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//出立



 優しげな音が鳴っていた。
しかし其れは部屋に居るどちらの耳にも届いていない風であった。楽曲を選んだのは主であり、其れを鳴らしたのもその人であったのだけれど、音は一度室内へ放たれ空気の合間へ投げ出されると途端にただの音に成り下がっていた。つまり室内に在る二人の人間にとって楽曲は深い意味を持たないと言うことで、無音の状態を幾分緩和するだけの単なる飾りと変わりない空気の振動に立場を決められていたのだ。塩化ビニールの円盤を鉄製の針が擦る仕組みはあまりにアナログでもう此の数百年お目に掛かった記憶もない代物である。主の趣味以外の何ものでもないと思われるロストテクノロジーを敢えてこの場に持ち込み、稀少な音盤を折角鳴らしているにも拘わらず聴く者が全く別の何某かに心を奪われている現状をこの上もない贅沢と言ってしまっても構わないだろう。
 主は眉間に深い皺を刻み押し黙ったまま深く何かを考え込んでいる。その傍ら、と言っても少しばかり離れた椅子に掛け思考に沈む主を見つめる今一人は少女であった。彼女の眼差しには揺れる不安がかいま見え、そうして眺めていれば主が如何なる考えに落ちているのかを察せられるとでも言いたげな一途さも孕んでいる。一分見つめていればそれだけ、二分になればより多くの兎に角瞬きすら忘れて凝眸していさえすれば何時しか主の言葉にしない全てが伝わってくると信じているかに見受けられた。
 しかし少女は実のところ主が何を思い何を描いているかをほぼ知っている。知っているからこそ視線の上澄みに脆い不安が見え隠れするのである。何かを、主の意志を知りすぎているから何かを言いたいと彼女は心より望んでいる。そして彼女は自身の言葉が主に異なる道を開かぬ事も熟知している。それでも欠片ほどの思いでも構わない。たった幾つかの文字を繋いだだけの拙い言葉でも紡ぎたいと願うのだ。けれど自らの持ちうる全てを集めたとしても彼女の伝えんとする一言にはならないとも悟っている。何故なら少女が此の場に在ること自体が既に違えられぬ決め事であり、此処に彼女が在るなら道は決して異なりはしないからだ。でも主の傍らから離れるなど出来ない。また離れたいなど微塵も思いはしない。引かれた朱色の道はある一点に向けひたすらに伸びているのであった。少女は小さく首を振り不安を振り払うと同時に諦めの色を面に上らせる。スッと息を吸い込み其れを言いしれぬ思いを込めた溜息として吐き出そうとした。ところが彼女が其れを吐くより先に主が深く嘆息した。
「伯爵…?」
口元からこぼれ落ちたのは一切の意義も持たぬ主の名であった。そんなつまらぬ物しか紡げない事実に少女は顔を曇らせる。
「いや、気にする事はない。」
少女に向けられた面は笑んでいた。柔和に綻ぶ主を目にして彼女は肋骨の奥がキリ痛むのを感じる。その場を凌ぐだけの笑みではない。が、主の真なる微笑でもないから彼がそうした面相を向けるたび、少女は酷くいたたまれない心持ちになるのである。
「エデ…?」
伯爵は薄布が降りたかに彼女の面を覆う翳りに気づいた。屡々見せる表情の意味に彼が気づかない筈もないが、だからと言って其れを言及することはなく、何事もないとフルフル首を振ってみせるエデの反応を無言で受け入れ静かに頷いた。
「もう間もなく…。」
言いかけた其れを見事に遮ったのはノックもそこそこに現れたベルッチオの布令であった。
「馬車の用意が調いました。」
「うむ…。」
既に身支度は済んでいる。伯爵はすくりと立ち上がりエデに手を伸べる。
「今宵の演目はなかなかに楽しめそうだ。」
「はい…。」
小さく頷くエデの腕を取り伯爵は玄関ホールへと向かう。途中足を止めたのは何某かを思いついたから。背後に控える家礼へ声が飛ぶ。
「ベルッチオ!ブーケの手配は?」
「既に馬車に…。」
「花は何だ?」
「ブルーのムーンローズを…。」
「それは……。」
良いのか悪いのか、伯爵の口から形となって紡がれはしなかった。けれど鋭眼が緩やかに弧を描いている。其れは少なくとも悪し(あし)と見取れない。寧ろ満足気だと家礼は軽い安堵を覚えた。
「間もなく幕が開かれよう。」
正面を見据えたまま伯爵は誰にともなく発した。
「もう…ベルは止められない。」
続きこぼれ落ちた呟きを拾いエデの指先がヒクリと震える。鳴り出したベル、音もなく上がる幕が歌劇の始まりの為だけでないと彼女は知っていた。
今宵、歌劇場の虚空に禍々しくも可憐な花が舞う。其れは立ち戻る術を知らぬ道の始まり。





ー終ー




2005.3.30


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