その時、私は、目の前でリカが泣きだしそうな顔をして俯いたのを、良く覚えている。
いいえ、そのとき彼女は泣いていた。
そして、私は、何も言えなかった。何も考えられなかった。何も信じたくなかった。
誰かに、嘘だと言って欲しかった。
ほんの一週前に、オークスを逃した私を笑って励ました彼だった。見に来てくれてたなんて思わなかったから…、負けた悔しさもショックも、救われた思いがあった。
いつも憎まれ口しかきかないくせに。
あの無邪気なマキバオーや、優しい菅助くんと大違いで、斜に構えたような物言いで。私をからかうようなことばかり言って。
予想もしなかった敗戦に、ぐるぐると目が回るような渦に引き込まれていくような、まるで貧血でも起こしているような、そんな私を不意に引き戻したあなたの声だった。いつもどおりの、強気で、自信たっぷりな、声だった。
立派な成績だって言ってくれたわね。
惜しかった、って、言ってくれたわ。
私がどれだけほっとしたか、あなたにはきっと判らないでしょう。私がどんなに嬉しかったか、あなたはきっと知らないでしょう。
そして、私が今どれだけ悔しいか、あなたは知るはずもないわね。
だって、あなたに無条件に褒めてもらえるレースを、まだ見せていないのだもの。
「アンカルジア!……アンカルジア…!」
リカの、泣き声がする。どこで彼女は泣いてるのだろう。
彼女の小さな手の感触が、私の頬に触れてる。震えているの?近くにいるの?
では、どうして、あなたの泣き声がこんなに遠いのかしら、リカ。悲しそうな泣き声。泣かないでと言ってあげたい。
「アンカルジア!」
悲鳴のような、リカの声が聞こえた。その後は、何も聞こえなかった。急に、辺りが暗くなったようだった。…まだ、日暮れには随分間があったのに。
「マキバオーが、ダービーを取ったのよ、アンカルジア。カスケードと同着だったけど。ついにやったの」
そう言ったリカは、そんなにおめでたい報告なのに、酷く暗い表情だった。真っ赤に泣き腫らした目が、痛々しいくらい。
「…どうしたの?リカ?泣いていたの?」
そう聞くと、彼女はその手をぎゅっと握り締めて、小さく体を震わせた。私から、少し目を逸らすようにして、息を吸い込んだ。
「アンカルジア。取り乱さないでね…落ち着いて聞いて欲しいの……。あのダービーで……ダービーのゴールの後で………」
かたかたと震えながら、リカは何度も息を継いで、小さくなっていく声を絞り出すようにしていた。大きな目から、涙がぽたりと落ちた。いつもなら、私は彼女を力づけようとして頬ずりしただろう。声をかけたはず。
でも、どうしてだか、私は何も出来ずただぼんやり立っていた。その続きを、聞いてはいけないような気がした。酷く恐ろしくなった。
なのに、私はリカの言葉を止めることもできず、聞かないという選択も出来ず、立っていた。
「………チュウ兵衛が………亡くなったの…………」
お願い、誰か、嘘だと言って。
ーーーけっ、初めての東京のレースなんで意識してんな、この田舎もん!
ーーーおめーさんも次は違うレースだけどよ…。せいぜい頑張りな
---まあ、確かにそうかもな。日本中探しても、それだけ早く歩く馬はそういねえかもな
---堂々と歩けよ!立派な成績じゃねーか!!
チュウ兵衛…?
---10月…京都か。まあ、行けたら行くわ
来てくれるでしょう?絶対来なさいよ…
---わ、判ったよ、行く行く
……あなたが来てくれるなら、見ててくれるなら、絶対に負けないから。見てなさいよ…?
---じゃ、もう行くわ……
…え……?
---いいレースだったぜ!
…チュウ兵衛?待って、待って、どこへ行くの?
マキバオーのダービーは?その先は?あなたがいなくてどうするの?
…待って、チュウ兵衛。待って…。
見ていてくれるんでしょう?私の秋華賞も。その先も。見ていてくれるんでしょう?チュウ兵衛!?
---じゃあな。
「アンカルジア!アンカルジア、しっかりして!!アンカルジア!!」
瞼が重い。けれど、私の首に縋りついている人の手の感触。そして、悲鳴のような声。…ああ、リカの声だわ。狂ったように私の首を撫で続けてる、小さな人の手。目を開けると、思ったよりも近くに、涙でくしゃくしゃになったリカの顔があった。
「…リカ…」
名前を呼ぶと、彼女は、一度しゃくりあげるように息を吸い込んで、それから私に抱きつくようにして、声を上げて泣き出した。その彼女の肩に私も顔を伏せるようにして、息をついた。
さっきまで、私に語りかけてくれたチュウ兵衛の声が聞こえなかった。
夢だったのかもしれない。でも、夢だなんて思いたくなかった。
きっと、彼は私に別れの挨拶に来てくれたのだと、思いたかった。
「チュウ兵衛…」
彼の名を声に出すと、堰を切ったように涙が出てきた。後から後から、溢れて止まらなくなった。リカに抱きしめられて、彼女に顔を伏せたまま、私は泣いた。どうして。どうして?チュウ兵衛。どうして行ってしまうの。こんなにあなたに残された者たちが悲しんでいるのに。
まだ一度だってあなたに、レースを取った私を見せていないのに。
まだ一度だって、あなたに、私は何も伝えてないのに。
この気持ちも、何もかも。伝えていないのに。
混乱したまま、私は泣き続けた。リカに抱きしめられたまま、子供のように泣き続けた。
まだ、あなたにサヨナラなんて、言いたくないわ…。
END
いいえ、そのとき彼女は泣いていた。
そして、私は、何も言えなかった。何も考えられなかった。何も信じたくなかった。
誰かに、嘘だと言って欲しかった。
ほんの一週前に、オークスを逃した私を笑って励ました彼だった。見に来てくれてたなんて思わなかったから…、負けた悔しさもショックも、救われた思いがあった。
いつも憎まれ口しかきかないくせに。
あの無邪気なマキバオーや、優しい菅助くんと大違いで、斜に構えたような物言いで。私をからかうようなことばかり言って。
予想もしなかった敗戦に、ぐるぐると目が回るような渦に引き込まれていくような、まるで貧血でも起こしているような、そんな私を不意に引き戻したあなたの声だった。いつもどおりの、強気で、自信たっぷりな、声だった。
立派な成績だって言ってくれたわね。
惜しかった、って、言ってくれたわ。
私がどれだけほっとしたか、あなたにはきっと判らないでしょう。私がどんなに嬉しかったか、あなたはきっと知らないでしょう。
そして、私が今どれだけ悔しいか、あなたは知るはずもないわね。
だって、あなたに無条件に褒めてもらえるレースを、まだ見せていないのだもの。
「アンカルジア!……アンカルジア…!」
リカの、泣き声がする。どこで彼女は泣いてるのだろう。
彼女の小さな手の感触が、私の頬に触れてる。震えているの?近くにいるの?
では、どうして、あなたの泣き声がこんなに遠いのかしら、リカ。悲しそうな泣き声。泣かないでと言ってあげたい。
「アンカルジア!」
悲鳴のような、リカの声が聞こえた。その後は、何も聞こえなかった。急に、辺りが暗くなったようだった。…まだ、日暮れには随分間があったのに。
「マキバオーが、ダービーを取ったのよ、アンカルジア。カスケードと同着だったけど。ついにやったの」
そう言ったリカは、そんなにおめでたい報告なのに、酷く暗い表情だった。真っ赤に泣き腫らした目が、痛々しいくらい。
「…どうしたの?リカ?泣いていたの?」
そう聞くと、彼女はその手をぎゅっと握り締めて、小さく体を震わせた。私から、少し目を逸らすようにして、息を吸い込んだ。
「アンカルジア。取り乱さないでね…落ち着いて聞いて欲しいの……。あのダービーで……ダービーのゴールの後で………」
かたかたと震えながら、リカは何度も息を継いで、小さくなっていく声を絞り出すようにしていた。大きな目から、涙がぽたりと落ちた。いつもなら、私は彼女を力づけようとして頬ずりしただろう。声をかけたはず。
でも、どうしてだか、私は何も出来ずただぼんやり立っていた。その続きを、聞いてはいけないような気がした。酷く恐ろしくなった。
なのに、私はリカの言葉を止めることもできず、聞かないという選択も出来ず、立っていた。
「………チュウ兵衛が………亡くなったの…………」
お願い、誰か、嘘だと言って。
ーーーけっ、初めての東京のレースなんで意識してんな、この田舎もん!
ーーーおめーさんも次は違うレースだけどよ…。せいぜい頑張りな
---まあ、確かにそうかもな。日本中探しても、それだけ早く歩く馬はそういねえかもな
---堂々と歩けよ!立派な成績じゃねーか!!
チュウ兵衛…?
---10月…京都か。まあ、行けたら行くわ
来てくれるでしょう?絶対来なさいよ…
---わ、判ったよ、行く行く
……あなたが来てくれるなら、見ててくれるなら、絶対に負けないから。見てなさいよ…?
---じゃ、もう行くわ……
…え……?
---いいレースだったぜ!
…チュウ兵衛?待って、待って、どこへ行くの?
マキバオーのダービーは?その先は?あなたがいなくてどうするの?
…待って、チュウ兵衛。待って…。
見ていてくれるんでしょう?私の秋華賞も。その先も。見ていてくれるんでしょう?チュウ兵衛!?
---じゃあな。
「アンカルジア!アンカルジア、しっかりして!!アンカルジア!!」
瞼が重い。けれど、私の首に縋りついている人の手の感触。そして、悲鳴のような声。…ああ、リカの声だわ。狂ったように私の首を撫で続けてる、小さな人の手。目を開けると、思ったよりも近くに、涙でくしゃくしゃになったリカの顔があった。
「…リカ…」
名前を呼ぶと、彼女は、一度しゃくりあげるように息を吸い込んで、それから私に抱きつくようにして、声を上げて泣き出した。その彼女の肩に私も顔を伏せるようにして、息をついた。
さっきまで、私に語りかけてくれたチュウ兵衛の声が聞こえなかった。
夢だったのかもしれない。でも、夢だなんて思いたくなかった。
きっと、彼は私に別れの挨拶に来てくれたのだと、思いたかった。
「チュウ兵衛…」
彼の名を声に出すと、堰を切ったように涙が出てきた。後から後から、溢れて止まらなくなった。リカに抱きしめられて、彼女に顔を伏せたまま、私は泣いた。どうして。どうして?チュウ兵衛。どうして行ってしまうの。こんなにあなたに残された者たちが悲しんでいるのに。
まだ一度だってあなたに、レースを取った私を見せていないのに。
まだ一度だって、あなたに、私は何も伝えてないのに。
この気持ちも、何もかも。伝えていないのに。
混乱したまま、私は泣き続けた。リカに抱きしめられたまま、子供のように泣き続けた。
まだ、あなたにサヨナラなんて、言いたくないわ…。
END
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