「成る程成る程、あれじゃあ、主上の顔も緩みがちになるわけだよねぇ」
「…そうですか。よかったですね」
相手の反応はいまひとつだが、そんなことには気にしていない琅燦である。
既に夕刻だった。正寝正殿の東側の、大廊下から少し入ったばかりの内回廊の端で、
予想外に琅燦と行き会ってしまい、捕まっているのは、特徴的な光沢のある暗色の髪―
―実際は鬣(たてがみ)――をした、当国の若い麒麟であった。
十二国で現在生国に宰輔としてある麒麟は十、うち黄金色でない鬣を持つ唯一の麒麟
だ。事情あって、唯一短髪をした麒麟でもある。当年とって十七歳、外見はせいぜい十
四五というところ。ひょろりと丈だけ伸びて肉のない体型も、どこか子供の特徴を残す
面立ちも少年のそれであるが、これで既に成獣している。
「お忙しい大司空が、そんなことをお確かめになるために、わざわざお越しになられた
んですか」
愛想よい微笑と、柔らかな声だが、言にはやや含みがある。
「ふふん。当然じゃないか。なんたってあの驍宗様が、きちんきちんと食事に戻ってく
れて、休憩とってくれて、定時に内殿から引き上げるようになったんだよ。あまつさえ
仕事でなくて奥方の着物のことなんか考えてる時間まで、一日のうちにあるわけよ。結
構なことじゃない。とにかく、主上にはいい重石だよ。おかげでこっちも、どれほど体
力的にも精神的にも助かってるか、知れやしない」
「……」
結局ポイントはそっちかよ。と、泰麒はお腹で蓬莱語をつぶやいた。
「おまけに、主上が朝議に遅刻するとこまで、この目で見せてもらえたんだからねぇ。
夢みたい。李斎に感謝するわ。私らの職場環境の今後は、李斎にかかってるんだから、
是非、これからもこの調子でどんどん頑張ってもらわなきゃ」
泰麒は息を吐いた、
「それ、后妃にはおっしゃっていないでしょうね」
「言わない、言わない。真面目だから気にする、ってんでしょ。よく分かってるわよ」
ほんとかよ。
「…。醒めてんじゃないわよ。可愛くないね。昔からお行儀のよさと好印象が売りの泰
台輔でしょうが」
よく言う。
「琅燦殿は、昔から、僕のことを可愛いなんて、思っておられなかったでしょ」
「うん、全然。愛敬振り撒くけど、大人の顔色はきっちり見てるし、あざといちびだっ
て思ったな。李斎は一貫して愛しくてたまらなかったらしいけど、正直気が知れなかっ
たわね。だけど、いまは嫌いじゃないよ。すっかりくわせ者になったけど、少なくとも、
自覚あるみたいだし」
「それはどうも」
泰麒は涼しい顔で答えた。いまでは、琅燦より少しばかり上背のあることの主張が、
その下ろした目線には含まれている。さすがにこれはいささか愉快でなかった琅燦が、
にっこりと反撃した。
「そういう態度でいいの。あんたの打ち出してる例の、官吏の同時休業制度、ってのを
支持する気でいる閣僚だよ、私は」
「…見返りはなんです」
「法案つくって、きっちり通すとこまでやってちょうだい。休みがほしいんだよ。私に
は、いろいろやりたいこともあんの。無論、瑞州府だけじゃなく国府全体よ。でなきゃ
こっちは意味ないんだから」
「ほんとに、賛成なんですか」
泰麒は少し真顔に改まった。
定期的に丸一日、全府第を休みにする、というのは、泰麒にとっては、しごく当然な
就労者の保護に思えるが、そういう習慣のないこの世界のひと達には、その価値自体を
納得させることからして、難しい。それでも彼はいま本気で、週休を導入したいと考え
ていた。
「さすがに蓬莱のお育ちだと、言うことが奇抜で驚かされるわ。でも奇抜だけど、悪く
ない。天綱のどこにも、官を休ませるな、とは書いてないんだ。…それに、――戴の現
情には、実にあってると思う」
泰麒は琅燦の顔を見た。さきほどまでのからかい調子とは別の表情を、琅燦は浮かべ
た。
「どんなに主上ががんばったって、七年前のようには全員の仕事が無尽蔵じゃないんだ
から」
「………」
官をあげて国の再建に取り組む。それはいまも、そしてあの頃も同じだ。ただし。し
ゃかりきに仕事をしまくって、急げば急ぐほど、その分、国が早く立ち直る…。あの頃
はそうだったが、いまは違う。おそろしくゆっくり、時間をかけて、そしてほんのわず
かずつしか前には進まない。下官の書記までが寝る暇のなかった昔とは、一緒ではない。
「――で。台輔も、主上の留守狙って、李斎に会いに来たってわけ」
泰麒は憮然と答えた。
「あなたと違って、別にお留守なんて狙ってません。僕は主上に言われて、帰りが遅く
なるのでお食事をご一緒にと…」
「まーた、大人ぶっちゃって。いくらあんたでも、大きな形(なり)して、新婚の李斎
には甘えにくいんだろうけどさ。でも。分かってるだろうけど、家庭内に不要の波風立
てないようにね泰麒坊や。お母様のおっぱいは、父親と仲良くきっちり、折半してちょ
うだい」
泰麒がかっと赤くなった。
「馬鹿なこと言わないで下さいっ。僕は昔だって一度も、李斎の胸なんて触ったことあ
りませんよ!」
琅燦はきょとんと泰麒を見つめた、
「…単なる、ものの例えじゃないか。何むきになってるのよ。嫌ぁね」
「…っ、」
「まぁまぁ。いろいろあるね。青少年?」
琅燦から、なぐさめるように背を優しくたたかれ、泰麒は目を閉じた。そもそも李斎
は母じゃありません、を言うのも、忘れた。
さしもの泰麒でも、この女性に口で敵うには、まだもう少し、修行が必要だ。
「…そうですか。よかったですね」
相手の反応はいまひとつだが、そんなことには気にしていない琅燦である。
既に夕刻だった。正寝正殿の東側の、大廊下から少し入ったばかりの内回廊の端で、
予想外に琅燦と行き会ってしまい、捕まっているのは、特徴的な光沢のある暗色の髪―
―実際は鬣(たてがみ)――をした、当国の若い麒麟であった。
十二国で現在生国に宰輔としてある麒麟は十、うち黄金色でない鬣を持つ唯一の麒麟
だ。事情あって、唯一短髪をした麒麟でもある。当年とって十七歳、外見はせいぜい十
四五というところ。ひょろりと丈だけ伸びて肉のない体型も、どこか子供の特徴を残す
面立ちも少年のそれであるが、これで既に成獣している。
「お忙しい大司空が、そんなことをお確かめになるために、わざわざお越しになられた
んですか」
愛想よい微笑と、柔らかな声だが、言にはやや含みがある。
「ふふん。当然じゃないか。なんたってあの驍宗様が、きちんきちんと食事に戻ってく
れて、休憩とってくれて、定時に内殿から引き上げるようになったんだよ。あまつさえ
仕事でなくて奥方の着物のことなんか考えてる時間まで、一日のうちにあるわけよ。結
構なことじゃない。とにかく、主上にはいい重石だよ。おかげでこっちも、どれほど体
力的にも精神的にも助かってるか、知れやしない」
「……」
結局ポイントはそっちかよ。と、泰麒はお腹で蓬莱語をつぶやいた。
「おまけに、主上が朝議に遅刻するとこまで、この目で見せてもらえたんだからねぇ。
夢みたい。李斎に感謝するわ。私らの職場環境の今後は、李斎にかかってるんだから、
是非、これからもこの調子でどんどん頑張ってもらわなきゃ」
泰麒は息を吐いた、
「それ、后妃にはおっしゃっていないでしょうね」
「言わない、言わない。真面目だから気にする、ってんでしょ。よく分かってるわよ」
ほんとかよ。
「…。醒めてんじゃないわよ。可愛くないね。昔からお行儀のよさと好印象が売りの泰
台輔でしょうが」
よく言う。
「琅燦殿は、昔から、僕のことを可愛いなんて、思っておられなかったでしょ」
「うん、全然。愛敬振り撒くけど、大人の顔色はきっちり見てるし、あざといちびだっ
て思ったな。李斎は一貫して愛しくてたまらなかったらしいけど、正直気が知れなかっ
たわね。だけど、いまは嫌いじゃないよ。すっかりくわせ者になったけど、少なくとも、
自覚あるみたいだし」
「それはどうも」
泰麒は涼しい顔で答えた。いまでは、琅燦より少しばかり上背のあることの主張が、
その下ろした目線には含まれている。さすがにこれはいささか愉快でなかった琅燦が、
にっこりと反撃した。
「そういう態度でいいの。あんたの打ち出してる例の、官吏の同時休業制度、ってのを
支持する気でいる閣僚だよ、私は」
「…見返りはなんです」
「法案つくって、きっちり通すとこまでやってちょうだい。休みがほしいんだよ。私に
は、いろいろやりたいこともあんの。無論、瑞州府だけじゃなく国府全体よ。でなきゃ
こっちは意味ないんだから」
「ほんとに、賛成なんですか」
泰麒は少し真顔に改まった。
定期的に丸一日、全府第を休みにする、というのは、泰麒にとっては、しごく当然な
就労者の保護に思えるが、そういう習慣のないこの世界のひと達には、その価値自体を
納得させることからして、難しい。それでも彼はいま本気で、週休を導入したいと考え
ていた。
「さすがに蓬莱のお育ちだと、言うことが奇抜で驚かされるわ。でも奇抜だけど、悪く
ない。天綱のどこにも、官を休ませるな、とは書いてないんだ。…それに、――戴の現
情には、実にあってると思う」
泰麒は琅燦の顔を見た。さきほどまでのからかい調子とは別の表情を、琅燦は浮かべ
た。
「どんなに主上ががんばったって、七年前のようには全員の仕事が無尽蔵じゃないんだ
から」
「………」
官をあげて国の再建に取り組む。それはいまも、そしてあの頃も同じだ。ただし。し
ゃかりきに仕事をしまくって、急げば急ぐほど、その分、国が早く立ち直る…。あの頃
はそうだったが、いまは違う。おそろしくゆっくり、時間をかけて、そしてほんのわず
かずつしか前には進まない。下官の書記までが寝る暇のなかった昔とは、一緒ではない。
「――で。台輔も、主上の留守狙って、李斎に会いに来たってわけ」
泰麒は憮然と答えた。
「あなたと違って、別にお留守なんて狙ってません。僕は主上に言われて、帰りが遅く
なるのでお食事をご一緒にと…」
「まーた、大人ぶっちゃって。いくらあんたでも、大きな形(なり)して、新婚の李斎
には甘えにくいんだろうけどさ。でも。分かってるだろうけど、家庭内に不要の波風立
てないようにね泰麒坊や。お母様のおっぱいは、父親と仲良くきっちり、折半してちょ
うだい」
泰麒がかっと赤くなった。
「馬鹿なこと言わないで下さいっ。僕は昔だって一度も、李斎の胸なんて触ったことあ
りませんよ!」
琅燦はきょとんと泰麒を見つめた、
「…単なる、ものの例えじゃないか。何むきになってるのよ。嫌ぁね」
「…っ、」
「まぁまぁ。いろいろあるね。青少年?」
琅燦から、なぐさめるように背を優しくたたかれ、泰麒は目を閉じた。そもそも李斎
は母じゃありません、を言うのも、忘れた。
さしもの泰麒でも、この女性に口で敵うには、まだもう少し、修行が必要だ。
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