//出立
優しげな音が鳴っていた。
しかし其れは部屋に居るどちらの耳にも届いていない風であった。楽曲を選んだのは主であり、其れを鳴らしたのもその人であったのだけれど、音は一度室内へ放たれ空気の合間へ投げ出されると途端にただの音に成り下がっていた。つまり室内に在る二人の人間にとって楽曲は深い意味を持たないと言うことで、無音の状態を幾分緩和するだけの単なる飾りと変わりない空気の振動に立場を決められていたのだ。塩化ビニールの円盤を鉄製の針が擦る仕組みはあまりにアナログでもう此の数百年お目に掛かった記憶もない代物である。主の趣味以外の何ものでもないと思われるロストテクノロジーを敢えてこの場に持ち込み、稀少な音盤を折角鳴らしているにも拘わらず聴く者が全く別の何某かに心を奪われている現状をこの上もない贅沢と言ってしまっても構わないだろう。
主は眉間に深い皺を刻み押し黙ったまま深く何かを考え込んでいる。その傍ら、と言っても少しばかり離れた椅子に掛け思考に沈む主を見つめる今一人は少女であった。彼女の眼差しには揺れる不安がかいま見え、そうして眺めていれば主が如何なる考えに落ちているのかを察せられるとでも言いたげな一途さも孕んでいる。一分見つめていればそれだけ、二分になればより多くの兎に角瞬きすら忘れて凝眸していさえすれば何時しか主の言葉にしない全てが伝わってくると信じているかに見受けられた。
しかし少女は実のところ主が何を思い何を描いているかをほぼ知っている。知っているからこそ視線の上澄みに脆い不安が見え隠れするのである。何かを、主の意志を知りすぎているから何かを言いたいと彼女は心より望んでいる。そして彼女は自身の言葉が主に異なる道を開かぬ事も熟知している。それでも欠片ほどの思いでも構わない。たった幾つかの文字を繋いだだけの拙い言葉でも紡ぎたいと願うのだ。けれど自らの持ちうる全てを集めたとしても彼女の伝えんとする一言にはならないとも悟っている。何故なら少女が此の場に在ること自体が既に違えられぬ決め事であり、此処に彼女が在るなら道は決して異なりはしないからだ。でも主の傍らから離れるなど出来ない。また離れたいなど微塵も思いはしない。引かれた朱色の道はある一点に向けひたすらに伸びているのであった。少女は小さく首を振り不安を振り払うと同時に諦めの色を面に上らせる。スッと息を吸い込み其れを言いしれぬ思いを込めた溜息として吐き出そうとした。ところが彼女が其れを吐くより先に主が深く嘆息した。
「伯爵…?」
口元からこぼれ落ちたのは一切の意義も持たぬ主の名であった。そんなつまらぬ物しか紡げない事実に少女は顔を曇らせる。
「いや、気にする事はない。」
少女に向けられた面は笑んでいた。柔和に綻ぶ主を目にして彼女は肋骨の奥がキリ痛むのを感じる。その場を凌ぐだけの笑みではない。が、主の真なる微笑でもないから彼がそうした面相を向けるたび、少女は酷くいたたまれない心持ちになるのである。
「エデ…?」
伯爵は薄布が降りたかに彼女の面を覆う翳りに気づいた。屡々見せる表情の意味に彼が気づかない筈もないが、だからと言って其れを言及することはなく、何事もないとフルフル首を振ってみせるエデの反応を無言で受け入れ静かに頷いた。
「もう間もなく…。」
言いかけた其れを見事に遮ったのはノックもそこそこに現れたベルッチオの布令であった。
「馬車の用意が調いました。」
「うむ…。」
既に身支度は済んでいる。伯爵はすくりと立ち上がりエデに手を伸べる。
「今宵の演目はなかなかに楽しめそうだ。」
「はい…。」
小さく頷くエデの腕を取り伯爵は玄関ホールへと向かう。途中足を止めたのは何某かを思いついたから。背後に控える家礼へ声が飛ぶ。
「ベルッチオ!ブーケの手配は?」
「既に馬車に…。」
「花は何だ?」
「ブルーのムーンローズを…。」
「それは……。」
良いのか悪いのか、伯爵の口から形となって紡がれはしなかった。けれど鋭眼が緩やかに弧を描いている。其れは少なくとも悪し(あし)と見取れない。寧ろ満足気だと家礼は軽い安堵を覚えた。
「間もなく幕が開かれよう。」
正面を見据えたまま伯爵は誰にともなく発した。
「もう…ベルは止められない。」
続きこぼれ落ちた呟きを拾いエデの指先がヒクリと震える。鳴り出したベル、音もなく上がる幕が歌劇の始まりの為だけでないと彼女は知っていた。
今宵、歌劇場の虚空に禍々しくも可憐な花が舞う。其れは立ち戻る術を知らぬ道の始まり。
ー終ー
2005.3.30
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雲雀
意識は確かに現にあり、実は夜半でも夢に彷徨うなど疾うに忘れているにも拘わらず寝入ったふりをしたのは微かな気配が密やかに近づいてきたからであった。咄嗟に息までも殺し、軽く下ろした目蓋が不要な気の強張りから震えぬよう逆に意識を其処に集中までして今にも降りてくるであろう其れを待ちわびた。
「伯爵…?」
気遣うかの呼びかけが心地よい。探るように目を閉じる面を覗き込んでいるのが分かる。エデは出会った頃からこの人がまんじりともせず朝を迎えると知っているのに、それでも軽い午睡に落ちているのかと伺っているに違いない。
すっと息を吸い込む音がする。恐らく今一度同じ人の名を呼ぼうとしたのだろう。其れが決して彼の名前ではなく、単なる呼称であるのは重々理解していてもエデにとってはそれこそがこの人に向けるべき呼び名であった。しかし彼女の唇から二度目は紡がれず、ふっと小さな吐息とも思える音が零れただけだった。
待っているのに、きっと其れが触れてくる筈だと待ちわびているのに、時だけがゆるゆると過ぎていく。けれども伯爵は辛抱強く同じ姿勢を崩そうとはしない。恐らくエデが伯爵の深きを察しているのと同じくらい伯爵はエデを見つめてきて、だから彼女は間もなく彼の待つものをそっと与えてくる筈なのだ。
初めて彼女に出会った、あの雑踏の中で差し出した己の腕に応えた幼い子供特有の柔らかな温もり。流石に今はそれよりは遙かにしっかりとした形へと変わっているが、しかし表皮から伝わる彼女の体温の穏やかさは少しも違われてはいない。彼は其れこそを待っていた。
気配はすぐ傍らから離れるでもなく、さりとてそれ以上の距離を詰める予感もない。手を伸べれば届く辺りにエデは膝を付き真っ直ぐな視線で長椅子に掛ける姿を捉えている。幾分困った顔をしているかもしれない。或いは仄かな笑みを浮かべているか。目蓋を閉じている為、そうした細かな様までは判じられない。薄く開いて確かめたい衝動が肋骨の奥を悪戯に擽る。でも伯爵は胸の辺りに感じる温々した誘いを静かに仕舞い込んだ。今暫く待てば、其れは必ずやってくる。今少し、ほんの数分このままで在れば良いのだと自らを諭すかの音にならぬ呟きを転がした。
一つだけ開く窓。さり気なく引かれた薄い帳。中庭を渡り流れ込む通りの雑踏がやけに遠い。眼を閉じたのは単に帳を抜けて射し入る午後の陽射しが眩しかったからで、その時伯爵は深い思考に落ちていたわけでもなかった。視界の端に映る蒼天の鮮やかさが幾分煩わしかったのは否定できない。抜ける空の色は時として心中を無性にざわつかせる。翳りのない色は大層傲慢で、無言の糾弾を投げかけてくる錯覚を寄越す。それらがない交ぜとなり彼へと届いたから思わず双眸を閉じてしまったのである。丁度その時、扉に音がした。返事を待ち、戻らぬ事実に異変を懸念したのか怖ず怖ずと扉が開いたのを伯爵は気配で察した。室内へ入ってきた者が誰であるかも分かっていた。そして寝入った素振りを決め込んだのだ。
其れが漸く訪れたのは彼女が傍らに来てより数分の後であった。伸べた指先が顔に落ちかかる髪をわけ、次ぎに頬へ軽く触れた。待ち望んだ温もりは、だが刹那より短い間に離れていく。白い華奢な其れが己の頬にひっそりと触れる様を胸中に描き、伯爵は無意識に緩みかけた口元を引き上げた。
エデが最初にそうしたのは未だ彼女が幼子であった頃、確か屋敷に招き私室を与えた日の夜だったと思われる。一旦は潜り込んだ寝台から抜け出し、書斎の扉を力無く叩いた小さな拳を胸元に引き寄せ今にも消えそうな声音で眠れないと訴えた。
「眼を閉じていればやがて眠りが降りてくる。」
正論を向けた途端、ふるふると首を振り最前までそうしていたけれど眠れませんと呟き寄る辺ない子供は大人の次ぎを待たず『一緒に…。』と袖を引いた。断る術を持たぬ大人は仕方なしに連れ行かれる。煩わしさはなかった。ただ困惑だけが思考を支配していた。
幼い子供を如何にして寝かしつけるかなど全く知りもせず、その傍らに横になるしか出来ない大人に彼女はやはり小さな声で『何かお話を…。』と願いを発した。気の利いた童話を諳んじることも出来ず、頭に浮かんだのは遙か以前まだ大海原を行き来していた時分に聞いた他愛もない御伽噺である。しかも記憶に残るのは散らばった断片でしかない。手繰り寄せては口に乗せ、再び記憶の奥底から探し出しては語ってみた。彼女はそれでもじっと聞き入り、屡々途切れれば辛抱強く次ぎを待った。けれども中途で話の結末を失念している事実に気づく。顔には上らせず、でも内心は大いに慌てて記憶の端までも捜してみたが一向に欠片も見つからない。仕方なしに今此処で結末を仕上げるかと思いつき、出来れば幸いな終わりをと脳裡に様々を描いた。
双眸を閉じたのは無意識からで、結末を作り上げる事に夢中になった故であった。ところが下ろした目蓋がなかなか開かず、子供にしては我慢強くまっていたのだろうがとうとう待ちきれなくなったに違いない。不意に頬を柔らかな何かに撫でられぎょっとして開けた眸に映ったのは己と同じくらい仰天した小さな顔であった。
「眠ってしまったかと思った…。」
見る間に綻ぶ柔らかな頬は恥ずかしげな朱に彩られている。
「眠ってはいない。ただ…。」
「ただ…?」
「話の最後を思い出していたのだよ。」
「思い出せましたか?」
「ああ、今思い出した。」
紡ぎ出された結末は珍しくも面白くもない予定調和であったのに、子供は酷く喜んでもう一つお話をと眼を輝かせた。結局次ぎの短い寓話を最後まで聞く前に彼女からは穏やかな寝息が聞こえた。
あれから幾度となくエデは伯爵にその指先を伸べる。何時しか子供の面影も薄れ、ずっと大人びれば彼が決して泡沫に沈まぬのだと知り得てからも目蓋を閉じ椅子に掛ける姿を眼にすれば同じように触れてきたのだ。時に頬に、時に肩に、時に髪先に静かに触れては双眸が開くと変わらぬ台詞を向けてきた。
『眠ってしまわれたのかと思いました。』
今も其れは変わらぬだろう。努めてゆっくりと目蓋を上げれば少々悪戯な笑みが其処にある。
「眠ってしまわれたかと思いました…。」
緩やかな頬から顎にかかる線が更に柔らかくゆるみ、やはり彼女はそう言った。
「いや…、眠ってなどいなかった…。ただ…。」
「ただ?」
「少し陽射しが眩しかったので眼を閉じていただけのことだ。」
「今日は本当に良いお天気ですから。」
視線を窓へ遣れば相変わらずの蒼が広がり帳を揺する微風が流れた。
「…?」
エデが何かに気づく。音もなく立ち上がり窓辺へと寄った。
「何か?」
「はい、鳥の声が聞こえた気がして…。」
「町中にも鳥は居よう。」
「雲雀の声に聞こえました。」
それは無かろうと伯爵は言う。雲雀は広い草原にある鳥だと。
「でも、何処からか飛んできたのかもしれない。」
「こんな街の空へか?」
「そう…、翼があれば何処へでも行けます…。」
その時、彼女の面にかかる翳りに伯爵は確かに気づいていた。
「エデ…。」
振り返る彼女を上がる腕が招く。迷わず駆け寄る細い肩を抱き寄せると、其れは一切の抵抗もなく迎える胸へと収まった。翼が欲しいかと訊ねようとして、けれど伯爵は諦めたかの溜息だけを零し言葉を飲み込んだ。訊ねても詮無いことだと、そう思ったからに他ならない。
翼があれば思うままに羽ばたけよう。其れを重い鎖に囚われていなければ…。
ー終ー
意識は確かに現にあり、実は夜半でも夢に彷徨うなど疾うに忘れているにも拘わらず寝入ったふりをしたのは微かな気配が密やかに近づいてきたからであった。咄嗟に息までも殺し、軽く下ろした目蓋が不要な気の強張りから震えぬよう逆に意識を其処に集中までして今にも降りてくるであろう其れを待ちわびた。
「伯爵…?」
気遣うかの呼びかけが心地よい。探るように目を閉じる面を覗き込んでいるのが分かる。エデは出会った頃からこの人がまんじりともせず朝を迎えると知っているのに、それでも軽い午睡に落ちているのかと伺っているに違いない。
すっと息を吸い込む音がする。恐らく今一度同じ人の名を呼ぼうとしたのだろう。其れが決して彼の名前ではなく、単なる呼称であるのは重々理解していてもエデにとってはそれこそがこの人に向けるべき呼び名であった。しかし彼女の唇から二度目は紡がれず、ふっと小さな吐息とも思える音が零れただけだった。
待っているのに、きっと其れが触れてくる筈だと待ちわびているのに、時だけがゆるゆると過ぎていく。けれども伯爵は辛抱強く同じ姿勢を崩そうとはしない。恐らくエデが伯爵の深きを察しているのと同じくらい伯爵はエデを見つめてきて、だから彼女は間もなく彼の待つものをそっと与えてくる筈なのだ。
初めて彼女に出会った、あの雑踏の中で差し出した己の腕に応えた幼い子供特有の柔らかな温もり。流石に今はそれよりは遙かにしっかりとした形へと変わっているが、しかし表皮から伝わる彼女の体温の穏やかさは少しも違われてはいない。彼は其れこそを待っていた。
気配はすぐ傍らから離れるでもなく、さりとてそれ以上の距離を詰める予感もない。手を伸べれば届く辺りにエデは膝を付き真っ直ぐな視線で長椅子に掛ける姿を捉えている。幾分困った顔をしているかもしれない。或いは仄かな笑みを浮かべているか。目蓋を閉じている為、そうした細かな様までは判じられない。薄く開いて確かめたい衝動が肋骨の奥を悪戯に擽る。でも伯爵は胸の辺りに感じる温々した誘いを静かに仕舞い込んだ。今暫く待てば、其れは必ずやってくる。今少し、ほんの数分このままで在れば良いのだと自らを諭すかの音にならぬ呟きを転がした。
一つだけ開く窓。さり気なく引かれた薄い帳。中庭を渡り流れ込む通りの雑踏がやけに遠い。眼を閉じたのは単に帳を抜けて射し入る午後の陽射しが眩しかったからで、その時伯爵は深い思考に落ちていたわけでもなかった。視界の端に映る蒼天の鮮やかさが幾分煩わしかったのは否定できない。抜ける空の色は時として心中を無性にざわつかせる。翳りのない色は大層傲慢で、無言の糾弾を投げかけてくる錯覚を寄越す。それらがない交ぜとなり彼へと届いたから思わず双眸を閉じてしまったのである。丁度その時、扉に音がした。返事を待ち、戻らぬ事実に異変を懸念したのか怖ず怖ずと扉が開いたのを伯爵は気配で察した。室内へ入ってきた者が誰であるかも分かっていた。そして寝入った素振りを決め込んだのだ。
其れが漸く訪れたのは彼女が傍らに来てより数分の後であった。伸べた指先が顔に落ちかかる髪をわけ、次ぎに頬へ軽く触れた。待ち望んだ温もりは、だが刹那より短い間に離れていく。白い華奢な其れが己の頬にひっそりと触れる様を胸中に描き、伯爵は無意識に緩みかけた口元を引き上げた。
エデが最初にそうしたのは未だ彼女が幼子であった頃、確か屋敷に招き私室を与えた日の夜だったと思われる。一旦は潜り込んだ寝台から抜け出し、書斎の扉を力無く叩いた小さな拳を胸元に引き寄せ今にも消えそうな声音で眠れないと訴えた。
「眼を閉じていればやがて眠りが降りてくる。」
正論を向けた途端、ふるふると首を振り最前までそうしていたけれど眠れませんと呟き寄る辺ない子供は大人の次ぎを待たず『一緒に…。』と袖を引いた。断る術を持たぬ大人は仕方なしに連れ行かれる。煩わしさはなかった。ただ困惑だけが思考を支配していた。
幼い子供を如何にして寝かしつけるかなど全く知りもせず、その傍らに横になるしか出来ない大人に彼女はやはり小さな声で『何かお話を…。』と願いを発した。気の利いた童話を諳んじることも出来ず、頭に浮かんだのは遙か以前まだ大海原を行き来していた時分に聞いた他愛もない御伽噺である。しかも記憶に残るのは散らばった断片でしかない。手繰り寄せては口に乗せ、再び記憶の奥底から探し出しては語ってみた。彼女はそれでもじっと聞き入り、屡々途切れれば辛抱強く次ぎを待った。けれども中途で話の結末を失念している事実に気づく。顔には上らせず、でも内心は大いに慌てて記憶の端までも捜してみたが一向に欠片も見つからない。仕方なしに今此処で結末を仕上げるかと思いつき、出来れば幸いな終わりをと脳裡に様々を描いた。
双眸を閉じたのは無意識からで、結末を作り上げる事に夢中になった故であった。ところが下ろした目蓋がなかなか開かず、子供にしては我慢強くまっていたのだろうがとうとう待ちきれなくなったに違いない。不意に頬を柔らかな何かに撫でられぎょっとして開けた眸に映ったのは己と同じくらい仰天した小さな顔であった。
「眠ってしまったかと思った…。」
見る間に綻ぶ柔らかな頬は恥ずかしげな朱に彩られている。
「眠ってはいない。ただ…。」
「ただ…?」
「話の最後を思い出していたのだよ。」
「思い出せましたか?」
「ああ、今思い出した。」
紡ぎ出された結末は珍しくも面白くもない予定調和であったのに、子供は酷く喜んでもう一つお話をと眼を輝かせた。結局次ぎの短い寓話を最後まで聞く前に彼女からは穏やかな寝息が聞こえた。
あれから幾度となくエデは伯爵にその指先を伸べる。何時しか子供の面影も薄れ、ずっと大人びれば彼が決して泡沫に沈まぬのだと知り得てからも目蓋を閉じ椅子に掛ける姿を眼にすれば同じように触れてきたのだ。時に頬に、時に肩に、時に髪先に静かに触れては双眸が開くと変わらぬ台詞を向けてきた。
『眠ってしまわれたのかと思いました。』
今も其れは変わらぬだろう。努めてゆっくりと目蓋を上げれば少々悪戯な笑みが其処にある。
「眠ってしまわれたかと思いました…。」
緩やかな頬から顎にかかる線が更に柔らかくゆるみ、やはり彼女はそう言った。
「いや…、眠ってなどいなかった…。ただ…。」
「ただ?」
「少し陽射しが眩しかったので眼を閉じていただけのことだ。」
「今日は本当に良いお天気ですから。」
視線を窓へ遣れば相変わらずの蒼が広がり帳を揺する微風が流れた。
「…?」
エデが何かに気づく。音もなく立ち上がり窓辺へと寄った。
「何か?」
「はい、鳥の声が聞こえた気がして…。」
「町中にも鳥は居よう。」
「雲雀の声に聞こえました。」
それは無かろうと伯爵は言う。雲雀は広い草原にある鳥だと。
「でも、何処からか飛んできたのかもしれない。」
「こんな街の空へか?」
「そう…、翼があれば何処へでも行けます…。」
その時、彼女の面にかかる翳りに伯爵は確かに気づいていた。
「エデ…。」
振り返る彼女を上がる腕が招く。迷わず駆け寄る細い肩を抱き寄せると、其れは一切の抵抗もなく迎える胸へと収まった。翼が欲しいかと訊ねようとして、けれど伯爵は諦めたかの溜息だけを零し言葉を飲み込んだ。訊ねても詮無いことだと、そう思ったからに他ならない。
翼があれば思うままに羽ばたけよう。其れを重い鎖に囚われていなければ…。
ー終ー
(バティスタンが入りたてで、復讐準備時代の伯爵家というあたりで)
見上げれば、夜空。
瞬く星たちの美しさよ。
夜闇を冴え冴えと、しかし柔らかく彩っている。
■na:永い抱擁
ファラオン号は、常に主人の計画と気紛れの為に動く。昔は前者の方に重点が置かれていたが、幼き姫君が家族になってからは後者も入り混じり半々と言った感じになってきた。今回の惑星マケドニアでの小休止もそんな気紛れから来ている。おまけに、夜の散策など気紛れを通り越して、船に長時間拘束されている幼き姫君への配慮だと露骨に解るあたり苦笑ものだ。何であれ子供が入ると組織の色は変わる。
そしてその一面を伯爵は愛おしく思っているようだ。本人は認めたがらないだろうが。
「さびぃ…恐ろしい寒さだぜオイ…。」
船から出た途端、体を抱えてチンピラの雰囲気丸出しでバティスタンが愚痴っぽく呟いた。確かに寒いが、古参の自分としては慣れっこなものなので、ベルッチオは相変わらず寡黙に佇んでいる。てっきり同感を得られると思っていたらしいバティスタンは、少しショックなようだった。その後ろから出てきた伯爵は、新人従者の姿を暫し眺めてから、さも今気付いたかのように、
「腹を剥き出しにしているからな。」
などとぼやくものだからバティスタンは恨めしそうに呻いた。
「オォォオオオオオ…!!そんな制服にしたのは誰ですかい伯爵様!?」
「似合っているぞ、バティスタン。」
だがそんな吠えなど怖くも何ともないらしく、適当にあしらい嫌味とも取れる微笑をすると、伯爵はゆっくりと草原を歩き出す。風が舞った、バティスタンはまた呻いて縮こまっているが主人は緩く髪がなびくだけで少しも怯みはしなかった。光を持たずに、まっすぐ歩く姿は美しい。と同時に、どこか今にも遠くへ行ってしまいそうな儚さも混在していた。
「伯爵っ…。」
アリに手を引かれながら現れた姫君は、小さく主人の呼称を呼ぶと、彼から古代東洋の赴きがある蛍灯ランタンを受け取り、ぱたぱたとその後を追いかけた。
「あっ、ひぃさま!」
バティスタンが慌てて呼び止めるが、振り返りもせずに。
「……ああぁ…もう、どこもかしこも寒ィ…。」
「お前の周囲だけだ。」
「嗚呼…兄貴までが俺に冷たい…。」
愚痴愚痴なバティスタンに、ベルッチオ以上に寡黙な従者がそっとホットドリンクを差し出した。
「おー…悪ィなアリ…。」
どこから出したんだろうな、などと少し不思議に思ったが、言わない方が良い事もあるのだろう。
「うぇ、ぬるぅ…。」
駄々ばかりこねるバティスタンに、ベルッチオは苦笑するしかなかった。
「伯爵!」
後ろから聞こえたその声に、男はゆるりと振り返る。
「エデ…。」
彼の声は本当に夜闇がよく似合う。呟くように名前を呼ばれた姫君は何となく嬉しくなった。
ようやく追いついて、少しばかり乱れた呼吸を整えた後、まっすぐに相手を見上げて言う。
「どうか貴方の傍らで、星々を眺めさせて下さいませ。」
「ベルッチオ達の所でなくて…寒くはないか?」
「大丈夫です。お心遣い、ありがとうございます。」
そうして蛍灯ランタンの蓋を開く。すると蛍がふわりと、まるで舞うように籠から外へ飛んでゆく。
ふわり、ふわりと。
二人でその淡い光りに暫し見とれていたが、やがて二人で空を見上げる。
嗚呼、限りない夜空だ。
月は幾層にも折り重なった闇絹と瞬く星々の海に、凛として佇んでいる。
「ああ…何という美しさであることでしょう。」
エデはほぅと溜息をついた。伯爵はそんな彼女を微笑んで見つめる。
「お前は空が好きなのか?」
「ええ、悠久の優しさを感じます。わたくし、地上から宇宙を眺める事がとても好きなのです。」
ランタンを地に置き、両手を広げて夜空を仰ぐ。
「前後左右の無い宇宙の中と違い。地に足をつけ、風に髪をまかせ、空を見上げる事と体が震えるのです。わたくしの迷いや想いは勿論、全ての無常を静かに見つめて、受け入れてくれているようで。」
そうして笑って言うのだ。
「ここからだと、空は大地と私達を優しく抱いてくれているようで。」
この子は詩人だな、そう伯爵は思った。少なくとも自分にそんな感性は無い。
空は確か美しかった、だからエデに夜空を見せようと思う。
そこで思考は停まってしまう。
嗚呼、随分凍てついてしまったものだ…自分は。
「…可笑しいと、お笑いになりますか?」
「いいや。」
主人は緩やかに首を振る。
「確かに宇宙から宇宙を見ても、永遠の闇しか見えないだろうからな。」
その言葉にエデは少し脅えた。伯爵の暗い過去に多少なりとも踏み込む無礼を働いたのかと恐怖して。だが伯爵はそういう意図は無いらしく、ただ優しく微笑んで繋げるのだ。
「お前のような者が居て始めて、宇宙は夜空になれるのだろう。全てを優しく抱ける存在に。」
ただそれだけになれれば、どんなに幸せなことだろう。夜闇を纏う男は、そんな風に呟いて。いつも、願うのに想うだけで、自分はその場に居ないような顔をして言葉を紡いで。それがとても悲しくて、悲しくてしょうがなくて。
ここに自分が居ることを思い出して欲しいと想ったのか、彼女自身も解らぬまま主人の腕を掴む。伯爵は少しばかり驚いたようだが、やがて穏やかに苦笑して、腕を開き彼女を迎え入れた。そして緩く抱きしめる。
「寒いのか?」
「いいえ。」
「…私はお前が想う夜空になどなれない。」
「解っております。」
貴方はお優しい方なのですから。
それにそんな事を望んでなどいない。これ以上遠い存在になって欲しくなんかない。
エデを抱き留める力強い腕、生きている証である鼓動。それなのに冷たい体。もう彼は人では無いのだ、出会った時からそうだった。こんなにも心は自分達と同じ、人間の一員であるのに。
誰が彼をこんな残酷な淵に立たせたのだろう?
…違う。
過程がどんなであれ、今、この体も運命も選んだのは、伯爵自身なのだ。
巌窟王など存在しなければ無かった道だと言っても、それを選んだのは、間違いなく彼なのだ。
エデはそこまで考えて、悲しそうに微笑み、目を閉じて身を委ねる。
瞬き溢れだす感情が抑えられなくて、けれど上手く言葉に出来なくて、ただただ切なかった。
常に終焉を見続け、闇の中でしか生きられないと自ら定めた哀しい貴方。
ね、どうか許される限りは抱きしめてください。
それだけで、わたくしは微笑んでいられるのですから。
19/06/2007.makure
10.待て、しかして希望せよ
一緒に生きてゆきましょうと、わたくしが言うのは過ぎたことですか?
死が全ての赦しだなんて、何て寂しいものだろうとは想いませんか?
あなたがどうして孤独でしょうか?
もう少し、あなたのまわりを見てくださいませ。
アリがおります。ベルッチオがおります。バティスタンがおります。
わたくしがいつでも あなたの傍にいます。
わたくしには、祈ることしかできません。待つことしかできません。
ですが、それと一緒に、希望を持つことにしているのです。
どんな絶望に遭っても、希望を忘れてはならないと仰ったあなた。
でしたら、この、どうしようもない大きな流れの暗い絶望の中で、
あなたが何ものにも苦しめられる事無く、笑っていられれば良いなどと
滑稽な希望を持つことでも おかしくは ないでしょう?
その時は わたくしもお傍に居させて下さい。それだけが願いです。
また 復讐の果てに何も残らなくなっても あなたの隣に留まらせて下さい。
わたくしの希望や 幸せは いつも あなたと共にあるのですから。
待て しかして希望せよ
伯爵、わたくしの大切な義父上であり、主人であり、同士であるあなた。
そして誰よりも何よりも愛しく思えるあなた。あなただけが、わたくしの全てなのです。
一緒に生きてゆきましょうと、わたくしが言うのは過ぎたことですか?
死が全ての赦しだなんて、何て寂しいものだろうとは想いませんか?
あなたがどうして孤独でしょうか?
もう少し、あなたのまわりを見てくださいませ。
アリがおります。ベルッチオがおります。バティスタンがおります。
わたくしがいつでも あなたの傍にいます。
わたくしには、祈ることしかできません。待つことしかできません。
ですが、それと一緒に、希望を持つことにしているのです。
どんな絶望に遭っても、希望を忘れてはならないと仰ったあなた。
でしたら、この、どうしようもない大きな流れの暗い絶望の中で、
あなたが何ものにも苦しめられる事無く、笑っていられれば良いなどと
滑稽な希望を持つことでも おかしくは ないでしょう?
その時は わたくしもお傍に居させて下さい。それだけが願いです。
また 復讐の果てに何も残らなくなっても あなたの隣に留まらせて下さい。
わたくしの希望や 幸せは いつも あなたと共にあるのですから。
待て しかして希望せよ
伯爵、わたくしの大切な義父上であり、主人であり、同士であるあなた。
そして誰よりも何よりも愛しく思えるあなた。あなただけが、わたくしの全てなのです。
7.生きていてもいいですか?
(24幕以降&アルベールが出張っています(苦笑))
(本人伯エデのつもりでしたがアルエデでも通りそうです(殴)伯&アルもあります。嫌な方は御注意を)
船を下り、始めて踏むジャニナの地、第一印象は湿度が高いということだった。今は慣れたが、最初はまるで空気がまとわりついてくるようでグッと来た。ホテルの手続きやこれからのスケジュールを整理していると、バティスタンが迎えに来た。5年経ったというのに彼は全然変わらなかった。でも相手は僕の成長っぷりに驚いたらしく、暫く馬鹿みたいな顔をして僕をじろじろ眺めていた。挙句「人も化けるもんだなぁ…」と来た。やっぱり、全然、変わっていない。僕は吹いてしまった。
「さ、ひぃ様も待ってる。とっとと行ってやろうぜ。」
僕もやっとの思いで捻出した二時間だ。彼の言葉に頷くと、用意された馬車に乗せて貰った。
「どうでした?パリからジャニナまではえらく時間がかかったでしょう。」
「ああ、寝てたよ。懐かしい夢を見た。」
あの人と星の海を旅した、僅かだったけれどとても幸せだった時の話…。
*
伯爵と二人で、深宇宙の旅に出たときの思い出。
彼が貸してくれた室内着は、東方宇宙を思わせるだぼっとしたものだった。最初は伯爵とお揃いという嬉しさだけだったが、ふと、エデの服と同じデザインだと閃いて伯爵に進言した。
望遠鏡を覗いていた伯爵はこちらを振り向き、『御名答、これはジャニナの民族衣装なのですよ』と答えてくれた。僕はなぞなぞが解けた子供のように楽しがって、伯爵はそんな僕をじっと眺めていたような気がする。同じ家に居る者同士が同じ服を着るのは珍しい事ではないけれど、伯爵やエデと同じデザインってだけで、僕はまるで家族の一員になれたように嬉しかった。自分の置かれている状況から逃げたいこともあいまって、浮かれていたんだ。
「そういえば御存知でしたか?この前のゴシップ記事、伯爵とエデさんが一面に載っていましたよ!」
確か新聞に踊っていた文字は『恋人!?愛人!?伯爵は異星の美女にご執心!?』だったか。オペラに来た二人を取り上げた記事だった。伯爵は今やパリ社交界の華だし、そこに神秘的な美女が来れば、騒がれない方が可笑しいというわけだ。
「実に興味深い。」
低く笑いながら伯爵は言う。絶対リップサービスだろうなぁと思いながらも僕は合わせて笑った。だから、伯爵が冷たい声で次の台詞を口にした途端、僕は笑顔のまま固まってしまった。
「あの娘は絶望という名の鎖をまとって生きてゆく哀れな人形。」
驚いてしまって声が出ない。伯爵は闇色のそらを遠く見ながら、誰に向けるでもなく続けた。今の伯爵に僕は映っていない。伯爵は違う場所に居る、どこか…深い闇に居る。
「篭の中で純白の翼を広げることを忘れ、闇の底で瞳は光を映すことすら忘れた……呪われた私の愛し子。」
思わず震え上がらずにはいられない伯爵の声。でも何故だか伯爵の方が震えている気がして、聞いていると切なくなった。
「傍に在りたいのなら好きにするが良い。だが、私と共に歩んだところで、幸せなどあるものか…。」
「……伯爵?」
やっとの思いで言葉を搾り出すと、伯爵はゆっくりと視点を僕に合わせ、困ったように微笑む。その表情はどういう言葉を並べてもうまく伝えられないが、名残惜しい、というのが一番あっているのだろうか。
「…もう終わりを迎えるのですよ、何もかも。」
伯爵のこういう言葉を聞くたびに、情けないながらも涙が出てきそうになる。伯爵は「これはこれは、悲しませてしまいましたか」と宥めながら、不思議な、双方違う色彩をした目でまっすぐに僕を見る。
「………アルベール。あなたを見込んで、一つお願いをしても良いですか?」
お願いをされることはこれでたったの二度目。僕は何を言われるのだろうと、咄嗟に身構えた…。
*
「お久しぶりです。アルベールさん。随分立派になられましたね。」
そう言って彼女は微笑んだ。随分立派と言われても、エデさんには敵いませんよと、お世辞じゃなくてそう言った。エデは王家の娘として、19で女王となり、このジャニナの平和を伯爵家の皆と共に守ってゆく立場にあるのだ。これは大変なことだと思う。でも、彼女なら出来ると不思議と思った。
異文化の客間、昔見た、エデの部屋がまんま大きくなったような空間に、僕とエデで二人。昔と違うのは、見える景色が偽りの海と空から、ジャニナの青い空と町並みになったことだった。他愛無い近況の話はすぐに尽き、話題はやっぱり…伯爵のことになる。
「何も解らぬまま、必死に生きてきました。外の世界はただ眩しかった…。」
伯爵と別れてからの人生を想っているのだろう、エデは悲しそうに微笑んだ。僕は黙って聞き手に回る。
「あの方の本当の名を胸に、生き続けることが今の私の支え…なのに…不思議ですね。」
エデの声は悲しげに震えていた。懐かしさは思い出に色を着け、抑えていた気持ちが揺れているのだろう。
「あの人を信じて生きるのは昔と一緒なのに…あの方がこの世に居ないというだけでこんなに苦しくて…」
…ひょっとしたら船の中で見たあの夢は、心配性で世話好きな伯爵が、約束の再確認をさせたくて僕を導いたのかもしれない。
彼女は涙を流さず泣いていた。僕は夢で再び出会えた、思い出の中に在る伯爵の言葉を思い出す。
『もしエデが、私を想って泣いていて…その時、私が傍にいてやれなかったら…。』
「笑ってください、心が弱くなると、今でもあの人の傍に行こうと考えてしまうわたくしを…」
「それは悪い事ではありませんよ…でも、エデさん。貴女は、」
僕はエデの手をそっと取り、切ない気持ちを含んだままでも構わないから、子供の時みたいに屈託なくできなくてもいいから笑った。
「生きていてください。笑って生きて、幸せになって下さい。」
嫌がることも微笑むこともせず、彼女はただ驚いているようだった。黙って、僕の言葉を聞いている。
「伯爵はきっと、誰よりも、あなたの幸せを喜び、祝福してくれる筈です。絶対に!」
『貴方がその場所で想った事を、そのまま彼女に伝えて下さい。』
エデはぼんやりとして、悲しげな顔に照れのような顔を浮かべて、小さく尋ねてきた。
「わたくし…頑張っていますか?」
「ええ、頑張っていますよ。こちらが驚くくらい、頑張っています。」
クス、と笑う。その笑顔は少女の頃のエデと全く変わらない微笑で、やっと昔のエデと会えた気がした。
「褒めてもらえるでしょうか?えらいでしょうか?」
「ええ!パリやジャニナをどんなに探しても、貴女ほど気高く生きている女性なんかいません!」
勢い込んで答える。エデは薄く微笑み、美しい顔で泣きそうになりながら、僕の手を握り返した。
「本当に不思議です。貴方の言葉…まるで伯爵が傍で仰ってくださっているみたいです。」
「エデさん…。」
「ごめんなさいアルベールさん。少し…伯爵を想って泣いても良いですか?」
『私と貴方はよく似ている。貴方が感じた事そのものが、恐らくは…』
「…それこそ何で我慢する必要がありますか?」
『その場で私がエデに…最も伝えたいことでしょうから。』
「貴女の素直な心そのものが、伯爵への鎮魂歌であり、幸せである。僕はそう思うんです。」
ありがとう、と聞き取れるか聞き取れないかの感謝の言葉を言うと、エデは小さく声を上げ、やがてわっと泣き出した。
アルベールは誰よりもこの気位の高い、女神のような姫君を本当に愛しく思った。恋慕とは違う、もっと純粋で透明な、そんな愛しさを。慈愛と敬愛の念で微笑んで、そしてゆっくりと目を伏せる。彼のその姿と横顔は、まるで若き日のエドモン・ダンテスのようだった。
罪を受け入れ堕ちて逝く彼が望んだ、“罪無き愛し子等に光ある未来を”という願いは、長い時を経てゆっくりと形作られてゆく。
傷つき壊れたものが再生し穏やかに花開く。未来は決して暗闇に包まれたものではない。アルベールはそう信じている。
あの日、あの時…広い宇宙に抱かれながら伯爵が言った言葉は…裏切りの果実であったにも関わらず、自分を認めてくれたが故の遺言だったのだろう。当時は全く解らなかったが、今はそれが誇らしかった。伯爵はどんなに痛いことになっても、エデを本当に愛していたのだろう。その少女への想いを、自分を信じて任せてくれたことが嬉しかった。
今でも、彼が生きていたらと、美しくもありえない幻想を抱くことがある。けれど、叶わない過去への羨望に縛られるより、彼が導いてくれたこの未来を生きよう。エデはエデの道を、自分は自分の道を。
エデとアルベールは目を見合わせ、同士とでもいったように微笑み、そして祈った。
伯爵――…貴方の名前を胸に抱きながら、生き続けます。
エドモン。貴方に逢えたことを、本当に幸せに想います。と。
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伯エデとして周りを斬り捨てて考えるより、誰かが絡んでいる方が、実は好きです。
参考巌窟王がアニメ&小説&漫画と多岐に渡っててごめんなさい。ベースは…小説?
アルベールはもう一緒に泣かないで、見守ってあげられるくらい強い子になってて欲しいです。
…泣くなって言ってるわけじゃなくてね。