雲雀
意識は確かに現にあり、実は夜半でも夢に彷徨うなど疾うに忘れているにも拘わらず寝入ったふりをしたのは微かな気配が密やかに近づいてきたからであった。咄嗟に息までも殺し、軽く下ろした目蓋が不要な気の強張りから震えぬよう逆に意識を其処に集中までして今にも降りてくるであろう其れを待ちわびた。
「伯爵…?」
気遣うかの呼びかけが心地よい。探るように目を閉じる面を覗き込んでいるのが分かる。エデは出会った頃からこの人がまんじりともせず朝を迎えると知っているのに、それでも軽い午睡に落ちているのかと伺っているに違いない。
すっと息を吸い込む音がする。恐らく今一度同じ人の名を呼ぼうとしたのだろう。其れが決して彼の名前ではなく、単なる呼称であるのは重々理解していてもエデにとってはそれこそがこの人に向けるべき呼び名であった。しかし彼女の唇から二度目は紡がれず、ふっと小さな吐息とも思える音が零れただけだった。
待っているのに、きっと其れが触れてくる筈だと待ちわびているのに、時だけがゆるゆると過ぎていく。けれども伯爵は辛抱強く同じ姿勢を崩そうとはしない。恐らくエデが伯爵の深きを察しているのと同じくらい伯爵はエデを見つめてきて、だから彼女は間もなく彼の待つものをそっと与えてくる筈なのだ。
初めて彼女に出会った、あの雑踏の中で差し出した己の腕に応えた幼い子供特有の柔らかな温もり。流石に今はそれよりは遙かにしっかりとした形へと変わっているが、しかし表皮から伝わる彼女の体温の穏やかさは少しも違われてはいない。彼は其れこそを待っていた。
気配はすぐ傍らから離れるでもなく、さりとてそれ以上の距離を詰める予感もない。手を伸べれば届く辺りにエデは膝を付き真っ直ぐな視線で長椅子に掛ける姿を捉えている。幾分困った顔をしているかもしれない。或いは仄かな笑みを浮かべているか。目蓋を閉じている為、そうした細かな様までは判じられない。薄く開いて確かめたい衝動が肋骨の奥を悪戯に擽る。でも伯爵は胸の辺りに感じる温々した誘いを静かに仕舞い込んだ。今暫く待てば、其れは必ずやってくる。今少し、ほんの数分このままで在れば良いのだと自らを諭すかの音にならぬ呟きを転がした。
一つだけ開く窓。さり気なく引かれた薄い帳。中庭を渡り流れ込む通りの雑踏がやけに遠い。眼を閉じたのは単に帳を抜けて射し入る午後の陽射しが眩しかったからで、その時伯爵は深い思考に落ちていたわけでもなかった。視界の端に映る蒼天の鮮やかさが幾分煩わしかったのは否定できない。抜ける空の色は時として心中を無性にざわつかせる。翳りのない色は大層傲慢で、無言の糾弾を投げかけてくる錯覚を寄越す。それらがない交ぜとなり彼へと届いたから思わず双眸を閉じてしまったのである。丁度その時、扉に音がした。返事を待ち、戻らぬ事実に異変を懸念したのか怖ず怖ずと扉が開いたのを伯爵は気配で察した。室内へ入ってきた者が誰であるかも分かっていた。そして寝入った素振りを決め込んだのだ。
其れが漸く訪れたのは彼女が傍らに来てより数分の後であった。伸べた指先が顔に落ちかかる髪をわけ、次ぎに頬へ軽く触れた。待ち望んだ温もりは、だが刹那より短い間に離れていく。白い華奢な其れが己の頬にひっそりと触れる様を胸中に描き、伯爵は無意識に緩みかけた口元を引き上げた。
エデが最初にそうしたのは未だ彼女が幼子であった頃、確か屋敷に招き私室を与えた日の夜だったと思われる。一旦は潜り込んだ寝台から抜け出し、書斎の扉を力無く叩いた小さな拳を胸元に引き寄せ今にも消えそうな声音で眠れないと訴えた。
「眼を閉じていればやがて眠りが降りてくる。」
正論を向けた途端、ふるふると首を振り最前までそうしていたけれど眠れませんと呟き寄る辺ない子供は大人の次ぎを待たず『一緒に…。』と袖を引いた。断る術を持たぬ大人は仕方なしに連れ行かれる。煩わしさはなかった。ただ困惑だけが思考を支配していた。
幼い子供を如何にして寝かしつけるかなど全く知りもせず、その傍らに横になるしか出来ない大人に彼女はやはり小さな声で『何かお話を…。』と願いを発した。気の利いた童話を諳んじることも出来ず、頭に浮かんだのは遙か以前まだ大海原を行き来していた時分に聞いた他愛もない御伽噺である。しかも記憶に残るのは散らばった断片でしかない。手繰り寄せては口に乗せ、再び記憶の奥底から探し出しては語ってみた。彼女はそれでもじっと聞き入り、屡々途切れれば辛抱強く次ぎを待った。けれども中途で話の結末を失念している事実に気づく。顔には上らせず、でも内心は大いに慌てて記憶の端までも捜してみたが一向に欠片も見つからない。仕方なしに今此処で結末を仕上げるかと思いつき、出来れば幸いな終わりをと脳裡に様々を描いた。
双眸を閉じたのは無意識からで、結末を作り上げる事に夢中になった故であった。ところが下ろした目蓋がなかなか開かず、子供にしては我慢強くまっていたのだろうがとうとう待ちきれなくなったに違いない。不意に頬を柔らかな何かに撫でられぎょっとして開けた眸に映ったのは己と同じくらい仰天した小さな顔であった。
「眠ってしまったかと思った…。」
見る間に綻ぶ柔らかな頬は恥ずかしげな朱に彩られている。
「眠ってはいない。ただ…。」
「ただ…?」
「話の最後を思い出していたのだよ。」
「思い出せましたか?」
「ああ、今思い出した。」
紡ぎ出された結末は珍しくも面白くもない予定調和であったのに、子供は酷く喜んでもう一つお話をと眼を輝かせた。結局次ぎの短い寓話を最後まで聞く前に彼女からは穏やかな寝息が聞こえた。
あれから幾度となくエデは伯爵にその指先を伸べる。何時しか子供の面影も薄れ、ずっと大人びれば彼が決して泡沫に沈まぬのだと知り得てからも目蓋を閉じ椅子に掛ける姿を眼にすれば同じように触れてきたのだ。時に頬に、時に肩に、時に髪先に静かに触れては双眸が開くと変わらぬ台詞を向けてきた。
『眠ってしまわれたのかと思いました。』
今も其れは変わらぬだろう。努めてゆっくりと目蓋を上げれば少々悪戯な笑みが其処にある。
「眠ってしまわれたかと思いました…。」
緩やかな頬から顎にかかる線が更に柔らかくゆるみ、やはり彼女はそう言った。
「いや…、眠ってなどいなかった…。ただ…。」
「ただ?」
「少し陽射しが眩しかったので眼を閉じていただけのことだ。」
「今日は本当に良いお天気ですから。」
視線を窓へ遣れば相変わらずの蒼が広がり帳を揺する微風が流れた。
「…?」
エデが何かに気づく。音もなく立ち上がり窓辺へと寄った。
「何か?」
「はい、鳥の声が聞こえた気がして…。」
「町中にも鳥は居よう。」
「雲雀の声に聞こえました。」
それは無かろうと伯爵は言う。雲雀は広い草原にある鳥だと。
「でも、何処からか飛んできたのかもしれない。」
「こんな街の空へか?」
「そう…、翼があれば何処へでも行けます…。」
その時、彼女の面にかかる翳りに伯爵は確かに気づいていた。
「エデ…。」
振り返る彼女を上がる腕が招く。迷わず駆け寄る細い肩を抱き寄せると、其れは一切の抵抗もなく迎える胸へと収まった。翼が欲しいかと訊ねようとして、けれど伯爵は諦めたかの溜息だけを零し言葉を飲み込んだ。訊ねても詮無いことだと、そう思ったからに他ならない。
翼があれば思うままに羽ばたけよう。其れを重い鎖に囚われていなければ…。
ー終ー
意識は確かに現にあり、実は夜半でも夢に彷徨うなど疾うに忘れているにも拘わらず寝入ったふりをしたのは微かな気配が密やかに近づいてきたからであった。咄嗟に息までも殺し、軽く下ろした目蓋が不要な気の強張りから震えぬよう逆に意識を其処に集中までして今にも降りてくるであろう其れを待ちわびた。
「伯爵…?」
気遣うかの呼びかけが心地よい。探るように目を閉じる面を覗き込んでいるのが分かる。エデは出会った頃からこの人がまんじりともせず朝を迎えると知っているのに、それでも軽い午睡に落ちているのかと伺っているに違いない。
すっと息を吸い込む音がする。恐らく今一度同じ人の名を呼ぼうとしたのだろう。其れが決して彼の名前ではなく、単なる呼称であるのは重々理解していてもエデにとってはそれこそがこの人に向けるべき呼び名であった。しかし彼女の唇から二度目は紡がれず、ふっと小さな吐息とも思える音が零れただけだった。
待っているのに、きっと其れが触れてくる筈だと待ちわびているのに、時だけがゆるゆると過ぎていく。けれども伯爵は辛抱強く同じ姿勢を崩そうとはしない。恐らくエデが伯爵の深きを察しているのと同じくらい伯爵はエデを見つめてきて、だから彼女は間もなく彼の待つものをそっと与えてくる筈なのだ。
初めて彼女に出会った、あの雑踏の中で差し出した己の腕に応えた幼い子供特有の柔らかな温もり。流石に今はそれよりは遙かにしっかりとした形へと変わっているが、しかし表皮から伝わる彼女の体温の穏やかさは少しも違われてはいない。彼は其れこそを待っていた。
気配はすぐ傍らから離れるでもなく、さりとてそれ以上の距離を詰める予感もない。手を伸べれば届く辺りにエデは膝を付き真っ直ぐな視線で長椅子に掛ける姿を捉えている。幾分困った顔をしているかもしれない。或いは仄かな笑みを浮かべているか。目蓋を閉じている為、そうした細かな様までは判じられない。薄く開いて確かめたい衝動が肋骨の奥を悪戯に擽る。でも伯爵は胸の辺りに感じる温々した誘いを静かに仕舞い込んだ。今暫く待てば、其れは必ずやってくる。今少し、ほんの数分このままで在れば良いのだと自らを諭すかの音にならぬ呟きを転がした。
一つだけ開く窓。さり気なく引かれた薄い帳。中庭を渡り流れ込む通りの雑踏がやけに遠い。眼を閉じたのは単に帳を抜けて射し入る午後の陽射しが眩しかったからで、その時伯爵は深い思考に落ちていたわけでもなかった。視界の端に映る蒼天の鮮やかさが幾分煩わしかったのは否定できない。抜ける空の色は時として心中を無性にざわつかせる。翳りのない色は大層傲慢で、無言の糾弾を投げかけてくる錯覚を寄越す。それらがない交ぜとなり彼へと届いたから思わず双眸を閉じてしまったのである。丁度その時、扉に音がした。返事を待ち、戻らぬ事実に異変を懸念したのか怖ず怖ずと扉が開いたのを伯爵は気配で察した。室内へ入ってきた者が誰であるかも分かっていた。そして寝入った素振りを決め込んだのだ。
其れが漸く訪れたのは彼女が傍らに来てより数分の後であった。伸べた指先が顔に落ちかかる髪をわけ、次ぎに頬へ軽く触れた。待ち望んだ温もりは、だが刹那より短い間に離れていく。白い華奢な其れが己の頬にひっそりと触れる様を胸中に描き、伯爵は無意識に緩みかけた口元を引き上げた。
エデが最初にそうしたのは未だ彼女が幼子であった頃、確か屋敷に招き私室を与えた日の夜だったと思われる。一旦は潜り込んだ寝台から抜け出し、書斎の扉を力無く叩いた小さな拳を胸元に引き寄せ今にも消えそうな声音で眠れないと訴えた。
「眼を閉じていればやがて眠りが降りてくる。」
正論を向けた途端、ふるふると首を振り最前までそうしていたけれど眠れませんと呟き寄る辺ない子供は大人の次ぎを待たず『一緒に…。』と袖を引いた。断る術を持たぬ大人は仕方なしに連れ行かれる。煩わしさはなかった。ただ困惑だけが思考を支配していた。
幼い子供を如何にして寝かしつけるかなど全く知りもせず、その傍らに横になるしか出来ない大人に彼女はやはり小さな声で『何かお話を…。』と願いを発した。気の利いた童話を諳んじることも出来ず、頭に浮かんだのは遙か以前まだ大海原を行き来していた時分に聞いた他愛もない御伽噺である。しかも記憶に残るのは散らばった断片でしかない。手繰り寄せては口に乗せ、再び記憶の奥底から探し出しては語ってみた。彼女はそれでもじっと聞き入り、屡々途切れれば辛抱強く次ぎを待った。けれども中途で話の結末を失念している事実に気づく。顔には上らせず、でも内心は大いに慌てて記憶の端までも捜してみたが一向に欠片も見つからない。仕方なしに今此処で結末を仕上げるかと思いつき、出来れば幸いな終わりをと脳裡に様々を描いた。
双眸を閉じたのは無意識からで、結末を作り上げる事に夢中になった故であった。ところが下ろした目蓋がなかなか開かず、子供にしては我慢強くまっていたのだろうがとうとう待ちきれなくなったに違いない。不意に頬を柔らかな何かに撫でられぎょっとして開けた眸に映ったのは己と同じくらい仰天した小さな顔であった。
「眠ってしまったかと思った…。」
見る間に綻ぶ柔らかな頬は恥ずかしげな朱に彩られている。
「眠ってはいない。ただ…。」
「ただ…?」
「話の最後を思い出していたのだよ。」
「思い出せましたか?」
「ああ、今思い出した。」
紡ぎ出された結末は珍しくも面白くもない予定調和であったのに、子供は酷く喜んでもう一つお話をと眼を輝かせた。結局次ぎの短い寓話を最後まで聞く前に彼女からは穏やかな寝息が聞こえた。
あれから幾度となくエデは伯爵にその指先を伸べる。何時しか子供の面影も薄れ、ずっと大人びれば彼が決して泡沫に沈まぬのだと知り得てからも目蓋を閉じ椅子に掛ける姿を眼にすれば同じように触れてきたのだ。時に頬に、時に肩に、時に髪先に静かに触れては双眸が開くと変わらぬ台詞を向けてきた。
『眠ってしまわれたのかと思いました。』
今も其れは変わらぬだろう。努めてゆっくりと目蓋を上げれば少々悪戯な笑みが其処にある。
「眠ってしまわれたかと思いました…。」
緩やかな頬から顎にかかる線が更に柔らかくゆるみ、やはり彼女はそう言った。
「いや…、眠ってなどいなかった…。ただ…。」
「ただ?」
「少し陽射しが眩しかったので眼を閉じていただけのことだ。」
「今日は本当に良いお天気ですから。」
視線を窓へ遣れば相変わらずの蒼が広がり帳を揺する微風が流れた。
「…?」
エデが何かに気づく。音もなく立ち上がり窓辺へと寄った。
「何か?」
「はい、鳥の声が聞こえた気がして…。」
「町中にも鳥は居よう。」
「雲雀の声に聞こえました。」
それは無かろうと伯爵は言う。雲雀は広い草原にある鳥だと。
「でも、何処からか飛んできたのかもしれない。」
「こんな街の空へか?」
「そう…、翼があれば何処へでも行けます…。」
その時、彼女の面にかかる翳りに伯爵は確かに気づいていた。
「エデ…。」
振り返る彼女を上がる腕が招く。迷わず駆け寄る細い肩を抱き寄せると、其れは一切の抵抗もなく迎える胸へと収まった。翼が欲しいかと訊ねようとして、けれど伯爵は諦めたかの溜息だけを零し言葉を飲み込んだ。訊ねても詮無いことだと、そう思ったからに他ならない。
翼があれば思うままに羽ばたけよう。其れを重い鎖に囚われていなければ…。
ー終ー
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