戻る李斎に、驍宗は考えた末、李斎殿、と
呼ぶようにしたものだ。もちろん睦言でだけだが、蓬山時代の呼び方をすることで、か
ろうじて同等の立場が二人の間に築かれるのか、李斎は不思議なほどすぐに柔らかな気
持ちになれた。
 無論李斎の方にも驍宗殿、と呼ばせていたのだが、ある日李斎の方から、やはりあま
りにも不敬だと異議が出された。そうして、彼女が自分で考えて「あなた様」がこれに
かわることとなった。そうこうするうち、いつのまにか「李斎殿」からも卒業している。
 また、華燭の夜もその次の夜も、王より先に褥を乱しては申し訳ないという考えから、
牀榻の床で待った李斎に、温まった寝床で温かい妻に待ってもらう方がよいと驍宗は説
き、それからはいつも、李斎は遠慮することなく堂々と先に蒲団を温めている。
 ひとつひとつそうやって、小さな調整を重ねながら、二人は夫婦になりつつあった。
 
「さて」
 と驍宗は李斎の方を見、座りなおして姿勢を正した。李斎は、本日は結構です、と遠
慮した。
「女官にさせたのか」
 いいえ、と李斎は答える。
「では、来なさい。さぼると戻るぞ」
 驍宗は機嫌よく、李斎を招いた。
「お疲れですのに…申し訳ありません」
「なんの」
 驍宗は位置をとり、李斎の姿勢の安定を確かめてから、腕を支えた。
「はじめるぞ。右からだ」
「はい」
「一、二、三、……」
 毎晩、驍宗はこうして、李斎の柔軟と筋力を高める体操を手伝っている。
 本当を言えば李斎は、今日は女官に頼もうと思ったのだ。だが、いつぞや官との夜の
仕事が長引いた折、女官にかわりをさせたら、それを聞いて驍宗が、大層不機嫌な顔を
したのを思い出したので、やめておいた。驍宗はどんなに遅くなっても、自分でやりた
がる。楽しみなのだ、と言っていた。実際楽しそうにして下さるので、勿体ないことだ
とは思いつつ、李斎も嬉しい。
 
 ひとしきり、筋を伸縮させる運動を両肩の周りにした後、瞬発力を高める運動に移る。
「よし…、――いま少し、力が入らぬか」
「…――、」
「あと五拍っ。辛抱せい」
 一、二…と驍宗が等間隔に数をとる間、その支える驍宗の掌に向けて、李斎は背筋を
伸ばしたまま、全力で右肩の力をかける。これは支え手の方にかなりの力が必要なため、
腕力の勝る驍宗でなければ、十分にはさせられなかった。湯殿ではいつも、女官に両腕
を使ってしてもらうが、それでも、このように揺るがず支えるということは、女の力で
は無理である。
「…五!」
 はぁつ、と、李斎が、大きく息を吐き出す。額には薄く汗が浮いている。
 驍宗も力を抜いて、笑顔になった。
「ずいぶんと、強くなったな」
「はいっ。おかげさまで」
 李斎もにこにこする。
 神経と骨が断裂した部位を維持させるのは、たとえ仙であっても難しい。わずかずつ
だがそれが回復し、こうして評価してもらえると、意欲も増すし、なにより嬉しくてた
まらない。
 筋肉を緩めるための終わりの体操を行いながら、李斎は驍宗に、思いがけず馬に乗ら
れるようになったことを報告した。ほう、と驍宗も驚く。
「姿勢がよくなったと褒めてもらいまして、とても嬉しゅうございました」
 これを聞き、驍宗がちょっと表情を止めた。女官長はもともと、登極時に、新王驍宗
の教育にあたっていた官である。
「私は褒めてもろうたことなぞ、ないぞ」
「まぁ…」
 と、李斎は夫の顔を見つめた。別に、女官長が驍宗を褒めたことがない、という事実
に驚いたわけではない。
「あやつめ。李斎のことは褒めて、そのように褒美まで出すとは」
「……」
 けしからぬ、とぶつぶつ言う驍宗に李斎は瞬いた。まさかと思ったが、驍宗は拗ねた
のだ。
「なんだ」
「いえ…」
 李斎は笑いをかみ殺した。こんな子供っぽいところがおありなんて。驍宗は首を傾け
た。自覚はないのだ。
「…あ。でも、体操のことは、ばれておりましたよ」
「ほう。そうか」
 李斎は頷いた。
「湯殿はそのうち知れると思っておりましたが、朝の散歩で、ひとりでやっていたのも、
言い当てられてしまいました。もう内緒なのは、この夜の分だけです」
「それはどうかな」
 多分知っておるだろう、と驍宗が笑う。李斎はそうでしょうか、と首を傾けた。
「牀榻の内のことだから、言わなかっただけだろう。小言先生一流の、お目こぼしだ」
 李斎も、そうかもしれない、と思った。
 今朝の出掛けるときのやりとりも、女官長は叱らなかった。挨拶詞として不適当であ
ったのだが、その自覚は李斎にあったし、今日の場合は驍宗が同じほどの音声で返し、
単なる「夫婦間の会話」にしてしまったから、注意する要がなくなったのである。
 小言婆、などと驍宗が綽名(あだな)している女官長だが、しかし彼女は必要なく叱
ることは決してなかった。
 よい官を、つけて下さった。李斎は心の中で、夫に改めて感謝する。
「足を、お出しあそばされませ」
 李斎が言い出し、驍宗は首を傾けた。
「なに」
「――足の指を、お揉みいたしましょう」


「…よい気持だ」
 ううむ、と驍宗は深い息を吐いた。
 妻の申し出に、笑ってさせてみた驍宗だが、これがなかなかに、具合が良い。
「うまいものだな。どこで覚えたのだ」
 膝の上にのせた右の足指を丁寧に揉みながら、李斎はちょっと笑んだ。
「実家でございます」
「お父上に、して差し上げたか」
「はい…」
 そうかと答え、驍宗は目を閉じた。李斎はそれ以上を言わなかった。もともとは母が
していたことである。小さい姉妹が順にそれを見覚え、争って父の周囲に群がっていた。
やがて子らは大きくなり、最後の李斎も家を出た。そうして、母がまた父の足の指を揉
んだだろう……
 嫁いで以来、毎日のように彼らを思い出している。とっさに出てくるのがいつも、忘
れたと思っていた、昔の父と母の姿であった。どこかに「夫婦」のありようとして、自
分の両親が存在していたことに、李斎ははじめて気づいている。











PR
 短い日はとうに落ち、いつものように長楽殿の長い廊下の角にもささやかな灯りが点
されていた。暖房(かん)の入った明るい室内では、たったいま食事が始まったところ
である。仁重殿から台輔泰麒が訪れ、李斎と二人で、食膳を囲んでいるのだ。
「…広徳殿で報告を聞いてる最中に、突然汕子が戻ってきたものだから、何事かと仰天
しちゃいましたけれどね」
 すみません、と恐縮して李斎は、夫の使いで騒がせたことを詫びた。泰麒は、ちっと
もと、朗らかに答える。
 驍宗は、結局、食事に間に合うようには戻られなかった。
 県城で、陳情にやって来ていた地方の官から、是非にと乞われ、予定にはなかった郷
の視察が加わったのだという。
「遅れても夕食はご一緒なさると、仰ったんですって?主上、ただでお約束を破るなん
て、お出来にならなかったんだな。おかげで僕は、こうして后妃にお相伴させて頂けて、
すごく嬉しいですよ」
 どうかその呼び方は…、と給仕する女官に聞こえないくらいに小さい声で李斎が言う。
泰麒は笑い、李斎だって台輔って呼ぶじゃないの、と、こちらも小声に返した。
 李斎は、主上が彼に下された字(あざな)の「蒿里」を使うのが、苦手である。せい
ぜい「泰麒」がやっとだ。だが泰麒にしても、后妃になった李斎から敬称を使われると、
どうも落ち着かない。王の家族とは、確かに身分では麒麟より下位だが、礼儀としては
同等で、心象的にはしばしば、上なのだ。

「…それはそうと、汕子は、気を悪くしなかったでしょうか」
「汕子が?どうしてです」
「台輔のもとへのお使いというのならば、使令も納得しましょう。ですが、わたくしの
ところにまで…それも夕餉のことなどで」
 ふたりに伝言を伝えて、汕子は、再び驍宗のところへ戻っていた。
 クク、と、少し悪意を感じさせる低い笑いが、どこからともなく――さしずめ足元の
床の中から――起こる。控えている女官らには聞こえず、二人だけに聞かせた声だ。
 ――主上の御命令です。我等へのお気遣いは、何卒御無用に。
 床の中から、傲濫の重低音の声が李斎に告げると、それきり沈黙した。
 王后にはかように、使令ですら、麒麟の意を汲んで相応の敬意を払うのだ。ただ、女
怪となるとやや事情は異なる。それが、先の笑いの意味なのだ。泰麒は考えながら、自
分の大事な乳母について説明した。
「女怪って、ひととは違いますし、あまりこう思われようとかっていうのが、ないみた
いなんです。汕子の場合、主上にも、愛想よいとはいえないくらいだし…。でも、汕子
は李斎のことを、認めていますよ。僕を蓬莱から助けてくれて、自分たちのことも助け
てくれたのが李斎だってこと、よく、分かっているんです」
「まぁ。そのような」
 李斎はすっかり恐縮した。実際に救出したのは他国の王と麒麟たちなのに…。
 泰麒は微笑む。
「それに、彼らが蓬山預かりになっている間、誰が僕の側にいて、守ってくれたのかっ
ていうことも」
 慕わしい笑顔で言われ、李斎も懐かしい思いで笑みを返した。
 さほど長い期間ではなかったが、たった二人で、旅をした。この地上に、恃(たの)
みといえば、ただお互いだけしかいない日々を、支えあった。
 辛い旅であったのだが、とても懐かしく思い返される。
 泰麒はちょっとはにかんで下を向き、それから指先で鼻をこすると、笑った。
 運ばれてきたあんかけの蒸し物が、二人の間で、おいしそうに湯気を立てた。



 楽しい夕べは瞬く間に過ぎ、泰麒が自分の宮殿に戻る時間が来た。
 李斎は名残惜しそうに立って行き、仁重殿までその上衣では寒くないだろうか、と案
じた。途中、隧道も抜けるし、たいして時間はかからないと答えたが、結局は外套を持
たされた。
「本当に今夜は冷えますから、お気をつけ下さいね」
 はい、と素直に礼を言う。いよいよ暇(いとま)を告げようとしたときに、李斎が台
輔、と呼びかけ、ためらうように口を開いた。
「わたくしからお願いするのは、出過ぎたことかも知れませんが…」
 泰麒には、李斎の言おうとすることの見当がついた。李斎は心を決めたように、まっ
すぐ頭を上げると、泰麒を見つめた。
「やはり、また昔のように、こちらにお住まいになられませんか」
「李斎。主上にも申し上げたように僕は…」
「主上は、家族がほしくていらっしゃるのです」
「…」
「昔、お小さかった泰麒に、この正殿からすぐの、あの宮を御用意なさったのも、本当
は御自分のためでいらしたのではないかと」
 泰麒は笑んだ。それは、ありそうなことに思えた。いまの泰麒はあの頃よりも、驍宗
の愛情を、よく分かっている。
「泰麒。主上は泰麒に、側にいらしてほしいのですよ。それは、わたくしもです。こち
らにお越し下されば、どれほど嬉しいことでしょう。正寝にお住まい下さり、このよう
にたまにではなく、三人で毎日、食卓を囲んで暮らすのは、よいことだとは、思われま
せんか」
 泰麒は困った顔をした。驍宗の勧めよりも、李斎の方が、断りにくい。
 だが、泰麒は知っている。主上と彼女は、彼が同席すると、二人とも泰麒の方ばかり
向いてしゃべるのだ。どうしてもそうなる。せめて新婚の間だけでも、その事態はご遠
慮申し上げたい。それに、いまの一人暮らしも、割と気楽で捨てがたいから、しばらく
は続けたいのも本音。それと。こっちは、説明しといたほうがいいかな。
「…ええと。知ってるでしょう。主上は昔から、僕の扱いが李斎ほどは上手じゃありま
せん。ずいぶんがんばって見習って下さいました。でも時々子供扱いしすぎて、僕を不
満がらせもしてた。いまだって、そうなんです。扱いに困ると、すぐ昔のように接しよ
うとなさる。で、僕はいま、当時よりもっと幼くないですから、まいっちゃうんですよ」
 無言の李斎の顔に、泰麒は笑みかけた。
「そんな顔しないで。心配かけてるみたいですが、主上と僕は、上手くいってないって
わけじゃないから。そりゃちょっと意見が食い違うこともあるけど、僕が大きくなった
んだから、当然です。小さいときは、意見なんて持ってなかったんだもの」
 李斎はちょっと笑んで、頷いた。彼女の漠然とした気がかりが、泰麒の口からあっさ
り語られて、安堵したのだ。
「子供の頃、主上のことを怖がってたけれど、それでもとても好きでした。今だって同
じです。ただ、あの頃は、僕らはちょっとした父子家庭みたいなもんだったし、それを
僕がいきなりこんなに大きくなったとこから、また始めるんだから、慣れるまで、少し
距離とって時間をかけるのは、お互いのためにいいんですよ。ほら、普通の家でも、大
きくなった男の子なんて、男親とそんなに、仲良しこよしじゃあないもんでしょう」
 李斎は、自分は姉妹しか知らないので、よく分からないが、ともぐもぐ言った。
「では…、いつかは、いらして頂けますか」
 泰麒はちょっと口をつぐんだ。
「驍宗様のご家族は李斎ですよ」
「……」
 にべもない言ではぐらかされ、李斎は返事に窮した。泰麒はまずかった、と反省し、
慌てたので、つい本音ののぞく言い訳をした。
「だって。そもそも僕は、主上と親子ではないんですよ。僕は、…驍宗様の麒麟にすぎ
ません」
 李斎は驚いたように瞬き、意外な言葉をもらした。
「ずいぶんと可笑しなふうにお考えになるのですね。親と子とは、やがて別れ行かざる
をえないもの、別れることのない驍宗様と泰麒の方が、はるかに深い縁(えにし)で、
結ばれておられるのではありませんか」
「……」
 泰麒は黙った。
 確かに、親子間に遺伝上の繋がりがない、水よりも濃い血の縁というもののないこの
世界の観念ならば、李斎の言うように、子であるよりも麒麟であることは、縁(えん)
の上では勝るということになるのかも。――そうなのか…。
 思いがけず腑に落ちた泰麒を、李斎は重ねて説いた。
「家庭には、やはり子のあったほうがよろしいものでございましょう。不遜は承知でお
願い申します。畏れながら、この李斎に、台輔のお母様の役まわりを、させていただく
というわけには、参りませんか」
 あ、やばい。泰麒は、我に返った。このままいくと、説得されてしまう。
「僕では、お二人のお子様役には、ちょっともう大きすぎない?どうせなら、お二人が
――、」
 李斎は首を傾け、泰麒は口を引き結んだ。
「?…台輔」
 ややあって、泰麒はわかりました、と呟いた。
「すぐは無理だと思いますけど、いや、無理だけど――でも、そのうちに、考えてみま
すから」
 李斎の顔が輝いた。お約束ですよ、と朗らかな声が送り出す。



 ―――本当に、二人にお子があるのが、一番いいんだろうにな――。
 雲の合間から、冬の凍った星がまたたき、仁重殿への帰り道を照らす。
 泰麒は足を止めて夜空を仰ぎ、外套の襟を立てた。
 彼らに子が生(な)らない以上、いずれおさまるところにおさまり、自分はあの二人
の間で、なさぬ仲の息子役をやってることになるんだろうか…。近くに住んで、三人で、
朝晩一緒に食事をして、二人からちょっとうるさく世話を焼かれたり、親ぶって多少の
小言をくらったりも、しながら。……。
 ――しょうがないかなぁ…。

 泰麒は肩を竦めて白い息を吐き出し、また歩き始めた。
 してみた態度とは裏腹にその足取りは結構軽く、元気がよかった。やがて、陰伏して
従う傲濫の耳には、主の鼻歌が聞こえてきた。
 明るく速い蓬莱の旋律は、星明りの道を、仁重殿の方へと下っていった。












「成る程成る程、あれじゃあ、主上の顔も緩みがちになるわけだよねぇ」
「…そうですか。よかったですね」
 相手の反応はいまひとつだが、そんなことには気にしていない琅燦である。


 既に夕刻だった。正寝正殿の東側の、大廊下から少し入ったばかりの内回廊の端で、
予想外に琅燦と行き会ってしまい、捕まっているのは、特徴的な光沢のある暗色の髪―
―実際は鬣(たてがみ)――をした、当国の若い麒麟であった。
 十二国で現在生国に宰輔としてある麒麟は十、うち黄金色でない鬣を持つ唯一の麒麟
だ。事情あって、唯一短髪をした麒麟でもある。当年とって十七歳、外見はせいぜい十
四五というところ。ひょろりと丈だけ伸びて肉のない体型も、どこか子供の特徴を残す
面立ちも少年のそれであるが、これで既に成獣している。
「お忙しい大司空が、そんなことをお確かめになるために、わざわざお越しになられた
んですか」
 愛想よい微笑と、柔らかな声だが、言にはやや含みがある。
「ふふん。当然じゃないか。なんたってあの驍宗様が、きちんきちんと食事に戻ってく
れて、休憩とってくれて、定時に内殿から引き上げるようになったんだよ。あまつさえ
仕事でなくて奥方の着物のことなんか考えてる時間まで、一日のうちにあるわけよ。結
構なことじゃない。とにかく、主上にはいい重石だよ。おかげでこっちも、どれほど体
力的にも精神的にも助かってるか、知れやしない」
「……」
 結局ポイントはそっちかよ。と、泰麒はお腹で蓬莱語をつぶやいた。
「おまけに、主上が朝議に遅刻するとこまで、この目で見せてもらえたんだからねぇ。
夢みたい。李斎に感謝するわ。私らの職場環境の今後は、李斎にかかってるんだから、
是非、これからもこの調子でどんどん頑張ってもらわなきゃ」
 泰麒は息を吐いた、
「それ、后妃にはおっしゃっていないでしょうね」
「言わない、言わない。真面目だから気にする、ってんでしょ。よく分かってるわよ」
 ほんとかよ。
「…。醒めてんじゃないわよ。可愛くないね。昔からお行儀のよさと好印象が売りの泰
台輔でしょうが」
 よく言う。
「琅燦殿は、昔から、僕のことを可愛いなんて、思っておられなかったでしょ」
「うん、全然。愛敬振り撒くけど、大人の顔色はきっちり見てるし、あざといちびだっ
て思ったな。李斎は一貫して愛しくてたまらなかったらしいけど、正直気が知れなかっ
たわね。だけど、いまは嫌いじゃないよ。すっかりくわせ者になったけど、少なくとも、
自覚あるみたいだし」
「それはどうも」
 泰麒は涼しい顔で答えた。いまでは、琅燦より少しばかり上背のあることの主張が、
その下ろした目線には含まれている。さすがにこれはいささか愉快でなかった琅燦が、
にっこりと反撃した。
「そういう態度でいいの。あんたの打ち出してる例の、官吏の同時休業制度、ってのを
支持する気でいる閣僚だよ、私は」
「…見返りはなんです」
「法案つくって、きっちり通すとこまでやってちょうだい。休みがほしいんだよ。私に
は、いろいろやりたいこともあんの。無論、瑞州府だけじゃなく国府全体よ。でなきゃ
こっちは意味ないんだから」
「ほんとに、賛成なんですか」
 泰麒は少し真顔に改まった。
 定期的に丸一日、全府第を休みにする、というのは、泰麒にとっては、しごく当然な
就労者の保護に思えるが、そういう習慣のないこの世界のひと達には、その価値自体を
納得させることからして、難しい。それでも彼はいま本気で、週休を導入したいと考え
ていた。
「さすがに蓬莱のお育ちだと、言うことが奇抜で驚かされるわ。でも奇抜だけど、悪く
ない。天綱のどこにも、官を休ませるな、とは書いてないんだ。…それに、――戴の現
情には、実にあってると思う」
 泰麒は琅燦の顔を見た。さきほどまでのからかい調子とは別の表情を、琅燦は浮かべ
た。
「どんなに主上ががんばったって、七年前のようには全員の仕事が無尽蔵じゃないんだ
から」
「………」
 官をあげて国の再建に取り組む。それはいまも、そしてあの頃も同じだ。ただし。し
ゃかりきに仕事をしまくって、急げば急ぐほど、その分、国が早く立ち直る…。あの頃
はそうだったが、いまは違う。おそろしくゆっくり、時間をかけて、そしてほんのわず
かずつしか前には進まない。下官の書記までが寝る暇のなかった昔とは、一緒ではない。


「――で。台輔も、主上の留守狙って、李斎に会いに来たってわけ」
 泰麒は憮然と答えた。
「あなたと違って、別にお留守なんて狙ってません。僕は主上に言われて、帰りが遅く
なるのでお食事をご一緒にと…」
「まーた、大人ぶっちゃって。いくらあんたでも、大きな形(なり)して、新婚の李斎
には甘えにくいんだろうけどさ。でも。分かってるだろうけど、家庭内に不要の波風立
てないようにね泰麒坊や。お母様のおっぱいは、父親と仲良くきっちり、折半してちょ
うだい」
 泰麒がかっと赤くなった。
「馬鹿なこと言わないで下さいっ。僕は昔だって一度も、李斎の胸なんて触ったことあ
りませんよ!」
 琅燦はきょとんと泰麒を見つめた、
「…単なる、ものの例えじゃないか。何むきになってるのよ。嫌ぁね」
「…っ、」
「まぁまぁ。いろいろあるね。青少年?」
 琅燦から、なぐさめるように背を優しくたたかれ、泰麒は目を閉じた。そもそも李斎
は母じゃありません、を言うのも、忘れた。
 さしもの泰麒でも、この女性に口で敵うには、まだもう少し、修行が必要だ。









「…これなに?おいしいけど」
 丈のある磁器で出されたその琥珀色の飲み物は、琅燦の知らない味だった。李斎は火
炉にかけた鉄瓶の様子を見ながら、微笑んで答えた。
「松葉酒です。たしか、熱いお茶はお好きでなかったと存じまして。いま、ぬるめのお
茶もご用意しますので」
「ああいいよ、これだけで」
 李斎の記憶どおり、実は琅燦は、相当な猫舌である。公の席などで湯茶を供されても、
冬場ですら、冷めるまで手をつけないほどだった。
「でも酒なの、これ」
 もう一度、匂いを嗅いでみる。
「いえ名前だけです。体に良いので、郷(くに)では大人も子供もよく飲みます。承州
ハイマツ(這松)で作るのですが、ないので鴻基の松で試してみたら、ちゃんと出来ま
した」
「李斎が作ったの?」
 ――では、これが噂の『后妃のお手作り』か。琅燦は改めて器の中を眺めた。
「作るといっても、葉を氷砂糖といっしょに瓶子に入れて、水をそそいで醗酵させるだ
けですから。三月もすれば飲めます」
「氷砂糖か。よくあったね」
 青竹の筒で固められた、透き通った玉のような砂糖の加工品は、もともと戴では高価
で菓子の扱いであった。現在の戴では、さらに珍しい。
「ええ。でも琅燦殿が思われるような上等なものではありません。茶色の、兵糧にも使
われるような品なんです。それなら割と手に入りますし、こういうものには十分です」
「主上も飲むの」
 李斎はうなずいたが、ちょっと笑った。
「つんとした風味を、あまりお好きでないようですが。体にはとても良いので、少し削
り砂糖を足して、召し上がっていただいてます」
「私はこのままで好き。作り方をあとで書いて、官邸の方に届けさせて。うちの者にも
作らせよう」
 よほど気に入ったと見えそう言うと、すすめられるままに、おかわりを頼んだ。
 待つ間に、器に盛られた小さな飴菓子をひとつ、口に放り込む。
「ねぇひょっとして、こっちの糖蜜の飴も、お手作り?」
「はい。あの、粗末なものばかりお出ししまして。お口に合わないようなら…」
 恐縮した李斎に、琅燦は手を振った。
「とーんでもない。おいしい、おいしい。これ、まだあるんでしょ。だったら、少し持
って帰らせてよ」
「はい。――喜んで」
 世辞など決して言わぬ客から、こうまで喜ばれれば、もてなす女主も本懐というもの
である。李斎は、喜色満面で料紙をとりだすと、いそいそと残りの菓子をその上にあけ
た。
「なんだか、意外だねぇ。あんたって、こういうことしそうにない女に見えたけど。昔
から男どもと野っぱら駆け回ってばっかりだったのかと」
 野っぱら駆け続けてきた李斎は、肩を竦めた。
「もちろん忙しいときは、何年でも全部、ひとまかせでしたよ。こちらに上がる前から
さほど仕事もなくなって、つい暇にあかせて、思い出すままにあれこれと。…実を申せ
ば、自分が食べたくて、熱心になっただけなんですが」
「私なんか、作ろうたってできないよ。やったことないもん。ふぅん、ちゃんと小さい
時からいろいろやってきてたわけだ」
「やってきた、と言うより…、やらされた、が正しいかもしれません。本当に、男の子
と暴れる方がよほど好きな子供で、母親からは叱られてばかりでした」
 へぇ、と感心し、厳しかったのと聞いた琅燦に、李斎は笑った。
「ええ。それはもう。姉たちと比べると特に不出来でしたから、いつも、こんなでは嫁
げない、と母を嘆かせ、よく罰に甲豆を剥かされたものです。内心、嫁になど行かぬか
らいいと、反発しながら、いやいややっておりました。……こうなってみて、母の言う
ことをもっとよくきいておけば良かった、などと、後悔しております」
 李斎はちょっと首を竦めながらも、懐かしそうに笑んだ。その表情に悲しみはない。
李斎にいま思い出せるのは、彼女を叱りまわした、まだ若い時の母だけなのだろう。
 口やかましい母親と、むくれながら豆を剥くお転婆娘を思い描いて、琅燦も笑った。
「いい育ち方したんだな、李斎は」
「恐れ入ります。でもいたって普通の、退役兵士の家でしたよ。琅燦殿の方が、よほど
ご立派なお家だったのではありませんか」
 琅燦はちょっと吃驚した顔をしたが、あっさり頷いて、認めた。
「うん。親は確かに二人とも国官だったけど、自分のことに忙しいひとたちだったから。
勉強してりゃなんの文句も言われなかったなぁ…」
 と、李斎よりまだ遠い昔を振り返って、首をひねる。
 貧しくはないが豊かでもない平均的な庶民のそれだった李斎の実家に比べ、琅燦の育
った家は、非常に裕福だった。それこそ家事を学ばなくとも不自由などないほどに。
 夫の出世に大いに関心のあった琅燦の母は、しかし自身の官吏としての経歴には殆ど
執着がなかった。順当に上の官職を狙っていくならば、夫の転勤先になど、まず役目は
得られない。だが、それまでよりも低い役職でも平気で受けて赴任したから、ずっと夫
婦で勤められた。彼女が官を退かなかった理由は、主に収入にあった。
 夫婦はどちらも若くして官吏になっており、自分の外見に拘りを持っていた。また大
変な体裁屋で、利にさとく、そのために子を願った。本当は子と徳に立証できる因果な
どないと知っている国官たちの間にあっても、実際には、配偶者のある官吏に子がない
と、徳のない人物と評されかねない。――他人の評価は、巡って人事につながるものだ、
と琅燦の母は、むしろ得意げに言っていた。娘も、ふぅん、そうかと納得しただけだっ
た。
 だけどねぇ、と、琅燦は眉を顰めて息を吐いた。
「普通は子供もったら、子育ての間だけは仙籍抜いて齢重ねるもんじゃない。それを十
年ちょっとで復帰して、そのとき私も仙に入れたわけ。大きな子供がいるのが嫌だから。
おかげで私は、そのままで大学行く羽目になったんだけど、まいったわ。弓が引けない
んだよ、体が足りなくて。卒業まで八年仙籍離れて、どうにか成長したけど、でなきゃ
あんなとこ、二年で終わってやったのに。子の迷惑も考えろってのよ。自分勝手な親の
お陰で苦労した。とっくに死んだけどね」
 父親の、ささいな(とは本人の弁であった)収賄が露見し、ために官職を解かれたの
は、琅燦が官になって既に数年が経った頃であった。
 家族の昇仙が許されるのは、本人の新たな婚姻か、独立前の子が成長後に加わる場合
を除いては、本人が初めて昇仙をともなう任官辞令を受けたときの、一度だけである。
 琅燦の両親はこのときの事件がもとで離婚し、まもなく父親は亡くなった。母親は自
らも辞職するや、別の国官と再婚して相手の仙籍に入り直した。以後疎遠となり、会う
機会はなかった。数十年以上も昔のことである。内乱の最中に、妖魔に襲われて死亡し
ていたと知ったが、それさえ、既に五年が経っていた。
「まぁ、親のことは言えないか。私もいざとなると自分の事しか考えない性質(たち)
だから」
 口を尖らせて言う琅燦に、李斎は微笑んだ、
「ご自身のことしか考えないお方が、この戴に戻って来られる道理もありますまい」
「…、」
 琅燦はじろんと李斎を睨んだ。

 琅燦は、範西国にいた。名を変え、範の冬官に能力を売り、それを元に起こした事業
がかなり大きくなっていた。半年前、驍宗帰還の報が伝わるや、彼女はその一切をひと
に譲り、驍宗の元に馳せつけたのだった。
 その前に雁で、彼女が私財を擲(なげう)って購った兵糧と武器とが、延王の援軍を
迎えたときの驍宗軍に、かろうじて一国の王の軍と呼べるだけの面目を施したのだとは、
皆が知っている。
 本人はそれを言われるたびに、ああでもしないことには、形悪くてのこのこ帰れなか
っただけだ、と面倒そうに言う。だが、西の技術超大国で収めた成功、見込めた莫大な
収益と安穏な生活、範国冬官からの熱心な仕官の誘い。彼女がそれらと引き換えたのは、
弱りきって貧しい極国の冬官長職だった。しかも帰参したからといって、現職復帰でき
る保証などは全くなかった……。
 黙っている李斎に、琅燦はふんと鼻を鳴らした。
「なによ。無理やり私を、いいひとに仕立てないでくれる。そういうのって、すっごく
気色悪くて、むかむかするんだよ」
 李斎は神妙にうなずいた。
「分かりました」
「忘れてもらっちゃ困る。私はあんたと違って、主上のことだってあっさり見捨てて逃
げた人間なんだからね」
 うそぶく琅燦だが、それこそ事実でないことは、誰より本人が承知しているだろう。
 琅燦が国外逃亡を決意したのは、まだ驍宗が死亡したと信じられていたときだ。もし
主が生きている事を知っていたなら、彼女は出奔していまい。そしておそらく、いま生
きてここにはいないことだろう。
 それを思うたび、琅燦が知らずに国を出られた事を、李斎は心から天に感謝した。
 あの鳴蝕の翌日、主上が死んだと聞かされた日に、その報告を受けた議堂から出たと
ころで、李斎は琅燦と会っている。日頃の琅燦からは想像もつかない様子であったこと
を、李斎はけっして口にはしないが、覚えていた。
 いつも李斎のことを――実際にうんと年下とはいえ――子供のようにあしらっては
ばからない彼女が、細い体を震わせて子供のように頼りなげだった。
 彼女の落胆と絶望ぶりは痛ましいほどで、実際誰よりも長かった。表面は皮肉に包ん
で顎をいつもどおりそびやかし、徹夜仕事の常であると言い訳していたが、赤く腫れ上
がった目は毎日隠しようもなく、ついには、巌趙が言ったものである。
『本当言うと、琅燦のやつをうらやましいとさえ思っていた。男はそういつまでも泣け
んから。だが、もう見ておれん。親をなくした子供のようで見てる方がたまらん。俺が、
話してくる』……
 見た目に似合わず、優しいところのある左将軍は、頭脳明晰で弁の立つ朋輩をどちら
かといえば煙たがっていたにもかかわらず、その日、酒を抱えて大司空官邸を訪問した
らしい。
 自分こそが、主に死なれたというより、実の弟を失ったかのように悲しんでいた彼の
訪問を受けてからのち、琅燦は少しずつだが、立ち直っていった。
 その巌趙も、いまはいない。

 二人の話は、ふたたび食べものに戻っていた。仕事を抜けてきた冬官長と新米の后妃
は、冬日の射す正寝の一室で、時折笑い声を立てて、朗らかにしゃべり続けた。
 当時をふりかえり、思い出を語らうには、時が必要だということを李斎も琅燦も分か
っている。彼らを懐かしく思い起こすには、傷はまだ、あまりに生々しかった。










 案内された琅燦が、女官の後ろから膝低く屈み、両袖を顔前に高く捧げ、いとも静々
と現れたのを見て、李斎は瞬いた。
 驚いている暇もなく、部屋の入り口で、細い小柄な体が深々と叩頭した。聞き覚えた
声が、凛と響く。
「お久しぶりでございます。雑事多忙にまぎれ、心ならずも御無沙汰申し上げました」
 李斎はきょとんとした。
「后妃におかれましては、益々ご健勝のご様子、恐悦至極に存じ上げます」
 さらに恭しい平伏と口上が続き、李斎は我に帰り、つとめて顔に出さないように注意
しながら、お腹に力を入れた。
「大司空も、お元気そうでなによりです」
 そして女官長を振り返る。
「大司空と二人だけでお話をしたい。わたくしが、直接おもてなしします」
 女官長は、そこにいた女官たちを皆下がらせた。そして客と主に礼をしたのち、自分
も退室していった。庭に面した玻璃の回廊へ出る二重の扉が、順にきちんと閉められて、
沓音と衣擦れが遠ざかる。
 その間ずっと頭を下げたままだった琅燦は、音の消えた方に顔を向けて、しばし見や
った。そして、やおら立ち上がった。
「あーあ、肩凝った。これだから正寝って、嫌んなる」
 あっけにとられた李斎をよそに、いつもの琅燦は、ばさばさと官服の裾をさばき、長
い袖を乱暴に払うと、勝手に円卓に近づき、手近の椅子を大きく引っぱって、断らずに
座った。
 両肘かけて座る姿は、控えめに言ってもふんぞりかえっている。
「いまのが例の、歩く宮廷礼式だろ。李斎よく一日顔見てて平気だね。あー恐ろし」
 李斎はついに噴出した。なんだか可笑しくてたまらない。
「あれで、さっぱりした良いひとです。琅燦殿も、話してみられれば、お気が合われる
かも」
「冗談じゃないよ。あの驍宗様を、平気で躾けっちまえるような怪物なんかと、私は関
わりたかぁない」
 言って琅燦は、目の前の李斎をしげしげと観察しなおした。ふぅん…、と鼻声を漏ら
す。
「あんまり変わっていないな。噂できくと、すごく綺麗におなりだとか、色っぽくなら
れたとかいうから、多少期待したけど。あんた顔立ちいいのはもともとだし、化粧して
襦裾着ているだけよね。色気も…、たいして増えた風じゃないし」
 遠慮なく眺められた李斎は、当惑して反論した。
「そんなに人間、急には変われませんよ」
「ま。安心した。元気そうで。天官のいじめにもめげてないみたいだし」
 いじめられているわけではないのだが。
 それでも李斎は気を取り直し、あらためて挨拶をやりなおした。
「今日は突然のお越しで驚きました。でも、お会いできて本当に嬉しいです。もっと早
くにおでかけ下さればよかったのに…」
 半年前、真夏の驍宗の陣で再会して以来、なぜか以前よりも、二人は親しい。
 琅燦は、こともなげに答えた。
「主上が、でかけたろう。鬼のいぬ間を狙ったんだよ」
「はぁ」
「一日に何十遍でも茶を飲みに突然戻られるっていうじゃない」
「まさか。そんなにおいでにはなりません」
 李斎は驚いて否定した。噂のヒレは、思ったより大きい。ちなみに実際には、最高記
録が、李斎が正寝に入った翌日の五回であった。ここしばらく、おおむね二回か三回に
落ち着いて来ている。
 ふふん、と琅燦は意味ありげな顔で笑った。
「どう?なかなか大変な男だろう?」
「は?」
「ご亭主だよ。そろそろ、早まった、とか後悔してるんじゃないの」
 李斎が頭の中で『ご亭主』を『主上』に慌てて結び付けている間にも、言葉は続く。
「一緒に暮らせば、所詮は男、いくら傑物でも、家では傑物なりの地金も出るでしょう
が。毎日、驚くわ呆れるわで、へとへとになってるんじゃないの?」
 李斎は吃驚して琅燦を見つめた。
「琅燦殿。ご結婚の経験がおありでしたか」
 琅燦があからさまに顔を顰めた。
「あるもんか。何言ってる。まぁ、主上とはつきあい長かったから、およそ見当はつく
んだよ。ね、単純なようで結構気難しいだろ」
「そうですね…。そうかも」
 思い当たらぬでもない。
「なにしろ人並外れているから、思考の早さも内容も、追いつきようがないし。なのに、
結構、話好きときてる」
「はい…」
「普通の人間とは気にかける対象やら角度がまるで違うから、相槌うつのも慣れるまで
難しいし…」
「確かに」
「大事から瑣末事まで、決めたら最後、絶対に譲らない。でも本人は我を通してる自覚
はない。あれも、日常、となるとちょっとねぇ」
「……、」
「…なにその顔。別に当て推量で言ってるんじゃないよ」
「はぁ。あの、琅燦殿はとてもよく…主上のことをご存知でいらっしゃるのですね…」
 ――新婚の旦那のことをこうも次々言い当てられちゃ、この李斎お嬢ちゃんでも少し
は妬ける気になったか。琅燦は得たり、と笑った。
「まぁねぇ。私の場合、私的にまで存じ上げたいとは、さらさら『思わなくなる』、の
には、十分すぎる長さだよ」
 ここで瞬いた李斎の顔を見る。
「いくら最高の上司でも、仕事場だけで限度いっぱい。まあどんな官でも、半年以上い
っしょに仕事すりゃ、あのお仕事人間の私的な部分まで知りたいなんて、酔狂な気は起
きないだろねぇ。…あんた、蓬山で会って別れるまで半年だから、分からなかっただけ
よ」
「…は」
 ばっさり斬って捨てられたようだが、李斎はよく分かっていない。
「あっはっは!安心しな、李斎。つまり、これまで仕事で関わった女で、驍宗様とそう
いう仲だった人間はひとりもいないから。私が保証したげるよ。もちろん、私も含めて
だね」
 得意げに付け加えて、琅燦はひとりで満足し締めくくった。
「はぁ。そうなのですねぇ…」
 もとより妬いたのかさえ、自覚に至らないうちにおさめられてしまった李斎は、なん
だか間の抜けた返事をした。
 琅燦のひとの悪いにやにやの方は、まだ消えていない。なんといってもあの驍宗様の
新婚家庭に初訪問である。せっかくだから、旨味のある情報はできるだけ貰っていきた
いのだ。花影はせいぜい当たり障りのないことしか言わないし、男たちは表面しか見て
こない。人に教えてやる気などはさらになくとも、自分の好奇心だけはちゃんと満たし
ておきたい琅燦である。

「ねえ。何ひとつ困ってないってことはないんでしょ」
 食い下がられて李斎は、真面目に考える。
「ええっと、…まぁ確かに、お考えには追いつけず、困ると言えばそうですが…。でも、
待っては下さいますので。おっしゃられたように、意外とお話なさる方ですから、分か
らないことは、その都度聞けます。教え方も丁寧でいらっしゃるし、格別不自由はない
ように思いますが……、」
「あんたの服、毎日選んでるって聞いたよ」
「はい。そのとおりです」
 琅燦は目を剥いた。
「えっやっぱり本当なの」
「お忙しいのに、お忘れにならず女官たちに書付をお渡し下さり、それはもう助かって
おります」
 嬉しげにそう答えた李斎が、大抵の女同様、衣装選びを楽しみとしている琅燦には、
信じられない。
「うっとうしくないわけ、そういうの」
「…どうしてです?」
 李斎は聞き返した。琅燦はその吃驚した顔を見直して、呆れたような感心したような
息を吐いた。
「さすがに、驍宗様に嫁ごうって気になっただけのことはあるよ。やっぱり変わってる
わ。こういうのを夫婦の奇縁とでもいうのかねぇ…」
 そのとき、首を傾けていた李斎がはたと顔を上げ、意気込んだ。
「ありました。ひどく困っていることが、ひとつだけ」
「え、なになに」
 琅燦が大きく身を乗り出す。顔が近付いたのにつられ、李斎も真剣な面持ちで、声を
ぐっと低めた。だってこれは内緒なのだ。
「牀榻の中だけなのですが」
「…牀榻の、中」
「主上が必ず」
 琅燦が口元を小さくひきつらせた。
「あのさ李斎。そういう話はそりゃおいしいけど、でもあんたの性格と違う…」
「欠伸をなさいまして」
「――あく?」
「欠伸を、なさるのです。それは大きな」
「もう、なに言い出すかと思った。欠伸がいったい何だよ、驍宗様だって……。あれ」
 琅燦は眉をひそめたまま、視線だけを上向けて、彼女の長い記憶をたぐってみる。言
われて見れば…。
「一度も見て……ない、かな。…へぇ、そうか。欠伸、ねぇ…」
 琅燦は、今度はむやみと感心し、一方李斎は情けない顔で頷いた。
「はじめて見たときは、ものすごくうろたえました。頭では普通のことだと思うのです
が。でもどうしても、見るたびに動揺して。どうしたらよいでしょうか?」
 琅燦殿、と期待をこめて促され、琅燦は真剣に考え込んだ。そしてようやく自信を持
てる結論に達した。
「そのうちに、慣れると思う」
 自信に溢れた御意見に、はぁ、ありがとうございます、と、李斎は少し落胆しながら、
礼を述べた。








  • ABOUT
うろほらぞ
Copyright © うろほろぞ All Rights Reserved.*Powered by NinjaBlog
Graphics By R-C free web graphics*material by 工房たま素材館*Template by Kaie
忍者ブログ [PR]