先刻から、この子供はなにをしているのだろう…?
日暮れであった。古い城壁に囲まれた北東のありふれた町は、穏やかな春の一日を終
えようとしている。
子供は、立ち上がった。数歩歩いて門の方を見すえ、顎をそびやかす。それから急に
くるりとまた回れ右をすると、心持ちうな垂れて、元の位置、つまりいま男が座ってい
る城門外の大きな橡(とち)の木の下へと戻ってくるのだ。
男がそれに気づいてからでも、すでに五回以上、同じことを繰り返している。特にす
ることもないので、彼は、最前から子供の様子をもうずっと眺めるともなく眺めていた。
七八歳の少女であった。
「おじさん。さっきからここでなにをしてるの?」
少女は突然、聞いた。男は少し目を開いた。よく通る声で、はっきりとしたもの言い
だった。
「…ひとを待っている」
「ふぅん。もうすぐ門が閉まるのに?いまからじゃ次の町へは行けないわよ」
男の旅装から土地の人間ではないことを見て取ったらしい子供が、ませた口をきく。
「お前こそ、一体何をしているのだ。町の子供だろう。家に帰る時間ではないのか」
子供はちょっと口を曲げた。
「ほうっといてよ」
その拗ねた顔に愛敬があったので、この男として珍しいことに、少し微笑んだ。
強面の男が突然見せた、意外なほど優しげな顔に、少女のやや灰味がかった青色の目
が、ちょっと見開かれた。
「なんぞ、帰りたくない理由でもあるのか」
子供は男のすぐ脇に座った。ひざを抱え、俯くと、低い声で答えた。
「帰ったら、母さんにお尻ぶたれる…」
「何をした」
「しなかったのよ。今日は二胡の先生の日だったの」
「稽古をすっぽかしたか」
「…。うん…」
子供は男の反応を見るように、上目にちらと見上げた。男は黙って、そうか、とでも
いうように軽く頷いただけだった。
子供はやや拍子抜けして、ほっと息を吐いた。するとこの、彼女のよくない行いにな
んら説教しようとしなかった大人に、何事か打ち明けたい気持ちにかられた。
彼女は黙っている男にぽつぽつと話を始めた。
「……お料理やお裁縫は仕方ないと思うの。誰だって大きくなったら、土地をもらって
ひとりで暮らさなきゃいけないでしょ。でも楽器とか刺繍とかは、出来なくても大して
困らないわ。なのに母さんは、女の子だからたしなみとして覚えなさいって…たしなみ
っていうのは、どれも私の苦手なことばっかりで、嫌になる」
「母親とは、子供の先行きを考えると口やかましくなるものだ」
「さきゆきって?」
「将来。大人になってからだ」
「それだったら、自分のことさえ出来るようになればいいわ。わたし結婚しないんだし」
「ほぅ…なぜだ」
「知らないの?わたしみたいに器量が良くなくて、男の子のように乱暴な娘は、お嫁に
は行かないのよ。行きたくないから別にいいけど、行きたくたって行けないって」
男はこれを聞くと瞬いた。
「なにを見ているの」
「いや…」
男は子供の顔をのぞきこんだままで、首を傾けた。
「よい顔立ちだと思うが。きっとかなり、美人になるぞ」
子供はあからさまに顔をしかめると、きっぱりと首を振った。
「そんなはずないわ」
男は苦笑した、
「己の顔をきちんと見たことがあるのか」
少し詰まったので、ないようだ。だが子供は言い張った。
「一度もきれいだなんて言われたことないもの。姉さんはきれいよ。いつもそう言われ
てるわ」
それでか、と男は得心した。男の目には、子供はどうみても並よりかなりの器量良し
である。それが誉められたことがないとすれば、おそらくこの子の姉は、衆目認めると
ころの優れた美貌であるのだろう。
「小さい姉さんは賢くて大人しいの。いつもご本ばかり読んでる。私も勉強は嫌いじゃ
ないわよ。ただ、走ったり跳んだり、馬に乗ったり、打ち合いをするのがもっとずっと
好きなのよ」
「ひとにはそれぞれ、向いていることがあるものだ」
「そうなのよ。…でも、私は女で、男じゃない。それはもう、どうしたって変らないの」
子供は小さな手で頬を支え、憂えた溜息をつく。
「そうか…」
男は黙ったが、ふと足もとの枯れ枝を拾うと、それで地面に簡単な線を引いた。子供
が目で追う。
「……それ、何?」
「陣形だ。味方はここ。敵はこれ。数はおおよそ…」
子供は男の説明に聞き入る。
「強い敵と少ない人数で戦わねばならないときは、どうすると思う?」
「簡単よ」
ほぅ?と男は促した。
「逃げる」
男は笑った、
「正解だ。では、それでも戦わねばならぬときは」
子供は少し考えた。
「…武器とひとを、半分に分ける」
ふむ、と男。
「どう分ける」
「弱いひとと強いひと。動けないひとと元気なひとよ」
子供は男が地面に引いた図を指差した。
「これ、丘?」
「そうだ」
「ここをとるわ」
「なぜ」
「高いから。そして弱いひとをここに置く」
棒で引いた線がぐるりと陣営を迂回した。
「半分で、丘の裏側から下りて、敵の後ろから襲う。自分を強いと思ってる相手は、ふ
いを突かれると弱いの。あっという間に崩れるわ。それをこっちとこっちからいっしょ
に攻めて…、」
男は舌を巻いた。子供の説明は兵法の理にかなっている。
「驚いたな。どこで習った」
子供は肩を竦めた。
「陣取り遊びでいつも総大将なの。毎日やってれば、こんなの自然に覚えるわよ」
男は改めて子供の顔を見た。
「名前は?」
「少紫(しょうし)。おじさんは」
「…宗伯(そうはく)だ」
それが彼の字(あざな)であり、今回の旅では、すべての宿帳にそう記していたし、
彼の場合、別字の方が今では通りがよいことなど、見知らぬ子供に告げる必要がなかっ
た。子供は字をきき、くるりと目を動かした。
「一番、兄さん?」
伯、は長男の字が普通である。
「ああ。一番兄さんだ」
言って、男は笑った。
「兄はあるのか」
「いない。姉さんだけ」
「そうか」
男は手についた土を払うと立ち上がり、両腕で、しゃがんでいた少女を肩の上に抱え
上げた。
「少紫はきっと美人になる。そしてうんと強くなるぞ」
「強くていいの」
丸い目が真摯に見下ろしてくる。
「ああ。強い女はよいものだ。腕も心も強くなれ」
あのね、と、頭の早そうな子供は彼を見た、
「お嫁さん、いるの」
男は苦笑した。
「いや。おらぬ」
子供はにこりと笑む。そして聞いた。
「ほんとに美人になって、強くなったら、私をお嫁にする?」
男は殆ど笑いそうになったが、堪えた。そして抱えなおすと答えた。
「なって、下さるのか?」
「いいわよ。でも、私が二十歳になるころは、あなた今よりずぅっとずぅっとお爺さん
になってしまうわね」
男は、今度こそ声を上げて笑った。
他愛もない馬鹿げた会話だったが、このお嬢さんはなんとも愉快で、心地良い。
「私は、さほど歳をとらぬかもしれぬぞ」
「どうして」
「さぁな」
「おじさんは、将軍なの?」
男は目を見張った。そしてかぶりを振る。
「違う。なぜだ」
「違うのか…。――だって、将軍だと仙人なのよ。州侯さまみたいに歳をとらなくなる
んだって、父さんが言ってらしたもの」
「お父上は州師のひとか」
「そうよ。今にきっと将軍になるわ」
子供は胸を張った。男は微笑んだ。
「お父上を好きか」
「大好き!だって父さんだけだもの」
「?何がだ」
子供はちょっと言いよどみ、母さんに内緒だけど、と急いで付け足した。
「…男の子に勝っても、喜んでくれるのよ」
子供は小さな手を大きく振って、日暮れの路を城壁の方へと駆けて行く。
小さくなるその影を見送っている彼に、屈強な男が声をかけた。
「師帥、お待たせしました」
「うむ。行くか」
「はい。…ああ、可愛いお嬢さんですね」
振りかえってまた手を振る少女を、上司の視線の先にみとめた男が、目を細めてつぶ
やいた。
「うむ。私のいいなずけだ」
「はっ?」
「冗談だ」
目を白黒させた部下を声を上げて笑うと、戴国史上最も少(わか)い禁軍師帥は首を
ふり、いつになく和やかな目線で、行くぞ、と促した。
「茶器の場所を教えてもらえるだろうか」
「お茶は、女官がお淹れいたします」
微笑とともに穏やかにそう答えた女官長に、李斎も負けずに、にっこりした。
「自分で淹れて飲みたいのだが」
「さようでございますか」
女官長は、静かに微笑した。そして女官に、茶を淹れるよう命じた。
女官が、浮き彫刻の施された大きな黒檀の棚から、瀟洒な陶製の火炉を下ろして火を
入れ、鉄瓶に湯を沸かすのを、李斎は手持ち無沙汰に眺めた。
まさか、何もさせてもらえないわけではないのだろうが、昨日この長楽殿の一隅に部
屋を賜って以来、自分でしたことといえば、この片手の指だけで足りそうだと、李斎は、
心で数えてみる。
前日、官邸を引き払い、昼すぎて王宮に伺侯したので、食事はこれまでに昨晩と今朝
の二度。いずれも驍宗に相伴した。
かつて小さな泰麒にせがまれ、よく驍宗は彼女を食事に招いてくれたものだ。だから
王に相伴するのは、さほど不慣れなことではなかった。違うのは、昔のように、興奮し
てしゃべりまくる小さな子供が側におらず、その子が、離れた仁重殿で仕事の合間にひ
とりで食べる方を好む、大人になってしまっていることであった。
今日の朝、彼女が自室で起きてから聞きにやらせると、王はすでに、夜明けに始まる
六朝議にお出ましになられた後だった。
本来、表の公務は夫人の住まう後宮とは無関係であるから、これに遅れて起きても、
別に問題ない。だが李斎は、ほんの数日前まで、自分も王が外殿に出るよりずっと早く
に参内し、朝堂で待ったことを思うと、恐縮して顔が赤らんだ。
もとより李斎は禁軍の将ではなかったのだが、辞職するまで、連日朝議に出ることを
よぎなくされていた。瑞州師中軍は、王師としてかろうじて残った黄備三軍の一であっ
たからだ。
それが、寝坊した。
そもそも寝つきが悪かった。女官たちは李斎が、お渡りなどはない、と言ったにもか
かわらず、化粧をして休ませた。真新しい豪奢な寝具は、顔などこすりつけては汚れそ
うで、なかなか寝つけず、やっと眠ったと思ったときには朝だった。
「后妃」
呼ばれて、李斎は重くそちらへ頷いた。数刻前、寝床から起きあがった李斎が、最初
に聞かされた言葉がこの、「后妃」であった。
「……もし差し支えなければ、后妃、というのは…」
李斎が口を開きかけたとき、女官長がはっと頭を立て、すばやく膝を折った。
その動作がなにを意味するかを直ちに了解した李斎は、背後を確かめるより早く椅子
から飛び上がり、向き直りながら、膝をつく。その段になって、伏礼は特免、というよ
り、禁止されたことを思い出し、そのまま左手を上げて頭を垂れた。
「茶をもらいにきた」
微笑んで、驍宗が言う。
李斎と朝餉をとるために外殿から一度戻り、再び政務に出ていった驍宗だが、内殿に
移る途中に――この正寝は内殿より奥だから途中、とはいえないのだが――、また戻っ
てきたものらしい。
李斎がただいま御用意を、と答え、用意半ばの茶器の側へ行こうとしたのを、女官長
がすぐにとどめて、女官に急ぐよう命じた。李斎は立ち止まって振りかえり、すでに掛
けている主上と同じ円卓についてもよいものかどうか、頭の中で宮中礼式を検索した。
そのとき驍宗が機嫌良く、女官長の方に、声をかけた。
「李斎に任せよ。私が、これの淹れた茶を喫したいのだ」
「さようでございますか」
驍宗に首と目線で促され、李斎は軽く頭を下げると、茶道具に近付いた。
茶器は李斎も官邸から、一式、持って来ていた。焼きも彩色もかなり良い品だったの
だが、広げられた道具を一目見て、それらの出番が永久にないことを悟った。
間違っても阻喪せぬよう、細心の注意を払いながら、繊細な花文様を打ち出した鉄瓶
から湯を注いで道具を暖め、茶壷に葉を入れて蒸らす。最後に聞茶杯と茶杯を揃えると、
茶海から丁寧につぎ分けた。
「よい香りだ」
驍宗が言い、茶杯に口をつける。
「うむ。うまいな」
「…恐れ入ります」
李斎は深く頭を下げた。
結局この日は、朝から合計して五度、驍宗は李斎の部屋で茶を飲んで行った。
李斎がいよいよひとりになったのは、二人だけの夕餉が終り、驍宗が夜の仕事のため
に、自室に数人の彼の官を呼び寄せて引きこもってからのことであった。
今日は気温が低かった。暖房が入って、室内が暖められ、李斎は昨晩同様、三人の女
官の手で、寝間に着替えさせられたうえ、おとなしく羽毛の入った絹の上着を羽織らせ
られている。
女官長は無表情に控えている。李斎は彼女に言った。
「…官邸からの荷物の中に朱色の塗りの箱があったはずだ。それをここへ。それから、
私の剣を持って来てほしい。三振りあるが、一番古くて使い込んであるものをだ」
「かしこまりました」
そう言って彼女が命じたのは、箱についてだけである。李斎はついに嘆息した。
「剣も、だ。頼む」
李斎から声をかけられた女官は女官長を見、そのまま無言で隣室に消えた。
「后妃」
李斎は眉を上げた。
「…私はまだ、后妃ではないのだけれど?」
女官長は続けた。
「畏れながら后妃におかせられましては、いま少し柔らかなお言葉遣いが、よりふさわ
しいかと存じ上げますが」
李斎はぽかんとした。それから、ああ、と苦笑する。
「すまないな。つい癖で。ご存知だろうけれど私はずっと夏官できたから。…正直天官
のことはさっぱり分らない。ぞんざいに感じられたならば、失礼した」
それが不満だったのかと納得し、あっさりと頭を下げた李斎に対し、女官長は静かな
笑みを崩さない。
李斎は息をついた。
「女官長」
「…なんでございましょう」
「申し訳ないが、私は婉曲なもの言いに、疎い」
「さようでございますか」
李斎は女官長の目を逸らさなかった。
「率直に、言っていただけまいか。直せるところは努力する」
女官長は静かに微笑んだ。
「畏れながら、小官は極めて率直に申し上げておりますが」
「…」
会話にならないと諦めて李斎が引き下がった。その背へ声がかけられた。
「后妃」
「だから、私はまだ后妃ではないと…、」
息を吐きながら振り返った李斎を、女官長が見据えていた。その顔に微笑はない。
「先ほど后妃は小官が率直に申し上げたことに対して、お謝りになられました。しかし
ながらいささかも、改めようとはなさっておられませぬ。これはどういうことでござい
ましょうか」
李斎は目を丸くした、
「それは…、」
李斎は詰まった。
「小官には、畏れ多くも后妃から謝って頂くいわれなどございません。そもそも相手が
どんな身分の者であれ、いやしくも后妃が頭を下げるのは、この戴国が頭を下げること
と、お心得あそばされますように。あなた様が頭を下げられてよろしいのは、主上ただ
おひとりでございます。位の上では台輔がおられますが御夫君の臣、ゆえに、通常は稀
なことながら、同席の場合には慣例として、しばしば同位とみなされるのです。これは、
ご存知でいらっしゃいましたか?」
「あ、ああ!――いえ、…“はい”」
「さようでございますか」
女官長はちらりと、卓子の上の茶器を見た。
「お茶をお飲みになりたいときにご自分でお淹れになるのは、確かに気楽でよろしゅう
ございましょうが、そのために控えている女官は仕事の機会を逸します。お客様へのお
もてなしで差し上げること、主上のお求めに従ってお淹れ申し上げること等は、お立場
にかなっておりますが、ご自分のお茶は、お命じになることをまずは習慣となされませ。
それから、剣でございますが、正寝より奥で帯刀してよいのは、主上御一人でございま
す。そして後宮にお渡りの際は、その主上にすら許されないことを、仮にも后妃がなさ
っては、示しなどつきません。もしもここが正寝でなく、後宮最奥の殿舎内でありまし
たなら、いま少しゆるゆるとお教えもいたしましょうが、あいにく、主上があなた様を
どうあっても正寝に住まわせると仰って、お譲りになりませんでした。このように官の
目が近く、主上がお渡りあそばされるのに、前もっての御連絡どころか、先触れすらも
ございません。これは全て、主上の我侭から出たこと。よって、当のあなた様にご努力
頂き、可及的速やかに、后妃として最小限の体裁を整えていただくより他にない、とい
うのが天官の総意でございます。ゆえに当分の間は、刀を握るお暇などはないように、
学んでいただきます」
「……はい」
女官長は息を継いだようであった。
「后妃には后妃として知らねばならぬこと、そして、お立場にふさわしい在り様という
ものがございます。それらをお教え申し上げ、あなた様に一刻も早くわが戴国の后妃ら
しくなっていただくことが、小官のつとめにございます。お分りいただけましたでしょ
うか」
李斎は神妙に頷いた、
「…分りました」
「さようでございますか」
女官長は静かな微笑で頷いた。
「最後に」
まだあるのか、と李斎がややげんなりした顔をすると、女官長はなおも静かに微笑ん
だ。
「武将であったがゆえ天官のことは分らぬだの、婉曲なもの言いには疎いだのと、御身
に甘い言い訳をなされるようでは、それこそ、知略勇猛を謳われた武人の名折れでござ
いましょう」
呆気にとられた李斎に優雅に、――それは、仮に李斎がいま真似しようとしたとして
も、到底及ばぬほど優雅に――、一礼すると、宮中礼式が服を着ているような完璧な女
官吏は、退出した。
「まいったな…」
長椅子にどさりと腰を下ろして、李斎は高く白い天井を仰いだ。
遠く正寝門殿からは、夜気を伝って、立直兵士の当番交代の鐘の音が聞こえてくる。
王宮とは、通うのと暮らすのとでは、これほどにも、違う。
今朝の李斎は機嫌が良い。昨晩、一度は化粧されたのだが、夜中に不寝番の若い女御
を説得して、全部落としてもらい、ぐっすりと眠れたからである。
女官長の言い分はもっともだし、自分はあせらず頑張ればよいのだ、と思いなおした
李斎は、とりあえず、女官たちへの言葉遣いを改めることにした。
寝が足りて食欲さえあれば、立ち直りも早い、この后妃、元来そうした性分である。
であるから、驍宗から、三人がかりの着替えにも威儀といわれればまず従えの、あと数
日なのだから今から呼称にも慣れおけのと言われても、もはや大して気に病みはしなか
った。
驍宗は李斎の元気な様子に、満足げに笑んでいたが、ふと首を傾けた。
「領巾(ひれ)は、…それだったか?」
「は?」
李斎は聞き返した。今朝の彼女は朱鷺色に白の暈(ぼか)しの入った襦裾、そして白
い領巾である。驍宗は首を傾げる。
「緑の、ごく薄い色目のものを合わせておいたはずなのだが」
李斎は慌てた。今朝着替えの際、またそっくり新しく揃えられたことに、なにか気が
引けて、女官に無理を言って昨日と同じ領巾を纏った。返したものは確かに、淡い緑だ
った気がする。
しかし、どうしてそれを驍宗が知っているのだろう…。
李斎は目を見開いた。
「まさか。女官が用意してくれる服は、全部主上がお選びになったのですか?」
驍宗は事もなげに頷いた、
「そうだが」
「こちらに上がるために着た襦裾も、でございましょうか」
「うむ」
「そういえば、…ずっと以前、台輔と御一緒に御供仕りましたときも、服と飾りなど、
ご用意頂きましたが…」
「そうだったかな」
李斎は殆ど呆れてしまった。
「主上は、衣服などお見立てになるのがお好きでいらっしゃるのですか」
こう聞かれると驍宗は、首をわずか傾けた。
「言われてみれば、そうかもしれぬ…。いや、かなり好きだろうな」
「はぁ」
「そうだな。李斎の着る物を選ぶのは、確かに楽しみだぞ」
言うと驍宗は、実際楽しそうに笑んだ。
「ご自分のものは、お選びにならないのですか」
李斎の印象として、驍宗は決して着道楽ではない。よいものを着けているし、身だし
なみもよい方かもしれないが、並外れて洒落るのが好きだとは、思えない。
「私が飾ってどうする。男なぞ、何を着ていてもそう大差などない。必要に応じて、悪
趣味でないものを数枚着回せば、それで事足りる」
「はぁ」
唐突に、ある国の国主の顔が浮かんだ。そして彼から譲られた、ほんの数日間滞在し
た園林の中の宮――『淹久閣』。
「あの…、お聞きいたしますが、このお部屋の品々も、主上が…?」
驍宗は頷き、見まわした。
「どれも御庫のもので間に合わせだ。もっとも、新調したとてこんな品は、とても用意
できぬのだが…」
驕王の遺した品々は、良くも悪くも、いまの戴国が注文できるような代物ではない。
驍宗は、ここしばらく、わずかの暇を見つけては迎える后妃のために、御庫に眠る贅を
凝らした道具の中から、華美に過ぎていない落ち着いた意匠のものを選って、手ずから
準備したのだった。
「どうした?」
「いえ…」
と、李斎は額を抱えたが、じきにくすくすと笑い出した。驍宗は首を傾け、李斎に弁
明を促す。
「氾王が、言っておられたのです」
氾、と驍宗は繰り返した。李斎は頷く。
「――主上は無骨だが、趣味は悪くないようだった、と」
「なんだそれは」
李斎は微笑んだ、
「あの氾王にそのように言わせるのは紛れもなく、すこぶる趣味のよい方なのですよ?」
「ふむ」
驍宗は気のない返事をした。
彼の記憶の中で、即位礼で会った呉藍滌は、公式の慶事に列席する国主にふさわしい
身なりを整えた男である。
現にそのときの氾王をも知っている李斎は、また笑った。驍宗はやや不機嫌に話題を
変えた。せっかくの二人でとる朝餉に、余所の男の話では、面白くない。
「先程の朝議のおりに、蒿里と話した。今夕は三人で食事できるぞ」
「台輔が、こちらへ?」
李斎が思わず顔を輝かせる。
「あれも最近は忙しがって、ろくに正寝へは来ぬ。そなたを餌に、ようやく釣った。よ
かったか?」
「台輔とお話し出来ますのに、わたくしに異存などありましょうか。楽しみでございま
す」
意気込んだ李斎の満面の笑みに、驍宗は笑った。
「李斎は私などより余程、蒿里の方が大事だからな」
「主上…」
李斎は小さく王を睨んだ。驍宗と泰麒と、彼女にとってこの二人は、比較のしような
どありはしない。
「蒿里にしても私など、所詮は王ゆえ慕うのだ、あれが真実手放しで好いておるのは、
そなたのことだぞ」
「畏れながら主上、台輔は戴国の麒麟でいらっしゃいます。台輔にとって、主上に勝る
存在など、この世にあろうはずがございません」
真面目に反論する李斎に、驍宗は笑って答えてやる。
「なんの。麒麟は民意の具現――なれば、民こそが、あれにとっての至上の存在だ。そ
なたは后妃、いわば民の母になるのだから、監視せねばならぬ王より、よほど安らげて
も不思議などはあるまい」
李斎は瞬いた。
「――民の母…、でございますか…」
驍宗はひとつ頷く。ふと真顔になった。
「そのようなものだと思うのだ。王となって選ぶ伴侶とは、通常の婚姻ではない。既に
神籍にある身に、民の中からひとりを与えられるのだから、民から与えられると、私は
解釈している。蒿里は天が私に与えたが、李斎を私にくれたのは、民だ」
李斎は真摯な言葉に息を呑み、少し姿勢を改めて、驍宗を見た。驍宗は静かに続けた。
「独身の王が王后乃至大公を迎えることを天綱が認めているのは、それなりに故あって
のことだろう。少なくとも、それまでの家族関係の継続だけが目的ならば、既婚の王の
ためだけの制度のはずだ。前例に多いように、気に入りの寵妃に、北宮と后位をくれて
やるためのものであるはずもない…、」
実際のところ、私利を度外視して王を補佐するような愛妾は概ね賢婦であるから、妬
み恨みをかわぬためにも実をとって、名をとらぬことが多い。他国の例まで眺めてみて
も、王の死後まで飛仙の扱いで功労されたような者でさえ、立后はしていないほどだ。
即位と時を隔てた立后で圧倒的に多いのは、王に讒言して王后を排し、己が後宮で一
の位を手に入れるという悪婦の例で、これを立后させるような王は無論、長くはない。
現在、十二国中、王后の位にあることが確実なのは、奏南国の宗后妃ただお一方で、
彼女は宗王櫨先新の、登極前からの配偶者である。四年前に誅殺された前峯王の后妃も
同様だった。劉王には即位時に妻があったと考えられるが、その後の伝聞がない。
独身で即位した王といえば、古い順に、延、氾、廉の三王、特に延と氾の治世はそれ
ぞれ五百年と三百年の長きに及ぶのだが、いずれも伴侶は持っていない。即位から八年
足らずで泰王が后妃を迎えるのは、むしろ異例のことと言えた。
「…王の家族とは、官位の有無に拘らず、王に準じた義務を持つ、と解するのが妥当だ
ろうな。畢竟、民に資するを旨として、王后大公、太子公主という地位は存在している
ものなのだ」
「――わたくしに、その義務を果たせましょうか」
李斎は厳しい顔で王に問うた。驍宗はあっさり答えた、
「そう思わねば、王后に望んでおらぬ」
李斎は曖昧に頷いた。
驍宗はふと笑んだ。
「何ぞ嫌なことが耳に入るか」
李斎は、返事に窮した。いかにもつまらぬことであった。いちいちお耳に入れたくも
ない陰口の類ならば、掃いて捨てるほどに、ある。
李斎は驚くほど多くの人々から歓迎され、しごく好意的に王宮へ迎えられたが、それ
でも、臣から王の唯一の伴侶となった者への、ある種の羨望から裏返った、意地の悪い
憶測や、好意的関心を装った、好奇の噂話からは逃れられない。
「口さがない者は好きに言う。言わせておけばよい。夫婦のことなど、他人に分るか。
私が断じてそなたへの恩賞などで立后させるのではないと、私とそなたが知っておれば
よいのだ、違うか」
李斎は見開いた目で驍宗を見つめたが、ほっと息をついて首を振った。当の驍宗から
こう言われると、肩に重かったものが外れ、胸のつかえが下りた気がする。
「案ぜずとも、この私の后妃だ。李斎にはじき、気の毒がられるほど働いてもらうこと
になるぞ」
この言葉に、李斎は眩しい笑顔で答えた。
「ご期待に添えるよう、努力致します」
そうしてくれ、と驍宗は明るく笑った。
日暮れであった。古い城壁に囲まれた北東のありふれた町は、穏やかな春の一日を終
えようとしている。
子供は、立ち上がった。数歩歩いて門の方を見すえ、顎をそびやかす。それから急に
くるりとまた回れ右をすると、心持ちうな垂れて、元の位置、つまりいま男が座ってい
る城門外の大きな橡(とち)の木の下へと戻ってくるのだ。
男がそれに気づいてからでも、すでに五回以上、同じことを繰り返している。特にす
ることもないので、彼は、最前から子供の様子をもうずっと眺めるともなく眺めていた。
七八歳の少女であった。
「おじさん。さっきからここでなにをしてるの?」
少女は突然、聞いた。男は少し目を開いた。よく通る声で、はっきりとしたもの言い
だった。
「…ひとを待っている」
「ふぅん。もうすぐ門が閉まるのに?いまからじゃ次の町へは行けないわよ」
男の旅装から土地の人間ではないことを見て取ったらしい子供が、ませた口をきく。
「お前こそ、一体何をしているのだ。町の子供だろう。家に帰る時間ではないのか」
子供はちょっと口を曲げた。
「ほうっといてよ」
その拗ねた顔に愛敬があったので、この男として珍しいことに、少し微笑んだ。
強面の男が突然見せた、意外なほど優しげな顔に、少女のやや灰味がかった青色の目
が、ちょっと見開かれた。
「なんぞ、帰りたくない理由でもあるのか」
子供は男のすぐ脇に座った。ひざを抱え、俯くと、低い声で答えた。
「帰ったら、母さんにお尻ぶたれる…」
「何をした」
「しなかったのよ。今日は二胡の先生の日だったの」
「稽古をすっぽかしたか」
「…。うん…」
子供は男の反応を見るように、上目にちらと見上げた。男は黙って、そうか、とでも
いうように軽く頷いただけだった。
子供はやや拍子抜けして、ほっと息を吐いた。するとこの、彼女のよくない行いにな
んら説教しようとしなかった大人に、何事か打ち明けたい気持ちにかられた。
彼女は黙っている男にぽつぽつと話を始めた。
「……お料理やお裁縫は仕方ないと思うの。誰だって大きくなったら、土地をもらって
ひとりで暮らさなきゃいけないでしょ。でも楽器とか刺繍とかは、出来なくても大して
困らないわ。なのに母さんは、女の子だからたしなみとして覚えなさいって…たしなみ
っていうのは、どれも私の苦手なことばっかりで、嫌になる」
「母親とは、子供の先行きを考えると口やかましくなるものだ」
「さきゆきって?」
「将来。大人になってからだ」
「それだったら、自分のことさえ出来るようになればいいわ。わたし結婚しないんだし」
「ほぅ…なぜだ」
「知らないの?わたしみたいに器量が良くなくて、男の子のように乱暴な娘は、お嫁に
は行かないのよ。行きたくないから別にいいけど、行きたくたって行けないって」
男はこれを聞くと瞬いた。
「なにを見ているの」
「いや…」
男は子供の顔をのぞきこんだままで、首を傾けた。
「よい顔立ちだと思うが。きっとかなり、美人になるぞ」
子供はあからさまに顔をしかめると、きっぱりと首を振った。
「そんなはずないわ」
男は苦笑した、
「己の顔をきちんと見たことがあるのか」
少し詰まったので、ないようだ。だが子供は言い張った。
「一度もきれいだなんて言われたことないもの。姉さんはきれいよ。いつもそう言われ
てるわ」
それでか、と男は得心した。男の目には、子供はどうみても並よりかなりの器量良し
である。それが誉められたことがないとすれば、おそらくこの子の姉は、衆目認めると
ころの優れた美貌であるのだろう。
「小さい姉さんは賢くて大人しいの。いつもご本ばかり読んでる。私も勉強は嫌いじゃ
ないわよ。ただ、走ったり跳んだり、馬に乗ったり、打ち合いをするのがもっとずっと
好きなのよ」
「ひとにはそれぞれ、向いていることがあるものだ」
「そうなのよ。…でも、私は女で、男じゃない。それはもう、どうしたって変らないの」
子供は小さな手で頬を支え、憂えた溜息をつく。
「そうか…」
男は黙ったが、ふと足もとの枯れ枝を拾うと、それで地面に簡単な線を引いた。子供
が目で追う。
「……それ、何?」
「陣形だ。味方はここ。敵はこれ。数はおおよそ…」
子供は男の説明に聞き入る。
「強い敵と少ない人数で戦わねばならないときは、どうすると思う?」
「簡単よ」
ほぅ?と男は促した。
「逃げる」
男は笑った、
「正解だ。では、それでも戦わねばならぬときは」
子供は少し考えた。
「…武器とひとを、半分に分ける」
ふむ、と男。
「どう分ける」
「弱いひとと強いひと。動けないひとと元気なひとよ」
子供は男が地面に引いた図を指差した。
「これ、丘?」
「そうだ」
「ここをとるわ」
「なぜ」
「高いから。そして弱いひとをここに置く」
棒で引いた線がぐるりと陣営を迂回した。
「半分で、丘の裏側から下りて、敵の後ろから襲う。自分を強いと思ってる相手は、ふ
いを突かれると弱いの。あっという間に崩れるわ。それをこっちとこっちからいっしょ
に攻めて…、」
男は舌を巻いた。子供の説明は兵法の理にかなっている。
「驚いたな。どこで習った」
子供は肩を竦めた。
「陣取り遊びでいつも総大将なの。毎日やってれば、こんなの自然に覚えるわよ」
男は改めて子供の顔を見た。
「名前は?」
「少紫(しょうし)。おじさんは」
「…宗伯(そうはく)だ」
それが彼の字(あざな)であり、今回の旅では、すべての宿帳にそう記していたし、
彼の場合、別字の方が今では通りがよいことなど、見知らぬ子供に告げる必要がなかっ
た。子供は字をきき、くるりと目を動かした。
「一番、兄さん?」
伯、は長男の字が普通である。
「ああ。一番兄さんだ」
言って、男は笑った。
「兄はあるのか」
「いない。姉さんだけ」
「そうか」
男は手についた土を払うと立ち上がり、両腕で、しゃがんでいた少女を肩の上に抱え
上げた。
「少紫はきっと美人になる。そしてうんと強くなるぞ」
「強くていいの」
丸い目が真摯に見下ろしてくる。
「ああ。強い女はよいものだ。腕も心も強くなれ」
あのね、と、頭の早そうな子供は彼を見た、
「お嫁さん、いるの」
男は苦笑した。
「いや。おらぬ」
子供はにこりと笑む。そして聞いた。
「ほんとに美人になって、強くなったら、私をお嫁にする?」
男は殆ど笑いそうになったが、堪えた。そして抱えなおすと答えた。
「なって、下さるのか?」
「いいわよ。でも、私が二十歳になるころは、あなた今よりずぅっとずぅっとお爺さん
になってしまうわね」
男は、今度こそ声を上げて笑った。
他愛もない馬鹿げた会話だったが、このお嬢さんはなんとも愉快で、心地良い。
「私は、さほど歳をとらぬかもしれぬぞ」
「どうして」
「さぁな」
「おじさんは、将軍なの?」
男は目を見張った。そしてかぶりを振る。
「違う。なぜだ」
「違うのか…。――だって、将軍だと仙人なのよ。州侯さまみたいに歳をとらなくなる
んだって、父さんが言ってらしたもの」
「お父上は州師のひとか」
「そうよ。今にきっと将軍になるわ」
子供は胸を張った。男は微笑んだ。
「お父上を好きか」
「大好き!だって父さんだけだもの」
「?何がだ」
子供はちょっと言いよどみ、母さんに内緒だけど、と急いで付け足した。
「…男の子に勝っても、喜んでくれるのよ」
子供は小さな手を大きく振って、日暮れの路を城壁の方へと駆けて行く。
小さくなるその影を見送っている彼に、屈強な男が声をかけた。
「師帥、お待たせしました」
「うむ。行くか」
「はい。…ああ、可愛いお嬢さんですね」
振りかえってまた手を振る少女を、上司の視線の先にみとめた男が、目を細めてつぶ
やいた。
「うむ。私のいいなずけだ」
「はっ?」
「冗談だ」
目を白黒させた部下を声を上げて笑うと、戴国史上最も少(わか)い禁軍師帥は首を
ふり、いつになく和やかな目線で、行くぞ、と促した。
「茶器の場所を教えてもらえるだろうか」
「お茶は、女官がお淹れいたします」
微笑とともに穏やかにそう答えた女官長に、李斎も負けずに、にっこりした。
「自分で淹れて飲みたいのだが」
「さようでございますか」
女官長は、静かに微笑した。そして女官に、茶を淹れるよう命じた。
女官が、浮き彫刻の施された大きな黒檀の棚から、瀟洒な陶製の火炉を下ろして火を
入れ、鉄瓶に湯を沸かすのを、李斎は手持ち無沙汰に眺めた。
まさか、何もさせてもらえないわけではないのだろうが、昨日この長楽殿の一隅に部
屋を賜って以来、自分でしたことといえば、この片手の指だけで足りそうだと、李斎は、
心で数えてみる。
前日、官邸を引き払い、昼すぎて王宮に伺侯したので、食事はこれまでに昨晩と今朝
の二度。いずれも驍宗に相伴した。
かつて小さな泰麒にせがまれ、よく驍宗は彼女を食事に招いてくれたものだ。だから
王に相伴するのは、さほど不慣れなことではなかった。違うのは、昔のように、興奮し
てしゃべりまくる小さな子供が側におらず、その子が、離れた仁重殿で仕事の合間にひ
とりで食べる方を好む、大人になってしまっていることであった。
今日の朝、彼女が自室で起きてから聞きにやらせると、王はすでに、夜明けに始まる
六朝議にお出ましになられた後だった。
本来、表の公務は夫人の住まう後宮とは無関係であるから、これに遅れて起きても、
別に問題ない。だが李斎は、ほんの数日前まで、自分も王が外殿に出るよりずっと早く
に参内し、朝堂で待ったことを思うと、恐縮して顔が赤らんだ。
もとより李斎は禁軍の将ではなかったのだが、辞職するまで、連日朝議に出ることを
よぎなくされていた。瑞州師中軍は、王師としてかろうじて残った黄備三軍の一であっ
たからだ。
それが、寝坊した。
そもそも寝つきが悪かった。女官たちは李斎が、お渡りなどはない、と言ったにもか
かわらず、化粧をして休ませた。真新しい豪奢な寝具は、顔などこすりつけては汚れそ
うで、なかなか寝つけず、やっと眠ったと思ったときには朝だった。
「后妃」
呼ばれて、李斎は重くそちらへ頷いた。数刻前、寝床から起きあがった李斎が、最初
に聞かされた言葉がこの、「后妃」であった。
「……もし差し支えなければ、后妃、というのは…」
李斎が口を開きかけたとき、女官長がはっと頭を立て、すばやく膝を折った。
その動作がなにを意味するかを直ちに了解した李斎は、背後を確かめるより早く椅子
から飛び上がり、向き直りながら、膝をつく。その段になって、伏礼は特免、というよ
り、禁止されたことを思い出し、そのまま左手を上げて頭を垂れた。
「茶をもらいにきた」
微笑んで、驍宗が言う。
李斎と朝餉をとるために外殿から一度戻り、再び政務に出ていった驍宗だが、内殿に
移る途中に――この正寝は内殿より奥だから途中、とはいえないのだが――、また戻っ
てきたものらしい。
李斎がただいま御用意を、と答え、用意半ばの茶器の側へ行こうとしたのを、女官長
がすぐにとどめて、女官に急ぐよう命じた。李斎は立ち止まって振りかえり、すでに掛
けている主上と同じ円卓についてもよいものかどうか、頭の中で宮中礼式を検索した。
そのとき驍宗が機嫌良く、女官長の方に、声をかけた。
「李斎に任せよ。私が、これの淹れた茶を喫したいのだ」
「さようでございますか」
驍宗に首と目線で促され、李斎は軽く頭を下げると、茶道具に近付いた。
茶器は李斎も官邸から、一式、持って来ていた。焼きも彩色もかなり良い品だったの
だが、広げられた道具を一目見て、それらの出番が永久にないことを悟った。
間違っても阻喪せぬよう、細心の注意を払いながら、繊細な花文様を打ち出した鉄瓶
から湯を注いで道具を暖め、茶壷に葉を入れて蒸らす。最後に聞茶杯と茶杯を揃えると、
茶海から丁寧につぎ分けた。
「よい香りだ」
驍宗が言い、茶杯に口をつける。
「うむ。うまいな」
「…恐れ入ります」
李斎は深く頭を下げた。
結局この日は、朝から合計して五度、驍宗は李斎の部屋で茶を飲んで行った。
李斎がいよいよひとりになったのは、二人だけの夕餉が終り、驍宗が夜の仕事のため
に、自室に数人の彼の官を呼び寄せて引きこもってからのことであった。
今日は気温が低かった。暖房が入って、室内が暖められ、李斎は昨晩同様、三人の女
官の手で、寝間に着替えさせられたうえ、おとなしく羽毛の入った絹の上着を羽織らせ
られている。
女官長は無表情に控えている。李斎は彼女に言った。
「…官邸からの荷物の中に朱色の塗りの箱があったはずだ。それをここへ。それから、
私の剣を持って来てほしい。三振りあるが、一番古くて使い込んであるものをだ」
「かしこまりました」
そう言って彼女が命じたのは、箱についてだけである。李斎はついに嘆息した。
「剣も、だ。頼む」
李斎から声をかけられた女官は女官長を見、そのまま無言で隣室に消えた。
「后妃」
李斎は眉を上げた。
「…私はまだ、后妃ではないのだけれど?」
女官長は続けた。
「畏れながら后妃におかせられましては、いま少し柔らかなお言葉遣いが、よりふさわ
しいかと存じ上げますが」
李斎はぽかんとした。それから、ああ、と苦笑する。
「すまないな。つい癖で。ご存知だろうけれど私はずっと夏官できたから。…正直天官
のことはさっぱり分らない。ぞんざいに感じられたならば、失礼した」
それが不満だったのかと納得し、あっさりと頭を下げた李斎に対し、女官長は静かな
笑みを崩さない。
李斎は息をついた。
「女官長」
「…なんでございましょう」
「申し訳ないが、私は婉曲なもの言いに、疎い」
「さようでございますか」
李斎は女官長の目を逸らさなかった。
「率直に、言っていただけまいか。直せるところは努力する」
女官長は静かに微笑んだ。
「畏れながら、小官は極めて率直に申し上げておりますが」
「…」
会話にならないと諦めて李斎が引き下がった。その背へ声がかけられた。
「后妃」
「だから、私はまだ后妃ではないと…、」
息を吐きながら振り返った李斎を、女官長が見据えていた。その顔に微笑はない。
「先ほど后妃は小官が率直に申し上げたことに対して、お謝りになられました。しかし
ながらいささかも、改めようとはなさっておられませぬ。これはどういうことでござい
ましょうか」
李斎は目を丸くした、
「それは…、」
李斎は詰まった。
「小官には、畏れ多くも后妃から謝って頂くいわれなどございません。そもそも相手が
どんな身分の者であれ、いやしくも后妃が頭を下げるのは、この戴国が頭を下げること
と、お心得あそばされますように。あなた様が頭を下げられてよろしいのは、主上ただ
おひとりでございます。位の上では台輔がおられますが御夫君の臣、ゆえに、通常は稀
なことながら、同席の場合には慣例として、しばしば同位とみなされるのです。これは、
ご存知でいらっしゃいましたか?」
「あ、ああ!――いえ、…“はい”」
「さようでございますか」
女官長はちらりと、卓子の上の茶器を見た。
「お茶をお飲みになりたいときにご自分でお淹れになるのは、確かに気楽でよろしゅう
ございましょうが、そのために控えている女官は仕事の機会を逸します。お客様へのお
もてなしで差し上げること、主上のお求めに従ってお淹れ申し上げること等は、お立場
にかなっておりますが、ご自分のお茶は、お命じになることをまずは習慣となされませ。
それから、剣でございますが、正寝より奥で帯刀してよいのは、主上御一人でございま
す。そして後宮にお渡りの際は、その主上にすら許されないことを、仮にも后妃がなさ
っては、示しなどつきません。もしもここが正寝でなく、後宮最奥の殿舎内でありまし
たなら、いま少しゆるゆるとお教えもいたしましょうが、あいにく、主上があなた様を
どうあっても正寝に住まわせると仰って、お譲りになりませんでした。このように官の
目が近く、主上がお渡りあそばされるのに、前もっての御連絡どころか、先触れすらも
ございません。これは全て、主上の我侭から出たこと。よって、当のあなた様にご努力
頂き、可及的速やかに、后妃として最小限の体裁を整えていただくより他にない、とい
うのが天官の総意でございます。ゆえに当分の間は、刀を握るお暇などはないように、
学んでいただきます」
「……はい」
女官長は息を継いだようであった。
「后妃には后妃として知らねばならぬこと、そして、お立場にふさわしい在り様という
ものがございます。それらをお教え申し上げ、あなた様に一刻も早くわが戴国の后妃ら
しくなっていただくことが、小官のつとめにございます。お分りいただけましたでしょ
うか」
李斎は神妙に頷いた、
「…分りました」
「さようでございますか」
女官長は静かな微笑で頷いた。
「最後に」
まだあるのか、と李斎がややげんなりした顔をすると、女官長はなおも静かに微笑ん
だ。
「武将であったがゆえ天官のことは分らぬだの、婉曲なもの言いには疎いだのと、御身
に甘い言い訳をなされるようでは、それこそ、知略勇猛を謳われた武人の名折れでござ
いましょう」
呆気にとられた李斎に優雅に、――それは、仮に李斎がいま真似しようとしたとして
も、到底及ばぬほど優雅に――、一礼すると、宮中礼式が服を着ているような完璧な女
官吏は、退出した。
「まいったな…」
長椅子にどさりと腰を下ろして、李斎は高く白い天井を仰いだ。
遠く正寝門殿からは、夜気を伝って、立直兵士の当番交代の鐘の音が聞こえてくる。
王宮とは、通うのと暮らすのとでは、これほどにも、違う。
今朝の李斎は機嫌が良い。昨晩、一度は化粧されたのだが、夜中に不寝番の若い女御
を説得して、全部落としてもらい、ぐっすりと眠れたからである。
女官長の言い分はもっともだし、自分はあせらず頑張ればよいのだ、と思いなおした
李斎は、とりあえず、女官たちへの言葉遣いを改めることにした。
寝が足りて食欲さえあれば、立ち直りも早い、この后妃、元来そうした性分である。
であるから、驍宗から、三人がかりの着替えにも威儀といわれればまず従えの、あと数
日なのだから今から呼称にも慣れおけのと言われても、もはや大して気に病みはしなか
った。
驍宗は李斎の元気な様子に、満足げに笑んでいたが、ふと首を傾けた。
「領巾(ひれ)は、…それだったか?」
「は?」
李斎は聞き返した。今朝の彼女は朱鷺色に白の暈(ぼか)しの入った襦裾、そして白
い領巾である。驍宗は首を傾げる。
「緑の、ごく薄い色目のものを合わせておいたはずなのだが」
李斎は慌てた。今朝着替えの際、またそっくり新しく揃えられたことに、なにか気が
引けて、女官に無理を言って昨日と同じ領巾を纏った。返したものは確かに、淡い緑だ
った気がする。
しかし、どうしてそれを驍宗が知っているのだろう…。
李斎は目を見開いた。
「まさか。女官が用意してくれる服は、全部主上がお選びになったのですか?」
驍宗は事もなげに頷いた、
「そうだが」
「こちらに上がるために着た襦裾も、でございましょうか」
「うむ」
「そういえば、…ずっと以前、台輔と御一緒に御供仕りましたときも、服と飾りなど、
ご用意頂きましたが…」
「そうだったかな」
李斎は殆ど呆れてしまった。
「主上は、衣服などお見立てになるのがお好きでいらっしゃるのですか」
こう聞かれると驍宗は、首をわずか傾けた。
「言われてみれば、そうかもしれぬ…。いや、かなり好きだろうな」
「はぁ」
「そうだな。李斎の着る物を選ぶのは、確かに楽しみだぞ」
言うと驍宗は、実際楽しそうに笑んだ。
「ご自分のものは、お選びにならないのですか」
李斎の印象として、驍宗は決して着道楽ではない。よいものを着けているし、身だし
なみもよい方かもしれないが、並外れて洒落るのが好きだとは、思えない。
「私が飾ってどうする。男なぞ、何を着ていてもそう大差などない。必要に応じて、悪
趣味でないものを数枚着回せば、それで事足りる」
「はぁ」
唐突に、ある国の国主の顔が浮かんだ。そして彼から譲られた、ほんの数日間滞在し
た園林の中の宮――『淹久閣』。
「あの…、お聞きいたしますが、このお部屋の品々も、主上が…?」
驍宗は頷き、見まわした。
「どれも御庫のもので間に合わせだ。もっとも、新調したとてこんな品は、とても用意
できぬのだが…」
驕王の遺した品々は、良くも悪くも、いまの戴国が注文できるような代物ではない。
驍宗は、ここしばらく、わずかの暇を見つけては迎える后妃のために、御庫に眠る贅を
凝らした道具の中から、華美に過ぎていない落ち着いた意匠のものを選って、手ずから
準備したのだった。
「どうした?」
「いえ…」
と、李斎は額を抱えたが、じきにくすくすと笑い出した。驍宗は首を傾け、李斎に弁
明を促す。
「氾王が、言っておられたのです」
氾、と驍宗は繰り返した。李斎は頷く。
「――主上は無骨だが、趣味は悪くないようだった、と」
「なんだそれは」
李斎は微笑んだ、
「あの氾王にそのように言わせるのは紛れもなく、すこぶる趣味のよい方なのですよ?」
「ふむ」
驍宗は気のない返事をした。
彼の記憶の中で、即位礼で会った呉藍滌は、公式の慶事に列席する国主にふさわしい
身なりを整えた男である。
現にそのときの氾王をも知っている李斎は、また笑った。驍宗はやや不機嫌に話題を
変えた。せっかくの二人でとる朝餉に、余所の男の話では、面白くない。
「先程の朝議のおりに、蒿里と話した。今夕は三人で食事できるぞ」
「台輔が、こちらへ?」
李斎が思わず顔を輝かせる。
「あれも最近は忙しがって、ろくに正寝へは来ぬ。そなたを餌に、ようやく釣った。よ
かったか?」
「台輔とお話し出来ますのに、わたくしに異存などありましょうか。楽しみでございま
す」
意気込んだ李斎の満面の笑みに、驍宗は笑った。
「李斎は私などより余程、蒿里の方が大事だからな」
「主上…」
李斎は小さく王を睨んだ。驍宗と泰麒と、彼女にとってこの二人は、比較のしような
どありはしない。
「蒿里にしても私など、所詮は王ゆえ慕うのだ、あれが真実手放しで好いておるのは、
そなたのことだぞ」
「畏れながら主上、台輔は戴国の麒麟でいらっしゃいます。台輔にとって、主上に勝る
存在など、この世にあろうはずがございません」
真面目に反論する李斎に、驍宗は笑って答えてやる。
「なんの。麒麟は民意の具現――なれば、民こそが、あれにとっての至上の存在だ。そ
なたは后妃、いわば民の母になるのだから、監視せねばならぬ王より、よほど安らげて
も不思議などはあるまい」
李斎は瞬いた。
「――民の母…、でございますか…」
驍宗はひとつ頷く。ふと真顔になった。
「そのようなものだと思うのだ。王となって選ぶ伴侶とは、通常の婚姻ではない。既に
神籍にある身に、民の中からひとりを与えられるのだから、民から与えられると、私は
解釈している。蒿里は天が私に与えたが、李斎を私にくれたのは、民だ」
李斎は真摯な言葉に息を呑み、少し姿勢を改めて、驍宗を見た。驍宗は静かに続けた。
「独身の王が王后乃至大公を迎えることを天綱が認めているのは、それなりに故あって
のことだろう。少なくとも、それまでの家族関係の継続だけが目的ならば、既婚の王の
ためだけの制度のはずだ。前例に多いように、気に入りの寵妃に、北宮と后位をくれて
やるためのものであるはずもない…、」
実際のところ、私利を度外視して王を補佐するような愛妾は概ね賢婦であるから、妬
み恨みをかわぬためにも実をとって、名をとらぬことが多い。他国の例まで眺めてみて
も、王の死後まで飛仙の扱いで功労されたような者でさえ、立后はしていないほどだ。
即位と時を隔てた立后で圧倒的に多いのは、王に讒言して王后を排し、己が後宮で一
の位を手に入れるという悪婦の例で、これを立后させるような王は無論、長くはない。
現在、十二国中、王后の位にあることが確実なのは、奏南国の宗后妃ただお一方で、
彼女は宗王櫨先新の、登極前からの配偶者である。四年前に誅殺された前峯王の后妃も
同様だった。劉王には即位時に妻があったと考えられるが、その後の伝聞がない。
独身で即位した王といえば、古い順に、延、氾、廉の三王、特に延と氾の治世はそれ
ぞれ五百年と三百年の長きに及ぶのだが、いずれも伴侶は持っていない。即位から八年
足らずで泰王が后妃を迎えるのは、むしろ異例のことと言えた。
「…王の家族とは、官位の有無に拘らず、王に準じた義務を持つ、と解するのが妥当だ
ろうな。畢竟、民に資するを旨として、王后大公、太子公主という地位は存在している
ものなのだ」
「――わたくしに、その義務を果たせましょうか」
李斎は厳しい顔で王に問うた。驍宗はあっさり答えた、
「そう思わねば、王后に望んでおらぬ」
李斎は曖昧に頷いた。
驍宗はふと笑んだ。
「何ぞ嫌なことが耳に入るか」
李斎は、返事に窮した。いかにもつまらぬことであった。いちいちお耳に入れたくも
ない陰口の類ならば、掃いて捨てるほどに、ある。
李斎は驚くほど多くの人々から歓迎され、しごく好意的に王宮へ迎えられたが、それ
でも、臣から王の唯一の伴侶となった者への、ある種の羨望から裏返った、意地の悪い
憶測や、好意的関心を装った、好奇の噂話からは逃れられない。
「口さがない者は好きに言う。言わせておけばよい。夫婦のことなど、他人に分るか。
私が断じてそなたへの恩賞などで立后させるのではないと、私とそなたが知っておれば
よいのだ、違うか」
李斎は見開いた目で驍宗を見つめたが、ほっと息をついて首を振った。当の驍宗から
こう言われると、肩に重かったものが外れ、胸のつかえが下りた気がする。
「案ぜずとも、この私の后妃だ。李斎にはじき、気の毒がられるほど働いてもらうこと
になるぞ」
この言葉に、李斎は眩しい笑顔で答えた。
「ご期待に添えるよう、努力致します」
そうしてくれ、と驍宗は明るく笑った。
PR