「姿を見られなかったか」
素早く扉を閉めて、銀の混じる鬚の男は振り返った。夜半にかかり月は隠れて、戸外
は肌を刺し通す冷たい風が吹いていた。
外套の裾の雪を落としてそれを脱いだ若い方は、冠をつけていない。彼は青ざめた顔
で息を整え、かぶりを振った。
「わかりません」
それを聞いて、鬚の方――芭墨は、使用人らしい男を呼ぶと耳打ちした。どこといっ
て特徴のない男は、ぼうっとした表情のまま小さく頷き、外に滑り出て行った。
「地官府の誰かに行き先を言ったか」
「いいえ」
「家の者には」
「今日も遅いとだけ。ひとりで帰ることになっています。府第に迎えは来ません」
「供は」
「先に帰しました」
「よろしい。…お寒かっただろう、どうぞ杯を」
いいえ、と客――地官長の宣角は、酒を辞した。
そこへ先ほどの男が戻ってきた。芭墨は男の報告を受けると、ご苦労と呟き、目で下
がらせた。このとき初めて宣角は、奄(げなん)の動きに無駄がないことに気付いた。
「尾(つ)けられてはいないそうです」
「…彼は」
「私の子飼いの部下です。官ではない。以後ご連絡は彼だけに。他の者が私の使いだと
言っても、お信じなさいますな」
その言の示す事態の深刻さに、宣角は改めて息を呑み込んだ。
今、とてつもなく恐ろしいことが自分の周囲で起こっていることはわかる。しかし、
主に戸籍と農政を扱う文官一筋に歩んできた彼は、数多の修羅場を驍宗軍の軍吏として
かいくぐってきた夏官長の芭墨と違い、きな臭い事柄とは一切無縁であった。
彼は震え声に切り出した。
「阿選殿が、昼間仰ったことは嘘ですか」
「偽りだと思う」
と、芭墨は静かに答えた、
「…宣角殿は、なにゆえ嘘だと思われたのだ」
こう聞かれて宣角は、力無く首を振った。
「だって、…だってあの李斎が、主上を…。そんなこと、あるはずがない…!そりゃあ、
主上は李斎を好いておられた。それは誰もが知っていた。でも李斎は知りませんでした」
芭墨は弱く微笑んだ。この純朴な地官長にさえ見えるほど、彼の主の恋は分りよかっ
た。
驍宗は己の思いをひた隠しにしようとはしなかった。むしろ堂々と示していた。彼は
いつも誰の目があっても、彼女に食事を申し込んだし、彼女が受けると憚らずに笑んだ。
視線が彼女を追うことに気付かれても、別段悪びれなかった。
それはやましいところの全くない恋だった。
実は芭墨は、李斎の方が王をじらしているのかと、勘繰ったことがある。主上の恋が
週に一二度の、台輔を同席した食事における会話と、せいぜいそのときの彼女の微笑で
しか報われていないことは明らかだった。
あるとき芭墨が、よくお食事を御一緒されますね、と水を向けると、思いがけず李斎
は真赤になった。そして、心配そうにこう訊いたのだ。
――実は、遠慮を知らぬ奴よと呆れられているだろうと案じておりました。かように
私ばかり、お招きにあずかってよいものでしょうか。まだ鴻基に慣れない私へのご配慮
かと思えば有り難いが、いつまでも甘えているのもいかがかと。しかし台輔のお喜びに
なるお顔を拝すると、ついお断りしそびれて……。
真面目なことこの上もない顔で真剣に相談され、芭墨は柄にもなく慌ててしまったも
のである。誰の目にも分る好意を示す無敵の王と、それを全く艶めいたものとは考えず
に控えめに応じる将軍。傍目にはおかしいやら、微笑ましいやらの二人であった。
それでも、誰ひとりとして、主上はあなたを好いておられるのだ、などと李斎に言う
はおろか、仄めかしさえもしなかったところが、双方の人徳であったのだろう。
「大司馬は、なにゆえあの場で直ちに、阿選殿の謀反と判じられたのですか」
寒さというより、今や恐怖のため震えている宣角の声に、芭墨は我に返った。
李斎こそが謀反人だったと伝えられた。主上を謀殺し、台輔に危害を加えてあの鳴蝕
を引き起こし、王宮内の大混乱に乗じて、かねて通じていた二声氏のひとりの手引きで
宮に押し入って白雉を落し、目撃した二声氏全員を手にかけた――と。
宣角が手をかざす火炉の炭火に目を当てて、芭墨はしばし沈黙した。
「…大司馬?」
突然立ち上がった芭墨は、宣角を残して部屋を出て行った。そして戻って来たとき、
手には一通の書状があった。その表の手蹟に宣角は覚えがあった。伸びやかで飾り気の
ない、生真面目に整った文字…。見上げた芭墨の顔は、恐ろしいほどに厳しかった。
「これは、十日前に李斎が、派兵に関する相談の体裁をとって夏官長の私宛に、内内に
寄越したもの。五日前に届き、以来、誰の目にも触れさせておらぬ。阿選が今日言った
ことは、ほぼ全てが、この書状に書かれている内容と同じであった。違うのは、それを
行ったのは阿選だと書いてある点だ」
紙を解き、目を走らせる宣角の顔にみるみる驚愕が走っていく。
「お分りになるか。私はあえて誰にも一言もこれを漏らしていない。なのに阿選は既に
空行師を動かしており、我らに今日、謀反人の名を告げた」
宣角は喘ぐようにして芭墨の顔を振り仰いだ。口を開いたが言葉は出なかった。
「阿選が二声宮を襲ったという李斎の書状は、内容が重大にすぎて、鵜呑みにする訳に
いかなかった。だが、李斎が二声宮を襲ったとする阿選の言があれば、話は別だ。あの
日、雉の足を持って我らのところへ姿を現したのは、阿選だったのだから」
「……なぜ阿選は、李斎が事実を掴んだと知ったのです」
李斎が阿選謀反を知り得たのは、書状によれば二声宮のたったひとりの生き残りが、
逃げ延びて派兵途中の瑞州師中軍の陣へ駆け込んだからだ。阿選に二声氏の居所を知る
術などなかったはずだ。
「我らの中に裏切り者がいる。私はそれを確かめたかった。李斎の鴻基への知らせは私
が留め置いた。使いの者は、先程のあの男に命じて無事に鴻基から出した。空行師への
命令は、その発令日時からみても、私への書状とは無関係だ。だが李斎の書状が真実で
あり彼女が潔白ならば、必ず、文州にも知らせたろう。その相手は李斎の意を汲んで、
合議を持ったやも知れぬ。…いずれにせよ、裏切り者の少なくともひとりが文州にいる。
誰かは分らぬ。だが、主上を害せるほど身近にその者はあったのだ」
宣角ははっとした。
「ですが、李斎の手紙が真実ならば…!」
芭墨は、しかと頷いた、
「そうだ。白雉は落とされなかったのだ。主上は少なくとも、我らがそう信じ込まされ
た時点ではご存命であられた」
「信じ込まされた…確かにそうです。なぜああも易々と、私たちは信じたのでしょうか。
いいえ、あの日ばかりではない。今日だって…皆呆然とはしましたが、結局異論は唱え
なかった…。それにあの正寝の下官達の調書、あれは一体なんです、偽証ですか?二声
宮に踏み込んで官を惨殺したのだってひとりで出来るわけじゃない。阿選の非道を目の
当りにしながら手を貸し、口をつぐんでいる右軍の兵たちがいるんでしょう。でも阿選
軍ばかりか、王のお側の天官までがなぜ、あの男の思い通りになるのです」
「…心して聞かれよ」
芭墨は重く口を開いた。
「あの阿選という男に魅入られると、空恐ろしいほど操られるのだ、という話を聞いた
ことがある。驍宗様がひとを惹き付けるのは御自身の力と徳とでだが、阿選のそれは幻
術に近い…そのような中傷が、かなり以前からあるのだ」
宣角は瞬いた。芭墨はその目に頷いた。
「私とて、よくある中傷にすぎないと思っていた。だが李斎からの書状を読んだとき、
それを思い出した」
「…自分の意志でなくとも、裏切らせることができる、と?」
「宣角殿御自身、どうであった」
「私は…、」
宣角は記憶を手繰った。昼間、閣議の席で、彼は愕然と阿選の言葉を聞いていた。
「一瞬、…そうです。一瞬、衝撃で目の前がこう…判然としなくなったような感じがし
ました。内容を呑み込むのに精一杯で、真偽など考えもしなかった。念頭からまったく
外れてしまって…けれど」
宣角は眉を苦く寄せた。
「阿選がその、大司空の言葉を受けて、李斎と主上のことをあんなふうに…あのとき、
ふいに李斎の顔を思い出しました。私の知っている彼女の顔をです。嘘だと思いました。
そうしたら徐々に頭がすっきりしてきて、次々にあの日の事も思い出した…。あの鳴蝕
のとき、私は路門で彼女の隣にいたんです。台輔に直接手を下したのは彼女ではあり得
ません。彼女は仁重殿に駆けて行った。臥信殿が彼女とすぐに行き合って、そのまま夜
通し台輔の捜索、その最中に文州からの青鳥が着き、すぐさま私達と合流しての合議、
いつも必ず誰かが、李斎の側にいたんです。…それを言うために立ち上がろうとして、
あなたに止められた…芭墨殿、なぜあのとき私を?」
――『そんな』。
蒼白の顔で叫ぼうとしたその一瞬、隣にいた芭墨が帯を引っつかみ、殆ど引き落とす
ようにして、宣角の浮きかけた腰を椅子に戻したのだ。
「あなた、李斎とお親しかった。あの場で弁護すれば、確実に共犯です」
「共犯?どんな利益が私にあるのです、私は主上にこの位を賜ったのですよ」
瑞州府の地道な一官僚であった彼は、六官第二の席である地官府の長を命じる辞令に、
呆然としたものだ。
「あなたも彼女と関係があった、とされるでしょうかな」
宣角は絶句した。
「何ということを…」
「あなたが青ざめた顔で反論しようとなさったので、私はあなたを信用できると思った。
だからお助けしたのです。命を大事にして下さい。怒りに任せて本音を吐けば、あの謀
反人の思う壺だ」
芭墨は声を低めた。
「これから長い冬が始まります。だが、主上が生きておられるという望みができました。
私は可能な限りあの男の側にとどまり、支持を装って、道を正す機会を窺がおうと思う。
だが、あなたはまだお若い。逃亡なされてもあの白雉の足が偽物である以上、奴に仙籍
を抜くことはおろか、地官長の地位を奪うことも出来ません。私はそう容易く殺されて
やるつもりなどないが、阿選のやり方を見れば、留まるのは死と隣り合わせだ。逃げの
びて、正義が戻った後、優秀な官吏としての能力を戴国のために役立てるのも道です。
あなたがどちらの道を選ばれようと、私は恨む筋ではないし、まして咎めなど致しませ
ん」
「同じ道をお供致します。――お連れ下さい」
宣角は即答し、それから立ち上がると、芭墨に向かって深く拱手した。
凍てつく風が夜通し吹いて、玻璃窓を叩いていた。
地官長宣角、夏官長芭墨。この日密約を交わした二人は長く白圭宮に留まり、運命を
共にする。
そして二人とも阿選の命で刑死した。それぞれ、二年と四年の後のことである。
素早く扉を閉めて、銀の混じる鬚の男は振り返った。夜半にかかり月は隠れて、戸外
は肌を刺し通す冷たい風が吹いていた。
外套の裾の雪を落としてそれを脱いだ若い方は、冠をつけていない。彼は青ざめた顔
で息を整え、かぶりを振った。
「わかりません」
それを聞いて、鬚の方――芭墨は、使用人らしい男を呼ぶと耳打ちした。どこといっ
て特徴のない男は、ぼうっとした表情のまま小さく頷き、外に滑り出て行った。
「地官府の誰かに行き先を言ったか」
「いいえ」
「家の者には」
「今日も遅いとだけ。ひとりで帰ることになっています。府第に迎えは来ません」
「供は」
「先に帰しました」
「よろしい。…お寒かっただろう、どうぞ杯を」
いいえ、と客――地官長の宣角は、酒を辞した。
そこへ先ほどの男が戻ってきた。芭墨は男の報告を受けると、ご苦労と呟き、目で下
がらせた。このとき初めて宣角は、奄(げなん)の動きに無駄がないことに気付いた。
「尾(つ)けられてはいないそうです」
「…彼は」
「私の子飼いの部下です。官ではない。以後ご連絡は彼だけに。他の者が私の使いだと
言っても、お信じなさいますな」
その言の示す事態の深刻さに、宣角は改めて息を呑み込んだ。
今、とてつもなく恐ろしいことが自分の周囲で起こっていることはわかる。しかし、
主に戸籍と農政を扱う文官一筋に歩んできた彼は、数多の修羅場を驍宗軍の軍吏として
かいくぐってきた夏官長の芭墨と違い、きな臭い事柄とは一切無縁であった。
彼は震え声に切り出した。
「阿選殿が、昼間仰ったことは嘘ですか」
「偽りだと思う」
と、芭墨は静かに答えた、
「…宣角殿は、なにゆえ嘘だと思われたのだ」
こう聞かれて宣角は、力無く首を振った。
「だって、…だってあの李斎が、主上を…。そんなこと、あるはずがない…!そりゃあ、
主上は李斎を好いておられた。それは誰もが知っていた。でも李斎は知りませんでした」
芭墨は弱く微笑んだ。この純朴な地官長にさえ見えるほど、彼の主の恋は分りよかっ
た。
驍宗は己の思いをひた隠しにしようとはしなかった。むしろ堂々と示していた。彼は
いつも誰の目があっても、彼女に食事を申し込んだし、彼女が受けると憚らずに笑んだ。
視線が彼女を追うことに気付かれても、別段悪びれなかった。
それはやましいところの全くない恋だった。
実は芭墨は、李斎の方が王をじらしているのかと、勘繰ったことがある。主上の恋が
週に一二度の、台輔を同席した食事における会話と、せいぜいそのときの彼女の微笑で
しか報われていないことは明らかだった。
あるとき芭墨が、よくお食事を御一緒されますね、と水を向けると、思いがけず李斎
は真赤になった。そして、心配そうにこう訊いたのだ。
――実は、遠慮を知らぬ奴よと呆れられているだろうと案じておりました。かように
私ばかり、お招きにあずかってよいものでしょうか。まだ鴻基に慣れない私へのご配慮
かと思えば有り難いが、いつまでも甘えているのもいかがかと。しかし台輔のお喜びに
なるお顔を拝すると、ついお断りしそびれて……。
真面目なことこの上もない顔で真剣に相談され、芭墨は柄にもなく慌ててしまったも
のである。誰の目にも分る好意を示す無敵の王と、それを全く艶めいたものとは考えず
に控えめに応じる将軍。傍目にはおかしいやら、微笑ましいやらの二人であった。
それでも、誰ひとりとして、主上はあなたを好いておられるのだ、などと李斎に言う
はおろか、仄めかしさえもしなかったところが、双方の人徳であったのだろう。
「大司馬は、なにゆえあの場で直ちに、阿選殿の謀反と判じられたのですか」
寒さというより、今や恐怖のため震えている宣角の声に、芭墨は我に返った。
李斎こそが謀反人だったと伝えられた。主上を謀殺し、台輔に危害を加えてあの鳴蝕
を引き起こし、王宮内の大混乱に乗じて、かねて通じていた二声氏のひとりの手引きで
宮に押し入って白雉を落し、目撃した二声氏全員を手にかけた――と。
宣角が手をかざす火炉の炭火に目を当てて、芭墨はしばし沈黙した。
「…大司馬?」
突然立ち上がった芭墨は、宣角を残して部屋を出て行った。そして戻って来たとき、
手には一通の書状があった。その表の手蹟に宣角は覚えがあった。伸びやかで飾り気の
ない、生真面目に整った文字…。見上げた芭墨の顔は、恐ろしいほどに厳しかった。
「これは、十日前に李斎が、派兵に関する相談の体裁をとって夏官長の私宛に、内内に
寄越したもの。五日前に届き、以来、誰の目にも触れさせておらぬ。阿選が今日言った
ことは、ほぼ全てが、この書状に書かれている内容と同じであった。違うのは、それを
行ったのは阿選だと書いてある点だ」
紙を解き、目を走らせる宣角の顔にみるみる驚愕が走っていく。
「お分りになるか。私はあえて誰にも一言もこれを漏らしていない。なのに阿選は既に
空行師を動かしており、我らに今日、謀反人の名を告げた」
宣角は喘ぐようにして芭墨の顔を振り仰いだ。口を開いたが言葉は出なかった。
「阿選が二声宮を襲ったという李斎の書状は、内容が重大にすぎて、鵜呑みにする訳に
いかなかった。だが、李斎が二声宮を襲ったとする阿選の言があれば、話は別だ。あの
日、雉の足を持って我らのところへ姿を現したのは、阿選だったのだから」
「……なぜ阿選は、李斎が事実を掴んだと知ったのです」
李斎が阿選謀反を知り得たのは、書状によれば二声宮のたったひとりの生き残りが、
逃げ延びて派兵途中の瑞州師中軍の陣へ駆け込んだからだ。阿選に二声氏の居所を知る
術などなかったはずだ。
「我らの中に裏切り者がいる。私はそれを確かめたかった。李斎の鴻基への知らせは私
が留め置いた。使いの者は、先程のあの男に命じて無事に鴻基から出した。空行師への
命令は、その発令日時からみても、私への書状とは無関係だ。だが李斎の書状が真実で
あり彼女が潔白ならば、必ず、文州にも知らせたろう。その相手は李斎の意を汲んで、
合議を持ったやも知れぬ。…いずれにせよ、裏切り者の少なくともひとりが文州にいる。
誰かは分らぬ。だが、主上を害せるほど身近にその者はあったのだ」
宣角ははっとした。
「ですが、李斎の手紙が真実ならば…!」
芭墨は、しかと頷いた、
「そうだ。白雉は落とされなかったのだ。主上は少なくとも、我らがそう信じ込まされ
た時点ではご存命であられた」
「信じ込まされた…確かにそうです。なぜああも易々と、私たちは信じたのでしょうか。
いいえ、あの日ばかりではない。今日だって…皆呆然とはしましたが、結局異論は唱え
なかった…。それにあの正寝の下官達の調書、あれは一体なんです、偽証ですか?二声
宮に踏み込んで官を惨殺したのだってひとりで出来るわけじゃない。阿選の非道を目の
当りにしながら手を貸し、口をつぐんでいる右軍の兵たちがいるんでしょう。でも阿選
軍ばかりか、王のお側の天官までがなぜ、あの男の思い通りになるのです」
「…心して聞かれよ」
芭墨は重く口を開いた。
「あの阿選という男に魅入られると、空恐ろしいほど操られるのだ、という話を聞いた
ことがある。驍宗様がひとを惹き付けるのは御自身の力と徳とでだが、阿選のそれは幻
術に近い…そのような中傷が、かなり以前からあるのだ」
宣角は瞬いた。芭墨はその目に頷いた。
「私とて、よくある中傷にすぎないと思っていた。だが李斎からの書状を読んだとき、
それを思い出した」
「…自分の意志でなくとも、裏切らせることができる、と?」
「宣角殿御自身、どうであった」
「私は…、」
宣角は記憶を手繰った。昼間、閣議の席で、彼は愕然と阿選の言葉を聞いていた。
「一瞬、…そうです。一瞬、衝撃で目の前がこう…判然としなくなったような感じがし
ました。内容を呑み込むのに精一杯で、真偽など考えもしなかった。念頭からまったく
外れてしまって…けれど」
宣角は眉を苦く寄せた。
「阿選がその、大司空の言葉を受けて、李斎と主上のことをあんなふうに…あのとき、
ふいに李斎の顔を思い出しました。私の知っている彼女の顔をです。嘘だと思いました。
そうしたら徐々に頭がすっきりしてきて、次々にあの日の事も思い出した…。あの鳴蝕
のとき、私は路門で彼女の隣にいたんです。台輔に直接手を下したのは彼女ではあり得
ません。彼女は仁重殿に駆けて行った。臥信殿が彼女とすぐに行き合って、そのまま夜
通し台輔の捜索、その最中に文州からの青鳥が着き、すぐさま私達と合流しての合議、
いつも必ず誰かが、李斎の側にいたんです。…それを言うために立ち上がろうとして、
あなたに止められた…芭墨殿、なぜあのとき私を?」
――『そんな』。
蒼白の顔で叫ぼうとしたその一瞬、隣にいた芭墨が帯を引っつかみ、殆ど引き落とす
ようにして、宣角の浮きかけた腰を椅子に戻したのだ。
「あなた、李斎とお親しかった。あの場で弁護すれば、確実に共犯です」
「共犯?どんな利益が私にあるのです、私は主上にこの位を賜ったのですよ」
瑞州府の地道な一官僚であった彼は、六官第二の席である地官府の長を命じる辞令に、
呆然としたものだ。
「あなたも彼女と関係があった、とされるでしょうかな」
宣角は絶句した。
「何ということを…」
「あなたが青ざめた顔で反論しようとなさったので、私はあなたを信用できると思った。
だからお助けしたのです。命を大事にして下さい。怒りに任せて本音を吐けば、あの謀
反人の思う壺だ」
芭墨は声を低めた。
「これから長い冬が始まります。だが、主上が生きておられるという望みができました。
私は可能な限りあの男の側にとどまり、支持を装って、道を正す機会を窺がおうと思う。
だが、あなたはまだお若い。逃亡なされてもあの白雉の足が偽物である以上、奴に仙籍
を抜くことはおろか、地官長の地位を奪うことも出来ません。私はそう容易く殺されて
やるつもりなどないが、阿選のやり方を見れば、留まるのは死と隣り合わせだ。逃げの
びて、正義が戻った後、優秀な官吏としての能力を戴国のために役立てるのも道です。
あなたがどちらの道を選ばれようと、私は恨む筋ではないし、まして咎めなど致しませ
ん」
「同じ道をお供致します。――お連れ下さい」
宣角は即答し、それから立ち上がると、芭墨に向かって深く拱手した。
凍てつく風が夜通し吹いて、玻璃窓を叩いていた。
地官長宣角、夏官長芭墨。この日密約を交わした二人は長く白圭宮に留まり、運命を
共にする。
そして二人とも阿選の命で刑死した。それぞれ、二年と四年の後のことである。
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