雲海の底を、分厚い雪雲が覆っている。夜半にかかると、白圭宮でも、いよいよ天候
が荒れ始めた。雲が吹き寄せられ、星を隠した。風がひどくなり、窓がずっと鳴ってい
る。この冬一番の寒波が到来したようである。
下はとうとう、本格的に降り出したぞ――そう言いながら、外套と髪に雪の名残をつ
けて、寒そうに夫が戻ってきたのは、もう夜もだいぶ更けてからだった。
「珍しいな。条文ではないのか」
声をかけられるまで、気づかないくらい夢中で読んでいて、李斎は慌てて、くるまっ
ていた蒲団から起き上がり、座りなおした。湯殿から戻ってきた驍宗は、牀に腰掛ける
と、彼女がいま置いた冊子を手に取り、捲ってみた。
「――これは…」
「お勉強の、参考書です」
李斎がしかつめらしく答えた。そのわざとらしく真面目に言ったあとの顔つきが、と
ても愛嬌があり、なんとも可愛らしかったので、驍宗は笑って、李斎の方へ首を伸ばし
た。
李斎はちょっと瞬くが、逃げることはしない。
牀榻の中でなら、前触れなしにこういうことをしても、もう大丈夫になったのだ。も
っとも、同じことは部屋ではしてはならないと、驍宗は学んでいた。
一度、どのような話をしていたときだったか、そういう心持になったので、顔を寄せ
たことがあった。そのとき――驍宗にとってはあまり詳しく思い出したくないことだが、
――驍宗が迫るにつれて李斎は目を見開いたまま後ろに引いていき、そのままひっくり
返った。時ならぬ物音に女官長が部屋に駆け込んできたとき、部屋の真ん中でしりもち
を搗いた后妃と、呆然としながら助け起こす主上が、目撃されたのだった。
李斎にしてみれば、主上の行動として、意外すぎて恐慌しただけだったが、驍宗は以
後、女官の離席時であろうと室内では李斎に手出ししないように気をつけた。
このように多少、笑えるようなこともやってはいるが、それでも概ね夫婦の仲は順調
に進んでいる。
当初は、字を呼ばれるたび臣下の顔に立ち戻る李斎に、驍宗は考えた末、李斎殿、と
呼ぶようにしたものだ。もちろん睦言でだけだが、蓬山時代の呼び方をすることで、か
ろうじて同等の立場が二人の間に築かれるのか、李斎は不思議なほどすぐに柔らかな気
持ちになれた。
無論李斎の方にも驍宗殿、と呼ばせていたのだが、ある日李斎の方から、やはりあま
りにも不敬だと異議が出された。そうして、彼女が自分で考えて「あなた様」がこれに
かわることとなった。そうこうするうち、いつのまにか「李斎殿」からも卒業している。
また、華燭の夜もその次の夜も、王より先に褥を乱しては申し訳ないという考えから、
牀榻の床で待った李斎に、温まった寝床で温かい妻に待ってもらう方がよいと驍宗は説
き、それからはいつも、李斎は遠慮することなく堂々と先に蒲団を温めている。
ひとつひとつそうやって、小さな調整を重ねながら、二人は夫婦になりつつあった。
「さて」
と驍宗は李斎の方を見、座りなおして姿勢を正した。李斎は、本日は結構です、と遠
慮した。
「女官にさせたのか」
いいえ、と李斎は答える。
「では、来なさい。さぼると戻るぞ」
驍宗は機嫌よく、李斎を招いた。
「お疲れですのに…申し訳ありません」
「なんの」
驍宗は位置をとり、李斎の姿勢の安定を確かめてから、腕を支えた。
「はじめるぞ。右からだ」
「はい」
「一、二、三、……」
毎晩、驍宗はこうして、李斎の柔軟と筋力を高める体操を手伝っている。
本当を言えば李斎は、今日は女官に頼もうと思ったのだ。だが、いつぞや官との夜の
仕事が長引いた折、女官にかわりをさせたら、それを聞いて驍宗が、大層不機嫌な顔を
したのを思い出したので、やめておいた。驍宗はどんなに遅くなっても、自分でやりた
がる。楽しみなのだ、と言っていた。実際楽しそうにして下さるので、勿体ないことだ
とは思いつつ、李斎も嬉しい。
ひとしきり、筋を伸縮させる運動を両肩の周りにした後、瞬発力を高める運動に移る。
「よし…、――いま少し、力が入らぬか」
「…――、」
「あと五拍っ。辛抱せい」
一、二…と驍宗が等間隔に数をとる間、その支える驍宗の掌に向けて、李斎は背筋を
伸ばしたまま、全力で右肩の力をかける。これは支え手の方にかなりの力が必要なため、
腕力の勝る驍宗でなければ、十分にはさせられなかった。湯殿ではいつも、女官に両腕
を使ってしてもらうが、それでも、このように揺るがず支えるということは、女の力で
は無理である。
「…五!」
はぁつ、と、李斎が、大きく息を吐き出す。額には薄く汗が浮いている。
驍宗も力を抜いて、笑顔になった。
「ずいぶんと、強くなったな」
「はいっ。おかげさまで」
李斎もにこにこする。
神経と骨が断裂した部位を維持させるのは、たとえ仙であっても難しい。わずかずつ
だがそれが回復し、こうして評価してもらえると、意欲も増すし、なにより嬉しくてた
まらない。
筋肉を緩めるための終わりの体操を行いながら、李斎は驍宗に、思いがけず馬に乗ら
れるようになったことを報告した。ほう、と驍宗も驚く。
「姿勢がよくなったと褒めてもらいまして、とても嬉しゅうございました」
これを聞き、驍宗がちょっと表情を止めた。女官長はもともと、登極時に、新王驍宗
の教育にあたっていた官である。
「私は褒めてもろうたことなぞ、ないぞ」
「まぁ…」
と、李斎は夫の顔を見つめた。別に、女官長が驍宗を褒めたことがない、という事実
に驚いたわけではない。
「あやつめ。李斎のことは褒めて、そのように褒美まで出すとは」
「……」
けしからぬ、とぶつぶつ言う驍宗に李斎は瞬いた。まさかと思ったが、驍宗は拗ねた
のだ。
「なんだ」
「いえ…」
李斎は笑いをかみ殺した。こんな子供っぽいところがおありなんて。驍宗は首を傾け
た。自覚はないのだ。
「…あ。でも、体操のことは、ばれておりましたよ」
「ほう。そうか」
李斎は頷いた。
「湯殿はそのうち知れると思っておりましたが、朝の散歩で、ひとりでやっていたのも、
言い当てられてしまいました。もう内緒なのは、この夜の分だけです」
「それはどうかな」
多分知っておるだろう、と驍宗が笑う。李斎はそうでしょうか、と首を傾けた。
「牀榻の内のことだから、言わなかっただけだろう。小言先生一流の、お目こぼしだ」
李斎も、そうかもしれない、と思った。
今朝の出掛けるときのやりとりも、女官長は叱らなかった。挨拶詞として不適当であ
ったのだが、その自覚は李斎にあったし、今日の場合は驍宗が同じほどの音声で返し、
単なる「夫婦間の会話」にしてしまったから、注意する要がなくなったのである。
小言婆、などと驍宗が綽名(あだな)している女官長だが、しかし彼女は必要なく叱
ることは決してなかった。
よい官を、つけて下さった。李斎は心の中で、夫に改めて感謝する。
「足を、お出しあそばされませ」
李斎が言い出し、驍宗は首を傾けた。
「なに」
「――足の指を、お揉みいたしましょう」
「…よい気持だ」
ううむ、と驍宗は深い息を吐いた。
妻の申し出に、笑ってさせてみた驍宗だが、これがなかなかに、具合が良い。
「うまいものだな。どこで覚えたのだ」
膝の上にのせた右の足指を丁寧に揉みながら、李斎はちょっと笑んだ。
「実家でございます」
「お父上に、して差し上げたか」
「はい…」
そうかと答え、驍宗は目を閉じた。李斎はそれ以上を言わなかった。もともとは母が
していたことである。小さい姉妹が順にそれを見覚え、争って父の周囲に群がっていた。
やがて子らは大きくなり、最後の李斎も家を出た。そうして、母がまた父の足の指を揉
んだだろう……
嫁いで以来、毎日のように彼らを思い出している。とっさに出てくるのがいつも、忘
れたと思っていた、昔の父と母の姿であった。どこかに「夫婦」のありようとして、自
分の両親が存在していたことに、李斎ははじめて気づいている。
が荒れ始めた。雲が吹き寄せられ、星を隠した。風がひどくなり、窓がずっと鳴ってい
る。この冬一番の寒波が到来したようである。
下はとうとう、本格的に降り出したぞ――そう言いながら、外套と髪に雪の名残をつ
けて、寒そうに夫が戻ってきたのは、もう夜もだいぶ更けてからだった。
「珍しいな。条文ではないのか」
声をかけられるまで、気づかないくらい夢中で読んでいて、李斎は慌てて、くるまっ
ていた蒲団から起き上がり、座りなおした。湯殿から戻ってきた驍宗は、牀に腰掛ける
と、彼女がいま置いた冊子を手に取り、捲ってみた。
「――これは…」
「お勉強の、参考書です」
李斎がしかつめらしく答えた。そのわざとらしく真面目に言ったあとの顔つきが、と
ても愛嬌があり、なんとも可愛らしかったので、驍宗は笑って、李斎の方へ首を伸ばし
た。
李斎はちょっと瞬くが、逃げることはしない。
牀榻の中でなら、前触れなしにこういうことをしても、もう大丈夫になったのだ。も
っとも、同じことは部屋ではしてはならないと、驍宗は学んでいた。
一度、どのような話をしていたときだったか、そういう心持になったので、顔を寄せ
たことがあった。そのとき――驍宗にとってはあまり詳しく思い出したくないことだが、
――驍宗が迫るにつれて李斎は目を見開いたまま後ろに引いていき、そのままひっくり
返った。時ならぬ物音に女官長が部屋に駆け込んできたとき、部屋の真ん中でしりもち
を搗いた后妃と、呆然としながら助け起こす主上が、目撃されたのだった。
李斎にしてみれば、主上の行動として、意外すぎて恐慌しただけだったが、驍宗は以
後、女官の離席時であろうと室内では李斎に手出ししないように気をつけた。
このように多少、笑えるようなこともやってはいるが、それでも概ね夫婦の仲は順調
に進んでいる。
当初は、字を呼ばれるたび臣下の顔に立ち戻る李斎に、驍宗は考えた末、李斎殿、と
呼ぶようにしたものだ。もちろん睦言でだけだが、蓬山時代の呼び方をすることで、か
ろうじて同等の立場が二人の間に築かれるのか、李斎は不思議なほどすぐに柔らかな気
持ちになれた。
無論李斎の方にも驍宗殿、と呼ばせていたのだが、ある日李斎の方から、やはりあま
りにも不敬だと異議が出された。そうして、彼女が自分で考えて「あなた様」がこれに
かわることとなった。そうこうするうち、いつのまにか「李斎殿」からも卒業している。
また、華燭の夜もその次の夜も、王より先に褥を乱しては申し訳ないという考えから、
牀榻の床で待った李斎に、温まった寝床で温かい妻に待ってもらう方がよいと驍宗は説
き、それからはいつも、李斎は遠慮することなく堂々と先に蒲団を温めている。
ひとつひとつそうやって、小さな調整を重ねながら、二人は夫婦になりつつあった。
「さて」
と驍宗は李斎の方を見、座りなおして姿勢を正した。李斎は、本日は結構です、と遠
慮した。
「女官にさせたのか」
いいえ、と李斎は答える。
「では、来なさい。さぼると戻るぞ」
驍宗は機嫌よく、李斎を招いた。
「お疲れですのに…申し訳ありません」
「なんの」
驍宗は位置をとり、李斎の姿勢の安定を確かめてから、腕を支えた。
「はじめるぞ。右からだ」
「はい」
「一、二、三、……」
毎晩、驍宗はこうして、李斎の柔軟と筋力を高める体操を手伝っている。
本当を言えば李斎は、今日は女官に頼もうと思ったのだ。だが、いつぞや官との夜の
仕事が長引いた折、女官にかわりをさせたら、それを聞いて驍宗が、大層不機嫌な顔を
したのを思い出したので、やめておいた。驍宗はどんなに遅くなっても、自分でやりた
がる。楽しみなのだ、と言っていた。実際楽しそうにして下さるので、勿体ないことだ
とは思いつつ、李斎も嬉しい。
ひとしきり、筋を伸縮させる運動を両肩の周りにした後、瞬発力を高める運動に移る。
「よし…、――いま少し、力が入らぬか」
「…――、」
「あと五拍っ。辛抱せい」
一、二…と驍宗が等間隔に数をとる間、その支える驍宗の掌に向けて、李斎は背筋を
伸ばしたまま、全力で右肩の力をかける。これは支え手の方にかなりの力が必要なため、
腕力の勝る驍宗でなければ、十分にはさせられなかった。湯殿ではいつも、女官に両腕
を使ってしてもらうが、それでも、このように揺るがず支えるということは、女の力で
は無理である。
「…五!」
はぁつ、と、李斎が、大きく息を吐き出す。額には薄く汗が浮いている。
驍宗も力を抜いて、笑顔になった。
「ずいぶんと、強くなったな」
「はいっ。おかげさまで」
李斎もにこにこする。
神経と骨が断裂した部位を維持させるのは、たとえ仙であっても難しい。わずかずつ
だがそれが回復し、こうして評価してもらえると、意欲も増すし、なにより嬉しくてた
まらない。
筋肉を緩めるための終わりの体操を行いながら、李斎は驍宗に、思いがけず馬に乗ら
れるようになったことを報告した。ほう、と驍宗も驚く。
「姿勢がよくなったと褒めてもらいまして、とても嬉しゅうございました」
これを聞き、驍宗がちょっと表情を止めた。女官長はもともと、登極時に、新王驍宗
の教育にあたっていた官である。
「私は褒めてもろうたことなぞ、ないぞ」
「まぁ…」
と、李斎は夫の顔を見つめた。別に、女官長が驍宗を褒めたことがない、という事実
に驚いたわけではない。
「あやつめ。李斎のことは褒めて、そのように褒美まで出すとは」
「……」
けしからぬ、とぶつぶつ言う驍宗に李斎は瞬いた。まさかと思ったが、驍宗は拗ねた
のだ。
「なんだ」
「いえ…」
李斎は笑いをかみ殺した。こんな子供っぽいところがおありなんて。驍宗は首を傾け
た。自覚はないのだ。
「…あ。でも、体操のことは、ばれておりましたよ」
「ほう。そうか」
李斎は頷いた。
「湯殿はそのうち知れると思っておりましたが、朝の散歩で、ひとりでやっていたのも、
言い当てられてしまいました。もう内緒なのは、この夜の分だけです」
「それはどうかな」
多分知っておるだろう、と驍宗が笑う。李斎はそうでしょうか、と首を傾けた。
「牀榻の内のことだから、言わなかっただけだろう。小言先生一流の、お目こぼしだ」
李斎も、そうかもしれない、と思った。
今朝の出掛けるときのやりとりも、女官長は叱らなかった。挨拶詞として不適当であ
ったのだが、その自覚は李斎にあったし、今日の場合は驍宗が同じほどの音声で返し、
単なる「夫婦間の会話」にしてしまったから、注意する要がなくなったのである。
小言婆、などと驍宗が綽名(あだな)している女官長だが、しかし彼女は必要なく叱
ることは決してなかった。
よい官を、つけて下さった。李斎は心の中で、夫に改めて感謝する。
「足を、お出しあそばされませ」
李斎が言い出し、驍宗は首を傾けた。
「なに」
「――足の指を、お揉みいたしましょう」
「…よい気持だ」
ううむ、と驍宗は深い息を吐いた。
妻の申し出に、笑ってさせてみた驍宗だが、これがなかなかに、具合が良い。
「うまいものだな。どこで覚えたのだ」
膝の上にのせた右の足指を丁寧に揉みながら、李斎はちょっと笑んだ。
「実家でございます」
「お父上に、して差し上げたか」
「はい…」
そうかと答え、驍宗は目を閉じた。李斎はそれ以上を言わなかった。もともとは母が
していたことである。小さい姉妹が順にそれを見覚え、争って父の周囲に群がっていた。
やがて子らは大きくなり、最後の李斎も家を出た。そうして、母がまた父の足の指を揉
んだだろう……
嫁いで以来、毎日のように彼らを思い出している。とっさに出てくるのがいつも、忘
れたと思っていた、昔の父と母の姿であった。どこかに「夫婦」のありようとして、自
分の両親が存在していたことに、李斎ははじめて気づいている。
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