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「聞きましたかな、将軍」
 巨躯の師帥の太い声に、焚き火の前の男が顔を上げた。慣れないものなら、その目を
向けられただけでも萎縮するのだが、なにしろ師帥はもと同僚、長い付き合いなので、
この程度では気にもとめない。
 なにを、と紅い目が問い返し、隣を示す。
 眼光は鋭いがこれはいわば地で、仲間うちで狩りをしながらの旅の楽しさゆえか、む
しろ柔らいだ気配だった。師帥は笑顔のまま腰を下ろした。
「さっき、剛氏のところに行ったものが帰ってきましてね。やはりいらっしゃるそうで
すよ」
 意味含みの部下の言に、将軍は首を傾ける。
「…誰がだ」
 得たり、と師帥が乗り出した、
「承州師のお方で」
 ふぅん、と将軍が頷いた。師帥は太い眉を上げ、将軍を見やる。
「気になりませんか」
「なんだ、心外そうに。巌趙は気になるのか」
 字を呼ばれて、師帥はその巨躯をゆすって笑った。
「そりゃあ、こんな色気のない旅ですからな。皆まだ、戻ってきた臥信のやつをとっつ
かまえて根ほり葉ほり聞き出してますよ」
 言いながら後ろを示す。自分もそちらを振り返って後、将軍は師帥に目を戻す。
「実を言うと、私は大して信じてなかったんですがね。せいぜい話半分くらいにしか。
ところが聞いたところでは、どうも噂どおりの方らしいですな」
「李斎殿は優れた将軍だろう。私もそう思っている」
 巌趙は手を振った。
「違う、違う。いや、優れているってのは違わないようですが。なにしろ全面的に剛氏
に協力して旅をすすめていて、第一、黄海に入る前に荷を作りなおさせて、それ、私ら
と同じような荷を全員に持たせたとか」
「ほぉう?」
 初めて将軍は、興味深げに身を乗り出した。
「まるきり、統率のとれた剛氏――なんてもんはいないらしいが――そういう一団が混
ざっているような按配だそうですよ。その上、煮炊きも小人数に分けて、寝るときも…」
 ここで真剣に聞き入っている主と、話のそれた自身に、禁軍師帥は苦笑した。
「まったく。そうじゃあないんだ。私の言いたかったのは」
 師帥は親しいこの将軍の顔をのぞきこんだ、
「承州師の李斎殿、と言えば?」
「…知略勇猛の将、だろう。知っているとも」
「その続きは」
 将軍は黙る。
「こうです。流れる髪は腰につき、肌膚(きふ)は白璧、しん首蛾眉、と」
 は、と黙って聞いていた将軍は笑った。
「さらに小さく続きましてな。身の丈は並の女に勝れ、そして胸と腰はさらに」
 みなまで言わず、したり顔で結んだこの年長の部下に、将軍は笑いながら言った。
「巌趙。臥信はともかく、お前までがのるか」
「はい。なにしろ殺伐としたところですからな、ここは」
 辺りを見まわし師帥はとぼける。将軍は無邪気な顔で笑った。それを見て師帥も笑う。
「巌趙」
「はい」
「私が王に選ばれなかったら、お前どうする」
 師帥は笑みを引き、将軍をひたと見た。
「王はあなただ」
 それを聞き、将軍は笑む。自信に満ちたその笑みを見つめ、師帥は突如、大笑した。
「まぁ、万が一のときはどこへなりとお供しますがね」
「それは、有り難い」
 珍しく将軍は頭を下げた。よしてください、と師帥は手を上げた。
 万が一にも、と彼は思う。万に一つもそれはない。だが、あっても苦にはならない。
この方のない戴国や禁軍に、なにほどの未練が残ろうか。どこまででも供をするのだ。
国を出るとき、その腹は括っていた。
「――ああ、臥信がやっと戻った」
 将軍も見やる。使いに出したもうひとりの師帥が歩んできた。
「驍宗さま」
 明るい声が近付く、
「聞きましたか」
「聞いたぞ」
 将軍の即答に、戻ってきた若い師帥は目をまるくした。
「悪いな、臥信」
 と、大きな手が乱暴に背を叩く。
 焚き火の側にひとしきり笑いが起こった。


「話がはずんでおられましたな」
 声をかけるや、巌趙はどかりと脇に座った。驍宗はそちらに目をやり、それからまた
騎獣の首を撫でる。日暮れである。
 蓬山は甫渡宮前の広場に設けられた禁軍の陣にも、紫の夕闇が迫っていた。
 今しがた、蓬山公が帰って行かれたその方角を、字のとおり巌(いわお)のような師
帥は見やった。
「毎日のようにいらっしゃってるのに、どうにもならんのですか」
「蓬山公か。未練を言うな」
 彼は軽く返した。
 ――中日までご無事で。
その一言で、彼の大望は潰えたのだ。巌趙は太い眉根を寄せ、主と恃(たの)むこの
男の、決して見せない落胆を痛ましく思ったが、すぐにつとめて明るい声を出した。
「いやぁ、劉将軍ですよ。お好きでしょう」
 驍宗はまた巌趙を見、そして憮然と乗騎に目を戻した。
「なぜだ」
 巌趙は当然だとばかり、大きく笑った。
「もっとも、あの人柄に惚れん武人はおらんでしょうな。我ら一同、すでに完全に落と
されました。臥信なぞ当初は美人だ美人だと騒いでいたのが、近頃はなんとか剣の相手
をしてもらおうと躍起になっとる。ま、我らも似たようなものですが」
「そうか」
 答える声はやはり静かだ。昔なじみのこの師帥は、弟に向けるような慈愛のこもった
目になった。ことさらに明るく続ける。
「それで?もう口説かれたか」
 口説くもなにも、と彼は騎獣を撫でながら、つい笑む。
「あれがそう簡単に口説かれてくれる女か」
 巌趙はその笑顔に眉を上げ、そして鼻を掻いた。確かに件の女将軍は、武人としては
実にさっぱりと誰にも気安いが、女性として口説くには、余りに疎すぎて難しいようだ。
決して女らしくないわけではないのだが。
 だがまぁ、と言いつのる。
 女から追われはしても追うことはまずない主が、珍しくも関心を示している相手であ
った。この際、主の元気が少しでも出るならば、世話焼きな口をきくことくらい何でも
ない。
「あちらもどこかまんざらでもないから、毎日ああして蓬山公連れて会いにおいでなん
じゃ」
「それは違う」
「えっ?」
「蓬山公の方が、李斎殿を連れていらしてるのだ。計都をエサに」
 言って将軍は乗騎、計都の首を叩いた。巌趙はきょとんとした。
「私はまたてっきり、李斎殿が計都エサに公をお連れになってるものと」
 驍宗は軽く笑って立ち上がった、
「それは将軍に失礼だぞ」
 ああそうだ、と彼は巌趙を振り返る。
「明日、留守にする。陣を頼む」
「結構ですが。…狩りですか」
「すう虞の狩り場に、李斎殿を案内する約束だ。蓬山公も将軍がお誘い申し上げたが、
さて女仙方の許しが出るかな。まぁ無理だろう」
「お二人だけで、一晩」
「そうだ。騎獣の足でなくてはそう短時間では行って来られない。もっとも公が一緒な
ら夜中とはいかぬ、未明から昼にかけてになるがな…どうした?」
 巌趙は歯を剥いて、己の太い首を叩いた。
「なあんだ。しっかり口説かれているんじゃないか。それにしても黄海で逢引とは、な
んともお二人らしい!」
 声を上げて笑い出した部下に、驍宗は呆れ顔をした。
「計都をお見せしたらすう虞を捕らえたいと言われた。だから、お連れしようと言った。
それだけのことだ」
「充分じゃあないですか」
 巌趙はなおも笑っている。驍宗は眉をひそめた。その苦い顔に、いよいよ楽しく笑い
かける。
「気づいておられぬようだから言っときますが驍宗さま。もしか相手が男の将軍でも、
狩り場まで案内なさるか!」
 はっはと身体を大きく揺らし、驍宗の肩を二三度嬉しげに叩くと、首を振りながら巌
趙はそこを去った。
 残されて、驍宗はふと舌打ちすると、まいったな、と口の中で呟いた。


 天幕の前の声は先ほどから繰り返している。
「お通しはできかねます」
「…頼み申す」
「ですからできないと申し上げている」
 長すぎた一日は終り、日はようやく落ちたところだ。
 李斎の師帥は、疲れた顔を声のしている表の方へと物憂く向けた。警衛に立つ兵卒が
まだ誰かと話している。立ち上がり、薄い戸を開けて、すぐそれを後ろ手に閉める。
「なにごとだ」
 助かったという様に、兵卒が振り返った、
「ああ師帥」
「師帥どのか。劉将軍に会わせて頂きたい」
 そう言った押し問答の相手を、宵闇の中、かがり火の光に見やった師帥は、細めた目
を大きく見開いた。
 ついで自分の顔に険しさが浮かぶのを自覚した。が、この男を責めるべきでないとは
承知している。一呼吸置いて、静かに告げる。
「驍宗どの。せっかくだが、劉将軍は意識がおありにならないのです」
「伺った」
「ではお引き取り下さい」
「それでもお見舞い申したい」
 師帥は収めかけた怒りが立ち昇るのを感じた。さらに冷静に告げる。
「今日は無理です。また日を改めてお越し下さい」
「お顔を拝見するだけでよい」
 彼は息を吐いた。はっきり言わねば分からぬか。
「主は重態です。このような場所で、しかも女仙方の恨みをかったため、間に合わせの
手当てしか施されず、まだ一度も意識が戻らず臥しています。かようなところに、他軍
の将をお通しできると思うか。まして主は、…お忘れのようだが女性です」
 相手は黙った。視線を足元へと落す。師帥は憤然と踵を返しかけ、ふと立ち止まった。
「飛燕を連れ帰って頂き、ありがとう存じます」
 相手が誰であれ礼を失しては、仕える将の名折れとなる。そう思って謝辞だけは述べ
た。そのとき相手の鎧に目が行った。
 胸にななめの痕跡がある。少し歪んでさえいた。
 …打たれたのか。
 饕餮だったと聞いた。最大最強、伝説の妖魔。すう虞狩りに蓬山公を誘って出かけた
二人の将軍は、公が饕餮を使令に下したことで救われた。主の命もよくもあったものだ
が、それは目の前の男とて同じなのだ。…無傷で戻ったことを恨んでは酷だ。
 李斎の師帥は初めて表情を少し緩めた。
「将軍。お戻りになって休まれたがよろしいでしょう。気がつかれたら、お見えになら
れたことは、お伝え申します」
 瞬間、男が顔を上げた。師帥はたじろぎ、あやうく後退(じさ)るところであったの
を、かろうじて踏みとどまったが、全身に震えが走った。
 低い声が静かに漏れ出る。
「お会いせぬうちは、休めぬ」
 その眼光に射すくめられ、師帥はわれ知らず唾を呑みこんだ。冷や汗が、背を流れた。
「すぐ、お暇(いとま)致す。何卒」
 なぜ頷いたのか、自分でも分らない。

 狭い天幕の中は簡素な臥台でほぼ一杯だった。
 師帥は将軍の後ろから入っていき、戸を閉めた。
 振り返ると、大きな背中が黒々と突っ立っている。その背から、息を呑む音が微かに
聞こえた。
 それからおもむろに影は、床の敷物に跪き、意識のない相手に丁寧に拱手した。
 腕を下ろした後も、ただ黙って臥台を見やっている。微かに震えているのが、足のせ
いなのだと師帥は気が付いた。
 跪いている両脚が、疲労に耐えかねて痙攣しているのだ。どれほど消耗しているのか
知れない体を引きずって、この男は蓬山まで戻ってきたのだ、と思った。
 師帥は自分もその隣に立った。主の様子を見、将軍の横顔を見る。予想したようない
かなる表情も、そこにはなかった。ゆるぎない目がひたと見据える先に、主の白い顔が
ある。
 彼はなおも動かない。
「あなたの責ではない。それはよくご承知のはず。先ほど女性だと申し上げたのは、あ
くまで許可なくお通しすることについてで、お怪我についてではありません」
「そんなことは思っておらぬ」
 言葉に、師帥が振り向くと、将軍は仄かに微笑した。
「噂にたがわぬ、立派な将であられる。…お怪我させ申したなどと、そのようなこと思
っては非礼に過ぎよう」
 師帥はその顔を見、ええ、と小さく頷いた。
 そのとき、失礼します、と声がかかった。
 振り返ると随従のひとりだった。手にしたものを師帥に見せる。
「蓬山の女仙が見えられ、劉将軍にこれを、と」
「なんだ」
 気をつけて下さいよ、と渡されたのは銀の盆、片手にすっぽり納まるほどの小さな蓋
つきの容器が載っていた。
「お傷と痛みに効くそうです。一刻も早く差し上げてくれ、との口上でした」
 それを聞くと師帥は複雑な笑みを浮かべた。
「なるほど。蓬山公がご無事に戻ったので、ようやく手当てする気になられたか」
 実際、酷い一日だった。
 彼はじれて殺気立った女仙から、公に変事あれば主も彼らも生かしておかぬ、とまで
言われたのだ。
 蓬山公の女怪とかいうあの人妖が、血まみれの主を抱えて夜明けの黄海から駆け戻っ
てきて、そして何も言わぬまま、再びどこかへと消えた。
 駆け付けたとき横たわる主のまわりでは、すでに土が赤黒くなっていた。天幕に運び、
手当てをしようと皮甲をとれば、無数の深手に目を覆いたくなるありさま、傷を拭って
止血はしたものの、手持ちの薬は、妖魔の毒には効かなかった。
 蓬山公を抱えた驍宗が、乗騎の背後に飛燕を曳いて戻って来たのは、夕暮れ近く。
 今の今まで、主は意識のないまま放置され、苦しみ通した。
「ともかく、すぐにお飲ませしよう」
「でも…先ほども」
「そうか」
 師帥は眉を寄せた。先刻、何とか水を飲ませようと試みたのだが、飲んでもらえなか
った。結局、水に浸した布で、かろうじて水分を摂らせた。同じ方法をとるしかあるま
い。
 ですが、とその随従は水差しを見やる。
「こんなちょっぴりですよ。布になぞ沁ませてたら、ほとんど無駄になりませんか」
 もっともな言に、師帥は嘆息した。
「致し方ないだろう。なにか清潔な小布を探してきてくれ。急げよ」
 師帥は枕上の台に、その盆を一度置く。そして、彼らの遣り取りを黙って聞いていた
見舞い客に声をかけた。
「失礼致しました。取り込んでおりますので、そろそろお引き取りを…」
 師帥は自分の言葉を最後まで言えなかった。
 立ち上がった男は、盆の上と、師帥の顔を瞬時に見やり、そして盆に目を戻した。
 師帥は驚愕の目を開いた。止める暇がなかった。
 目の前を、長い腕が伸び、水差しを掴むや、中身を一息にあおったのだ。
 なにをなさるか、と気色ばんだ彼を、大きな手が無言で止めた。その苛烈な眼差しに
気圧されて師帥が黙ると、男は臥台に向き直った。そして、熱に浮かされ浅い呼吸を繰
り返す主の首を、下から支えたようだった。黒い鎧の大きな背中が臥床に面伏せて、し
ばらくののち、背は再び起きると、深い息をついた。
 呆然と立つ師帥を男は振り返り、安堵したように微笑んだ。
「全部、お飲みになられた」
 なおも呆然としている師帥に丁寧に頭を下げ、客は出て行く。
「あの」
 言いかけて、師帥は瞬いた。言葉が見つからない。礼を言うべきなのか、それすら分
からなかった。
 呼びとめられた男の方が静かに言った。
「今日私がお訪ねしたことは、申し上げないで頂けるか」
 言った将軍の顔を見つめた。噂にたがわぬ将、それは目の前のこの男もそうである。
やはり立派な男なのだ、と思っていた。師帥は頷き、主を見た。
 土気色だった顔に微かに生気が戻り、呼吸がずっと楽になっている。
「他言致しません」
「かたじけない」
 さらりと言い置いて、禁軍の将は幕屋を出て行った。


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「李斎」
「存知ません!」
 今日の李斎は、ちょっと趣きが違っていた。
 居宮の李斎の客庁で、先程から王にくってかかっている。
 それを驍宗はむしろ楽しんでいる様子であった。李斎にしてみれば、ますます腹が立
つ。
「李斎のふくれ面は珍しいな。ふくれても可愛いぞ、まぁ、そううろつかず、酒を注げ」
 李斎はそれでも卓子に近付き、差出された酒盃に丁寧に酒を注いだ。しかるのち隣の
椅子にかけた。
「いったい、ご存知でしたら、なぜ早くお教え下さらなかったのですか!わたくし以外
の者は皆知っているだなんて、…あんまりです!」
「別にわざわざ耳に入れることでもなかろう」
「主上はなんともないのですか」
「大した事ではあるまい」
「大した事ではない。確かにさようでございますか?主上はわたくしのお尻に敷かれて
いると噂されているのですよ。事実無根とは、このことでございます。一体いつ、この
李斎があなた様をお尻に敷くような真似をいたしました」
「ひざに抱いたことは幾度かあるな」
 王は李斎を見、笑んでみせた。李斎は剣呑に目を逸らした。誰が返事をしてやるもの
か。
「わたくしがこれまでに、あなた様の命に従わなかったり、逆らったりしたことが一度
でもございますか?勝手に何かを許可もなく取り仕切ったことがございましたとでも
…?」
「いいや。そなたは実に従順で賢い、自慢の妻だ」
「そして下世話な言い様をお許し願えれば、主上は亭主関白の範でいらせられる」
「そうか?わたしは愛妻家を自負しているのだがな」
 李斎は、すっとぼける夫君をねめつけた。
「恐妻家だと言われておいでなのです。一体どこをどう見たら、主上が恐妻家でいらっ
しゃいますか、お心あたりがございますかっ?」
「ある」
「何とおっしゃられた」
「ある、と言った。あの噂の出元は、わたしだからな」
「主上…」
 李斎は口を開けた。驍宗は平然と杯を上げた。
「視察に出ると州城を訪ねる」
「それがなにか?」
「まぁ、聞け。すると必ず、随従とわたしには接待役があてがわれる」
 李斎は黙った。いくら自分のことには疎い李斎でも、世間の常識は良く分かっている。
「随従にはうるさいことは言わぬ。だが、わたしはそなた以外と閨を共にする気はない。
歌と踊りと酌だけで、引取ってもらうには、嘘も方便だ。向うも州侯に命じられた一番
の美姫だ、そう簡単に引き下がってはくれぬからな。愛妻家だなどと知れたら、一層、
むきにさせるだけのことだ。恐妻家の腑抜けで、魅力のない男だと思わせるのが一番だ、
違うか」
「…違うか、と…申されましても」
 李斎は完全に毒気を抜かれてしまった。浮気をせぬために、嘘をついたと言われては、
責め様がない。
「主上は、おずるいです」
「ずるいか?」
「はい。それではわたくしは恐妻の汚名を雪ぐことができません」
 驍宗は高く笑った。
「許せ。ささやかな嘘だ。ひとが何と噂しようと、李斎は見事な妻で、わたしの自慢だ」
 李斎は例によって小さな溜息をひとつついた。夫が噂の出元で、こうまで言われては、
尻に敷いていると言われようが、恐妻と言われようが、耐えねばならない。
「主上は本当におずるいです」
 そう言って、むくれ顔のまま、酒を注ぎ足した李斎の左頬を、驍宗はつまんだ。
「うむ。そして李斎はふくれ面でも可愛い」 
 驍宗は手を離すと破顔し、杯を上げた。


「暑いですねぇ、将軍」
 師帥は、彼の上司に声をかける。天馬を歩ませる上司は、そうだなと頷いた。
 同じく皮甲をつけていても、風に長い髪をそよがせたその顔を見ると、一瞬暑さを忘
れられる。それでつい声をかけるのだが、やはり一瞬である。
 暑い。砂漠と樹影のその海は、果てしもないように思われ、日の暮れが近いというの
に、空はまだきっぱりと青かった。とにかく北国育ちにはこの暑さがこたえる。彼は溜
息をついた。故郷承州は、北の極国、戴のなかでも北だ。
「剛氏は何と言っていた」
「ああ、ええっと…」
 促され、師帥はこの先の状況とその対策について、聞いてきたところを語る。しばし
熱心に耳を傾けて、将軍は目を見開く。
「そんなことまで教えてくれたのか」
 黄朱の民は余人を受け入れない。それが常識だった。まして、彼らは州師の一行、剛
氏を雇っての黄海路ではない。だから、一応教えは請いに行かせるものの、必要最小限、
剛氏の雇い主たちの甚だしい妨げにならぬだけの情報しか、期待すべきではない。
 ところが、黄海に入って旅程も半ばにさしかかったころから、剛氏たちは一様にこの
一団に対し、格別、としか考えられない配慮を示すようになっていた。
「礼を言ってこよう。後を頼む」
 あっさり言うと天馬の首を巡らせる。
 師帥は、見なれた赤茶の髪が、後ろの集団を目指して戻っていくのをしばし目で追っ
た。
「まったく、うちの将軍は腰が低いですよねぇ」
 卒長が笑う。師帥もちょっと振り返って一緒に笑った。
「確かに」
 黄朱に対して礼節をつくす将軍なぞ、ちょっといないだろう。師帥自身、最初は抵抗
があったものが、あまりに自然に接する上司の隣で、いつまでも自分ひとり肩をいから
せてもおれず、気付いたら、それなりに敬意さえ払っている。兵も同じだ。
「剛氏たちが言ってましたよ。軍人の昇山者は多いが、門前で持参した糧食を売っ払い、
剛氏に荷をつくらせたなんぞ、前代未聞だと」
「だろうなぁ」
 師帥は鞍につけた自分の荷物を見やった。声をかけた卒長の馬にも、歩きの兵卒たち
の背にも、各々ひとり分の荷と水とがくくり付けられている。
 戴とは正反対にある令坤門に、夏至直前ようやく辿りつき、情報を集めた。それまで
は一行のなかに、「剛氏」の存在を知っているものさえいなかった。
 彼らの主の決断は鮮やかだった。
 承州師として蓬山で、最低限の威儀と体面を整えるための機材を残し、速やかに全て
の物品が換金された。糧食で一杯だった荷車が、あっさり人数分の背負える小さな荷に
化け、残りの金は、驚くべき短時間でそれらを手配した剛氏あがりの商人への謝礼と、
彼の知り合いの現役剛氏からの情報代に消えた。
 兵卒たちは荷車を押すかわりに、教えられたとおり、焚き木にする落ち枝を拾いなが
ら歩き、水場を見つけては師帥までが馬を下り、こまめに自分の皮袋に補給した。
 障害物が道を塞ぐと、剛氏が集る。そこへほぼ同時に駆け付け、枝を打ち、岩を除く
のも、常に彼らだった。
 州師からの昇山者は、なにも彼らだけではない。他州師からも皮甲をつけた一団は来
ていた。通常の行軍のように、水と糧食で一杯の荷車を従え、営地では大人数分の食事
を煮炊きしている。
 当初はその小麦や米の匂いを嗅ぐと、百稼、とかいう雑穀を挽いたものばかり連日食
わされる彼らは、羨ましげにその大鍋を見やり、ついで恨めしそうに、班編成にされた
自分たちの小さな焚き火にかかる小鍋の粥を見つめたものだ。
 しかし、やがて黄海をとりまく金剛山がはるか遠くにその威容を没し、妖魔の襲撃が
頻発しだすと、この不満はあとかたもなく消え去った。
 彼らは他州師に比べて、もともと数が少なかった。にもかかわらず、生存率がずば抜
けて高かったのだ。
 一瞬で荷を負い、野営地から遁走する。妖魔の夜襲を逃れるにはこれしかない。軽い
荷、充分な栄養、そして簡素な調理は短時間ですみ、早々に火の始末をつけ余分に寝る。
黄朱の智恵を侮らず、彼らのやり方を限度一杯に取り入れたことが、どれほど黄海で確
実に彼らの安全を確保するか。
 自分たちの生命をなにより重んじてくれた将軍の温情を、全員が理解した。

「どうした」
 声に焚き火から顔を上げると、将軍が髪をかいやり、にこりと笑んだ。暗青色の目が
涼しい笑みをたたえている。
「いえね、剛氏の噂話です。我らは鵬翼に乗っているんだそうです」
「鵬翼?」
「鵬雛…、昇山者の中で王に立つ者のことを彼ら、そう言うんですけれどね。その鵬雛
がいると。王のいる昇山の旅は格段に楽なのだそうですよ」
「そうか」
 ため息まじりの声に、笑顔で話していた師帥はちょっと首を傾けた。
「どうしました」
「なるほどと思っただけだ…。少し離れて進んではいても、紛れもなく、今回の昇山の
一行には違いない」
 師帥は瞬いた。その様子に、茶目っ気のある眼差しを上げ将軍は淡々と言う。
「乍将軍だろう、鵬雛は」
 師帥は大仰に顔をしかめた。
「何を言っておられるんですか。あなたに決まっているでしょう」
 これを聞くと将軍は、女にしてはしっかりとした肩をすくめた。
「あちらがどのような御方か、知らないお前ではないだろうに」
 令坤門で聞いたその禁軍将軍の名は、戴国のみならず、他国にも通っていた。
 それは、と師帥は息を吐く。
「立派な方だと思いますよ。噂どおりならば、ですが。でも噂です。そりゃあ将軍とし
ては名の通ったお方だし、狩りをしながら小人数で黄海に入るなんて、只者じゃないと
は思います。でも王であるかどうかは別の話です。それに、あなただって余州に名高い
将軍でいらっしゃる。承州師の李斎殿といえば、戴国の夏官で知らないものはいません
よ。為人ときてはまず、どこかの禁軍の将に勝りこそすれ、劣るものではありません。
とにかく私たちはそう信じるからこそ、承州からはるばるお供仕ったんです」
 非難を浮かべた言と顔に、将軍は素直に頷いた。
「分かった。ありがとう」
「お分かり下さいましたか」
 ああ、と笑んで、それから眉を上げる。承州師の李斎、知略に優れた勇猛の将、その
噂の後に続けて、白璧(へき)の肌と柳の眉、と謳われるその眉だ。
「でも駄目だったら、帰りはこちらもすう虞狩りだな」
「将軍!」
 気持ちの良い声で高らかに笑いながら、兵の様子を見まわりに行く背中に、師帥は溜
息をついた。

 野営地には今日は月がある。葉の生い茂る名前も知れない樹木の枝ごしに、将軍李斎
は月を仰いだ。
 李斎とて己のことを、天命あれば王たらんと思えばこそ、故郷を後にした。だが、伝
え聞くかぎりにおいて、自分が彼に勝るとは到底信じかねるのも事実だった。
 彼女は息を吐いた。
 蓬山公にお会いしよう。それからのことはまた考える。とりあえず、と彼女は自分の
鞍につけた荷を思って笑む。その中の皮袋には、用意してきた瑪瑙があった。すう虞の
好物である。狩りのことを考えると、俄かに元気の出てくる自分の単純さにひとり苦笑
した。
 蓬山に着けば、彼にも会えるだろう。ふと笑みが引いた。その軍才と人望、剣客で聞
こえた戴国禁軍左将軍の氏字を、乍驍宗という。どんな男であろうか。これは考えても
無駄だった。禁軍の将としては異例の若さで拝命したという以外、外見に関しては、お
よそ聞くことがない。大柄か小柄かさえ伝わらぬところを見ると、そう極端な体格では
ないらしいと想像するばかりだ。
 狩りは夜する。とすればこの月影の下、かの将軍は騎獣を駆っているのだろうか。た
った数名の手勢を連れて。
 ご無事で参られよ。李斎は、ふたたび月に視線を投げ上げると、小さく心に呟いた。


w5
「くちづけてよいか」
 王は静かな声で耳元に問うた。
 正寝の一室、王にかき抱かれたまま、李斎はただ呆然としていた。たった今、王后を
受けた後、辞去しようとした李斎は、左手をとられると、そのまま皮甲(よろい)の上
から広い胸に抱かれたのだった。
 王に抱かれるのは初めてではなかった。垂州で、泰麒とともに、肩を抱きしめられた。
あのときは、ただ将として、王への崇敬と思慕の念で一杯であった。
 今は違う。はじめて男である王を意識した。
李斎の意志とは無関係に、皮甲を通しても感じられるほど、胸がひたすら激しく打っ
ている。耳にはどくどくと、血の音がきこえるかのようで息が苦しい。
 王が、くちづけるために腕をわずかに緩めたとき、李斎はもはや王の顔を見られずに、
目を固くつむった。すぐ間近に呼吸を感じた。それから、それがふと遠のき、それで李
斎は、目を開いた。
 少し離した目の前に、驍宗の顔があった。こころなしか苦笑している。
「やめておこう。…これ以上触れたら、今宵そなたを官邸に帰してやれなくなりそうだ」
 李斎はきょとんとした。せっかくの覚悟が行き場を失ってしまったのだ。
「ここまで辛抱したのだ。華燭の日まで、待つこととする」
 行け、と驍宗は言い、李斎はそのまま送り出されて、門殿へと続く庭院に下りた。


「まぁ…。主上もご辛抱のおよろしいこと。でもきちんと、華燭の典はあげてくださる
おつもりでいらっしゃいますのね。ああ李斎、本当に良かった事…」
 客庁(きゃくま)の大卓の上で、美しい指先で、それが癖のように酒盃のふちを撫で、
花影は友に微笑んだ。
 神籍にあるものは、もはや新たに婚姻はできない。当然里木に願っても、子は授から
ない。だがそれでも主上は、承知の上で、伴侶となる李斎のために、正式の婚儀の形を
とってくれる心づもりなのだ。
「どう良いのだ?」
 李斎は盃に口もつけず、すがるように親友の面を見た。
「どう…って。それだけ李斎を大切になさるお心がおありなのでしょう。違うの?」
 言ってから、花影はまた微笑んだ。李斎は憮然とし、それから重く口を開いた。
「そうじゃない。私を、王后にだなどと、主上はどうかしておられる。花影は、そうは
思わないのか?」
 花影は、驚いたように黙って李斎を見つめた。
「つい返事をした私も私だ。自己嫌悪でどうにかなりそうだ!」
 李斎は己の額を抱えた。
 そして最初は申し出を批難し、次に同情などいらぬといい、後宮に入れだなどと自分
を分かってないと恨み言まで言ったことを語った。侮辱という言葉も使った気がする。
「まぁ」
「そうしたら、後宮は使わぬ、部屋も正寝だと言われ…、分かるだろう?常の調子で、
激しくたたみかけられた。それで、…つい、是、…と…」
 沈黙が、贅沢ではないが品良く設(しつら)えられた、花影の客庁に降りた。
 花影はなにごとか考えるふうであったが、彼女の一番の友の、最初からのらしからぬ
この訪問に首を傾けた。
 花影の官邸に、約束も案内もなく、突然現れた隻腕の将軍は、花影が、客庁に入って
きたとき、まるでよるべない子のように小さく縮こまって、椅子の上でうなだれていた。
 理知的な明るさとそれを凌ぐ勇猛さ、女の身で、常の男の何倍もの働きをしてのける。
なにより今回の玉座奪還の立て役者となった、誇るべき親友の姿はどこにもなく、ただ、
小さな女の子が途方に暮れて座っている風情であったことを、花影は思い返した。
「あの、お怒りにならないでね、李斎」
 花影はゆっくり言葉を選んだ。
「あなたひょっとして、ご自分が主上をお好きなことも、主上が李斎をお好きなことも、
まったくご存知ではなかったの…?」
「何だって?」
 李斎は目を見開いた。それを見て、花影はもっと驚いた。
「呆れた…。あなた一体、男の方とどういう付き合いをなすっていらしたの」
「男と?幼い頃の打ち合いの相手を除けば、常に部下か上司か、同僚だ。鎬を削って得
た友人なら大勢いた。皆気持ちの良い相手だった」
「それ以外は?いえ、その方たちの中で、お付き合いしようという方はいらっしゃらな
かったの?あなたのご友人ならお言葉通りに、さぞかし、心栄えのよい方ばかりでした
でしょうに」
「付き合いって…そういう意味のか。いなかった。師帥までは夢中だった。なにしろ早
く師帥になりたくて、あの当時、それは私の願いの全てだったから。そのあと将軍職を
賜った。一軍の兵は七千五百。彼らの命をわたしが握っている。相手だの、結婚だのと、
考えている暇(いとま)など、なかった」
「信じられないわ…よく周囲が放っておいたこと。あなたはお綺麗だし、お若いし、有
能でいらっしゃる…ああ、だから、主上くらいの格でないと釣り合わなかったというこ
となのかしら…」
 李斎は花影の言葉を強くさえぎった。
「釣り合ってなどいない!あの方は、名君であらせられる。わたしなどとは器が違う。
花影もよく分かっているはずだ」
「それでもそのお方が、唯一の妻にと、おのぞみになったのは、あなただったのだわ」
「ばかな」
「あのね、李斎」
 花影は子供を諭すように、居住まいを正すと、李斎の目を見て言った。
「いくら崇敬申し上げている国王といえど、女が髪ふりみだして、行方を探すというの
は、その男の人を心から愛しているということなの。それに、将軍だからこそ手が出な
いでおいでなのだろう、というのは、私たちの間では有名な話よ。なにしろ、あなたと
主上が並んでらして、そこに台輔のお姿があれば、いつも立派に家族だったわ」
「……考えもしなかった」
 花影はため息をついた。
「台輔は大きくなってしまわれた。主上はね、お隣の延王のようには生きられない方よ。
必ず伴侶を、ご家族を必要となさるだろうと、ずっと思っていたわ。ご自身はきっと、
もっとお思いだったでしょうよ。李斎が右腕を失ったのは辛いけれど、結局そのことが、
主上のご決意に結びついたのね。確約してもよろしいわ。誰も、否やは言わないことよ」
 花影は官邸付きの胥(げかん)に、酒肴の膳を下げさせると、立ち上がった。もう夜
更けである。
 さ、と花影は李斎を促した。
「今日はきっと戻っても眠れないでしょう。せめてうちに、お泊りなさいな。あなたの
お部屋を用意させるわね。…いつものように、わたくしの部屋にご一緒、と言うのでは
余りに畏れ多いことだから」
「…。いつも通りがいい」
「そういうわけには…。じきに、というより、王がお申し出あそばしてあなたがお受け
になった以上は、すでに后妃でいらっしゃるも同然ですもの。分かってらっしゃるでし
ょう?」
「…。花影」
「なあに?」
「花影だけは、李斎と呼んでくれないだろうか?たとえこの先どうなったとしても」
 花影は李斎のすがるような目を見返して、しばし黙っていたが、頷いた。
「そうね、…分かったわ。武将としてお仕えするとは、全く違うお暮らしになるのです
ものね。せめて、わたくしにはこれからも甘えて頂戴。わたくしも散々あなたに甘えて
きたのですから」
「ありがとう、花影」
 ようやく李斎はほっとした顔になった。王后を受けて以来、というより、最前、驍宗
に抱きしめられてから、ずっと身体中を苛んだ感触が、花影の優しさに包まれ、わずか
ながらも落ち着いたのを感じた。
 実際、王宮から官邸への帰り道、どこでどう考えて花影のところへの道を辿ったもの
か、記憶にないほどであったのだ。
 花影は笑んで言った。
「李斎、あなたも今夜は寝つけないでしょうけれど、主上はもっとそうでいらっしゃる
わよ。きっと朝まで、乙夜之覧(いつやのらん=政務を終えてからの天子の読書)を、
なさっておいででしょうね。華燭の宴の前に、疲労困憊してしまわれないと良いけれど」
 花影は小さく笑い声を立て、李斎は再びきょとんとした。
 華燭。それは自分とあまりに遠い言葉のように聞こえ、まるで実感が湧かない。まし
て、なにゆえ王が眠れないというのか。


 だがその頃、驍宗は寝もやらず、書に読みふけっていた。夏の終りの夜半、虫の音は
庭院に満ち、星は、またたく。

「兄さん」
 突然呼ばれて、王付きの大僕は、雲海をのぞむ園林の、座っていた階段から飛びあが
った。
「夕暉!」
 弟の名を呼び、信じかねるように首を振りながら立ち上がる。
「お前、なんだってこんなところに…、少学はどうしたんだ?」
「二三日、お休みを貰ったんだ。浩瀚さまから急なお手紙を頂いて、ね」
「冢宰からぁ?」
 うん、と笑いながら弟は兄の座っていたひとつ上の段に腰掛ける。
「学校長がね、青くなって、授業中の教室にご自分で届けにいらしたよ。中を見たら、
きっともっと驚いただろうね。なにしろ、陽子からだったんだもの」
「陽子が?なんだってお前に…。でも休みだなんて、いいのか?学校はあってるんだろ
うが」
「平気。三日くらい、首位を明渡してもどうってことないよ。戻ったら、すぐまた巻き
返すさ」
「首位って、じゃあお前」
「そう、首席なんだ、僕」
 それをきくと虎嘯は、目を丸くし、それから顔をくしゃくしゃにして笑った。弟の頭
を小突くように撫でる。
「そうか、おまえ少学で一番なのか!うん、きっとやると思ってた!そうか」
「まあね。…ところで、兄さんがここのところ、元気がないんで、景王は心配なさって
おいでなんだよ」
 思い当たったのか、虎嘯は、背中を丸めた。
「元気がないほどじゃねぇんだけどな。そうか、陽子にまで心配させちまってたか…」
 夕暉は黙って、兄の言葉を待った。
「実はその…、本当に行かせちまってよかったのか、どうにもすっきりしねぇって言う
か、落ち着かなくてな…」
「戴の…将軍様?」
 ああ、と虎嘯は指を組み、大きく伸びをした。
「それと、麒麟でなくなった泰台輔だ…お前よく知ってるな」
 夕暉はにこりと笑んだ。
「陽子が手紙の中で、あらまし説明してくれたからね」
「ふうん、じゃ、利き腕がないってことも知ってるんだな」
「うん…怪我が元で、なくされたって」
「すごい胆力だった。単身禁門を突破して、乗り込んできたのもそうだが、瀕死の重傷
だったのに、陽子に会うまで頑として座ろうとしなかった。利き腕をなくしたと知った
ときさえ、びくともしちゃあ、いなかった。だいぶ良くなってから、そのことを話題に
したことがあった。そのときは、王を守れなかった将軍に利き腕などあってもなくても
同じだと思ったんだとさ」
「それは…もの凄いね」
「ああ、それほど国の…戴の国のために必死だった」
 虎嘯の眼差しが、雲海を見つめながら、眩しげに細められた。
「なんていうかな、自分のためってえもんがないんだ。あのひとを見ているとよ、あの
ひと自身が王じゃないかと思えてくる。それほど、国のため、王と台輔のためしか頭に
ない…。あれほどの女がよ、必死になって何年も国中探したというんだ。相手が尊敬し
ている王だろうとなかろうと、男としても好いているに決まってる。ところが当の本人
には、その自覚がまるでねぇときてんだよなぁ…」
「そうなんだ…」
「ああ。戴の王ってひとはすごい人物だといわれている。それが本当なら、玉座を取り
戻したときには、きっとあのひとを王后に迎えるだろうさ。そうでなくちゃあ嘘だ」
 確信に満ちた声はどこか寂しげだった。
「仮にも将軍様だ、俺なんかがついて行ってやっても、何の役に立つわけでもなかった
かもしらねぇ。妖魔相手に戦ったことはねぇからな」
 虎嘯は大きな溜息をついた。
「それに俺はもう、宮仕えってやつだしな。ここに、陽子の大僕っていう仕事がある。
それをうっちゃって行くことはできないから勘弁してくれと、そう言った。…あっさり
納得してくれたよ」
「それでもついて行きたかったんだね」
「ああ。うん…。そうだな。確かについて行きたかったな。そうだ」
 それきり虎嘯は黙った。
 虎嘯は黙って雲海を見た。北の、戴国の方角である。西日が、虎嘯と夕暉の左の横顔
に当たっていた。
『それほど、兄さんはその将軍様を好きだったんだね…』
 その言葉を夕暉は胸にしまい、並んで雲海を見ていた。

 光は一条のみだ。
 巌の狭間から漏れて来る。
 それでやっと昼夜が分かる。だが、幾日幾月幾歳過ぎたものか、もう定かではない。
 口にするのは、岩をつたう僅かな水と苔だけだ。常人ならば死んでいる。常人ならば
狂うことも出来るだろう。だが神籍にある身ではそれもかなわない。かなわないことを
口惜しいとは思わない。自分は王なのだから。
 だが自分が王である故に、こうして無為の時を過すうち、自分が統べるべきこの国が、
どうなっているのか、それを考えるとたまらない焦燥が、全身を苛む。
 彼は考える。彼のこの国、戴と、戴の民のことを。
 夢は悪夢が多い。いや悪夢ではなく現実だろう。焦土と化す国土。凍える民草の嘆き。
 たまさか優しい夢が訪れることもあった。それは必ず夜の夢だ。彼の王宮で夜、彼は
彼の麒麟と共にいる。そこは必ず正寝で、床にはいつも書面が散らばる。
 あどけない笑顔をした稚い宰輔は、信頼に満ちた瞳で彼を見つめ、彼はその瞳の中に、
民たちの希望を再確認するのが常だった。泰麒が王の側にいるのが無条件に嬉しいよう
に、自分もあの麒麟を愛しんでいた。
 夢には必ず、もうひとりの姿がある。皮甲をつけ、赤褐色の長い髪をした女だ。手も
との書類は昨年と一昨年の軍事費の決算書、その兵站の欄から、今しがた論議に出た、
数項目を一心に見比べているのだ。つややかな髪が白い顔に落ちかかり、それを無意識
に首元まで手で押さえているのが、常になく女びていて目を奪われる。
 女は六将軍のひとりだった。だから、強いて思いを通そうとは思わなかった。自分が
どんなに彼女を望んでいたか、こうなっても夢に見るほどだと知るまでは、分かってい
なかった。
 泰麒の無事は分かる。こうして彼がまだ生きていることが、麒麟が存命である証左だ。
どのような目に遭っているのかは分からない、が、とにかく生きてはいてくれている。
だが彼女は。
 無事だろうか。おそらく彼の敵は彼女を見落としはしないだろう。それでも生き延び
ていてくれようか…。


 その夢はいつも明け方に訪れた。だから、いまも、明け方に同じ夢をみる。正確には、
同じ夢を見ている、自分を夢見る。そして、牀榻に射し込む曙の薄い光のなかで、彼は
自分のすぐ傍らに赤褐色の髪を見る。
「…いかがなされました」
 うすく開かれた目が、彼に向けられる。
「大事ない…」
 不安げに夫を見る彼女に笑んで繰り返す。
「大事ない、いつもの夢だ」
 彼女は片袖で彼の背をそっと抱きしめる。彼女が夢の中で髪を押さえた右手はもはや
ない。だが、彼女は生きており、彼の腕の中にいる。
 国は安定し、民は豊かになりつつあった。




w4
「いかがなされました」
 李斎は思わず王に訊いた。
 珍しいことに、この王が掛け値なしの笑みをこぼしながら、園林(ていえん)に面し
た黒檀の卓と椅子で待っている、二人のもとへと戻ってきたところだ。
「いま宿館(やど)の者に言われたのだ、利発そうなお子ですね、だと。どうだ、蒿里、
おまえは賢くみえるらしいぞ」
「あの…僕、でも学校の成績はあまり良くはなかったんですけれど」
「関係ない。成績と頭の良さは必ずしも同じではない。私は期待していてよいのだろう
な?」
「がんばります」
 健気にも、泰麒は頭をしゃんと立てると答えた。即位式を一目見ようと集まった首都
鴻基に溢れ返っている人込みに、すっかり酔ったのだったが、この大きな宿館に昼餉を
とるために入り、園林からの涼風にあたっていると、ずっと気分が良くなっていた。
「よろしい。さて行こうか」
 驍宗は二人を促した。
「どちらへ」
 李斎が、目を見開いて聞く。飯庁(しょくどう)はすぐそこにある。驍宗が示したの
は、だが逆の方であった。
「一階の、一番良い房室が、まだひとつ空いていたゆえ、取った。飯庁で食べるよりは、
くつろげてよかろう。耳目を気にせずに済む。それに交渉はしてみたが、厩(うまや)
を使う以上は、昼餉だけといっても、一応房室をとらねばならぬそうだ。三人だから、
丸々ひと室(へや)がとれた」
 この、首都でも随一の高級宿館の厩では、堂々の体躯をした吉量と、優しげな天馬が、
すでに繋がれており、厩係から早速に与えられた飼葉で、強行軍の疲れと空腹を癒して
いるところだった。
 三人がここへ来た理由の筆頭は、予想以上に、彼らが目立ったためである。
 新王の特徴として、いまや知る人ぞ知る、珍しい銀白色の髪と紅玉の目だとしても、
それだけでは、雑踏を供もなく歩く男を、王だなどとは誰も思わない。またそれゆえ、
大僕(ごえい)を連れなかったのだ。
 だが、驍宗の思惑にひとつおおきく誤算が生じていた。
 彼の考えでは、李斎を連れることで、より目立たなくなるはずであった。新王が独身
であることは、よく知られている。子連れの家族と見えれば、と思ったのだ。
 実際里木に、夫婦の願いを込めた帯を結ぶことで、卵果として子供を授かるこの世界
では、親子の髪の色が全く違っていて、何の不思議もない。親と子は、似ていなくて当
たり前なのだ。
 だがまず、人々は高価な騎獣を二頭も連れている彼らに目をやった。すう虞ほどでは
ないにせよ、普通の人々が家族ごとに持っていることは稀だから、金持ちの夫婦ものと
してまず関心を引き、その上、李斎の美しさが目立った。
 目立ちすぎた、と言っていい。
 女たちは、必ず彼女を振り返り、値踏みする。高価な専用の乗騎を夫から与えられて
いる女。さりげなく騎乗用の絹服を身につけ、これも夫から与えられたであろう、見事
な細工の銀釵を刺している、まだ若い女…。
 男たちの方は、李斎を見たあと、羨望の眼差しで驍宗を見る。美しい妻を持ち、――
もちろん全くの誤解なのだが――その妻にまで、騎獣を買い与える財力を持ち、そして、
子を天から授かる、と言う徳も兼ね備えた男…。
 李斎の方は全く女たちの視線に気付いてはいなかった。この人込みで万が一のことが
あってはならない、女将軍の頭はそのことでいっぱいであった.。何度も泰麒の小さな手
を握り締めなおし、王に異変がないか、不審人物を常に警戒している。
 職業病だな、と思うと同時に彼女の余りの自意識のなさには少々呆れる。自分の美貌
に無自覚なのだ。
 ともかく驍宗は、大人二人の間で、空行用に着せられてそのままだった厚い綿入れの
錦のため、額に玉の汗を浮かべて、息を上げている泰麒に気付き、決心をした。
 騎獣を預けなければならない。
 それで、今の戴の民では、まず利用しそうにない、一番上等の宿館で昼餉をとること
にしたのだ。実際は、そこでさえも一杯だったが、かろうじて法外に高値の最上級房室
だけは空いていた。そこへ食事を運んでもらうことにしたのだった。        


「お客さまも即位式においでですか」
 案内の係が驍宗に問う。おいでもなにも、彼の後ろに立つのは即位する本人である。
「しかし、本当にお可愛らしいお子ですね」
 何度言われても相好を崩す驍宗に、李斎は笑いをこらえて俯いた。
 あの吉量に、最高の房室である。たとえどんな子供でも、宿の者なら必ず誉めそやす
であろうのに、驍宗はいっかな、『お世辞』という言葉には頭が行かないらしい。完全
無欠の人物と思っていただけに、李斎にとってはなおさら、こそばゆいほどの可笑し味
があった。
 つい先程も、汗をかいている泰麒に気付くと、手ずから上着を脱がせてやり、そして
恥ずかしげもなく、その子供地味た柄と色合いの服を腕にかけて、平然と歩いていた。
 …まるで、親子のようでいらっしゃる。
 李斎は、ほほえましく二人を見た。これほど結びつきの強い二人が、わが戴国の王と
麒麟であるのだ。
 戴はよくなる。李斎は希望とともに、園林を望む明るい部屋に案内されて入った。


「蒿里」
 呼ばれて、夢中で粽(ちまき)と格闘していた泰麒は、斜め向かいの椅子についた、
彼の王を振り仰ぐ。李斎も皿から目を上げた。
 注文どおりに、油の多いものと、肉料理は避けられているものの、さすがに鴻基随一
の宿館(やど)の用意した料理だけのことはあり、それは豪華な食卓であった。
「ついているぞ」 
 言いながら、泰麒のやわらかな頬についた、もち米の粒をとってやる。とって、皿に
でも置くのかと思ったら、何の躊躇もなく、それを自分の口に放り込んだ。
 李斎は目を丸くし、思わず自分の箸を止めた。
「なんだ、李斎」
 口を動かしながら、驍宗が問う。
「いえ、その…」
 李斎はくちごもった。
「主じょ…驍宗さまにおかれては、お小さい子のお世話によほど慣れておいでなのか
と…。その、すこし意外に感じましたので」
 これを聞いて、驍宗は破顔した。
「弟妹の多い家に育った。それでだろう。私の母親が再婚したとき、すでに父は三人、
子があったし、それからも増えたからな」
 この世界では、子連れの再婚はごく普通のことであった。
「李斎には、兄弟があるのか」
「はい。実の姉が二人おります」
「ほぉう?」
 驍宗は興味深く訊いた、
「皆、夏官(ぐんじん)とは言うまいな」
「とんでもございません」
 李斎は笑った。
「姉たちは普通に結婚しております。下の姉夫婦はともに、州城に勤める役人ですが、
姉も姉の夫も州師ではありません。上の姉は、裕福な商家に嫁ぎましたので、家内の事
以外には特に携わってはおりません。甥や姪たちもずいぶんと大きくなりました。じき、
私は追い越されてしまいますでしょう」
 李斎は、むしろ楽しげにそれを語った。州師で将軍職を賜ったおり、李斎は仙籍に入
った。仙人になれば、歳をとらない。それは、言うなれば、歳ごとに、知己に追い越さ
れる人生だ。親と配偶者、子までは同時に仙籍に入れるのだが、これをあえて断る例も
多い。李斎の両親も、上の娘たちやその子供たちとともに、普通に歳を重ねる方を選び、
仙にはならなかった。
「親御どのは息災か」
 李斎は幽かに笑んだ。
「父が先年亡くなりました」
「そうか」
「急なことでしたが丁度、私が家に帰っているときでしたので、死に目にあうことが、
かないました」
 それを聞くと、驍宗は意外な顔をした。
「仙になってからも、家族とは懇意だったのか」
 はい、と、李斎は笑んで答えた。
「父は軍務で片足をなくすまで、承州師の師帥でございました。本当は三人目は自分の
跡を継ぐ男子が欲しかったようでございます。男児のための吉祥紋を帯に刺して、里木
に願ったのですが、生まれたのがわたくしで…」
「それで願いは半分ながら、見事、かなったわけだな」
「さようでございます」
 と、男児以上の出世栄達を果たした末娘は笑った。
「小さな頃から、父は、私が活発なのを喜び、よく仕込んでくれました。私が将軍職を
賜ったときも誰よりも喜んでくれ、親戚にも周囲にも、特に私が昇仙したことを隠しも
せず、拘りもせず、いつ戻っても変らず迎えてくれましたので、ずっと、実家とは誼が
あるのです」
 ほう、と驍宗は感慨深げに、頷いた。
「私とは丁度逆だな。故郷牙嶺は田舎の寒村でな。都で将軍をしているというだけでも、
何やら隔てがあるようで、その上、年々小さかった弟妹に歳を越されて行く私を見るの
も、無理があったらしい。たまに戻っても違和感ばかりがつきまとい、自然、故郷とは
縁が遠くなった。もう何年帰っていないか知れぬ。…李斎は、よい家族をもったな」
「恐れ入ります」
 李斎は頭を下げた。自分のほうが特例なのだと分かっていた。家族の一人が仙となる
違和感とは、誰にでもすんなりと受け止められるものではない。これで別れる夫婦さえ
ある。一方が昇仙を拒むのだ。
 そもそも任じられた当人でさえ、本来の寿命がつきる年齢になると、一度は仙籍返上
を考えると言う。実際それで辞職する官吏もいるときく。
 自分から辞めることなど考えもしないのは、まだ若く、永久に衰えない身体が誇らし
く、ひたすら走っているときなのだ。だがそれはたかだか数十年だ。その先には、家族
の全て、幼い頃からの友人の全ての死に、若いままの姿で立ち会う日々が必ず来る。


 泰麒は、大人二人の会話を、黙って興味深く聞いていた。驍宗が、故郷で気詰まりな
思いをした、というのは、彼には何となく理解できる感覚であった。
 家庭の中、本来、もっとも安心し、落ちついていられるはずの場所で、自分の場所を
得るのに、毎日汲々として生きていた。
 祖母との軋轢、誰よりも笑っていてほしい母親の涙、二人に挟まれ、いつも不機嫌な
視線を彼にむける父、心身ともに健康で、自分の居場所をちゃんと持っている弟…。
 それもこれも、自分がいるべきところでない場所にいたせいなのだ、そう、知った時
泰麒の腑に落ちたものがあった。蓬山に連れてこられたとき、捨身木の下で、自分が木
の実から生まれた、――あの家の子ではなかった――と知った時の、涙と諦め。
 すぐ蓬山に親しんだのは、そのためではなかったか。
 そして、今、泰麒はたしかに、自分のいるべき場所にいた。自分の選んだ王の側だ。
 王は泰麒に優しい。直裁苛烈、凄まじい覇気をもつ人物だが、彼の麒麟に対しての愛
情と優しさは本物であった。
 そして李斎だ。いま彼女が大事に育った話を聞いて、泰麒は自分が、この王ではない
人物に無条件に惹かれた理由が分かった気がした。李斎は女怪でも女仙でも王でもない。
だから、直接に泰麒との利害関係はないのだ。それでも、この女将軍は、掛け値のない
愛情を、蓬山以来、ずっと降り注いでくれた。それこそいわれも報酬もない愛を、注ぐ
術(すべ)を彼女は知っているのだ。
 それはきっと李斎がそのようにして、片足のない実の父から、降り注がれたものなの
だ。だからこそ彼女の側にいるのが、こんなにも落ち着くのだ、と。
 愛情とそれに対する信頼と。泰麒は、いまはじめて「家庭」と呼ぶに最も近いものを
身体いっぱいに感じていた。
 次の粽(ちまき)に手がのびた。驍宗が笑う。
「常の倍は食欲があるな。いつもそのようであれば、さぞ早く成獣してくれようよ、な、
蒿里?」
「はいっ」
 答えた勢いでまた、もち米が飛んだ。さっさとそれを拾った驍宗は、またなんの躊躇
もなく自分の口に放り込んだ。今度は李斎は笑いながらそれを見ている。
 二人を見比べ、泰麒は再び、粽を嬉しげに頬張った。秋の陽光は目の前の園林から、
三人の食卓の上まで、斜めに射し込み、暖かく膨らんで溢れていた。
 

「眠っているのか」
 驍宗は声を低めて、天馬に跨ったままでいる李斎に言った。
「まだなんとか…お起こしすればお目覚めでしょうが、…いかがいたしましょう」
「下ろしてくれ」
 驍宗は腕を広げ、天馬の鞍から、子供を抱き取った。
 禁門の門卒は、何か一幅の絵でも見るような気持ちで、その光景を眺めた。
 ひらりと飛燕の背から、李斎が降り立つ。
「蒿里。起きるか?」
 驍宗の問いにすぐの返事はない。ややあって、眠たげな子供の声が上がった。
「もうお家に、着いたの?」
 驍宗と李斎は一瞬顔を見合わせ、それから微笑んだ。
「夢でもご覧でしょうか」
「大層なはしゃぎ様だったからな。李斎、今日は手間をかけたな。礼を言う」
「とんでもございません」
 李斎は小さく笑って、驍宗の腕の中の子供を見やった。
「大層楽しゅうございました。これほど、ゆっくりと台輔と過ごさせていただけるなど、
夢にも思っておりませんでしたので…。お礼申し上げたいのは、私の方でございます」
 全く朝から夢のような一日だった。厩舎に師帥が呼びに来て、女の格好をさせられ、
禁門を出発点に瑞州中を駆け回り、大きな宿館で遅い昼餉を王と台輔とともに囲んで、
日暮れまで雑踏の中を見物して歩いた。
「釵(かんざし)は、いつお返し申し上げればよいのでしょうか」
 李斎は訊ねた。王と台輔で選んだからには御物(ぎょぶつ)である。このままという
わけにはいかない。だが、驍宗はこだわりもなく言った。
「下賜する。ささやかだが、今日の礼だ」
「そんな、もったいない」
「下賜する」
 驍宗はうむを言わせない調子で繰り返した。李斎は、諦め、拱手した。
「では有り難く頂戴いたします」
 門卒が李斎の剣を手に近付いた。
「将軍」
「ああ。ありがとう」
 李斎は受け取り、佩刀した。
「それではこれにて失礼仕ります」
 飛燕の向きを変えさせ、辞去しようとしたとき、李斎、と驍宗が声をかけた。
「はい?」
 鞍に登ろうとしていた李斎は、再び下りた。
「いつぞや言っていた、空席の禁軍将軍の件だが」
 李斎は無言で王を見つめた。
「そなたの忠言をいれて、決めた。諸将の功績と徳を比べ、情けを用いず抜擢せよ、と。
覚えているか?」
「はい」
 それは蓬山で別れ際、李斎が問われて新王に答えた言葉だった。
「今回、李斎には禁軍を諦めてもらう」
 李斎は、幽かに自嘲し、目を伏せた。
「はい。王のお考え通りでよろしいかと」
「瑞州師の中将軍だが、それでこらえてくれようか?」
「は?」
 思いがけない言葉に、李斎は飛燕の手綱を握り締めて突っ立った。
「わたくしが…王師に…、」
 後の言葉は続かなかった。
 瑞州師将軍といえば、王師六将軍である。禁軍の将となるには実力に加え運が必要だ。
だから、全ての将軍職にある者たちの究極の目標は、王師に召されることなのであった。
左軍、右軍、中軍などは、どうでもいい。とにかく州師と王師といえばさほどに差は大
きい。後者は、言うなれば、国王の重臣となるのであるから。
「受けてくれるか?」
「は。一命にかえまして、つとめさせて頂きます!」
「頼むぞ」
「はいっ」
 その声で泰麒は目をさました。
「驍宗…さま」
 やっと自分が王の腕の中にいるのに気がついた。
「目がさめたな」
 驍宗は笑って、泰麒を抱えなおした。
「このまま仁重殿まで、連れようか」
「大丈夫です。僕、歩けます」
 驍宗は子供を下に下ろすと、意味ありげに李斎を見て、言う。
「承州侯には今日出かけている間に知らせが届いている。あくまで内示だ。それゆえ、
いまのはまだ内密だ。台輔には特にな」
「はい」
 李斎は泰麒と目が合い、慌てて逸らした。
「どうしたのですか?」
 きょとんとして泰麒は驍宗に訊く。
「だから内緒だ。正式に決まったら教えてやる」
「はい…」
「それではお暇(いとま)申し上げます」
 李斎は飛燕に騎乗した。王と台輔は、禁門に並んで、天駆けて行く騎獣を見送った。
 見送る空に三連の冬星が輝いていた。
 

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「承侯、王宮から御使者がみえてますが」
 聞き慣れた州師将軍の野太い声に、戴国承州の州侯は、割り当てられた宿舎の園林に
面した椅子から振り返った。秋の朝、首都鴻基はもう肌寒いくらいだが、窓は開け放し
てある。
「はて。明日の即位式の打ち合わせなら、昨日までで全て済んでおるはずだが」
「それが、なんでも冢宰から劉将軍に御用とかで」
「劉に?劉なら、この時間は厩舎におろう。…呼んできなさい」
 は、と主に目線で促され、壁際に立った師帥は、扉で一礼すると駆けて行った。
 将軍には使者を通すように告げておいて、州侯は首を傾けた。
 一国の冢宰が、州侯の随従のひとりに、日もあろうにこの、国をあげての大礼祭前日
の朝早くから、一体、何用があるというのだろう。
「劉将軍、参りました」
 扉口から明朗な女の声がした。
 渋い色合いの男物の服を着け、長い赤茶の髪を後ろへと無造作に垂らした人影が、き
びきびと入室してきたのは、王宮からの使いの下官が入ってくるのと丁度前後していた。
「来たか。…御使者どの、こちらが、うちの劉将軍です。して、冢宰から劉に御用とは」
 たった今まで厩舎にいたはずだが、衣服にも髪にも藁屑ひとつ付けてはいない服装端
整な女性は、冢宰から、と聞いて目を丸くした。
「はい。将軍にはご多忙とは存知ますが、州侯のお許しを願い、ただいまから御乗騎の
飛燕をともなって、禁門前へとお越し願いたいとの、口上でございます」
「いまから、禁門へ…ですか」
 思わず、劉李斎は、繰り返した。そして困ったように主である、承侯を振り返った。
 承侯も驚いている。
 禁門とは、凌雲山中腹、王宮へと直結する、特別な者にしかその通行を許さない門だ。
勿論、たかだか州師将軍の李斎の身分で、騎獣を乗りつけてよい場所ではない。
 そのまえに、と下官は恭しく手にした包みを、李斎に差し出した。
「失礼ながら、こちらにお召し替えいただきたく」
 包みの上には小箱がのっている。
 李斎が返答に窮しているのを見て、承侯が口を挟んだ。
「とにかく、仰るとおりに。飛燕の世話は済んでおるのだろう?なに、今日は格別用も
ない。外出を許可する。行ってきなさい」
「はい」
 答えて、まだ釈然としないまま、下官から包みを受け取り、李斎は部屋に下がった。
 使者も自分が難しい用を申し付けられたことは承知していたらしく、ほっと安堵した
顔になり、州侯に礼を述べると、退出した。


「ほう、これは驚いた」
 着替えてきた李斎は、困ったような顔で、承州侯を見た。
「どうやら、女でなくては務まらない御用のようだな、劉よ」
 いかにも愉快そうに笑んだ主を、女将軍は、どちらかといえば、恨めし気に見返した。
 先刻、厩舎に呼びに来た師帥は脇で目を剥いている。
 彼は、いまだかつて自分の上司が騎馬用とはいえ女物の服を着ているのを目にしたこ
とはなかったし、騎乗時に括る――これは男でもすることだ――以外、髪を結っている
様も見たことはない。
 それが今は小さくながら髷を結い、銀の釵(かんざし)を差している。あの箱の中身
がこれであったのだろう。
 服は決して派手ではないが、刺繍が施してあり、いつもに比べれば、格段に女らしい
色合わせだった。
「それを寄越した方は、そなたが荷に男物しか持ち合わせのないのを、ご承知だったと
みえるな」
「台輔です」
「なに」
「御用がおありなのは、きっと、台輔でいらっしゃるのでしょう。でなければ、飛燕の
名をご存知のはずがない。畏れ多いことながら、わたくしは昇山のおり、飛燕ともども
親しくしていただきましたので、おそらくお忍びのお供を仰せつかるのかと」
「なるほど。劉のような美人が、男のなりで佩刀して従ったのでは、目立ちすぎて、お
忍びにはならぬからな」
 言って、承州侯は声を上げて笑った。
 李斎の方は、この姿で厩舎へ行き、慶賀の品を運んできた兵たちの前を歩いて、宿舎
の門を出るのだと思うと、笑うどころではなかった。
 だが、台輔のお名指しではそれも我慢せねばなるまい。李斎とて、一刻も早く、泰麒
には会いたかった。あの尊くも愛らしい小さな子供に。ただし、できたら常の服装で。
 使者を送って戻ってきた将軍は、すれ違った李斎を、口を開けて見た。
 李斎は、同僚を無視して口を引き結び、飛燕のところへと向かう。
「何事ですか、あれ」
 件(くだん)の将軍は、入室するや、州侯に質問した。
「さてなぁ」
 州侯は鬚をしごくと、複雑な笑いを洩らした。
「台輔のお供らしい。どうやら、私は、虎の子の将軍をひとり、失うことになるようだ。
覚悟をしておかねばな」
「ああ、禁軍将軍の座がひとつ空きましたからね。おそらく瑞州師将軍の誰かが抜擢さ
れるだろうとの噂です。当然、瑞州師に空席ができる。李斎殿なら、ふさわしい。でも、
お決めになるのは王でしょう?何といっても台輔はまだ、お小さいとのお話ですから」
「もちろんだ。だが、御用がおありなのは、本当に台輔だけだったのかな」
「はぁ?」
 意を測りかねて将軍が聞く。それには答えず、承州侯はふふん、と笑った。
「あの釵(かんざし)、台輔のお見立てにしては、似合いすぎておらなんだか」
「釵までは見ておりません。正直、あれほどの美女だったかと驚いたもので」
「お前たちがそのようなぼんくらだから、横合いから掠め取られるんだ」
 将軍は憮然と黙った。
「しかし、劉がいなくなると、うちの州師も侘しくなるな…」
 風が冷たくなり、自ら窓を閉めると李斎の長年の主君は、溜息ともつかない小さな息
をもらした。
 明日、元号は弘始と改まる。新しい泰王の即位式である。

 禁門は、雲を貫く鴻基山の、その中腹あたりに巨大な洞窟として穿たれていた。
「李斎、李斎、李斎!」
 乗騎の天馬、飛燕が、その白い翼で舞い降りるや、小さな影が、門からまろぶように
駆け出てきた。降り立った李斎は、礼をとろうとする前に、その走ってきて勢い余った
小さな身体を両手で受け止めなくてはならなかった。
「公!…いえ、台輔」
「あ、ごめんなさい」
 抱きついた格好になってしまい、着膨れした子供は、ちょっと顔を赤らめて見上げた。
「ご健勝そうでなによりでございます」
 李斎は微笑んだ。
 腕の中の子供は、蓬山で親しんだ頃そのままに、真っ直ぐな瞳と、眩しいほどの笑顔
をしている。李斎はほっとした。別れた折りのあの表情の暗さや、怯えたような様子は
もうどこにも見られなかった。
 この上なく幸せそうな泰麒は、やはり常のようにすぐに言う、
「あの、飛燕を撫でてもいいですか?」
 李斎もいつものように笑んで頷いた、
「もちろんでございますとも」
 飛燕、と声をかけながら、泰麒の小さな手が、天馬の黒い鼻筋や首を撫でる。飛燕は
甘えたような声を上げ、目を細めて、旧知の子供との再会を喜んだ。
「来たか」
 背後から突然声をかけられ、李斎は心底仰天して、振り返った。
 ただちに叩頭しようとすると、それを制する声が続けて降った、
「ああ、よい。立て。そんなところで平伏しては、せっかくの服が汚れる」
「主上」
 李斎は驚きの色を隠せず、厩舎の影から突然現れた泰王を見た。とりあえず跪き拱手
する。
「傷はもうすっかりよいか」
「はい。おかげさまで。もう何ともございません」
 再び立つよう促され、李斎は恐縮しながら、王を見た。昇山の折りに普段着ていたの
と、大差のない服装である。少なくとも見た目に王らしいところはどこにもない。冠も
つけておらず、以前のように、髪を後ろへ括っている。
「なんだ、佩刀してきたのか」
 驍宗は笑った。女物の衣服を着けても、なお、刀を帯びていた。
 李斎は困惑して、申し開いた。
「武人が、丸腰で出てくるわけには参りませんので」
 驍宗は、今度は声を上げて笑った。
「なるほどな。しかし、今日は刀は無用だ。門卒(もんばん)に預けてゆけ」
 言いながら、李斎に断る暇も与えず、自ら彼女の刀を取り上げた。相手が王であるの
で、反射的に拒絶しようとした動きをどうにか自分に押しとどめて、李斎は反論した。
「ですが、主上」
「その、主上、は一日禁句だぞ。三人で瑞州を巡った後、鴻基の街へ出るのだからな」
「三人?」
 李斎は目を見開いた。そんなことがあってよいものだろうか。即位式を明日に控えた
一国の王と台輔が、無手の将軍と三人きりで城を出る…?
「あの、畏れながら、大僕(ごえい)の方はおられないのですか」
「おらぬ」
 はぁ、と李斎は驍宗のにべもない返事に途方にくれて答えた。その袖を、小さな手が
引っ張った。
「あのね、驍宗さまは僕たちが三人だけで黄海へ、すう虞狩りへ行ったお話をなさった
の。そして黄海へさえ、三人で行ったのだから、街に三人で行くのは何でもないって、
皆を説得しておしまいになったの」
 李斎は黙った。それは驍宗がまだ禁軍将軍だったときの話である。王となった今とは
状況がまるで違う。
「大丈夫なんですって。僕はあの頃と違って、危険があったら、転変して麒麟になって
逃げればいいでしょう?主上は、僕の使令が守るし、そして李斎が危ないときは、主上
が刀を持っているから、って」
 それではまるで話があべこべではないか、と、李斎はせめて自分の刀を返してもらお
うとしたが、無駄であった。門卒は、よほど言い含められたとみえ、お帰りのときには
お渡しします、の一点張りであった。
「何をしている。時間がなくなってしまうぞ」 
 言いながら厩舎から出てきた驍宗は、計都ではなく、吉量を一騎、曳いている。
 鞍を置いた馬形の騎獣の手綱をとって、驍宗は泰麒に笑んで問いかけた。
「蒿里、今日は計都ではないから、乗せてやれるぞ。飛燕とどちらがいい?」
「計都はどうしたのですか?」
「あれは気性が荒いゆえ、混雑している街中に連れるには不向きだ。第一、すう虞では
人目を引きすぎる。どうだ、私の鞍に乗るか?それとも、李斎の方がやはりいいかな」
 泰麒は困ったように、二頭の騎獣を見比べた。驍宗と一緒に飛べるのは、たまらなく
嬉しい。だが、やっぱり、李斎と一緒に飛燕に乗りたい気もする。
「あのう、かわりばんこではだめですか…?」
 驍宗は声を上げて笑った。


 天馬の上で飛翔しながら、泰麒は、李斎に語った。
「僕、今日はじめて禁門まで降りたんです。王宮からはずいぶんと降りたし、門、って
いうから、てっきり、一番下にあるものだと思ったの。そうしたら、鴻基の街は、目が
眩んでしまうほど、ずうっと下にあるんだもんで、びっくりしてしまいました。鴻基山
が、こんなに高い山だなんて、知らなかった」
「凌雲山は、どの国の王宮、どの州の州城でもそのようでございますよ。ですから、雲
を凌ぐ山と申すのです。文字通り、王宮は、雲海の上に突き出てございますでしょう」
「はい」
「もっとも、わたくしは、他の国の王宮など存じませんし、州城も故郷の承州城以外、
知りはしないのですが」
「承州は、この瑞州よりも、北ですよね。やはり、寒いのですか」
「そうでございますね。もうじきに、初雪が降りますでしょう。出て参りましたときは、
農地はすっかり刈入れが済んでおりましたし、家畜の影ももう空からは見当たりません」
 言われて、小さな瑞州侯は、自分の統べる土地を足下に見下ろす。麒麟である泰麒は、
戴国の宰輔、王の補佐役であると同時に、首都のある瑞州の州侯なのであった。
 そうか、と李斎は思った。泰麒から、即位式の準備はすっかり済んでしまって、口上
もきちんと覚えてしまったから、今日は一日瑞州中を遊んで回りに連れて行って頂ける
のだそうです、と聞いたときは額面通りに受け取った。
 だが、おそらく驍宗には、幼い州侯に、自分の責任ある土地を実地に見せてやりたい、
という深慮があったのだろう。
 全く、と李斎は内心自分を笑う。玉座につくべく麒麟の天啓の有無――天意をはかり
に蓬山へ行った昇山者同士、禁軍と州師という歴とした身分差がありながら、まるで、
同輩か何かのように心安くして頂いた。だが、実際に王となった驍宗に比べて、自分の
器量は何と小さなことだろうか。


 瑞州は首都州であるが、面積は、九つの州の中でもっとも狭い。狭いと言っても、通
常の感覚では、一日で巡れる広さではない。騎獣の中でもずば抜けて足の速い、吉量と
天馬だからこそ、まがりなりにも一周できるのだ。
「見よ、蒿里。あの峰々の向うが文州だ。これほど高い山脈で首都州と隔てられている
のは、あそこだけだ。それだけ、交流は限られ、それゆえ、目が届かず統治も難しい」
「はい」
 吉量の鞍の上で、泰麒が答える。まだ傅相をつけられていない、州侯としての泰麒の
公務には、驍宗が午後の時間を割いて、側について見てくれている。
 その仕事というよりは、勉強の時間を通して知ることの何倍も、こうして上空から、
実際に見て回るものは、泰麒の心にしっかりと食い込む。
 麒麟の直轄領、黄領だけは、乗騎を降りて、間近にした。里盧には祝いの幡が立ち、
祝賀の雰囲気に満ちているものの、収穫半ばの麦畑は、いかにも貧相で、痩せた家畜が
閑地で草を食む。
 その後、州境にそって、二騎と三人は天を駆けていた。
「蒿里。李斎は、釵(かんざし)をしておらぬな」
 山脈が尽き、承州との州境が見えてきた頃、驍宗は突然訊いた。
 ええ、と泰麒は答えた。
「僕も李斎に訊いてみたんです。どうしてしていないの、って」
「それで」 
「李斎はちゃんと差して宿舎を出てきたんですって。でも李斎は釵をもう何年もしてい
ないから、飛燕に騎乗していると、落してしまいそうで怖くて、それで、外して懐に入
れたんだそうです。驍宗様と僕とで選んだんだって言ったら、とっても驚いて、鴻基の
街に下りたら、必ずしますから、って言ってました」
「そうか」
 と、驍宗は微笑した。
 女官に李斎の身長と髪の色を説明し、幾通りかの組み合せの衣服を見立てさせ、その
中から驍宗が、一番適当と思われたものを包ませた。が、最後に泰麒と相談して選んだ
釵だけは、李斎の髪には見あたらなかった。
「蒿里、それでは楽しみは鴻基まで、お預けだな」
「はい。でもきっと驍宗さまの勝ちだと思います。僕は、本当言うと、女のひとには、
誰にでもピンクが似合うんだって、ただそう思ってただけですから」
「何…が、似合うのだと?」
「ああ、ええっと…、薄桃色のこと、です」
 泰麒はどうしても、ときどきこうやって、こちらの世界のひとには、耳慣れない言葉
を使ってしまうのだった。
 驍宗の選んだのは白だった。銀できざみの入った葉までが細工され、その上に、三つ
小さく、五弁の花びらの白玉がついている。
 すももの花だ、と驍宗は言い、李斎の字(あざな)の李というのが、すもものことを
言うのだと聞いて、泰麒は納得したのだった。
 

 鴻基は予想以上の人出であった。おそらく、常の人口の何倍かがつめかけているので
あろう。それほど、新王の即位は待ち望まれてきたのだ。
 彼らは、その人込みを見下ろしながら下降し、鴻基の午門の外に騎獣を下ろした。
 飛燕の手綱をとって門に向かう前に、李斎は、驍宗に詫びた。
「わざわざお見立て下さいましたとは存知上げず、失礼を致しました」
 言って、懐から袱紗(ふくさ)に挟んだ銀の釵を取り出す。
 驍宗は、にこりと笑んで、手を伸ばした。
「貸しなさい。鏡がなくては差しにくかろう」
 断ろうとしたが、李斎としても、鏡なしで、きちんと差せる自信はなかった。それで、
身の縮む思いで、驍宗に任せた。
 驍宗は首を伸ばすようにして、李斎の小さく結った髷に、その清楚な一枝を飾った。
「やっぱり、驍宗さまの勝ちでした」
 泰麒が嬉しそうに李斎と驍宗を見上げる。
「そうだな」
 なんのことやら分からず、ただ恐縮している李斎を促し、驍宗は吉量の手綱をとった。
 大人二人がそれぞれの騎獣の手綱をとるその狭間で、人込みで迷子にならぬように、
めいめいにしっかりと手を引かれ、泰麒は午門をくぐった。
 これから、首都の観光である。


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