「承侯、王宮から御使者がみえてますが」
聞き慣れた州師将軍の野太い声に、戴国承州の州侯は、割り当てられた宿舎の園林に
面した椅子から振り返った。秋の朝、首都鴻基はもう肌寒いくらいだが、窓は開け放し
てある。
「はて。明日の即位式の打ち合わせなら、昨日までで全て済んでおるはずだが」
「それが、なんでも冢宰から劉将軍に御用とかで」
「劉に?劉なら、この時間は厩舎におろう。…呼んできなさい」
は、と主に目線で促され、壁際に立った師帥は、扉で一礼すると駆けて行った。
将軍には使者を通すように告げておいて、州侯は首を傾けた。
一国の冢宰が、州侯の随従のひとりに、日もあろうにこの、国をあげての大礼祭前日
の朝早くから、一体、何用があるというのだろう。
「劉将軍、参りました」
扉口から明朗な女の声がした。
渋い色合いの男物の服を着け、長い赤茶の髪を後ろへと無造作に垂らした人影が、き
びきびと入室してきたのは、王宮からの使いの下官が入ってくるのと丁度前後していた。
「来たか。…御使者どの、こちらが、うちの劉将軍です。して、冢宰から劉に御用とは」
たった今まで厩舎にいたはずだが、衣服にも髪にも藁屑ひとつ付けてはいない服装端
整な女性は、冢宰から、と聞いて目を丸くした。
「はい。将軍にはご多忙とは存知ますが、州侯のお許しを願い、ただいまから御乗騎の
飛燕をともなって、禁門前へとお越し願いたいとの、口上でございます」
「いまから、禁門へ…ですか」
思わず、劉李斎は、繰り返した。そして困ったように主である、承侯を振り返った。
承侯も驚いている。
禁門とは、凌雲山中腹、王宮へと直結する、特別な者にしかその通行を許さない門だ。
勿論、たかだか州師将軍の李斎の身分で、騎獣を乗りつけてよい場所ではない。
そのまえに、と下官は恭しく手にした包みを、李斎に差し出した。
「失礼ながら、こちらにお召し替えいただきたく」
包みの上には小箱がのっている。
李斎が返答に窮しているのを見て、承侯が口を挟んだ。
「とにかく、仰るとおりに。飛燕の世話は済んでおるのだろう?なに、今日は格別用も
ない。外出を許可する。行ってきなさい」
「はい」
答えて、まだ釈然としないまま、下官から包みを受け取り、李斎は部屋に下がった。
使者も自分が難しい用を申し付けられたことは承知していたらしく、ほっと安堵した
顔になり、州侯に礼を述べると、退出した。
「ほう、これは驚いた」
着替えてきた李斎は、困ったような顔で、承州侯を見た。
「どうやら、女でなくては務まらない御用のようだな、劉よ」
いかにも愉快そうに笑んだ主を、女将軍は、どちらかといえば、恨めし気に見返した。
先刻、厩舎に呼びに来た師帥は脇で目を剥いている。
彼は、いまだかつて自分の上司が騎馬用とはいえ女物の服を着ているのを目にしたこ
とはなかったし、騎乗時に括る――これは男でもすることだ――以外、髪を結っている
様も見たことはない。
それが今は小さくながら髷を結い、銀の釵(かんざし)を差している。あの箱の中身
がこれであったのだろう。
服は決して派手ではないが、刺繍が施してあり、いつもに比べれば、格段に女らしい
色合わせだった。
「それを寄越した方は、そなたが荷に男物しか持ち合わせのないのを、ご承知だったと
みえるな」
「台輔です」
「なに」
「御用がおありなのは、きっと、台輔でいらっしゃるのでしょう。でなければ、飛燕の
名をご存知のはずがない。畏れ多いことながら、わたくしは昇山のおり、飛燕ともども
親しくしていただきましたので、おそらくお忍びのお供を仰せつかるのかと」
「なるほど。劉のような美人が、男のなりで佩刀して従ったのでは、目立ちすぎて、お
忍びにはならぬからな」
言って、承州侯は声を上げて笑った。
李斎の方は、この姿で厩舎へ行き、慶賀の品を運んできた兵たちの前を歩いて、宿舎
の門を出るのだと思うと、笑うどころではなかった。
だが、台輔のお名指しではそれも我慢せねばなるまい。李斎とて、一刻も早く、泰麒
には会いたかった。あの尊くも愛らしい小さな子供に。ただし、できたら常の服装で。
使者を送って戻ってきた将軍は、すれ違った李斎を、口を開けて見た。
李斎は、同僚を無視して口を引き結び、飛燕のところへと向かう。
「何事ですか、あれ」
件(くだん)の将軍は、入室するや、州侯に質問した。
「さてなぁ」
州侯は鬚をしごくと、複雑な笑いを洩らした。
「台輔のお供らしい。どうやら、私は、虎の子の将軍をひとり、失うことになるようだ。
覚悟をしておかねばな」
「ああ、禁軍将軍の座がひとつ空きましたからね。おそらく瑞州師将軍の誰かが抜擢さ
れるだろうとの噂です。当然、瑞州師に空席ができる。李斎殿なら、ふさわしい。でも、
お決めになるのは王でしょう?何といっても台輔はまだ、お小さいとのお話ですから」
「もちろんだ。だが、御用がおありなのは、本当に台輔だけだったのかな」
「はぁ?」
意を測りかねて将軍が聞く。それには答えず、承州侯はふふん、と笑った。
「あの釵(かんざし)、台輔のお見立てにしては、似合いすぎておらなんだか」
「釵までは見ておりません。正直、あれほどの美女だったかと驚いたもので」
「お前たちがそのようなぼんくらだから、横合いから掠め取られるんだ」
将軍は憮然と黙った。
「しかし、劉がいなくなると、うちの州師も侘しくなるな…」
風が冷たくなり、自ら窓を閉めると李斎の長年の主君は、溜息ともつかない小さな息
をもらした。
明日、元号は弘始と改まる。新しい泰王の即位式である。
禁門は、雲を貫く鴻基山の、その中腹あたりに巨大な洞窟として穿たれていた。
「李斎、李斎、李斎!」
乗騎の天馬、飛燕が、その白い翼で舞い降りるや、小さな影が、門からまろぶように
駆け出てきた。降り立った李斎は、礼をとろうとする前に、その走ってきて勢い余った
小さな身体を両手で受け止めなくてはならなかった。
「公!…いえ、台輔」
「あ、ごめんなさい」
抱きついた格好になってしまい、着膨れした子供は、ちょっと顔を赤らめて見上げた。
「ご健勝そうでなによりでございます」
李斎は微笑んだ。
腕の中の子供は、蓬山で親しんだ頃そのままに、真っ直ぐな瞳と、眩しいほどの笑顔
をしている。李斎はほっとした。別れた折りのあの表情の暗さや、怯えたような様子は
もうどこにも見られなかった。
この上なく幸せそうな泰麒は、やはり常のようにすぐに言う、
「あの、飛燕を撫でてもいいですか?」
李斎もいつものように笑んで頷いた、
「もちろんでございますとも」
飛燕、と声をかけながら、泰麒の小さな手が、天馬の黒い鼻筋や首を撫でる。飛燕は
甘えたような声を上げ、目を細めて、旧知の子供との再会を喜んだ。
「来たか」
背後から突然声をかけられ、李斎は心底仰天して、振り返った。
ただちに叩頭しようとすると、それを制する声が続けて降った、
「ああ、よい。立て。そんなところで平伏しては、せっかくの服が汚れる」
「主上」
李斎は驚きの色を隠せず、厩舎の影から突然現れた泰王を見た。とりあえず跪き拱手
する。
「傷はもうすっかりよいか」
「はい。おかげさまで。もう何ともございません」
再び立つよう促され、李斎は恐縮しながら、王を見た。昇山の折りに普段着ていたの
と、大差のない服装である。少なくとも見た目に王らしいところはどこにもない。冠も
つけておらず、以前のように、髪を後ろへ括っている。
「なんだ、佩刀してきたのか」
驍宗は笑った。女物の衣服を着けても、なお、刀を帯びていた。
李斎は困惑して、申し開いた。
「武人が、丸腰で出てくるわけには参りませんので」
驍宗は、今度は声を上げて笑った。
「なるほどな。しかし、今日は刀は無用だ。門卒(もんばん)に預けてゆけ」
言いながら、李斎に断る暇も与えず、自ら彼女の刀を取り上げた。相手が王であるの
で、反射的に拒絶しようとした動きをどうにか自分に押しとどめて、李斎は反論した。
「ですが、主上」
「その、主上、は一日禁句だぞ。三人で瑞州を巡った後、鴻基の街へ出るのだからな」
「三人?」
李斎は目を見開いた。そんなことがあってよいものだろうか。即位式を明日に控えた
一国の王と台輔が、無手の将軍と三人きりで城を出る…?
「あの、畏れながら、大僕(ごえい)の方はおられないのですか」
「おらぬ」
はぁ、と李斎は驍宗のにべもない返事に途方にくれて答えた。その袖を、小さな手が
引っ張った。
「あのね、驍宗さまは僕たちが三人だけで黄海へ、すう虞狩りへ行ったお話をなさった
の。そして黄海へさえ、三人で行ったのだから、街に三人で行くのは何でもないって、
皆を説得しておしまいになったの」
李斎は黙った。それは驍宗がまだ禁軍将軍だったときの話である。王となった今とは
状況がまるで違う。
「大丈夫なんですって。僕はあの頃と違って、危険があったら、転変して麒麟になって
逃げればいいでしょう?主上は、僕の使令が守るし、そして李斎が危ないときは、主上
が刀を持っているから、って」
それではまるで話があべこべではないか、と、李斎はせめて自分の刀を返してもらお
うとしたが、無駄であった。門卒は、よほど言い含められたとみえ、お帰りのときには
お渡しします、の一点張りであった。
「何をしている。時間がなくなってしまうぞ」
言いながら厩舎から出てきた驍宗は、計都ではなく、吉量を一騎、曳いている。
鞍を置いた馬形の騎獣の手綱をとって、驍宗は泰麒に笑んで問いかけた。
「蒿里、今日は計都ではないから、乗せてやれるぞ。飛燕とどちらがいい?」
「計都はどうしたのですか?」
「あれは気性が荒いゆえ、混雑している街中に連れるには不向きだ。第一、すう虞では
人目を引きすぎる。どうだ、私の鞍に乗るか?それとも、李斎の方がやはりいいかな」
泰麒は困ったように、二頭の騎獣を見比べた。驍宗と一緒に飛べるのは、たまらなく
嬉しい。だが、やっぱり、李斎と一緒に飛燕に乗りたい気もする。
「あのう、かわりばんこではだめですか…?」
驍宗は声を上げて笑った。
天馬の上で飛翔しながら、泰麒は、李斎に語った。
「僕、今日はじめて禁門まで降りたんです。王宮からはずいぶんと降りたし、門、って
いうから、てっきり、一番下にあるものだと思ったの。そうしたら、鴻基の街は、目が
眩んでしまうほど、ずうっと下にあるんだもんで、びっくりしてしまいました。鴻基山
が、こんなに高い山だなんて、知らなかった」
「凌雲山は、どの国の王宮、どの州の州城でもそのようでございますよ。ですから、雲
を凌ぐ山と申すのです。文字通り、王宮は、雲海の上に突き出てございますでしょう」
「はい」
「もっとも、わたくしは、他の国の王宮など存じませんし、州城も故郷の承州城以外、
知りはしないのですが」
「承州は、この瑞州よりも、北ですよね。やはり、寒いのですか」
「そうでございますね。もうじきに、初雪が降りますでしょう。出て参りましたときは、
農地はすっかり刈入れが済んでおりましたし、家畜の影ももう空からは見当たりません」
言われて、小さな瑞州侯は、自分の統べる土地を足下に見下ろす。麒麟である泰麒は、
戴国の宰輔、王の補佐役であると同時に、首都のある瑞州の州侯なのであった。
そうか、と李斎は思った。泰麒から、即位式の準備はすっかり済んでしまって、口上
もきちんと覚えてしまったから、今日は一日瑞州中を遊んで回りに連れて行って頂ける
のだそうです、と聞いたときは額面通りに受け取った。
だが、おそらく驍宗には、幼い州侯に、自分の責任ある土地を実地に見せてやりたい、
という深慮があったのだろう。
全く、と李斎は内心自分を笑う。玉座につくべく麒麟の天啓の有無――天意をはかり
に蓬山へ行った昇山者同士、禁軍と州師という歴とした身分差がありながら、まるで、
同輩か何かのように心安くして頂いた。だが、実際に王となった驍宗に比べて、自分の
器量は何と小さなことだろうか。
瑞州は首都州であるが、面積は、九つの州の中でもっとも狭い。狭いと言っても、通
常の感覚では、一日で巡れる広さではない。騎獣の中でもずば抜けて足の速い、吉量と
天馬だからこそ、まがりなりにも一周できるのだ。
「見よ、蒿里。あの峰々の向うが文州だ。これほど高い山脈で首都州と隔てられている
のは、あそこだけだ。それだけ、交流は限られ、それゆえ、目が届かず統治も難しい」
「はい」
吉量の鞍の上で、泰麒が答える。まだ傅相をつけられていない、州侯としての泰麒の
公務には、驍宗が午後の時間を割いて、側について見てくれている。
その仕事というよりは、勉強の時間を通して知ることの何倍も、こうして上空から、
実際に見て回るものは、泰麒の心にしっかりと食い込む。
麒麟の直轄領、黄領だけは、乗騎を降りて、間近にした。里盧には祝いの幡が立ち、
祝賀の雰囲気に満ちているものの、収穫半ばの麦畑は、いかにも貧相で、痩せた家畜が
閑地で草を食む。
その後、州境にそって、二騎と三人は天を駆けていた。
「蒿里。李斎は、釵(かんざし)をしておらぬな」
山脈が尽き、承州との州境が見えてきた頃、驍宗は突然訊いた。
ええ、と泰麒は答えた。
「僕も李斎に訊いてみたんです。どうしてしていないの、って」
「それで」
「李斎はちゃんと差して宿舎を出てきたんですって。でも李斎は釵をもう何年もしてい
ないから、飛燕に騎乗していると、落してしまいそうで怖くて、それで、外して懐に入
れたんだそうです。驍宗様と僕とで選んだんだって言ったら、とっても驚いて、鴻基の
街に下りたら、必ずしますから、って言ってました」
「そうか」
と、驍宗は微笑した。
女官に李斎の身長と髪の色を説明し、幾通りかの組み合せの衣服を見立てさせ、その
中から驍宗が、一番適当と思われたものを包ませた。が、最後に泰麒と相談して選んだ
釵だけは、李斎の髪には見あたらなかった。
「蒿里、それでは楽しみは鴻基まで、お預けだな」
「はい。でもきっと驍宗さまの勝ちだと思います。僕は、本当言うと、女のひとには、
誰にでもピンクが似合うんだって、ただそう思ってただけですから」
「何…が、似合うのだと?」
「ああ、ええっと…、薄桃色のこと、です」
泰麒はどうしても、ときどきこうやって、こちらの世界のひとには、耳慣れない言葉
を使ってしまうのだった。
驍宗の選んだのは白だった。銀できざみの入った葉までが細工され、その上に、三つ
小さく、五弁の花びらの白玉がついている。
すももの花だ、と驍宗は言い、李斎の字(あざな)の李というのが、すもものことを
言うのだと聞いて、泰麒は納得したのだった。
鴻基は予想以上の人出であった。おそらく、常の人口の何倍かがつめかけているので
あろう。それほど、新王の即位は待ち望まれてきたのだ。
彼らは、その人込みを見下ろしながら下降し、鴻基の午門の外に騎獣を下ろした。
飛燕の手綱をとって門に向かう前に、李斎は、驍宗に詫びた。
「わざわざお見立て下さいましたとは存知上げず、失礼を致しました」
言って、懐から袱紗(ふくさ)に挟んだ銀の釵を取り出す。
驍宗は、にこりと笑んで、手を伸ばした。
「貸しなさい。鏡がなくては差しにくかろう」
断ろうとしたが、李斎としても、鏡なしで、きちんと差せる自信はなかった。それで、
身の縮む思いで、驍宗に任せた。
驍宗は首を伸ばすようにして、李斎の小さく結った髷に、その清楚な一枝を飾った。
「やっぱり、驍宗さまの勝ちでした」
泰麒が嬉しそうに李斎と驍宗を見上げる。
「そうだな」
なんのことやら分からず、ただ恐縮している李斎を促し、驍宗は吉量の手綱をとった。
大人二人がそれぞれの騎獣の手綱をとるその狭間で、人込みで迷子にならぬように、
めいめいにしっかりと手を引かれ、泰麒は午門をくぐった。
これから、首都の観光である。
聞き慣れた州師将軍の野太い声に、戴国承州の州侯は、割り当てられた宿舎の園林に
面した椅子から振り返った。秋の朝、首都鴻基はもう肌寒いくらいだが、窓は開け放し
てある。
「はて。明日の即位式の打ち合わせなら、昨日までで全て済んでおるはずだが」
「それが、なんでも冢宰から劉将軍に御用とかで」
「劉に?劉なら、この時間は厩舎におろう。…呼んできなさい」
は、と主に目線で促され、壁際に立った師帥は、扉で一礼すると駆けて行った。
将軍には使者を通すように告げておいて、州侯は首を傾けた。
一国の冢宰が、州侯の随従のひとりに、日もあろうにこの、国をあげての大礼祭前日
の朝早くから、一体、何用があるというのだろう。
「劉将軍、参りました」
扉口から明朗な女の声がした。
渋い色合いの男物の服を着け、長い赤茶の髪を後ろへと無造作に垂らした人影が、き
びきびと入室してきたのは、王宮からの使いの下官が入ってくるのと丁度前後していた。
「来たか。…御使者どの、こちらが、うちの劉将軍です。して、冢宰から劉に御用とは」
たった今まで厩舎にいたはずだが、衣服にも髪にも藁屑ひとつ付けてはいない服装端
整な女性は、冢宰から、と聞いて目を丸くした。
「はい。将軍にはご多忙とは存知ますが、州侯のお許しを願い、ただいまから御乗騎の
飛燕をともなって、禁門前へとお越し願いたいとの、口上でございます」
「いまから、禁門へ…ですか」
思わず、劉李斎は、繰り返した。そして困ったように主である、承侯を振り返った。
承侯も驚いている。
禁門とは、凌雲山中腹、王宮へと直結する、特別な者にしかその通行を許さない門だ。
勿論、たかだか州師将軍の李斎の身分で、騎獣を乗りつけてよい場所ではない。
そのまえに、と下官は恭しく手にした包みを、李斎に差し出した。
「失礼ながら、こちらにお召し替えいただきたく」
包みの上には小箱がのっている。
李斎が返答に窮しているのを見て、承侯が口を挟んだ。
「とにかく、仰るとおりに。飛燕の世話は済んでおるのだろう?なに、今日は格別用も
ない。外出を許可する。行ってきなさい」
「はい」
答えて、まだ釈然としないまま、下官から包みを受け取り、李斎は部屋に下がった。
使者も自分が難しい用を申し付けられたことは承知していたらしく、ほっと安堵した
顔になり、州侯に礼を述べると、退出した。
「ほう、これは驚いた」
着替えてきた李斎は、困ったような顔で、承州侯を見た。
「どうやら、女でなくては務まらない御用のようだな、劉よ」
いかにも愉快そうに笑んだ主を、女将軍は、どちらかといえば、恨めし気に見返した。
先刻、厩舎に呼びに来た師帥は脇で目を剥いている。
彼は、いまだかつて自分の上司が騎馬用とはいえ女物の服を着ているのを目にしたこ
とはなかったし、騎乗時に括る――これは男でもすることだ――以外、髪を結っている
様も見たことはない。
それが今は小さくながら髷を結い、銀の釵(かんざし)を差している。あの箱の中身
がこれであったのだろう。
服は決して派手ではないが、刺繍が施してあり、いつもに比べれば、格段に女らしい
色合わせだった。
「それを寄越した方は、そなたが荷に男物しか持ち合わせのないのを、ご承知だったと
みえるな」
「台輔です」
「なに」
「御用がおありなのは、きっと、台輔でいらっしゃるのでしょう。でなければ、飛燕の
名をご存知のはずがない。畏れ多いことながら、わたくしは昇山のおり、飛燕ともども
親しくしていただきましたので、おそらくお忍びのお供を仰せつかるのかと」
「なるほど。劉のような美人が、男のなりで佩刀して従ったのでは、目立ちすぎて、お
忍びにはならぬからな」
言って、承州侯は声を上げて笑った。
李斎の方は、この姿で厩舎へ行き、慶賀の品を運んできた兵たちの前を歩いて、宿舎
の門を出るのだと思うと、笑うどころではなかった。
だが、台輔のお名指しではそれも我慢せねばなるまい。李斎とて、一刻も早く、泰麒
には会いたかった。あの尊くも愛らしい小さな子供に。ただし、できたら常の服装で。
使者を送って戻ってきた将軍は、すれ違った李斎を、口を開けて見た。
李斎は、同僚を無視して口を引き結び、飛燕のところへと向かう。
「何事ですか、あれ」
件(くだん)の将軍は、入室するや、州侯に質問した。
「さてなぁ」
州侯は鬚をしごくと、複雑な笑いを洩らした。
「台輔のお供らしい。どうやら、私は、虎の子の将軍をひとり、失うことになるようだ。
覚悟をしておかねばな」
「ああ、禁軍将軍の座がひとつ空きましたからね。おそらく瑞州師将軍の誰かが抜擢さ
れるだろうとの噂です。当然、瑞州師に空席ができる。李斎殿なら、ふさわしい。でも、
お決めになるのは王でしょう?何といっても台輔はまだ、お小さいとのお話ですから」
「もちろんだ。だが、御用がおありなのは、本当に台輔だけだったのかな」
「はぁ?」
意を測りかねて将軍が聞く。それには答えず、承州侯はふふん、と笑った。
「あの釵(かんざし)、台輔のお見立てにしては、似合いすぎておらなんだか」
「釵までは見ておりません。正直、あれほどの美女だったかと驚いたもので」
「お前たちがそのようなぼんくらだから、横合いから掠め取られるんだ」
将軍は憮然と黙った。
「しかし、劉がいなくなると、うちの州師も侘しくなるな…」
風が冷たくなり、自ら窓を閉めると李斎の長年の主君は、溜息ともつかない小さな息
をもらした。
明日、元号は弘始と改まる。新しい泰王の即位式である。
禁門は、雲を貫く鴻基山の、その中腹あたりに巨大な洞窟として穿たれていた。
「李斎、李斎、李斎!」
乗騎の天馬、飛燕が、その白い翼で舞い降りるや、小さな影が、門からまろぶように
駆け出てきた。降り立った李斎は、礼をとろうとする前に、その走ってきて勢い余った
小さな身体を両手で受け止めなくてはならなかった。
「公!…いえ、台輔」
「あ、ごめんなさい」
抱きついた格好になってしまい、着膨れした子供は、ちょっと顔を赤らめて見上げた。
「ご健勝そうでなによりでございます」
李斎は微笑んだ。
腕の中の子供は、蓬山で親しんだ頃そのままに、真っ直ぐな瞳と、眩しいほどの笑顔
をしている。李斎はほっとした。別れた折りのあの表情の暗さや、怯えたような様子は
もうどこにも見られなかった。
この上なく幸せそうな泰麒は、やはり常のようにすぐに言う、
「あの、飛燕を撫でてもいいですか?」
李斎もいつものように笑んで頷いた、
「もちろんでございますとも」
飛燕、と声をかけながら、泰麒の小さな手が、天馬の黒い鼻筋や首を撫でる。飛燕は
甘えたような声を上げ、目を細めて、旧知の子供との再会を喜んだ。
「来たか」
背後から突然声をかけられ、李斎は心底仰天して、振り返った。
ただちに叩頭しようとすると、それを制する声が続けて降った、
「ああ、よい。立て。そんなところで平伏しては、せっかくの服が汚れる」
「主上」
李斎は驚きの色を隠せず、厩舎の影から突然現れた泰王を見た。とりあえず跪き拱手
する。
「傷はもうすっかりよいか」
「はい。おかげさまで。もう何ともございません」
再び立つよう促され、李斎は恐縮しながら、王を見た。昇山の折りに普段着ていたの
と、大差のない服装である。少なくとも見た目に王らしいところはどこにもない。冠も
つけておらず、以前のように、髪を後ろへ括っている。
「なんだ、佩刀してきたのか」
驍宗は笑った。女物の衣服を着けても、なお、刀を帯びていた。
李斎は困惑して、申し開いた。
「武人が、丸腰で出てくるわけには参りませんので」
驍宗は、今度は声を上げて笑った。
「なるほどな。しかし、今日は刀は無用だ。門卒(もんばん)に預けてゆけ」
言いながら、李斎に断る暇も与えず、自ら彼女の刀を取り上げた。相手が王であるの
で、反射的に拒絶しようとした動きをどうにか自分に押しとどめて、李斎は反論した。
「ですが、主上」
「その、主上、は一日禁句だぞ。三人で瑞州を巡った後、鴻基の街へ出るのだからな」
「三人?」
李斎は目を見開いた。そんなことがあってよいものだろうか。即位式を明日に控えた
一国の王と台輔が、無手の将軍と三人きりで城を出る…?
「あの、畏れながら、大僕(ごえい)の方はおられないのですか」
「おらぬ」
はぁ、と李斎は驍宗のにべもない返事に途方にくれて答えた。その袖を、小さな手が
引っ張った。
「あのね、驍宗さまは僕たちが三人だけで黄海へ、すう虞狩りへ行ったお話をなさった
の。そして黄海へさえ、三人で行ったのだから、街に三人で行くのは何でもないって、
皆を説得しておしまいになったの」
李斎は黙った。それは驍宗がまだ禁軍将軍だったときの話である。王となった今とは
状況がまるで違う。
「大丈夫なんですって。僕はあの頃と違って、危険があったら、転変して麒麟になって
逃げればいいでしょう?主上は、僕の使令が守るし、そして李斎が危ないときは、主上
が刀を持っているから、って」
それではまるで話があべこべではないか、と、李斎はせめて自分の刀を返してもらお
うとしたが、無駄であった。門卒は、よほど言い含められたとみえ、お帰りのときには
お渡しします、の一点張りであった。
「何をしている。時間がなくなってしまうぞ」
言いながら厩舎から出てきた驍宗は、計都ではなく、吉量を一騎、曳いている。
鞍を置いた馬形の騎獣の手綱をとって、驍宗は泰麒に笑んで問いかけた。
「蒿里、今日は計都ではないから、乗せてやれるぞ。飛燕とどちらがいい?」
「計都はどうしたのですか?」
「あれは気性が荒いゆえ、混雑している街中に連れるには不向きだ。第一、すう虞では
人目を引きすぎる。どうだ、私の鞍に乗るか?それとも、李斎の方がやはりいいかな」
泰麒は困ったように、二頭の騎獣を見比べた。驍宗と一緒に飛べるのは、たまらなく
嬉しい。だが、やっぱり、李斎と一緒に飛燕に乗りたい気もする。
「あのう、かわりばんこではだめですか…?」
驍宗は声を上げて笑った。
天馬の上で飛翔しながら、泰麒は、李斎に語った。
「僕、今日はじめて禁門まで降りたんです。王宮からはずいぶんと降りたし、門、って
いうから、てっきり、一番下にあるものだと思ったの。そうしたら、鴻基の街は、目が
眩んでしまうほど、ずうっと下にあるんだもんで、びっくりしてしまいました。鴻基山
が、こんなに高い山だなんて、知らなかった」
「凌雲山は、どの国の王宮、どの州の州城でもそのようでございますよ。ですから、雲
を凌ぐ山と申すのです。文字通り、王宮は、雲海の上に突き出てございますでしょう」
「はい」
「もっとも、わたくしは、他の国の王宮など存じませんし、州城も故郷の承州城以外、
知りはしないのですが」
「承州は、この瑞州よりも、北ですよね。やはり、寒いのですか」
「そうでございますね。もうじきに、初雪が降りますでしょう。出て参りましたときは、
農地はすっかり刈入れが済んでおりましたし、家畜の影ももう空からは見当たりません」
言われて、小さな瑞州侯は、自分の統べる土地を足下に見下ろす。麒麟である泰麒は、
戴国の宰輔、王の補佐役であると同時に、首都のある瑞州の州侯なのであった。
そうか、と李斎は思った。泰麒から、即位式の準備はすっかり済んでしまって、口上
もきちんと覚えてしまったから、今日は一日瑞州中を遊んで回りに連れて行って頂ける
のだそうです、と聞いたときは額面通りに受け取った。
だが、おそらく驍宗には、幼い州侯に、自分の責任ある土地を実地に見せてやりたい、
という深慮があったのだろう。
全く、と李斎は内心自分を笑う。玉座につくべく麒麟の天啓の有無――天意をはかり
に蓬山へ行った昇山者同士、禁軍と州師という歴とした身分差がありながら、まるで、
同輩か何かのように心安くして頂いた。だが、実際に王となった驍宗に比べて、自分の
器量は何と小さなことだろうか。
瑞州は首都州であるが、面積は、九つの州の中でもっとも狭い。狭いと言っても、通
常の感覚では、一日で巡れる広さではない。騎獣の中でもずば抜けて足の速い、吉量と
天馬だからこそ、まがりなりにも一周できるのだ。
「見よ、蒿里。あの峰々の向うが文州だ。これほど高い山脈で首都州と隔てられている
のは、あそこだけだ。それだけ、交流は限られ、それゆえ、目が届かず統治も難しい」
「はい」
吉量の鞍の上で、泰麒が答える。まだ傅相をつけられていない、州侯としての泰麒の
公務には、驍宗が午後の時間を割いて、側について見てくれている。
その仕事というよりは、勉強の時間を通して知ることの何倍も、こうして上空から、
実際に見て回るものは、泰麒の心にしっかりと食い込む。
麒麟の直轄領、黄領だけは、乗騎を降りて、間近にした。里盧には祝いの幡が立ち、
祝賀の雰囲気に満ちているものの、収穫半ばの麦畑は、いかにも貧相で、痩せた家畜が
閑地で草を食む。
その後、州境にそって、二騎と三人は天を駆けていた。
「蒿里。李斎は、釵(かんざし)をしておらぬな」
山脈が尽き、承州との州境が見えてきた頃、驍宗は突然訊いた。
ええ、と泰麒は答えた。
「僕も李斎に訊いてみたんです。どうしてしていないの、って」
「それで」
「李斎はちゃんと差して宿舎を出てきたんですって。でも李斎は釵をもう何年もしてい
ないから、飛燕に騎乗していると、落してしまいそうで怖くて、それで、外して懐に入
れたんだそうです。驍宗様と僕とで選んだんだって言ったら、とっても驚いて、鴻基の
街に下りたら、必ずしますから、って言ってました」
「そうか」
と、驍宗は微笑した。
女官に李斎の身長と髪の色を説明し、幾通りかの組み合せの衣服を見立てさせ、その
中から驍宗が、一番適当と思われたものを包ませた。が、最後に泰麒と相談して選んだ
釵だけは、李斎の髪には見あたらなかった。
「蒿里、それでは楽しみは鴻基まで、お預けだな」
「はい。でもきっと驍宗さまの勝ちだと思います。僕は、本当言うと、女のひとには、
誰にでもピンクが似合うんだって、ただそう思ってただけですから」
「何…が、似合うのだと?」
「ああ、ええっと…、薄桃色のこと、です」
泰麒はどうしても、ときどきこうやって、こちらの世界のひとには、耳慣れない言葉
を使ってしまうのだった。
驍宗の選んだのは白だった。銀できざみの入った葉までが細工され、その上に、三つ
小さく、五弁の花びらの白玉がついている。
すももの花だ、と驍宗は言い、李斎の字(あざな)の李というのが、すもものことを
言うのだと聞いて、泰麒は納得したのだった。
鴻基は予想以上の人出であった。おそらく、常の人口の何倍かがつめかけているので
あろう。それほど、新王の即位は待ち望まれてきたのだ。
彼らは、その人込みを見下ろしながら下降し、鴻基の午門の外に騎獣を下ろした。
飛燕の手綱をとって門に向かう前に、李斎は、驍宗に詫びた。
「わざわざお見立て下さいましたとは存知上げず、失礼を致しました」
言って、懐から袱紗(ふくさ)に挟んだ銀の釵を取り出す。
驍宗は、にこりと笑んで、手を伸ばした。
「貸しなさい。鏡がなくては差しにくかろう」
断ろうとしたが、李斎としても、鏡なしで、きちんと差せる自信はなかった。それで、
身の縮む思いで、驍宗に任せた。
驍宗は首を伸ばすようにして、李斎の小さく結った髷に、その清楚な一枝を飾った。
「やっぱり、驍宗さまの勝ちでした」
泰麒が嬉しそうに李斎と驍宗を見上げる。
「そうだな」
なんのことやら分からず、ただ恐縮している李斎を促し、驍宗は吉量の手綱をとった。
大人二人がそれぞれの騎獣の手綱をとるその狭間で、人込みで迷子にならぬように、
めいめいにしっかりと手を引かれ、泰麒は午門をくぐった。
これから、首都の観光である。
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