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うろほろぞ
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 李斎は臥床に肱をつき、上半身を注意深く引き起こした。
 傷はまだ少し痛む。だが、昨日よりはずっと楽に起き上がることが出来る。
「また。なにをしておられるんですか」
 師帥が入ってきて、見咎めた。将軍はかすかに嘆息した。
「少しくらい動かないと」
「将軍。私はもう少しで女仙方に殺されるところでした。仮に女仙に殺されなくても、
国に戻ったら、承侯に殺されておりました。…いいから寝てらして下さい。下山すると
なれば嫌でも動いて頂きます」
「上着をとってくれないか」
 息を吐いた部下を促す。
「昨日と同じならそろそろお見えだ。頼む」
 師帥が眉を解いた、
「驍宗殿ですか。…今日もおいでに?」
 李斎が衣を受けとりながらああ、と頷く。
「昨日帰るときそう仰っていたから」
「髪も梳かれますか」
 李斎はきょとんと目を上げた。
「そんなに見苦しいか」
「いえ、そういうわけでは。ちゃんとしておられます」
 李斎は怪訝な顔で師帥を見たが、何も言わなかった。


「横になっていなくてよろしいのか」
 やはり昨日と変らない時刻に姿を見せた驍宗は、起きている李斎に少し目を見開く。
李斎は上着を引き寄せて苦笑した。ちらと部下の方を見やる。
「やかましく言われておりますが、寝込むなど子供の時に怪我して以来のこと。さして
痛まなくなると、じっとしている方が苦痛です」
「師帥殿が正しいな。私に気遣いは無用。辛抱して横になられよ」
 師帥はちょっと肩をすくめて笑い、表に出て行った。李斎は不承不承上着をとると、
枕に頭を落した。
 それを見て驍宗は頷く。かけようとして、懐に手をやった。
「見舞いの品、というほどではないが、召し上がるか」
 小さな袋を出し、口を解いてみせた。李斎がのぞくと、干し杏(あんず)が二十粒ほ
ども入っている。
「これは…」
「欲しいと言っておられた」
「ひょっとして、お気を遣わせたでしょうか」
「なに、大したものではなし。なにしろ何もないところゆえ」
 李斎は笑った。
「何よりのものです。実を申せば、剛氏の作ってくれた荷で一番好きなのですが、自分
の分はとうになくなりました」
「私も黄海に持参する食べ物ではこれが好物だな」
「驍宗殿が、ですか?」
 李斎は瞬いた。たっぷりの砂糖で煮含めて干したものである。激しく疲労したときに
は役立つので軍でも使うが、とにかく甘い。李斎の父も大抵は娘らへの土産にしていた
し、成長につれて、姉たちは自分の分まで彼女に寄越すようになった。こうした加工品
は始終口に出来るものではないので、子供なら無条件に喜ぶが、大人が好物というのは
余り聞かない。ましてや禁軍きっての驍将が。
「ええ、好きです。おかしいか」
 李斎は驚きを隠さず、快活に頷く。驍宗は笑む、
「私もひとつもらおう」
 驍宗はひと粒とると袋ごと寄越し、すすめられた椅子の背をつかんで、向きを臥台の
足元の方へと変える。折り畳みのその肘掛椅子は陣の将のためのものだ。それに深くか
けると身をもたせた。
 ああ、と驍宗は思い出した様に軽く言った。
「明日下山します」
 明日、と李斎は目を見開き、繰り返した。
「出発の前にはご挨拶に寄らせて頂く。…思いのほか、長く蓬山に滞在してしまった」
 苦笑まじりに驍宗が言う。李斎は微笑んだ。
「残念です」
 天幕を見上げてそう言った李斎を、驍宗が見る。李斎は続けた、
「国へ戻ったら、もうお会いする機会はないと存じます」
 承州と鴻基、それは近いようで遠い。
「いかにも」
 驍宗はそれ以上言わなかった。
 話は途切れた。陣の奥まった一画に設けられたこの天幕には、広場の喧騒よりも、背
後の奇岩を渡る鳥の声の方が、よく響く。
 驍宗はその椅子にもたれた姿勢のまま、肘を預けた手を静かに組むと、自分の膝の先
を見るともなく見た。
「しばらく…、ここにいてもよろしいか?」
 視線をこちらまで向けず、わずか左へ投げて問うた男を、李斎は臥床の中から見やっ
た。ちょっと首を傾け、そして笑む。
「どうぞ」
 驍宗は少し笑ったようだった。小さく頷き、それから深く呼吸すると再び椅子に深深
ともたれた。それきり何も言わない。
 李斎も床の中で深呼吸した。それがとても安らいだ息であったことに、自分ながら少
し驚いていた。
「眠ってしまうかもしれません」
「かまわぬ。お休みになられよ。…そのときは黙って失礼する」
 驍宗はふと笑った。
「私がいて、お眠りになれそうか?」
「ええ。なぜです」
 驍宗はいや、と首を傾けた。
 鳥が鳴く。
 蓬山の夏は終ろうとしていた。



 この日、瑞州師から官邸に寄越された軍吏は、手渡された数通の書類の署名と印章を
その場で手際良くあらためると、再び重ねて揃え、一礼した。
「結構です。以上で全部でございます」
「ご苦労だった」
 答えた相手は、すでになにもない書斎の机に、片手をかけて立ち上がる。
 軍吏は、あまり感情を表に出さぬそつのない男だったが、それでもその姿をある種感
慨をもって見た。
 女性にしては長身でしっかりとした体つきの彼女が、皮甲をつけて屈強の兵士たちの
中を、きびきびと動き回っていた様を、彼はいまでも思い出せる。
 思えば、それはもうかなり長くなった彼の官吏人生の中で、ほんの数月でしかなかっ
たが、十年の空位の後に訪れたそのひとときは、新王と王の選りすぐった重臣たちとの
眩しいほどの笑顔に彩られ、燦と輝いた一時代だった。
 その後の、明日の知れない闇に閉ざされた七年が、あまりに過酷で凄惨であった分、
切ないほどの懐かしさがある。
 王は再び玉座に戻り、台輔は回復し、朝は再編の端緒についた。
 だが、国土は荒れてやせ細り、生き残った民は疲弊しきっている。王師にしても現在、
合わせて黄備三軍に満たないありさまだ。王宮も随所でいまだ荒れたままで、白圭宮が
その名にふさわしい玉のような姿に戻る目処は、全くつかないと聞いている。
 王と国政を預かる官たちのこれからの苦難は、かつての当極当時の比ではない。誰も
が、それを重く受けとめ、それでも確かな前途を見据えて、日々の務めをこなしていた。
 
 いま、目の前の彼女は、もう皮甲をつけていない。今日もあの頃と同じように、これ
から王宮へ参内するのだが、官服ですらない。平服だ。
 そして、彼女は今日伺候すれば、二度とこの官邸には戻ってこない。
 将軍官邸はこの午後に、瑞州師から一旦、大司馬府に返還され、彼はそれに立ち会う
ことになるだろう。
「将軍、…いえ」
 彼は言いよどんだ。既に彼女は将軍ではなかった。
「…后妃、」
 相手は目を丸くし、それから苦笑した、
「ちょっと早いな」
 軍吏もわずか笑い、首を振った。帳が除かれて剥き出しの玻璃窓からは、晩秋の陽光
が降り注ぐ。
「――はじめて拝見しましたが、よく、お似合いです」
 元将軍は昔の様に、軽く肩を竦めて、快活な目を巡らせた。臙脂(えんじ)と白の襦
裙を自分で見やる。
「昨日届いた。…参内するまでは無官の臣だし、官服でいいと思っていたのだが、そう
言ったら内宰に叱られてしまった」
 困った様に笑うのがこのひとらしい。きっと、と彼は思う。よい后妃におなりだろう。
「輿がこちらまで来られるのですか」
 溜息が答えて頷く。
「歩いていくと断ったが、どうでも格式ばらないといけないらしい。なんでも天官の立
場がないのだそうだ」
「お国の威儀は大事です」
「その通りだ」
 将軍ではなくなった、そしてまだ后妃ではない女性は微笑む。晴れやかな微笑であっ
た。
「僭越ながら、瑞州州侯師中軍の全兵士になりかわり、ご多幸をお祈り申し上げます、
――李斎様」
「ありがとう」
 李斎は姿勢を正し、将軍印章を入れた螺鈿の箱を、一度拝して、彼に渡した。
「確かに引き継いでくれ。…新しい中将軍に、よしなに」
「かしこまりまして」
 軍吏は恭しく受け取ると、捧げ持ったままその場に伏礼した。
 彼が立ち上がったとき、書斎の入り口から、使いの天官の到着が告げられた。



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