「いいのですか」
「どうぞ」
李斎は一瞬ためらった後、出された腕につかまってそれを支えに身軽く鞍に登り、前
から右足を渡して姿勢を整えた。鐙(あぶみ)がないのでやや不安定だが、驍宗が手綱
を離さない。
日は中天に高高と、夏の蓬山を照らしていた。
「鞍に掴まられよ。手綱をとらせて差し上げたいが、計都に私ごと振り落とされる」
頷くと、驍宗は右手にとっていた手綱を、李斎の背後から両の手に持ち替えた。
「――ハイっ」
驍宗が低く声をかけて鐙を蹴ると、計都は不承不承歩みはじめた。背に乗ってみれば、
すう虞はやはり大きい。天馬としても小柄な飛燕を乗騎にしていることもあり、戸惑う
ほどに肩は広くその首は太い。だが歩みは、虎に似る獣らしく、なんと軽快でしなやか
なことだろうか。
「いかがか」
「素晴らしいですね。でも…」
くすりと李斎は笑った。
「少し変な気分です」
背後で首を傾げたであろう驍宗に答える。
「背で手綱をとっていただいて鞍に掴まっていると、子供に戻った気がする。なんだか
初めて乗馬を教わった日のようで」
驍宗が小さく笑ったようだった。
「馬をお持ちだったか」
「父の軍馬です」
「なるほど」
穏やかな声が、背に暖かく感じられる。李斎はわずか首を傾けた。
「…少し駆けさせよう。ハっ」
獣は指示に従い、緩やかに速歩から駆け足へと移る。黄海と蓬山を隔てる牌門までは
下りの岩場がつづれ折りになって続く。門を出るまで騎獣は飛行できないが、それでも
すう虞は飛ぶように走る。妖魔が襲ってこないので、この門までの往復は騎獣の運動に
は恰好だ。
「お小さいころから、お転婆でいらしたか」
「はい、それはもう」
おどけて答えると、驍宗の楽しげな笑い声が返ってきた。
「驍宗殿は?いつから馬に乗られました」
「…馬は後だった。私は先に騎獣に乗ったので」
「騎獣、ですか?」
李斎は瞬いた。騎獣は高価で、成獣ばかりだから概して大きいし、気性も荒い。少な
くとも子供の教育には向いていない。李斎の疑問に驍宗が答えた。
「序学に通っていた頃、将軍の乗騎に乗ってみた。厩番の兵と顔なじみになって、休み
のたびにその男が遊びに出かける間、代わりに騎獣の世話をして、ついでに少々拝借し
た」
李斎は少し呆れながら聞いた。
「乗せてくれましたか」
「振り落とされた」
「お怪我は」
「あばらを二本折り申した」
李斎は目を丸くした。
「仙に、なられる前のことでしょう」
「いかにも」
「それで、どうなされた」
驍宗は悪びれず答えた。
「次の休みにまた乗った」
二人の笑い声が奇岩を行く風に乗って、たなびいた。
「…そんなこともあったか」
「ございました」
すう虞の背で二人は笑み交わした。
あのときと同じように、驍宗が背後から手綱を取っている。違うのは二人とも鎧をつ
けてはいないことだ。驍宗は冠に上げた髪をおさめ、李斎は臙脂色の絹の裳裾を風にな
びかせている。もっと違うのは、横乗りの李斎が驍宗にゆったりとその背を預けている
ことだろう。
風は黄海を行く夏の風ではない。北東の極国の丘に吹きつける、秋の風だ。
「寒くはないか」
「大丈夫です」
「手綱をとってみるか」
「いいのですか」
驍宗は笑んで、左手を替わらせた。そっと上から手を添える。
李斎は嬉しげに背を伸ばすと、短く声を掛けて、手綱をしならせた。賢く勇猛な獣は、
ゆるゆると速度を増す。
「…少し押さえよ。振り落とされても知らぬぞ」
「そのときは主上にいっしょに落ちていただきます」
「お転婆は一生治らぬか」
「はい、それはもう」
あの日乗った計都は、もういない。
「どうぞ」
李斎は一瞬ためらった後、出された腕につかまってそれを支えに身軽く鞍に登り、前
から右足を渡して姿勢を整えた。鐙(あぶみ)がないのでやや不安定だが、驍宗が手綱
を離さない。
日は中天に高高と、夏の蓬山を照らしていた。
「鞍に掴まられよ。手綱をとらせて差し上げたいが、計都に私ごと振り落とされる」
頷くと、驍宗は右手にとっていた手綱を、李斎の背後から両の手に持ち替えた。
「――ハイっ」
驍宗が低く声をかけて鐙を蹴ると、計都は不承不承歩みはじめた。背に乗ってみれば、
すう虞はやはり大きい。天馬としても小柄な飛燕を乗騎にしていることもあり、戸惑う
ほどに肩は広くその首は太い。だが歩みは、虎に似る獣らしく、なんと軽快でしなやか
なことだろうか。
「いかがか」
「素晴らしいですね。でも…」
くすりと李斎は笑った。
「少し変な気分です」
背後で首を傾げたであろう驍宗に答える。
「背で手綱をとっていただいて鞍に掴まっていると、子供に戻った気がする。なんだか
初めて乗馬を教わった日のようで」
驍宗が小さく笑ったようだった。
「馬をお持ちだったか」
「父の軍馬です」
「なるほど」
穏やかな声が、背に暖かく感じられる。李斎はわずか首を傾けた。
「…少し駆けさせよう。ハっ」
獣は指示に従い、緩やかに速歩から駆け足へと移る。黄海と蓬山を隔てる牌門までは
下りの岩場がつづれ折りになって続く。門を出るまで騎獣は飛行できないが、それでも
すう虞は飛ぶように走る。妖魔が襲ってこないので、この門までの往復は騎獣の運動に
は恰好だ。
「お小さいころから、お転婆でいらしたか」
「はい、それはもう」
おどけて答えると、驍宗の楽しげな笑い声が返ってきた。
「驍宗殿は?いつから馬に乗られました」
「…馬は後だった。私は先に騎獣に乗ったので」
「騎獣、ですか?」
李斎は瞬いた。騎獣は高価で、成獣ばかりだから概して大きいし、気性も荒い。少な
くとも子供の教育には向いていない。李斎の疑問に驍宗が答えた。
「序学に通っていた頃、将軍の乗騎に乗ってみた。厩番の兵と顔なじみになって、休み
のたびにその男が遊びに出かける間、代わりに騎獣の世話をして、ついでに少々拝借し
た」
李斎は少し呆れながら聞いた。
「乗せてくれましたか」
「振り落とされた」
「お怪我は」
「あばらを二本折り申した」
李斎は目を丸くした。
「仙に、なられる前のことでしょう」
「いかにも」
「それで、どうなされた」
驍宗は悪びれず答えた。
「次の休みにまた乗った」
二人の笑い声が奇岩を行く風に乗って、たなびいた。
「…そんなこともあったか」
「ございました」
すう虞の背で二人は笑み交わした。
あのときと同じように、驍宗が背後から手綱を取っている。違うのは二人とも鎧をつ
けてはいないことだ。驍宗は冠に上げた髪をおさめ、李斎は臙脂色の絹の裳裾を風にな
びかせている。もっと違うのは、横乗りの李斎が驍宗にゆったりとその背を預けている
ことだろう。
風は黄海を行く夏の風ではない。北東の極国の丘に吹きつける、秋の風だ。
「寒くはないか」
「大丈夫です」
「手綱をとってみるか」
「いいのですか」
驍宗は笑んで、左手を替わらせた。そっと上から手を添える。
李斎は嬉しげに背を伸ばすと、短く声を掛けて、手綱をしならせた。賢く勇猛な獣は、
ゆるゆると速度を増す。
「…少し押さえよ。振り落とされても知らぬぞ」
「そのときは主上にいっしょに落ちていただきます」
「お転婆は一生治らぬか」
「はい、それはもう」
あの日乗った計都は、もういない。
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