「くちづけてよいか」
王は静かな声で耳元に問うた。
正寝の一室、王にかき抱かれたまま、李斎はただ呆然としていた。たった今、王后を
受けた後、辞去しようとした李斎は、左手をとられると、そのまま皮甲(よろい)の上
から広い胸に抱かれたのだった。
王に抱かれるのは初めてではなかった。垂州で、泰麒とともに、肩を抱きしめられた。
あのときは、ただ将として、王への崇敬と思慕の念で一杯であった。
今は違う。はじめて男である王を意識した。
李斎の意志とは無関係に、皮甲を通しても感じられるほど、胸がひたすら激しく打っ
ている。耳にはどくどくと、血の音がきこえるかのようで息が苦しい。
王が、くちづけるために腕をわずかに緩めたとき、李斎はもはや王の顔を見られずに、
目を固くつむった。すぐ間近に呼吸を感じた。それから、それがふと遠のき、それで李
斎は、目を開いた。
少し離した目の前に、驍宗の顔があった。こころなしか苦笑している。
「やめておこう。…これ以上触れたら、今宵そなたを官邸に帰してやれなくなりそうだ」
李斎はきょとんとした。せっかくの覚悟が行き場を失ってしまったのだ。
「ここまで辛抱したのだ。華燭の日まで、待つこととする」
行け、と驍宗は言い、李斎はそのまま送り出されて、門殿へと続く庭院に下りた。
「まぁ…。主上もご辛抱のおよろしいこと。でもきちんと、華燭の典はあげてくださる
おつもりでいらっしゃいますのね。ああ李斎、本当に良かった事…」
客庁(きゃくま)の大卓の上で、美しい指先で、それが癖のように酒盃のふちを撫で、
花影は友に微笑んだ。
神籍にあるものは、もはや新たに婚姻はできない。当然里木に願っても、子は授から
ない。だがそれでも主上は、承知の上で、伴侶となる李斎のために、正式の婚儀の形を
とってくれる心づもりなのだ。
「どう良いのだ?」
李斎は盃に口もつけず、すがるように親友の面を見た。
「どう…って。それだけ李斎を大切になさるお心がおありなのでしょう。違うの?」
言ってから、花影はまた微笑んだ。李斎は憮然とし、それから重く口を開いた。
「そうじゃない。私を、王后にだなどと、主上はどうかしておられる。花影は、そうは
思わないのか?」
花影は、驚いたように黙って李斎を見つめた。
「つい返事をした私も私だ。自己嫌悪でどうにかなりそうだ!」
李斎は己の額を抱えた。
そして最初は申し出を批難し、次に同情などいらぬといい、後宮に入れだなどと自分
を分かってないと恨み言まで言ったことを語った。侮辱という言葉も使った気がする。
「まぁ」
「そうしたら、後宮は使わぬ、部屋も正寝だと言われ…、分かるだろう?常の調子で、
激しくたたみかけられた。それで、…つい、是、…と…」
沈黙が、贅沢ではないが品良く設(しつら)えられた、花影の客庁に降りた。
花影はなにごとか考えるふうであったが、彼女の一番の友の、最初からのらしからぬ
この訪問に首を傾けた。
花影の官邸に、約束も案内もなく、突然現れた隻腕の将軍は、花影が、客庁に入って
きたとき、まるでよるべない子のように小さく縮こまって、椅子の上でうなだれていた。
理知的な明るさとそれを凌ぐ勇猛さ、女の身で、常の男の何倍もの働きをしてのける。
なにより今回の玉座奪還の立て役者となった、誇るべき親友の姿はどこにもなく、ただ、
小さな女の子が途方に暮れて座っている風情であったことを、花影は思い返した。
「あの、お怒りにならないでね、李斎」
花影はゆっくり言葉を選んだ。
「あなたひょっとして、ご自分が主上をお好きなことも、主上が李斎をお好きなことも、
まったくご存知ではなかったの…?」
「何だって?」
李斎は目を見開いた。それを見て、花影はもっと驚いた。
「呆れた…。あなた一体、男の方とどういう付き合いをなすっていらしたの」
「男と?幼い頃の打ち合いの相手を除けば、常に部下か上司か、同僚だ。鎬を削って得
た友人なら大勢いた。皆気持ちの良い相手だった」
「それ以外は?いえ、その方たちの中で、お付き合いしようという方はいらっしゃらな
かったの?あなたのご友人ならお言葉通りに、さぞかし、心栄えのよい方ばかりでした
でしょうに」
「付き合いって…そういう意味のか。いなかった。師帥までは夢中だった。なにしろ早
く師帥になりたくて、あの当時、それは私の願いの全てだったから。そのあと将軍職を
賜った。一軍の兵は七千五百。彼らの命をわたしが握っている。相手だの、結婚だのと、
考えている暇(いとま)など、なかった」
「信じられないわ…よく周囲が放っておいたこと。あなたはお綺麗だし、お若いし、有
能でいらっしゃる…ああ、だから、主上くらいの格でないと釣り合わなかったというこ
となのかしら…」
李斎は花影の言葉を強くさえぎった。
「釣り合ってなどいない!あの方は、名君であらせられる。わたしなどとは器が違う。
花影もよく分かっているはずだ」
「それでもそのお方が、唯一の妻にと、おのぞみになったのは、あなただったのだわ」
「ばかな」
「あのね、李斎」
花影は子供を諭すように、居住まいを正すと、李斎の目を見て言った。
「いくら崇敬申し上げている国王といえど、女が髪ふりみだして、行方を探すというの
は、その男の人を心から愛しているということなの。それに、将軍だからこそ手が出な
いでおいでなのだろう、というのは、私たちの間では有名な話よ。なにしろ、あなたと
主上が並んでらして、そこに台輔のお姿があれば、いつも立派に家族だったわ」
「……考えもしなかった」
花影はため息をついた。
「台輔は大きくなってしまわれた。主上はね、お隣の延王のようには生きられない方よ。
必ず伴侶を、ご家族を必要となさるだろうと、ずっと思っていたわ。ご自身はきっと、
もっとお思いだったでしょうよ。李斎が右腕を失ったのは辛いけれど、結局そのことが、
主上のご決意に結びついたのね。確約してもよろしいわ。誰も、否やは言わないことよ」
花影は官邸付きの胥(げかん)に、酒肴の膳を下げさせると、立ち上がった。もう夜
更けである。
さ、と花影は李斎を促した。
「今日はきっと戻っても眠れないでしょう。せめてうちに、お泊りなさいな。あなたの
お部屋を用意させるわね。…いつものように、わたくしの部屋にご一緒、と言うのでは
余りに畏れ多いことだから」
「…。いつも通りがいい」
「そういうわけには…。じきに、というより、王がお申し出あそばしてあなたがお受け
になった以上は、すでに后妃でいらっしゃるも同然ですもの。分かってらっしゃるでし
ょう?」
「…。花影」
「なあに?」
「花影だけは、李斎と呼んでくれないだろうか?たとえこの先どうなったとしても」
花影は李斎のすがるような目を見返して、しばし黙っていたが、頷いた。
「そうね、…分かったわ。武将としてお仕えするとは、全く違うお暮らしになるのです
ものね。せめて、わたくしにはこれからも甘えて頂戴。わたくしも散々あなたに甘えて
きたのですから」
「ありがとう、花影」
ようやく李斎はほっとした顔になった。王后を受けて以来、というより、最前、驍宗
に抱きしめられてから、ずっと身体中を苛んだ感触が、花影の優しさに包まれ、わずか
ながらも落ち着いたのを感じた。
実際、王宮から官邸への帰り道、どこでどう考えて花影のところへの道を辿ったもの
か、記憶にないほどであったのだ。
花影は笑んで言った。
「李斎、あなたも今夜は寝つけないでしょうけれど、主上はもっとそうでいらっしゃる
わよ。きっと朝まで、乙夜之覧(いつやのらん=政務を終えてからの天子の読書)を、
なさっておいででしょうね。華燭の宴の前に、疲労困憊してしまわれないと良いけれど」
花影は小さく笑い声を立て、李斎は再びきょとんとした。
華燭。それは自分とあまりに遠い言葉のように聞こえ、まるで実感が湧かない。まし
て、なにゆえ王が眠れないというのか。
だがその頃、驍宗は寝もやらず、書に読みふけっていた。夏の終りの夜半、虫の音は
庭院に満ち、星は、またたく。
「兄さん」
突然呼ばれて、王付きの大僕は、雲海をのぞむ園林の、座っていた階段から飛びあが
った。
「夕暉!」
弟の名を呼び、信じかねるように首を振りながら立ち上がる。
「お前、なんだってこんなところに…、少学はどうしたんだ?」
「二三日、お休みを貰ったんだ。浩瀚さまから急なお手紙を頂いて、ね」
「冢宰からぁ?」
うん、と笑いながら弟は兄の座っていたひとつ上の段に腰掛ける。
「学校長がね、青くなって、授業中の教室にご自分で届けにいらしたよ。中を見たら、
きっともっと驚いただろうね。なにしろ、陽子からだったんだもの」
「陽子が?なんだってお前に…。でも休みだなんて、いいのか?学校はあってるんだろ
うが」
「平気。三日くらい、首位を明渡してもどうってことないよ。戻ったら、すぐまた巻き
返すさ」
「首位って、じゃあお前」
「そう、首席なんだ、僕」
それをきくと虎嘯は、目を丸くし、それから顔をくしゃくしゃにして笑った。弟の頭
を小突くように撫でる。
「そうか、おまえ少学で一番なのか!うん、きっとやると思ってた!そうか」
「まあね。…ところで、兄さんがここのところ、元気がないんで、景王は心配なさって
おいでなんだよ」
思い当たったのか、虎嘯は、背中を丸めた。
「元気がないほどじゃねぇんだけどな。そうか、陽子にまで心配させちまってたか…」
夕暉は黙って、兄の言葉を待った。
「実はその…、本当に行かせちまってよかったのか、どうにもすっきりしねぇって言う
か、落ち着かなくてな…」
「戴の…将軍様?」
ああ、と虎嘯は指を組み、大きく伸びをした。
「それと、麒麟でなくなった泰台輔だ…お前よく知ってるな」
夕暉はにこりと笑んだ。
「陽子が手紙の中で、あらまし説明してくれたからね」
「ふうん、じゃ、利き腕がないってことも知ってるんだな」
「うん…怪我が元で、なくされたって」
「すごい胆力だった。単身禁門を突破して、乗り込んできたのもそうだが、瀕死の重傷
だったのに、陽子に会うまで頑として座ろうとしなかった。利き腕をなくしたと知った
ときさえ、びくともしちゃあ、いなかった。だいぶ良くなってから、そのことを話題に
したことがあった。そのときは、王を守れなかった将軍に利き腕などあってもなくても
同じだと思ったんだとさ」
「それは…もの凄いね」
「ああ、それほど国の…戴の国のために必死だった」
虎嘯の眼差しが、雲海を見つめながら、眩しげに細められた。
「なんていうかな、自分のためってえもんがないんだ。あのひとを見ているとよ、あの
ひと自身が王じゃないかと思えてくる。それほど、国のため、王と台輔のためしか頭に
ない…。あれほどの女がよ、必死になって何年も国中探したというんだ。相手が尊敬し
ている王だろうとなかろうと、男としても好いているに決まってる。ところが当の本人
には、その自覚がまるでねぇときてんだよなぁ…」
「そうなんだ…」
「ああ。戴の王ってひとはすごい人物だといわれている。それが本当なら、玉座を取り
戻したときには、きっとあのひとを王后に迎えるだろうさ。そうでなくちゃあ嘘だ」
確信に満ちた声はどこか寂しげだった。
「仮にも将軍様だ、俺なんかがついて行ってやっても、何の役に立つわけでもなかった
かもしらねぇ。妖魔相手に戦ったことはねぇからな」
虎嘯は大きな溜息をついた。
「それに俺はもう、宮仕えってやつだしな。ここに、陽子の大僕っていう仕事がある。
それをうっちゃって行くことはできないから勘弁してくれと、そう言った。…あっさり
納得してくれたよ」
「それでもついて行きたかったんだね」
「ああ。うん…。そうだな。確かについて行きたかったな。そうだ」
それきり虎嘯は黙った。
虎嘯は黙って雲海を見た。北の、戴国の方角である。西日が、虎嘯と夕暉の左の横顔
に当たっていた。
『それほど、兄さんはその将軍様を好きだったんだね…』
その言葉を夕暉は胸にしまい、並んで雲海を見ていた。
光は一条のみだ。
巌の狭間から漏れて来る。
それでやっと昼夜が分かる。だが、幾日幾月幾歳過ぎたものか、もう定かではない。
口にするのは、岩をつたう僅かな水と苔だけだ。常人ならば死んでいる。常人ならば
狂うことも出来るだろう。だが神籍にある身ではそれもかなわない。かなわないことを
口惜しいとは思わない。自分は王なのだから。
だが自分が王である故に、こうして無為の時を過すうち、自分が統べるべきこの国が、
どうなっているのか、それを考えるとたまらない焦燥が、全身を苛む。
彼は考える。彼のこの国、戴と、戴の民のことを。
夢は悪夢が多い。いや悪夢ではなく現実だろう。焦土と化す国土。凍える民草の嘆き。
たまさか優しい夢が訪れることもあった。それは必ず夜の夢だ。彼の王宮で夜、彼は
彼の麒麟と共にいる。そこは必ず正寝で、床にはいつも書面が散らばる。
あどけない笑顔をした稚い宰輔は、信頼に満ちた瞳で彼を見つめ、彼はその瞳の中に、
民たちの希望を再確認するのが常だった。泰麒が王の側にいるのが無条件に嬉しいよう
に、自分もあの麒麟を愛しんでいた。
夢には必ず、もうひとりの姿がある。皮甲をつけ、赤褐色の長い髪をした女だ。手も
との書類は昨年と一昨年の軍事費の決算書、その兵站の欄から、今しがた論議に出た、
数項目を一心に見比べているのだ。つややかな髪が白い顔に落ちかかり、それを無意識
に首元まで手で押さえているのが、常になく女びていて目を奪われる。
女は六将軍のひとりだった。だから、強いて思いを通そうとは思わなかった。自分が
どんなに彼女を望んでいたか、こうなっても夢に見るほどだと知るまでは、分かってい
なかった。
泰麒の無事は分かる。こうして彼がまだ生きていることが、麒麟が存命である証左だ。
どのような目に遭っているのかは分からない、が、とにかく生きてはいてくれている。
だが彼女は。
無事だろうか。おそらく彼の敵は彼女を見落としはしないだろう。それでも生き延び
ていてくれようか…。
その夢はいつも明け方に訪れた。だから、いまも、明け方に同じ夢をみる。正確には、
同じ夢を見ている、自分を夢見る。そして、牀榻に射し込む曙の薄い光のなかで、彼は
自分のすぐ傍らに赤褐色の髪を見る。
「…いかがなされました」
うすく開かれた目が、彼に向けられる。
「大事ない…」
不安げに夫を見る彼女に笑んで繰り返す。
「大事ない、いつもの夢だ」
彼女は片袖で彼の背をそっと抱きしめる。彼女が夢の中で髪を押さえた右手はもはや
ない。だが、彼女は生きており、彼の腕の中にいる。
国は安定し、民は豊かになりつつあった。
王は静かな声で耳元に問うた。
正寝の一室、王にかき抱かれたまま、李斎はただ呆然としていた。たった今、王后を
受けた後、辞去しようとした李斎は、左手をとられると、そのまま皮甲(よろい)の上
から広い胸に抱かれたのだった。
王に抱かれるのは初めてではなかった。垂州で、泰麒とともに、肩を抱きしめられた。
あのときは、ただ将として、王への崇敬と思慕の念で一杯であった。
今は違う。はじめて男である王を意識した。
李斎の意志とは無関係に、皮甲を通しても感じられるほど、胸がひたすら激しく打っ
ている。耳にはどくどくと、血の音がきこえるかのようで息が苦しい。
王が、くちづけるために腕をわずかに緩めたとき、李斎はもはや王の顔を見られずに、
目を固くつむった。すぐ間近に呼吸を感じた。それから、それがふと遠のき、それで李
斎は、目を開いた。
少し離した目の前に、驍宗の顔があった。こころなしか苦笑している。
「やめておこう。…これ以上触れたら、今宵そなたを官邸に帰してやれなくなりそうだ」
李斎はきょとんとした。せっかくの覚悟が行き場を失ってしまったのだ。
「ここまで辛抱したのだ。華燭の日まで、待つこととする」
行け、と驍宗は言い、李斎はそのまま送り出されて、門殿へと続く庭院に下りた。
「まぁ…。主上もご辛抱のおよろしいこと。でもきちんと、華燭の典はあげてくださる
おつもりでいらっしゃいますのね。ああ李斎、本当に良かった事…」
客庁(きゃくま)の大卓の上で、美しい指先で、それが癖のように酒盃のふちを撫で、
花影は友に微笑んだ。
神籍にあるものは、もはや新たに婚姻はできない。当然里木に願っても、子は授から
ない。だがそれでも主上は、承知の上で、伴侶となる李斎のために、正式の婚儀の形を
とってくれる心づもりなのだ。
「どう良いのだ?」
李斎は盃に口もつけず、すがるように親友の面を見た。
「どう…って。それだけ李斎を大切になさるお心がおありなのでしょう。違うの?」
言ってから、花影はまた微笑んだ。李斎は憮然とし、それから重く口を開いた。
「そうじゃない。私を、王后にだなどと、主上はどうかしておられる。花影は、そうは
思わないのか?」
花影は、驚いたように黙って李斎を見つめた。
「つい返事をした私も私だ。自己嫌悪でどうにかなりそうだ!」
李斎は己の額を抱えた。
そして最初は申し出を批難し、次に同情などいらぬといい、後宮に入れだなどと自分
を分かってないと恨み言まで言ったことを語った。侮辱という言葉も使った気がする。
「まぁ」
「そうしたら、後宮は使わぬ、部屋も正寝だと言われ…、分かるだろう?常の調子で、
激しくたたみかけられた。それで、…つい、是、…と…」
沈黙が、贅沢ではないが品良く設(しつら)えられた、花影の客庁に降りた。
花影はなにごとか考えるふうであったが、彼女の一番の友の、最初からのらしからぬ
この訪問に首を傾けた。
花影の官邸に、約束も案内もなく、突然現れた隻腕の将軍は、花影が、客庁に入って
きたとき、まるでよるべない子のように小さく縮こまって、椅子の上でうなだれていた。
理知的な明るさとそれを凌ぐ勇猛さ、女の身で、常の男の何倍もの働きをしてのける。
なにより今回の玉座奪還の立て役者となった、誇るべき親友の姿はどこにもなく、ただ、
小さな女の子が途方に暮れて座っている風情であったことを、花影は思い返した。
「あの、お怒りにならないでね、李斎」
花影はゆっくり言葉を選んだ。
「あなたひょっとして、ご自分が主上をお好きなことも、主上が李斎をお好きなことも、
まったくご存知ではなかったの…?」
「何だって?」
李斎は目を見開いた。それを見て、花影はもっと驚いた。
「呆れた…。あなた一体、男の方とどういう付き合いをなすっていらしたの」
「男と?幼い頃の打ち合いの相手を除けば、常に部下か上司か、同僚だ。鎬を削って得
た友人なら大勢いた。皆気持ちの良い相手だった」
「それ以外は?いえ、その方たちの中で、お付き合いしようという方はいらっしゃらな
かったの?あなたのご友人ならお言葉通りに、さぞかし、心栄えのよい方ばかりでした
でしょうに」
「付き合いって…そういう意味のか。いなかった。師帥までは夢中だった。なにしろ早
く師帥になりたくて、あの当時、それは私の願いの全てだったから。そのあと将軍職を
賜った。一軍の兵は七千五百。彼らの命をわたしが握っている。相手だの、結婚だのと、
考えている暇(いとま)など、なかった」
「信じられないわ…よく周囲が放っておいたこと。あなたはお綺麗だし、お若いし、有
能でいらっしゃる…ああ、だから、主上くらいの格でないと釣り合わなかったというこ
となのかしら…」
李斎は花影の言葉を強くさえぎった。
「釣り合ってなどいない!あの方は、名君であらせられる。わたしなどとは器が違う。
花影もよく分かっているはずだ」
「それでもそのお方が、唯一の妻にと、おのぞみになったのは、あなただったのだわ」
「ばかな」
「あのね、李斎」
花影は子供を諭すように、居住まいを正すと、李斎の目を見て言った。
「いくら崇敬申し上げている国王といえど、女が髪ふりみだして、行方を探すというの
は、その男の人を心から愛しているということなの。それに、将軍だからこそ手が出な
いでおいでなのだろう、というのは、私たちの間では有名な話よ。なにしろ、あなたと
主上が並んでらして、そこに台輔のお姿があれば、いつも立派に家族だったわ」
「……考えもしなかった」
花影はため息をついた。
「台輔は大きくなってしまわれた。主上はね、お隣の延王のようには生きられない方よ。
必ず伴侶を、ご家族を必要となさるだろうと、ずっと思っていたわ。ご自身はきっと、
もっとお思いだったでしょうよ。李斎が右腕を失ったのは辛いけれど、結局そのことが、
主上のご決意に結びついたのね。確約してもよろしいわ。誰も、否やは言わないことよ」
花影は官邸付きの胥(げかん)に、酒肴の膳を下げさせると、立ち上がった。もう夜
更けである。
さ、と花影は李斎を促した。
「今日はきっと戻っても眠れないでしょう。せめてうちに、お泊りなさいな。あなたの
お部屋を用意させるわね。…いつものように、わたくしの部屋にご一緒、と言うのでは
余りに畏れ多いことだから」
「…。いつも通りがいい」
「そういうわけには…。じきに、というより、王がお申し出あそばしてあなたがお受け
になった以上は、すでに后妃でいらっしゃるも同然ですもの。分かってらっしゃるでし
ょう?」
「…。花影」
「なあに?」
「花影だけは、李斎と呼んでくれないだろうか?たとえこの先どうなったとしても」
花影は李斎のすがるような目を見返して、しばし黙っていたが、頷いた。
「そうね、…分かったわ。武将としてお仕えするとは、全く違うお暮らしになるのです
ものね。せめて、わたくしにはこれからも甘えて頂戴。わたくしも散々あなたに甘えて
きたのですから」
「ありがとう、花影」
ようやく李斎はほっとした顔になった。王后を受けて以来、というより、最前、驍宗
に抱きしめられてから、ずっと身体中を苛んだ感触が、花影の優しさに包まれ、わずか
ながらも落ち着いたのを感じた。
実際、王宮から官邸への帰り道、どこでどう考えて花影のところへの道を辿ったもの
か、記憶にないほどであったのだ。
花影は笑んで言った。
「李斎、あなたも今夜は寝つけないでしょうけれど、主上はもっとそうでいらっしゃる
わよ。きっと朝まで、乙夜之覧(いつやのらん=政務を終えてからの天子の読書)を、
なさっておいででしょうね。華燭の宴の前に、疲労困憊してしまわれないと良いけれど」
花影は小さく笑い声を立て、李斎は再びきょとんとした。
華燭。それは自分とあまりに遠い言葉のように聞こえ、まるで実感が湧かない。まし
て、なにゆえ王が眠れないというのか。
だがその頃、驍宗は寝もやらず、書に読みふけっていた。夏の終りの夜半、虫の音は
庭院に満ち、星は、またたく。
「兄さん」
突然呼ばれて、王付きの大僕は、雲海をのぞむ園林の、座っていた階段から飛びあが
った。
「夕暉!」
弟の名を呼び、信じかねるように首を振りながら立ち上がる。
「お前、なんだってこんなところに…、少学はどうしたんだ?」
「二三日、お休みを貰ったんだ。浩瀚さまから急なお手紙を頂いて、ね」
「冢宰からぁ?」
うん、と笑いながら弟は兄の座っていたひとつ上の段に腰掛ける。
「学校長がね、青くなって、授業中の教室にご自分で届けにいらしたよ。中を見たら、
きっともっと驚いただろうね。なにしろ、陽子からだったんだもの」
「陽子が?なんだってお前に…。でも休みだなんて、いいのか?学校はあってるんだろ
うが」
「平気。三日くらい、首位を明渡してもどうってことないよ。戻ったら、すぐまた巻き
返すさ」
「首位って、じゃあお前」
「そう、首席なんだ、僕」
それをきくと虎嘯は、目を丸くし、それから顔をくしゃくしゃにして笑った。弟の頭
を小突くように撫でる。
「そうか、おまえ少学で一番なのか!うん、きっとやると思ってた!そうか」
「まあね。…ところで、兄さんがここのところ、元気がないんで、景王は心配なさって
おいでなんだよ」
思い当たったのか、虎嘯は、背中を丸めた。
「元気がないほどじゃねぇんだけどな。そうか、陽子にまで心配させちまってたか…」
夕暉は黙って、兄の言葉を待った。
「実はその…、本当に行かせちまってよかったのか、どうにもすっきりしねぇって言う
か、落ち着かなくてな…」
「戴の…将軍様?」
ああ、と虎嘯は指を組み、大きく伸びをした。
「それと、麒麟でなくなった泰台輔だ…お前よく知ってるな」
夕暉はにこりと笑んだ。
「陽子が手紙の中で、あらまし説明してくれたからね」
「ふうん、じゃ、利き腕がないってことも知ってるんだな」
「うん…怪我が元で、なくされたって」
「すごい胆力だった。単身禁門を突破して、乗り込んできたのもそうだが、瀕死の重傷
だったのに、陽子に会うまで頑として座ろうとしなかった。利き腕をなくしたと知った
ときさえ、びくともしちゃあ、いなかった。だいぶ良くなってから、そのことを話題に
したことがあった。そのときは、王を守れなかった将軍に利き腕などあってもなくても
同じだと思ったんだとさ」
「それは…もの凄いね」
「ああ、それほど国の…戴の国のために必死だった」
虎嘯の眼差しが、雲海を見つめながら、眩しげに細められた。
「なんていうかな、自分のためってえもんがないんだ。あのひとを見ているとよ、あの
ひと自身が王じゃないかと思えてくる。それほど、国のため、王と台輔のためしか頭に
ない…。あれほどの女がよ、必死になって何年も国中探したというんだ。相手が尊敬し
ている王だろうとなかろうと、男としても好いているに決まってる。ところが当の本人
には、その自覚がまるでねぇときてんだよなぁ…」
「そうなんだ…」
「ああ。戴の王ってひとはすごい人物だといわれている。それが本当なら、玉座を取り
戻したときには、きっとあのひとを王后に迎えるだろうさ。そうでなくちゃあ嘘だ」
確信に満ちた声はどこか寂しげだった。
「仮にも将軍様だ、俺なんかがついて行ってやっても、何の役に立つわけでもなかった
かもしらねぇ。妖魔相手に戦ったことはねぇからな」
虎嘯は大きな溜息をついた。
「それに俺はもう、宮仕えってやつだしな。ここに、陽子の大僕っていう仕事がある。
それをうっちゃって行くことはできないから勘弁してくれと、そう言った。…あっさり
納得してくれたよ」
「それでもついて行きたかったんだね」
「ああ。うん…。そうだな。確かについて行きたかったな。そうだ」
それきり虎嘯は黙った。
虎嘯は黙って雲海を見た。北の、戴国の方角である。西日が、虎嘯と夕暉の左の横顔
に当たっていた。
『それほど、兄さんはその将軍様を好きだったんだね…』
その言葉を夕暉は胸にしまい、並んで雲海を見ていた。
光は一条のみだ。
巌の狭間から漏れて来る。
それでやっと昼夜が分かる。だが、幾日幾月幾歳過ぎたものか、もう定かではない。
口にするのは、岩をつたう僅かな水と苔だけだ。常人ならば死んでいる。常人ならば
狂うことも出来るだろう。だが神籍にある身ではそれもかなわない。かなわないことを
口惜しいとは思わない。自分は王なのだから。
だが自分が王である故に、こうして無為の時を過すうち、自分が統べるべきこの国が、
どうなっているのか、それを考えるとたまらない焦燥が、全身を苛む。
彼は考える。彼のこの国、戴と、戴の民のことを。
夢は悪夢が多い。いや悪夢ではなく現実だろう。焦土と化す国土。凍える民草の嘆き。
たまさか優しい夢が訪れることもあった。それは必ず夜の夢だ。彼の王宮で夜、彼は
彼の麒麟と共にいる。そこは必ず正寝で、床にはいつも書面が散らばる。
あどけない笑顔をした稚い宰輔は、信頼に満ちた瞳で彼を見つめ、彼はその瞳の中に、
民たちの希望を再確認するのが常だった。泰麒が王の側にいるのが無条件に嬉しいよう
に、自分もあの麒麟を愛しんでいた。
夢には必ず、もうひとりの姿がある。皮甲をつけ、赤褐色の長い髪をした女だ。手も
との書類は昨年と一昨年の軍事費の決算書、その兵站の欄から、今しがた論議に出た、
数項目を一心に見比べているのだ。つややかな髪が白い顔に落ちかかり、それを無意識
に首元まで手で押さえているのが、常になく女びていて目を奪われる。
女は六将軍のひとりだった。だから、強いて思いを通そうとは思わなかった。自分が
どんなに彼女を望んでいたか、こうなっても夢に見るほどだと知るまでは、分かってい
なかった。
泰麒の無事は分かる。こうして彼がまだ生きていることが、麒麟が存命である証左だ。
どのような目に遭っているのかは分からない、が、とにかく生きてはいてくれている。
だが彼女は。
無事だろうか。おそらく彼の敵は彼女を見落としはしないだろう。それでも生き延び
ていてくれようか…。
その夢はいつも明け方に訪れた。だから、いまも、明け方に同じ夢をみる。正確には、
同じ夢を見ている、自分を夢見る。そして、牀榻に射し込む曙の薄い光のなかで、彼は
自分のすぐ傍らに赤褐色の髪を見る。
「…いかがなされました」
うすく開かれた目が、彼に向けられる。
「大事ない…」
不安げに夫を見る彼女に笑んで繰り返す。
「大事ない、いつもの夢だ」
彼女は片袖で彼の背をそっと抱きしめる。彼女が夢の中で髪を押さえた右手はもはや
ない。だが、彼女は生きており、彼の腕の中にいる。
国は安定し、民は豊かになりつつあった。
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