「いいのですか」
「どうぞ」
李斎は一瞬ためらった後、出された腕につかまってそれを支えに身軽く鞍に登り、前
から右足を渡して姿勢を整えた。鐙(あぶみ)がないのでやや不安定だが、驍宗が手綱
を離さない。
日は中天に高高と、夏の蓬山を照らしていた。
「鞍に掴まられよ。手綱をとらせて差し上げたいが、計都に私ごと振り落とされる」
頷くと、驍宗は右手にとっていた手綱を、李斎の背後から両の手に持ち替えた。
「――ハイっ」
驍宗が低く声をかけて鐙を蹴ると、計都は不承不承歩みはじめた。背に乗ってみれば、
すう虞はやはり大きい。天馬としても小柄な飛燕を乗騎にしていることもあり、戸惑う
ほどに肩は広くその首は太い。だが歩みは、虎に似る獣らしく、なんと軽快でしなやか
なことだろうか。
「いかがか」
「素晴らしいですね。でも…」
くすりと李斎は笑った。
「少し変な気分です」
背後で首を傾げたであろう驍宗に答える。
「背で手綱をとっていただいて鞍に掴まっていると、子供に戻った気がする。なんだか
初めて乗馬を教わった日のようで」
驍宗が小さく笑ったようだった。
「馬をお持ちだったか」
「父の軍馬です」
「なるほど」
穏やかな声が、背に暖かく感じられる。李斎はわずか首を傾けた。
「…少し駆けさせよう。ハっ」
獣は指示に従い、緩やかに速歩から駆け足へと移る。黄海と蓬山を隔てる牌門までは
下りの岩場がつづれ折りになって続く。門を出るまで騎獣は飛行できないが、それでも
すう虞は飛ぶように走る。妖魔が襲ってこないので、この門までの往復は騎獣の運動に
は恰好だ。
「お小さいころから、お転婆でいらしたか」
「はい、それはもう」
おどけて答えると、驍宗の楽しげな笑い声が返ってきた。
「驍宗殿は?いつから馬に乗られました」
「…馬は後だった。私は先に騎獣に乗ったので」
「騎獣、ですか?」
李斎は瞬いた。騎獣は高価で、成獣ばかりだから概して大きいし、気性も荒い。少な
くとも子供の教育には向いていない。李斎の疑問に驍宗が答えた。
「序学に通っていた頃、将軍の乗騎に乗ってみた。厩番の兵と顔なじみになって、休み
のたびにその男が遊びに出かける間、代わりに騎獣の世話をして、ついでに少々拝借し
た」
李斎は少し呆れながら聞いた。
「乗せてくれましたか」
「振り落とされた」
「お怪我は」
「あばらを二本折り申した」
李斎は目を丸くした。
「仙に、なられる前のことでしょう」
「いかにも」
「それで、どうなされた」
驍宗は悪びれず答えた。
「次の休みにまた乗った」
二人の笑い声が奇岩を行く風に乗って、たなびいた。
「…そんなこともあったか」
「ございました」
すう虞の背で二人は笑み交わした。
あのときと同じように、驍宗が背後から手綱を取っている。違うのは二人とも鎧をつ
けてはいないことだ。驍宗は冠に上げた髪をおさめ、李斎は臙脂色の絹の裳裾を風にな
びかせている。もっと違うのは、横乗りの李斎が驍宗にゆったりとその背を預けている
ことだろう。
風は黄海を行く夏の風ではない。北東の極国の丘に吹きつける、秋の風だ。
「寒くはないか」
「大丈夫です」
「手綱をとってみるか」
「いいのですか」
驍宗は笑んで、左手を替わらせた。そっと上から手を添える。
李斎は嬉しげに背を伸ばすと、短く声を掛けて、手綱をしならせた。賢く勇猛な獣は、
ゆるゆると速度を増す。
「…少し押さえよ。振り落とされても知らぬぞ」
「そのときは主上にいっしょに落ちていただきます」
「お転婆は一生治らぬか」
「はい、それはもう」
あの日乗った計都は、もういない。
「どうぞ」
李斎は一瞬ためらった後、出された腕につかまってそれを支えに身軽く鞍に登り、前
から右足を渡して姿勢を整えた。鐙(あぶみ)がないのでやや不安定だが、驍宗が手綱
を離さない。
日は中天に高高と、夏の蓬山を照らしていた。
「鞍に掴まられよ。手綱をとらせて差し上げたいが、計都に私ごと振り落とされる」
頷くと、驍宗は右手にとっていた手綱を、李斎の背後から両の手に持ち替えた。
「――ハイっ」
驍宗が低く声をかけて鐙を蹴ると、計都は不承不承歩みはじめた。背に乗ってみれば、
すう虞はやはり大きい。天馬としても小柄な飛燕を乗騎にしていることもあり、戸惑う
ほどに肩は広くその首は太い。だが歩みは、虎に似る獣らしく、なんと軽快でしなやか
なことだろうか。
「いかがか」
「素晴らしいですね。でも…」
くすりと李斎は笑った。
「少し変な気分です」
背後で首を傾げたであろう驍宗に答える。
「背で手綱をとっていただいて鞍に掴まっていると、子供に戻った気がする。なんだか
初めて乗馬を教わった日のようで」
驍宗が小さく笑ったようだった。
「馬をお持ちだったか」
「父の軍馬です」
「なるほど」
穏やかな声が、背に暖かく感じられる。李斎はわずか首を傾けた。
「…少し駆けさせよう。ハっ」
獣は指示に従い、緩やかに速歩から駆け足へと移る。黄海と蓬山を隔てる牌門までは
下りの岩場がつづれ折りになって続く。門を出るまで騎獣は飛行できないが、それでも
すう虞は飛ぶように走る。妖魔が襲ってこないので、この門までの往復は騎獣の運動に
は恰好だ。
「お小さいころから、お転婆でいらしたか」
「はい、それはもう」
おどけて答えると、驍宗の楽しげな笑い声が返ってきた。
「驍宗殿は?いつから馬に乗られました」
「…馬は後だった。私は先に騎獣に乗ったので」
「騎獣、ですか?」
李斎は瞬いた。騎獣は高価で、成獣ばかりだから概して大きいし、気性も荒い。少な
くとも子供の教育には向いていない。李斎の疑問に驍宗が答えた。
「序学に通っていた頃、将軍の乗騎に乗ってみた。厩番の兵と顔なじみになって、休み
のたびにその男が遊びに出かける間、代わりに騎獣の世話をして、ついでに少々拝借し
た」
李斎は少し呆れながら聞いた。
「乗せてくれましたか」
「振り落とされた」
「お怪我は」
「あばらを二本折り申した」
李斎は目を丸くした。
「仙に、なられる前のことでしょう」
「いかにも」
「それで、どうなされた」
驍宗は悪びれず答えた。
「次の休みにまた乗った」
二人の笑い声が奇岩を行く風に乗って、たなびいた。
「…そんなこともあったか」
「ございました」
すう虞の背で二人は笑み交わした。
あのときと同じように、驍宗が背後から手綱を取っている。違うのは二人とも鎧をつ
けてはいないことだ。驍宗は冠に上げた髪をおさめ、李斎は臙脂色の絹の裳裾を風にな
びかせている。もっと違うのは、横乗りの李斎が驍宗にゆったりとその背を預けている
ことだろう。
風は黄海を行く夏の風ではない。北東の極国の丘に吹きつける、秋の風だ。
「寒くはないか」
「大丈夫です」
「手綱をとってみるか」
「いいのですか」
驍宗は笑んで、左手を替わらせた。そっと上から手を添える。
李斎は嬉しげに背を伸ばすと、短く声を掛けて、手綱をしならせた。賢く勇猛な獣は、
ゆるゆると速度を増す。
「…少し押さえよ。振り落とされても知らぬぞ」
「そのときは主上にいっしょに落ちていただきます」
「お転婆は一生治らぬか」
「はい、それはもう」
あの日乗った計都は、もういない。
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「撤回はきかぬぞ」
顔を見るなり、驍宗は言った。李斎は言葉をなくして、立ち止まった。李斎にとって
は青天の霹靂であった立后要請とその承諾から、一夜が明けて、翌日の午後だった。
正寝正殿の南に四容園という庭がある。下官の案内で、枯れた小さな滝壷を横切り、
奇岩の重なる上に建てられた広い路亭に近づけば、扁額には八覧亭と見えた。だが、現
在の庭はその名にふさわしいほどの景観は、とてもあるとは言いがたい。
そこで驍宗はひとり、茶を淹れているところであった。下官とともに、亭に上る石の
階(きざはし)の下で伏礼した後、立ち上がり、顔が合ったと思った瞬間に言われたの
が、「撤回はきかぬ」の一言である。
座るよう促された。李斎は、無言のまま、驍宗の向かいに腰掛けた。
驍宗は、見かけは無骨な手で、丁寧に茶を淹れ終ると、李斎にすすめた。
正式の来客の扱いである。
昨日と異なり、李斎は夏の官服であった。使いの者が、服装を改むるに及ばずと伝え
たからだ。此度、鴻基に戻って一度だけ閲兵して後は、朝議の席を除けば、王から召さ
れでもしない限り、李斎がもはや皮甲を着けないことを、驍宗は知っていた。
自分の托子を引き寄せると、驍宗がちらと視線を投げて笑みかける。
「昨日は、大儀」
言葉をかけられた瞬間、李斎はあやうくむせかけた。
どぎまぎと視線がふらつき、落ち着こうとするが、いっかなうまくいかない。
「あれから、戻ったのか」
「いえ。花影のところへ参りました」
李斎は正直に答えた。
「…寝ておらぬのか」
一睡もしていない。
「…わたしもだ」
苦笑気味の優しい声音に、李斎は不思議そうに顔を上げた。
「はい、…」
すぐに俯き、李斎は手のひらを官服のひざの上で開き、それをまた握った。
覚悟だけは固めてきた。ではいま少し、平常心を保てないものだろうか。
「今朝の、議堂での顔はなんだ。やはり断りたい、とでも言い出しかねぬ様子だったぞ」
どうやらその心配のないことを見て取ると、驍宗は、李斎をからかってみせた。
「そのようなことは…」
驍宗を恨めしげに見かけて、李斎はまた顔を急いで伏せた。さきほどから、そうなる
理由に自分で気がついており、余計に頬に血がのぼる。
頭でした決意には含まれなかった事が、えてして、現実には大きく場所を占める。
驍宗を前にして昨晩の抱擁が思い出される。一度は触れる覚悟をしたかと思えば、口
元は見るのさえはばかられた。
「それにしても、ひどい女だ」
「はい、…は?」
女、と言われることに李斎は馴れない。
「あれほどの大事を約させて、言い逃げする気であったのか」
――二度と民の目に何も隠さぬ、と、それを驍宗は李斎に誓った。
李斎は困ったように俯いた。李斎に約束を違える気はなかった。どこにあっても生き
ている限り、鴻基の高みにあるこの王を、そして彼の治政を見ているつもりだった。
「……死ぬる気でなければ、申しておりません」
李斎は小さな声で答えた。驍宗は眉を緩めた。
「うむ」
誰もしなかった諌言だった。どれほどの覚悟であったか、想像に難くない。だがその
わずか二日後に、彼女の辞表を読む羽目になった驍宗としては、安心した今、恨み言の
ひとつも言いたい。
「…あの日は、主上に心が通じたかのように思えたことが嬉しく、あのお約束を形見に
去るつもりでした」
「誰が去らせてなどやるか」
驍宗は顔をしかめて微笑んだ。
「七年待った。ようやく言い交わした。そなたもひとかどの武人であれば、己の判断に
は自信があろう。いかな即決でも、一度した決定には責任を持て」
数日前の安心ゆえにこみ上げた失望と怒り、そして誤解は、驍宗によって昨日その場
で速やかに払拭された。男として不足に思うかどうかの一点を判ぜよ、いまここで返答
せよとの、畳み掛けるような弁に、とっさに李斎は諾(うべな)った。
いかにも重く大きな即断ではあったが、一晩かけて冷静になったいま、李斎にそれを
覆す気持ちはもう、なかった。
「お気持ちはお変わりではないのでしょうか」
驍宗はぎらりと目を返した。
「今更か。――ない」
李斎は静かに背を伸ばすと頭を垂れた。
「では。改めてお受け致します」
驍宗は一瞬口をつぐんだ。目を細め、頬の筋肉が引き締まり、それから、頷いた。
「うむ」
彼は目を閉じ、開いたとき、穏やかな顔になっていた。
それから驍宗はてきぱきと実務的な話に移った。
「…先刻、朝議の後で冢宰と話した。花影がもう知っているのなら手間が省ける。秋官
と調整して、復位に助力いただいた各国に、相手がそなたであることを知らせた方が、
よかろうということになった。財政が財政ゆえ、臨席願うほどの儀式や祝宴は無理だろ
うが、正式な使者を立てる。それゆえ式はおよそ二月は先になる。秋だな。今日これか
ら、蒿里の後に冢宰も呼んである。そなたも同席するように。…どうした」
驍宗が顔をのぞきこむ。李斎は急いで首を引きながら、答えた。
「いえ…やはりずいぶんと大変なことになるのだと」
「極力、控えるようにする」
驍宗はやや苦い顔になる。
「だが、天官ははりきるだろう。王后が立つのは、連中には一大事だからな」
「…、」
覚悟し、想像はしていたのだが、その想像が及ばない。
「大して何もしてやれぬが、部屋が準備出来たら、移ってくれ」
王后は通常、北宮に住まう。だが、驍宗は後宮自体を閉め、李斎の住居は正寝に用意
すると言っていた。
「正寝の、どちらになるのでしょう」
一口に正寝といっても広い。だが驍宗は怪訝そうにした。
「長楽殿だ。私の部屋の続きに急いで手を入れさせよう。…それは、おいおい独立した
宮に、二人で移ることも考えぬではないが」
李斎は驚いた顔になった。それではまるで、当たり前の夫婦の住まい様と思える。
「…ともに、暮らすのでございますか」
「夫と妻はともに暮らすものだ。私は、李斎と暮らしたいのだ」
その言葉には実があった。
「不服か?」
ぼんやりしている李斎に、驍宗は聞いた。李斎は、かぶりを振った。
「毎日お会いできるのか、と」
やっと答えると驍宗は笑った。
「無論だ。嫁いでくればそうなる」
「……」
相手が王では、妻とか嫁などと言われても、どこかそぐわぬ気がしていたのが、どう
も、かなり現実味を帯びてきてしまった。
相手の住まいに移って生活を始めれば、仮に成人前で親の戸籍にあっても、それが娘
なら、嫁に行った、という言い方をする。夫と言い、妻とも普通に言う。里木に帯を結
ぼうとせぬ限りにおいて、婚姻であるか否かを、外部がもっとも厳密に評価するのは、
税の徴収時なのであり、それは社会通念と常には合致していない。そのため、例えば法
令に精通した者が法律用語として「野合」と言うときと、世間的な意味での「結婚して
いない」には、範囲に若干ずれがあった。
嫁に行く、というのは婚姻だけに限らず、生活を一にする事実婚や親の許可を得て婚
礼を行ったときにも別なく使われている表現の、代表的なものだった。
王がただひとりの伴侶を冊立する。それを立后という。王とはすでに戸籍を持たない
ものであるため、戸籍の統一を意味する婚姻という語を、用いない。それゆえか、通常
はあまり、嫁すとも言わないようだ。だが、いわゆる寵妃が後宮内に住居を賜った場合
は、宮城内に常住する職員らと同様に、国府にある里祠にその戸籍を移すのに異なって、
王后だけは、西宮に戸籍を移動させられる。西宮には王の里木(路木)がある、という
のが、その根拠であるらしい。
驍宗は、これから行われる李斎の戸籍の移動を、簡単に説明した。
李斎の戸籍は立后の儀式を待たず、瑞州内の所領から西宮へ移される。移動にあたっ
ては必ず理由が記載されるものだが、「立后」は本来、戸籍と無関係な用語のため使わ
れずに、――驍宗も初めて知ったことであったが――「神籍取得により除籍せらる者の
配偶者と成るに依り」と記された上、空欄である配偶者の欄に、王の本姓本名が入れら
れる。
地官でも知る者の少ない、戸籍法上の不思議のひとつであろう。即位後の立后とは、
手続きの上では死者との婚姻に限りなく近い。だが李斎はその、取り方によっては不吉
とも思える扱いを、むしろ、なにかふさわしいもののように感じ、厳粛な気持ちで受け
止めた。
このひとに、嫁ぐのだ。
李斎は、いまだ実感はないまま、そのことだけを確信してしまった自分をぼんやりと
思った。
誰かに嫁す日が来ようなど、思っていなかった。幼い時分は、母親の小言に辟易しつ
つも子供らしく不安になり、できることなら姉たちのようになれはすまいかと、どこか
にその願望があったようだが、大きくなるにつれ、忘れてしまった。
まして驍宗に嫁ぐなどとは…。
「いつから、李斎をご覧であったのでしょうか」
李斎の問いに、驍宗はこともなげに即答した。
「最初からだ」
「はぁ」
最初といえば、蓬山。一月以上も黄海を旅した後で、普段よりずっと日焼けしていた。
化粧せぬ顔に垂らした髪をかいやって、男物の普段着を着ていた自分しか思い出せない。
どうも納得がいかぬ顔の李斎に、驍宗は意地悪く尋ねる。
「李斎はどうだ」
「はい?」
「いつ私がそなたにとって男になったか、当ててみせようか」
「……え」
「どうせ、昨日だろう」
驍宗は愉快そうに言い、李斎は否定もできず、困って視線を外すと、わずかに肩口を
すぼめた。そのしぐさ自体は以前と変わらぬものなのに、どこかしとやかに女びている。
驍宗はそのような様子を、楽しく眺めた。
申し込んで一夜で、李斎は驍宗に恥じらいを見せるようになった。それがどうやら意
識もせず、そうなってしまうらしい。時おり多少は自覚するのか、とまどっているのも
いじらしく、驍宗の笑みは深まる。
昨日までの将軍が、己の伴侶となる婦人となって、そこに座っている。
「なにか?」
「いや、」
微笑んだまま首を振った。
驍宗は立ち上がり、路亭の欄干(てすり)に歩むと、
「来たようだぞ」
と、李斎を差し招いた。李斎が席を立つ。
二人で明るい庭園を見やれば、下官に導かれて、泰麒の細い姿が、滝壷の向こう側を
回ってくるのが見えた。
「あれが、どのような顔をするかな」
「それは…驚かれましょう」
報告するのが、少しばかり気恥ずかしく思われた。
「そうだな。さぞ驚くだろう」
驚いて、そしてきっと喜ぶだろう。驍宗は頷き、まぶしい光を受けて少し目を細めた。
李斎は、その驍宗の片頬と首筋のおくれ毛を見ている自分に気づくと、急いで視線を
庭に戻したが、瞬き、誰にも知られぬようそっと、上げた手で胸を押さえてみた。
内輪の慶事を明日に控えて、すっかりさびれていたこの戴の国の王宮は、控えめな喜
びをそこここに溢れさせ、祝意の暖かな空気の中で夜を迎えていた。
当直の官たちは、いつもは控えている府第の雪洞(ぼんぼり)を申し合わせたように
今日は全て灯した。燕朝を行く官吏たちは皆どこか楽しげで、顔見知りに出会えば「お
めでとうございます」と小さな声を掛け合って、笑顔を交わす。
明日は、夜番の者にだけ祝い酒が出され、仙籍にない王宮の下働きの者たちには、夕
餉の膳に一品多く付くことになっている。白圭宮の職員へのふるまいはそれで全部であ
った。他はいつも通りで、何の変化もない。
それでも皆がこの喜びを分け合った。明日、戴に王后が立つ。
唯一の賓客は、全く酒を嗜まないため、会食が済むと早々と掌客殿に――荒れ放題の
庭を抱えた本来の掌客殿ではなく、代りに用意された正寝の園林に臨む一角に――引き
取って行った。
夜半にこの主を追って到着するという景台輔への挨拶と宿舎への案内は、台輔の蒿里
と大司寇の花影に任せて、驍宗も自分の居室に引き取った。
夜着に着替え、しばらく書を見た後、驍宗は手もとの灯りを吹き消した。露台に出る
玻璃窓から月光が射し入り、床に長く窓枠の影を伸ばす。それを見やっていた驍宗は、
一度横になった臥台から滑り下りた。
露台には先客があった。驍宗の気配に振り返り、目を見開いた後、叩頭しようとして
思いとどまる。
「眠れぬのか」
聞くと、はい、と李斎は答えた。
「よい月でございます」
うむ、と驍宗は頷いた。外に出るとまるで昼間のように明るい。
「私もこの月に誘われた」
李斎を見つめて、驍宗はふと笑んだ。化粧をせぬ方がやはり李斎らしい、と思ったが
口にはしなかった。かわりに、少しは慣れたか、と聞く。李斎は困ったように首を傾け
た。
「中々、后妃らしくとは難しゅうございます。何しろ根が無骨者でございますから」
李斎はつとめて快活に笑み、肩を竦めた。后妃としての振る舞いを要求されることに
もまして、后妃として自分に何が出来るだろうかという悩みは、驍宗に相談する事では
ないような気がする。王から望まれることを王后が果たすのは、いわば当然の事、后妃
独自の果たすべき責とは、それとはどうも別なように思われる…。
「女官長は、口やかましかろう」
突然言われて、一心に考え込んでいた李斎はとっさに本音を出してしまった。
「はい。…あ、いえ」
急いで首を振る李斎に、驍宗は可笑しそうに言う。
「あの小言婆、よくぞ生き残っていてくれたものだ。融通のきかなさは天下一品、宮中
礼法の生き字引だ」
李斎は意外な言に、目を丸くした。
「ご存知の官だったのですか」
「無論だ。蓬山から帰って即位礼までに、何度口論したか覚えぬ。一挙手一投足注意さ
れるので頭にきて、つい怒鳴り上げたこともある」
「主上が、でございますか」
驍宗は頷いた。
「私が凄んで平気な者など、夏官でもそうはおらぬのに、あの女官長ときては眉ひとつ
動かさぬ。あまりに口うるさいゆえ、あるとき剣にちらと目をやったら、私を斬っても
礼式はなくならぬ、ときた。天晴れな女だぞ」
「そうでしたか…」
煙たいが清廉で、天官に珍しく裏表のない性格の官だとは、多くの部下を見てきた李
斎にもこの数日で分っていた。驍宗が、自身の経験で彼女をつけてくれたのだと知り、
李斎は嬉しかった。
「少し辛抱しろ。あれに教われば、そなたならば驚くほど短期で、ひととおりは后妃と
しての素養がつこう」
李斎ははい、と笑んで頷いた。私心のない教育係とはああいうものだろう。憎まれる
ほどに厳しくやかましく締め付けでもせねば、一通り育ち上がった大人など、そうそう
変わるものではないのだ…。
潮を含んだ緩やかな風に、白い夜着の袖がふくらんだ。右袖が翻りそうになるのを押
さえようとした左腕より早く、驍宗の腕が右袖を掴んでいた。
李斎は目を見開いた。
短いくちづけだった。驍宗は李斎を抱き寄せた腕をゆるめて、笑顔を向ける。
「我慢が過ぎて、もう限界だぞ。よくもここまで辛抱させたな。さすがは李斎だ」
李斎は状況を忘れ、ぽかんと驍宗を見上げた。
「…我慢しておられたのですか?」
驍宗は顔をしかめた。
「せぬ訳があるまい。承知してくれた女が目の前にいるのだぞ」
はぁ、と李斎はこの数日来、もう何度目になるか知れない、やや間伸びした声を出し
た。
「李斎の胸は大きいな」
唐突に言われ、李斎は瞬いた。そして頷く、
「それは、女でございますから」
それから驍宗の右手をしげしげと見る。
「なんだ?」
「いえ…主上でも女の胸など触られるのですね」
驍宗は置いた手をそのままに眉をわずか上げると、首を傾け、それから頷く。
「…男だからな」
はぁ、とまた李斎は呟いた。驍宗は楽しげな笑い声を上げた。
「好きな女の胸は勿論、触りたいとも」
おおらかに言うと、左胸に置いた手を放し、両の腕を回した。
「抵抗せぬのか」
李斎がしません、と答えると、驍宗は少しばかり人の悪げな顔をした。
「それは、大した進歩だ。求婚した日は、哀れをもよおすほどの怯え様だったが」
李斎は驍宗の胸に頭を凭せたままで言った。
「それで帰して下さったのですか」
「ついうかうかとな」
驍宗は思い出して苦笑した。警戒されるのが嫌で、もの慣れない花嫁が不憫で、つい
華燭まで待つなどと大見得きった。あげくこのざまである。
「何度も、あのとき帰して下さらなければ良かったのになどと思いました」
驍宗は眉を開いた。
「本当か」
李斎は小さく頷いた。主上は平気なのだと思っていた。正寝に上がって、驍宗が側へ
来るたび緊張する自分が馬鹿げて愚かに思えて、最後は悲しかった。
驍宗は幸福に溢れて微笑し、李斎を見た。
「部屋へ、行くか」
もう答えは分っている。
まさに頷こうとしたその瞬間、李斎の動きが止った。
あ、と小さく声を上げる。
「どうした」
驍宗が怪訝な表情で聞く。李斎は思いつめた顔を上げた。
「女官に言ってしまいました」
「何」
「明日まで主上のお渡りはない、と」
驍宗は目を瞬いた。そして口を開けると、息を吐いた。
「それは…まずいな」
「はい…」
李斎はほとんど泣きそうな顔をした。
驍宗は手を放した。
「どうでも、明日までは縁がないらしい」
驍宗は笑った。もう笑うよりない。李斎は恐縮し、ただ身を縮めるばかりであった。
露台は雲海に張り出ており、透き通った夜の水面に縮緬の波がよせる。今宵の月は清
かであった。
「――片腕貰うてまだ足りぬ、か…」
驍宗はぽつりと呟いた。え、と李斎が聞き返す。
「先ほどの会見で、そなたが来る前に、景女王が申されたことがある」
「景王が、何を」
「李斎は大事な友人ゆえ、必ず幸福にすると約束してくれ、と」
李斎は驚いて目を見開いた。驍宗は続けた。
「――できぬ、とお答え申し上げた」
驍宗は李斎を見ていた。彼女は驍宗の顔をしばし見つめた後、ゆっくり瞬くとやや目
を伏せて微笑した。小さく頷き、それから目を上げる。驍宗はそんな李斎に幽かな笑み
を返した。
彼は雲海を振り返った。月の影がその汀まで、白白と銀の道を示す。
ややあって驍宗は言った。
「天命尽きるまで、供を命じる…」
許せ、とは驍宗は言葉にしなかった。
「はい」
と、静かに李斎は答えた。
顔を見るなり、驍宗は言った。李斎は言葉をなくして、立ち止まった。李斎にとって
は青天の霹靂であった立后要請とその承諾から、一夜が明けて、翌日の午後だった。
正寝正殿の南に四容園という庭がある。下官の案内で、枯れた小さな滝壷を横切り、
奇岩の重なる上に建てられた広い路亭に近づけば、扁額には八覧亭と見えた。だが、現
在の庭はその名にふさわしいほどの景観は、とてもあるとは言いがたい。
そこで驍宗はひとり、茶を淹れているところであった。下官とともに、亭に上る石の
階(きざはし)の下で伏礼した後、立ち上がり、顔が合ったと思った瞬間に言われたの
が、「撤回はきかぬ」の一言である。
座るよう促された。李斎は、無言のまま、驍宗の向かいに腰掛けた。
驍宗は、見かけは無骨な手で、丁寧に茶を淹れ終ると、李斎にすすめた。
正式の来客の扱いである。
昨日と異なり、李斎は夏の官服であった。使いの者が、服装を改むるに及ばずと伝え
たからだ。此度、鴻基に戻って一度だけ閲兵して後は、朝議の席を除けば、王から召さ
れでもしない限り、李斎がもはや皮甲を着けないことを、驍宗は知っていた。
自分の托子を引き寄せると、驍宗がちらと視線を投げて笑みかける。
「昨日は、大儀」
言葉をかけられた瞬間、李斎はあやうくむせかけた。
どぎまぎと視線がふらつき、落ち着こうとするが、いっかなうまくいかない。
「あれから、戻ったのか」
「いえ。花影のところへ参りました」
李斎は正直に答えた。
「…寝ておらぬのか」
一睡もしていない。
「…わたしもだ」
苦笑気味の優しい声音に、李斎は不思議そうに顔を上げた。
「はい、…」
すぐに俯き、李斎は手のひらを官服のひざの上で開き、それをまた握った。
覚悟だけは固めてきた。ではいま少し、平常心を保てないものだろうか。
「今朝の、議堂での顔はなんだ。やはり断りたい、とでも言い出しかねぬ様子だったぞ」
どうやらその心配のないことを見て取ると、驍宗は、李斎をからかってみせた。
「そのようなことは…」
驍宗を恨めしげに見かけて、李斎はまた顔を急いで伏せた。さきほどから、そうなる
理由に自分で気がついており、余計に頬に血がのぼる。
頭でした決意には含まれなかった事が、えてして、現実には大きく場所を占める。
驍宗を前にして昨晩の抱擁が思い出される。一度は触れる覚悟をしたかと思えば、口
元は見るのさえはばかられた。
「それにしても、ひどい女だ」
「はい、…は?」
女、と言われることに李斎は馴れない。
「あれほどの大事を約させて、言い逃げする気であったのか」
――二度と民の目に何も隠さぬ、と、それを驍宗は李斎に誓った。
李斎は困ったように俯いた。李斎に約束を違える気はなかった。どこにあっても生き
ている限り、鴻基の高みにあるこの王を、そして彼の治政を見ているつもりだった。
「……死ぬる気でなければ、申しておりません」
李斎は小さな声で答えた。驍宗は眉を緩めた。
「うむ」
誰もしなかった諌言だった。どれほどの覚悟であったか、想像に難くない。だがその
わずか二日後に、彼女の辞表を読む羽目になった驍宗としては、安心した今、恨み言の
ひとつも言いたい。
「…あの日は、主上に心が通じたかのように思えたことが嬉しく、あのお約束を形見に
去るつもりでした」
「誰が去らせてなどやるか」
驍宗は顔をしかめて微笑んだ。
「七年待った。ようやく言い交わした。そなたもひとかどの武人であれば、己の判断に
は自信があろう。いかな即決でも、一度した決定には責任を持て」
数日前の安心ゆえにこみ上げた失望と怒り、そして誤解は、驍宗によって昨日その場
で速やかに払拭された。男として不足に思うかどうかの一点を判ぜよ、いまここで返答
せよとの、畳み掛けるような弁に、とっさに李斎は諾(うべな)った。
いかにも重く大きな即断ではあったが、一晩かけて冷静になったいま、李斎にそれを
覆す気持ちはもう、なかった。
「お気持ちはお変わりではないのでしょうか」
驍宗はぎらりと目を返した。
「今更か。――ない」
李斎は静かに背を伸ばすと頭を垂れた。
「では。改めてお受け致します」
驍宗は一瞬口をつぐんだ。目を細め、頬の筋肉が引き締まり、それから、頷いた。
「うむ」
彼は目を閉じ、開いたとき、穏やかな顔になっていた。
それから驍宗はてきぱきと実務的な話に移った。
「…先刻、朝議の後で冢宰と話した。花影がもう知っているのなら手間が省ける。秋官
と調整して、復位に助力いただいた各国に、相手がそなたであることを知らせた方が、
よかろうということになった。財政が財政ゆえ、臨席願うほどの儀式や祝宴は無理だろ
うが、正式な使者を立てる。それゆえ式はおよそ二月は先になる。秋だな。今日これか
ら、蒿里の後に冢宰も呼んである。そなたも同席するように。…どうした」
驍宗が顔をのぞきこむ。李斎は急いで首を引きながら、答えた。
「いえ…やはりずいぶんと大変なことになるのだと」
「極力、控えるようにする」
驍宗はやや苦い顔になる。
「だが、天官ははりきるだろう。王后が立つのは、連中には一大事だからな」
「…、」
覚悟し、想像はしていたのだが、その想像が及ばない。
「大して何もしてやれぬが、部屋が準備出来たら、移ってくれ」
王后は通常、北宮に住まう。だが、驍宗は後宮自体を閉め、李斎の住居は正寝に用意
すると言っていた。
「正寝の、どちらになるのでしょう」
一口に正寝といっても広い。だが驍宗は怪訝そうにした。
「長楽殿だ。私の部屋の続きに急いで手を入れさせよう。…それは、おいおい独立した
宮に、二人で移ることも考えぬではないが」
李斎は驚いた顔になった。それではまるで、当たり前の夫婦の住まい様と思える。
「…ともに、暮らすのでございますか」
「夫と妻はともに暮らすものだ。私は、李斎と暮らしたいのだ」
その言葉には実があった。
「不服か?」
ぼんやりしている李斎に、驍宗は聞いた。李斎は、かぶりを振った。
「毎日お会いできるのか、と」
やっと答えると驍宗は笑った。
「無論だ。嫁いでくればそうなる」
「……」
相手が王では、妻とか嫁などと言われても、どこかそぐわぬ気がしていたのが、どう
も、かなり現実味を帯びてきてしまった。
相手の住まいに移って生活を始めれば、仮に成人前で親の戸籍にあっても、それが娘
なら、嫁に行った、という言い方をする。夫と言い、妻とも普通に言う。里木に帯を結
ぼうとせぬ限りにおいて、婚姻であるか否かを、外部がもっとも厳密に評価するのは、
税の徴収時なのであり、それは社会通念と常には合致していない。そのため、例えば法
令に精通した者が法律用語として「野合」と言うときと、世間的な意味での「結婚して
いない」には、範囲に若干ずれがあった。
嫁に行く、というのは婚姻だけに限らず、生活を一にする事実婚や親の許可を得て婚
礼を行ったときにも別なく使われている表現の、代表的なものだった。
王がただひとりの伴侶を冊立する。それを立后という。王とはすでに戸籍を持たない
ものであるため、戸籍の統一を意味する婚姻という語を、用いない。それゆえか、通常
はあまり、嫁すとも言わないようだ。だが、いわゆる寵妃が後宮内に住居を賜った場合
は、宮城内に常住する職員らと同様に、国府にある里祠にその戸籍を移すのに異なって、
王后だけは、西宮に戸籍を移動させられる。西宮には王の里木(路木)がある、という
のが、その根拠であるらしい。
驍宗は、これから行われる李斎の戸籍の移動を、簡単に説明した。
李斎の戸籍は立后の儀式を待たず、瑞州内の所領から西宮へ移される。移動にあたっ
ては必ず理由が記載されるものだが、「立后」は本来、戸籍と無関係な用語のため使わ
れずに、――驍宗も初めて知ったことであったが――「神籍取得により除籍せらる者の
配偶者と成るに依り」と記された上、空欄である配偶者の欄に、王の本姓本名が入れら
れる。
地官でも知る者の少ない、戸籍法上の不思議のひとつであろう。即位後の立后とは、
手続きの上では死者との婚姻に限りなく近い。だが李斎はその、取り方によっては不吉
とも思える扱いを、むしろ、なにかふさわしいもののように感じ、厳粛な気持ちで受け
止めた。
このひとに、嫁ぐのだ。
李斎は、いまだ実感はないまま、そのことだけを確信してしまった自分をぼんやりと
思った。
誰かに嫁す日が来ようなど、思っていなかった。幼い時分は、母親の小言に辟易しつ
つも子供らしく不安になり、できることなら姉たちのようになれはすまいかと、どこか
にその願望があったようだが、大きくなるにつれ、忘れてしまった。
まして驍宗に嫁ぐなどとは…。
「いつから、李斎をご覧であったのでしょうか」
李斎の問いに、驍宗はこともなげに即答した。
「最初からだ」
「はぁ」
最初といえば、蓬山。一月以上も黄海を旅した後で、普段よりずっと日焼けしていた。
化粧せぬ顔に垂らした髪をかいやって、男物の普段着を着ていた自分しか思い出せない。
どうも納得がいかぬ顔の李斎に、驍宗は意地悪く尋ねる。
「李斎はどうだ」
「はい?」
「いつ私がそなたにとって男になったか、当ててみせようか」
「……え」
「どうせ、昨日だろう」
驍宗は愉快そうに言い、李斎は否定もできず、困って視線を外すと、わずかに肩口を
すぼめた。そのしぐさ自体は以前と変わらぬものなのに、どこかしとやかに女びている。
驍宗はそのような様子を、楽しく眺めた。
申し込んで一夜で、李斎は驍宗に恥じらいを見せるようになった。それがどうやら意
識もせず、そうなってしまうらしい。時おり多少は自覚するのか、とまどっているのも
いじらしく、驍宗の笑みは深まる。
昨日までの将軍が、己の伴侶となる婦人となって、そこに座っている。
「なにか?」
「いや、」
微笑んだまま首を振った。
驍宗は立ち上がり、路亭の欄干(てすり)に歩むと、
「来たようだぞ」
と、李斎を差し招いた。李斎が席を立つ。
二人で明るい庭園を見やれば、下官に導かれて、泰麒の細い姿が、滝壷の向こう側を
回ってくるのが見えた。
「あれが、どのような顔をするかな」
「それは…驚かれましょう」
報告するのが、少しばかり気恥ずかしく思われた。
「そうだな。さぞ驚くだろう」
驚いて、そしてきっと喜ぶだろう。驍宗は頷き、まぶしい光を受けて少し目を細めた。
李斎は、その驍宗の片頬と首筋のおくれ毛を見ている自分に気づくと、急いで視線を
庭に戻したが、瞬き、誰にも知られぬようそっと、上げた手で胸を押さえてみた。
内輪の慶事を明日に控えて、すっかりさびれていたこの戴の国の王宮は、控えめな喜
びをそこここに溢れさせ、祝意の暖かな空気の中で夜を迎えていた。
当直の官たちは、いつもは控えている府第の雪洞(ぼんぼり)を申し合わせたように
今日は全て灯した。燕朝を行く官吏たちは皆どこか楽しげで、顔見知りに出会えば「お
めでとうございます」と小さな声を掛け合って、笑顔を交わす。
明日は、夜番の者にだけ祝い酒が出され、仙籍にない王宮の下働きの者たちには、夕
餉の膳に一品多く付くことになっている。白圭宮の職員へのふるまいはそれで全部であ
った。他はいつも通りで、何の変化もない。
それでも皆がこの喜びを分け合った。明日、戴に王后が立つ。
唯一の賓客は、全く酒を嗜まないため、会食が済むと早々と掌客殿に――荒れ放題の
庭を抱えた本来の掌客殿ではなく、代りに用意された正寝の園林に臨む一角に――引き
取って行った。
夜半にこの主を追って到着するという景台輔への挨拶と宿舎への案内は、台輔の蒿里
と大司寇の花影に任せて、驍宗も自分の居室に引き取った。
夜着に着替え、しばらく書を見た後、驍宗は手もとの灯りを吹き消した。露台に出る
玻璃窓から月光が射し入り、床に長く窓枠の影を伸ばす。それを見やっていた驍宗は、
一度横になった臥台から滑り下りた。
露台には先客があった。驍宗の気配に振り返り、目を見開いた後、叩頭しようとして
思いとどまる。
「眠れぬのか」
聞くと、はい、と李斎は答えた。
「よい月でございます」
うむ、と驍宗は頷いた。外に出るとまるで昼間のように明るい。
「私もこの月に誘われた」
李斎を見つめて、驍宗はふと笑んだ。化粧をせぬ方がやはり李斎らしい、と思ったが
口にはしなかった。かわりに、少しは慣れたか、と聞く。李斎は困ったように首を傾け
た。
「中々、后妃らしくとは難しゅうございます。何しろ根が無骨者でございますから」
李斎はつとめて快活に笑み、肩を竦めた。后妃としての振る舞いを要求されることに
もまして、后妃として自分に何が出来るだろうかという悩みは、驍宗に相談する事では
ないような気がする。王から望まれることを王后が果たすのは、いわば当然の事、后妃
独自の果たすべき責とは、それとはどうも別なように思われる…。
「女官長は、口やかましかろう」
突然言われて、一心に考え込んでいた李斎はとっさに本音を出してしまった。
「はい。…あ、いえ」
急いで首を振る李斎に、驍宗は可笑しそうに言う。
「あの小言婆、よくぞ生き残っていてくれたものだ。融通のきかなさは天下一品、宮中
礼法の生き字引だ」
李斎は意外な言に、目を丸くした。
「ご存知の官だったのですか」
「無論だ。蓬山から帰って即位礼までに、何度口論したか覚えぬ。一挙手一投足注意さ
れるので頭にきて、つい怒鳴り上げたこともある」
「主上が、でございますか」
驍宗は頷いた。
「私が凄んで平気な者など、夏官でもそうはおらぬのに、あの女官長ときては眉ひとつ
動かさぬ。あまりに口うるさいゆえ、あるとき剣にちらと目をやったら、私を斬っても
礼式はなくならぬ、ときた。天晴れな女だぞ」
「そうでしたか…」
煙たいが清廉で、天官に珍しく裏表のない性格の官だとは、多くの部下を見てきた李
斎にもこの数日で分っていた。驍宗が、自身の経験で彼女をつけてくれたのだと知り、
李斎は嬉しかった。
「少し辛抱しろ。あれに教われば、そなたならば驚くほど短期で、ひととおりは后妃と
しての素養がつこう」
李斎ははい、と笑んで頷いた。私心のない教育係とはああいうものだろう。憎まれる
ほどに厳しくやかましく締め付けでもせねば、一通り育ち上がった大人など、そうそう
変わるものではないのだ…。
潮を含んだ緩やかな風に、白い夜着の袖がふくらんだ。右袖が翻りそうになるのを押
さえようとした左腕より早く、驍宗の腕が右袖を掴んでいた。
李斎は目を見開いた。
短いくちづけだった。驍宗は李斎を抱き寄せた腕をゆるめて、笑顔を向ける。
「我慢が過ぎて、もう限界だぞ。よくもここまで辛抱させたな。さすがは李斎だ」
李斎は状況を忘れ、ぽかんと驍宗を見上げた。
「…我慢しておられたのですか?」
驍宗は顔をしかめた。
「せぬ訳があるまい。承知してくれた女が目の前にいるのだぞ」
はぁ、と李斎はこの数日来、もう何度目になるか知れない、やや間伸びした声を出し
た。
「李斎の胸は大きいな」
唐突に言われ、李斎は瞬いた。そして頷く、
「それは、女でございますから」
それから驍宗の右手をしげしげと見る。
「なんだ?」
「いえ…主上でも女の胸など触られるのですね」
驍宗は置いた手をそのままに眉をわずか上げると、首を傾け、それから頷く。
「…男だからな」
はぁ、とまた李斎は呟いた。驍宗は楽しげな笑い声を上げた。
「好きな女の胸は勿論、触りたいとも」
おおらかに言うと、左胸に置いた手を放し、両の腕を回した。
「抵抗せぬのか」
李斎がしません、と答えると、驍宗は少しばかり人の悪げな顔をした。
「それは、大した進歩だ。求婚した日は、哀れをもよおすほどの怯え様だったが」
李斎は驍宗の胸に頭を凭せたままで言った。
「それで帰して下さったのですか」
「ついうかうかとな」
驍宗は思い出して苦笑した。警戒されるのが嫌で、もの慣れない花嫁が不憫で、つい
華燭まで待つなどと大見得きった。あげくこのざまである。
「何度も、あのとき帰して下さらなければ良かったのになどと思いました」
驍宗は眉を開いた。
「本当か」
李斎は小さく頷いた。主上は平気なのだと思っていた。正寝に上がって、驍宗が側へ
来るたび緊張する自分が馬鹿げて愚かに思えて、最後は悲しかった。
驍宗は幸福に溢れて微笑し、李斎を見た。
「部屋へ、行くか」
もう答えは分っている。
まさに頷こうとしたその瞬間、李斎の動きが止った。
あ、と小さく声を上げる。
「どうした」
驍宗が怪訝な表情で聞く。李斎は思いつめた顔を上げた。
「女官に言ってしまいました」
「何」
「明日まで主上のお渡りはない、と」
驍宗は目を瞬いた。そして口を開けると、息を吐いた。
「それは…まずいな」
「はい…」
李斎はほとんど泣きそうな顔をした。
驍宗は手を放した。
「どうでも、明日までは縁がないらしい」
驍宗は笑った。もう笑うよりない。李斎は恐縮し、ただ身を縮めるばかりであった。
露台は雲海に張り出ており、透き通った夜の水面に縮緬の波がよせる。今宵の月は清
かであった。
「――片腕貰うてまだ足りぬ、か…」
驍宗はぽつりと呟いた。え、と李斎が聞き返す。
「先ほどの会見で、そなたが来る前に、景女王が申されたことがある」
「景王が、何を」
「李斎は大事な友人ゆえ、必ず幸福にすると約束してくれ、と」
李斎は驚いて目を見開いた。驍宗は続けた。
「――できぬ、とお答え申し上げた」
驍宗は李斎を見ていた。彼女は驍宗の顔をしばし見つめた後、ゆっくり瞬くとやや目
を伏せて微笑した。小さく頷き、それから目を上げる。驍宗はそんな李斎に幽かな笑み
を返した。
彼は雲海を振り返った。月の影がその汀まで、白白と銀の道を示す。
ややあって驍宗は言った。
「天命尽きるまで、供を命じる…」
許せ、とは驍宗は言葉にしなかった。
「はい」
と、静かに李斎は答えた。
官府の紙に、小学の生徒のような文字が踊る。明朝の六朝議では、三将が自軍の現状
を報告するのである。苦闘の筆墨に微笑んだ驍宗に、李斎がそっと尋ねてみる。
「お読みになれますか」
「ああ。読める…」
顔を上げぬままの即答に、李斎の表情にはちらと一瞬、控えめながら得意の色がさす。
彼女は姿勢を正した。
「明日には浄書を提出します」
「うむ。よく間に合わせた。かなり苦労だった様子だが」
「はい。ですが、左手が遅いせいばかりとは申せません。元からこうした机仕事は大変
に苦手で、正直なところ、嫌々やっておりましたので」
しかめ気味の顔でそう答えると、快活に笑んだ。それは、昔と同じ顔である。
李斎は、別段、無理をしているわけではない。
彼女はとうに、自分の身体の現実から、寸毫目をそらしてはいない。そのうえで、残
された左手が、身体と周囲に折り合いをつける様を、日々楽しもうと決めていた。不器
用な左手に落胆せぬように努め、さげすむことを思わずに、その進歩を評価することに
していた。
生来の性質(たち)と、子供のように物事を楽しめる傾向を、今回の喪失にあっても
彼女は手放さなかった。このごろでは実際、楽しんでいることさえある。
この強さだ。と、驍宗は目を細めて、彼女を見る。
かつて驍宗は彼女を、夏の光の中で、彼女が人生における輝かしさの殆ど全てを持っ
ているときに、見初めた。
この女だ、と思った。
優れた才能と健康な体、それらをいかせる仕事がそろい、しかも仙であるかぎり老い
ることのない者が、自信に溢れ、強く朗らかでいられるのは、むしろ当然であるのかも
しれない。
だが人生は、本来が、失うものだ。
彼女は失い、驍宗も失った。彼らの戴は、それよりも、まだもっと多くを失った。そ
れは、けっしてあがなわれることのない損失だった。
死んでいった数十万の民の命。彼はその全てを背負い、ここまで衰えきった国と民を、
この先、命の果てまで背負う。
いま、覚束ない手蹟をもって淡々と、書面の作成を――おそらくは、彼女が将軍とし
て果たす、最後から幾番目かの仕事になるだろうそれを――、苦手だなどと笑いながら
こなしている姿に、驍宗は改めて、感慨と確信をもって、視線をそそいだ。
この女なのだ。と。
七年前は、いつかはと思った。いまは違う。どうでもすぐに、側に来てもらう必要が
ある。
しかしながら、まだ驍宗はそこに立っている。驍宗のなかで、既に当然のこととして
決定しているそれを現実にするには、まず李斎にとってはいまだ当然のことではないと
いう事実を、なんとかしなくてはならない。
驍宗は、彼にしては珍しく、逡巡して言葉を探し、そして切り出した。
「今日は、話をしたいと思って訪ねた」
「はい」
すでに聞く態勢で、緊張感を漲らせてこちらを見る李斎に、驍宗は眉を寄せ、傍らの
椅子に目をやって、掛けるよう、促した。
李斎は、驍宗の眼光に背を押されて、先に腰掛ける。驍宗が向かいの上座に袖を捌い
て座る。
「なんでございましょうか」
真正面から尋ねる李斎の顔には、仕事の文字しか見えぬ。驍宗は内心嘆息する。これ
では、七年前となにも変わらない。
「李斎は…」
「はい」
「――私に言いたいことは、ないか?」
誰か第三者が内実を承知で聞いたなら、頭を抱えたに違いない台詞を、大真面目に言
った後、驍宗は李斎を鋭い目つきで見据えた。
李斎は目を丸くして、驍宗を見返した。
「――申し上げたいこと、…で、ございますか」
李斎は瞬いた。あきらかに、当惑しているのだった。
「個人的に、なにか…いや、どんなことでもよいのだ、――私に言っておきたいことが
あるならば、この機会に聞きたいと思う。何なりと、言ってもらいたい」
李斎はまた目を瞬いた。そして、もう一度驍宗の顔を窺うように、見返す。
――このような、一対一の御下問をなさるために、主上御ん自ら、各府第をまわって
おられるというのだろうか…?それで、瑞州府へもお運びになられたのだろうか。
余人は知らず、それが驍宗であってみれば、忌憚のない意見を直に聴取するためなら
ば、ありえそうな気もする。
ふと、見つめ返していた李斎が、どこか、遠い表情のうちに、口を動かした。
「…どんなことでも…、」
うむ、と驍宗が頷く。
「どんなことでも、よい」
李斎は、驍宗を見た。その目に、甘やかな思いなど、微塵も映ってはいない。どちら
かといえば、悲壮な顔であった。
落ち着いてはいるが、表情は固く、幾分か血の気が引いている。向けられた射抜くよ
うな目の色に、驍宗はわずかに息を飲んだ後、やはりまともに、見返した。
「それでは、ひとつだけ、どうしても主上にお聞き頂きたいことがございます。…よろ
しいでしょうか」
驍宗は真顔で頷き、
「聞こう」
と低く言った。
李斎は背筋が震えたと思った。
浅くつばを飲み込み、一瞬だけ目を閉じてから、居住まいを正した。
彼女は、穏やかな口調で話し始めた。言葉は殆ど選ばなかった。時間が、ほかには物
音のない広い部屋に、さらさらと流れた。
驍宗は黙って、李斎の顔から目をそらすことなく、耳を傾けた。彼は相槌のかわりに、
目を据えたままごく浅く頷くよりほかは、身じろぎもしなかった。そして李斎も、ただ
の一度も、驍宗の厳しい眼差しに臆さずに、語り続けた。
それは、今日この日まで誰一人として、驍宗の前で行うことのなかった、――報告な
どではなく――主観的で率直な、意見の表明であった。
驍宗が王として、麒麟である台輔の様子に民意をはかっていた事実を、まず李斎は確
認した。そして、七年前のある日、驍宗自らが李斎に対して、その考えを明かしたこと
を覚えておられるだろうか、と問うた。
驍宗は短く、覚えている、と答えた。
李斎の目もとが、かすかだが、自分でも意識せずに和んだ。
寒い霜夜であった。夜更けてひとり、内殿の庭園内で途方に暮れていた李斎は、思い
がけず驍宗から声をかけられ、路亭に同席して、しばらくの間、話をしたのだ。
李斎の表情がまた固くなった。
「――あの日、主上は、台輔に見せない方がよいと思われることは、民にも見せるべき
でないと思う、と仰せになりました。私はそれに同意しました」
驍宗は再び無言で頷いた。李斎は続けた。
「ですが、それは間違いだったと、いまでは思っております」
せつな、目がまともに合う。どちらもそらさない。
李斎は声が震えないようにと努めながら、そのまま続けた。
「民の目からは、何も隠してはいけなかったのです…」
隠すこと自体が過ちだったのだ…。玉座を奪われたのは、驍宗の罪咎でないとしても、
あれだけは覆うべくもない非であった。しばらく前から、李斎は、そう考えるに到って
いた。
元来、疑問あらば声をあげるにやぶさかではない李斎であったが、それでも驍宗の過
ちを認めるのは、少なからず恐ろしかった。現に、鴻基を離れて幾年もの間、一度も考
えようとはしなかった。当時、偽王と戦う李斎にとって、それは考えてはいけないこと
だったのである。
正当な泰王から、阿選は玉座を奪い、民を虐げている。あまつさえこの非道に、天の
救済がない。驍宗に完全な正義と道があること、彼がいかなる落ち度もない立派な王で
あったことが、あの数年、李斎らの唯一の支えだったのだ。
李斎が、驍宗にもまた幾ばくかの落ち度はあり得たはずだ、という、言ってみれば当
然のことを口にしたのは、六年もが過ぎてからであった。泰麒の救出を巡り、蓬山へ向
かったときが、最初である。
ただ、相手への譲歩として口にしたそれは、まだ論戦の上の技術にすぎなかった。
そうして去年の夏の終り、蓬莱から戻った台輔の口から回想を聞き、その当時の心情
をうちあけられて、李斎は自分の考えから、もはや逃れられなくなった。
王は、ひとである。天さえ過つものを、ひとが過たぬはずもない。
彼女の王、驍宗もまた、過ったのだ。彼女は、それを認めた。
七年前の粛清に、李斎は参加していた。彼女が自分の目で見、秋官の長が親友であっ
たことから、その専門家としての法的見解をも聞いていた。だから李斎は、驍宗のした
ことが、規模が大で――処分された人数が非常に多く――、しかもきわめて短期間で行
われたため凄惨な様相を呈しはしたが、ひとつひとつは徹頭徹尾、合法であったことを
よく知っていた。
確かに、処刑が公開されなかったことだけは、どの国の通例とも異なっていた。だが
それ自体は、天綱のどこにも禁じられてはいない。地綱は改正してあった。つまり天に
も地にも、いかなる法の文言(もんごん)にも抵触してはいなかった。――それでも、
間違っていた。
先ほど驍宗に問われて李斎は、それを言う、生涯にもう二度とはない機会を得たのだ
と思った。
不興を買うのは覚悟の上であった。彼女が将軍であるのは、あとわずかな時間だった。
官として臣として、戴国と王のためにできることは、もう大して残されてはいない。
官を退くその前に、申し述べておきたいことが、確かに李斎にはあったのである。
泰麒から、恐ろしいことを耳に入れてくれたからこそ、阿選を信じたのだと告白され
たとき、自分がどう感じ、なにを考えたかを、李斎は淡々と語った。
そして最後に、驍宗に対して、どうか二度と、台輔の目から何も隠してはくれるな。
麒麟の目に映るのが民の恐怖だとの主上のお考えには、いまも心から敬服しており、正
しいものと信じる。ただ、あの目は、それを見せるかどうかではなく、麒麟を恐怖させ
てもなお、今すぐに為さねばならぬかどうかの基準とすべきだったのだ――。そう熱心
に、李斎は説いた。
ひよっとしたら驍宗はとうに悟り、得心していることであったかもしれない。だが、
それでも臣の誰かが言う必要がある、と李斎は思っていた。
李斎が話すのを終えたとき、驍宗はしばらくなにも語らなかった。
ややあって、彼は静かに口を開いた。
あのとき、と驍宗は言った。霜の夜の路亭でのことだ。
「考え深いそなたが、よくよくの思いで訴えただろうものを、私は説き伏せ、納得させ
てしまったのだったな」
「主上…」
向けられる目は常のように苛烈ではあったが、気配はけっして波立ってはおらず、む
しろ穏やかに凪いでいた。
李斎はその凪を見ていた。なぜだか、目を離せずに見ていた。
このまま、一生でも見続けたい光景だと、そんなことを思い、瞬きもしなかった。
よく分かった、と驍宗が低くかみ締めるように告げたとき、李斎は緊張が解けた勢い
で、自分が泣き出すのではないかと思った。ぐっとこらえて、俯いた。
「――二度と、民に隠すことだけはせぬ。そのことを、」
驍宗は言葉を切った。
「そなたに誓う」
李斎は顔を上げ、首を傾けて、驍宗を見た。
「……」
驍宗はしごく真面目な顔をしていた。
李斎はなにか言いかけて唇を動かしたが、声にはならなかった。
「きっと、約束する。……分かったか?」
驍宗の目を見たままで、李斎は思わず、黙って頷いていた。
驍宗はそれを見、自分も頷いた。頷いた後、はっきりと笑んだ。
この日驍宗は、まもなく李斎の仕事部屋を辞した。
李斎は驍宗を送って、机に戻らず、先ほどの椅子にまた掛けた。彼女はしばらく何も
せず、そこに座っていた。
それから李斎は、大机の上の、もうあらかた出来てしまった報告書の草案を脇へ押し
やって、官紙の反故を取り出し、考え考え別の下書きを始めた。わずか数行でそれを書
き終えると、今度は奏書に用いられる紙を引き出してきて、静かに墨をすった。
厚手の白い上質の紙には、丸い大きな子供ぶりの文字で、注意深く丁寧に、挂綬の允
許を請う、と、まず記された。
挂綬(けいじゅ)とは綬を解いてかけおく――すなわち、辞職の意である。
を報告するのである。苦闘の筆墨に微笑んだ驍宗に、李斎がそっと尋ねてみる。
「お読みになれますか」
「ああ。読める…」
顔を上げぬままの即答に、李斎の表情にはちらと一瞬、控えめながら得意の色がさす。
彼女は姿勢を正した。
「明日には浄書を提出します」
「うむ。よく間に合わせた。かなり苦労だった様子だが」
「はい。ですが、左手が遅いせいばかりとは申せません。元からこうした机仕事は大変
に苦手で、正直なところ、嫌々やっておりましたので」
しかめ気味の顔でそう答えると、快活に笑んだ。それは、昔と同じ顔である。
李斎は、別段、無理をしているわけではない。
彼女はとうに、自分の身体の現実から、寸毫目をそらしてはいない。そのうえで、残
された左手が、身体と周囲に折り合いをつける様を、日々楽しもうと決めていた。不器
用な左手に落胆せぬように努め、さげすむことを思わずに、その進歩を評価することに
していた。
生来の性質(たち)と、子供のように物事を楽しめる傾向を、今回の喪失にあっても
彼女は手放さなかった。このごろでは実際、楽しんでいることさえある。
この強さだ。と、驍宗は目を細めて、彼女を見る。
かつて驍宗は彼女を、夏の光の中で、彼女が人生における輝かしさの殆ど全てを持っ
ているときに、見初めた。
この女だ、と思った。
優れた才能と健康な体、それらをいかせる仕事がそろい、しかも仙であるかぎり老い
ることのない者が、自信に溢れ、強く朗らかでいられるのは、むしろ当然であるのかも
しれない。
だが人生は、本来が、失うものだ。
彼女は失い、驍宗も失った。彼らの戴は、それよりも、まだもっと多くを失った。そ
れは、けっしてあがなわれることのない損失だった。
死んでいった数十万の民の命。彼はその全てを背負い、ここまで衰えきった国と民を、
この先、命の果てまで背負う。
いま、覚束ない手蹟をもって淡々と、書面の作成を――おそらくは、彼女が将軍とし
て果たす、最後から幾番目かの仕事になるだろうそれを――、苦手だなどと笑いながら
こなしている姿に、驍宗は改めて、感慨と確信をもって、視線をそそいだ。
この女なのだ。と。
七年前は、いつかはと思った。いまは違う。どうでもすぐに、側に来てもらう必要が
ある。
しかしながら、まだ驍宗はそこに立っている。驍宗のなかで、既に当然のこととして
決定しているそれを現実にするには、まず李斎にとってはいまだ当然のことではないと
いう事実を、なんとかしなくてはならない。
驍宗は、彼にしては珍しく、逡巡して言葉を探し、そして切り出した。
「今日は、話をしたいと思って訪ねた」
「はい」
すでに聞く態勢で、緊張感を漲らせてこちらを見る李斎に、驍宗は眉を寄せ、傍らの
椅子に目をやって、掛けるよう、促した。
李斎は、驍宗の眼光に背を押されて、先に腰掛ける。驍宗が向かいの上座に袖を捌い
て座る。
「なんでございましょうか」
真正面から尋ねる李斎の顔には、仕事の文字しか見えぬ。驍宗は内心嘆息する。これ
では、七年前となにも変わらない。
「李斎は…」
「はい」
「――私に言いたいことは、ないか?」
誰か第三者が内実を承知で聞いたなら、頭を抱えたに違いない台詞を、大真面目に言
った後、驍宗は李斎を鋭い目つきで見据えた。
李斎は目を丸くして、驍宗を見返した。
「――申し上げたいこと、…で、ございますか」
李斎は瞬いた。あきらかに、当惑しているのだった。
「個人的に、なにか…いや、どんなことでもよいのだ、――私に言っておきたいことが
あるならば、この機会に聞きたいと思う。何なりと、言ってもらいたい」
李斎はまた目を瞬いた。そして、もう一度驍宗の顔を窺うように、見返す。
――このような、一対一の御下問をなさるために、主上御ん自ら、各府第をまわって
おられるというのだろうか…?それで、瑞州府へもお運びになられたのだろうか。
余人は知らず、それが驍宗であってみれば、忌憚のない意見を直に聴取するためなら
ば、ありえそうな気もする。
ふと、見つめ返していた李斎が、どこか、遠い表情のうちに、口を動かした。
「…どんなことでも…、」
うむ、と驍宗が頷く。
「どんなことでも、よい」
李斎は、驍宗を見た。その目に、甘やかな思いなど、微塵も映ってはいない。どちら
かといえば、悲壮な顔であった。
落ち着いてはいるが、表情は固く、幾分か血の気が引いている。向けられた射抜くよ
うな目の色に、驍宗はわずかに息を飲んだ後、やはりまともに、見返した。
「それでは、ひとつだけ、どうしても主上にお聞き頂きたいことがございます。…よろ
しいでしょうか」
驍宗は真顔で頷き、
「聞こう」
と低く言った。
李斎は背筋が震えたと思った。
浅くつばを飲み込み、一瞬だけ目を閉じてから、居住まいを正した。
彼女は、穏やかな口調で話し始めた。言葉は殆ど選ばなかった。時間が、ほかには物
音のない広い部屋に、さらさらと流れた。
驍宗は黙って、李斎の顔から目をそらすことなく、耳を傾けた。彼は相槌のかわりに、
目を据えたままごく浅く頷くよりほかは、身じろぎもしなかった。そして李斎も、ただ
の一度も、驍宗の厳しい眼差しに臆さずに、語り続けた。
それは、今日この日まで誰一人として、驍宗の前で行うことのなかった、――報告な
どではなく――主観的で率直な、意見の表明であった。
驍宗が王として、麒麟である台輔の様子に民意をはかっていた事実を、まず李斎は確
認した。そして、七年前のある日、驍宗自らが李斎に対して、その考えを明かしたこと
を覚えておられるだろうか、と問うた。
驍宗は短く、覚えている、と答えた。
李斎の目もとが、かすかだが、自分でも意識せずに和んだ。
寒い霜夜であった。夜更けてひとり、内殿の庭園内で途方に暮れていた李斎は、思い
がけず驍宗から声をかけられ、路亭に同席して、しばらくの間、話をしたのだ。
李斎の表情がまた固くなった。
「――あの日、主上は、台輔に見せない方がよいと思われることは、民にも見せるべき
でないと思う、と仰せになりました。私はそれに同意しました」
驍宗は再び無言で頷いた。李斎は続けた。
「ですが、それは間違いだったと、いまでは思っております」
せつな、目がまともに合う。どちらもそらさない。
李斎は声が震えないようにと努めながら、そのまま続けた。
「民の目からは、何も隠してはいけなかったのです…」
隠すこと自体が過ちだったのだ…。玉座を奪われたのは、驍宗の罪咎でないとしても、
あれだけは覆うべくもない非であった。しばらく前から、李斎は、そう考えるに到って
いた。
元来、疑問あらば声をあげるにやぶさかではない李斎であったが、それでも驍宗の過
ちを認めるのは、少なからず恐ろしかった。現に、鴻基を離れて幾年もの間、一度も考
えようとはしなかった。当時、偽王と戦う李斎にとって、それは考えてはいけないこと
だったのである。
正当な泰王から、阿選は玉座を奪い、民を虐げている。あまつさえこの非道に、天の
救済がない。驍宗に完全な正義と道があること、彼がいかなる落ち度もない立派な王で
あったことが、あの数年、李斎らの唯一の支えだったのだ。
李斎が、驍宗にもまた幾ばくかの落ち度はあり得たはずだ、という、言ってみれば当
然のことを口にしたのは、六年もが過ぎてからであった。泰麒の救出を巡り、蓬山へ向
かったときが、最初である。
ただ、相手への譲歩として口にしたそれは、まだ論戦の上の技術にすぎなかった。
そうして去年の夏の終り、蓬莱から戻った台輔の口から回想を聞き、その当時の心情
をうちあけられて、李斎は自分の考えから、もはや逃れられなくなった。
王は、ひとである。天さえ過つものを、ひとが過たぬはずもない。
彼女の王、驍宗もまた、過ったのだ。彼女は、それを認めた。
七年前の粛清に、李斎は参加していた。彼女が自分の目で見、秋官の長が親友であっ
たことから、その専門家としての法的見解をも聞いていた。だから李斎は、驍宗のした
ことが、規模が大で――処分された人数が非常に多く――、しかもきわめて短期間で行
われたため凄惨な様相を呈しはしたが、ひとつひとつは徹頭徹尾、合法であったことを
よく知っていた。
確かに、処刑が公開されなかったことだけは、どの国の通例とも異なっていた。だが
それ自体は、天綱のどこにも禁じられてはいない。地綱は改正してあった。つまり天に
も地にも、いかなる法の文言(もんごん)にも抵触してはいなかった。――それでも、
間違っていた。
先ほど驍宗に問われて李斎は、それを言う、生涯にもう二度とはない機会を得たのだ
と思った。
不興を買うのは覚悟の上であった。彼女が将軍であるのは、あとわずかな時間だった。
官として臣として、戴国と王のためにできることは、もう大して残されてはいない。
官を退くその前に、申し述べておきたいことが、確かに李斎にはあったのである。
泰麒から、恐ろしいことを耳に入れてくれたからこそ、阿選を信じたのだと告白され
たとき、自分がどう感じ、なにを考えたかを、李斎は淡々と語った。
そして最後に、驍宗に対して、どうか二度と、台輔の目から何も隠してはくれるな。
麒麟の目に映るのが民の恐怖だとの主上のお考えには、いまも心から敬服しており、正
しいものと信じる。ただ、あの目は、それを見せるかどうかではなく、麒麟を恐怖させ
てもなお、今すぐに為さねばならぬかどうかの基準とすべきだったのだ――。そう熱心
に、李斎は説いた。
ひよっとしたら驍宗はとうに悟り、得心していることであったかもしれない。だが、
それでも臣の誰かが言う必要がある、と李斎は思っていた。
李斎が話すのを終えたとき、驍宗はしばらくなにも語らなかった。
ややあって、彼は静かに口を開いた。
あのとき、と驍宗は言った。霜の夜の路亭でのことだ。
「考え深いそなたが、よくよくの思いで訴えただろうものを、私は説き伏せ、納得させ
てしまったのだったな」
「主上…」
向けられる目は常のように苛烈ではあったが、気配はけっして波立ってはおらず、む
しろ穏やかに凪いでいた。
李斎はその凪を見ていた。なぜだか、目を離せずに見ていた。
このまま、一生でも見続けたい光景だと、そんなことを思い、瞬きもしなかった。
よく分かった、と驍宗が低くかみ締めるように告げたとき、李斎は緊張が解けた勢い
で、自分が泣き出すのではないかと思った。ぐっとこらえて、俯いた。
「――二度と、民に隠すことだけはせぬ。そのことを、」
驍宗は言葉を切った。
「そなたに誓う」
李斎は顔を上げ、首を傾けて、驍宗を見た。
「……」
驍宗はしごく真面目な顔をしていた。
李斎はなにか言いかけて唇を動かしたが、声にはならなかった。
「きっと、約束する。……分かったか?」
驍宗の目を見たままで、李斎は思わず、黙って頷いていた。
驍宗はそれを見、自分も頷いた。頷いた後、はっきりと笑んだ。
この日驍宗は、まもなく李斎の仕事部屋を辞した。
李斎は驍宗を送って、机に戻らず、先ほどの椅子にまた掛けた。彼女はしばらく何も
せず、そこに座っていた。
それから李斎は、大机の上の、もうあらかた出来てしまった報告書の草案を脇へ押し
やって、官紙の反故を取り出し、考え考え別の下書きを始めた。わずか数行でそれを書
き終えると、今度は奏書に用いられる紙を引き出してきて、静かに墨をすった。
厚手の白い上質の紙には、丸い大きな子供ぶりの文字で、注意深く丁寧に、挂綬の允
許を請う、と、まず記された。
挂綬(けいじゅ)とは綬を解いてかけおく――すなわち、辞職の意である。
「そうだねぇ。たとえば、足湯をふるもうて頂いた」
「足湯(あしゆ)、でございますか?」
李斎は瞬いた。それはなに、と、氾麟が足をぶらぶらさせながら、向こうの椅子から
聞いてくる。どこかで蝉が鳴き始める。
午後の蘭雪堂には、午睡を終えた氾王が現れて、そのまま、六年前の思い出語りなど
している。
李斎は少女に、寒さの厳しい戴での冬の習慣だと簡単に説明した。氾王は頷く、
「夜、寝所に、こればかりの陶器の盤を…」
と、王は白い扇子の動きで、大きさを示した、
「なかなかにしゃれたものだったよ。くすみのある地色に釉薬が効いていて、白のまだ
らの浮き出た…きっとあれは、水盤などではなかったのだろうねぇ。それを深夜あまり
に寒くて眠れないでいると、心のきいた――あれも女史か何かだろうよ、――四十前の
口数の少ない女官に運ばせて。その者が焼いた石をいくつか放り込んで、その場で黙っ
て熱い湯をつくってくれたのだけれど、足を浸していると、すっかり汗が出るほども温
まってね。そうしたらすぐに、よく乾いた寝間着の替えが出されてきて、おかげで朝ま
で、ぐっすりと眠れたのだよ…」
氾は、実際にそのときの心地よさを思い返すように、うっとりと小さく息をつき、満
足げに微笑んだ。
「……」
氾のいう「よいもてなし」が、贅を凝らし、ただ費用をかければ出来る、という水準
とは、どうも相当にかけ離れた贅沢さを要求している、ということが李斎にも、なんと
なく理解できてきた。
実際、氾王が語ったことは、どれも、どちらかといえば、李斎が育ったようなごく一
般の家で泊り客をもてなすときにでも通じる、いわゆる心配りが中心で、決して特別な
ことでもなければ、大して費(つい)えのかかることでもなかった。ただ、それを、こ
の十二国きっての趣味人の目に適うように演出する工夫を、驍宗はどうやら心得ていた
ものらしい。
対するに、先の王は、平凡といえばそれまでだが、工夫のない人間であったようで、
しかも、なまじある財力が、それを一層悪いほうに昂じさせてしまう類の人物だった。
驍宗があの六年前、氾王の滞在した部屋に、名笛一管を届けさせ、それには、音曲が
お好きな王を十分におもてなしできず誠に申し訳ないが、戴の夜は風が強いゆえ、お部
屋内のつれづれには風と奏していただければ幸い至極、との、いささかぶっきらぼうな
口上が添えられていた、という話をした後、氾王は、驕王を引き合いに出した。
「私が楽を好む、という話を予め手にしても、これほどに出方が違うのだからねぇ」
氾王が回想する。
「もうずいぶんと昔の夏、あの王宮に泊まったおり、開け放した窓に、夜中園林の奥か
ら、琴の音がした。宮中の楽士のひとりが、客がいるとは知らず竹林で練習していたの
だけれど、なまじ完成されたものでなく、繰り返し弾くのが、かえって風雅でね。なん
ともいい音だった。翌朝、あれは誰か、と当時の泰王に問うてみたのだが、あのばか者、
調べて即刻、その男を免職にしてしまったそうな」
「ああ。いまの楽士長ね」
氾麟が口をはさんだ。李斎が、え、と振り返る。
「所属は正式には冬官で、いまじゃ範国一の六弦琴を造るわ。そのときに主上が、城下
に人を残して探させて、範に連れてって楽士に召したのよ。ね」
氾の方を見ると、すました顔をしている。
「それをどうやら後に、耳に入れたものがあったらしい。それから十何年もして、次に
戴に行けば、朝から晩まであらゆる部屋が、楽でうるさいばかりじゃ。しかも、宴席で
は庭に面した扉を全部開けて、庭先で楽士たちに演奏させたのだよ。冬の初めだもの、
いくら部屋を暖められても、雪の上で演奏させられる楽士らを、見ているだけで食事を
する気などは失せて、途中で立って、そのまま範へ帰ったよ」
一事が万事、というが、これでおよそ、先の王のもてなしの姿勢が知れようというも
のである。よかれと思って、おおはしゃぎで思いつく限りのことをやった王は、この徹
底した趣味人の前に、むしろ哀れを誘うが、それでも、その為人は、余りに貧しい。
飾りや服装の趣味については、天分ということがある。自身、装いにさほど執着しな
い李斎は、氾王の手厳しい驕王評に、幾分かは同情的だったのだが、この冬の宴席の話
には、少し考えさせられた。
彼女はついに一度も、彼女が生まれたときから玉座にあった、この前王を見なかった。
李斎が成長したころ、国はまだ平穏に思われた。ごくたまに起こる内乱は、常に他州の
ことであり、税は話題に上るほどには重くなく、総じて戴は平和であった。
だが、彼女が州城の高みで生活しはじめた頃から、じわじわとしかし確実に国は傾い
ていった。それは二度と持ちなおすことはなかった。誰の目にも狂いが見えていても、
ただの一度も上向かずに、そのまま、和元二十二年までを、静かに落ちきっていったの
だ。
当時の民は、どんな王朝の終末でもそうであるように、道を失った王を憎んだ。李斎
も勿論、憤った。その失い方が、過度の浪費という見えやすいものであったために一層、
遠からず沈む王に対して、ひたすらやりきれない怒りと苛立ちを皆が向けた。
だが李斎は、当時それからの驕王後の戴を、一度も考えてみなかったように、自分が
長く戴いた前王を、一度も人間として考えてみたことがなかったと、いま、気がついた。
そうだ、王はひとなのだ。神の籍に入っても、心が神になるわけではない。
もとは只のひとでしかない。
彼はおそらく、無邪気なほどに無神経なところがあり、権威に対して卑屈であり、し
かもそれらに対する羞恥心を、長い在位で次第に鈍磨させていったのだろう。
ある日突然玉座についた小人物は、小人物ゆえの生真面目さで、自分に与えられた仕
事を間違うまいとした。彼は、前例を徹底的に重視し、前例にないことを嫌った。
法に従い、礼に(これは儀礼にといったほうが正しいかもしれないが)厳格だった。
過誤と変革を極端に嫌い、細心の注意を払って、国の政を行った。
そして。それほどまでに立派に王の職分を朝において果たす代価として、燕寝におけ
る、王なればこその贅沢を極めた私生活を要求した。要求はかなえられた。だがひとの
欲望には限りがない。所詮ひとは人間である己の内に起こる欲求を制しなければ、生き
られない。それにしくじれば、必ず滅びる。それはなにも、王には限らない。
だが、神の位に上ったために、彼は己を制するものを、もはや己自身しか持たなかっ
た。心弱い、小人物の己より、他にはなにも持たなかった。麒麟の病は、多くの場合、
遅い警告もしくは告知としての役しか果たさないものである。
驍宗は。と、とっさに思いはそこへ行った。
主上は、どうだったのだろうか。極みに登る前から、見知っていた。それは短い時間
だったが、噂通りのいや、それ以上の優れた人物だったのは確かである。人間の器の出
来の違いというなら、確かに彼は只者ではなかった。
王になって、一層それは顕著に見えた。彼は強い人物だった。
それでも、彼はひとだったのだ……。
「疲れたのではないかえ」
優しい声音に、李斎ははっと我に返った。いえ、とそれが最近は癖にでもなったかの
ように、軽く左手で胸を押さえる。
藤棚の緑は陽光を透かしている。その影はもう幾分か奥へと伸びていた。金波宮の夏
の一日は、いま最も暑い時間を迎えている。
「無理はせぬことだ。もうしばらくすれば、小猿も戻ってまいろ。見つかったときには、
必ずとんで知らせにやるゆえ、一度、戻って休みなさい」
素直に李斎が立つのを、氾は軽く頷いて見やりながら、自分も立つと先に扉に歩んだ。
そうすることで、まだ動きの覚束ない病み上がりの李斎に、伏礼の労をとらせることを
避ける。その心遣いがもったいなく、李斎はただ、小さく黙礼する。
黒のほうが似合うね、と氾が微笑んだ。李斎が目を上げ首を傾けると、氾王はその視
線を受けて、李斎の背後へ流した。
ああ、と李斎が笑む。氾王は、たった一度戴であったおり、李斎がその赤茶の髪につ
けていた、漆黒の飾りのことを言ったのだ。
「あれは、借り物です」
「そうだったのかえ」
趣味人の王は、ただはんなりと笑った。
李斎の姿が回廊を曲がって行き、庭柯の向こうに消えるのを、ひらひらと手をふって
見送ると、黄金色の少女は、肩を落としてため息をついた。
「どうしたね」
「――すでに泰王が目をお留めの御品であったゆえ、あきらめた。そう、おっしゃって
ましたわよね」
見上げる麒麟の目に、ちらと視線を下した氾は口元に扇子を当てた。
「さて。覚えておらぬが。なんのことかえ」
「さぁ。なんのことでございましょう」
麒麟もにっこりととぼける。
風が渡った。氾は袖を捌き、ふうわり、と白いその扇子を下す。
「いかが巡ろうと、余人の手に収まることはあるまいよ。磨き手は、とうに決まってお
るのだもの…」
声が、静かに庭に落ちた。
部屋のすぐ外で、ぼそぼそと話す声がする。
それはあの背の高い、若い方の下官だろう。先刻頼んでおいた資料が、もう揃ったと
みえる。現在李斎の周りにいる軍吏たちは、どの官も無愛想なくらい口数が少なくて、
仕事が速い。
三軍しか存在しない王師で、瑞州師中軍は事実上の第三軍に昇格している。その中軍
の運用を軌道にのせるため、瑞州府の一室で書類業務に忙殺される隻腕の将軍を、みな
よく補佐してくれていた。
背後で扉が開いたが、李斎は振り返らない。
入るなり、思わず立ち止まってしまったらしい気配に、彼女は、背を向けたまま小さ
く苦笑した。
この二日李斎は、明日の朝議が期限の、中軍の現状に関する報告書の作成に追われて
いる。
なのに大机は、書類が一面に広がり筆が置かれたままで、空席。部屋の主の李斎はと
いえば、扉から正面の窓に向いて仁王立ちになり、盛んに体を曲げては、体側を引き伸
ばしているところなのだった。
――いきなり見れば、驚くだろうな。
「御苦労。――その脇の卓(つくえ)に置いてくれ」
無言で紙の束を下す音がする。李斎はこの際、恥のかきついでとばかり、声をかけた。
「すまないが。こちらへ来て、ちょっと手を貸して貰えると、有り難いんだが」
官服の衣擦れが、割合素直に、李斎の背に歩み寄る。
李斎は背後の彼に、右腕の残された部分を袖の上から示すと、後ろから持ってくれる
ようにと、頼んだ。
「もっと、しっかりと掴んでくれていい。そうだ。そのまま引き気味に、呼吸に合わせ
て五拍で曲げ、元の位置まで四拍で戻す――やってみてくれないか。まず、左から…、
一、…二、…――五、ゆっくり戻して――四、そう。――…次は上に。一、…」
ひとりでもやれないことはないが、どうしても右腕の長さと重量が欠けている分、左
右均等には負荷をかけられない。こうして誰かの手を借りれば、肩回りも上腕も、十分
に伸ばすことが出来る。
李斎はこの運動を、官邸で毎晩欠かさず行っており、昨日今日は、仕事場でも数回、
自分でやっていた。
「さすがに、慣れない左手の書きものがこうも続くと、背中がひどく固くなってしまっ
て…」
言訳すると、李斎は気分よさげに大きく息を吐いた。
こうした身体各部の引き伸ばしは、鍛錬の補助として大抵の武人が日々している。し
かしこの文官は、武芸などよく嗜むのでもあろうか、思いがけず要領良く的確に李斎の
短い方の腕を、筋の方向にそって、上手に曲げ伸ばす。身長もちょうど良かった。
一周がすむと、もう二周りを頼んでおいて、李斎は軽く目を閉じた。
本当に気持ちが良い。
「…どうやら、明朝に間に合いそうだ。泊りの官を三人、手配しておいてくれ。私の悪
筆をあれだけ浄書するのは、徹夜仕事になるだろうから…」
返事がすぐに返らないので、やや訝ったのもつかの間、太い声が落ちた。
「うむ。それは後で、下官に言え」
李斎は瞬間、目を見開き、そこで固まった。思考も一旦、止まる。
「……」
事態を飲み込むや、冷や汗が一気に噴出している李斎をよそに、背後の人間は悠々と
言葉を続けた。
「止まるな。まだ終っておらぬ。それ、四…五、戻すぞ、…一、…」
李斎は深呼吸するどころではない。蚊の鳴くような声で、あえぎあえぎ、頼んだ。
「お願いで…ございますから、主上…、」
「なんだ。――もっと力を抜かぬと、効果がなかろう。次は上だな」
お離し下さい、の声が出せずに、あちら向きで半べそ顔の李斎は、驍宗にしっかり左
肩を固定されたまま、右腕を今度は上にと引き伸ばされる。
「こんなことをいつも下官にさせておるのか」
頭のすぐ後ろで驍宗の声が、やや不満気に響く。
李斎の耳には、その声の裏にある本音などは、まるで聞こえていない。
こともあろうに、主君を下官と間違えた上、本来役所の人間にさせてもどうかという、
運動の補助など、やらせてしまった。否、たった今も、させているのだ。畏れ多い、な
どいうやさしいものではなかった。
「申し訳もございません……」
声は、消え入りそうに細る。実際、消えたい気分の李斎である。
「なにがだ」
「主上に、このような…」
「私ならば一向かまわぬ」
「はぁ…あの、ですが」
主上だからこそ、大いに困っている李斎は口篭もる。驍宗は舌打ちして、李斎の腕を
握りなおし、肩をたたく。
「力を抜かぬか。せっかくほぐれたものが、固まるぞ」
返事に困り答えない李斎を、今度は、少し優しげな声が促す。
「あと一周だ。よいから。黙って力を抜いていろ」
「………」
李斎は、観念した。
苦労しながら息を整えると、雑念を――これほどの無礼を雑念、としてよいかはとも
かく――、一時頭から締め出した。そして、再び背中をまっすぐ伸ばし、背後の男に腕
を預けて、大きく息を吐く。
驍宗は黙って笑んだ。そして、静かに、腕の曲げ伸ばしをまた始めた。
部屋にはしばらく、二人の呼吸だけが聞こえる静寂が降りた。
実際のところ、李斎との会話を欲して、口実を設けてまで非公式に瑞州府に足を運ん
だ驍宗であった。泰麒がちょうど席を外していた州侯官房(執務室)の控の間に、連れ
てきた供を置くと、先触れも連絡もなしにこの部屋の前まで来て、書類を抱えた下官と
行き会った。
扉を開けたのは、件の下官から李斎に渡す資料を取り上げた、驍宗本人である。
入ってみれば、李斎はなにやら体操の真っ最中で、振り返りもしない。そのまま成り
行きで、これほどの接近となった。この彼としてはいたずら気を起こした結果は、少な
からず楽しくさえあっても、不愉快であるはずがない。
たとえ色気とはまるで無縁の単なる体操の手助けであろうと、ほとんど彼女の背につ
く位置に立ち、顔の前に赤絹の髪が香っており、両手で彼女に触れて、その深い息遣い
を耳にしている。
そうした希いも当然あったはずだが、不思議と、このまま抱き締めたい、などという
思いが涌かなかった。ただ、二人きりの部屋でこの距離で、このように穏やかな時間を
持ち得ている現実が、彼を静かな幸福で満たした。
李斎も李斎で、奇妙に落ち着いてしまった。
彼女は、自分が右の残肢を最前から、ずっと驍宗に触れさせていたのだということに
気がつくと、そのことに大いに驚いた後で、唐突に、一種の安心とでも言うべきものを
覚えたのだ。
驍宗は一度も、彼女の腕に言及したことが、ない。
そもそも、腕を失ったことなどは、見れば知れる。見(まみ)えたとき、彼は李斎に
それを一語も聞かず、彼女も言わなかった。ただ驍宗は、背の伸びた己の麒麟と片腕と
なっている女将軍に向き合ったとき、ひたとその姿を見つめ、黙って彼らを強く抱き寄
せると、たった一言、「苦労をかけた」とつぶやいた。
短いその言葉に、王は彼らの苦難の歳月を、万感こめてねぎらった。そして、その後
いかなるときも、驍宗は一切、過去に関わる所感を口にしていない。不在の間のあらゆ
る報告に際しては常に、そうか、とだけ述べた。
李斎は、それで十分に納得していた。それ以上は、考えもしなかった。だが彼女以外
の人々はそうではなかった。
彼女はいまや、救国の英雄だった。
側にあり、その為人をよく知る者らこそ声を控えたが、李斎本人から遠去かるほどに、
彼女が右腕を、ひいては武人としての生命を、戴と驍宗にささげたのだ、という、好意
に満ちた賞賛の嵐は、李斎の内実を無視して大に過ぎ、さしもの彼女を憂鬱にすること
があった。
まして、それが当然であるかのように、驍宗は彼女に報いるだろう、勿論報いねばな
らぬという声の起きるにいたっては、困惑せざるを得なかった。
こうした雑音は、気にすまいと思いながらも彼女を過敏にした。今日まで李斎はどこ
かで、驍宗から彼女の右腕を気にかけられるのを、恐れていたのだ。
驍宗は、まったく動じなかった。いまもそこに手を添えて呼吸に合わせて数を数え、
同じくそっと滑らせるように支えては、もとの位置へと持ってくる。呼吸の乱れも、緊
張もない。
布越しに感じる大きな手の温もりに、恐縮しながらも、李斎は安堵した。すると非常
に嬉しくなってきた。我知らず笑みさえ浮かび、そしてつぶやく。
「――やはり、小そうございます」
「いや。そんなことは…、―――何がだ?」
肩越しに見下ろしていた驍宗が、気づいて問いなおした。李斎はちょっと首を傾けた
が、答えた。
「人間の器量、です。分かっていたつもりですが、李斎などは到底、主上の足元にも及
びません…」
「そうか…」
首を傾け眉を寄せて答え、驍宗は咳払いした。
最後に腕を回し終えた四拍めで息を大きく吐くと、李斎は驍宗を振り返った。真直ぐ
に王を見て、礼を述べる。
朝議の席でこそ、毎日会っていたのだが、そのすっきりとした屈託のない表情をこれ
ほど近くで見るのを、驍宗はずいぶんと久しぶりだと感じた。
驍宗は、満ち足りた気分になり、大層素直な微笑を、その顔に返した。
そうすると、なにかひどく面映くなってきたので互いにおかしくて、ふたりともくす
くすと笑った。李斎は言葉を省略し、とうとう無礼を謝らなかった。また、驍宗も誤解
をそのままにした詫びは省いた。右腕に触れたことも、触れられたことも、やはりどち
らも言わなかった。
「足湯(あしゆ)、でございますか?」
李斎は瞬いた。それはなに、と、氾麟が足をぶらぶらさせながら、向こうの椅子から
聞いてくる。どこかで蝉が鳴き始める。
午後の蘭雪堂には、午睡を終えた氾王が現れて、そのまま、六年前の思い出語りなど
している。
李斎は少女に、寒さの厳しい戴での冬の習慣だと簡単に説明した。氾王は頷く、
「夜、寝所に、こればかりの陶器の盤を…」
と、王は白い扇子の動きで、大きさを示した、
「なかなかにしゃれたものだったよ。くすみのある地色に釉薬が効いていて、白のまだ
らの浮き出た…きっとあれは、水盤などではなかったのだろうねぇ。それを深夜あまり
に寒くて眠れないでいると、心のきいた――あれも女史か何かだろうよ、――四十前の
口数の少ない女官に運ばせて。その者が焼いた石をいくつか放り込んで、その場で黙っ
て熱い湯をつくってくれたのだけれど、足を浸していると、すっかり汗が出るほども温
まってね。そうしたらすぐに、よく乾いた寝間着の替えが出されてきて、おかげで朝ま
で、ぐっすりと眠れたのだよ…」
氾は、実際にそのときの心地よさを思い返すように、うっとりと小さく息をつき、満
足げに微笑んだ。
「……」
氾のいう「よいもてなし」が、贅を凝らし、ただ費用をかければ出来る、という水準
とは、どうも相当にかけ離れた贅沢さを要求している、ということが李斎にも、なんと
なく理解できてきた。
実際、氾王が語ったことは、どれも、どちらかといえば、李斎が育ったようなごく一
般の家で泊り客をもてなすときにでも通じる、いわゆる心配りが中心で、決して特別な
ことでもなければ、大して費(つい)えのかかることでもなかった。ただ、それを、こ
の十二国きっての趣味人の目に適うように演出する工夫を、驍宗はどうやら心得ていた
ものらしい。
対するに、先の王は、平凡といえばそれまでだが、工夫のない人間であったようで、
しかも、なまじある財力が、それを一層悪いほうに昂じさせてしまう類の人物だった。
驍宗があの六年前、氾王の滞在した部屋に、名笛一管を届けさせ、それには、音曲が
お好きな王を十分におもてなしできず誠に申し訳ないが、戴の夜は風が強いゆえ、お部
屋内のつれづれには風と奏していただければ幸い至極、との、いささかぶっきらぼうな
口上が添えられていた、という話をした後、氾王は、驕王を引き合いに出した。
「私が楽を好む、という話を予め手にしても、これほどに出方が違うのだからねぇ」
氾王が回想する。
「もうずいぶんと昔の夏、あの王宮に泊まったおり、開け放した窓に、夜中園林の奥か
ら、琴の音がした。宮中の楽士のひとりが、客がいるとは知らず竹林で練習していたの
だけれど、なまじ完成されたものでなく、繰り返し弾くのが、かえって風雅でね。なん
ともいい音だった。翌朝、あれは誰か、と当時の泰王に問うてみたのだが、あのばか者、
調べて即刻、その男を免職にしてしまったそうな」
「ああ。いまの楽士長ね」
氾麟が口をはさんだ。李斎が、え、と振り返る。
「所属は正式には冬官で、いまじゃ範国一の六弦琴を造るわ。そのときに主上が、城下
に人を残して探させて、範に連れてって楽士に召したのよ。ね」
氾の方を見ると、すました顔をしている。
「それをどうやら後に、耳に入れたものがあったらしい。それから十何年もして、次に
戴に行けば、朝から晩まであらゆる部屋が、楽でうるさいばかりじゃ。しかも、宴席で
は庭に面した扉を全部開けて、庭先で楽士たちに演奏させたのだよ。冬の初めだもの、
いくら部屋を暖められても、雪の上で演奏させられる楽士らを、見ているだけで食事を
する気などは失せて、途中で立って、そのまま範へ帰ったよ」
一事が万事、というが、これでおよそ、先の王のもてなしの姿勢が知れようというも
のである。よかれと思って、おおはしゃぎで思いつく限りのことをやった王は、この徹
底した趣味人の前に、むしろ哀れを誘うが、それでも、その為人は、余りに貧しい。
飾りや服装の趣味については、天分ということがある。自身、装いにさほど執着しな
い李斎は、氾王の手厳しい驕王評に、幾分かは同情的だったのだが、この冬の宴席の話
には、少し考えさせられた。
彼女はついに一度も、彼女が生まれたときから玉座にあった、この前王を見なかった。
李斎が成長したころ、国はまだ平穏に思われた。ごくたまに起こる内乱は、常に他州の
ことであり、税は話題に上るほどには重くなく、総じて戴は平和であった。
だが、彼女が州城の高みで生活しはじめた頃から、じわじわとしかし確実に国は傾い
ていった。それは二度と持ちなおすことはなかった。誰の目にも狂いが見えていても、
ただの一度も上向かずに、そのまま、和元二十二年までを、静かに落ちきっていったの
だ。
当時の民は、どんな王朝の終末でもそうであるように、道を失った王を憎んだ。李斎
も勿論、憤った。その失い方が、過度の浪費という見えやすいものであったために一層、
遠からず沈む王に対して、ひたすらやりきれない怒りと苛立ちを皆が向けた。
だが李斎は、当時それからの驕王後の戴を、一度も考えてみなかったように、自分が
長く戴いた前王を、一度も人間として考えてみたことがなかったと、いま、気がついた。
そうだ、王はひとなのだ。神の籍に入っても、心が神になるわけではない。
もとは只のひとでしかない。
彼はおそらく、無邪気なほどに無神経なところがあり、権威に対して卑屈であり、し
かもそれらに対する羞恥心を、長い在位で次第に鈍磨させていったのだろう。
ある日突然玉座についた小人物は、小人物ゆえの生真面目さで、自分に与えられた仕
事を間違うまいとした。彼は、前例を徹底的に重視し、前例にないことを嫌った。
法に従い、礼に(これは儀礼にといったほうが正しいかもしれないが)厳格だった。
過誤と変革を極端に嫌い、細心の注意を払って、国の政を行った。
そして。それほどまでに立派に王の職分を朝において果たす代価として、燕寝におけ
る、王なればこその贅沢を極めた私生活を要求した。要求はかなえられた。だがひとの
欲望には限りがない。所詮ひとは人間である己の内に起こる欲求を制しなければ、生き
られない。それにしくじれば、必ず滅びる。それはなにも、王には限らない。
だが、神の位に上ったために、彼は己を制するものを、もはや己自身しか持たなかっ
た。心弱い、小人物の己より、他にはなにも持たなかった。麒麟の病は、多くの場合、
遅い警告もしくは告知としての役しか果たさないものである。
驍宗は。と、とっさに思いはそこへ行った。
主上は、どうだったのだろうか。極みに登る前から、見知っていた。それは短い時間
だったが、噂通りのいや、それ以上の優れた人物だったのは確かである。人間の器の出
来の違いというなら、確かに彼は只者ではなかった。
王になって、一層それは顕著に見えた。彼は強い人物だった。
それでも、彼はひとだったのだ……。
「疲れたのではないかえ」
優しい声音に、李斎ははっと我に返った。いえ、とそれが最近は癖にでもなったかの
ように、軽く左手で胸を押さえる。
藤棚の緑は陽光を透かしている。その影はもう幾分か奥へと伸びていた。金波宮の夏
の一日は、いま最も暑い時間を迎えている。
「無理はせぬことだ。もうしばらくすれば、小猿も戻ってまいろ。見つかったときには、
必ずとんで知らせにやるゆえ、一度、戻って休みなさい」
素直に李斎が立つのを、氾は軽く頷いて見やりながら、自分も立つと先に扉に歩んだ。
そうすることで、まだ動きの覚束ない病み上がりの李斎に、伏礼の労をとらせることを
避ける。その心遣いがもったいなく、李斎はただ、小さく黙礼する。
黒のほうが似合うね、と氾が微笑んだ。李斎が目を上げ首を傾けると、氾王はその視
線を受けて、李斎の背後へ流した。
ああ、と李斎が笑む。氾王は、たった一度戴であったおり、李斎がその赤茶の髪につ
けていた、漆黒の飾りのことを言ったのだ。
「あれは、借り物です」
「そうだったのかえ」
趣味人の王は、ただはんなりと笑った。
李斎の姿が回廊を曲がって行き、庭柯の向こうに消えるのを、ひらひらと手をふって
見送ると、黄金色の少女は、肩を落としてため息をついた。
「どうしたね」
「――すでに泰王が目をお留めの御品であったゆえ、あきらめた。そう、おっしゃって
ましたわよね」
見上げる麒麟の目に、ちらと視線を下した氾は口元に扇子を当てた。
「さて。覚えておらぬが。なんのことかえ」
「さぁ。なんのことでございましょう」
麒麟もにっこりととぼける。
風が渡った。氾は袖を捌き、ふうわり、と白いその扇子を下す。
「いかが巡ろうと、余人の手に収まることはあるまいよ。磨き手は、とうに決まってお
るのだもの…」
声が、静かに庭に落ちた。
部屋のすぐ外で、ぼそぼそと話す声がする。
それはあの背の高い、若い方の下官だろう。先刻頼んでおいた資料が、もう揃ったと
みえる。現在李斎の周りにいる軍吏たちは、どの官も無愛想なくらい口数が少なくて、
仕事が速い。
三軍しか存在しない王師で、瑞州師中軍は事実上の第三軍に昇格している。その中軍
の運用を軌道にのせるため、瑞州府の一室で書類業務に忙殺される隻腕の将軍を、みな
よく補佐してくれていた。
背後で扉が開いたが、李斎は振り返らない。
入るなり、思わず立ち止まってしまったらしい気配に、彼女は、背を向けたまま小さ
く苦笑した。
この二日李斎は、明日の朝議が期限の、中軍の現状に関する報告書の作成に追われて
いる。
なのに大机は、書類が一面に広がり筆が置かれたままで、空席。部屋の主の李斎はと
いえば、扉から正面の窓に向いて仁王立ちになり、盛んに体を曲げては、体側を引き伸
ばしているところなのだった。
――いきなり見れば、驚くだろうな。
「御苦労。――その脇の卓(つくえ)に置いてくれ」
無言で紙の束を下す音がする。李斎はこの際、恥のかきついでとばかり、声をかけた。
「すまないが。こちらへ来て、ちょっと手を貸して貰えると、有り難いんだが」
官服の衣擦れが、割合素直に、李斎の背に歩み寄る。
李斎は背後の彼に、右腕の残された部分を袖の上から示すと、後ろから持ってくれる
ようにと、頼んだ。
「もっと、しっかりと掴んでくれていい。そうだ。そのまま引き気味に、呼吸に合わせ
て五拍で曲げ、元の位置まで四拍で戻す――やってみてくれないか。まず、左から…、
一、…二、…――五、ゆっくり戻して――四、そう。――…次は上に。一、…」
ひとりでもやれないことはないが、どうしても右腕の長さと重量が欠けている分、左
右均等には負荷をかけられない。こうして誰かの手を借りれば、肩回りも上腕も、十分
に伸ばすことが出来る。
李斎はこの運動を、官邸で毎晩欠かさず行っており、昨日今日は、仕事場でも数回、
自分でやっていた。
「さすがに、慣れない左手の書きものがこうも続くと、背中がひどく固くなってしまっ
て…」
言訳すると、李斎は気分よさげに大きく息を吐いた。
こうした身体各部の引き伸ばしは、鍛錬の補助として大抵の武人が日々している。し
かしこの文官は、武芸などよく嗜むのでもあろうか、思いがけず要領良く的確に李斎の
短い方の腕を、筋の方向にそって、上手に曲げ伸ばす。身長もちょうど良かった。
一周がすむと、もう二周りを頼んでおいて、李斎は軽く目を閉じた。
本当に気持ちが良い。
「…どうやら、明朝に間に合いそうだ。泊りの官を三人、手配しておいてくれ。私の悪
筆をあれだけ浄書するのは、徹夜仕事になるだろうから…」
返事がすぐに返らないので、やや訝ったのもつかの間、太い声が落ちた。
「うむ。それは後で、下官に言え」
李斎は瞬間、目を見開き、そこで固まった。思考も一旦、止まる。
「……」
事態を飲み込むや、冷や汗が一気に噴出している李斎をよそに、背後の人間は悠々と
言葉を続けた。
「止まるな。まだ終っておらぬ。それ、四…五、戻すぞ、…一、…」
李斎は深呼吸するどころではない。蚊の鳴くような声で、あえぎあえぎ、頼んだ。
「お願いで…ございますから、主上…、」
「なんだ。――もっと力を抜かぬと、効果がなかろう。次は上だな」
お離し下さい、の声が出せずに、あちら向きで半べそ顔の李斎は、驍宗にしっかり左
肩を固定されたまま、右腕を今度は上にと引き伸ばされる。
「こんなことをいつも下官にさせておるのか」
頭のすぐ後ろで驍宗の声が、やや不満気に響く。
李斎の耳には、その声の裏にある本音などは、まるで聞こえていない。
こともあろうに、主君を下官と間違えた上、本来役所の人間にさせてもどうかという、
運動の補助など、やらせてしまった。否、たった今も、させているのだ。畏れ多い、な
どいうやさしいものではなかった。
「申し訳もございません……」
声は、消え入りそうに細る。実際、消えたい気分の李斎である。
「なにがだ」
「主上に、このような…」
「私ならば一向かまわぬ」
「はぁ…あの、ですが」
主上だからこそ、大いに困っている李斎は口篭もる。驍宗は舌打ちして、李斎の腕を
握りなおし、肩をたたく。
「力を抜かぬか。せっかくほぐれたものが、固まるぞ」
返事に困り答えない李斎を、今度は、少し優しげな声が促す。
「あと一周だ。よいから。黙って力を抜いていろ」
「………」
李斎は、観念した。
苦労しながら息を整えると、雑念を――これほどの無礼を雑念、としてよいかはとも
かく――、一時頭から締め出した。そして、再び背中をまっすぐ伸ばし、背後の男に腕
を預けて、大きく息を吐く。
驍宗は黙って笑んだ。そして、静かに、腕の曲げ伸ばしをまた始めた。
部屋にはしばらく、二人の呼吸だけが聞こえる静寂が降りた。
実際のところ、李斎との会話を欲して、口実を設けてまで非公式に瑞州府に足を運ん
だ驍宗であった。泰麒がちょうど席を外していた州侯官房(執務室)の控の間に、連れ
てきた供を置くと、先触れも連絡もなしにこの部屋の前まで来て、書類を抱えた下官と
行き会った。
扉を開けたのは、件の下官から李斎に渡す資料を取り上げた、驍宗本人である。
入ってみれば、李斎はなにやら体操の真っ最中で、振り返りもしない。そのまま成り
行きで、これほどの接近となった。この彼としてはいたずら気を起こした結果は、少な
からず楽しくさえあっても、不愉快であるはずがない。
たとえ色気とはまるで無縁の単なる体操の手助けであろうと、ほとんど彼女の背につ
く位置に立ち、顔の前に赤絹の髪が香っており、両手で彼女に触れて、その深い息遣い
を耳にしている。
そうした希いも当然あったはずだが、不思議と、このまま抱き締めたい、などという
思いが涌かなかった。ただ、二人きりの部屋でこの距離で、このように穏やかな時間を
持ち得ている現実が、彼を静かな幸福で満たした。
李斎も李斎で、奇妙に落ち着いてしまった。
彼女は、自分が右の残肢を最前から、ずっと驍宗に触れさせていたのだということに
気がつくと、そのことに大いに驚いた後で、唐突に、一種の安心とでも言うべきものを
覚えたのだ。
驍宗は一度も、彼女の腕に言及したことが、ない。
そもそも、腕を失ったことなどは、見れば知れる。見(まみ)えたとき、彼は李斎に
それを一語も聞かず、彼女も言わなかった。ただ驍宗は、背の伸びた己の麒麟と片腕と
なっている女将軍に向き合ったとき、ひたとその姿を見つめ、黙って彼らを強く抱き寄
せると、たった一言、「苦労をかけた」とつぶやいた。
短いその言葉に、王は彼らの苦難の歳月を、万感こめてねぎらった。そして、その後
いかなるときも、驍宗は一切、過去に関わる所感を口にしていない。不在の間のあらゆ
る報告に際しては常に、そうか、とだけ述べた。
李斎は、それで十分に納得していた。それ以上は、考えもしなかった。だが彼女以外
の人々はそうではなかった。
彼女はいまや、救国の英雄だった。
側にあり、その為人をよく知る者らこそ声を控えたが、李斎本人から遠去かるほどに、
彼女が右腕を、ひいては武人としての生命を、戴と驍宗にささげたのだ、という、好意
に満ちた賞賛の嵐は、李斎の内実を無視して大に過ぎ、さしもの彼女を憂鬱にすること
があった。
まして、それが当然であるかのように、驍宗は彼女に報いるだろう、勿論報いねばな
らぬという声の起きるにいたっては、困惑せざるを得なかった。
こうした雑音は、気にすまいと思いながらも彼女を過敏にした。今日まで李斎はどこ
かで、驍宗から彼女の右腕を気にかけられるのを、恐れていたのだ。
驍宗は、まったく動じなかった。いまもそこに手を添えて呼吸に合わせて数を数え、
同じくそっと滑らせるように支えては、もとの位置へと持ってくる。呼吸の乱れも、緊
張もない。
布越しに感じる大きな手の温もりに、恐縮しながらも、李斎は安堵した。すると非常
に嬉しくなってきた。我知らず笑みさえ浮かび、そしてつぶやく。
「――やはり、小そうございます」
「いや。そんなことは…、―――何がだ?」
肩越しに見下ろしていた驍宗が、気づいて問いなおした。李斎はちょっと首を傾けた
が、答えた。
「人間の器量、です。分かっていたつもりですが、李斎などは到底、主上の足元にも及
びません…」
「そうか…」
首を傾け眉を寄せて答え、驍宗は咳払いした。
最後に腕を回し終えた四拍めで息を大きく吐くと、李斎は驍宗を振り返った。真直ぐ
に王を見て、礼を述べる。
朝議の席でこそ、毎日会っていたのだが、そのすっきりとした屈託のない表情をこれ
ほど近くで見るのを、驍宗はずいぶんと久しぶりだと感じた。
驍宗は、満ち足りた気分になり、大層素直な微笑を、その顔に返した。
そうすると、なにかひどく面映くなってきたので互いにおかしくて、ふたりともくす
くすと笑った。李斎は言葉を省略し、とうとう無礼を謝らなかった。また、驍宗も誤解
をそのままにした詫びは省いた。右腕に触れたことも、触れられたことも、やはりどち
らも言わなかった。
「氾台輔。お風邪を召されますよ」
左手でそっと揺すると、寝入っていた幼なさの残る小さな顔が、金色の髪をふるん、
と振ってまぶたを持ち上げた。
「あら、李斎…」
当たり前のように両の腕が伸べられる。李斎は微笑んで、首につかまらせてやった。
少女がふわりと身を起こす。それを助けるのは苦にならない。十五六歳の外見をしてい
ても、麒麟は軽い。
台輔も、と小さな子供の姿が浮かぶ。少年の外見でも、幼子のように軽かった…。
稚く目をこする仕草が、李斎の中で遠い麒麟に重なったのを、聡く察知した少女は、
その手を下し、李斎を見た。
「まだ、六太帰ってきてない?」
「まだでいらっしゃるようです。わたくしも今来たところでございますが」
言いながら、向こうへ歩んだ背の高い女性は、すいと左手を上げ、棚の上の小さな火
炉をとった。
「あら李斎。座っていてよ。私がやるわ」
飛んで起きた少女を振りかえって、李斎は驚いたように首を振った。
「とんでもない。氾台輔に淹れて頂いたお茶など、李斎は畏れ多くて飲んだりできませ
んよ」
少女は口をとがらせた。
「梨、雪。――ほんとに手伝わなくていいの?」
李斎は微笑んだ。
「梨雪さま。――はい。大丈夫でございます」
成る程、隻腕になったばかりの彼女は、もう十年もそうしてでもいたように、あめ色
の方形の案(つくえ)の上で、片手だけを器用に往復させて、無駄のない動きで茶を淹
れてゆく。氾台輔梨雪は、どこか不思議な気持ちで、その立ち姿と所作とにみとれた。
「李斎は…」
「はい?」
花の香りの湯気が差し出された。ありがとう、と細い可憐な指先で茶器を受け取り、
少女は一口すすると、おいしさににっこりした。立ったままの李斎に自分の隣に座るよ
うに促す。ためらった李斎だが、この麒麟の天下無敵の笑顔の威力に、おとなしく長椅
子に並んだ。
夏の日差しは中天からもう幾分か傾いて、奥まったこの書院にも、午後の太陽がさし
入り初めている。
藤棚の緑色が、光に透けて床に影を落とし、窓ごしにとりどりの夏の花が咲き乱れる
のが見える。金波宮の主はまだ、午後の政務の最中だろう。そしてその閣僚たちも、州
侯を兼ねる台輔も、日常の仕事に忙殺されている時刻であった。
この時間にのんびりとお茶を飲んでいられるのは、客分たち、なかでもその主たちだ
けである。
麒麟たちは、夜を日についで、蓬莱との往復に忙しい。
そして、行き方知れずの麒麟がみつかった、との知らせは、まだ来ない。
太師邸から、今日もう何度目かの蘭雪堂もうでをした李斎は、書院の長椅子の中に、
くたびれ果てて眠っている、範国の麒麟の姿を見つけたのだった。
「…李斎は、うちの主上に以前、お会いしたことがあるんだったわね」
もうひとすすりして、少女が聞いた。
「はい。主上…泰王驍宗様の即位式の日に。一度だけ、お目にかかっております」
「泰王の即位式ね。よく覚えているわよ。六年前の秋でしょう?いつも戴旅行の後は、
ひとしきり文句を言って、ぶりぶり怒ってそれは大変だったのに、あのときは、皆が吃
驚するくらい、御機嫌でお帰りになられたんだから」
「そうなのでございますか?」
「そうよ。特に…、ええと、玉、だったかしら?ああ、いえ違う――磨く前の璞玉(は
くぎょく)だわ!お国の宝に、ものすごく価値のある璞玉があるんでしょう?それのお
話をなさって…なんでも磨けば、戴一国に匹敵する値打ちだとか」
李斎は首を傾け、そして振った。
「さぁ…。そのようなお品があるのでございますか?」
「あら。見たことないの?泰王が、とても大切にしておられたそうよ」
李斎は困ったように笑った。
「いいえ。王の御物など、普通、一介の将軍に見られるものではございませんので」
氾麟は目をくるりとさせた。
「うちの主上から、泰王と会われたとき李斎もずっと一緒だった、とうかがったわ」
李斎は微笑み、頷いた。
「さようでございます。でも、あのときわたくしは、大僕としてお二人の歓談に、少し
後を歩いて付き従っただけです。お二人は王宮内を散策なさりながら、いろいろとお話
であったと記憶しておりますが、もとより、お話の内容までは聴いてはおりません」
「王師の将軍が、大僕を?」
李斎は、少しばつが悪そうに笑んだ。
「臨時のことで。それも、実を申し上げれば、王師の将軍ではありません」
「どういうこと?李斎は瑞州の将軍なんでしょ」
「わたくしは、あの即位式に、主である承州侯の随従として参ったのです。当時の身分
は、州師は州師でも、承州師の左将軍。本来、お顔を記憶させて頂けるほど、他国の王
を間近にお見上げ出来るような立場では、ございませんでした……」
まだ、廉麟に伴われた六太は戻ってこなかった。延も氾も姿を見せない。小さな書院
で、手のひらの淡紅色の茶杯の中で、花の香りがしている。
「お待ちを…!困ります、どなたであろうと、この先は…っ」
礼服を、常の服に改める途中にあった部屋の老主人が、何事かと、顔を上げたときに
は、既に彼の優秀な武官が二名ばかり、刀の柄に手をかけて、部屋から外へ走り出てい
た。
「御心配なく。あの者たちなら大丈夫でございましょう」
彼をかばうように扉に向かって側に立ち、小声で告げた彼の将軍に、老州侯は愛娘に
するように、小さく微笑み頷いた。
「なに、劉がいるのだから、心配なぞしておらぬよ」
手を止めた小官を促して、佩玉を結ばせた主だったが、廊下遠くのその騒ぎは次第に
近くなり、そのまま、扉の前まで来てしまった。
勢い良く放たれた扉から、後向きに部屋に戻って来た武官たちを見ると、将軍が険し
く叱咤した、
「何をしている貴公ら。侯の御前を、むざむざ騒がせるとは」
ですが、とやや情けない声音を発して口篭もった武官のその肩を、押しのけるように
現れた人物を見て、左将軍は言葉を失った。
後ろに立つ主も目を丸くして、口をあけた後、その口を閉じた。
整えられたばかりの長衣の袖を捌くと、下座に下りた。しかるのち、静かに平伏する。
「主上」
はっと我に返り、一同が叩頭した。抜き身の刀を下げたまま、唖然としていた官たち
も一斉に刃を背後に回して、頭を垂れる。
「案内(あない)も乞わず、非礼を許されよ。顔を上げて頂きたい、承州侯」
入り口に突っ立った男が太い声音で言い放ち、主はいささか面白そうにすくめた首を
持ち上げた。確かに非礼であった。ひともあろうに最前、一国の王になったばかりの男
が、たったひとりで、州侯の控え室に乗り込むとは。
それを自分で分かっているところが、おかしい。
「して、主上におかれましては、この年寄にいかような御用がおありでしょう…」
みなまで聞かず、王は手を振る。
「時間がないゆえ、手短に申す。一刻ばかりこちらの左将軍を、私にお貸し願えるか」
承侯は驚いて横を見た、そこには承侯以上に驚きに目を見張った将軍本人がいた。
「はぁ」
「よろしいか」
州侯は、驚いたままで頷いた、
「はい。それはよろしゅうございますが」
「うむ、かたじけない」
言うなり、いつも以上に気の急いているらしい、この国の新しい王は、呆然となって
いる将軍を、その主より先に急かした。
「主の許可はとった。行くぞ」
声に気圧され、跳ねるように立ち上がりはしたものの、将軍はまだ目を白黒とさせて、
その場で逡巡していた。幾度か王と、長年の主を見比べる。
苛だった気配を身近に察知し、彼女がはっと主から振りかえったとき、そこに王はい
なかった。
「――ついて参れ。急げ!」
州侯から小さく、しかし鋭く顎でうながされ、今度こそ、李斎は飛び上がり、そのま
ま足早に、王の後を追いかけた。
将軍の後ろ姿の向こう側から、お邪魔致した、との大きな一声が、承侯には返された。
「…――吃驚致しました」
右将軍のため息に近い声に、承州侯は苦笑した。
「…あぁ。そうだな」
そしてくつくつと笑い出した。
「大層な剣幕だ。少なくとも性急なお方というのだけは、本当らしい」
名の知れた驍将であった新王は、噂話にことかかなかった。右将軍もくすっと笑った。
「全くです。彼女の腕でもとって、引きずっていくのかと思いましたよ」
「お前もそう思ったか。だが、――しなかったな」
承侯はどこか満足そうに、微笑んだ。
「そうですね。いくら王といえど、恋人でもない御婦人に、そうそう気安くお手を触れ
たりはなさらないでしょう」
「ふむ」
「やはり、ただの憶測でしたね」
肩をすくめた将軍に、承州侯は首を傾ける。
「ほら、王師に招かれたのは、お二人が蓬山で特別の誼を結ばれたからだという」
「あのような卑しい噺を、信じたのか、お前」
将軍は慌てて首を振った。
「まさか。私は、――いえ、彼女を直接知ってる者ならば、誰も信じたりなどしません
よ。それに、ただいまご覧になられたでしょう、あの他人行儀な王のそぶり。あれで二
人に何かあるなんて思うやつがいたら、お目にかかりたいです。そもそも、仙女だらけ
の蓬山で、乍将軍が劉将軍を見初めるってところが、ちょっとあり得ない話でしたから
ね」
承州侯は沈黙した後で、嘆息した。
「…それが、先ほどの王の御様子を見た感想か。どうやら、お前が嫁をもらうのを見る
のは、まだまだ先のことらしい」
「なんですか、一体」
将軍は話題が思いがけず、一身のことに及んだので、口を曲げた。彼は独身である。
高級官吏に独身者が多い。と、いうのは、他国の常識である。だが少なくとも、この
承州においては、高官で妻帯しないもしくは夫を持たない者は、逆に稀であった。
それは、この州侯個人のありようと深くかかわっていた。彼は、仏教者であった。彼
はその宗教を政治に反映することはけっしてしなかったが、彼の生活には、反映させて
いた。
彼は仏教徒の比較的多いこの承州の出身であり、戴の大学で宗教学をもっぱらに修め
た後、国府に入った。春官府の高官から州侯に抜擢されたとき、一州の統地という大き
な仕事と、長く延ばされる寿命を前にして、学生時代から幾分か信奉してきていたこの
教えの戒律を、自らに課したのだった。
蓬莱からもたらされた仏教は、その性質上、こちらではともすれば単に、徳の範疇に
入るべきことを重くとらえ、戒とする。そのひとつが婚姻重視であり、すべからく婚姻
の契約に対して、男女は忠実たれ、というものである。
彼は歴史上数多くの王が、また彼の周囲の高位の官が、この問題を軽んずることに端
を発し、道を失うのを見てきたこともあって、この戒めを大変有用なものととらえ、厳
格に守った。
州城にも後宮があるが、彼はこれをただひとりの妻に与えた。彼には元々子が二人あ
り、就任してからも幾人かに恵まれたが、みな徳操を以って育て上げ、結婚させて、下
界に出した。
真摯な教育者であり一個の父である、このひとりの男の生き方は、州城のもっとも高
いところから年月かけて徐々に、広く州内に好ましい影響として浸透していき、結果と
して、承州の官のきわめて高い結婚率と、民のきわめて低い離婚率という形であらわれ
ているのだった。
一方彼は、州師に関しては一貫して、特別の干渉、もしくは要求をしてきていた。
それは、兵の質を高めることであった。彼の州師には長年にわたり、強い兵士である
と同時に、教育を受けた善き人であることが要求された。このため、彼の軍は精鋭だっ
たが、無慈悲ではなかった。
指揮官には徳が要求された。州師の戦いの目的は、そもそも州内の内乱と暴動の鎮圧
である。兵を戦わせるに巧みであると同じ位、兵の消費――すなわち戦死――を最少に
おさえて勝利することに長けた指揮官、制圧地域の被害を最小にとどめる才を持つ指揮
官が、淘汰されて残った。
そんななかで、彼が妻と二人で最も愛し、重く用いてきたのが、李斎であった。
彼女は、少学しか出ていなかったが、その軍功は目覚しかった。彼女が師帥になった
とき、彼は可能な限り早くに、このまだ年若い娘に将軍の席を用意しよう、と決意した。
そしてわずか三年で、佐軍将軍(=州において左右中につぐ第四軍の将)に任じた。
彼の思惑は当った。
李斎が将軍を拝命して以来、――破格の大抜擢を受けた若い女性に対する、応分の抵
抗の生じた時期を過ぎた後――、佐軍の雰囲気はがらりと変わり、兵の質は格段に向上
した。それは、やがて他軍の将や兵にも及び、時を経て彼女が左将軍に据えられる頃に
は、承州師は、八州一の練度と、戴随一の教育の高さを謳われるようになっていた。
李斎は、頼りになる将軍であると同時に、実子を育て終わり、すでに外見内実ともに、
老齢である州侯夫妻にとって、娘に等しかった。
そんな彼女を、どんな男に娶(めあ)わせるかは、彼らの長年の楽しみでもあり、嬉
しい心配事でもあった。ところが、彼女は彼らの目に適った男たちのことごとくを、親
しく腹を割って付き合い、何時間でも語り合うことのできる友人にしてしまったのであ
る。
それが…。
州侯は、閉じた扉の方を見るともなく見やると、ふん、と小さく笑った。
昨日内示を頂いたときには、とんでもない御方から見込まれたものだ、と彼女の行く
末を案じたが、どうやら、心配はいらぬらしい。
最前、覇気に満ち、天下に何も恐れるものはないかのごとき自信に溢れた新王は、李
斎に負けぬほど色恋に疎い彼女の同僚でさえそれと気づいたように、一瞬、承州侯の方
を見ていた李斎の腕をとりかけた。だが、その手を半ばで引いて宙を握り、急いで下し
た。下したときにはもう扉口へと向かっていた。
あそこまでとは、思わなかった。
承侯の口元に笑みが浮かんだ。
きっと…と、呟きかけてから、彼は首を振る。いや。もう愛しい娘は、彼の手を離れ
たのだ。
彼は、積年の思案の終る寂しさを、ちらと自覚した。ふと、すずりを引き寄せると、
故郷(くに)で待つ妻にあてて、手紙をしたため始めた。
――新しい王は、なかなかの御仁とお見上げした……。
小走りになりながら、李斎は何度も前を行く背中に目をやっては目を落とす。
即位式が終り、承州侯と控えの部屋に戻るなりの、いきなりの王の来訪である。その
うえ自分が連れ出された理由など、李斎には皆目、見当がつかない。
呪をかけた隧道を網の目をたどるように伝いながら、既にだいぶ走った。ある建物の
外階段に出たところで、ちらと視線を投げやれば、先ほど駆け出てきた外殿端の建物群
は、秋空の下、はるかに遠い。
もし、この距離をこの日に、通常の手続きを踏んで官が動いていたなら、今頃はまだ、
侯の御前にも達してはいまい。…だが。
「どちらへ参るのか、伺ってもよろしゅうございますか」
李斎はようやく質問したが、またそこで景色は途切れ、次の隧道に入ったと知れた。
「いま、説明する。――ああ。ここだ」
隧道を数本たて続けに抜けたので、李斎の問いにはろくに返答がなされないままに、
二人は、磨きこまれた長い廊下のひとつの端で、扉の前に立っていた。
入れ、と急き立てられ中に進むと、かなり大きな部屋だった。
「こちらへどうぞ」
待ち構えた女官が言うなり、引き立てるように李斎をさらに奥の間へと連れて行く。
暗い廊下側から入ると、まぶしいほどに明るいその部屋は、露台に向けて丈高い玻璃
窓が連なり、窓の向こうは、海ではなく庭園のようだ。
部屋の突き当たりに引き回された屏風をかわると、待機していた三人の中でもっとも
年配のひとりが、無言で李斎の着衣に手をかけた。
将軍ともなると、通常着替えは下官に手伝わせるものだが、三人がかりということは、
まずない。まして、一国の王城の天官府の女官たちにというのは、あり得ない。
彼らの態度が、到底質問など許さない急ぎ様だったので、腹を決めて李斎が従ってい
ると、仕切り扉の閉じていない隣室から、驍宗の声がした。
「現に、こうして戻って参った。これで刻限には、十分に間に合おう…」
それはなにやら、言い訳めいて聞こえた。小声で静かに話すらしい相手が、なにを言
っているかは知れない。だが、驍宗の声はいつになく大きい。
「…あいわかった、そのとおりだ。よく用意してくれた。下がってよい」
あきらかに苛立ちながらも折れた調子の強い声音で、李斎は思わず、そちらを見やっ
た。
考えてみれば、即位式をすませた主上が、どういう理由でどんな指示を出した末に、
こういう準備がなされたのにせよ、少なくともその間に、単独で王宮の端まで行って戻
ったことに変わりはない。天官は立場上、相当に気を揉んだことだろう。
ただ、驍宗は穏やかな気性ではないが、格別癇癪もちではない。その驍宗にこう言わ
せるまで食い下がる天官がいるのだ、と李斎はなにやら感心していた。
李斎はちらと、彼女の皮甲の革紐を結ぶ女官の顔を見おろした。その職業的な無表情
はいささかも、動かない。
「出来たな」
隣室で驍宗は、立ったままで待っていた。この方は、と李斎は少しおかしくそれを見
る。側に椅子があっても掛けようとはしない驍宗に、武人出の王と周囲の、日常の苦労
がのぞいていた。
驍宗は李斎を見た。その表情は、もう全く急いてはいない。
首を傾け、ゆっくりと李斎の支度を眺める。うむ、と頷き、ちらと笑んだ。黒色の皮
甲にいぶし銀の篭手に鈍(にび)色の絹織物。確認の時間はなく、驍宗自身がいま初め
て目にしたものだ。
それは先ほどまで着ていた暗紅色の着物に比べると色目でははるかに地味だが、先ほ
どとは比較にならない位、洗練された装いだった。
皮甲は、武具に限っては職業柄、造詣の深い李斎が、差し出されて思わず見惚れた逸
品であったが、けっして凝りすぎず、派手ではない。白い顔と後ろへ括った赤い髪が、
これ以上はないほどに、すっきりと上品に見えるのを確かめて、驍宗は満足の息を吐く
と、これならばよかろう、と呟いた。
控えめに怪訝な顔をした李斎に、微笑んでみせる。
「時間が厳しかったゆえ、大層急がせたな。どうやら間に合った」
「はい」
――何にどう間に合ったのか、聞いてもいいだろうか。考えたところへ、驍宗が先を
取った。
「これから、範の王に会う」
範、と李斎は口の中で繰り返す。
その大国は、玉の産地である戴にとっては、昔から付き合いの深い、殆ど唯一の他国
だ。
「先ほど、式の後の言祝ぎの席で、急遽決まった。今日お帰りになられる前に、個人的
な面談をもつ。あくまで私的なものゆえ、あちらもお一人で見えられる…」
言葉を切った驍宗は、ここでなぜかちょっと苦笑気味の眉を寄せ、続けた。
「いつも私が不在の折の来戴であったゆえ、直には存じ上げないのだが、なにやら難し
い御仁のようでな。そなたに歓談の護衛を頼みたい」
李斎は驚いた。当然ながら他国の賓客の前になど、彼女は出たこともない。
「すぐに首をすげかえる将軍たちを今更引き合わせても、益など何もない。王師の将軍
として、よい経験になろう」
「まだ拝命しておりません」
「それは言わなくてよろしい。余州の州師の将だと紹介するわけにもいくまい。範の方
には、瑞州侯師の将軍と言っておく。そなたもそのつもりでいるように」
それでしたら他の方でも、と口篭もった李斎に、驍宗は遠慮深いやつだと笑ってみせ
る。
「拝命の決まっているものは皆、現役の禁軍左軍の師帥だ。今日は全員城下の警備に出
払っていて、誰もおらぬ。それに何より、そなたが適任だと思うのだ…、――ああ」
見ると、驍宗の視線の先で、扉を開けて入室したひとりの官が平伏した。
あちらがお部屋を出られたようだな、と驍宗が李斎に言う。
「さて。先に出て待つとしようか」
その言葉に近付いた女官に、黙って冠を直させると、驍宗はさっさと庭に下りて行く。
李斎は追いかけて部屋を横切り、庭園に向かって大きくせりだした露台に出ると、石
造りの広い階段を、自分も足早に降りた。
「その皮甲(よろい)は、先の王后の大僕が用いたものだそうだ」
黙って数歩後ろを歩く李斎に、驍宗が言葉を掛けた。
先ほど掌客殿を出たという客人の姿は、白く広がる石畳のどこにも、まだ見えない。
雲海の上とはいいながら冬の降雪のある白圭宮の庭は、ごく一部をのぞいて、多くが
このような石の庭園である。視界をさえぎらない空間が、どこまでも幾何学的に組まれ、
それを寒さに強い樹木がその濃い緑色でわずかに彩る。
「それで、女物なのでございますね」
李斎は歩きながら答えた。
つけている皮甲は、かつての持ち主の性別と体格を語っている。驍宗は頷いた、
「腕の立つ、よい武官であったようだ。后妃はたいそう可愛がっておいでだったらしい」
「お会いになられたことは」
ないな、と驍宗が答える。后妃が先王の元を去り、王城から出たのは、彼が将軍にな
るより前のことだった。大僕もそのとき職を辞して、后妃に従ったのだと驍宗は語った。
その后妃のことを、民は覚えていないだろう。それほどに、もはや昔であった。
「どちらにおいでなのでございますか」
「いや。仙籍をお返しになられた。おそらくもう、この世にはおられまい」
振り返った驍宗は、李斎の装いに目をやり、少し笑んだ、
「夫君とは違って、趣味のよい方であったようだな。后妃と別れてから、主上の悪趣味
な浪費に、いよいよ拍車がかかった、ということらしい。まこと、男は細君で決まる…」
「…」
これは、驍宗の言としていささか意外なような気もし、己の鈍(にび)色の上衣を見
るともなく見下ろして、李斎は首を傾げた。
その頭の動きに、即位礼のためにこの朝、下官が丹念に櫛削った赤茶色の髪が、重た
い弧を描いて肩に滑った。だが、背中で括られそれ以上は動かぬその髪を、伏せたまつ
げが頬に落とした影を、驍宗がその瞬間、どんな思いの表れた顔で見たものか、俯いた
李斎が知るはずもない。
顔を上げた李斎は、王の沈黙に、瞬いた。それに気づくと、彼はほんのわずか目を細
め、それから視線を外した。
「お見えのようだ」
驍宗が静かに言った。
庭園の向こうを、黒い長袍の、予想に反しほっそりとした影が、緩やかな足取りで歩
んでくるのが見え、李斎は更に二歩下がると、護衛の武官の作法にならい、片膝をつい
て深く頭を垂れた。
それは、六年前の、晴れた秋の日のことであった。
左手でそっと揺すると、寝入っていた幼なさの残る小さな顔が、金色の髪をふるん、
と振ってまぶたを持ち上げた。
「あら、李斎…」
当たり前のように両の腕が伸べられる。李斎は微笑んで、首につかまらせてやった。
少女がふわりと身を起こす。それを助けるのは苦にならない。十五六歳の外見をしてい
ても、麒麟は軽い。
台輔も、と小さな子供の姿が浮かぶ。少年の外見でも、幼子のように軽かった…。
稚く目をこする仕草が、李斎の中で遠い麒麟に重なったのを、聡く察知した少女は、
その手を下し、李斎を見た。
「まだ、六太帰ってきてない?」
「まだでいらっしゃるようです。わたくしも今来たところでございますが」
言いながら、向こうへ歩んだ背の高い女性は、すいと左手を上げ、棚の上の小さな火
炉をとった。
「あら李斎。座っていてよ。私がやるわ」
飛んで起きた少女を振りかえって、李斎は驚いたように首を振った。
「とんでもない。氾台輔に淹れて頂いたお茶など、李斎は畏れ多くて飲んだりできませ
んよ」
少女は口をとがらせた。
「梨、雪。――ほんとに手伝わなくていいの?」
李斎は微笑んだ。
「梨雪さま。――はい。大丈夫でございます」
成る程、隻腕になったばかりの彼女は、もう十年もそうしてでもいたように、あめ色
の方形の案(つくえ)の上で、片手だけを器用に往復させて、無駄のない動きで茶を淹
れてゆく。氾台輔梨雪は、どこか不思議な気持ちで、その立ち姿と所作とにみとれた。
「李斎は…」
「はい?」
花の香りの湯気が差し出された。ありがとう、と細い可憐な指先で茶器を受け取り、
少女は一口すすると、おいしさににっこりした。立ったままの李斎に自分の隣に座るよ
うに促す。ためらった李斎だが、この麒麟の天下無敵の笑顔の威力に、おとなしく長椅
子に並んだ。
夏の日差しは中天からもう幾分か傾いて、奥まったこの書院にも、午後の太陽がさし
入り初めている。
藤棚の緑色が、光に透けて床に影を落とし、窓ごしにとりどりの夏の花が咲き乱れる
のが見える。金波宮の主はまだ、午後の政務の最中だろう。そしてその閣僚たちも、州
侯を兼ねる台輔も、日常の仕事に忙殺されている時刻であった。
この時間にのんびりとお茶を飲んでいられるのは、客分たち、なかでもその主たちだ
けである。
麒麟たちは、夜を日についで、蓬莱との往復に忙しい。
そして、行き方知れずの麒麟がみつかった、との知らせは、まだ来ない。
太師邸から、今日もう何度目かの蘭雪堂もうでをした李斎は、書院の長椅子の中に、
くたびれ果てて眠っている、範国の麒麟の姿を見つけたのだった。
「…李斎は、うちの主上に以前、お会いしたことがあるんだったわね」
もうひとすすりして、少女が聞いた。
「はい。主上…泰王驍宗様の即位式の日に。一度だけ、お目にかかっております」
「泰王の即位式ね。よく覚えているわよ。六年前の秋でしょう?いつも戴旅行の後は、
ひとしきり文句を言って、ぶりぶり怒ってそれは大変だったのに、あのときは、皆が吃
驚するくらい、御機嫌でお帰りになられたんだから」
「そうなのでございますか?」
「そうよ。特に…、ええと、玉、だったかしら?ああ、いえ違う――磨く前の璞玉(は
くぎょく)だわ!お国の宝に、ものすごく価値のある璞玉があるんでしょう?それのお
話をなさって…なんでも磨けば、戴一国に匹敵する値打ちだとか」
李斎は首を傾け、そして振った。
「さぁ…。そのようなお品があるのでございますか?」
「あら。見たことないの?泰王が、とても大切にしておられたそうよ」
李斎は困ったように笑った。
「いいえ。王の御物など、普通、一介の将軍に見られるものではございませんので」
氾麟は目をくるりとさせた。
「うちの主上から、泰王と会われたとき李斎もずっと一緒だった、とうかがったわ」
李斎は微笑み、頷いた。
「さようでございます。でも、あのときわたくしは、大僕としてお二人の歓談に、少し
後を歩いて付き従っただけです。お二人は王宮内を散策なさりながら、いろいろとお話
であったと記憶しておりますが、もとより、お話の内容までは聴いてはおりません」
「王師の将軍が、大僕を?」
李斎は、少しばつが悪そうに笑んだ。
「臨時のことで。それも、実を申し上げれば、王師の将軍ではありません」
「どういうこと?李斎は瑞州の将軍なんでしょ」
「わたくしは、あの即位式に、主である承州侯の随従として参ったのです。当時の身分
は、州師は州師でも、承州師の左将軍。本来、お顔を記憶させて頂けるほど、他国の王
を間近にお見上げ出来るような立場では、ございませんでした……」
まだ、廉麟に伴われた六太は戻ってこなかった。延も氾も姿を見せない。小さな書院
で、手のひらの淡紅色の茶杯の中で、花の香りがしている。
「お待ちを…!困ります、どなたであろうと、この先は…っ」
礼服を、常の服に改める途中にあった部屋の老主人が、何事かと、顔を上げたときに
は、既に彼の優秀な武官が二名ばかり、刀の柄に手をかけて、部屋から外へ走り出てい
た。
「御心配なく。あの者たちなら大丈夫でございましょう」
彼をかばうように扉に向かって側に立ち、小声で告げた彼の将軍に、老州侯は愛娘に
するように、小さく微笑み頷いた。
「なに、劉がいるのだから、心配なぞしておらぬよ」
手を止めた小官を促して、佩玉を結ばせた主だったが、廊下遠くのその騒ぎは次第に
近くなり、そのまま、扉の前まで来てしまった。
勢い良く放たれた扉から、後向きに部屋に戻って来た武官たちを見ると、将軍が険し
く叱咤した、
「何をしている貴公ら。侯の御前を、むざむざ騒がせるとは」
ですが、とやや情けない声音を発して口篭もった武官のその肩を、押しのけるように
現れた人物を見て、左将軍は言葉を失った。
後ろに立つ主も目を丸くして、口をあけた後、その口を閉じた。
整えられたばかりの長衣の袖を捌くと、下座に下りた。しかるのち、静かに平伏する。
「主上」
はっと我に返り、一同が叩頭した。抜き身の刀を下げたまま、唖然としていた官たち
も一斉に刃を背後に回して、頭を垂れる。
「案内(あない)も乞わず、非礼を許されよ。顔を上げて頂きたい、承州侯」
入り口に突っ立った男が太い声音で言い放ち、主はいささか面白そうにすくめた首を
持ち上げた。確かに非礼であった。ひともあろうに最前、一国の王になったばかりの男
が、たったひとりで、州侯の控え室に乗り込むとは。
それを自分で分かっているところが、おかしい。
「して、主上におかれましては、この年寄にいかような御用がおありでしょう…」
みなまで聞かず、王は手を振る。
「時間がないゆえ、手短に申す。一刻ばかりこちらの左将軍を、私にお貸し願えるか」
承侯は驚いて横を見た、そこには承侯以上に驚きに目を見張った将軍本人がいた。
「はぁ」
「よろしいか」
州侯は、驚いたままで頷いた、
「はい。それはよろしゅうございますが」
「うむ、かたじけない」
言うなり、いつも以上に気の急いているらしい、この国の新しい王は、呆然となって
いる将軍を、その主より先に急かした。
「主の許可はとった。行くぞ」
声に気圧され、跳ねるように立ち上がりはしたものの、将軍はまだ目を白黒とさせて、
その場で逡巡していた。幾度か王と、長年の主を見比べる。
苛だった気配を身近に察知し、彼女がはっと主から振りかえったとき、そこに王はい
なかった。
「――ついて参れ。急げ!」
州侯から小さく、しかし鋭く顎でうながされ、今度こそ、李斎は飛び上がり、そのま
ま足早に、王の後を追いかけた。
将軍の後ろ姿の向こう側から、お邪魔致した、との大きな一声が、承侯には返された。
「…――吃驚致しました」
右将軍のため息に近い声に、承州侯は苦笑した。
「…あぁ。そうだな」
そしてくつくつと笑い出した。
「大層な剣幕だ。少なくとも性急なお方というのだけは、本当らしい」
名の知れた驍将であった新王は、噂話にことかかなかった。右将軍もくすっと笑った。
「全くです。彼女の腕でもとって、引きずっていくのかと思いましたよ」
「お前もそう思ったか。だが、――しなかったな」
承侯はどこか満足そうに、微笑んだ。
「そうですね。いくら王といえど、恋人でもない御婦人に、そうそう気安くお手を触れ
たりはなさらないでしょう」
「ふむ」
「やはり、ただの憶測でしたね」
肩をすくめた将軍に、承州侯は首を傾ける。
「ほら、王師に招かれたのは、お二人が蓬山で特別の誼を結ばれたからだという」
「あのような卑しい噺を、信じたのか、お前」
将軍は慌てて首を振った。
「まさか。私は、――いえ、彼女を直接知ってる者ならば、誰も信じたりなどしません
よ。それに、ただいまご覧になられたでしょう、あの他人行儀な王のそぶり。あれで二
人に何かあるなんて思うやつがいたら、お目にかかりたいです。そもそも、仙女だらけ
の蓬山で、乍将軍が劉将軍を見初めるってところが、ちょっとあり得ない話でしたから
ね」
承州侯は沈黙した後で、嘆息した。
「…それが、先ほどの王の御様子を見た感想か。どうやら、お前が嫁をもらうのを見る
のは、まだまだ先のことらしい」
「なんですか、一体」
将軍は話題が思いがけず、一身のことに及んだので、口を曲げた。彼は独身である。
高級官吏に独身者が多い。と、いうのは、他国の常識である。だが少なくとも、この
承州においては、高官で妻帯しないもしくは夫を持たない者は、逆に稀であった。
それは、この州侯個人のありようと深くかかわっていた。彼は、仏教者であった。彼
はその宗教を政治に反映することはけっしてしなかったが、彼の生活には、反映させて
いた。
彼は仏教徒の比較的多いこの承州の出身であり、戴の大学で宗教学をもっぱらに修め
た後、国府に入った。春官府の高官から州侯に抜擢されたとき、一州の統地という大き
な仕事と、長く延ばされる寿命を前にして、学生時代から幾分か信奉してきていたこの
教えの戒律を、自らに課したのだった。
蓬莱からもたらされた仏教は、その性質上、こちらではともすれば単に、徳の範疇に
入るべきことを重くとらえ、戒とする。そのひとつが婚姻重視であり、すべからく婚姻
の契約に対して、男女は忠実たれ、というものである。
彼は歴史上数多くの王が、また彼の周囲の高位の官が、この問題を軽んずることに端
を発し、道を失うのを見てきたこともあって、この戒めを大変有用なものととらえ、厳
格に守った。
州城にも後宮があるが、彼はこれをただひとりの妻に与えた。彼には元々子が二人あ
り、就任してからも幾人かに恵まれたが、みな徳操を以って育て上げ、結婚させて、下
界に出した。
真摯な教育者であり一個の父である、このひとりの男の生き方は、州城のもっとも高
いところから年月かけて徐々に、広く州内に好ましい影響として浸透していき、結果と
して、承州の官のきわめて高い結婚率と、民のきわめて低い離婚率という形であらわれ
ているのだった。
一方彼は、州師に関しては一貫して、特別の干渉、もしくは要求をしてきていた。
それは、兵の質を高めることであった。彼の州師には長年にわたり、強い兵士である
と同時に、教育を受けた善き人であることが要求された。このため、彼の軍は精鋭だっ
たが、無慈悲ではなかった。
指揮官には徳が要求された。州師の戦いの目的は、そもそも州内の内乱と暴動の鎮圧
である。兵を戦わせるに巧みであると同じ位、兵の消費――すなわち戦死――を最少に
おさえて勝利することに長けた指揮官、制圧地域の被害を最小にとどめる才を持つ指揮
官が、淘汰されて残った。
そんななかで、彼が妻と二人で最も愛し、重く用いてきたのが、李斎であった。
彼女は、少学しか出ていなかったが、その軍功は目覚しかった。彼女が師帥になった
とき、彼は可能な限り早くに、このまだ年若い娘に将軍の席を用意しよう、と決意した。
そしてわずか三年で、佐軍将軍(=州において左右中につぐ第四軍の将)に任じた。
彼の思惑は当った。
李斎が将軍を拝命して以来、――破格の大抜擢を受けた若い女性に対する、応分の抵
抗の生じた時期を過ぎた後――、佐軍の雰囲気はがらりと変わり、兵の質は格段に向上
した。それは、やがて他軍の将や兵にも及び、時を経て彼女が左将軍に据えられる頃に
は、承州師は、八州一の練度と、戴随一の教育の高さを謳われるようになっていた。
李斎は、頼りになる将軍であると同時に、実子を育て終わり、すでに外見内実ともに、
老齢である州侯夫妻にとって、娘に等しかった。
そんな彼女を、どんな男に娶(めあ)わせるかは、彼らの長年の楽しみでもあり、嬉
しい心配事でもあった。ところが、彼女は彼らの目に適った男たちのことごとくを、親
しく腹を割って付き合い、何時間でも語り合うことのできる友人にしてしまったのであ
る。
それが…。
州侯は、閉じた扉の方を見るともなく見やると、ふん、と小さく笑った。
昨日内示を頂いたときには、とんでもない御方から見込まれたものだ、と彼女の行く
末を案じたが、どうやら、心配はいらぬらしい。
最前、覇気に満ち、天下に何も恐れるものはないかのごとき自信に溢れた新王は、李
斎に負けぬほど色恋に疎い彼女の同僚でさえそれと気づいたように、一瞬、承州侯の方
を見ていた李斎の腕をとりかけた。だが、その手を半ばで引いて宙を握り、急いで下し
た。下したときにはもう扉口へと向かっていた。
あそこまでとは、思わなかった。
承侯の口元に笑みが浮かんだ。
きっと…と、呟きかけてから、彼は首を振る。いや。もう愛しい娘は、彼の手を離れ
たのだ。
彼は、積年の思案の終る寂しさを、ちらと自覚した。ふと、すずりを引き寄せると、
故郷(くに)で待つ妻にあてて、手紙をしたため始めた。
――新しい王は、なかなかの御仁とお見上げした……。
小走りになりながら、李斎は何度も前を行く背中に目をやっては目を落とす。
即位式が終り、承州侯と控えの部屋に戻るなりの、いきなりの王の来訪である。その
うえ自分が連れ出された理由など、李斎には皆目、見当がつかない。
呪をかけた隧道を網の目をたどるように伝いながら、既にだいぶ走った。ある建物の
外階段に出たところで、ちらと視線を投げやれば、先ほど駆け出てきた外殿端の建物群
は、秋空の下、はるかに遠い。
もし、この距離をこの日に、通常の手続きを踏んで官が動いていたなら、今頃はまだ、
侯の御前にも達してはいまい。…だが。
「どちらへ参るのか、伺ってもよろしゅうございますか」
李斎はようやく質問したが、またそこで景色は途切れ、次の隧道に入ったと知れた。
「いま、説明する。――ああ。ここだ」
隧道を数本たて続けに抜けたので、李斎の問いにはろくに返答がなされないままに、
二人は、磨きこまれた長い廊下のひとつの端で、扉の前に立っていた。
入れ、と急き立てられ中に進むと、かなり大きな部屋だった。
「こちらへどうぞ」
待ち構えた女官が言うなり、引き立てるように李斎をさらに奥の間へと連れて行く。
暗い廊下側から入ると、まぶしいほどに明るいその部屋は、露台に向けて丈高い玻璃
窓が連なり、窓の向こうは、海ではなく庭園のようだ。
部屋の突き当たりに引き回された屏風をかわると、待機していた三人の中でもっとも
年配のひとりが、無言で李斎の着衣に手をかけた。
将軍ともなると、通常着替えは下官に手伝わせるものだが、三人がかりということは、
まずない。まして、一国の王城の天官府の女官たちにというのは、あり得ない。
彼らの態度が、到底質問など許さない急ぎ様だったので、腹を決めて李斎が従ってい
ると、仕切り扉の閉じていない隣室から、驍宗の声がした。
「現に、こうして戻って参った。これで刻限には、十分に間に合おう…」
それはなにやら、言い訳めいて聞こえた。小声で静かに話すらしい相手が、なにを言
っているかは知れない。だが、驍宗の声はいつになく大きい。
「…あいわかった、そのとおりだ。よく用意してくれた。下がってよい」
あきらかに苛立ちながらも折れた調子の強い声音で、李斎は思わず、そちらを見やっ
た。
考えてみれば、即位式をすませた主上が、どういう理由でどんな指示を出した末に、
こういう準備がなされたのにせよ、少なくともその間に、単独で王宮の端まで行って戻
ったことに変わりはない。天官は立場上、相当に気を揉んだことだろう。
ただ、驍宗は穏やかな気性ではないが、格別癇癪もちではない。その驍宗にこう言わ
せるまで食い下がる天官がいるのだ、と李斎はなにやら感心していた。
李斎はちらと、彼女の皮甲の革紐を結ぶ女官の顔を見おろした。その職業的な無表情
はいささかも、動かない。
「出来たな」
隣室で驍宗は、立ったままで待っていた。この方は、と李斎は少しおかしくそれを見
る。側に椅子があっても掛けようとはしない驍宗に、武人出の王と周囲の、日常の苦労
がのぞいていた。
驍宗は李斎を見た。その表情は、もう全く急いてはいない。
首を傾け、ゆっくりと李斎の支度を眺める。うむ、と頷き、ちらと笑んだ。黒色の皮
甲にいぶし銀の篭手に鈍(にび)色の絹織物。確認の時間はなく、驍宗自身がいま初め
て目にしたものだ。
それは先ほどまで着ていた暗紅色の着物に比べると色目でははるかに地味だが、先ほ
どとは比較にならない位、洗練された装いだった。
皮甲は、武具に限っては職業柄、造詣の深い李斎が、差し出されて思わず見惚れた逸
品であったが、けっして凝りすぎず、派手ではない。白い顔と後ろへ括った赤い髪が、
これ以上はないほどに、すっきりと上品に見えるのを確かめて、驍宗は満足の息を吐く
と、これならばよかろう、と呟いた。
控えめに怪訝な顔をした李斎に、微笑んでみせる。
「時間が厳しかったゆえ、大層急がせたな。どうやら間に合った」
「はい」
――何にどう間に合ったのか、聞いてもいいだろうか。考えたところへ、驍宗が先を
取った。
「これから、範の王に会う」
範、と李斎は口の中で繰り返す。
その大国は、玉の産地である戴にとっては、昔から付き合いの深い、殆ど唯一の他国
だ。
「先ほど、式の後の言祝ぎの席で、急遽決まった。今日お帰りになられる前に、個人的
な面談をもつ。あくまで私的なものゆえ、あちらもお一人で見えられる…」
言葉を切った驍宗は、ここでなぜかちょっと苦笑気味の眉を寄せ、続けた。
「いつも私が不在の折の来戴であったゆえ、直には存じ上げないのだが、なにやら難し
い御仁のようでな。そなたに歓談の護衛を頼みたい」
李斎は驚いた。当然ながら他国の賓客の前になど、彼女は出たこともない。
「すぐに首をすげかえる将軍たちを今更引き合わせても、益など何もない。王師の将軍
として、よい経験になろう」
「まだ拝命しておりません」
「それは言わなくてよろしい。余州の州師の将だと紹介するわけにもいくまい。範の方
には、瑞州侯師の将軍と言っておく。そなたもそのつもりでいるように」
それでしたら他の方でも、と口篭もった李斎に、驍宗は遠慮深いやつだと笑ってみせ
る。
「拝命の決まっているものは皆、現役の禁軍左軍の師帥だ。今日は全員城下の警備に出
払っていて、誰もおらぬ。それに何より、そなたが適任だと思うのだ…、――ああ」
見ると、驍宗の視線の先で、扉を開けて入室したひとりの官が平伏した。
あちらがお部屋を出られたようだな、と驍宗が李斎に言う。
「さて。先に出て待つとしようか」
その言葉に近付いた女官に、黙って冠を直させると、驍宗はさっさと庭に下りて行く。
李斎は追いかけて部屋を横切り、庭園に向かって大きくせりだした露台に出ると、石
造りの広い階段を、自分も足早に降りた。
「その皮甲(よろい)は、先の王后の大僕が用いたものだそうだ」
黙って数歩後ろを歩く李斎に、驍宗が言葉を掛けた。
先ほど掌客殿を出たという客人の姿は、白く広がる石畳のどこにも、まだ見えない。
雲海の上とはいいながら冬の降雪のある白圭宮の庭は、ごく一部をのぞいて、多くが
このような石の庭園である。視界をさえぎらない空間が、どこまでも幾何学的に組まれ、
それを寒さに強い樹木がその濃い緑色でわずかに彩る。
「それで、女物なのでございますね」
李斎は歩きながら答えた。
つけている皮甲は、かつての持ち主の性別と体格を語っている。驍宗は頷いた、
「腕の立つ、よい武官であったようだ。后妃はたいそう可愛がっておいでだったらしい」
「お会いになられたことは」
ないな、と驍宗が答える。后妃が先王の元を去り、王城から出たのは、彼が将軍にな
るより前のことだった。大僕もそのとき職を辞して、后妃に従ったのだと驍宗は語った。
その后妃のことを、民は覚えていないだろう。それほどに、もはや昔であった。
「どちらにおいでなのでございますか」
「いや。仙籍をお返しになられた。おそらくもう、この世にはおられまい」
振り返った驍宗は、李斎の装いに目をやり、少し笑んだ、
「夫君とは違って、趣味のよい方であったようだな。后妃と別れてから、主上の悪趣味
な浪費に、いよいよ拍車がかかった、ということらしい。まこと、男は細君で決まる…」
「…」
これは、驍宗の言としていささか意外なような気もし、己の鈍(にび)色の上衣を見
るともなく見下ろして、李斎は首を傾げた。
その頭の動きに、即位礼のためにこの朝、下官が丹念に櫛削った赤茶色の髪が、重た
い弧を描いて肩に滑った。だが、背中で括られそれ以上は動かぬその髪を、伏せたまつ
げが頬に落とした影を、驍宗がその瞬間、どんな思いの表れた顔で見たものか、俯いた
李斎が知るはずもない。
顔を上げた李斎は、王の沈黙に、瞬いた。それに気づくと、彼はほんのわずか目を細
め、それから視線を外した。
「お見えのようだ」
驍宗が静かに言った。
庭園の向こうを、黒い長袍の、予想に反しほっそりとした影が、緩やかな足取りで歩
んでくるのが見え、李斎は更に二歩下がると、護衛の武官の作法にならい、片膝をつい
て深く頭を垂れた。
それは、六年前の、晴れた秋の日のことであった。