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うろほろぞ
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w12
 先刻から、この子供はなにをしているのだろう…?
 日暮れであった。古い城壁に囲まれた北東のありふれた町は、穏やかな春の一日を終
えようとしている。
 子供は、立ち上がった。数歩歩いて門の方を見すえ、顎をそびやかす。それから急に
くるりとまた回れ右をすると、心持ちうな垂れて、元の位置、つまりいま男が座ってい
る城門外の大きな橡(とち)の木の下へと戻ってくるのだ。
 男がそれに気づいてからでも、すでに五回以上、同じことを繰り返している。特にす
ることもないので、彼は、最前から子供の様子をもうずっと眺めるともなく眺めていた。
 七八歳の少女であった。
「おじさん。さっきからここでなにをしてるの?」
 少女は突然、聞いた。男は少し目を開いた。よく通る声で、はっきりとしたもの言い
だった。
「…ひとを待っている」
「ふぅん。もうすぐ門が閉まるのに?いまからじゃ次の町へは行けないわよ」
 男の旅装から土地の人間ではないことを見て取ったらしい子供が、ませた口をきく。
「お前こそ、一体何をしているのだ。町の子供だろう。家に帰る時間ではないのか」
 子供はちょっと口を曲げた。
「ほうっといてよ」
 その拗ねた顔に愛敬があったので、この男として珍しいことに、少し微笑んだ。
 強面の男が突然見せた、意外なほど優しげな顔に、少女のやや灰味がかった青色の目
が、ちょっと見開かれた。
「なんぞ、帰りたくない理由でもあるのか」
 子供は男のすぐ脇に座った。ひざを抱え、俯くと、低い声で答えた。
「帰ったら、母さんにお尻ぶたれる…」
「何をした」
「しなかったのよ。今日は二胡の先生の日だったの」
「稽古をすっぽかしたか」
「…。うん…」
 子供は男の反応を見るように、上目にちらと見上げた。男は黙って、そうか、とでも
いうように軽く頷いただけだった。
 子供はやや拍子抜けして、ほっと息を吐いた。するとこの、彼女のよくない行いにな
んら説教しようとしなかった大人に、何事か打ち明けたい気持ちにかられた。
 彼女は黙っている男にぽつぽつと話を始めた。
 
「……お料理やお裁縫は仕方ないと思うの。誰だって大きくなったら、土地をもらって
ひとりで暮らさなきゃいけないでしょ。でも楽器とか刺繍とかは、出来なくても大して
困らないわ。なのに母さんは、女の子だからたしなみとして覚えなさいって…たしなみ
っていうのは、どれも私の苦手なことばっかりで、嫌になる」
「母親とは、子供の先行きを考えると口やかましくなるものだ」
「さきゆきって?」
「将来。大人になってからだ」
「それだったら、自分のことさえ出来るようになればいいわ。わたし結婚しないんだし」
「ほぅ…なぜだ」
「知らないの?わたしみたいに器量が良くなくて、男の子のように乱暴な娘は、お嫁に
は行かないのよ。行きたくないから別にいいけど、行きたくたって行けないって」
 男はこれを聞くと瞬いた。
「なにを見ているの」
「いや…」
 男は子供の顔をのぞきこんだままで、首を傾けた。
「よい顔立ちだと思うが。きっとかなり、美人になるぞ」
 子供はあからさまに顔をしかめると、きっぱりと首を振った。
「そんなはずないわ」
 男は苦笑した、
「己の顔をきちんと見たことがあるのか」
 少し詰まったので、ないようだ。だが子供は言い張った。
「一度もきれいだなんて言われたことないもの。姉さんはきれいよ。いつもそう言われ
てるわ」
 それでか、と男は得心した。男の目には、子供はどうみても並よりかなりの器量良し
である。それが誉められたことがないとすれば、おそらくこの子の姉は、衆目認めると
ころの優れた美貌であるのだろう。
「小さい姉さんは賢くて大人しいの。いつもご本ばかり読んでる。私も勉強は嫌いじゃ
ないわよ。ただ、走ったり跳んだり、馬に乗ったり、打ち合いをするのがもっとずっと
好きなのよ」
「ひとにはそれぞれ、向いていることがあるものだ」
「そうなのよ。…でも、私は女で、男じゃない。それはもう、どうしたって変らないの」
 子供は小さな手で頬を支え、憂えた溜息をつく。
「そうか…」
 男は黙ったが、ふと足もとの枯れ枝を拾うと、それで地面に簡単な線を引いた。子供
が目で追う。
「……それ、何?」
「陣形だ。味方はここ。敵はこれ。数はおおよそ…」
 子供は男の説明に聞き入る。
「強い敵と少ない人数で戦わねばならないときは、どうすると思う?」
「簡単よ」
 ほぅ?と男は促した。
「逃げる」
 男は笑った、
「正解だ。では、それでも戦わねばならぬときは」
 子供は少し考えた。
「…武器とひとを、半分に分ける」
 ふむ、と男。
「どう分ける」
「弱いひとと強いひと。動けないひとと元気なひとよ」
 子供は男が地面に引いた図を指差した。
「これ、丘?」
「そうだ」
「ここをとるわ」
「なぜ」
「高いから。そして弱いひとをここに置く」
 棒で引いた線がぐるりと陣営を迂回した。
「半分で、丘の裏側から下りて、敵の後ろから襲う。自分を強いと思ってる相手は、ふ
いを突かれると弱いの。あっという間に崩れるわ。それをこっちとこっちからいっしょ
に攻めて…、」
 男は舌を巻いた。子供の説明は兵法の理にかなっている。
「驚いたな。どこで習った」
 子供は肩を竦めた。
「陣取り遊びでいつも総大将なの。毎日やってれば、こんなの自然に覚えるわよ」
 男は改めて子供の顔を見た。
「名前は?」
「少紫(しょうし)。おじさんは」
「…宗伯(そうはく)だ」
 それが彼の字(あざな)であり、今回の旅では、すべての宿帳にそう記していたし、
彼の場合、別字の方が今では通りがよいことなど、見知らぬ子供に告げる必要がなかっ
た。子供は字をきき、くるりと目を動かした。
「一番、兄さん?」
 伯、は長男の字が普通である。
「ああ。一番兄さんだ」
 言って、男は笑った。
「兄はあるのか」
「いない。姉さんだけ」
「そうか」
 男は手についた土を払うと立ち上がり、両腕で、しゃがんでいた少女を肩の上に抱え
上げた。
「少紫はきっと美人になる。そしてうんと強くなるぞ」
「強くていいの」
 丸い目が真摯に見下ろしてくる。
「ああ。強い女はよいものだ。腕も心も強くなれ」
 あのね、と、頭の早そうな子供は彼を見た、
「お嫁さん、いるの」
 男は苦笑した。
「いや。おらぬ」
 子供はにこりと笑む。そして聞いた。
「ほんとに美人になって、強くなったら、私をお嫁にする?」
 男は殆ど笑いそうになったが、堪えた。そして抱えなおすと答えた。
「なって、下さるのか?」
「いいわよ。でも、私が二十歳になるころは、あなた今よりずぅっとずぅっとお爺さん
になってしまうわね」
 男は、今度こそ声を上げて笑った。
 他愛もない馬鹿げた会話だったが、このお嬢さんはなんとも愉快で、心地良い。
「私は、さほど歳をとらぬかもしれぬぞ」
「どうして」
「さぁな」
「おじさんは、将軍なの?」
 男は目を見張った。そしてかぶりを振る。
「違う。なぜだ」
「違うのか…。――だって、将軍だと仙人なのよ。州侯さまみたいに歳をとらなくなる
んだって、父さんが言ってらしたもの」
「お父上は州師のひとか」
「そうよ。今にきっと将軍になるわ」
 子供は胸を張った。男は微笑んだ。
「お父上を好きか」
「大好き!だって父さんだけだもの」
「?何がだ」
 子供はちょっと言いよどみ、母さんに内緒だけど、と急いで付け足した。
「…男の子に勝っても、喜んでくれるのよ」


 子供は小さな手を大きく振って、日暮れの路を城壁の方へと駆けて行く。
 小さくなるその影を見送っている彼に、屈強な男が声をかけた。
「師帥、お待たせしました」
「うむ。行くか」
「はい。…ああ、可愛いお嬢さんですね」
 振りかえってまた手を振る少女を、上司の視線の先にみとめた男が、目を細めてつぶ
やいた。
「うむ。私のいいなずけだ」
「はっ?」
「冗談だ」
 目を白黒させた部下を声を上げて笑うと、戴国史上最も少(わか)い禁軍師帥は首を
ふり、いつになく和やかな目線で、行くぞ、と促した。

 
「茶器の場所を教えてもらえるだろうか」
「お茶は、女官がお淹れいたします」
 微笑とともに穏やかにそう答えた女官長に、李斎も負けずに、にっこりした。
「自分で淹れて飲みたいのだが」
「さようでございますか」
 女官長は、静かに微笑した。そして女官に、茶を淹れるよう命じた。
 女官が、浮き彫刻の施された大きな黒檀の棚から、瀟洒な陶製の火炉を下ろして火を
入れ、鉄瓶に湯を沸かすのを、李斎は手持ち無沙汰に眺めた。
 まさか、何もさせてもらえないわけではないのだろうが、昨日この長楽殿の一隅に部
屋を賜って以来、自分でしたことといえば、この片手の指だけで足りそうだと、李斎は、
心で数えてみる。
 前日、官邸を引き払い、昼すぎて王宮に伺侯したので、食事はこれまでに昨晩と今朝
の二度。いずれも驍宗に相伴した。
 かつて小さな泰麒にせがまれ、よく驍宗は彼女を食事に招いてくれたものだ。だから
王に相伴するのは、さほど不慣れなことではなかった。違うのは、昔のように、興奮し
てしゃべりまくる小さな子供が側におらず、その子が、離れた仁重殿で仕事の合間にひ
とりで食べる方を好む、大人になってしまっていることであった。
 今日の朝、彼女が自室で起きてから聞きにやらせると、王はすでに、夜明けに始まる
六朝議にお出ましになられた後だった。
 本来、表の公務は夫人の住まう後宮とは無関係であるから、これに遅れて起きても、
別に問題ない。だが李斎は、ほんの数日前まで、自分も王が外殿に出るよりずっと早く
に参内し、朝堂で待ったことを思うと、恐縮して顔が赤らんだ。
 もとより李斎は禁軍の将ではなかったのだが、辞職するまで、連日朝議に出ることを
よぎなくされていた。瑞州師中軍は、王師としてかろうじて残った黄備三軍の一であっ
たからだ。
 それが、寝坊した。
 そもそも寝つきが悪かった。女官たちは李斎が、お渡りなどはない、と言ったにもか
かわらず、化粧をして休ませた。真新しい豪奢な寝具は、顔などこすりつけては汚れそ
うで、なかなか寝つけず、やっと眠ったと思ったときには朝だった。


「后妃」
 呼ばれて、李斎は重くそちらへ頷いた。数刻前、寝床から起きあがった李斎が、最初
に聞かされた言葉がこの、「后妃」であった。
「……もし差し支えなければ、后妃、というのは…」
 李斎が口を開きかけたとき、女官長がはっと頭を立て、すばやく膝を折った。
 その動作がなにを意味するかを直ちに了解した李斎は、背後を確かめるより早く椅子
から飛び上がり、向き直りながら、膝をつく。その段になって、伏礼は特免、というよ
り、禁止されたことを思い出し、そのまま左手を上げて頭を垂れた。
「茶をもらいにきた」
 微笑んで、驍宗が言う。
 李斎と朝餉をとるために外殿から一度戻り、再び政務に出ていった驍宗だが、内殿に
移る途中に――この正寝は内殿より奥だから途中、とはいえないのだが――、また戻っ
てきたものらしい。
 李斎がただいま御用意を、と答え、用意半ばの茶器の側へ行こうとしたのを、女官長
がすぐにとどめて、女官に急ぐよう命じた。李斎は立ち止まって振りかえり、すでに掛
けている主上と同じ円卓についてもよいものかどうか、頭の中で宮中礼式を検索した。
 そのとき驍宗が機嫌良く、女官長の方に、声をかけた。
「李斎に任せよ。私が、これの淹れた茶を喫したいのだ」
「さようでございますか」
 驍宗に首と目線で促され、李斎は軽く頭を下げると、茶道具に近付いた。
 茶器は李斎も官邸から、一式、持って来ていた。焼きも彩色もかなり良い品だったの
だが、広げられた道具を一目見て、それらの出番が永久にないことを悟った。
 間違っても阻喪せぬよう、細心の注意を払いながら、繊細な花文様を打ち出した鉄瓶
から湯を注いで道具を暖め、茶壷に葉を入れて蒸らす。最後に聞茶杯と茶杯を揃えると、
茶海から丁寧につぎ分けた。
「よい香りだ」
 驍宗が言い、茶杯に口をつける。
「うむ。うまいな」
「…恐れ入ります」
 李斎は深く頭を下げた。 
 結局この日は、朝から合計して五度、驍宗は李斎の部屋で茶を飲んで行った。


 李斎がいよいよひとりになったのは、二人だけの夕餉が終り、驍宗が夜の仕事のため
に、自室に数人の彼の官を呼び寄せて引きこもってからのことであった。
 今日は気温が低かった。暖房が入って、室内が暖められ、李斎は昨晩同様、三人の女
官の手で、寝間に着替えさせられたうえ、おとなしく羽毛の入った絹の上着を羽織らせ
られている。
 女官長は無表情に控えている。李斎は彼女に言った。
「…官邸からの荷物の中に朱色の塗りの箱があったはずだ。それをここへ。それから、
私の剣を持って来てほしい。三振りあるが、一番古くて使い込んであるものをだ」
「かしこまりました」
 そう言って彼女が命じたのは、箱についてだけである。李斎はついに嘆息した。
「剣も、だ。頼む」
 李斎から声をかけられた女官は女官長を見、そのまま無言で隣室に消えた。
「后妃」
 李斎は眉を上げた。
「…私はまだ、后妃ではないのだけれど?」
 女官長は続けた。
「畏れながら后妃におかせられましては、いま少し柔らかなお言葉遣いが、よりふさわ
しいかと存じ上げますが」
 李斎はぽかんとした。それから、ああ、と苦笑する。
「すまないな。つい癖で。ご存知だろうけれど私はずっと夏官できたから。…正直天官
のことはさっぱり分らない。ぞんざいに感じられたならば、失礼した」
 それが不満だったのかと納得し、あっさりと頭を下げた李斎に対し、女官長は静かな
笑みを崩さない。
 李斎は息をついた。
「女官長」
「…なんでございましょう」
「申し訳ないが、私は婉曲なもの言いに、疎い」
「さようでございますか」
 李斎は女官長の目を逸らさなかった。
「率直に、言っていただけまいか。直せるところは努力する」
 女官長は静かに微笑んだ。
「畏れながら、小官は極めて率直に申し上げておりますが」
「…」
 会話にならないと諦めて李斎が引き下がった。その背へ声がかけられた。
「后妃」
「だから、私はまだ后妃ではないと…、」
 息を吐きながら振り返った李斎を、女官長が見据えていた。その顔に微笑はない。
「先ほど后妃は小官が率直に申し上げたことに対して、お謝りになられました。しかし
ながらいささかも、改めようとはなさっておられませぬ。これはどういうことでござい
ましょうか」
 李斎は目を丸くした、
「それは…、」
 李斎は詰まった。
「小官には、畏れ多くも后妃から謝って頂くいわれなどございません。そもそも相手が
どんな身分の者であれ、いやしくも后妃が頭を下げるのは、この戴国が頭を下げること
と、お心得あそばされますように。あなた様が頭を下げられてよろしいのは、主上ただ
おひとりでございます。位の上では台輔がおられますが御夫君の臣、ゆえに、通常は稀
なことながら、同席の場合には慣例として、しばしば同位とみなされるのです。これは、
ご存知でいらっしゃいましたか?」
「あ、ああ!――いえ、…“はい”」
「さようでございますか」
 女官長はちらりと、卓子の上の茶器を見た。
「お茶をお飲みになりたいときにご自分でお淹れになるのは、確かに気楽でよろしゅう
ございましょうが、そのために控えている女官は仕事の機会を逸します。お客様へのお
もてなしで差し上げること、主上のお求めに従ってお淹れ申し上げること等は、お立場
にかなっておりますが、ご自分のお茶は、お命じになることをまずは習慣となされませ。
それから、剣でございますが、正寝より奥で帯刀してよいのは、主上御一人でございま
す。そして後宮にお渡りの際は、その主上にすら許されないことを、仮にも后妃がなさ
っては、示しなどつきません。もしもここが正寝でなく、後宮最奥の殿舎内でありまし
たなら、いま少しゆるゆるとお教えもいたしましょうが、あいにく、主上があなた様を
どうあっても正寝に住まわせると仰って、お譲りになりませんでした。このように官の
目が近く、主上がお渡りあそばされるのに、前もっての御連絡どころか、先触れすらも
ございません。これは全て、主上の我侭から出たこと。よって、当のあなた様にご努力
頂き、可及的速やかに、后妃として最小限の体裁を整えていただくより他にない、とい
うのが天官の総意でございます。ゆえに当分の間は、刀を握るお暇などはないように、
学んでいただきます」
「……はい」
 女官長は息を継いだようであった。
「后妃には后妃として知らねばならぬこと、そして、お立場にふさわしい在り様という
ものがございます。それらをお教え申し上げ、あなた様に一刻も早くわが戴国の后妃ら
しくなっていただくことが、小官のつとめにございます。お分りいただけましたでしょ
うか」
 李斎は神妙に頷いた、
「…分りました」
「さようでございますか」
 女官長は静かな微笑で頷いた。
「最後に」
 まだあるのか、と李斎がややげんなりした顔をすると、女官長はなおも静かに微笑ん
だ。
「武将であったがゆえ天官のことは分らぬだの、婉曲なもの言いには疎いだのと、御身
に甘い言い訳をなされるようでは、それこそ、知略勇猛を謳われた武人の名折れでござ
いましょう」
 呆気にとられた李斎に優雅に、――それは、仮に李斎がいま真似しようとしたとして
も、到底及ばぬほど優雅に――、一礼すると、宮中礼式が服を着ているような完璧な女
官吏は、退出した。
「まいったな…」
 長椅子にどさりと腰を下ろして、李斎は高く白い天井を仰いだ。
 遠く正寝門殿からは、夜気を伝って、立直兵士の当番交代の鐘の音が聞こえてくる。
 王宮とは、通うのと暮らすのとでは、これほどにも、違う。



 今朝の李斎は機嫌が良い。昨晩、一度は化粧されたのだが、夜中に不寝番の若い女御
を説得して、全部落としてもらい、ぐっすりと眠れたからである。
 女官長の言い分はもっともだし、自分はあせらず頑張ればよいのだ、と思いなおした
李斎は、とりあえず、女官たちへの言葉遣いを改めることにした。
 寝が足りて食欲さえあれば、立ち直りも早い、この后妃、元来そうした性分である。
であるから、驍宗から、三人がかりの着替えにも威儀といわれればまず従えの、あと数
日なのだから今から呼称にも慣れおけのと言われても、もはや大して気に病みはしなか
った。
 驍宗は李斎の元気な様子に、満足げに笑んでいたが、ふと首を傾けた。
「領巾(ひれ)は、…それだったか?」
「は?」
 李斎は聞き返した。今朝の彼女は朱鷺色に白の暈(ぼか)しの入った襦裾、そして白
い領巾である。驍宗は首を傾げる。
「緑の、ごく薄い色目のものを合わせておいたはずなのだが」
 李斎は慌てた。今朝着替えの際、またそっくり新しく揃えられたことに、なにか気が
引けて、女官に無理を言って昨日と同じ領巾を纏った。返したものは確かに、淡い緑だ
った気がする。
 しかし、どうしてそれを驍宗が知っているのだろう…。
 李斎は目を見開いた。
「まさか。女官が用意してくれる服は、全部主上がお選びになったのですか?」
 驍宗は事もなげに頷いた、
「そうだが」
「こちらに上がるために着た襦裾も、でございましょうか」
「うむ」
「そういえば、…ずっと以前、台輔と御一緒に御供仕りましたときも、服と飾りなど、
ご用意頂きましたが…」
「そうだったかな」
 李斎は殆ど呆れてしまった。
「主上は、衣服などお見立てになるのがお好きでいらっしゃるのですか」
 こう聞かれると驍宗は、首をわずか傾けた。
「言われてみれば、そうかもしれぬ…。いや、かなり好きだろうな」
「はぁ」
「そうだな。李斎の着る物を選ぶのは、確かに楽しみだぞ」
 言うと驍宗は、実際楽しそうに笑んだ。
「ご自分のものは、お選びにならないのですか」
 李斎の印象として、驍宗は決して着道楽ではない。よいものを着けているし、身だし
なみもよい方かもしれないが、並外れて洒落るのが好きだとは、思えない。
「私が飾ってどうする。男なぞ、何を着ていてもそう大差などない。必要に応じて、悪
趣味でないものを数枚着回せば、それで事足りる」
「はぁ」
 唐突に、ある国の国主の顔が浮かんだ。そして彼から譲られた、ほんの数日間滞在し
た園林の中の宮――『淹久閣』。 
「あの…、お聞きいたしますが、このお部屋の品々も、主上が…?」
 驍宗は頷き、見まわした。
「どれも御庫のもので間に合わせだ。もっとも、新調したとてこんな品は、とても用意
できぬのだが…」
 驕王の遺した品々は、良くも悪くも、いまの戴国が注文できるような代物ではない。
驍宗は、ここしばらく、わずかの暇を見つけては迎える后妃のために、御庫に眠る贅を
凝らした道具の中から、華美に過ぎていない落ち着いた意匠のものを選って、手ずから
準備したのだった。
「どうした?」
「いえ…」
 と、李斎は額を抱えたが、じきにくすくすと笑い出した。驍宗は首を傾け、李斎に弁
明を促す。
「氾王が、言っておられたのです」
 氾、と驍宗は繰り返した。李斎は頷く。
「――主上は無骨だが、趣味は悪くないようだった、と」
「なんだそれは」
 李斎は微笑んだ、
「あの氾王にそのように言わせるのは紛れもなく、すこぶる趣味のよい方なのですよ?」
「ふむ」
 驍宗は気のない返事をした。
 彼の記憶の中で、即位礼で会った呉藍滌は、公式の慶事に列席する国主にふさわしい
身なりを整えた男である。
 現にそのときの氾王をも知っている李斎は、また笑った。驍宗はやや不機嫌に話題を
変えた。せっかくの二人でとる朝餉に、余所の男の話では、面白くない。

「先程の朝議のおりに、蒿里と話した。今夕は三人で食事できるぞ」
「台輔が、こちらへ?」
 李斎が思わず顔を輝かせる。
「あれも最近は忙しがって、ろくに正寝へは来ぬ。そなたを餌に、ようやく釣った。よ
かったか?」
「台輔とお話し出来ますのに、わたくしに異存などありましょうか。楽しみでございま
す」
 意気込んだ李斎の満面の笑みに、驍宗は笑った。
「李斎は私などより余程、蒿里の方が大事だからな」
「主上…」
 李斎は小さく王を睨んだ。驍宗と泰麒と、彼女にとってこの二人は、比較のしような
どありはしない。
「蒿里にしても私など、所詮は王ゆえ慕うのだ、あれが真実手放しで好いておるのは、
そなたのことだぞ」
「畏れながら主上、台輔は戴国の麒麟でいらっしゃいます。台輔にとって、主上に勝る
存在など、この世にあろうはずがございません」
 真面目に反論する李斎に、驍宗は笑って答えてやる。
「なんの。麒麟は民意の具現――なれば、民こそが、あれにとっての至上の存在だ。そ
なたは后妃、いわば民の母になるのだから、監視せねばならぬ王より、よほど安らげて
も不思議などはあるまい」
 李斎は瞬いた。
「――民の母…、でございますか…」
 驍宗はひとつ頷く。ふと真顔になった。
「そのようなものだと思うのだ。王となって選ぶ伴侶とは、通常の婚姻ではない。既に
神籍にある身に、民の中からひとりを与えられるのだから、民から与えられると、私は
解釈している。蒿里は天が私に与えたが、李斎を私にくれたのは、民だ」
 李斎は真摯な言葉に息を呑み、少し姿勢を改めて、驍宗を見た。驍宗は静かに続けた。
「独身の王が王后乃至大公を迎えることを天綱が認めているのは、それなりに故あって
のことだろう。少なくとも、それまでの家族関係の継続だけが目的ならば、既婚の王の
ためだけの制度のはずだ。前例に多いように、気に入りの寵妃に、北宮と后位をくれて
やるためのものであるはずもない…、」

 実際のところ、私利を度外視して王を補佐するような愛妾は概ね賢婦であるから、妬
み恨みをかわぬためにも実をとって、名をとらぬことが多い。他国の例まで眺めてみて
も、王の死後まで飛仙の扱いで功労されたような者でさえ、立后はしていないほどだ。
 即位と時を隔てた立后で圧倒的に多いのは、王に讒言して王后を排し、己が後宮で一
の位を手に入れるという悪婦の例で、これを立后させるような王は無論、長くはない。
 現在、十二国中、王后の位にあることが確実なのは、奏南国の宗后妃ただお一方で、
彼女は宗王櫨先新の、登極前からの配偶者である。四年前に誅殺された前峯王の后妃も
同様だった。劉王には即位時に妻があったと考えられるが、その後の伝聞がない。
 独身で即位した王といえば、古い順に、延、氾、廉の三王、特に延と氾の治世はそれ
ぞれ五百年と三百年の長きに及ぶのだが、いずれも伴侶は持っていない。即位から八年
足らずで泰王が后妃を迎えるのは、むしろ異例のことと言えた。 

「…王の家族とは、官位の有無に拘らず、王に準じた義務を持つ、と解するのが妥当だ
ろうな。畢竟、民に資するを旨として、王后大公、太子公主という地位は存在している
ものなのだ」
「――わたくしに、その義務を果たせましょうか」
 李斎は厳しい顔で王に問うた。驍宗はあっさり答えた、
「そう思わねば、王后に望んでおらぬ」
 李斎は曖昧に頷いた。
 驍宗はふと笑んだ。
「何ぞ嫌なことが耳に入るか」
 李斎は、返事に窮した。いかにもつまらぬことであった。いちいちお耳に入れたくも
ない陰口の類ならば、掃いて捨てるほどに、ある。
 李斎は驚くほど多くの人々から歓迎され、しごく好意的に王宮へ迎えられたが、それ
でも、臣から王の唯一の伴侶となった者への、ある種の羨望から裏返った、意地の悪い
憶測や、好意的関心を装った、好奇の噂話からは逃れられない。
「口さがない者は好きに言う。言わせておけばよい。夫婦のことなど、他人に分るか。
私が断じてそなたへの恩賞などで立后させるのではないと、私とそなたが知っておれば
よいのだ、違うか」
 李斎は見開いた目で驍宗を見つめたが、ほっと息をついて首を振った。当の驍宗から
こう言われると、肩に重かったものが外れ、胸のつかえが下りた気がする。
「案ぜずとも、この私の后妃だ。李斎にはじき、気の毒がられるほど働いてもらうこと
になるぞ」
 この言葉に、李斎は眩しい笑顔で答えた。
「ご期待に添えるよう、努力致します」
 そうしてくれ、と驍宗は明るく笑った。




PR
w11
 輿は路門を通り抜けて、路寝へと向かう。 
 そびえる門殿にかつての壮麗さはない。それでもこの辺りは、瓦礫がすっかり片付け
られており、通行の多いところだけに、瓦はすべてが葺き替えられ修理されている。
 白く滑らかな石の床だけがいまも昔と変わらない。門外からの陽光を受けて、輿の影
が粛々と滑る。李斎は日に光る床石と、その影とを見ていた。
 あの日、小さな麒麟が姿を消したあの真昼、この同じ床の上に両の手をついて顔を上
げた彼女は、生まれて初めて蝕の空をこの門越しに見た。禍禍しい赤色の空。周囲に夥
しく重なる割れた瓦。たちこめる土煙。隣にいた若い地官長の、埃にまみれた青い顔…。
――あの宣角は、阿選によって処刑された。

 輿が止り、李斎は我に帰る。
 正寝の門殿で、新任の天官長が叩頭で出迎えた。李斎の輿は下ろされず、彼女は輿の
上からやや緊張してその口上を聞く。
 その後、天官長自らの先導で門殿を抜け、彼女の居宮に向かった。李斎の居宮、と言
っても、建物を与えられるわけではない。彼女が住まうのは、まさに現在王の住まう殿
舎内であり、使われていなかったその数室に急いで手が入れられたに過ぎなかった。
 面積だけを言えば、後にしてきた将軍官邸の方が広いことになる。
 これは本来、後宮の最奥に位置する広大な北宮の建物とその園林全てを与えられるの
が通例の王后としては、考えられない待遇であった。当然ながら、天官はこぞって猛反
対した。
 天官は王宮内諸事を管轄する。即位と時を隔てての立后は、天綱にはあるものの例は
さして多くない。戴国では、国氏がまだ代であったとき以来であり、ほんの数例である。
 とはいえ天官としては、立后は即位と崩御に次ぐ一大事、疎かにできようはずもない。
 ところが、前例の全ては、後宮に予め侍っていた寵妃が立后して北宮に移ったもので
あり、李斎の場合の参考にはなり得ず厄介なところへ、驍宗が彼女を後宮ではなく正寝
に住まわせるのだ、と言い張った。
 驍宗は後宮を嫌っており、即位後も即座に閉めたし、今回玉座を奪還した後も、後宮
の荒れた個所を基本的には放置していた。なんとか旧態に戻っているのは祭祀に関わる
西宮の建物群のみである。
 妻――驍宗は伴侶のことを必ずそう呼んだ――はひとりしかいらぬので正寝でよい、
と言う王と、ひとりといえども後宮に迎えてもらわねば困る、と主張する天官側とで、
激しく対立した挙句、驍宗が「経費削減」という伝家の宝刀を抜いて、収まった。
 削減どころか使おうにもない、というのが、新生戴国の偽らざる実情であったのだ。
 天官は折れた。
そして後宮に一度も入らずに立后するという事実から、李斎は、既婚の王が即位した
際と同じ扱いで王宮に迎えられる、ということで決着したのだ。

 即位前に王と婚姻していた者は、最初から王の配偶者として王宮に上がる。そのとき
の慣例に従い、李斎は今日、天官長自らの出迎えを受けたのである。
 ほんの五六日前まで閣議の席で顔を合わせていた同じ天官長から、平伏して言祝(こ
とほ)ぎを述べられても、公式の場ではもはや直接に言葉を交わせない。輿に従う女官
に、白絹を張った優美な團扇の陰で、小さな声で返事を伝えるのだが、これが全て、予
めこう言えと教えられた内容である。
「大宰に御言葉で御座います…」
 その都度、歌う様に女官が前置いて、李斎の言葉が天官長へ伝えられる。

 ようやっと輿は長楽殿に辿りついた。現在、正寝の中で殆ど唯一、昔日の白圭宮の面
影を偲ぶことのできる宮殿である。
 建物のほぼ中央を南北に貫く御影石の大廊下を下り、東に折れて、以前は花殿と互い
の園林を隔てて向き合っていた一画の、庭院に面した廻廊に入ったところで、天官長は
再び膝をついた。
「これより先がお住まいでございますれば、私どもはこちらで失礼申し上げます。幾久
しく御健勝であらせられますよう」
 本来、後宮門殿前での口上であるそれを述べ、これも定型の口上を女官伝えに聞いた
後、天官長は辞去するために、中腰のまま、後ろへ下がった。
 廊下に出迎えた女官長が案内を引き継いで、李斎に挨拶を述べるのが聞こえる。
 これで今日の、公の行事は終了したのだ。
 そのとき、女官長に返事を返した李斎が、やおら向き直った。
「大宰」
 天官長ははっと顔を上げた。こちらを向いている李斎とまともに目があった。
「今日は、ありがとう。今度ぜひ、奥様とお茶でも飲みに来てください」
 はっきりと伸びやかな声が告げて、にこりと笑いかけた。
 周囲の天官はほぼ一斉に目を剥いたが、当の天官長だけが、この日初めて、なんとも
愉快そうな光を目に宿して李斎を見た後、実に素早い微笑を一瞬浮かべ、折り目正しい
拱手をした。

 李斎は足を止めた。
 庭院に向かって大きく開口した室内は、既にすっかり調えられていた。
 李斎は首を傾げて、入れられている家具や掛け物、装飾品を見回した。もちろん見覚
えのあるものなど、そこにあろうはずもない。だが奇妙な馴染みのよさがあった。
 贅沢なものばかりなのに、いささかも押し付けがましさがない。このように迎えてく
れる部屋に微かに覚えがある。あれはどこだったか…。
「お召し替えあそばされますか」
 女官長の声に、李斎は振り返った。
「いや、いいです。輿だったから、裾さえ汚れていない。…私の荷物はどこだろう?」
 女官長は僅かの沈黙の後、静かに微笑んだ。
「こちらにありますものは、すべてあなた様のものでございます」
 李斎はちょっと瞬いた。
「官邸より届いたお品でございましたら、後ほど女官が片付けます」
「…有り難いが、それではどこに何が仕舞われているか、分らない」
「その必要はございません。女官がお取りいたします」
 李斎は答えに詰まったが、気を取り直して、とりあえず掛けようと傍らの椅子に手を
かけた。その瞬間、声が飛んだ。
「后妃!」
 ほぼ同時に控えていた女官のひとりが素早く椅子に飛びついた。
「お座りになられるときは、そう仰られて下さいまし」
 李斎は呆気にとられて、言った女官長と椅子を引いた女官とを見比べた。
「…ありがとう」
 声をかけると若い女御は驚いたように一瞬目を上げたが、すぐに伏せ、無言で元の位
置に戻った。
 李斎はそろそろと椅子に座った。
 
「来たな」
 扉口で太い声が放たれた。
 居合わせた全員が即座に叩頭する。李斎もただちに椅子を滑り降り、伏礼をとった。
「立ってよい、李斎」
 は、と答えた李斎はいつものように敏捷な動きで立ち上がろうとして、いつもは纏わ
ぬ領巾(ひれ)を踏み、椅子を掴んで危うく転倒を免れた。
 とっさに腕を伸べかけた驍宗は、苦笑した。
「この部屋で伏礼はしなくてよいぞ、李斎」
 李斎は真赤になった。
「失礼致しました。その…慣れますので、大丈夫でございます」
 驍宗は眉を上げた。
「そうではない。ここはそなたの部屋だ。私が来たからといって、いちいちに叩頭せず
ともよい」
 李斎がそれに答えるより前に、女官長が進み出た。
「畏れながら、主上」
「なんだ」
「主上が後宮にお渡りあそばされれば、伏礼でお迎えするのが慣例でございます」
「そうか。だがここは正寝で、私の住まいでもあるゆえ、これより王后におかれては、
私の入室の際、伏礼あそばされぬ。よろしいな、女官長」
「さようでございますか」
 女官長は静かに微笑した。
 うむ、と答え王は李斎に向き直った。彼女の立姿を眺めてちらりと笑む。
「部屋は気に入ったか」
 李斎は即座に頷いた、
「はい。とても」
 驍宗は機嫌よく言った、
「ほかはもう見たのか」
 いいえ、と答えると、驍宗は李斎の方へ、つと手を伸ばした。李斎は一瞬体を固くし
たが、引き寄せるかに見えた腕は宙を巡って、次の間へと示された。
 李斎は頷き、驍宗に案内されて自分に用意された部屋部屋を見て回った。
 居間の奥には小奇麗な牀榻があり、そこが李斎のための臥室であった。その脇の扉か
らすぐが、異様に大きな部屋で、がらりと雰囲気が違う。どちらかと言えば重厚な壮麗
さは、いかにもこの王宮らしかった。
「大層な部屋だろう」
 驍宗が苦笑するところをみると、王自身、さして気に入ってはいないらしい。
「ここの牀榻だけは北宮から移すと言って、天官が譲らなかったのだ。牀榻が浮かぬよ
うにすると、どうしてもこうなるな」
 驍宗が軽く首を振った訳は、掛けられた房飾りも重々しい帳ごしに、そのどっしりと
巨大な牀榻をちらと眺め、さらに次の部屋をのぞいたときに、よく分った。
 そこが驍宗の臥室だった。
 仕事一途の独身男が眠るだけの部屋、と言えばそれまでだが、よく評して簡素、およ
そ王の自室とは思えぬほど見事に飾りがない。そればかりか牀榻と呼べるものすらない。
ほとんど陣中の幕屋のようだった。
 阿選が、驍宗も含めた歴代の王が自室として使った部屋を血で汚したため、驍宗はそ
の部屋には戻らなかったという。どうやらそれを幸いに、この数月来、武将出身の生活
の好みを通したものらしい。
 再び李斎の居室へと戻り、反対へ抜けると、今度は結構な広さの化粧部屋、入ってす
ぐに衣桁にかけられたものが目に飛び込んできた。李斎は思わず立ち止まる。
「ほぅ…仕立てると一層豪華だな。だが品はよい。どうだ、李斎」
 李斎は瞬いた。
「見事なものでございますね…」
「なんだ、他人事のように。そなたが着るのだぞ」
「はぁ」
 言われても実感はない。大体、自分が花嫁衣装に袖を通す日など、ついぞ想像したこ
とがなかった。まして数日の後、これを着て太廟の祭壇に進香し、王の伴侶として天に
誓約するのが、ここにいる自分だとはとても思えない。
 思えないことに、李斎は当惑した。その戸惑いを隠し、王に笑んで会釈した。
 驍宗は次の部屋に案内した。
 客庁、といっても別棟ではなく隣接しているだけのそこが、后妃が自身の客を迎える
ための部屋であった。この部屋にもやはり行き届いた装飾がなされ、居心地よく道具が
設えられている。
 雲海の上はまだまだ時候がよく、今日はよく晴れ気温も高かったこともあり、庭院を
囲む石の廊下に面した八枚の扉は、全て開け放ってあった。
 日は西に傾き、北国の短い秋の一日は終ろうとしている。
「夕餉を共に出来ようか」
 驍宗が聞く。
「喜んで」
 うむ、と頷き、もう一度部屋とその中に立つ李斎を眺めて、驍宗は笑んだ。


w10
「姿を見られなかったか」
 素早く扉を閉めて、銀の混じる鬚の男は振り返った。夜半にかかり月は隠れて、戸外
は肌を刺し通す冷たい風が吹いていた。
 外套の裾の雪を落としてそれを脱いだ若い方は、冠をつけていない。彼は青ざめた顔
で息を整え、かぶりを振った。
「わかりません」
 それを聞いて、鬚の方――芭墨は、使用人らしい男を呼ぶと耳打ちした。どこといっ
て特徴のない男は、ぼうっとした表情のまま小さく頷き、外に滑り出て行った。
「地官府の誰かに行き先を言ったか」
「いいえ」
「家の者には」
「今日も遅いとだけ。ひとりで帰ることになっています。府第に迎えは来ません」
「供は」
「先に帰しました」
「よろしい。…お寒かっただろう、どうぞ杯を」
 いいえ、と客――地官長の宣角は、酒を辞した。
 そこへ先ほどの男が戻ってきた。芭墨は男の報告を受けると、ご苦労と呟き、目で下
がらせた。このとき初めて宣角は、奄(げなん)の動きに無駄がないことに気付いた。
「尾(つ)けられてはいないそうです」
「…彼は」
「私の子飼いの部下です。官ではない。以後ご連絡は彼だけに。他の者が私の使いだと
言っても、お信じなさいますな」
 その言の示す事態の深刻さに、宣角は改めて息を呑み込んだ。
 今、とてつもなく恐ろしいことが自分の周囲で起こっていることはわかる。しかし、
主に戸籍と農政を扱う文官一筋に歩んできた彼は、数多の修羅場を驍宗軍の軍吏として
かいくぐってきた夏官長の芭墨と違い、きな臭い事柄とは一切無縁であった。
 彼は震え声に切り出した。
「阿選殿が、昼間仰ったことは嘘ですか」
「偽りだと思う」
 と、芭墨は静かに答えた、
「…宣角殿は、なにゆえ嘘だと思われたのだ」
 こう聞かれて宣角は、力無く首を振った。
「だって、…だってあの李斎が、主上を…。そんなこと、あるはずがない…!そりゃあ、
主上は李斎を好いておられた。それは誰もが知っていた。でも李斎は知りませんでした」
 芭墨は弱く微笑んだ。この純朴な地官長にさえ見えるほど、彼の主の恋は分りよかっ
た。
 驍宗は己の思いをひた隠しにしようとはしなかった。むしろ堂々と示していた。彼は
いつも誰の目があっても、彼女に食事を申し込んだし、彼女が受けると憚らずに笑んだ。
視線が彼女を追うことに気付かれても、別段悪びれなかった。
 それはやましいところの全くない恋だった。

 実は芭墨は、李斎の方が王をじらしているのかと、勘繰ったことがある。主上の恋が
週に一二度の、台輔を同席した食事における会話と、せいぜいそのときの彼女の微笑で
しか報われていないことは明らかだった。
 あるとき芭墨が、よくお食事を御一緒されますね、と水を向けると、思いがけず李斎
は真赤になった。そして、心配そうにこう訊いたのだ。
 ――実は、遠慮を知らぬ奴よと呆れられているだろうと案じておりました。かように
私ばかり、お招きにあずかってよいものでしょうか。まだ鴻基に慣れない私へのご配慮
かと思えば有り難いが、いつまでも甘えているのもいかがかと。しかし台輔のお喜びに
なるお顔を拝すると、ついお断りしそびれて……。 
 真面目なことこの上もない顔で真剣に相談され、芭墨は柄にもなく慌ててしまったも
のである。誰の目にも分る好意を示す無敵の王と、それを全く艶めいたものとは考えず
に控えめに応じる将軍。傍目にはおかしいやら、微笑ましいやらの二人であった。
 それでも、誰ひとりとして、主上はあなたを好いておられるのだ、などと李斎に言う
はおろか、仄めかしさえもしなかったところが、双方の人徳であったのだろう。
 
「大司馬は、なにゆえあの場で直ちに、阿選殿の謀反と判じられたのですか」 
 寒さというより、今や恐怖のため震えている宣角の声に、芭墨は我に返った。
 李斎こそが謀反人だったと伝えられた。主上を謀殺し、台輔に危害を加えてあの鳴蝕
を引き起こし、王宮内の大混乱に乗じて、かねて通じていた二声氏のひとりの手引きで
宮に押し入って白雉を落し、目撃した二声氏全員を手にかけた――と。 
 宣角が手をかざす火炉の炭火に目を当てて、芭墨はしばし沈黙した。
「…大司馬?」
 突然立ち上がった芭墨は、宣角を残して部屋を出て行った。そして戻って来たとき、
手には一通の書状があった。その表の手蹟に宣角は覚えがあった。伸びやかで飾り気の
ない、生真面目に整った文字…。見上げた芭墨の顔は、恐ろしいほどに厳しかった。
「これは、十日前に李斎が、派兵に関する相談の体裁をとって夏官長の私宛に、内内に
寄越したもの。五日前に届き、以来、誰の目にも触れさせておらぬ。阿選が今日言った
ことは、ほぼ全てが、この書状に書かれている内容と同じであった。違うのは、それを
行ったのは阿選だと書いてある点だ」
 紙を解き、目を走らせる宣角の顔にみるみる驚愕が走っていく。
「お分りになるか。私はあえて誰にも一言もこれを漏らしていない。なのに阿選は既に
空行師を動かしており、我らに今日、謀反人の名を告げた」
 宣角は喘ぐようにして芭墨の顔を振り仰いだ。口を開いたが言葉は出なかった。
「阿選が二声宮を襲ったという李斎の書状は、内容が重大にすぎて、鵜呑みにする訳に
いかなかった。だが、李斎が二声宮を襲ったとする阿選の言があれば、話は別だ。あの
日、雉の足を持って我らのところへ姿を現したのは、阿選だったのだから」
「……なぜ阿選は、李斎が事実を掴んだと知ったのです」
 李斎が阿選謀反を知り得たのは、書状によれば二声宮のたったひとりの生き残りが、
逃げ延びて派兵途中の瑞州師中軍の陣へ駆け込んだからだ。阿選に二声氏の居所を知る
術などなかったはずだ。
「我らの中に裏切り者がいる。私はそれを確かめたかった。李斎の鴻基への知らせは私
が留め置いた。使いの者は、先程のあの男に命じて無事に鴻基から出した。空行師への
命令は、その発令日時からみても、私への書状とは無関係だ。だが李斎の書状が真実で
あり彼女が潔白ならば、必ず、文州にも知らせたろう。その相手は李斎の意を汲んで、
合議を持ったやも知れぬ。…いずれにせよ、裏切り者の少なくともひとりが文州にいる。
誰かは分らぬ。だが、主上を害せるほど身近にその者はあったのだ」
 宣角ははっとした。
「ですが、李斎の手紙が真実ならば…!」
 芭墨は、しかと頷いた、
「そうだ。白雉は落とされなかったのだ。主上は少なくとも、我らがそう信じ込まされ
た時点ではご存命であられた」
「信じ込まされた…確かにそうです。なぜああも易々と、私たちは信じたのでしょうか。
いいえ、あの日ばかりではない。今日だって…皆呆然とはしましたが、結局異論は唱え
なかった…。それにあの正寝の下官達の調書、あれは一体なんです、偽証ですか?二声
宮に踏み込んで官を惨殺したのだってひとりで出来るわけじゃない。阿選の非道を目の
当りにしながら手を貸し、口をつぐんでいる右軍の兵たちがいるんでしょう。でも阿選
軍ばかりか、王のお側の天官までがなぜ、あの男の思い通りになるのです」
「…心して聞かれよ」
 芭墨は重く口を開いた。
「あの阿選という男に魅入られると、空恐ろしいほど操られるのだ、という話を聞いた
ことがある。驍宗様がひとを惹き付けるのは御自身の力と徳とでだが、阿選のそれは幻
術に近い…そのような中傷が、かなり以前からあるのだ」
 宣角は瞬いた。芭墨はその目に頷いた。
「私とて、よくある中傷にすぎないと思っていた。だが李斎からの書状を読んだとき、
それを思い出した」
「…自分の意志でなくとも、裏切らせることができる、と?」
「宣角殿御自身、どうであった」
「私は…、」
 宣角は記憶を手繰った。昼間、閣議の席で、彼は愕然と阿選の言葉を聞いていた。
「一瞬、…そうです。一瞬、衝撃で目の前がこう…判然としなくなったような感じがし
ました。内容を呑み込むのに精一杯で、真偽など考えもしなかった。念頭からまったく
外れてしまって…けれど」
 宣角は眉を苦く寄せた。
「阿選がその、大司空の言葉を受けて、李斎と主上のことをあんなふうに…あのとき、
ふいに李斎の顔を思い出しました。私の知っている彼女の顔をです。嘘だと思いました。
そうしたら徐々に頭がすっきりしてきて、次々にあの日の事も思い出した…。あの鳴蝕
のとき、私は路門で彼女の隣にいたんです。台輔に直接手を下したのは彼女ではあり得
ません。彼女は仁重殿に駆けて行った。臥信殿が彼女とすぐに行き合って、そのまま夜
通し台輔の捜索、その最中に文州からの青鳥が着き、すぐさま私達と合流しての合議、
いつも必ず誰かが、李斎の側にいたんです。…それを言うために立ち上がろうとして、
あなたに止められた…芭墨殿、なぜあのとき私を?」
 ――『そんな』。
 蒼白の顔で叫ぼうとしたその一瞬、隣にいた芭墨が帯を引っつかみ、殆ど引き落とす
ようにして、宣角の浮きかけた腰を椅子に戻したのだ。
「あなた、李斎とお親しかった。あの場で弁護すれば、確実に共犯です」
「共犯?どんな利益が私にあるのです、私は主上にこの位を賜ったのですよ」
 瑞州府の地道な一官僚であった彼は、六官第二の席である地官府の長を命じる辞令に、
呆然としたものだ。
「あなたも彼女と関係があった、とされるでしょうかな」
 宣角は絶句した。
「何ということを…」
「あなたが青ざめた顔で反論しようとなさったので、私はあなたを信用できると思った。
だからお助けしたのです。命を大事にして下さい。怒りに任せて本音を吐けば、あの謀
反人の思う壺だ」
 芭墨は声を低めた。
「これから長い冬が始まります。だが、主上が生きておられるという望みができました。
私は可能な限りあの男の側にとどまり、支持を装って、道を正す機会を窺がおうと思う。
だが、あなたはまだお若い。逃亡なされてもあの白雉の足が偽物である以上、奴に仙籍
を抜くことはおろか、地官長の地位を奪うことも出来ません。私はそう容易く殺されて
やるつもりなどないが、阿選のやり方を見れば、留まるのは死と隣り合わせだ。逃げの
びて、正義が戻った後、優秀な官吏としての能力を戴国のために役立てるのも道です。
あなたがどちらの道を選ばれようと、私は恨む筋ではないし、まして咎めなど致しませ
ん」
「同じ道をお供致します。――お連れ下さい」
 宣角は即答し、それから立ち上がると、芭墨に向かって深く拱手した。
 凍てつく風が夜通し吹いて、玻璃窓を叩いていた。
 地官長宣角、夏官長芭墨。この日密約を交わした二人は長く白圭宮に留まり、運命を
共にする。
 そして二人とも阿選の命で刑死した。それぞれ、二年と四年の後のことである。




w9
「さあ、台輔。今日は一日、付き合って頂きますぞ」
 扉を押し開けながら、後ろに言えば、小さな影が神妙に頷く。
「本当にいいのかしら」
「主上がよいと仰いましたでしょう。宜しいんです」
 幼い麒麟は困った様に見上げる。
「正頼殿に…」
「殿はいりません、台輔」
「正頼…に、お花だけではだめだと言われたと、お話しただけなんですよ、僕」
 正頼は眉を上げた。
 ――いくらなんでも、花だけ、とはいくまいよ。お前からそう教えてくれ。
「広いんですね…」
 その声に成り立ての傅相は、人の良さげな笑みを向けた。驍宗軍切っての有能な軍吏
であった彼は、突然将の欠けた禁軍左軍の残務処理に継いで、今や王となった元将軍の
封土、乍県の県城整理のため、即位式にも立ち会わずに忙殺されていて、先頃ようやく
王宮で馴染みの朋輩たちと合流したばかりである。
「まだ同じようなお部屋が、他にいくつもございます」
「そんなに」
 はぁ、と溜息が漏れる。
「僕、ちゃんと選べるでしょうか」
 首を傾ける小さな肩を、励ますように叩いた。
「そのために、この正頼がおりますよ。ご一緒に選びましょうね」
 ――お前と蒿里が親しくなる機会をつくってやる。
「はいっ」
 見上げる目が期待に満ちている。
 
「ではまず、台輔の分から始めましょうか。劉将軍は何がお好きですか」
「ええっと…すう虞です」
 ――計都はやれぬゆえ、うまく誘導しろよ。
「台輔。正頼の知る限り、戴にすう虞は、主上の御乗騎だけでございます。いかな台輔
のお頼みでも、御購入はちょっと御無理でしょうなぁ」
「そうですか…」
 高価なものだとは知っている。いないのならしかたない。泰麒は素直に頷いた。
「でも、騎獣がお好きなら、将軍は御乗騎をさぞ大事になさっておいででしょうね」
 子供はぱっと顔を輝かせた。
「はい。飛燕っていうんです。とっても可愛いんです。天馬なんですよ」
 正頼はにこにこと笑った。
「それでは馬具一式はいかがでしょうか。そうですね、天馬なら…」
 ――鞍は黒、革は濃い色目、金具は白金がよかろう。
「いかがです」
「ええ。これ、飛燕にとてもよく似合うと思います。正頼ってすごいですね」
 正頼は目を細める。
「次は主上の分ですが、何にされますか」 
 ――剣だ。
「そっちから回って、よいものがあったら、正頼にお知らせ下さい」
「うん。正頼は、右の方ですね」
「お任せを」
 ――刃は冬官に仕立て直させる。柄と鞘の拵(こしら)えのよいのを選んでおけ。
「大きな方ですか」
「うーん。主上と並ぶと、そうね、ここんとこくらい…かしら」
 自分の背丈を主に見立て、手で示してみせた子供に、正頼はちょっと瞬いた。
「お並びになると、ですか」
「そうだよ」
 二人して選んだ馬具と剣を眺め下ろす。
「なにやら、台輔のに比べて、主上の分が寂しいですね…」
「そう、思う…?正頼も」
「ついでです。鎧をお選びなされては」
「鎧…」
「はい。同じ州師と申しましても、瑞州師は王師、規模も格も違います。王師の将軍に
ふさわしい立派な鎧を」
 ――用意してあればよし、しておらねば早速、伺候の折りに困るだろう。六将のうち
四人までが初の将軍職拝命とはいえ、ずっと禁軍にいて、もの慣れた者たちばかりだ。
現に初の伺候から、揃って、新調した大層な武具をつけてきた。
「これはどう」
「派手すぎませんか」
「そう…かなぁ。でも女のひとだし。とてもお綺麗なんですよ?」
「…さようですか。ではこちらではどうでしょう」
 ――本人に花がある。多少地味かもしれぬが、押さえたが映えような。
「お聞きしますが台輔。そんなにお綺麗な方ですか」
「うん。それにとっても優しいの」
 言って、柘榴石の象嵌された篭手(こて)を手に、顔を赤らめて俯く。
 ――蒿里と親しくなりたければ、李斎と親しくなるのだな。
「正頼からも、お祝いを差し上げましょうね」
 本当に、と驚いた小さな顔が見上げる。
「はい。実は正頼もおねだり致しましたのです」
「正頼がですか?」
 立派な大人と、おねだりの言葉の不似合いに、くすくすと笑う。
「台輔のお選びになるのをお手伝いしますので、正頼の分も選ばせて頂けないか、と」
 ――そういうことにしておけ。
「ありがとう正頼。僕、嬉しいです」 
 台輔のこの傅相への信頼は、いまや確かなものとなった。
「なにを贈るんですか、正頼」
「内緒でございますよ」
 えぇ、と残念そうな声を出す子供に、正頼は顔をしかめ突き出してみせた。
「実際にお姿を拝見してから、ゆっくりひとりで選びます」
 ――州侯は、娘のように可愛がっていた様子だが、飾ることにかけては本人に譲りす
ぎていた。改まった席では、それなりの官服もいるだろう。私から贈ってもよいが、お
前からとした方が無難だろうし、それでお前も誼が得られる。

 正頼はその日のうちに、もう一度御庫を訪れた。
 今度は懐から書き付けを取り出し、それと見比べて、すべての品物を揃えなおす。
 一体全体、あの忙しさで、いつ御庫中を漁ったものか、わが主ながら信じられないと
いうのが正直な気持ちだ。台輔が懐いているとはいえ、たかが将軍にここまでするか…。
 ふと彼はたちどまる。薄暗い御庫の中で、その一画と、手元の紙を比べること三度。
「なるほど」
 紙片を片手に、正頼はつぶやいた。
「極まったな……」
 見事な地紋の紫紺の長衣を取り出して、そこを閉めた。先代王后愛用の品を収めた抽
斗であった。
 そのなりたての禁軍筆頭の将は、正頼が呼びとめると、気軽に立話に応じてくれた。
「李斎…、ああ李斎殿な。よっく知っておるぞ」
「瑞州師の将軍として王師に召される」
「へぇ。そうか。いや李斎殿なら問題ない。うん、こりゃあ目出度い」
「どんな人物だ」
「人物か。うん…実に、いい人間だな。いい将だ」
「どんな女性だ」
「ああ。いい女だ。…なんだ、正頼。どうしてお前がそんなこと」
 いや、と正頼は言いよどんだ。
「ひょっとして、そのお方は…内嬖(ないへい)、であられるのだろうか」
「内…」
 巌趙は目を丸くし、それから口をあんぐりと開けた。
「それは、ないな」
 何がおかしかったのか、巌趙は、腹を抱えて笑いはじめた。
「ないない。絶対ないぞ。こりゃあ傑作だ」
 笑いながら行ってしまった。

「ああ。李斎殿ですか。ええ知ってますよ」
 なったばかりの瑞州師右将軍は、寒稽古で流した汗を拭いながら、心安げに頷いた。
「どんな方だ」
「どんなって…そうですねぇ。優れた方で、優れた将軍です」
「どんな女性だ」
「はぁ。ええっと」
 臥信はちょっと虚空を見た、
「…優れた女性ですね」
 正頼は溜息をついた。
「巌趙と似たようなことを言うな」
「巌趙?そりゃ、蓬山でご一緒でしたから。巌趙にもお聞きになったんですか」
「内嬖であられるか、と聞いたら、大笑いされてしまった」
「内…嬖」
 一瞬ののち、臥信は噴き出した。正頼が睨むので笑いをこらえるのだが、成功してい
ない。
「いや失礼。でもこれは。いやなんとも…」
 涙を払い、正頼の両肩に手を置く。
「正頼。はっきり言って、誤解ですよ」
「主上の御志に並々ならぬものがあると思ったればこそ、聞くのだが」
「そりゃあ、そうでしょうとも」
 臥信は真面目に頷いた。
「美女ときいたぞ。それもそこらの美女ではない、あの主上の目に見よいほどの」
「いかにも」
「ではなぜそこまで笑う」
 これを聞くと、臥信は再び笑いそうになった。
「臥信」
「ま、まあ正頼。本人に会われるんですね。そうすりゃあ分ります」


「台輔の傅相を仰せつかっております、正頼と申します」
「ああ。あなたが正頼殿ですか」
 笑顔を半ば唖然とした思いで見れば、相手は背を正し、その場に跪礼した。
「初におめもじ仕る。この度瑞州州侯師中軍に将を拝命しました、李斎でございます」
 凛とした様子、毅然とした眼差し、確かに尋常の女のものではない。
 そして確かに美しい。――だがこれは…。
「存じ上げないのに、過分のお祝いまで頂戴致しました。かたじけなく存知ます」
 言ってにこりと笑む。眩しいほどの笑顔はいささかの衒いもない。一瞬の後、穏やか
な瞳が生真面目に向けられ、正頼はわずか息を呑む。
「馬具も武具も有り難かったのですが、お選び頂きました官服は、思いもつかなかった
ものだけに、本当に助かりました。皮甲で済まない席など、州師では考えられませんで
したので」
 そんなことを正直に言って、肩を竦める。対していると、女性特有の優しげな風貌が
念頭になくなるほど、その態度はさっぱりと気持ちがよいばかりだ。
 これは難物だ。正頼は内心で唸った。
 なるほどあの主が手をやくはずだ。なるほど、巌趙や臥信が笑いたくもなるわけだ。
内嬖どころか、下手をすると、まだ手さえ握ってないかもしれない。いや絶対そうだ。

  
「私の顔になにかついているか」
 驍宗は目も上げず聞いた。
「いえ別に」
 正頼も何食わぬ顔のまま返す。
「おかしな奴だ」
「後宮をお閉めになる件ですが」
「ああ。早い方がいい」
「…本当に宜しいのですか」
「使う気はない。構わぬ」
「北宮も、でございましょうか」
 驍宗は怪訝な顔を書面から上げた。
「妻がおらぬのに、なぜ北宮がいる」
「ご予定がおありでは」
 は、と驍宗は笑って、見ていた文書を机に放った。そして正頼の顔を眺める。
「正頼。なにが言いたい」
 正頼も筆を置くと向き直った。
「近くに置いて眺めたければ、植え替えよりもいっそ摘まれるが宜しゅうございましょ
う」
 驍宗は眉を上げた。
「…言いたいのはそれだけか」
「軽軽しく摘むような花ではないとお見受けしました」
「承知している」
 正頼が目を上げると、驍宗は薄く笑った。
「お前には言っておこう。…そのつもりがある」
 口数の多い正頼は、実は、その絶対的な口の固さによって誰にも劣らぬ信をこの主か
ら得ている男である。それでも正頼はこの告白に瞬いた。そして思わず訊いた、
「あちらにも、おありでしょうか」
「なかろうな」
 あっさり答えたその一言に、自信のほどが窺がえた。
 だが、と驍宗は鋭い目を上げた。
「一切の禍根を断つまで、弱みはいらぬ」
 低く言い放った後、ふいにその目が言いようもなく和んだ。驍宗は自分でそれに気付
いたようで、わずかに首を傾け、静かに筆をとる。
 正頼はまじまじと主を見つめた。これほど柔和な目をした驍宗を、彼はかつて見たこ
とがない。正頼は心で唸ると、自分も再び筆を持った。――あの女性がやがてはこの、
およそ『弱み』などとは無縁の方の、最大の弱みになると自ら思っておられるのか…。
「正頼。お前、私が好いた女恋しさで、王師の人選をしたとでも?」
「そう思われても仕方ありませんでしょうな。ですが、」
 と、正頼はもういつもの、曲者の笑みで返した。
「あの方は禁軍がつとまります。むしろなぜ州師にとお聞きしたい」
 この言葉に、驍宗は嬉しげに笑んだ。
「経験の差だ。今はな。いずれ禁軍に席が空くこともあろう。そのおりには、改めて任
じる」
 正頼は首を傾げた。禁軍に空席の出来ることなど当面考え難い。そんな正頼の様子に
は構わず、驍宗は冬日の射している窓を見やってひとりごちた。
「将軍職より北宮住まいを喜ぶような女ならば、たやすいことだがな…」
 だが、もう誰にも譲る気などないし、先のことにもせよ、必ずというつもりらしい。
しかし。
 禍根とは、なにを指しておられるのだろう…。
 このときの胸に湧いた小さな疑問を、その後長い間、正頼は忘れていた。


 ――劉将軍、謀反発覚。

「…やってくれるわねぇ」
 衝撃的な報告に水を打った堂内の静寂を、最初に破ったのは、若い女の冷ややかな声
だった。
「大司空」
「じゃあなに?あの可愛い清潔なお顔やら、いかにも恋に疎い男勝りぶりやらは、全部
芝居で、私たちはいいように騙されてたってわけだ」
 花影は、瞑目し俯いて身を震わせた。…これはあんまりだ。 
「どうも、そのようだ。残念ながら」
 花影は俯いたまま、目を開いた。その男の寒寒しい声が胃の腑を突き上げてくる。
「主上は、迷われたのだ。王師に召されたのも、最初から故ないことではなかったと見
るのが妥当だろう」
 ――阿選。
 花影は顔を上げそうになるのを必死に耐えた。見られてはならない。この疑惑の確定
と憎悪に満ちた目を、けっして見られてはならないのだ。
「…信じられん」
 皆がそちらを向いた。禁軍左将軍が腕組みをし、宙を見据えている。
「阿選殿を疑うわけじゃない。ただ、信じられんのだ。俺には」
「巌趙殿。貴殿は、蓬山に同行されたはず。そもそも主上が劉将軍と出会われたのは、
昇山のおりのこと。お二人のご関係をもっともよくご存知だったのでは」
「関係って、関係もなにも…。ありゃあ主上の、その申し上げにくいが、いわゆる片思
いで、李斎の方はなんというか」
「なんとも思っていなかった。そうだろう、劉将軍は主上の思いを報復に利用したのだ」
 左将軍、巌趙は唸った。
「…証拠があるのか」
「無論。主上の不名誉ゆえ申し上げるのは憚られたが、あの女が、正寝への出入り自由
の免許をどう使っていたか…ここに正寝の下官たちの調書がある。ご覧になられるか」
 巌趙はその何枚かに目を走らせた後、なんともいやな顔でそれを押しやった。
「…ああ、もういい」


「何の御用でしょうか。大司空」
 花影は人払いしてから、彼女にしては冷淡な口調で訊ねた。夜も更けている。
 取り次いだ下官は春官府からの使いだと告げたのに、姿を見せたのは不似合いなほど
地味な官服をつけた冬官の長である。すすめられてもいない椅子に、頓着せずに腰を下
ろすと、ちろりと部屋の主の顔をうかがう。
「怖い顔だねぇ…。昼間、私が議堂で言った事、恨んでるんだ。ま、当然か。あなたの
大切なご親友だものね」
「いえ」
 花影は硬い表情で答えた。
「謝るわ。でも、私だって命は惜しいんだよ」
 琅燦はにやりと笑んだ。
「あれほどのお方から、あれほどに思い寄せられて、それを『身に余る君恩』、で片付
けてたようなお嬢ちゃんが、女を武器に使ったっての。笑わせてくれる」
 苦々しいその微笑を、花影ははっと見つめた。
「琅燦殿。あなた…」
「そうだねぇ。せめて花影、あなただと言われれば信じたかもね。でもよりにもよって
李斎ですってさ。――私の目はね、節穴じゃないんだよ。首謀者は阿選だ。主上はなん
とかしてあいつの足元を掬おうとして――掬われた」
 琅燦は立ち上がり、大司寇府の高い窓越しに、冷たい月を見た。
「明日から病欠するよ。大して時間は稼げないだろうけれどね、とりあえず今日の茶番
が功を奏しているあいだが勝負だ。――私は、今夜中に出奔する」
 低く言うと琅燦は、花影を振り返った。彼女は息を呑んで琅燦を見ている。
「あなたも逃げた方がいい」
「わたくしは…」
 視線が激しく揺れた。琅燦は低くぽそりと言った。
「待ってても帰ってこないよ」
 花影の見開いた目が、一際大きく開かれ、琅燦を見る。その眉根が歪んだ。かぶりを
振ろうとしたようだが、それは幽かな身じろぎに終った。瞬きすらできないでいる様子
を、琅燦は顔を変えずに見つめた。
「気の毒だけど、多分もう生きてる彼女には、会えない。分るでしょ」
 阿選は禁軍の空行師に命令書を持たせ、州境からまだ近いところを行軍中であろう瑞
州師中軍へ、将の身柄を拘束しに向かわせた。連行されればより確かなことが判明する
はずだ、と阿選は皆に閣議の席で語った。だが。
 花影は目を閉じた。おそらく琅燦の言うとおりなのだ。あの阿選がこの期に及んで、
李斎に潔白を主張する機会を、与えようはずもない。
「それでも、待ちます」
 青い顔で言う花影の決意は固かった。琅燦は息を吐いた。
「じゃ好きにすれば」
 その声には言葉とうらはらに優しさが滲む。花影は不思議な思いで、わざわざ自分に
逃亡を勧めにきた、さして親しくないこの閣僚仲間を見やった。
「…なぜ、ここへおいで下さったのですか」 
 これを聞くと、琅燦は俄かにばつの悪そうな顔をした。彼女はちょっと首を振って笑
った。
「あのお嬢ちゃんをね、割と好きだったんだよ」
「……」
「それだけ」
 琅燦は踵を返した。その背に花影は声をかけた、 
「ご無事で」
「それ言いたいのはこっち」
「どちらへ、…」
 言いかけて、花影は口を噤んだ。琅燦は振り返り、いつもの顔でただ笑んだ。
 彼女は今日、全てを捨てることをあの議場の席で決めた。李斎の罪状として語られた、
阿選自身の謀反の内容は、彼女に阿選という男の底知れない暗い決意を示した。驍宗の
寵臣として身を立てた彼女に、待ち受けるのは死だけだと直感した。
 惜しいものはいくらもある。だが、財より蔵書より名誉より彼女にとって惜しいのは、
己の頭脳であった。逃げよう。そう思った瞬間に、彼女は静まりかえった議場に椅子の
音を立てて、声を放ったのだ。――『やってくれるわねぇ』……。
「阿選を甘く見ないほうがいい。あの主上を弑してのけた男だ」
 それだけを花影に言うと琅燦は、来たときと同じくひそやかに、大司寇府を去ってい
った。花影は官府の坂を供も連れず下りていく小さな影を、窓辺から見送り、深深と一
礼した。


 琅燦は、驍宗軍時代からの腹心の下官にすら告げずに、その夜から完全に消息を絶っ
た。――具合が悪いので寝む、起きてこぬときは朝議欠席を届けよ、と彼女は家の者に
言って自室に引き取ったのだという。それが鴻基で彼女の姿が確認された最後となった。
 下官が主の不在に気付いたのは、翌日の夕刻遅くなってからであり、大司空の行方不
明が届け出られたのは、翌々日の午後だった。府第の執務室の机には未決の書類が積ま
れたままで、官邸から身の回りのものは何ひとつなくなってはおらず、旌券も残ってい
た。
 封土、故郷と手を回した阿選のもとへ、大司空官邸で働く奚(げじょ)のひとりの旌
券が紛失したとの報告が上がったとき、彼女は既に他国の空の下に逃れていた。




w 8

 李斎は臥床に肱をつき、上半身を注意深く引き起こした。
 傷はまだ少し痛む。だが、昨日よりはずっと楽に起き上がることが出来る。
「また。なにをしておられるんですか」
 師帥が入ってきて、見咎めた。将軍はかすかに嘆息した。
「少しくらい動かないと」
「将軍。私はもう少しで女仙方に殺されるところでした。仮に女仙に殺されなくても、
国に戻ったら、承侯に殺されておりました。…いいから寝てらして下さい。下山すると
なれば嫌でも動いて頂きます」
「上着をとってくれないか」
 息を吐いた部下を促す。
「昨日と同じならそろそろお見えだ。頼む」
 師帥が眉を解いた、
「驍宗殿ですか。…今日もおいでに?」
 李斎が衣を受けとりながらああ、と頷く。
「昨日帰るときそう仰っていたから」
「髪も梳かれますか」
 李斎はきょとんと目を上げた。
「そんなに見苦しいか」
「いえ、そういうわけでは。ちゃんとしておられます」
 李斎は怪訝な顔で師帥を見たが、何も言わなかった。


「横になっていなくてよろしいのか」
 やはり昨日と変らない時刻に姿を見せた驍宗は、起きている李斎に少し目を見開く。
李斎は上着を引き寄せて苦笑した。ちらと部下の方を見やる。
「やかましく言われておりますが、寝込むなど子供の時に怪我して以来のこと。さして
痛まなくなると、じっとしている方が苦痛です」
「師帥殿が正しいな。私に気遣いは無用。辛抱して横になられよ」
 師帥はちょっと肩をすくめて笑い、表に出て行った。李斎は不承不承上着をとると、
枕に頭を落した。
 それを見て驍宗は頷く。かけようとして、懐に手をやった。
「見舞いの品、というほどではないが、召し上がるか」
 小さな袋を出し、口を解いてみせた。李斎がのぞくと、干し杏(あんず)が二十粒ほ
ども入っている。
「これは…」
「欲しいと言っておられた」
「ひょっとして、お気を遣わせたでしょうか」
「なに、大したものではなし。なにしろ何もないところゆえ」
 李斎は笑った。
「何よりのものです。実を申せば、剛氏の作ってくれた荷で一番好きなのですが、自分
の分はとうになくなりました」
「私も黄海に持参する食べ物ではこれが好物だな」
「驍宗殿が、ですか?」
 李斎は瞬いた。たっぷりの砂糖で煮含めて干したものである。激しく疲労したときに
は役立つので軍でも使うが、とにかく甘い。李斎の父も大抵は娘らへの土産にしていた
し、成長につれて、姉たちは自分の分まで彼女に寄越すようになった。こうした加工品
は始終口に出来るものではないので、子供なら無条件に喜ぶが、大人が好物というのは
余り聞かない。ましてや禁軍きっての驍将が。
「ええ、好きです。おかしいか」
 李斎は驚きを隠さず、快活に頷く。驍宗は笑む、
「私もひとつもらおう」
 驍宗はひと粒とると袋ごと寄越し、すすめられた椅子の背をつかんで、向きを臥台の
足元の方へと変える。折り畳みのその肘掛椅子は陣の将のためのものだ。それに深くか
けると身をもたせた。
 ああ、と驍宗は思い出した様に軽く言った。
「明日下山します」
 明日、と李斎は目を見開き、繰り返した。
「出発の前にはご挨拶に寄らせて頂く。…思いのほか、長く蓬山に滞在してしまった」
 苦笑まじりに驍宗が言う。李斎は微笑んだ。
「残念です」
 天幕を見上げてそう言った李斎を、驍宗が見る。李斎は続けた、
「国へ戻ったら、もうお会いする機会はないと存じます」
 承州と鴻基、それは近いようで遠い。
「いかにも」
 驍宗はそれ以上言わなかった。
 話は途切れた。陣の奥まった一画に設けられたこの天幕には、広場の喧騒よりも、背
後の奇岩を渡る鳥の声の方が、よく響く。
 驍宗はその椅子にもたれた姿勢のまま、肘を預けた手を静かに組むと、自分の膝の先
を見るともなく見た。
「しばらく…、ここにいてもよろしいか?」
 視線をこちらまで向けず、わずか左へ投げて問うた男を、李斎は臥床の中から見やっ
た。ちょっと首を傾け、そして笑む。
「どうぞ」
 驍宗は少し笑ったようだった。小さく頷き、それから深く呼吸すると再び椅子に深深
ともたれた。それきり何も言わない。
 李斎も床の中で深呼吸した。それがとても安らいだ息であったことに、自分ながら少
し驚いていた。
「眠ってしまうかもしれません」
「かまわぬ。お休みになられよ。…そのときは黙って失礼する」
 驍宗はふと笑った。
「私がいて、お眠りになれそうか?」
「ええ。なぜです」
 驍宗はいや、と首を傾けた。
 鳥が鳴く。
 蓬山の夏は終ろうとしていた。



 この日、瑞州師から官邸に寄越された軍吏は、手渡された数通の書類の署名と印章を
その場で手際良くあらためると、再び重ねて揃え、一礼した。
「結構です。以上で全部でございます」
「ご苦労だった」
 答えた相手は、すでになにもない書斎の机に、片手をかけて立ち上がる。
 軍吏は、あまり感情を表に出さぬそつのない男だったが、それでもその姿をある種感
慨をもって見た。
 女性にしては長身でしっかりとした体つきの彼女が、皮甲をつけて屈強の兵士たちの
中を、きびきびと動き回っていた様を、彼はいまでも思い出せる。
 思えば、それはもうかなり長くなった彼の官吏人生の中で、ほんの数月でしかなかっ
たが、十年の空位の後に訪れたそのひとときは、新王と王の選りすぐった重臣たちとの
眩しいほどの笑顔に彩られ、燦と輝いた一時代だった。
 その後の、明日の知れない闇に閉ざされた七年が、あまりに過酷で凄惨であった分、
切ないほどの懐かしさがある。
 王は再び玉座に戻り、台輔は回復し、朝は再編の端緒についた。
 だが、国土は荒れてやせ細り、生き残った民は疲弊しきっている。王師にしても現在、
合わせて黄備三軍に満たないありさまだ。王宮も随所でいまだ荒れたままで、白圭宮が
その名にふさわしい玉のような姿に戻る目処は、全くつかないと聞いている。
 王と国政を預かる官たちのこれからの苦難は、かつての当極当時の比ではない。誰も
が、それを重く受けとめ、それでも確かな前途を見据えて、日々の務めをこなしていた。
 
 いま、目の前の彼女は、もう皮甲をつけていない。今日もあの頃と同じように、これ
から王宮へ参内するのだが、官服ですらない。平服だ。
 そして、彼女は今日伺候すれば、二度とこの官邸には戻ってこない。
 将軍官邸はこの午後に、瑞州師から一旦、大司馬府に返還され、彼はそれに立ち会う
ことになるだろう。
「将軍、…いえ」
 彼は言いよどんだ。既に彼女は将軍ではなかった。
「…后妃、」
 相手は目を丸くし、それから苦笑した、
「ちょっと早いな」
 軍吏もわずか笑い、首を振った。帳が除かれて剥き出しの玻璃窓からは、晩秋の陽光
が降り注ぐ。
「――はじめて拝見しましたが、よく、お似合いです」
 元将軍は昔の様に、軽く肩を竦めて、快活な目を巡らせた。臙脂(えんじ)と白の襦
裙を自分で見やる。
「昨日届いた。…参内するまでは無官の臣だし、官服でいいと思っていたのだが、そう
言ったら内宰に叱られてしまった」
 困った様に笑うのがこのひとらしい。きっと、と彼は思う。よい后妃におなりだろう。
「輿がこちらまで来られるのですか」
 溜息が答えて頷く。
「歩いていくと断ったが、どうでも格式ばらないといけないらしい。なんでも天官の立
場がないのだそうだ」
「お国の威儀は大事です」
「その通りだ」
 将軍ではなくなった、そしてまだ后妃ではない女性は微笑む。晴れやかな微笑であっ
た。
「僭越ながら、瑞州州侯師中軍の全兵士になりかわり、ご多幸をお祈り申し上げます、
――李斎様」
「ありがとう」
 李斎は姿勢を正し、将軍印章を入れた螺鈿の箱を、一度拝して、彼に渡した。
「確かに引き継いでくれ。…新しい中将軍に、よしなに」
「かしこまりまして」
 軍吏は恭しく受け取ると、捧げ持ったままその場に伏礼した。
 彼が立ち上がったとき、書斎の入り口から、使いの天官の到着が告げられた。



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