官府の紙に、小学の生徒のような文字が踊る。明朝の六朝議では、三将が自軍の現状
を報告するのである。苦闘の筆墨に微笑んだ驍宗に、李斎がそっと尋ねてみる。
「お読みになれますか」
「ああ。読める…」
顔を上げぬままの即答に、李斎の表情にはちらと一瞬、控えめながら得意の色がさす。
彼女は姿勢を正した。
「明日には浄書を提出します」
「うむ。よく間に合わせた。かなり苦労だった様子だが」
「はい。ですが、左手が遅いせいばかりとは申せません。元からこうした机仕事は大変
に苦手で、正直なところ、嫌々やっておりましたので」
しかめ気味の顔でそう答えると、快活に笑んだ。それは、昔と同じ顔である。
李斎は、別段、無理をしているわけではない。
彼女はとうに、自分の身体の現実から、寸毫目をそらしてはいない。そのうえで、残
された左手が、身体と周囲に折り合いをつける様を、日々楽しもうと決めていた。不器
用な左手に落胆せぬように努め、さげすむことを思わずに、その進歩を評価することに
していた。
生来の性質(たち)と、子供のように物事を楽しめる傾向を、今回の喪失にあっても
彼女は手放さなかった。このごろでは実際、楽しんでいることさえある。
この強さだ。と、驍宗は目を細めて、彼女を見る。
かつて驍宗は彼女を、夏の光の中で、彼女が人生における輝かしさの殆ど全てを持っ
ているときに、見初めた。
この女だ、と思った。
優れた才能と健康な体、それらをいかせる仕事がそろい、しかも仙であるかぎり老い
ることのない者が、自信に溢れ、強く朗らかでいられるのは、むしろ当然であるのかも
しれない。
だが人生は、本来が、失うものだ。
彼女は失い、驍宗も失った。彼らの戴は、それよりも、まだもっと多くを失った。そ
れは、けっしてあがなわれることのない損失だった。
死んでいった数十万の民の命。彼はその全てを背負い、ここまで衰えきった国と民を、
この先、命の果てまで背負う。
いま、覚束ない手蹟をもって淡々と、書面の作成を――おそらくは、彼女が将軍とし
て果たす、最後から幾番目かの仕事になるだろうそれを――、苦手だなどと笑いながら
こなしている姿に、驍宗は改めて、感慨と確信をもって、視線をそそいだ。
この女なのだ。と。
七年前は、いつかはと思った。いまは違う。どうでもすぐに、側に来てもらう必要が
ある。
しかしながら、まだ驍宗はそこに立っている。驍宗のなかで、既に当然のこととして
決定しているそれを現実にするには、まず李斎にとってはいまだ当然のことではないと
いう事実を、なんとかしなくてはならない。
驍宗は、彼にしては珍しく、逡巡して言葉を探し、そして切り出した。
「今日は、話をしたいと思って訪ねた」
「はい」
すでに聞く態勢で、緊張感を漲らせてこちらを見る李斎に、驍宗は眉を寄せ、傍らの
椅子に目をやって、掛けるよう、促した。
李斎は、驍宗の眼光に背を押されて、先に腰掛ける。驍宗が向かいの上座に袖を捌い
て座る。
「なんでございましょうか」
真正面から尋ねる李斎の顔には、仕事の文字しか見えぬ。驍宗は内心嘆息する。これ
では、七年前となにも変わらない。
「李斎は…」
「はい」
「――私に言いたいことは、ないか?」
誰か第三者が内実を承知で聞いたなら、頭を抱えたに違いない台詞を、大真面目に言
った後、驍宗は李斎を鋭い目つきで見据えた。
李斎は目を丸くして、驍宗を見返した。
「――申し上げたいこと、…で、ございますか」
李斎は瞬いた。あきらかに、当惑しているのだった。
「個人的に、なにか…いや、どんなことでもよいのだ、――私に言っておきたいことが
あるならば、この機会に聞きたいと思う。何なりと、言ってもらいたい」
李斎はまた目を瞬いた。そして、もう一度驍宗の顔を窺うように、見返す。
――このような、一対一の御下問をなさるために、主上御ん自ら、各府第をまわって
おられるというのだろうか…?それで、瑞州府へもお運びになられたのだろうか。
余人は知らず、それが驍宗であってみれば、忌憚のない意見を直に聴取するためなら
ば、ありえそうな気もする。
ふと、見つめ返していた李斎が、どこか、遠い表情のうちに、口を動かした。
「…どんなことでも…、」
うむ、と驍宗が頷く。
「どんなことでも、よい」
李斎は、驍宗を見た。その目に、甘やかな思いなど、微塵も映ってはいない。どちら
かといえば、悲壮な顔であった。
落ち着いてはいるが、表情は固く、幾分か血の気が引いている。向けられた射抜くよ
うな目の色に、驍宗はわずかに息を飲んだ後、やはりまともに、見返した。
「それでは、ひとつだけ、どうしても主上にお聞き頂きたいことがございます。…よろ
しいでしょうか」
驍宗は真顔で頷き、
「聞こう」
と低く言った。
李斎は背筋が震えたと思った。
浅くつばを飲み込み、一瞬だけ目を閉じてから、居住まいを正した。
彼女は、穏やかな口調で話し始めた。言葉は殆ど選ばなかった。時間が、ほかには物
音のない広い部屋に、さらさらと流れた。
驍宗は黙って、李斎の顔から目をそらすことなく、耳を傾けた。彼は相槌のかわりに、
目を据えたままごく浅く頷くよりほかは、身じろぎもしなかった。そして李斎も、ただ
の一度も、驍宗の厳しい眼差しに臆さずに、語り続けた。
それは、今日この日まで誰一人として、驍宗の前で行うことのなかった、――報告な
どではなく――主観的で率直な、意見の表明であった。
驍宗が王として、麒麟である台輔の様子に民意をはかっていた事実を、まず李斎は確
認した。そして、七年前のある日、驍宗自らが李斎に対して、その考えを明かしたこと
を覚えておられるだろうか、と問うた。
驍宗は短く、覚えている、と答えた。
李斎の目もとが、かすかだが、自分でも意識せずに和んだ。
寒い霜夜であった。夜更けてひとり、内殿の庭園内で途方に暮れていた李斎は、思い
がけず驍宗から声をかけられ、路亭に同席して、しばらくの間、話をしたのだ。
李斎の表情がまた固くなった。
「――あの日、主上は、台輔に見せない方がよいと思われることは、民にも見せるべき
でないと思う、と仰せになりました。私はそれに同意しました」
驍宗は再び無言で頷いた。李斎は続けた。
「ですが、それは間違いだったと、いまでは思っております」
せつな、目がまともに合う。どちらもそらさない。
李斎は声が震えないようにと努めながら、そのまま続けた。
「民の目からは、何も隠してはいけなかったのです…」
隠すこと自体が過ちだったのだ…。玉座を奪われたのは、驍宗の罪咎でないとしても、
あれだけは覆うべくもない非であった。しばらく前から、李斎は、そう考えるに到って
いた。
元来、疑問あらば声をあげるにやぶさかではない李斎であったが、それでも驍宗の過
ちを認めるのは、少なからず恐ろしかった。現に、鴻基を離れて幾年もの間、一度も考
えようとはしなかった。当時、偽王と戦う李斎にとって、それは考えてはいけないこと
だったのである。
正当な泰王から、阿選は玉座を奪い、民を虐げている。あまつさえこの非道に、天の
救済がない。驍宗に完全な正義と道があること、彼がいかなる落ち度もない立派な王で
あったことが、あの数年、李斎らの唯一の支えだったのだ。
李斎が、驍宗にもまた幾ばくかの落ち度はあり得たはずだ、という、言ってみれば当
然のことを口にしたのは、六年もが過ぎてからであった。泰麒の救出を巡り、蓬山へ向
かったときが、最初である。
ただ、相手への譲歩として口にしたそれは、まだ論戦の上の技術にすぎなかった。
そうして去年の夏の終り、蓬莱から戻った台輔の口から回想を聞き、その当時の心情
をうちあけられて、李斎は自分の考えから、もはや逃れられなくなった。
王は、ひとである。天さえ過つものを、ひとが過たぬはずもない。
彼女の王、驍宗もまた、過ったのだ。彼女は、それを認めた。
七年前の粛清に、李斎は参加していた。彼女が自分の目で見、秋官の長が親友であっ
たことから、その専門家としての法的見解をも聞いていた。だから李斎は、驍宗のした
ことが、規模が大で――処分された人数が非常に多く――、しかもきわめて短期間で行
われたため凄惨な様相を呈しはしたが、ひとつひとつは徹頭徹尾、合法であったことを
よく知っていた。
確かに、処刑が公開されなかったことだけは、どの国の通例とも異なっていた。だが
それ自体は、天綱のどこにも禁じられてはいない。地綱は改正してあった。つまり天に
も地にも、いかなる法の文言(もんごん)にも抵触してはいなかった。――それでも、
間違っていた。
先ほど驍宗に問われて李斎は、それを言う、生涯にもう二度とはない機会を得たのだ
と思った。
不興を買うのは覚悟の上であった。彼女が将軍であるのは、あとわずかな時間だった。
官として臣として、戴国と王のためにできることは、もう大して残されてはいない。
官を退くその前に、申し述べておきたいことが、確かに李斎にはあったのである。
泰麒から、恐ろしいことを耳に入れてくれたからこそ、阿選を信じたのだと告白され
たとき、自分がどう感じ、なにを考えたかを、李斎は淡々と語った。
そして最後に、驍宗に対して、どうか二度と、台輔の目から何も隠してはくれるな。
麒麟の目に映るのが民の恐怖だとの主上のお考えには、いまも心から敬服しており、正
しいものと信じる。ただ、あの目は、それを見せるかどうかではなく、麒麟を恐怖させ
てもなお、今すぐに為さねばならぬかどうかの基準とすべきだったのだ――。そう熱心
に、李斎は説いた。
ひよっとしたら驍宗はとうに悟り、得心していることであったかもしれない。だが、
それでも臣の誰かが言う必要がある、と李斎は思っていた。
李斎が話すのを終えたとき、驍宗はしばらくなにも語らなかった。
ややあって、彼は静かに口を開いた。
あのとき、と驍宗は言った。霜の夜の路亭でのことだ。
「考え深いそなたが、よくよくの思いで訴えただろうものを、私は説き伏せ、納得させ
てしまったのだったな」
「主上…」
向けられる目は常のように苛烈ではあったが、気配はけっして波立ってはおらず、む
しろ穏やかに凪いでいた。
李斎はその凪を見ていた。なぜだか、目を離せずに見ていた。
このまま、一生でも見続けたい光景だと、そんなことを思い、瞬きもしなかった。
よく分かった、と驍宗が低くかみ締めるように告げたとき、李斎は緊張が解けた勢い
で、自分が泣き出すのではないかと思った。ぐっとこらえて、俯いた。
「――二度と、民に隠すことだけはせぬ。そのことを、」
驍宗は言葉を切った。
「そなたに誓う」
李斎は顔を上げ、首を傾けて、驍宗を見た。
「……」
驍宗はしごく真面目な顔をしていた。
李斎はなにか言いかけて唇を動かしたが、声にはならなかった。
「きっと、約束する。……分かったか?」
驍宗の目を見たままで、李斎は思わず、黙って頷いていた。
驍宗はそれを見、自分も頷いた。頷いた後、はっきりと笑んだ。
この日驍宗は、まもなく李斎の仕事部屋を辞した。
李斎は驍宗を送って、机に戻らず、先ほどの椅子にまた掛けた。彼女はしばらく何も
せず、そこに座っていた。
それから李斎は、大机の上の、もうあらかた出来てしまった報告書の草案を脇へ押し
やって、官紙の反故を取り出し、考え考え別の下書きを始めた。わずか数行でそれを書
き終えると、今度は奏書に用いられる紙を引き出してきて、静かに墨をすった。
厚手の白い上質の紙には、丸い大きな子供ぶりの文字で、注意深く丁寧に、挂綬の允
許を請う、と、まず記された。
挂綬(けいじゅ)とは綬を解いてかけおく――すなわち、辞職の意である。
を報告するのである。苦闘の筆墨に微笑んだ驍宗に、李斎がそっと尋ねてみる。
「お読みになれますか」
「ああ。読める…」
顔を上げぬままの即答に、李斎の表情にはちらと一瞬、控えめながら得意の色がさす。
彼女は姿勢を正した。
「明日には浄書を提出します」
「うむ。よく間に合わせた。かなり苦労だった様子だが」
「はい。ですが、左手が遅いせいばかりとは申せません。元からこうした机仕事は大変
に苦手で、正直なところ、嫌々やっておりましたので」
しかめ気味の顔でそう答えると、快活に笑んだ。それは、昔と同じ顔である。
李斎は、別段、無理をしているわけではない。
彼女はとうに、自分の身体の現実から、寸毫目をそらしてはいない。そのうえで、残
された左手が、身体と周囲に折り合いをつける様を、日々楽しもうと決めていた。不器
用な左手に落胆せぬように努め、さげすむことを思わずに、その進歩を評価することに
していた。
生来の性質(たち)と、子供のように物事を楽しめる傾向を、今回の喪失にあっても
彼女は手放さなかった。このごろでは実際、楽しんでいることさえある。
この強さだ。と、驍宗は目を細めて、彼女を見る。
かつて驍宗は彼女を、夏の光の中で、彼女が人生における輝かしさの殆ど全てを持っ
ているときに、見初めた。
この女だ、と思った。
優れた才能と健康な体、それらをいかせる仕事がそろい、しかも仙であるかぎり老い
ることのない者が、自信に溢れ、強く朗らかでいられるのは、むしろ当然であるのかも
しれない。
だが人生は、本来が、失うものだ。
彼女は失い、驍宗も失った。彼らの戴は、それよりも、まだもっと多くを失った。そ
れは、けっしてあがなわれることのない損失だった。
死んでいった数十万の民の命。彼はその全てを背負い、ここまで衰えきった国と民を、
この先、命の果てまで背負う。
いま、覚束ない手蹟をもって淡々と、書面の作成を――おそらくは、彼女が将軍とし
て果たす、最後から幾番目かの仕事になるだろうそれを――、苦手だなどと笑いながら
こなしている姿に、驍宗は改めて、感慨と確信をもって、視線をそそいだ。
この女なのだ。と。
七年前は、いつかはと思った。いまは違う。どうでもすぐに、側に来てもらう必要が
ある。
しかしながら、まだ驍宗はそこに立っている。驍宗のなかで、既に当然のこととして
決定しているそれを現実にするには、まず李斎にとってはいまだ当然のことではないと
いう事実を、なんとかしなくてはならない。
驍宗は、彼にしては珍しく、逡巡して言葉を探し、そして切り出した。
「今日は、話をしたいと思って訪ねた」
「はい」
すでに聞く態勢で、緊張感を漲らせてこちらを見る李斎に、驍宗は眉を寄せ、傍らの
椅子に目をやって、掛けるよう、促した。
李斎は、驍宗の眼光に背を押されて、先に腰掛ける。驍宗が向かいの上座に袖を捌い
て座る。
「なんでございましょうか」
真正面から尋ねる李斎の顔には、仕事の文字しか見えぬ。驍宗は内心嘆息する。これ
では、七年前となにも変わらない。
「李斎は…」
「はい」
「――私に言いたいことは、ないか?」
誰か第三者が内実を承知で聞いたなら、頭を抱えたに違いない台詞を、大真面目に言
った後、驍宗は李斎を鋭い目つきで見据えた。
李斎は目を丸くして、驍宗を見返した。
「――申し上げたいこと、…で、ございますか」
李斎は瞬いた。あきらかに、当惑しているのだった。
「個人的に、なにか…いや、どんなことでもよいのだ、――私に言っておきたいことが
あるならば、この機会に聞きたいと思う。何なりと、言ってもらいたい」
李斎はまた目を瞬いた。そして、もう一度驍宗の顔を窺うように、見返す。
――このような、一対一の御下問をなさるために、主上御ん自ら、各府第をまわって
おられるというのだろうか…?それで、瑞州府へもお運びになられたのだろうか。
余人は知らず、それが驍宗であってみれば、忌憚のない意見を直に聴取するためなら
ば、ありえそうな気もする。
ふと、見つめ返していた李斎が、どこか、遠い表情のうちに、口を動かした。
「…どんなことでも…、」
うむ、と驍宗が頷く。
「どんなことでも、よい」
李斎は、驍宗を見た。その目に、甘やかな思いなど、微塵も映ってはいない。どちら
かといえば、悲壮な顔であった。
落ち着いてはいるが、表情は固く、幾分か血の気が引いている。向けられた射抜くよ
うな目の色に、驍宗はわずかに息を飲んだ後、やはりまともに、見返した。
「それでは、ひとつだけ、どうしても主上にお聞き頂きたいことがございます。…よろ
しいでしょうか」
驍宗は真顔で頷き、
「聞こう」
と低く言った。
李斎は背筋が震えたと思った。
浅くつばを飲み込み、一瞬だけ目を閉じてから、居住まいを正した。
彼女は、穏やかな口調で話し始めた。言葉は殆ど選ばなかった。時間が、ほかには物
音のない広い部屋に、さらさらと流れた。
驍宗は黙って、李斎の顔から目をそらすことなく、耳を傾けた。彼は相槌のかわりに、
目を据えたままごく浅く頷くよりほかは、身じろぎもしなかった。そして李斎も、ただ
の一度も、驍宗の厳しい眼差しに臆さずに、語り続けた。
それは、今日この日まで誰一人として、驍宗の前で行うことのなかった、――報告な
どではなく――主観的で率直な、意見の表明であった。
驍宗が王として、麒麟である台輔の様子に民意をはかっていた事実を、まず李斎は確
認した。そして、七年前のある日、驍宗自らが李斎に対して、その考えを明かしたこと
を覚えておられるだろうか、と問うた。
驍宗は短く、覚えている、と答えた。
李斎の目もとが、かすかだが、自分でも意識せずに和んだ。
寒い霜夜であった。夜更けてひとり、内殿の庭園内で途方に暮れていた李斎は、思い
がけず驍宗から声をかけられ、路亭に同席して、しばらくの間、話をしたのだ。
李斎の表情がまた固くなった。
「――あの日、主上は、台輔に見せない方がよいと思われることは、民にも見せるべき
でないと思う、と仰せになりました。私はそれに同意しました」
驍宗は再び無言で頷いた。李斎は続けた。
「ですが、それは間違いだったと、いまでは思っております」
せつな、目がまともに合う。どちらもそらさない。
李斎は声が震えないようにと努めながら、そのまま続けた。
「民の目からは、何も隠してはいけなかったのです…」
隠すこと自体が過ちだったのだ…。玉座を奪われたのは、驍宗の罪咎でないとしても、
あれだけは覆うべくもない非であった。しばらく前から、李斎は、そう考えるに到って
いた。
元来、疑問あらば声をあげるにやぶさかではない李斎であったが、それでも驍宗の過
ちを認めるのは、少なからず恐ろしかった。現に、鴻基を離れて幾年もの間、一度も考
えようとはしなかった。当時、偽王と戦う李斎にとって、それは考えてはいけないこと
だったのである。
正当な泰王から、阿選は玉座を奪い、民を虐げている。あまつさえこの非道に、天の
救済がない。驍宗に完全な正義と道があること、彼がいかなる落ち度もない立派な王で
あったことが、あの数年、李斎らの唯一の支えだったのだ。
李斎が、驍宗にもまた幾ばくかの落ち度はあり得たはずだ、という、言ってみれば当
然のことを口にしたのは、六年もが過ぎてからであった。泰麒の救出を巡り、蓬山へ向
かったときが、最初である。
ただ、相手への譲歩として口にしたそれは、まだ論戦の上の技術にすぎなかった。
そうして去年の夏の終り、蓬莱から戻った台輔の口から回想を聞き、その当時の心情
をうちあけられて、李斎は自分の考えから、もはや逃れられなくなった。
王は、ひとである。天さえ過つものを、ひとが過たぬはずもない。
彼女の王、驍宗もまた、過ったのだ。彼女は、それを認めた。
七年前の粛清に、李斎は参加していた。彼女が自分の目で見、秋官の長が親友であっ
たことから、その専門家としての法的見解をも聞いていた。だから李斎は、驍宗のした
ことが、規模が大で――処分された人数が非常に多く――、しかもきわめて短期間で行
われたため凄惨な様相を呈しはしたが、ひとつひとつは徹頭徹尾、合法であったことを
よく知っていた。
確かに、処刑が公開されなかったことだけは、どの国の通例とも異なっていた。だが
それ自体は、天綱のどこにも禁じられてはいない。地綱は改正してあった。つまり天に
も地にも、いかなる法の文言(もんごん)にも抵触してはいなかった。――それでも、
間違っていた。
先ほど驍宗に問われて李斎は、それを言う、生涯にもう二度とはない機会を得たのだ
と思った。
不興を買うのは覚悟の上であった。彼女が将軍であるのは、あとわずかな時間だった。
官として臣として、戴国と王のためにできることは、もう大して残されてはいない。
官を退くその前に、申し述べておきたいことが、確かに李斎にはあったのである。
泰麒から、恐ろしいことを耳に入れてくれたからこそ、阿選を信じたのだと告白され
たとき、自分がどう感じ、なにを考えたかを、李斎は淡々と語った。
そして最後に、驍宗に対して、どうか二度と、台輔の目から何も隠してはくれるな。
麒麟の目に映るのが民の恐怖だとの主上のお考えには、いまも心から敬服しており、正
しいものと信じる。ただ、あの目は、それを見せるかどうかではなく、麒麟を恐怖させ
てもなお、今すぐに為さねばならぬかどうかの基準とすべきだったのだ――。そう熱心
に、李斎は説いた。
ひよっとしたら驍宗はとうに悟り、得心していることであったかもしれない。だが、
それでも臣の誰かが言う必要がある、と李斎は思っていた。
李斎が話すのを終えたとき、驍宗はしばらくなにも語らなかった。
ややあって、彼は静かに口を開いた。
あのとき、と驍宗は言った。霜の夜の路亭でのことだ。
「考え深いそなたが、よくよくの思いで訴えただろうものを、私は説き伏せ、納得させ
てしまったのだったな」
「主上…」
向けられる目は常のように苛烈ではあったが、気配はけっして波立ってはおらず、む
しろ穏やかに凪いでいた。
李斎はその凪を見ていた。なぜだか、目を離せずに見ていた。
このまま、一生でも見続けたい光景だと、そんなことを思い、瞬きもしなかった。
よく分かった、と驍宗が低くかみ締めるように告げたとき、李斎は緊張が解けた勢い
で、自分が泣き出すのではないかと思った。ぐっとこらえて、俯いた。
「――二度と、民に隠すことだけはせぬ。そのことを、」
驍宗は言葉を切った。
「そなたに誓う」
李斎は顔を上げ、首を傾けて、驍宗を見た。
「……」
驍宗はしごく真面目な顔をしていた。
李斎はなにか言いかけて唇を動かしたが、声にはならなかった。
「きっと、約束する。……分かったか?」
驍宗の目を見たままで、李斎は思わず、黙って頷いていた。
驍宗はそれを見、自分も頷いた。頷いた後、はっきりと笑んだ。
この日驍宗は、まもなく李斎の仕事部屋を辞した。
李斎は驍宗を送って、机に戻らず、先ほどの椅子にまた掛けた。彼女はしばらく何も
せず、そこに座っていた。
それから李斎は、大机の上の、もうあらかた出来てしまった報告書の草案を脇へ押し
やって、官紙の反故を取り出し、考え考え別の下書きを始めた。わずか数行でそれを書
き終えると、今度は奏書に用いられる紙を引き出してきて、静かに墨をすった。
厚手の白い上質の紙には、丸い大きな子供ぶりの文字で、注意深く丁寧に、挂綬の允
許を請う、と、まず記された。
挂綬(けいじゅ)とは綬を解いてかけおく――すなわち、辞職の意である。
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