「李斎」
「存知ません!」
今日の李斎は、ちょっと趣きが違っていた。
居宮の李斎の客庁で、先程から王にくってかかっている。
それを驍宗はむしろ楽しんでいる様子であった。李斎にしてみれば、ますます腹が立
つ。
「李斎のふくれ面は珍しいな。ふくれても可愛いぞ、まぁ、そううろつかず、酒を注げ」
李斎はそれでも卓子に近付き、差出された酒盃に丁寧に酒を注いだ。しかるのち隣の
椅子にかけた。
「いったい、ご存知でしたら、なぜ早くお教え下さらなかったのですか!わたくし以外
の者は皆知っているだなんて、…あんまりです!」
「別にわざわざ耳に入れることでもなかろう」
「主上はなんともないのですか」
「大した事ではあるまい」
「大した事ではない。確かにさようでございますか?主上はわたくしのお尻に敷かれて
いると噂されているのですよ。事実無根とは、このことでございます。一体いつ、この
李斎があなた様をお尻に敷くような真似をいたしました」
「ひざに抱いたことは幾度かあるな」
王は李斎を見、笑んでみせた。李斎は剣呑に目を逸らした。誰が返事をしてやるもの
か。
「わたくしがこれまでに、あなた様の命に従わなかったり、逆らったりしたことが一度
でもございますか?勝手に何かを許可もなく取り仕切ったことがございましたとでも
…?」
「いいや。そなたは実に従順で賢い、自慢の妻だ」
「そして下世話な言い様をお許し願えれば、主上は亭主関白の範でいらせられる」
「そうか?わたしは愛妻家を自負しているのだがな」
李斎は、すっとぼける夫君をねめつけた。
「恐妻家だと言われておいでなのです。一体どこをどう見たら、主上が恐妻家でいらっ
しゃいますか、お心あたりがございますかっ?」
「ある」
「何とおっしゃられた」
「ある、と言った。あの噂の出元は、わたしだからな」
「主上…」
李斎は口を開けた。驍宗は平然と杯を上げた。
「視察に出ると州城を訪ねる」
「それがなにか?」
「まぁ、聞け。すると必ず、随従とわたしには接待役があてがわれる」
李斎は黙った。いくら自分のことには疎い李斎でも、世間の常識は良く分かっている。
「随従にはうるさいことは言わぬ。だが、わたしはそなた以外と閨を共にする気はない。
歌と踊りと酌だけで、引取ってもらうには、嘘も方便だ。向うも州侯に命じられた一番
の美姫だ、そう簡単に引き下がってはくれぬからな。愛妻家だなどと知れたら、一層、
むきにさせるだけのことだ。恐妻家の腑抜けで、魅力のない男だと思わせるのが一番だ、
違うか」
「…違うか、と…申されましても」
李斎は完全に毒気を抜かれてしまった。浮気をせぬために、嘘をついたと言われては、
責め様がない。
「主上は、おずるいです」
「ずるいか?」
「はい。それではわたくしは恐妻の汚名を雪ぐことができません」
驍宗は高く笑った。
「許せ。ささやかな嘘だ。ひとが何と噂しようと、李斎は見事な妻で、わたしの自慢だ」
李斎は例によって小さな溜息をひとつついた。夫が噂の出元で、こうまで言われては、
尻に敷いていると言われようが、恐妻と言われようが、耐えねばならない。
「主上は本当におずるいです」
そう言って、むくれ顔のまま、酒を注ぎ足した李斎の左頬を、驍宗はつまんだ。
「うむ。そして李斎はふくれ面でも可愛い」
驍宗は手を離すと破顔し、杯を上げた。
「暑いですねぇ、将軍」
師帥は、彼の上司に声をかける。天馬を歩ませる上司は、そうだなと頷いた。
同じく皮甲をつけていても、風に長い髪をそよがせたその顔を見ると、一瞬暑さを忘
れられる。それでつい声をかけるのだが、やはり一瞬である。
暑い。砂漠と樹影のその海は、果てしもないように思われ、日の暮れが近いというの
に、空はまだきっぱりと青かった。とにかく北国育ちにはこの暑さがこたえる。彼は溜
息をついた。故郷承州は、北の極国、戴のなかでも北だ。
「剛氏は何と言っていた」
「ああ、ええっと…」
促され、師帥はこの先の状況とその対策について、聞いてきたところを語る。しばし
熱心に耳を傾けて、将軍は目を見開く。
「そんなことまで教えてくれたのか」
黄朱の民は余人を受け入れない。それが常識だった。まして、彼らは州師の一行、剛
氏を雇っての黄海路ではない。だから、一応教えは請いに行かせるものの、必要最小限、
剛氏の雇い主たちの甚だしい妨げにならぬだけの情報しか、期待すべきではない。
ところが、黄海に入って旅程も半ばにさしかかったころから、剛氏たちは一様にこの
一団に対し、格別、としか考えられない配慮を示すようになっていた。
「礼を言ってこよう。後を頼む」
あっさり言うと天馬の首を巡らせる。
師帥は、見なれた赤茶の髪が、後ろの集団を目指して戻っていくのをしばし目で追っ
た。
「まったく、うちの将軍は腰が低いですよねぇ」
卒長が笑う。師帥もちょっと振り返って一緒に笑った。
「確かに」
黄朱に対して礼節をつくす将軍なぞ、ちょっといないだろう。師帥自身、最初は抵抗
があったものが、あまりに自然に接する上司の隣で、いつまでも自分ひとり肩をいから
せてもおれず、気付いたら、それなりに敬意さえ払っている。兵も同じだ。
「剛氏たちが言ってましたよ。軍人の昇山者は多いが、門前で持参した糧食を売っ払い、
剛氏に荷をつくらせたなんぞ、前代未聞だと」
「だろうなぁ」
師帥は鞍につけた自分の荷物を見やった。声をかけた卒長の馬にも、歩きの兵卒たち
の背にも、各々ひとり分の荷と水とがくくり付けられている。
戴とは正反対にある令坤門に、夏至直前ようやく辿りつき、情報を集めた。それまで
は一行のなかに、「剛氏」の存在を知っているものさえいなかった。
彼らの主の決断は鮮やかだった。
承州師として蓬山で、最低限の威儀と体面を整えるための機材を残し、速やかに全て
の物品が換金された。糧食で一杯だった荷車が、あっさり人数分の背負える小さな荷に
化け、残りの金は、驚くべき短時間でそれらを手配した剛氏あがりの商人への謝礼と、
彼の知り合いの現役剛氏からの情報代に消えた。
兵卒たちは荷車を押すかわりに、教えられたとおり、焚き木にする落ち枝を拾いなが
ら歩き、水場を見つけては師帥までが馬を下り、こまめに自分の皮袋に補給した。
障害物が道を塞ぐと、剛氏が集る。そこへほぼ同時に駆け付け、枝を打ち、岩を除く
のも、常に彼らだった。
州師からの昇山者は、なにも彼らだけではない。他州師からも皮甲をつけた一団は来
ていた。通常の行軍のように、水と糧食で一杯の荷車を従え、営地では大人数分の食事
を煮炊きしている。
当初はその小麦や米の匂いを嗅ぐと、百稼、とかいう雑穀を挽いたものばかり連日食
わされる彼らは、羨ましげにその大鍋を見やり、ついで恨めしそうに、班編成にされた
自分たちの小さな焚き火にかかる小鍋の粥を見つめたものだ。
しかし、やがて黄海をとりまく金剛山がはるか遠くにその威容を没し、妖魔の襲撃が
頻発しだすと、この不満はあとかたもなく消え去った。
彼らは他州師に比べて、もともと数が少なかった。にもかかわらず、生存率がずば抜
けて高かったのだ。
一瞬で荷を負い、野営地から遁走する。妖魔の夜襲を逃れるにはこれしかない。軽い
荷、充分な栄養、そして簡素な調理は短時間ですみ、早々に火の始末をつけ余分に寝る。
黄朱の智恵を侮らず、彼らのやり方を限度一杯に取り入れたことが、どれほど黄海で確
実に彼らの安全を確保するか。
自分たちの生命をなにより重んじてくれた将軍の温情を、全員が理解した。
「どうした」
声に焚き火から顔を上げると、将軍が髪をかいやり、にこりと笑んだ。暗青色の目が
涼しい笑みをたたえている。
「いえね、剛氏の噂話です。我らは鵬翼に乗っているんだそうです」
「鵬翼?」
「鵬雛…、昇山者の中で王に立つ者のことを彼ら、そう言うんですけれどね。その鵬雛
がいると。王のいる昇山の旅は格段に楽なのだそうですよ」
「そうか」
ため息まじりの声に、笑顔で話していた師帥はちょっと首を傾けた。
「どうしました」
「なるほどと思っただけだ…。少し離れて進んではいても、紛れもなく、今回の昇山の
一行には違いない」
師帥は瞬いた。その様子に、茶目っ気のある眼差しを上げ将軍は淡々と言う。
「乍将軍だろう、鵬雛は」
師帥は大仰に顔をしかめた。
「何を言っておられるんですか。あなたに決まっているでしょう」
これを聞くと将軍は、女にしてはしっかりとした肩をすくめた。
「あちらがどのような御方か、知らないお前ではないだろうに」
令坤門で聞いたその禁軍将軍の名は、戴国のみならず、他国にも通っていた。
それは、と師帥は息を吐く。
「立派な方だと思いますよ。噂どおりならば、ですが。でも噂です。そりゃあ将軍とし
ては名の通ったお方だし、狩りをしながら小人数で黄海に入るなんて、只者じゃないと
は思います。でも王であるかどうかは別の話です。それに、あなただって余州に名高い
将軍でいらっしゃる。承州師の李斎殿といえば、戴国の夏官で知らないものはいません
よ。為人ときてはまず、どこかの禁軍の将に勝りこそすれ、劣るものではありません。
とにかく私たちはそう信じるからこそ、承州からはるばるお供仕ったんです」
非難を浮かべた言と顔に、将軍は素直に頷いた。
「分かった。ありがとう」
「お分かり下さいましたか」
ああ、と笑んで、それから眉を上げる。承州師の李斎、知略に優れた勇猛の将、その
噂の後に続けて、白璧(へき)の肌と柳の眉、と謳われるその眉だ。
「でも駄目だったら、帰りはこちらもすう虞狩りだな」
「将軍!」
気持ちの良い声で高らかに笑いながら、兵の様子を見まわりに行く背中に、師帥は溜
息をついた。
野営地には今日は月がある。葉の生い茂る名前も知れない樹木の枝ごしに、将軍李斎
は月を仰いだ。
李斎とて己のことを、天命あれば王たらんと思えばこそ、故郷を後にした。だが、伝
え聞くかぎりにおいて、自分が彼に勝るとは到底信じかねるのも事実だった。
彼女は息を吐いた。
蓬山公にお会いしよう。それからのことはまた考える。とりあえず、と彼女は自分の
鞍につけた荷を思って笑む。その中の皮袋には、用意してきた瑪瑙があった。すう虞の
好物である。狩りのことを考えると、俄かに元気の出てくる自分の単純さにひとり苦笑
した。
蓬山に着けば、彼にも会えるだろう。ふと笑みが引いた。その軍才と人望、剣客で聞
こえた戴国禁軍左将軍の氏字を、乍驍宗という。どんな男であろうか。これは考えても
無駄だった。禁軍の将としては異例の若さで拝命したという以外、外見に関しては、お
よそ聞くことがない。大柄か小柄かさえ伝わらぬところを見ると、そう極端な体格では
ないらしいと想像するばかりだ。
狩りは夜する。とすればこの月影の下、かの将軍は騎獣を駆っているのだろうか。た
った数名の手勢を連れて。
ご無事で参られよ。李斎は、ふたたび月に視線を投げ上げると、小さく心に呟いた。
「存知ません!」
今日の李斎は、ちょっと趣きが違っていた。
居宮の李斎の客庁で、先程から王にくってかかっている。
それを驍宗はむしろ楽しんでいる様子であった。李斎にしてみれば、ますます腹が立
つ。
「李斎のふくれ面は珍しいな。ふくれても可愛いぞ、まぁ、そううろつかず、酒を注げ」
李斎はそれでも卓子に近付き、差出された酒盃に丁寧に酒を注いだ。しかるのち隣の
椅子にかけた。
「いったい、ご存知でしたら、なぜ早くお教え下さらなかったのですか!わたくし以外
の者は皆知っているだなんて、…あんまりです!」
「別にわざわざ耳に入れることでもなかろう」
「主上はなんともないのですか」
「大した事ではあるまい」
「大した事ではない。確かにさようでございますか?主上はわたくしのお尻に敷かれて
いると噂されているのですよ。事実無根とは、このことでございます。一体いつ、この
李斎があなた様をお尻に敷くような真似をいたしました」
「ひざに抱いたことは幾度かあるな」
王は李斎を見、笑んでみせた。李斎は剣呑に目を逸らした。誰が返事をしてやるもの
か。
「わたくしがこれまでに、あなた様の命に従わなかったり、逆らったりしたことが一度
でもございますか?勝手に何かを許可もなく取り仕切ったことがございましたとでも
…?」
「いいや。そなたは実に従順で賢い、自慢の妻だ」
「そして下世話な言い様をお許し願えれば、主上は亭主関白の範でいらせられる」
「そうか?わたしは愛妻家を自負しているのだがな」
李斎は、すっとぼける夫君をねめつけた。
「恐妻家だと言われておいでなのです。一体どこをどう見たら、主上が恐妻家でいらっ
しゃいますか、お心あたりがございますかっ?」
「ある」
「何とおっしゃられた」
「ある、と言った。あの噂の出元は、わたしだからな」
「主上…」
李斎は口を開けた。驍宗は平然と杯を上げた。
「視察に出ると州城を訪ねる」
「それがなにか?」
「まぁ、聞け。すると必ず、随従とわたしには接待役があてがわれる」
李斎は黙った。いくら自分のことには疎い李斎でも、世間の常識は良く分かっている。
「随従にはうるさいことは言わぬ。だが、わたしはそなた以外と閨を共にする気はない。
歌と踊りと酌だけで、引取ってもらうには、嘘も方便だ。向うも州侯に命じられた一番
の美姫だ、そう簡単に引き下がってはくれぬからな。愛妻家だなどと知れたら、一層、
むきにさせるだけのことだ。恐妻家の腑抜けで、魅力のない男だと思わせるのが一番だ、
違うか」
「…違うか、と…申されましても」
李斎は完全に毒気を抜かれてしまった。浮気をせぬために、嘘をついたと言われては、
責め様がない。
「主上は、おずるいです」
「ずるいか?」
「はい。それではわたくしは恐妻の汚名を雪ぐことができません」
驍宗は高く笑った。
「許せ。ささやかな嘘だ。ひとが何と噂しようと、李斎は見事な妻で、わたしの自慢だ」
李斎は例によって小さな溜息をひとつついた。夫が噂の出元で、こうまで言われては、
尻に敷いていると言われようが、恐妻と言われようが、耐えねばならない。
「主上は本当におずるいです」
そう言って、むくれ顔のまま、酒を注ぎ足した李斎の左頬を、驍宗はつまんだ。
「うむ。そして李斎はふくれ面でも可愛い」
驍宗は手を離すと破顔し、杯を上げた。
「暑いですねぇ、将軍」
師帥は、彼の上司に声をかける。天馬を歩ませる上司は、そうだなと頷いた。
同じく皮甲をつけていても、風に長い髪をそよがせたその顔を見ると、一瞬暑さを忘
れられる。それでつい声をかけるのだが、やはり一瞬である。
暑い。砂漠と樹影のその海は、果てしもないように思われ、日の暮れが近いというの
に、空はまだきっぱりと青かった。とにかく北国育ちにはこの暑さがこたえる。彼は溜
息をついた。故郷承州は、北の極国、戴のなかでも北だ。
「剛氏は何と言っていた」
「ああ、ええっと…」
促され、師帥はこの先の状況とその対策について、聞いてきたところを語る。しばし
熱心に耳を傾けて、将軍は目を見開く。
「そんなことまで教えてくれたのか」
黄朱の民は余人を受け入れない。それが常識だった。まして、彼らは州師の一行、剛
氏を雇っての黄海路ではない。だから、一応教えは請いに行かせるものの、必要最小限、
剛氏の雇い主たちの甚だしい妨げにならぬだけの情報しか、期待すべきではない。
ところが、黄海に入って旅程も半ばにさしかかったころから、剛氏たちは一様にこの
一団に対し、格別、としか考えられない配慮を示すようになっていた。
「礼を言ってこよう。後を頼む」
あっさり言うと天馬の首を巡らせる。
師帥は、見なれた赤茶の髪が、後ろの集団を目指して戻っていくのをしばし目で追っ
た。
「まったく、うちの将軍は腰が低いですよねぇ」
卒長が笑う。師帥もちょっと振り返って一緒に笑った。
「確かに」
黄朱に対して礼節をつくす将軍なぞ、ちょっといないだろう。師帥自身、最初は抵抗
があったものが、あまりに自然に接する上司の隣で、いつまでも自分ひとり肩をいから
せてもおれず、気付いたら、それなりに敬意さえ払っている。兵も同じだ。
「剛氏たちが言ってましたよ。軍人の昇山者は多いが、門前で持参した糧食を売っ払い、
剛氏に荷をつくらせたなんぞ、前代未聞だと」
「だろうなぁ」
師帥は鞍につけた自分の荷物を見やった。声をかけた卒長の馬にも、歩きの兵卒たち
の背にも、各々ひとり分の荷と水とがくくり付けられている。
戴とは正反対にある令坤門に、夏至直前ようやく辿りつき、情報を集めた。それまで
は一行のなかに、「剛氏」の存在を知っているものさえいなかった。
彼らの主の決断は鮮やかだった。
承州師として蓬山で、最低限の威儀と体面を整えるための機材を残し、速やかに全て
の物品が換金された。糧食で一杯だった荷車が、あっさり人数分の背負える小さな荷に
化け、残りの金は、驚くべき短時間でそれらを手配した剛氏あがりの商人への謝礼と、
彼の知り合いの現役剛氏からの情報代に消えた。
兵卒たちは荷車を押すかわりに、教えられたとおり、焚き木にする落ち枝を拾いなが
ら歩き、水場を見つけては師帥までが馬を下り、こまめに自分の皮袋に補給した。
障害物が道を塞ぐと、剛氏が集る。そこへほぼ同時に駆け付け、枝を打ち、岩を除く
のも、常に彼らだった。
州師からの昇山者は、なにも彼らだけではない。他州師からも皮甲をつけた一団は来
ていた。通常の行軍のように、水と糧食で一杯の荷車を従え、営地では大人数分の食事
を煮炊きしている。
当初はその小麦や米の匂いを嗅ぐと、百稼、とかいう雑穀を挽いたものばかり連日食
わされる彼らは、羨ましげにその大鍋を見やり、ついで恨めしそうに、班編成にされた
自分たちの小さな焚き火にかかる小鍋の粥を見つめたものだ。
しかし、やがて黄海をとりまく金剛山がはるか遠くにその威容を没し、妖魔の襲撃が
頻発しだすと、この不満はあとかたもなく消え去った。
彼らは他州師に比べて、もともと数が少なかった。にもかかわらず、生存率がずば抜
けて高かったのだ。
一瞬で荷を負い、野営地から遁走する。妖魔の夜襲を逃れるにはこれしかない。軽い
荷、充分な栄養、そして簡素な調理は短時間ですみ、早々に火の始末をつけ余分に寝る。
黄朱の智恵を侮らず、彼らのやり方を限度一杯に取り入れたことが、どれほど黄海で確
実に彼らの安全を確保するか。
自分たちの生命をなにより重んじてくれた将軍の温情を、全員が理解した。
「どうした」
声に焚き火から顔を上げると、将軍が髪をかいやり、にこりと笑んだ。暗青色の目が
涼しい笑みをたたえている。
「いえね、剛氏の噂話です。我らは鵬翼に乗っているんだそうです」
「鵬翼?」
「鵬雛…、昇山者の中で王に立つ者のことを彼ら、そう言うんですけれどね。その鵬雛
がいると。王のいる昇山の旅は格段に楽なのだそうですよ」
「そうか」
ため息まじりの声に、笑顔で話していた師帥はちょっと首を傾けた。
「どうしました」
「なるほどと思っただけだ…。少し離れて進んではいても、紛れもなく、今回の昇山の
一行には違いない」
師帥は瞬いた。その様子に、茶目っ気のある眼差しを上げ将軍は淡々と言う。
「乍将軍だろう、鵬雛は」
師帥は大仰に顔をしかめた。
「何を言っておられるんですか。あなたに決まっているでしょう」
これを聞くと将軍は、女にしてはしっかりとした肩をすくめた。
「あちらがどのような御方か、知らないお前ではないだろうに」
令坤門で聞いたその禁軍将軍の名は、戴国のみならず、他国にも通っていた。
それは、と師帥は息を吐く。
「立派な方だと思いますよ。噂どおりならば、ですが。でも噂です。そりゃあ将軍とし
ては名の通ったお方だし、狩りをしながら小人数で黄海に入るなんて、只者じゃないと
は思います。でも王であるかどうかは別の話です。それに、あなただって余州に名高い
将軍でいらっしゃる。承州師の李斎殿といえば、戴国の夏官で知らないものはいません
よ。為人ときてはまず、どこかの禁軍の将に勝りこそすれ、劣るものではありません。
とにかく私たちはそう信じるからこそ、承州からはるばるお供仕ったんです」
非難を浮かべた言と顔に、将軍は素直に頷いた。
「分かった。ありがとう」
「お分かり下さいましたか」
ああ、と笑んで、それから眉を上げる。承州師の李斎、知略に優れた勇猛の将、その
噂の後に続けて、白璧(へき)の肌と柳の眉、と謳われるその眉だ。
「でも駄目だったら、帰りはこちらもすう虞狩りだな」
「将軍!」
気持ちの良い声で高らかに笑いながら、兵の様子を見まわりに行く背中に、師帥は溜
息をついた。
野営地には今日は月がある。葉の生い茂る名前も知れない樹木の枝ごしに、将軍李斎
は月を仰いだ。
李斎とて己のことを、天命あれば王たらんと思えばこそ、故郷を後にした。だが、伝
え聞くかぎりにおいて、自分が彼に勝るとは到底信じかねるのも事実だった。
彼女は息を吐いた。
蓬山公にお会いしよう。それからのことはまた考える。とりあえず、と彼女は自分の
鞍につけた荷を思って笑む。その中の皮袋には、用意してきた瑪瑙があった。すう虞の
好物である。狩りのことを考えると、俄かに元気の出てくる自分の単純さにひとり苦笑
した。
蓬山に着けば、彼にも会えるだろう。ふと笑みが引いた。その軍才と人望、剣客で聞
こえた戴国禁軍左将軍の氏字を、乍驍宗という。どんな男であろうか。これは考えても
無駄だった。禁軍の将としては異例の若さで拝命したという以外、外見に関しては、お
よそ聞くことがない。大柄か小柄かさえ伝わらぬところを見ると、そう極端な体格では
ないらしいと想像するばかりだ。
狩りは夜する。とすればこの月影の下、かの将軍は騎獣を駆っているのだろうか。た
った数名の手勢を連れて。
ご無事で参られよ。李斎は、ふたたび月に視線を投げ上げると、小さく心に呟いた。
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