「氾台輔。お風邪を召されますよ」
左手でそっと揺すると、寝入っていた幼なさの残る小さな顔が、金色の髪をふるん、
と振ってまぶたを持ち上げた。
「あら、李斎…」
当たり前のように両の腕が伸べられる。李斎は微笑んで、首につかまらせてやった。
少女がふわりと身を起こす。それを助けるのは苦にならない。十五六歳の外見をしてい
ても、麒麟は軽い。
台輔も、と小さな子供の姿が浮かぶ。少年の外見でも、幼子のように軽かった…。
稚く目をこする仕草が、李斎の中で遠い麒麟に重なったのを、聡く察知した少女は、
その手を下し、李斎を見た。
「まだ、六太帰ってきてない?」
「まだでいらっしゃるようです。わたくしも今来たところでございますが」
言いながら、向こうへ歩んだ背の高い女性は、すいと左手を上げ、棚の上の小さな火
炉をとった。
「あら李斎。座っていてよ。私がやるわ」
飛んで起きた少女を振りかえって、李斎は驚いたように首を振った。
「とんでもない。氾台輔に淹れて頂いたお茶など、李斎は畏れ多くて飲んだりできませ
んよ」
少女は口をとがらせた。
「梨、雪。――ほんとに手伝わなくていいの?」
李斎は微笑んだ。
「梨雪さま。――はい。大丈夫でございます」
成る程、隻腕になったばかりの彼女は、もう十年もそうしてでもいたように、あめ色
の方形の案(つくえ)の上で、片手だけを器用に往復させて、無駄のない動きで茶を淹
れてゆく。氾台輔梨雪は、どこか不思議な気持ちで、その立ち姿と所作とにみとれた。
「李斎は…」
「はい?」
花の香りの湯気が差し出された。ありがとう、と細い可憐な指先で茶器を受け取り、
少女は一口すすると、おいしさににっこりした。立ったままの李斎に自分の隣に座るよ
うに促す。ためらった李斎だが、この麒麟の天下無敵の笑顔の威力に、おとなしく長椅
子に並んだ。
夏の日差しは中天からもう幾分か傾いて、奥まったこの書院にも、午後の太陽がさし
入り初めている。
藤棚の緑色が、光に透けて床に影を落とし、窓ごしにとりどりの夏の花が咲き乱れる
のが見える。金波宮の主はまだ、午後の政務の最中だろう。そしてその閣僚たちも、州
侯を兼ねる台輔も、日常の仕事に忙殺されている時刻であった。
この時間にのんびりとお茶を飲んでいられるのは、客分たち、なかでもその主たちだ
けである。
麒麟たちは、夜を日についで、蓬莱との往復に忙しい。
そして、行き方知れずの麒麟がみつかった、との知らせは、まだ来ない。
太師邸から、今日もう何度目かの蘭雪堂もうでをした李斎は、書院の長椅子の中に、
くたびれ果てて眠っている、範国の麒麟の姿を見つけたのだった。
「…李斎は、うちの主上に以前、お会いしたことがあるんだったわね」
もうひとすすりして、少女が聞いた。
「はい。主上…泰王驍宗様の即位式の日に。一度だけ、お目にかかっております」
「泰王の即位式ね。よく覚えているわよ。六年前の秋でしょう?いつも戴旅行の後は、
ひとしきり文句を言って、ぶりぶり怒ってそれは大変だったのに、あのときは、皆が吃
驚するくらい、御機嫌でお帰りになられたんだから」
「そうなのでございますか?」
「そうよ。特に…、ええと、玉、だったかしら?ああ、いえ違う――磨く前の璞玉(は
くぎょく)だわ!お国の宝に、ものすごく価値のある璞玉があるんでしょう?それのお
話をなさって…なんでも磨けば、戴一国に匹敵する値打ちだとか」
李斎は首を傾け、そして振った。
「さぁ…。そのようなお品があるのでございますか?」
「あら。見たことないの?泰王が、とても大切にしておられたそうよ」
李斎は困ったように笑った。
「いいえ。王の御物など、普通、一介の将軍に見られるものではございませんので」
氾麟は目をくるりとさせた。
「うちの主上から、泰王と会われたとき李斎もずっと一緒だった、とうかがったわ」
李斎は微笑み、頷いた。
「さようでございます。でも、あのときわたくしは、大僕としてお二人の歓談に、少し
後を歩いて付き従っただけです。お二人は王宮内を散策なさりながら、いろいろとお話
であったと記憶しておりますが、もとより、お話の内容までは聴いてはおりません」
「王師の将軍が、大僕を?」
李斎は、少しばつが悪そうに笑んだ。
「臨時のことで。それも、実を申し上げれば、王師の将軍ではありません」
「どういうこと?李斎は瑞州の将軍なんでしょ」
「わたくしは、あの即位式に、主である承州侯の随従として参ったのです。当時の身分
は、州師は州師でも、承州師の左将軍。本来、お顔を記憶させて頂けるほど、他国の王
を間近にお見上げ出来るような立場では、ございませんでした……」
まだ、廉麟に伴われた六太は戻ってこなかった。延も氾も姿を見せない。小さな書院
で、手のひらの淡紅色の茶杯の中で、花の香りがしている。
「お待ちを…!困ります、どなたであろうと、この先は…っ」
礼服を、常の服に改める途中にあった部屋の老主人が、何事かと、顔を上げたときに
は、既に彼の優秀な武官が二名ばかり、刀の柄に手をかけて、部屋から外へ走り出てい
た。
「御心配なく。あの者たちなら大丈夫でございましょう」
彼をかばうように扉に向かって側に立ち、小声で告げた彼の将軍に、老州侯は愛娘に
するように、小さく微笑み頷いた。
「なに、劉がいるのだから、心配なぞしておらぬよ」
手を止めた小官を促して、佩玉を結ばせた主だったが、廊下遠くのその騒ぎは次第に
近くなり、そのまま、扉の前まで来てしまった。
勢い良く放たれた扉から、後向きに部屋に戻って来た武官たちを見ると、将軍が険し
く叱咤した、
「何をしている貴公ら。侯の御前を、むざむざ騒がせるとは」
ですが、とやや情けない声音を発して口篭もった武官のその肩を、押しのけるように
現れた人物を見て、左将軍は言葉を失った。
後ろに立つ主も目を丸くして、口をあけた後、その口を閉じた。
整えられたばかりの長衣の袖を捌くと、下座に下りた。しかるのち、静かに平伏する。
「主上」
はっと我に返り、一同が叩頭した。抜き身の刀を下げたまま、唖然としていた官たち
も一斉に刃を背後に回して、頭を垂れる。
「案内(あない)も乞わず、非礼を許されよ。顔を上げて頂きたい、承州侯」
入り口に突っ立った男が太い声音で言い放ち、主はいささか面白そうにすくめた首を
持ち上げた。確かに非礼であった。ひともあろうに最前、一国の王になったばかりの男
が、たったひとりで、州侯の控え室に乗り込むとは。
それを自分で分かっているところが、おかしい。
「して、主上におかれましては、この年寄にいかような御用がおありでしょう…」
みなまで聞かず、王は手を振る。
「時間がないゆえ、手短に申す。一刻ばかりこちらの左将軍を、私にお貸し願えるか」
承侯は驚いて横を見た、そこには承侯以上に驚きに目を見張った将軍本人がいた。
「はぁ」
「よろしいか」
州侯は、驚いたままで頷いた、
「はい。それはよろしゅうございますが」
「うむ、かたじけない」
言うなり、いつも以上に気の急いているらしい、この国の新しい王は、呆然となって
いる将軍を、その主より先に急かした。
「主の許可はとった。行くぞ」
声に気圧され、跳ねるように立ち上がりはしたものの、将軍はまだ目を白黒とさせて、
その場で逡巡していた。幾度か王と、長年の主を見比べる。
苛だった気配を身近に察知し、彼女がはっと主から振りかえったとき、そこに王はい
なかった。
「――ついて参れ。急げ!」
州侯から小さく、しかし鋭く顎でうながされ、今度こそ、李斎は飛び上がり、そのま
ま足早に、王の後を追いかけた。
将軍の後ろ姿の向こう側から、お邪魔致した、との大きな一声が、承侯には返された。
「…――吃驚致しました」
右将軍のため息に近い声に、承州侯は苦笑した。
「…あぁ。そうだな」
そしてくつくつと笑い出した。
「大層な剣幕だ。少なくとも性急なお方というのだけは、本当らしい」
名の知れた驍将であった新王は、噂話にことかかなかった。右将軍もくすっと笑った。
「全くです。彼女の腕でもとって、引きずっていくのかと思いましたよ」
「お前もそう思ったか。だが、――しなかったな」
承侯はどこか満足そうに、微笑んだ。
「そうですね。いくら王といえど、恋人でもない御婦人に、そうそう気安くお手を触れ
たりはなさらないでしょう」
「ふむ」
「やはり、ただの憶測でしたね」
肩をすくめた将軍に、承州侯は首を傾ける。
「ほら、王師に招かれたのは、お二人が蓬山で特別の誼を結ばれたからだという」
「あのような卑しい噺を、信じたのか、お前」
将軍は慌てて首を振った。
「まさか。私は、――いえ、彼女を直接知ってる者ならば、誰も信じたりなどしません
よ。それに、ただいまご覧になられたでしょう、あの他人行儀な王のそぶり。あれで二
人に何かあるなんて思うやつがいたら、お目にかかりたいです。そもそも、仙女だらけ
の蓬山で、乍将軍が劉将軍を見初めるってところが、ちょっとあり得ない話でしたから
ね」
承州侯は沈黙した後で、嘆息した。
「…それが、先ほどの王の御様子を見た感想か。どうやら、お前が嫁をもらうのを見る
のは、まだまだ先のことらしい」
「なんですか、一体」
将軍は話題が思いがけず、一身のことに及んだので、口を曲げた。彼は独身である。
高級官吏に独身者が多い。と、いうのは、他国の常識である。だが少なくとも、この
承州においては、高官で妻帯しないもしくは夫を持たない者は、逆に稀であった。
それは、この州侯個人のありようと深くかかわっていた。彼は、仏教者であった。彼
はその宗教を政治に反映することはけっしてしなかったが、彼の生活には、反映させて
いた。
彼は仏教徒の比較的多いこの承州の出身であり、戴の大学で宗教学をもっぱらに修め
た後、国府に入った。春官府の高官から州侯に抜擢されたとき、一州の統地という大き
な仕事と、長く延ばされる寿命を前にして、学生時代から幾分か信奉してきていたこの
教えの戒律を、自らに課したのだった。
蓬莱からもたらされた仏教は、その性質上、こちらではともすれば単に、徳の範疇に
入るべきことを重くとらえ、戒とする。そのひとつが婚姻重視であり、すべからく婚姻
の契約に対して、男女は忠実たれ、というものである。
彼は歴史上数多くの王が、また彼の周囲の高位の官が、この問題を軽んずることに端
を発し、道を失うのを見てきたこともあって、この戒めを大変有用なものととらえ、厳
格に守った。
州城にも後宮があるが、彼はこれをただひとりの妻に与えた。彼には元々子が二人あ
り、就任してからも幾人かに恵まれたが、みな徳操を以って育て上げ、結婚させて、下
界に出した。
真摯な教育者であり一個の父である、このひとりの男の生き方は、州城のもっとも高
いところから年月かけて徐々に、広く州内に好ましい影響として浸透していき、結果と
して、承州の官のきわめて高い結婚率と、民のきわめて低い離婚率という形であらわれ
ているのだった。
一方彼は、州師に関しては一貫して、特別の干渉、もしくは要求をしてきていた。
それは、兵の質を高めることであった。彼の州師には長年にわたり、強い兵士である
と同時に、教育を受けた善き人であることが要求された。このため、彼の軍は精鋭だっ
たが、無慈悲ではなかった。
指揮官には徳が要求された。州師の戦いの目的は、そもそも州内の内乱と暴動の鎮圧
である。兵を戦わせるに巧みであると同じ位、兵の消費――すなわち戦死――を最少に
おさえて勝利することに長けた指揮官、制圧地域の被害を最小にとどめる才を持つ指揮
官が、淘汰されて残った。
そんななかで、彼が妻と二人で最も愛し、重く用いてきたのが、李斎であった。
彼女は、少学しか出ていなかったが、その軍功は目覚しかった。彼女が師帥になった
とき、彼は可能な限り早くに、このまだ年若い娘に将軍の席を用意しよう、と決意した。
そしてわずか三年で、佐軍将軍(=州において左右中につぐ第四軍の将)に任じた。
彼の思惑は当った。
李斎が将軍を拝命して以来、――破格の大抜擢を受けた若い女性に対する、応分の抵
抗の生じた時期を過ぎた後――、佐軍の雰囲気はがらりと変わり、兵の質は格段に向上
した。それは、やがて他軍の将や兵にも及び、時を経て彼女が左将軍に据えられる頃に
は、承州師は、八州一の練度と、戴随一の教育の高さを謳われるようになっていた。
李斎は、頼りになる将軍であると同時に、実子を育て終わり、すでに外見内実ともに、
老齢である州侯夫妻にとって、娘に等しかった。
そんな彼女を、どんな男に娶(めあ)わせるかは、彼らの長年の楽しみでもあり、嬉
しい心配事でもあった。ところが、彼女は彼らの目に適った男たちのことごとくを、親
しく腹を割って付き合い、何時間でも語り合うことのできる友人にしてしまったのであ
る。
それが…。
州侯は、閉じた扉の方を見るともなく見やると、ふん、と小さく笑った。
昨日内示を頂いたときには、とんでもない御方から見込まれたものだ、と彼女の行く
末を案じたが、どうやら、心配はいらぬらしい。
最前、覇気に満ち、天下に何も恐れるものはないかのごとき自信に溢れた新王は、李
斎に負けぬほど色恋に疎い彼女の同僚でさえそれと気づいたように、一瞬、承州侯の方
を見ていた李斎の腕をとりかけた。だが、その手を半ばで引いて宙を握り、急いで下し
た。下したときにはもう扉口へと向かっていた。
あそこまでとは、思わなかった。
承侯の口元に笑みが浮かんだ。
きっと…と、呟きかけてから、彼は首を振る。いや。もう愛しい娘は、彼の手を離れ
たのだ。
彼は、積年の思案の終る寂しさを、ちらと自覚した。ふと、すずりを引き寄せると、
故郷(くに)で待つ妻にあてて、手紙をしたため始めた。
――新しい王は、なかなかの御仁とお見上げした……。
小走りになりながら、李斎は何度も前を行く背中に目をやっては目を落とす。
即位式が終り、承州侯と控えの部屋に戻るなりの、いきなりの王の来訪である。その
うえ自分が連れ出された理由など、李斎には皆目、見当がつかない。
呪をかけた隧道を網の目をたどるように伝いながら、既にだいぶ走った。ある建物の
外階段に出たところで、ちらと視線を投げやれば、先ほど駆け出てきた外殿端の建物群
は、秋空の下、はるかに遠い。
もし、この距離をこの日に、通常の手続きを踏んで官が動いていたなら、今頃はまだ、
侯の御前にも達してはいまい。…だが。
「どちらへ参るのか、伺ってもよろしゅうございますか」
李斎はようやく質問したが、またそこで景色は途切れ、次の隧道に入ったと知れた。
「いま、説明する。――ああ。ここだ」
隧道を数本たて続けに抜けたので、李斎の問いにはろくに返答がなされないままに、
二人は、磨きこまれた長い廊下のひとつの端で、扉の前に立っていた。
入れ、と急き立てられ中に進むと、かなり大きな部屋だった。
「こちらへどうぞ」
待ち構えた女官が言うなり、引き立てるように李斎をさらに奥の間へと連れて行く。
暗い廊下側から入ると、まぶしいほどに明るいその部屋は、露台に向けて丈高い玻璃
窓が連なり、窓の向こうは、海ではなく庭園のようだ。
部屋の突き当たりに引き回された屏風をかわると、待機していた三人の中でもっとも
年配のひとりが、無言で李斎の着衣に手をかけた。
将軍ともなると、通常着替えは下官に手伝わせるものだが、三人がかりということは、
まずない。まして、一国の王城の天官府の女官たちにというのは、あり得ない。
彼らの態度が、到底質問など許さない急ぎ様だったので、腹を決めて李斎が従ってい
ると、仕切り扉の閉じていない隣室から、驍宗の声がした。
「現に、こうして戻って参った。これで刻限には、十分に間に合おう…」
それはなにやら、言い訳めいて聞こえた。小声で静かに話すらしい相手が、なにを言
っているかは知れない。だが、驍宗の声はいつになく大きい。
「…あいわかった、そのとおりだ。よく用意してくれた。下がってよい」
あきらかに苛立ちながらも折れた調子の強い声音で、李斎は思わず、そちらを見やっ
た。
考えてみれば、即位式をすませた主上が、どういう理由でどんな指示を出した末に、
こういう準備がなされたのにせよ、少なくともその間に、単独で王宮の端まで行って戻
ったことに変わりはない。天官は立場上、相当に気を揉んだことだろう。
ただ、驍宗は穏やかな気性ではないが、格別癇癪もちではない。その驍宗にこう言わ
せるまで食い下がる天官がいるのだ、と李斎はなにやら感心していた。
李斎はちらと、彼女の皮甲の革紐を結ぶ女官の顔を見おろした。その職業的な無表情
はいささかも、動かない。
「出来たな」
隣室で驍宗は、立ったままで待っていた。この方は、と李斎は少しおかしくそれを見
る。側に椅子があっても掛けようとはしない驍宗に、武人出の王と周囲の、日常の苦労
がのぞいていた。
驍宗は李斎を見た。その表情は、もう全く急いてはいない。
首を傾け、ゆっくりと李斎の支度を眺める。うむ、と頷き、ちらと笑んだ。黒色の皮
甲にいぶし銀の篭手に鈍(にび)色の絹織物。確認の時間はなく、驍宗自身がいま初め
て目にしたものだ。
それは先ほどまで着ていた暗紅色の着物に比べると色目でははるかに地味だが、先ほ
どとは比較にならない位、洗練された装いだった。
皮甲は、武具に限っては職業柄、造詣の深い李斎が、差し出されて思わず見惚れた逸
品であったが、けっして凝りすぎず、派手ではない。白い顔と後ろへ括った赤い髪が、
これ以上はないほどに、すっきりと上品に見えるのを確かめて、驍宗は満足の息を吐く
と、これならばよかろう、と呟いた。
控えめに怪訝な顔をした李斎に、微笑んでみせる。
「時間が厳しかったゆえ、大層急がせたな。どうやら間に合った」
「はい」
――何にどう間に合ったのか、聞いてもいいだろうか。考えたところへ、驍宗が先を
取った。
「これから、範の王に会う」
範、と李斎は口の中で繰り返す。
その大国は、玉の産地である戴にとっては、昔から付き合いの深い、殆ど唯一の他国
だ。
「先ほど、式の後の言祝ぎの席で、急遽決まった。今日お帰りになられる前に、個人的
な面談をもつ。あくまで私的なものゆえ、あちらもお一人で見えられる…」
言葉を切った驍宗は、ここでなぜかちょっと苦笑気味の眉を寄せ、続けた。
「いつも私が不在の折の来戴であったゆえ、直には存じ上げないのだが、なにやら難し
い御仁のようでな。そなたに歓談の護衛を頼みたい」
李斎は驚いた。当然ながら他国の賓客の前になど、彼女は出たこともない。
「すぐに首をすげかえる将軍たちを今更引き合わせても、益など何もない。王師の将軍
として、よい経験になろう」
「まだ拝命しておりません」
「それは言わなくてよろしい。余州の州師の将だと紹介するわけにもいくまい。範の方
には、瑞州侯師の将軍と言っておく。そなたもそのつもりでいるように」
それでしたら他の方でも、と口篭もった李斎に、驍宗は遠慮深いやつだと笑ってみせ
る。
「拝命の決まっているものは皆、現役の禁軍左軍の師帥だ。今日は全員城下の警備に出
払っていて、誰もおらぬ。それに何より、そなたが適任だと思うのだ…、――ああ」
見ると、驍宗の視線の先で、扉を開けて入室したひとりの官が平伏した。
あちらがお部屋を出られたようだな、と驍宗が李斎に言う。
「さて。先に出て待つとしようか」
その言葉に近付いた女官に、黙って冠を直させると、驍宗はさっさと庭に下りて行く。
李斎は追いかけて部屋を横切り、庭園に向かって大きくせりだした露台に出ると、石
造りの広い階段を、自分も足早に降りた。
「その皮甲(よろい)は、先の王后の大僕が用いたものだそうだ」
黙って数歩後ろを歩く李斎に、驍宗が言葉を掛けた。
先ほど掌客殿を出たという客人の姿は、白く広がる石畳のどこにも、まだ見えない。
雲海の上とはいいながら冬の降雪のある白圭宮の庭は、ごく一部をのぞいて、多くが
このような石の庭園である。視界をさえぎらない空間が、どこまでも幾何学的に組まれ、
それを寒さに強い樹木がその濃い緑色でわずかに彩る。
「それで、女物なのでございますね」
李斎は歩きながら答えた。
つけている皮甲は、かつての持ち主の性別と体格を語っている。驍宗は頷いた、
「腕の立つ、よい武官であったようだ。后妃はたいそう可愛がっておいでだったらしい」
「お会いになられたことは」
ないな、と驍宗が答える。后妃が先王の元を去り、王城から出たのは、彼が将軍にな
るより前のことだった。大僕もそのとき職を辞して、后妃に従ったのだと驍宗は語った。
その后妃のことを、民は覚えていないだろう。それほどに、もはや昔であった。
「どちらにおいでなのでございますか」
「いや。仙籍をお返しになられた。おそらくもう、この世にはおられまい」
振り返った驍宗は、李斎の装いに目をやり、少し笑んだ、
「夫君とは違って、趣味のよい方であったようだな。后妃と別れてから、主上の悪趣味
な浪費に、いよいよ拍車がかかった、ということらしい。まこと、男は細君で決まる…」
「…」
これは、驍宗の言としていささか意外なような気もし、己の鈍(にび)色の上衣を見
るともなく見下ろして、李斎は首を傾げた。
その頭の動きに、即位礼のためにこの朝、下官が丹念に櫛削った赤茶色の髪が、重た
い弧を描いて肩に滑った。だが、背中で括られそれ以上は動かぬその髪を、伏せたまつ
げが頬に落とした影を、驍宗がその瞬間、どんな思いの表れた顔で見たものか、俯いた
李斎が知るはずもない。
顔を上げた李斎は、王の沈黙に、瞬いた。それに気づくと、彼はほんのわずか目を細
め、それから視線を外した。
「お見えのようだ」
驍宗が静かに言った。
庭園の向こうを、黒い長袍の、予想に反しほっそりとした影が、緩やかな足取りで歩
んでくるのが見え、李斎は更に二歩下がると、護衛の武官の作法にならい、片膝をつい
て深く頭を垂れた。
それは、六年前の、晴れた秋の日のことであった。
左手でそっと揺すると、寝入っていた幼なさの残る小さな顔が、金色の髪をふるん、
と振ってまぶたを持ち上げた。
「あら、李斎…」
当たり前のように両の腕が伸べられる。李斎は微笑んで、首につかまらせてやった。
少女がふわりと身を起こす。それを助けるのは苦にならない。十五六歳の外見をしてい
ても、麒麟は軽い。
台輔も、と小さな子供の姿が浮かぶ。少年の外見でも、幼子のように軽かった…。
稚く目をこする仕草が、李斎の中で遠い麒麟に重なったのを、聡く察知した少女は、
その手を下し、李斎を見た。
「まだ、六太帰ってきてない?」
「まだでいらっしゃるようです。わたくしも今来たところでございますが」
言いながら、向こうへ歩んだ背の高い女性は、すいと左手を上げ、棚の上の小さな火
炉をとった。
「あら李斎。座っていてよ。私がやるわ」
飛んで起きた少女を振りかえって、李斎は驚いたように首を振った。
「とんでもない。氾台輔に淹れて頂いたお茶など、李斎は畏れ多くて飲んだりできませ
んよ」
少女は口をとがらせた。
「梨、雪。――ほんとに手伝わなくていいの?」
李斎は微笑んだ。
「梨雪さま。――はい。大丈夫でございます」
成る程、隻腕になったばかりの彼女は、もう十年もそうしてでもいたように、あめ色
の方形の案(つくえ)の上で、片手だけを器用に往復させて、無駄のない動きで茶を淹
れてゆく。氾台輔梨雪は、どこか不思議な気持ちで、その立ち姿と所作とにみとれた。
「李斎は…」
「はい?」
花の香りの湯気が差し出された。ありがとう、と細い可憐な指先で茶器を受け取り、
少女は一口すすると、おいしさににっこりした。立ったままの李斎に自分の隣に座るよ
うに促す。ためらった李斎だが、この麒麟の天下無敵の笑顔の威力に、おとなしく長椅
子に並んだ。
夏の日差しは中天からもう幾分か傾いて、奥まったこの書院にも、午後の太陽がさし
入り初めている。
藤棚の緑色が、光に透けて床に影を落とし、窓ごしにとりどりの夏の花が咲き乱れる
のが見える。金波宮の主はまだ、午後の政務の最中だろう。そしてその閣僚たちも、州
侯を兼ねる台輔も、日常の仕事に忙殺されている時刻であった。
この時間にのんびりとお茶を飲んでいられるのは、客分たち、なかでもその主たちだ
けである。
麒麟たちは、夜を日についで、蓬莱との往復に忙しい。
そして、行き方知れずの麒麟がみつかった、との知らせは、まだ来ない。
太師邸から、今日もう何度目かの蘭雪堂もうでをした李斎は、書院の長椅子の中に、
くたびれ果てて眠っている、範国の麒麟の姿を見つけたのだった。
「…李斎は、うちの主上に以前、お会いしたことがあるんだったわね」
もうひとすすりして、少女が聞いた。
「はい。主上…泰王驍宗様の即位式の日に。一度だけ、お目にかかっております」
「泰王の即位式ね。よく覚えているわよ。六年前の秋でしょう?いつも戴旅行の後は、
ひとしきり文句を言って、ぶりぶり怒ってそれは大変だったのに、あのときは、皆が吃
驚するくらい、御機嫌でお帰りになられたんだから」
「そうなのでございますか?」
「そうよ。特に…、ええと、玉、だったかしら?ああ、いえ違う――磨く前の璞玉(は
くぎょく)だわ!お国の宝に、ものすごく価値のある璞玉があるんでしょう?それのお
話をなさって…なんでも磨けば、戴一国に匹敵する値打ちだとか」
李斎は首を傾け、そして振った。
「さぁ…。そのようなお品があるのでございますか?」
「あら。見たことないの?泰王が、とても大切にしておられたそうよ」
李斎は困ったように笑った。
「いいえ。王の御物など、普通、一介の将軍に見られるものではございませんので」
氾麟は目をくるりとさせた。
「うちの主上から、泰王と会われたとき李斎もずっと一緒だった、とうかがったわ」
李斎は微笑み、頷いた。
「さようでございます。でも、あのときわたくしは、大僕としてお二人の歓談に、少し
後を歩いて付き従っただけです。お二人は王宮内を散策なさりながら、いろいろとお話
であったと記憶しておりますが、もとより、お話の内容までは聴いてはおりません」
「王師の将軍が、大僕を?」
李斎は、少しばつが悪そうに笑んだ。
「臨時のことで。それも、実を申し上げれば、王師の将軍ではありません」
「どういうこと?李斎は瑞州の将軍なんでしょ」
「わたくしは、あの即位式に、主である承州侯の随従として参ったのです。当時の身分
は、州師は州師でも、承州師の左将軍。本来、お顔を記憶させて頂けるほど、他国の王
を間近にお見上げ出来るような立場では、ございませんでした……」
まだ、廉麟に伴われた六太は戻ってこなかった。延も氾も姿を見せない。小さな書院
で、手のひらの淡紅色の茶杯の中で、花の香りがしている。
「お待ちを…!困ります、どなたであろうと、この先は…っ」
礼服を、常の服に改める途中にあった部屋の老主人が、何事かと、顔を上げたときに
は、既に彼の優秀な武官が二名ばかり、刀の柄に手をかけて、部屋から外へ走り出てい
た。
「御心配なく。あの者たちなら大丈夫でございましょう」
彼をかばうように扉に向かって側に立ち、小声で告げた彼の将軍に、老州侯は愛娘に
するように、小さく微笑み頷いた。
「なに、劉がいるのだから、心配なぞしておらぬよ」
手を止めた小官を促して、佩玉を結ばせた主だったが、廊下遠くのその騒ぎは次第に
近くなり、そのまま、扉の前まで来てしまった。
勢い良く放たれた扉から、後向きに部屋に戻って来た武官たちを見ると、将軍が険し
く叱咤した、
「何をしている貴公ら。侯の御前を、むざむざ騒がせるとは」
ですが、とやや情けない声音を発して口篭もった武官のその肩を、押しのけるように
現れた人物を見て、左将軍は言葉を失った。
後ろに立つ主も目を丸くして、口をあけた後、その口を閉じた。
整えられたばかりの長衣の袖を捌くと、下座に下りた。しかるのち、静かに平伏する。
「主上」
はっと我に返り、一同が叩頭した。抜き身の刀を下げたまま、唖然としていた官たち
も一斉に刃を背後に回して、頭を垂れる。
「案内(あない)も乞わず、非礼を許されよ。顔を上げて頂きたい、承州侯」
入り口に突っ立った男が太い声音で言い放ち、主はいささか面白そうにすくめた首を
持ち上げた。確かに非礼であった。ひともあろうに最前、一国の王になったばかりの男
が、たったひとりで、州侯の控え室に乗り込むとは。
それを自分で分かっているところが、おかしい。
「して、主上におかれましては、この年寄にいかような御用がおありでしょう…」
みなまで聞かず、王は手を振る。
「時間がないゆえ、手短に申す。一刻ばかりこちらの左将軍を、私にお貸し願えるか」
承侯は驚いて横を見た、そこには承侯以上に驚きに目を見張った将軍本人がいた。
「はぁ」
「よろしいか」
州侯は、驚いたままで頷いた、
「はい。それはよろしゅうございますが」
「うむ、かたじけない」
言うなり、いつも以上に気の急いているらしい、この国の新しい王は、呆然となって
いる将軍を、その主より先に急かした。
「主の許可はとった。行くぞ」
声に気圧され、跳ねるように立ち上がりはしたものの、将軍はまだ目を白黒とさせて、
その場で逡巡していた。幾度か王と、長年の主を見比べる。
苛だった気配を身近に察知し、彼女がはっと主から振りかえったとき、そこに王はい
なかった。
「――ついて参れ。急げ!」
州侯から小さく、しかし鋭く顎でうながされ、今度こそ、李斎は飛び上がり、そのま
ま足早に、王の後を追いかけた。
将軍の後ろ姿の向こう側から、お邪魔致した、との大きな一声が、承侯には返された。
「…――吃驚致しました」
右将軍のため息に近い声に、承州侯は苦笑した。
「…あぁ。そうだな」
そしてくつくつと笑い出した。
「大層な剣幕だ。少なくとも性急なお方というのだけは、本当らしい」
名の知れた驍将であった新王は、噂話にことかかなかった。右将軍もくすっと笑った。
「全くです。彼女の腕でもとって、引きずっていくのかと思いましたよ」
「お前もそう思ったか。だが、――しなかったな」
承侯はどこか満足そうに、微笑んだ。
「そうですね。いくら王といえど、恋人でもない御婦人に、そうそう気安くお手を触れ
たりはなさらないでしょう」
「ふむ」
「やはり、ただの憶測でしたね」
肩をすくめた将軍に、承州侯は首を傾ける。
「ほら、王師に招かれたのは、お二人が蓬山で特別の誼を結ばれたからだという」
「あのような卑しい噺を、信じたのか、お前」
将軍は慌てて首を振った。
「まさか。私は、――いえ、彼女を直接知ってる者ならば、誰も信じたりなどしません
よ。それに、ただいまご覧になられたでしょう、あの他人行儀な王のそぶり。あれで二
人に何かあるなんて思うやつがいたら、お目にかかりたいです。そもそも、仙女だらけ
の蓬山で、乍将軍が劉将軍を見初めるってところが、ちょっとあり得ない話でしたから
ね」
承州侯は沈黙した後で、嘆息した。
「…それが、先ほどの王の御様子を見た感想か。どうやら、お前が嫁をもらうのを見る
のは、まだまだ先のことらしい」
「なんですか、一体」
将軍は話題が思いがけず、一身のことに及んだので、口を曲げた。彼は独身である。
高級官吏に独身者が多い。と、いうのは、他国の常識である。だが少なくとも、この
承州においては、高官で妻帯しないもしくは夫を持たない者は、逆に稀であった。
それは、この州侯個人のありようと深くかかわっていた。彼は、仏教者であった。彼
はその宗教を政治に反映することはけっしてしなかったが、彼の生活には、反映させて
いた。
彼は仏教徒の比較的多いこの承州の出身であり、戴の大学で宗教学をもっぱらに修め
た後、国府に入った。春官府の高官から州侯に抜擢されたとき、一州の統地という大き
な仕事と、長く延ばされる寿命を前にして、学生時代から幾分か信奉してきていたこの
教えの戒律を、自らに課したのだった。
蓬莱からもたらされた仏教は、その性質上、こちらではともすれば単に、徳の範疇に
入るべきことを重くとらえ、戒とする。そのひとつが婚姻重視であり、すべからく婚姻
の契約に対して、男女は忠実たれ、というものである。
彼は歴史上数多くの王が、また彼の周囲の高位の官が、この問題を軽んずることに端
を発し、道を失うのを見てきたこともあって、この戒めを大変有用なものととらえ、厳
格に守った。
州城にも後宮があるが、彼はこれをただひとりの妻に与えた。彼には元々子が二人あ
り、就任してからも幾人かに恵まれたが、みな徳操を以って育て上げ、結婚させて、下
界に出した。
真摯な教育者であり一個の父である、このひとりの男の生き方は、州城のもっとも高
いところから年月かけて徐々に、広く州内に好ましい影響として浸透していき、結果と
して、承州の官のきわめて高い結婚率と、民のきわめて低い離婚率という形であらわれ
ているのだった。
一方彼は、州師に関しては一貫して、特別の干渉、もしくは要求をしてきていた。
それは、兵の質を高めることであった。彼の州師には長年にわたり、強い兵士である
と同時に、教育を受けた善き人であることが要求された。このため、彼の軍は精鋭だっ
たが、無慈悲ではなかった。
指揮官には徳が要求された。州師の戦いの目的は、そもそも州内の内乱と暴動の鎮圧
である。兵を戦わせるに巧みであると同じ位、兵の消費――すなわち戦死――を最少に
おさえて勝利することに長けた指揮官、制圧地域の被害を最小にとどめる才を持つ指揮
官が、淘汰されて残った。
そんななかで、彼が妻と二人で最も愛し、重く用いてきたのが、李斎であった。
彼女は、少学しか出ていなかったが、その軍功は目覚しかった。彼女が師帥になった
とき、彼は可能な限り早くに、このまだ年若い娘に将軍の席を用意しよう、と決意した。
そしてわずか三年で、佐軍将軍(=州において左右中につぐ第四軍の将)に任じた。
彼の思惑は当った。
李斎が将軍を拝命して以来、――破格の大抜擢を受けた若い女性に対する、応分の抵
抗の生じた時期を過ぎた後――、佐軍の雰囲気はがらりと変わり、兵の質は格段に向上
した。それは、やがて他軍の将や兵にも及び、時を経て彼女が左将軍に据えられる頃に
は、承州師は、八州一の練度と、戴随一の教育の高さを謳われるようになっていた。
李斎は、頼りになる将軍であると同時に、実子を育て終わり、すでに外見内実ともに、
老齢である州侯夫妻にとって、娘に等しかった。
そんな彼女を、どんな男に娶(めあ)わせるかは、彼らの長年の楽しみでもあり、嬉
しい心配事でもあった。ところが、彼女は彼らの目に適った男たちのことごとくを、親
しく腹を割って付き合い、何時間でも語り合うことのできる友人にしてしまったのであ
る。
それが…。
州侯は、閉じた扉の方を見るともなく見やると、ふん、と小さく笑った。
昨日内示を頂いたときには、とんでもない御方から見込まれたものだ、と彼女の行く
末を案じたが、どうやら、心配はいらぬらしい。
最前、覇気に満ち、天下に何も恐れるものはないかのごとき自信に溢れた新王は、李
斎に負けぬほど色恋に疎い彼女の同僚でさえそれと気づいたように、一瞬、承州侯の方
を見ていた李斎の腕をとりかけた。だが、その手を半ばで引いて宙を握り、急いで下し
た。下したときにはもう扉口へと向かっていた。
あそこまでとは、思わなかった。
承侯の口元に笑みが浮かんだ。
きっと…と、呟きかけてから、彼は首を振る。いや。もう愛しい娘は、彼の手を離れ
たのだ。
彼は、積年の思案の終る寂しさを、ちらと自覚した。ふと、すずりを引き寄せると、
故郷(くに)で待つ妻にあてて、手紙をしたため始めた。
――新しい王は、なかなかの御仁とお見上げした……。
小走りになりながら、李斎は何度も前を行く背中に目をやっては目を落とす。
即位式が終り、承州侯と控えの部屋に戻るなりの、いきなりの王の来訪である。その
うえ自分が連れ出された理由など、李斎には皆目、見当がつかない。
呪をかけた隧道を網の目をたどるように伝いながら、既にだいぶ走った。ある建物の
外階段に出たところで、ちらと視線を投げやれば、先ほど駆け出てきた外殿端の建物群
は、秋空の下、はるかに遠い。
もし、この距離をこの日に、通常の手続きを踏んで官が動いていたなら、今頃はまだ、
侯の御前にも達してはいまい。…だが。
「どちらへ参るのか、伺ってもよろしゅうございますか」
李斎はようやく質問したが、またそこで景色は途切れ、次の隧道に入ったと知れた。
「いま、説明する。――ああ。ここだ」
隧道を数本たて続けに抜けたので、李斎の問いにはろくに返答がなされないままに、
二人は、磨きこまれた長い廊下のひとつの端で、扉の前に立っていた。
入れ、と急き立てられ中に進むと、かなり大きな部屋だった。
「こちらへどうぞ」
待ち構えた女官が言うなり、引き立てるように李斎をさらに奥の間へと連れて行く。
暗い廊下側から入ると、まぶしいほどに明るいその部屋は、露台に向けて丈高い玻璃
窓が連なり、窓の向こうは、海ではなく庭園のようだ。
部屋の突き当たりに引き回された屏風をかわると、待機していた三人の中でもっとも
年配のひとりが、無言で李斎の着衣に手をかけた。
将軍ともなると、通常着替えは下官に手伝わせるものだが、三人がかりということは、
まずない。まして、一国の王城の天官府の女官たちにというのは、あり得ない。
彼らの態度が、到底質問など許さない急ぎ様だったので、腹を決めて李斎が従ってい
ると、仕切り扉の閉じていない隣室から、驍宗の声がした。
「現に、こうして戻って参った。これで刻限には、十分に間に合おう…」
それはなにやら、言い訳めいて聞こえた。小声で静かに話すらしい相手が、なにを言
っているかは知れない。だが、驍宗の声はいつになく大きい。
「…あいわかった、そのとおりだ。よく用意してくれた。下がってよい」
あきらかに苛立ちながらも折れた調子の強い声音で、李斎は思わず、そちらを見やっ
た。
考えてみれば、即位式をすませた主上が、どういう理由でどんな指示を出した末に、
こういう準備がなされたのにせよ、少なくともその間に、単独で王宮の端まで行って戻
ったことに変わりはない。天官は立場上、相当に気を揉んだことだろう。
ただ、驍宗は穏やかな気性ではないが、格別癇癪もちではない。その驍宗にこう言わ
せるまで食い下がる天官がいるのだ、と李斎はなにやら感心していた。
李斎はちらと、彼女の皮甲の革紐を結ぶ女官の顔を見おろした。その職業的な無表情
はいささかも、動かない。
「出来たな」
隣室で驍宗は、立ったままで待っていた。この方は、と李斎は少しおかしくそれを見
る。側に椅子があっても掛けようとはしない驍宗に、武人出の王と周囲の、日常の苦労
がのぞいていた。
驍宗は李斎を見た。その表情は、もう全く急いてはいない。
首を傾け、ゆっくりと李斎の支度を眺める。うむ、と頷き、ちらと笑んだ。黒色の皮
甲にいぶし銀の篭手に鈍(にび)色の絹織物。確認の時間はなく、驍宗自身がいま初め
て目にしたものだ。
それは先ほどまで着ていた暗紅色の着物に比べると色目でははるかに地味だが、先ほ
どとは比較にならない位、洗練された装いだった。
皮甲は、武具に限っては職業柄、造詣の深い李斎が、差し出されて思わず見惚れた逸
品であったが、けっして凝りすぎず、派手ではない。白い顔と後ろへ括った赤い髪が、
これ以上はないほどに、すっきりと上品に見えるのを確かめて、驍宗は満足の息を吐く
と、これならばよかろう、と呟いた。
控えめに怪訝な顔をした李斎に、微笑んでみせる。
「時間が厳しかったゆえ、大層急がせたな。どうやら間に合った」
「はい」
――何にどう間に合ったのか、聞いてもいいだろうか。考えたところへ、驍宗が先を
取った。
「これから、範の王に会う」
範、と李斎は口の中で繰り返す。
その大国は、玉の産地である戴にとっては、昔から付き合いの深い、殆ど唯一の他国
だ。
「先ほど、式の後の言祝ぎの席で、急遽決まった。今日お帰りになられる前に、個人的
な面談をもつ。あくまで私的なものゆえ、あちらもお一人で見えられる…」
言葉を切った驍宗は、ここでなぜかちょっと苦笑気味の眉を寄せ、続けた。
「いつも私が不在の折の来戴であったゆえ、直には存じ上げないのだが、なにやら難し
い御仁のようでな。そなたに歓談の護衛を頼みたい」
李斎は驚いた。当然ながら他国の賓客の前になど、彼女は出たこともない。
「すぐに首をすげかえる将軍たちを今更引き合わせても、益など何もない。王師の将軍
として、よい経験になろう」
「まだ拝命しておりません」
「それは言わなくてよろしい。余州の州師の将だと紹介するわけにもいくまい。範の方
には、瑞州侯師の将軍と言っておく。そなたもそのつもりでいるように」
それでしたら他の方でも、と口篭もった李斎に、驍宗は遠慮深いやつだと笑ってみせ
る。
「拝命の決まっているものは皆、現役の禁軍左軍の師帥だ。今日は全員城下の警備に出
払っていて、誰もおらぬ。それに何より、そなたが適任だと思うのだ…、――ああ」
見ると、驍宗の視線の先で、扉を開けて入室したひとりの官が平伏した。
あちらがお部屋を出られたようだな、と驍宗が李斎に言う。
「さて。先に出て待つとしようか」
その言葉に近付いた女官に、黙って冠を直させると、驍宗はさっさと庭に下りて行く。
李斎は追いかけて部屋を横切り、庭園に向かって大きくせりだした露台に出ると、石
造りの広い階段を、自分も足早に降りた。
「その皮甲(よろい)は、先の王后の大僕が用いたものだそうだ」
黙って数歩後ろを歩く李斎に、驍宗が言葉を掛けた。
先ほど掌客殿を出たという客人の姿は、白く広がる石畳のどこにも、まだ見えない。
雲海の上とはいいながら冬の降雪のある白圭宮の庭は、ごく一部をのぞいて、多くが
このような石の庭園である。視界をさえぎらない空間が、どこまでも幾何学的に組まれ、
それを寒さに強い樹木がその濃い緑色でわずかに彩る。
「それで、女物なのでございますね」
李斎は歩きながら答えた。
つけている皮甲は、かつての持ち主の性別と体格を語っている。驍宗は頷いた、
「腕の立つ、よい武官であったようだ。后妃はたいそう可愛がっておいでだったらしい」
「お会いになられたことは」
ないな、と驍宗が答える。后妃が先王の元を去り、王城から出たのは、彼が将軍にな
るより前のことだった。大僕もそのとき職を辞して、后妃に従ったのだと驍宗は語った。
その后妃のことを、民は覚えていないだろう。それほどに、もはや昔であった。
「どちらにおいでなのでございますか」
「いや。仙籍をお返しになられた。おそらくもう、この世にはおられまい」
振り返った驍宗は、李斎の装いに目をやり、少し笑んだ、
「夫君とは違って、趣味のよい方であったようだな。后妃と別れてから、主上の悪趣味
な浪費に、いよいよ拍車がかかった、ということらしい。まこと、男は細君で決まる…」
「…」
これは、驍宗の言としていささか意外なような気もし、己の鈍(にび)色の上衣を見
るともなく見下ろして、李斎は首を傾げた。
その頭の動きに、即位礼のためにこの朝、下官が丹念に櫛削った赤茶色の髪が、重た
い弧を描いて肩に滑った。だが、背中で括られそれ以上は動かぬその髪を、伏せたまつ
げが頬に落とした影を、驍宗がその瞬間、どんな思いの表れた顔で見たものか、俯いた
李斎が知るはずもない。
顔を上げた李斎は、王の沈黙に、瞬いた。それに気づくと、彼はほんのわずか目を細
め、それから視線を外した。
「お見えのようだ」
驍宗が静かに言った。
庭園の向こうを、黒い長袍の、予想に反しほっそりとした影が、緩やかな足取りで歩
んでくるのが見え、李斎は更に二歩下がると、護衛の武官の作法にならい、片膝をつい
て深く頭を垂れた。
それは、六年前の、晴れた秋の日のことであった。
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