案内された琅燦が、女官の後ろから膝低く屈み、両袖を顔前に高く捧げ、いとも静々
と現れたのを見て、李斎は瞬いた。
驚いている暇もなく、部屋の入り口で、細い小柄な体が深々と叩頭した。聞き覚えた
声が、凛と響く。
「お久しぶりでございます。雑事多忙にまぎれ、心ならずも御無沙汰申し上げました」
李斎はきょとんとした。
「后妃におかれましては、益々ご健勝のご様子、恐悦至極に存じ上げます」
さらに恭しい平伏と口上が続き、李斎は我に帰り、つとめて顔に出さないように注意
しながら、お腹に力を入れた。
「大司空も、お元気そうでなによりです」
そして女官長を振り返る。
「大司空と二人だけでお話をしたい。わたくしが、直接おもてなしします」
女官長は、そこにいた女官たちを皆下がらせた。そして客と主に礼をしたのち、自分
も退室していった。庭に面した玻璃の回廊へ出る二重の扉が、順にきちんと閉められて、
沓音と衣擦れが遠ざかる。
その間ずっと頭を下げたままだった琅燦は、音の消えた方に顔を向けて、しばし見や
った。そして、やおら立ち上がった。
「あーあ、肩凝った。これだから正寝って、嫌んなる」
あっけにとられた李斎をよそに、いつもの琅燦は、ばさばさと官服の裾をさばき、長
い袖を乱暴に払うと、勝手に円卓に近づき、手近の椅子を大きく引っぱって、断らずに
座った。
両肘かけて座る姿は、控えめに言ってもふんぞりかえっている。
「いまのが例の、歩く宮廷礼式だろ。李斎よく一日顔見てて平気だね。あー恐ろし」
李斎はついに噴出した。なんだか可笑しくてたまらない。
「あれで、さっぱりした良いひとです。琅燦殿も、話してみられれば、お気が合われる
かも」
「冗談じゃないよ。あの驍宗様を、平気で躾けっちまえるような怪物なんかと、私は関
わりたかぁない」
言って琅燦は、目の前の李斎をしげしげと観察しなおした。ふぅん…、と鼻声を漏ら
す。
「あんまり変わっていないな。噂できくと、すごく綺麗におなりだとか、色っぽくなら
れたとかいうから、多少期待したけど。あんた顔立ちいいのはもともとだし、化粧して
襦裾着ているだけよね。色気も…、たいして増えた風じゃないし」
遠慮なく眺められた李斎は、当惑して反論した。
「そんなに人間、急には変われませんよ」
「ま。安心した。元気そうで。天官のいじめにもめげてないみたいだし」
いじめられているわけではないのだが。
それでも李斎は気を取り直し、あらためて挨拶をやりなおした。
「今日は突然のお越しで驚きました。でも、お会いできて本当に嬉しいです。もっと早
くにおでかけ下さればよかったのに…」
半年前、真夏の驍宗の陣で再会して以来、なぜか以前よりも、二人は親しい。
琅燦は、こともなげに答えた。
「主上が、でかけたろう。鬼のいぬ間を狙ったんだよ」
「はぁ」
「一日に何十遍でも茶を飲みに突然戻られるっていうじゃない」
「まさか。そんなにおいでにはなりません」
李斎は驚いて否定した。噂のヒレは、思ったより大きい。ちなみに実際には、最高記
録が、李斎が正寝に入った翌日の五回であった。ここしばらく、おおむね二回か三回に
落ち着いて来ている。
ふふん、と琅燦は意味ありげな顔で笑った。
「どう?なかなか大変な男だろう?」
「は?」
「ご亭主だよ。そろそろ、早まった、とか後悔してるんじゃないの」
李斎が頭の中で『ご亭主』を『主上』に慌てて結び付けている間にも、言葉は続く。
「一緒に暮らせば、所詮は男、いくら傑物でも、家では傑物なりの地金も出るでしょう
が。毎日、驚くわ呆れるわで、へとへとになってるんじゃないの?」
李斎は吃驚して琅燦を見つめた。
「琅燦殿。ご結婚の経験がおありでしたか」
琅燦があからさまに顔を顰めた。
「あるもんか。何言ってる。まぁ、主上とはつきあい長かったから、およそ見当はつく
んだよ。ね、単純なようで結構気難しいだろ」
「そうですね…。そうかも」
思い当たらぬでもない。
「なにしろ人並外れているから、思考の早さも内容も、追いつきようがないし。なのに、
結構、話好きときてる」
「はい…」
「普通の人間とは気にかける対象やら角度がまるで違うから、相槌うつのも慣れるまで
難しいし…」
「確かに」
「大事から瑣末事まで、決めたら最後、絶対に譲らない。でも本人は我を通してる自覚
はない。あれも、日常、となるとちょっとねぇ」
「……、」
「…なにその顔。別に当て推量で言ってるんじゃないよ」
「はぁ。あの、琅燦殿はとてもよく…主上のことをご存知でいらっしゃるのですね…」
――新婚の旦那のことをこうも次々言い当てられちゃ、この李斎お嬢ちゃんでも少し
は妬ける気になったか。琅燦は得たり、と笑った。
「まぁねぇ。私の場合、私的にまで存じ上げたいとは、さらさら『思わなくなる』、の
には、十分すぎる長さだよ」
ここで瞬いた李斎の顔を見る。
「いくら最高の上司でも、仕事場だけで限度いっぱい。まあどんな官でも、半年以上い
っしょに仕事すりゃ、あのお仕事人間の私的な部分まで知りたいなんて、酔狂な気は起
きないだろねぇ。…あんた、蓬山で会って別れるまで半年だから、分からなかっただけ
よ」
「…は」
ばっさり斬って捨てられたようだが、李斎はよく分かっていない。
「あっはっは!安心しな、李斎。つまり、これまで仕事で関わった女で、驍宗様とそう
いう仲だった人間はひとりもいないから。私が保証したげるよ。もちろん、私も含めて
だね」
得意げに付け加えて、琅燦はひとりで満足し締めくくった。
「はぁ。そうなのですねぇ…」
もとより妬いたのかさえ、自覚に至らないうちにおさめられてしまった李斎は、なん
だか間の抜けた返事をした。
琅燦のひとの悪いにやにやの方は、まだ消えていない。なんといってもあの驍宗様の
新婚家庭に初訪問である。せっかくだから、旨味のある情報はできるだけ貰っていきた
いのだ。花影はせいぜい当たり障りのないことしか言わないし、男たちは表面しか見て
こない。人に教えてやる気などはさらになくとも、自分の好奇心だけはちゃんと満たし
ておきたい琅燦である。
「ねえ。何ひとつ困ってないってことはないんでしょ」
食い下がられて李斎は、真面目に考える。
「ええっと、…まぁ確かに、お考えには追いつけず、困ると言えばそうですが…。でも、
待っては下さいますので。おっしゃられたように、意外とお話なさる方ですから、分か
らないことは、その都度聞けます。教え方も丁寧でいらっしゃるし、格別不自由はない
ように思いますが……、」
「あんたの服、毎日選んでるって聞いたよ」
「はい。そのとおりです」
琅燦は目を剥いた。
「えっやっぱり本当なの」
「お忙しいのに、お忘れにならず女官たちに書付をお渡し下さり、それはもう助かって
おります」
嬉しげにそう答えた李斎が、大抵の女同様、衣装選びを楽しみとしている琅燦には、
信じられない。
「うっとうしくないわけ、そういうの」
「…どうしてです?」
李斎は聞き返した。琅燦はその吃驚した顔を見直して、呆れたような感心したような
息を吐いた。
「さすがに、驍宗様に嫁ごうって気になっただけのことはあるよ。やっぱり変わってる
わ。こういうのを夫婦の奇縁とでもいうのかねぇ…」
そのとき、首を傾けていた李斎がはたと顔を上げ、意気込んだ。
「ありました。ひどく困っていることが、ひとつだけ」
「え、なになに」
琅燦が大きく身を乗り出す。顔が近付いたのにつられ、李斎も真剣な面持ちで、声を
ぐっと低めた。だってこれは内緒なのだ。
「牀榻の中だけなのですが」
「…牀榻の、中」
「主上が必ず」
琅燦が口元を小さくひきつらせた。
「あのさ李斎。そういう話はそりゃおいしいけど、でもあんたの性格と違う…」
「欠伸をなさいまして」
「――あく?」
「欠伸を、なさるのです。それは大きな」
「もう、なに言い出すかと思った。欠伸がいったい何だよ、驍宗様だって……。あれ」
琅燦は眉をひそめたまま、視線だけを上向けて、彼女の長い記憶をたぐってみる。言
われて見れば…。
「一度も見て……ない、かな。…へぇ、そうか。欠伸、ねぇ…」
琅燦は、今度はむやみと感心し、一方李斎は情けない顔で頷いた。
「はじめて見たときは、ものすごくうろたえました。頭では普通のことだと思うのです
が。でもどうしても、見るたびに動揺して。どうしたらよいでしょうか?」
琅燦殿、と期待をこめて促され、琅燦は真剣に考え込んだ。そしてようやく自信を持
てる結論に達した。
「そのうちに、慣れると思う」
自信に溢れた御意見に、はぁ、ありがとうございます、と、李斎は少し落胆しながら、
礼を述べた。
と現れたのを見て、李斎は瞬いた。
驚いている暇もなく、部屋の入り口で、細い小柄な体が深々と叩頭した。聞き覚えた
声が、凛と響く。
「お久しぶりでございます。雑事多忙にまぎれ、心ならずも御無沙汰申し上げました」
李斎はきょとんとした。
「后妃におかれましては、益々ご健勝のご様子、恐悦至極に存じ上げます」
さらに恭しい平伏と口上が続き、李斎は我に帰り、つとめて顔に出さないように注意
しながら、お腹に力を入れた。
「大司空も、お元気そうでなによりです」
そして女官長を振り返る。
「大司空と二人だけでお話をしたい。わたくしが、直接おもてなしします」
女官長は、そこにいた女官たちを皆下がらせた。そして客と主に礼をしたのち、自分
も退室していった。庭に面した玻璃の回廊へ出る二重の扉が、順にきちんと閉められて、
沓音と衣擦れが遠ざかる。
その間ずっと頭を下げたままだった琅燦は、音の消えた方に顔を向けて、しばし見や
った。そして、やおら立ち上がった。
「あーあ、肩凝った。これだから正寝って、嫌んなる」
あっけにとられた李斎をよそに、いつもの琅燦は、ばさばさと官服の裾をさばき、長
い袖を乱暴に払うと、勝手に円卓に近づき、手近の椅子を大きく引っぱって、断らずに
座った。
両肘かけて座る姿は、控えめに言ってもふんぞりかえっている。
「いまのが例の、歩く宮廷礼式だろ。李斎よく一日顔見てて平気だね。あー恐ろし」
李斎はついに噴出した。なんだか可笑しくてたまらない。
「あれで、さっぱりした良いひとです。琅燦殿も、話してみられれば、お気が合われる
かも」
「冗談じゃないよ。あの驍宗様を、平気で躾けっちまえるような怪物なんかと、私は関
わりたかぁない」
言って琅燦は、目の前の李斎をしげしげと観察しなおした。ふぅん…、と鼻声を漏ら
す。
「あんまり変わっていないな。噂できくと、すごく綺麗におなりだとか、色っぽくなら
れたとかいうから、多少期待したけど。あんた顔立ちいいのはもともとだし、化粧して
襦裾着ているだけよね。色気も…、たいして増えた風じゃないし」
遠慮なく眺められた李斎は、当惑して反論した。
「そんなに人間、急には変われませんよ」
「ま。安心した。元気そうで。天官のいじめにもめげてないみたいだし」
いじめられているわけではないのだが。
それでも李斎は気を取り直し、あらためて挨拶をやりなおした。
「今日は突然のお越しで驚きました。でも、お会いできて本当に嬉しいです。もっと早
くにおでかけ下さればよかったのに…」
半年前、真夏の驍宗の陣で再会して以来、なぜか以前よりも、二人は親しい。
琅燦は、こともなげに答えた。
「主上が、でかけたろう。鬼のいぬ間を狙ったんだよ」
「はぁ」
「一日に何十遍でも茶を飲みに突然戻られるっていうじゃない」
「まさか。そんなにおいでにはなりません」
李斎は驚いて否定した。噂のヒレは、思ったより大きい。ちなみに実際には、最高記
録が、李斎が正寝に入った翌日の五回であった。ここしばらく、おおむね二回か三回に
落ち着いて来ている。
ふふん、と琅燦は意味ありげな顔で笑った。
「どう?なかなか大変な男だろう?」
「は?」
「ご亭主だよ。そろそろ、早まった、とか後悔してるんじゃないの」
李斎が頭の中で『ご亭主』を『主上』に慌てて結び付けている間にも、言葉は続く。
「一緒に暮らせば、所詮は男、いくら傑物でも、家では傑物なりの地金も出るでしょう
が。毎日、驚くわ呆れるわで、へとへとになってるんじゃないの?」
李斎は吃驚して琅燦を見つめた。
「琅燦殿。ご結婚の経験がおありでしたか」
琅燦があからさまに顔を顰めた。
「あるもんか。何言ってる。まぁ、主上とはつきあい長かったから、およそ見当はつく
んだよ。ね、単純なようで結構気難しいだろ」
「そうですね…。そうかも」
思い当たらぬでもない。
「なにしろ人並外れているから、思考の早さも内容も、追いつきようがないし。なのに、
結構、話好きときてる」
「はい…」
「普通の人間とは気にかける対象やら角度がまるで違うから、相槌うつのも慣れるまで
難しいし…」
「確かに」
「大事から瑣末事まで、決めたら最後、絶対に譲らない。でも本人は我を通してる自覚
はない。あれも、日常、となるとちょっとねぇ」
「……、」
「…なにその顔。別に当て推量で言ってるんじゃないよ」
「はぁ。あの、琅燦殿はとてもよく…主上のことをご存知でいらっしゃるのですね…」
――新婚の旦那のことをこうも次々言い当てられちゃ、この李斎お嬢ちゃんでも少し
は妬ける気になったか。琅燦は得たり、と笑った。
「まぁねぇ。私の場合、私的にまで存じ上げたいとは、さらさら『思わなくなる』、の
には、十分すぎる長さだよ」
ここで瞬いた李斎の顔を見る。
「いくら最高の上司でも、仕事場だけで限度いっぱい。まあどんな官でも、半年以上い
っしょに仕事すりゃ、あのお仕事人間の私的な部分まで知りたいなんて、酔狂な気は起
きないだろねぇ。…あんた、蓬山で会って別れるまで半年だから、分からなかっただけ
よ」
「…は」
ばっさり斬って捨てられたようだが、李斎はよく分かっていない。
「あっはっは!安心しな、李斎。つまり、これまで仕事で関わった女で、驍宗様とそう
いう仲だった人間はひとりもいないから。私が保証したげるよ。もちろん、私も含めて
だね」
得意げに付け加えて、琅燦はひとりで満足し締めくくった。
「はぁ。そうなのですねぇ…」
もとより妬いたのかさえ、自覚に至らないうちにおさめられてしまった李斎は、なん
だか間の抜けた返事をした。
琅燦のひとの悪いにやにやの方は、まだ消えていない。なんといってもあの驍宗様の
新婚家庭に初訪問である。せっかくだから、旨味のある情報はできるだけ貰っていきた
いのだ。花影はせいぜい当たり障りのないことしか言わないし、男たちは表面しか見て
こない。人に教えてやる気などはさらになくとも、自分の好奇心だけはちゃんと満たし
ておきたい琅燦である。
「ねえ。何ひとつ困ってないってことはないんでしょ」
食い下がられて李斎は、真面目に考える。
「ええっと、…まぁ確かに、お考えには追いつけず、困ると言えばそうですが…。でも、
待っては下さいますので。おっしゃられたように、意外とお話なさる方ですから、分か
らないことは、その都度聞けます。教え方も丁寧でいらっしゃるし、格別不自由はない
ように思いますが……、」
「あんたの服、毎日選んでるって聞いたよ」
「はい。そのとおりです」
琅燦は目を剥いた。
「えっやっぱり本当なの」
「お忙しいのに、お忘れにならず女官たちに書付をお渡し下さり、それはもう助かって
おります」
嬉しげにそう答えた李斎が、大抵の女同様、衣装選びを楽しみとしている琅燦には、
信じられない。
「うっとうしくないわけ、そういうの」
「…どうしてです?」
李斎は聞き返した。琅燦はその吃驚した顔を見直して、呆れたような感心したような
息を吐いた。
「さすがに、驍宗様に嫁ごうって気になっただけのことはあるよ。やっぱり変わってる
わ。こういうのを夫婦の奇縁とでもいうのかねぇ…」
そのとき、首を傾けていた李斎がはたと顔を上げ、意気込んだ。
「ありました。ひどく困っていることが、ひとつだけ」
「え、なになに」
琅燦が大きく身を乗り出す。顔が近付いたのにつられ、李斎も真剣な面持ちで、声を
ぐっと低めた。だってこれは内緒なのだ。
「牀榻の中だけなのですが」
「…牀榻の、中」
「主上が必ず」
琅燦が口元を小さくひきつらせた。
「あのさ李斎。そういう話はそりゃおいしいけど、でもあんたの性格と違う…」
「欠伸をなさいまして」
「――あく?」
「欠伸を、なさるのです。それは大きな」
「もう、なに言い出すかと思った。欠伸がいったい何だよ、驍宗様だって……。あれ」
琅燦は眉をひそめたまま、視線だけを上向けて、彼女の長い記憶をたぐってみる。言
われて見れば…。
「一度も見て……ない、かな。…へぇ、そうか。欠伸、ねぇ…」
琅燦は、今度はむやみと感心し、一方李斎は情けない顔で頷いた。
「はじめて見たときは、ものすごくうろたえました。頭では普通のことだと思うのです
が。でもどうしても、見るたびに動揺して。どうしたらよいでしょうか?」
琅燦殿、と期待をこめて促され、琅燦は真剣に考え込んだ。そしてようやく自信を持
てる結論に達した。
「そのうちに、慣れると思う」
自信に溢れた御意見に、はぁ、ありがとうございます、と、李斎は少し落胆しながら、
礼を述べた。
PR