「あなたが教えてくれたこと」
「こんにちは。伊達のおじさん、沙耶お姉ちゃん、いる?」
週末の昼下がり、伊達のアパートに遥が顔を覗かせた。家族ぐるみで仲の良い遥にとって、こういったことは珍しくない。
しかし、いつも桐生といるのに、今日は珍しく一人だ。伊達はすまなそうに遥を迎えた。
「ああ、悪いな遥。沙耶は今日出かけちまってるんだ。俺でよかったら話にのるぞ」
遥は少し考え、それじゃ、と部屋に入って行った。
「今日は何の用だ?お前も桐生も元気でやってんのか」
伊達は遥のためにジュースをコップに注ぎながら尋ねる。遥は元気よく頷いた。
「うん、おじさんも私も元気だよ!あのね、今日は教えてもらいに来たの」
教える?彼は遥の前にコップを置き、首をかしげた。遥はおもむろに手提げ鞄の中から本やノートを出す。
「宿題で、わかんないところがあったの。休みになる前に先生に聞いておくの忘れちゃって」
「宿題?……教科は」
話を聞くなり、伊達は困ったような顔をする。遥は伊達の顔色をうかがいつつ、答えた。
「……算数」
更に伊達の顔が曇る。見せてみろ、と彼女の教科書を開いた。遥の指し示した問題をしばらく眺めていたが、やがて大きく溜息をついた。
「桐生に聞いてみたか?」
「おじさん、数字嫌いなんだって。これも一生懸命解いてくれようとしたんだけど、頭が痛くなるって…」
わかる気がする。伊達は頭をかいた。桐生はこういった勉強は苦手な方だろう。伊達は悩む。解くにはどうしたらいいのか、だいたいなら
わかる。ただ、教えるとなると話は別だ。人に説明するのが彼にとっては大の苦手だ。
「わからねえわけじゃないんだが……説明しにくいな」
「おじさんも?」
「まぁ、ちょっと待ってくれ。もう少し考えてみる……」
その時、部屋の呼び鈴が押された。今日は千客万来だな、伊達は呟き玄関に向かった。
「誰だ?」
「伊達さん、須藤です。お久しぶりです」
「須藤?」
伊達は鍵をはずし、扉を開いた。須藤はいつものように仕立てのいいシングルのスーツを着、微笑みながら会釈した。右手には
洋菓子の箱が提げられている。彼は箱を差し出しつつ、伊達に告げた。
「ヒルズ爆破未遂事件の事後報告に来ました。それと、これは娘さんに」
「おう、忙しいのにわざわざ悪かったな」
須藤は、伊達の他に人の気配を感じたのか、申し訳なさそうに告げた。
「来客中でしたか。すみません」
ああ、と伊達は笑顔を浮かべて手を振った。
「気にしなくていい。急に遥が来てな……ん、そういえば」
ふと何かを思い立ったように押し黙る伊達を、須藤は怪訝な面持ちで見つめる。伊達はふいに須藤を見返すと、彼の両肩を掴んだ。
「須藤、お前算数得意か!?」
「……は?」
須藤は先ほどからおかしそうに笑っている。その横で伊達はふてくされたようにそっぽを向いていた。
「伊達さん、これ小学生の算数ですよ」
「うるせえな、教えるのは苦手なんだよ」
伊達の頼みで須藤は遥に宿題を教えていた。彼の説明は明快でわかりやすい。遥は時折質問しながら、問題を解いていく。
この調子だと、今日で全部終わりそうだ。
「しかし、あれだな。ゆとり教育とか言ってるが、今時の子供は結構難しいことやってんだな」
感心したように伊達が教科書を眺める。遥は手を止め、小さく笑った。
「おじさんも、勉強しなきゃね」
「俺はもういいよ。どうもデスクワークってのは性に合わねえ」
須藤は溜息をつき、そっと眼鏡を押し上げた。
「そうですね。昔もそんなことおっしゃって自分にばかり調書を書かせましたね」
ちらりと恨みがましく視線を送られ、伊達は目を丸くした。昔のことなど、今の今まで忘れていたようだ。
「そ、そうか?でも、仕方ねえだろ、調書作成は新人の仕事なんだから」
伊達が取り繕うのをものともせず、須藤は冷静にたたみかけた。
「諸申請、日報、あなたの始末書まで新人の仕事ですか」
ついに言葉に詰まる伊達を見て、遥は思わずふきだした。先輩後輩のはずなのに、今の二人は立場が全く逆だ。
「おじさんの負け。須藤さんの勝ち!」
「遥まで……ああ、わかった。わかったよ。俺が悪かった!」
伊達は観念したように声を上げる。その様を眺め、須藤は遥と顔を見合わせ、笑いあった。
外は陽が傾き、道路も渋滞しているところが増え始めた。そうはいっても、特に苛々させられるほどではない。遥は須藤の運転する
車の中で、小さく頭を下げた。
「わざわざ送ってくれてありがとうございます」
須藤はちらりと遥を眺め、小さく笑った。
「構わないですよ。暗くなる時に子供を一人歩きさせるのは不安ですからね」
あれから宿題は早々に済んだのだが、途中で沙耶が帰宅し遥は更に引き止められた。姉妹のような関係の二人は、思った以上に
話に花が咲いたらしい、すっかり遅くなってしまった。時間に気付いた遥が夕食の誘いも断り、急いで帰宅しようとした時、声をかけた
のが須藤だった。伊達のすすめもあり、遥は須藤に送ってもらうことにした。
遥は申し訳なさそうに呟く。
「でも、伊達のおじさんにご用があったんじゃ」
「大丈夫ですよ、ちゃんと話はできましたから。それに、あなたを一人で帰したら逆に伊達さんに叱られます」
須藤の言葉に、遥はもう一度礼を言った。彼はそれに答えるように小さく手を上げる。やがて信号が変わり、車が動き出した。
「よかった」
しばらく黙って運転していた須藤が突然口を開く。遥は思わず彼を見上げた。
「何が、ですか」
問いかける遥に須藤は前を見ながら答えた。
「遥さんが幸せそうで、ですよ」
突然そんなことを言われ、遥はひどく驚く。彼女にとっては意外な人物からの意外な言葉だったのだろう。遥は考え込んだ。
「そ、そうかな……」
「あなたは、いつもこの世の終わりのような顔をしてる」
遥が顔を上げると、須藤と視線がぶつかった。それは一瞬で、彼はまた前の車の流れに視線を戻した。遥はミレニアムタワーの一件と
彼や伊達とヒルズに向かった時を思い出す。そのどちらとも、遥と須藤とは言葉を交わすことはなかった。しかし、ヒルズの一件で桐生の
安否を気遣いヘリに同乗させてほしいと願った彼女に、須藤は何も言わず許可してくれた。無論、伊達の口添えもあったわけだが。
「あの時は…すみませんでした」
「謝ることはないですよ。逆に私が謝らなければいけないほどです。警察は何もかもが後手後手で、結果的に桐生さんも狭山警部補も
助けてあげられなかった。もしあの爆弾の信管が抜かれていなかったら、と思うとぞっとします」
須藤の声は硬かった。遥はあの時のことを思い出すと、今でも背筋が寒くなる。大切な人を失う辛さは、もう二度と味わいたくない。
遥は何も言わず窓の外を眺めた。緩やかではあるが、景色が後ろへと流れていく。そろそろ繁華街は出て、幾分車の流れも速くなるだろう。
重くなった雰囲気を変えるように、遥は明るく声を上げた。
「そういえば、伊達のおじさんが人に教えるの苦手なんて、初めて知りました。須藤さんは、知ってました?」
須藤は苦笑を浮かべ、大きく頷いた。
「それはもう。お会いして開口一番『こういった仕事は、口で説明してもわかんねえ。見て覚えろ』ですから」
遥は声を上げて笑う。伊達の性格から言って、その状況は想像に難くない。
「おじさんらしいね」
「でも、それでずいぶん鍛えられましたよ。それこそいろんなことをね」
何かを思い出すように何度か頷く須藤を、遥は真面目な顔で覗き込んだ。
「始末書や、調書の書き方を?」
彼は遥に合わせるように、真剣な面持ちで大きく頷いた。
「ですね」
二人は顔を見合わせると、おもむろに声を上げて笑った。車は高速に乗る、遠く離れた伊達は自分の噂をされていることなど夢にも
思わないだろう。
「今日はありがとうございました」
車を降り、遥は深々と頭を下げる。須藤は窓を開けると優しく微笑んだ。
「どういたしまして。桐生さんによろしく」
「はい。伝えます!」
元気よく返事をし、遥は手を振りながら建物に入っていった。須藤は彼女が帰宅するのを確認してから自分の携帯でどこかにダイヤル
した。耳に入ってきたのは、聞きなれた声。
『おう、須藤。遥はついたか?』
相手は伊達だった。須藤は幾分表情を和らげ、告げた。
「ええ、無事に送り届けました。ご報告をと思いまして」
『わざわざ悪かったな。今度酒でも奢るから』
「期待しないで待ってますよ。ああ、そうだ。伊達さん?」
『なんだ?』
須藤は小さく笑い、問いかけた。
「さっき、くしゃみしませんでしたか?」
『はあ?なんだそりゃ』
ぽかんとした声が聞こえてくる。須藤は中指で眼鏡を上げ、楽しそうに告げた。
「なんでもないですよ。私はあなたに何かと教わりっぱなしだということです」
『話が見えねえんだが……俺、今日お前になんか教えたか?』
伊達はいまいち須藤の言葉の意図がわからないようだ。自分のことになると疎くなる所も相変わらずだ、須藤は思いつつ口を開いた。
「いいんですよ。それじゃ、奢りの件、忘れないでくださいね。今日はこれで失礼します」
『あ?ああ…また連絡する』
最後まで伊達は不可解な様子だったが、素直に通話を切った。須藤も電話を切ると、胸ポケットに収める。
人々の歩みがせわしなくなる夕闇の中、車は一路警視庁へと走り去った。
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送信完了
「退屈や……」
放り出した金属バットが高い音を立ててアスファルトを転がった。痛々しいほど大きく歪み、所々に鮮血が飛んでいることから
明らかに本来の用途と違うことに使用されたことがわかる。
退屈、とこぼした男は視線を動かした。男の目の前には数人の男達が地を這い、ある者は呻き声をあげ、またある者は昏倒していた。
喧嘩というにはあまりにも無残な状況である。きっかけは、彼らがこの男にふっかけたささいな因縁に他ならない。しかし、彼らが
男の素性を知っていたなら、因縁をつけるなどという無謀な事はしなかっただろう。しかし、不幸にも彼らはこの街では新顔で、悪を
気取るにはあまりにも無知だった。
「ほな。行くで」
黄色のジャケットを翻し、男は薄暗い路地を後にした。男の名は真島吾朗、かつて『嶋野の狂犬』とも恐れられた武闘派だ。
今は堅気になっているとはいえ、その腕っ節は健在。関西との抗争の折、たった一人で千石組の精鋭を一人残らず倒したのは
極道の間でもまだ記憶に新しい。
少しでも裏社会で生きた者なら、誰もが口を揃えて言うだろう。『狂犬に手を出すほど、愚かなことはない』と。
真島はあれだけの人数を相手にした後だというのに、眠そうに大きく欠伸をした。彼にしてみたら肩慣らしにもならないというわけか。
「ホンマに退屈やわ」
改めて真島は呟いた。この街で、自分と渡り合える男はもういない。ただ一人認めた男は、少女を連れ街を出た。空虚感を埋める為に
喧嘩を買ってはみるが、どれも似たようなもので、当たり前に勝つものの更に虚しい気持ちになった。
「親父!」
人ごみの中で聞きなれた声がした。ふり向くと、そこには人のいい笑顔を浮かべた部下がやってくるところだった。
「なんや、お前か」
ぞんざいな言葉だが、慣れているのか男は表情を崩さない。すんません、と事務的に話し始めた。
「ヒルズの今日の工程終了しました。細かいことは書類にまとめて事務所の方に置いてあります」
「わかった。後で見るわ、見るだけやけどな。ごくろうさん。」
礼儀正しく頭を下げ、男は真島に背を向けた。ふと、真島は彼を呼び止める。
「ちょい待ちや」
「なんですか?」
振り向く男に、真島は真剣な顔で告げた。
「ワシ、退屈やねん」
「はあ」
「きっと寂しいねん」
「そうですか」
「どうしたらええ?」
「……は?」
男はぽかんとする。話が抽象的過ぎてわからない。ただ、何も言わなければ叱られるのは間違いない。退屈で寂しいか…悩んだ末に
真島に告げた。
「女はどうです?キャバクラいいですよ」
「もうああいうんは飽きた。却下や」
「な、ならカジノとか。親父なら稼ぎ放題ですよ!」
「アホ、ワシが行ったら細工されるやんけ。接待ギャンブルは御免や」
次々に拒否され、男は心底困った。退屈な時には女かギャンブルかと相場は決まっている。しかし、真島には当てはまらないらしい
イライラしたように真島は声を上げた。
「他にないんかい!せや、お前はどうやねん。何かあるんか退屈しのぎは!」
「お、俺は…あ、メールしてます。メル友いるんすよ」
「メル友~?メールか……メールなあ。もうええわ、行き」
男はほっとしたように頭を下げ、足早にその場を離れた。真島はしばらく考え、携帯を取り出した。
「個人的なメールなんて初めてやなあ」
ビルの壁に寄りかかり、真島は短く文章を打った。送信を押すと、しばらくした後に『送信完了』の文字が出た。
鼻歌交じりでしばらく待つと短く返事が返ってきた。
『元気です』
たった4文字の返信。真島は小さく笑った。
「相変わらずそっけないのう。これならどうや」
再び真島がメールを打つ。送信できたのを確認すると、彼は近くの販売機でコーヒーを買った。それを口にしていると
ふと、足元に気配を感じる。見下ろすと灰色の猫が足にまとわりついていた。
「なんや、猫かいな」
真島はしゃがむと猫の頭を乱暴に撫でた。しかし、猫が嫌がるそぶりはない。懐かれるまま遊んでやっていると
ポケットの中で携帯が鳴った。彼はメールを開いた。
『わかりません』
「わからんて…寂しいなあ。おまえ見て、見たってこのつれなさ!」
文面を猫に見せるがそれがわかるはずもなく、きょとんとしている。真島はすごい勢いでメールを打った。
「送信や!」
言いつつ送信ボタンを押す。そしてまた猫を豪快にわしわしと撫でた。
やがて街灯に明かりがともる。気がつかないうちに、通りに人も増えた。もうすぐこの街も夜の顔に変貌するだろう。
夜は嫌いじゃない。むしろ好きなくらいだ。だが、今は昼も夜もひどく退屈だ。ここには何でもあるが、何もない。
そして携帯が鳴った。
「お、メールや。えらい時間かけて、なんやろな~」
楽しそうにメールを開く。読んだ瞬間、真島の表情が変わった。そこには先ほどと変わらず、ひどく簡潔な文面があった。
『いつでも構いません』
しげしげと眺め、しばらく考えていたが、真島はおもむろに大きく頷いた。
「うん!それでこそ桐生チャンや~!いや、メールておもろいな。またやろ」
ふと視線を動かすと、物欲しそうな猫と目が合う。彼はゆっくり立ち上がり、猫に手招きした。
「腹へっとんのか?一緒に来たらうまいもん食わせたるで!」
知ってか知らずか、猫は素直に彼の後をついていく。真島は先ほどまで感じていた退屈などすっかり忘れ、足取りも軽く賑やかな
通りを歩いていった。
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受信完了
「おじさん、お米安くなっててよかったね」
大きな買い物袋を提げ、桐生は遥と帰宅していた。5キロの米袋は子供の手には重すぎる。いつもこういった買い物は桐生が手伝う
ことにしていた。遥は久しぶりに二人で買い物に行けたので、上機嫌で買い物の時の話をあれこれ話している。楽しそうな顔をしている
遥を見るとこちらも嬉しい。彼は相槌をうちつつ、ささやかな幸せを感じていた。
あの抗争から数ヶ月、身辺も落ち着いてきた。抗争直後は、なんやかやと東城会の人間が身の回りに現れ、東城会に戻れと迫って
きたものだ。無論戻る気はないと跳ねつけた。自分は堅気で生きると決めたのだから。
ただ、今でも神室町のことは忘れてはいない。あの中で何年も過ごしてきた。いい思い出も悪い思い出も沢山残っている。自分の古巣
のようなものだ。そこに愛着があるのはごく自然なことである。時折、神室町の近くまで行ったりはしたが足を踏み入れることは一度も
なかった。
「ね、おじさん。神室町の人たち、元気かな」
心中を悟ったように遥が微笑む。桐生は言葉を詰まらせた。
「い、いきなり…どうした」
「いい人沢山いたもんね。ユウヤお兄ちゃんや一輝お兄ちゃん。花屋のおじさんに、真島のおじさん!」
無邪気な笑顔につられ、桐生は笑みを浮かべた。いい人か、確かに悪い人間ではないだろう。彼は小さく頷き、二人の住む部屋の
扉を開けた。
「……ん、携帯が」
ふと携帯が鳴る。見ると、メールが届いていた。見知らぬ番号からだったが、詐欺の類ではないようだ。
メールを開くと、そこにはこう書いてあった。
『桐生ちゃん元気か?ワシのメル友になったって~』
「メル友……」
いきなり何を、桐生は溜息をつく。こんな文面を送る男は知っている限りでただ一人だ。携帯を眺めて固まっている桐生に遥は首を
傾げた。
「おじさん、どうしたの?」
「なんでもない。メールが来ただけだ」
「薫さんから?」
うふふ、と冷やかすように笑う遥の頭を小突き、苦笑した。
「違う。変なこと考えるな」
「はーい。それじゃ、私夕食作るね」
遥は残念そうに返事をすると、キッチンに向かっていった。残された桐生は、どう返事したものかと悩んでいたが簡単にあたりさわりなく
返信した。
キッチンに米を置き、桐生はベランダで煙草に火をつけた。あのメールが真島の兄さんだとすると、急に何故自分にメールを送って
きたのだろう。しかもメル友とはどういうことなんだろうか、やはり読めない男だ。
煙を吐き出すと、また携帯が鳴った。メールだ。先ほどと同じ番号だというのを確認し、それを開いた。
『神室町にいつ来るんや?また派手にやりあおうやないか』
「兄さんは相変わらずだな」
桐生は困ったように笑う。何も言ってないのに、また必ず桐生が神室町に来ると確信しているのも真島らしい。
しばらく考え、短く文章を打った。
夕闇が迫っている。ベランダから見る街の夕暮れは好きだ。暖かい家の明かりも、幼い頃は寂しさが募るので好きではなかったが
家族が増えた今では、何より安らぐ光景だ。もう少しすれば遥が自慢の手料理を披露してくれることだろう。これはかつて夢見た
『幸せな家族の風景』そのままではないか。桐生が灰を落としたとき、メールが届いた。
『そんなつれないこと言わんといてや~神室町にあんたがおらんと寂しいねん。もしこのまま神室町に来いひんかったら
そっちにおしかけたるで!本気やで!』
桐生はしばらく驚いたように文面を眺め、おもむろに携帯を閉じた。一体何がしたいのだこの人は……桐生は煙草を吸いきると
灰皿でもみ消した。
「おじさん」
いつの間にか遥が後ろに立っていた。振り向く桐生に彼女は携帯でメールを打つまねをした。
「そんなにメール打つの珍しいね。メル友?」
「あ、いや……そういうことではないな」
「そうなの?でもなんか楽しそうだったから。お友達かなって」
友達。これほど真島と自分の関係にそぐわない単語はない。真島はあくまでも目上の存在で、上下社会の厳しい極道では対等に振舞う
などありえなかった。それが今やメル友(仮)扱いとは。思いも寄らないことだった。しかし、楽しそうに見えたのか。彼は苦笑し、首を
かしげながら去っていく遥を呼び止めた。
「遥、真島の兄さんがうちに来たいんだと。どうだ?」
真島のおじさん?遥は笑顔で振り向き、大きく頷いた。
「いつ?私はいつでもいいよ!」
「いいのか」
「おじさんは駄目なの?だって真島のおじさんは桐生のおじさんのお友達でしょ?」
どうも誤解があるようだ。桐生がちゃんと説明しようとした時には、遥は鼻歌交じりでキッチンに戻っていくところだった。
遥はふと振り向くと、嬉しそうに桐生に告げた。
「真島のおじさん何が好きかな。ごちそう作っちゃうね!日にちが決まったら言ってね」
「あ、ああ……決まったらな」
桐生は腹をくくったように携帯を開いた。彼はしばらく悩み、ゆっくり文章を打った。送信ボタンを押してメールが送り届けられたことを
確認すると、そっと携帯を閉じた。
もうすぐ夜。神室町は今頃賑やかになっているだろう。
遥、大阪に行く
「おじさん、お願いがあるの」
夕食後ののんびりとした一時、遥は横になる桐生の前に座り、両手を合わせた。最近は遥もおねだりをしなくなり、桐生も少しだけ
寂しく思っていた。それだけに、何でも聞いてやろうと彼は起き上がって微笑を浮かべた。
「何だ?言ってみろ」
「あのね、今度大阪に行く時に一緒に連れて行って欲しいの」
予想外の願いに桐生は驚く。彼女にとって大阪にいい思い出があるとは思わなかった。今まで大阪でのことを話すこともなかったし
桐生もあえて話そうとしなかった。それなのに、突然大阪に連れて行けとはどういうことなのだろう。
「大阪に…急にどうした」
「行きたいところと、会いたい人と、知りたいことがあるの」
「それを話してくれるか?」
優しく問うが、遥は重い口を開こうとしない。今まで大阪に知り合いがいるとは聞いてなかったが…彼は悩む。
しかし、久しぶりに桐生へ申し出たおねだりだ。いつも狭山が『つれてきたらええのに』と言ってくれていたことだし、観光がてらいいかも
しれない。桐生はそれ以上何も聞かずに大きく頷いた。
「遥も冬休みだしな。来週になるけどいいか?」
「ありがとう!おじさん!」
遥は先ほどとはうってかわり、満面の笑顔を浮かべる。桐生は満足げに彼女の喜ぶ様を眺めていた。
久しぶりの旅行、といっても前の大阪行きは血生臭い殺伐としたものだった。遥との本格的な旅行は初めてかもしれない。
新幹線の中で、遥は嬉しそうにはしゃいではいたが、時折ひどく心配そうな顔をした。
蒼天堀に着き、仕事の終わった狭山と合流する。遥は礼儀正しく頭を下げた。
「薫さん、お久しぶりです」
「遥ちゃん!ホンマに久しぶり。今日は色々案内するね」
狭山は彼女に目線を合わせて優しく微笑む。が、遥は申し訳なさそうに首を振った。
「あの、私のことはいいんです。薫さんはおじさんと過ごして」
「ええ?どうして?遥ちゃんはどうするの」
狭山は驚いたように桐生を見るが、桐生も思わぬ反応だったらしい、彼女に首を振って見せた。
「私、気になることがあって…行かなきゃ。後で合流するから、一人で行動させてください」
「遥、子供のお前を、知らない土地で自由にさせるわけにはいかない。一緒に行ってやるから、言え」
「大丈夫、道はちゃんと調べたし、すぐに帰るから。お願い!」
二人は困ったように顔を見合わせる。こうなったら、遥は何を言ってもきかないことは桐生にもわかっている。
どうしたものかと首を捻っていると、思いついたように狭山は彼女に提案した。
「それじゃ、遥ちゃんこうしよう。一馬の携帯を持って行ったらどう?それで、一時間ごとに私の携帯に大丈夫かどうかメールして。
メールの仕方、わかる?」
「うん!」
遥は大きく頷く。困惑している桐生に狭山は苦笑した。
「どうしても、言いたくないことを言わせるのは気い悪いし。これで定時連絡怠ったら遥ちゃんの冒険は即終了ってことで」
「……気は乗らないが、遥はそれでいいのか?」
遥は、いいでーす!と元気に右手をあげる。桐生は彼女の前にしゃがみ、携帯と紙幣を差し出した。
「じゃ、携帯な。金はあるか?これも持って行け。危ないことはするなよ、道に迷ったらすぐ電話しろ」
遥は携帯を鞄にしまい、声を上げて笑った。
「わかってる。心配しないでいいよ。私のことは気にしないで、おじさんは薫さんと楽しく過ごして」
「いいか?遅くても5時までには蒼天堀に戻って来い。着いたら連絡。いいか?」
「はい!それじゃ、行くね!」
遥は大きく手を振り、駅の方にかけていった。見送る桐生はひどく心配そうだ。
「一馬どうするん?」
「どうするって…」
狭山は意地悪く笑った。
「尾行、してもいいねんで」
桐生はしばらく考えていたが、やがて首を振った。
「遥を裏切るわけにはいかない。待つさ」
「もし前みたいに攫われたりしたら?」
彼の顔を覗き込む狭山に、桐生は苦笑した。
「助けに行くさ。何度でも」
遥は電車を乗り継ぎ、道を確認しながらとある場所にたどり着いた。木々に囲まれた巨大な建物。その外観はまさに城だった。
「大阪の城…あった」
かつて遥が囚われていた場所で、千石組の本拠地「大阪の城」だ。注意深く近づくが、人気は全くない。扉は硬く閉ざされ、主の
いなくなった城は傷みも目立ち、かつての華やかさは見る影もない。
「やっぱり、誰もいないよね…どうしよう」
悲しげに目を細めた時、後ろから声がかかった。
「ここは遊園地やないで、お嬢ちゃん。怖いオッサンが来るかもしれへんから、とっととウチ帰り」
振り向くと、遥は目を丸くする。この人物を自分は良く知っている。
「郷田、龍司さん!」
「ああん?」
そこにいたのは郷田龍司だった。突然名を呼ばれ、困惑したように遥を眺め回した。
「ワシにガキの知り合いなんておれへんはずやけどな…今までにつきあったオンナの隠し子か?」
「違うよ~!私は…」
説明しようとした時だった。辺りから複数の足音が迫ってくる。何が起こったのか遥が見回している間に、二人を黒服の男達が取り囲んだ。
「自分ら、なんやねん」
龍司が鋭い目で睨みつける。男達の一人が声を上げた。
「郷田龍司ぃ!千石の親父殺した恨み忘れてへんで!」
「ああ、気付かんかったわ。千石組のもんか」
龍司は心底面倒くさそうに首を回す。それが気に障ったらしく、別の男がドスを抜いた。
「どこの馬の骨か知らん奴らと、近江メチャメチャにしよって。それが責任も取らんと大きな顔すんなや!」
「そんなこと知らんがな。自分ら今日は鎧着いひんでええのんか?ワシとやる気なら…それくらいしてこいや」
挑発的な笑みを浮かべた龍司は、この窮地でも余裕の態度だ。それがまた彼らの怒りに火をつけたらしい、全員が武器を手にした。
「往生せいや!」
男達は一斉に飛びかかる。龍司は遥を突き飛ばした。
「隠れとけ、ガキ!」
「郷田さん!」
男達の標的は龍司だけだ。一人のドスが龍司の頬をかすめる。龍司は刃を受け流して拳を顔面に叩き込み、振り向きざまに背後の
男に肘鉄をくらわせた。間をおかず、左右の男達は同時に切りかかってくる。彼は二人の腕を取り、目の前に引きずってくるなり互いの
顔面を叩きつけた。次の瞬間、二人はあっけなく地面に崩れ落ちた。
「いい気になんなや!」
一人が銃を抜いた。龍司は倒れている男のドスを手に取ると、ゆっくり身を起こし額を指でさした。
「ここや」
「……あ?」
「ここ狙わんと、ワシは死なへんで。もし逸れたら、死ぬんはお前や」
「くっ…な、なめよって」
龍司は間合いを詰める。銃は不慣れなのか、男の手がわずかに震えていた。
「この稼業やっとって、生きるか死ぬかの瀬戸際に立ったんは初めてか。ぼやぼやしとったら、もうすぐワシの間合いに入るで」
男は、完全に龍司の気迫におされている。震えをおさめるため、男は銃を持つ手に力を込めた。
「死ねやああああ!」
同時に、破裂音が森に響き渡る。龍司の髪が一束飛び散った。
「外れや、残念やったな」
言うが早いか、ドスを男の手めがけ投げつける。刃は逸れることなく銃を持った手に深々と刺さる。男は思わず膝をつき、苦悶の表情を
浮かべ叫んだ。
「龍司…千石組はお前のやったことを絶対忘れへんで。この恩知らずが!地獄へ落ちろや!」
龍司は何も言わず、男のみぞおちを蹴りつける。男達が動きを止めたのを見届けると静かに告げた。
「地獄?上等じゃ。そんなもん、親父に刃を向けた時から覚悟しとるわ……あほが」
「親父!」
「郷田さん!」
その時、郷龍組の男達と遥がやってくる。遥が外で待たせていた彼らを連れてきたらしい。
「ガキの割に機転の利くお嬢ちゃんや」
龍司は呟き、手を振った。
「ワシは大丈夫や。こいつら千石組やな」
「どうします?」
部下に問われ、龍司は首を振った。
「ほっとけ。今日やることは終わったし、今日はもう帰ろか」
「あの……ここ、中にはもう誰もいない?」
遥が不安げに尋ねる。龍司は思い出したように声を上げた。
「そうやそうや、お嬢ちゃん、誰や?でもどっかで見たことあるんやけどな…」
「親父、この子桐生の…」
覚えのいい男が耳打ちする。そこでやっと龍司は思い出した。勢いよく手を叩き、声を上げた。
「思い出した!あんとき千石が捕まえたお嬢やな。名前は…遥やったかな。で、遥は何でこんなところにおんねん。また攫われたんか?」
「違うの、ここに用があったの。ね、郷田さん。ここにいた子達、知ってる?」
「ああ、もう龍司でええ。しかし、ここにいた子達…?何のことや。ここにはもう誰もおれへんで」
遥はそれを聞き、途端に泣きそうな顔になる。龍司はぎょっとして彼女の前にしゃがみこんだ。
「ど、どうした?頼むから泣かんといてくれや。ワシがいじめたみたいやんか。腹減ったんか?どっか痛いんか?」
「やっぱりあの子達死んじゃったんだ。おじさんがいっぱいぶったりしちゃったから。言うことをよく聞くいい子だったのに」
「死んだぁ!?誰か子供を桐生はんが殺したんか?せやけど、そんな人やったかな…」
慌てているうちにも遥の目から涙がこぼれそうだ。彼女はしゃくりあげている。
「あの時…つれて帰ってあげたらよかった。でもうちは狭いから二匹も無理…」
「二匹…?それってもしかして…」
遥は思い出して我慢できなくなったのか、龍司に飛びついて泣き叫んだ。
「うわーん!虎さん達が死んじゃったああああ!」
「……やっぱり、な」
龍司は脱力したようにうなだれ、彼女の背中をやさしく叩いてやる。優しい遥の涙は当分止まりそうにない。
遥は龍司に連れられ、市街地から少し離れた場所に来ていた。龍司は車から降りると、遥についてくるよう促した。
「今日あの城行ったんはちょっとした理由があってな」
二人の歩く先には高いフェンスに囲まれた広大な敷地が見えた。その隅には建物のようなものも見える。
「最近やっとここが完成したんや。あるもんを移動させてんけど、どうもそいつらがここに慣れんらしくてな、城に残っとった遊び道具
やらなんやらを今日取りに行っとったんや。これでやっと引越し完了や」
「引越し…?」
龍司は部下に指示して何やら建物に運び込む。龍司に手招きされ建物に入っていくと、遥は顔を輝かせた。
「あ!あの子達!」
そこには城で見た虎の姿があった。彼女が手を振ると、二匹は珍しそうに寄ってきた。
「千石組は解体して、世話する奴がおれへんくなったからこいつら弱っとったんや。ワシが引き取ってここに移動させたったら大分
元気になってな。今はワシになついとる。どや?安心したか?」
「うん、うん!よかった。ね、近くに行ってもいい?」
龍司が頷くと、遥は二匹の頭をそっと撫でた。
「あの時はごめんね、痛かったよね。でも、おじさんも必死だったんだ。許してね」
二匹は子猫のように遥に擦り寄る。大きな虎に囲まれ遥の姿が見えないほどだ。龍司は声を上げて笑った。
「遥は優しいのう。こいつらも、ようなついとるわ」
「攫われてきた時、この子達の檻と同じ部屋に閉じ込められたの。そこを出されるまでこの子達はずっと私の近くにいてくれたんだ。
全然唸ったり威嚇したりしなかったよ。だからいい子だって思ったの」
そうやったんか、龍司は驚いたように遥を見る。二匹に母性というものがあると思えないが、何か遥に感じるものがあったのだろうか。
猛獣まで味方につけるなんて大物や。感心していると、遥が笑顔で尋ねた。
「名前決まってる?」
「おう。右がアカホシに左がカネモトや」
「……え?」
遥が首をかしげると龍司が虎を撫でた。
「右がアカホシで、左がカネモトや。なんや、野球知らんのかい」
それを聞いて遥は合点がいったようだ。右手をあげて嬉しそうに告げた。
「六甲おろし!」
「それや!」
二人は声を上げて笑う。遥は二匹に抱きついた。
「よかったね、アカホシ、カネモト。幸せになってね」
しかし、何故苗字なのか。龍司のネーミングセンスがよくわからない。
その頃、桐生と狭山はやきもきして連絡を待っていた。
「遅いな、遥。何やってんだ」
「一時間過ぎてるなあ、電話かけてみよか…」
狭山が携帯を取り出したとき、着信メロディが鳴った、
「あれ、なんやこんな時に…あ、この番号、お兄ちゃん?」
「龍司か?」
彼女は通話ボタンを押す。と、突然そこから遥の声に似た悲鳴が聞こえてきた。
『きゃあああ!や、やめて、やめてよー!』
狭山も横で聞いていた桐生も血の気が引く。一体何があったというのだ。
「は、遥ちゃん?遥ちゃんなん?!どうしてん!ちょっとお兄ちゃん!どういうことなん?」
「おい龍司!遥をどうした!」
『うるさいのう、誤解すんなや。遥はちょっと色々あってな、今ワシとおるわ。あいつが連絡しなアカン言うから代わってしただけのことや。』
面倒そうに話す龍司に狭山は混乱する。遥が何故龍司と?しかもあの悲鳴は?
「遥ちゃんはどうしてるの?あの悲鳴はなに?」
『ああ、遥は今アカホシ達と遊んどるんや。今はカネモトの背中に乗っけてもらっとる』
「からかわんといて!なんで野球選手のアカホシやカネモトがお兄ちゃんと一緒におんねん!」
『ああ、説明すんの面倒や。今から遥、蒼天堀につれてくわ。後でな』
一方的に話して切られ、狭山はぽかんとした顔で携帯を見ている。心配顔の桐生が彼女を見つめた。
「龍司は…?」
「わかれへん。一応ここに遥ちゃん連れてくるみたいやけど、今遥ちゃん野球選手の背中に乗っけてもらってるて」
桐生は狭山より更に困惑した表情で首をかしげた。一体遥はどこで何をしているんだろう。
二時間後、4人は「葵」にいた。龍司は事の顛末を二人に話して聞かせた。
「いや、何も説明せんと悪かったな。堪忍。」
「まさか、アカホシが虎やったなんて…」
やっと謎が解けて合点がいったのか、狭山は安心したように溜息をつく。視線の先には今日の冒険で疲れたのか、遥が龍司のコート
の下で眠っていた。
「まさか、遥があの虎を心配してたなんて思わなかった。隠すようなことでもないだろうに」
桐生は眠る遥の髪を撫でる。龍司はスコッチを口にすると苦笑した。
「桐生はんが自分を助けるために倒した虎の心配するんは、やっぱり申し訳ないと思ったん違うか?下手に言うたらまるであんたを
責めてるみたいやんか。許してやりや」
「…そういえば、遥『行きたい所と会いたい人と知りたい事がある』って言ってたが…城のことだったのか。知りたい事は虎の安否か?」
狭山は首をかしげる。
「それじゃ、会いたい人って誰なんやろ…虎は人やないし」
「さあな。まあええやんか、遥には遥の考えがあるんやろ。それじゃ、お邪魔しても悪いしワシはそろそろ行くわ」
龍司は残った酒を飲み干し、立ち上がった。
「ママ、悪いけど遥が起きたらコート預かっといてや」
「ああ、まかしとき」
民代は頷く。龍司は金を置き、小さく手を振り店を出た。
「……ん…あれ、龍司お兄ちゃんは?」
ほどなくして遥が目を覚ます。狭山は肩をすくめた。
「ついさっき出てったわ。邪魔したら悪いやて、今更何言うてんのって…遥ちゃん?」
遥は弾けるように立ち上がると、彼のコートを抱いて店をかけ出す。まだ龍司には言ってないことがある。急がなければ。
「親父、用事は済んだんでっか?あれ…コートはどないしたんです?」
車のドアを開けた男が首をかしげる。龍司はふん、と小さく笑った。
「ガラにもないことしてもうたわ。気にせんでええ」
「は、はい」
龍司が車に乗り込もうとした時、遠くで誰かが呼んだような気がした。乗るのをやめ見回す。しかし人が行き交うばかりでもう何も
聞こえない。
「気のせいか」
改めて車に乗り込み、ひとつ息を吐く。今日はいろんなことがあった日だった。特に遥、あんな小さいのに怖いことがあった場所へもう
一度来るとは度胸があるというか、なんというか。小さく笑い、龍司が動き出した風景を見たときだった。
「うわっ!なんだ!?」
突然車が停止し、運転手が声を上げる。目の前に子供が立ちふさがったのだ。
「なにしとんねんガキ!どけや!」
声を荒げる運転手を龍司が制した。
「……待て」
「ですが、親父」
「よく見いや、来るとき乗せた子や」
「あ、そういわれたら…」
龍司は車から降りる。すると、遥がやってきた。走ってきたのだろう、息を切らしている。
「なんや、起きたんか?」
「ご、ごめんなさい。これ…」
遥はコートを差し出す。龍司は呆れたような顔でそれを受け取った。
「ママに預けときゃええのに。おおきに」
龍司はコートを羽織る。遥は彼を見上げた
「龍司お兄ちゃん、今日はありがとう。それと、千石さんに攫われた時、助けてくれたでしょ。ずっとお礼言ってなかったから」
ああ、と龍司は彼女の前にしゃがみこんだ。
「あんときは遥にえげつない所見せたな。ワシ、あいつのやり口に頭に血ぃのぼっとってん。かんにんな」
「いいの。あのときね、すごく怖くて動けなかったの、龍司お兄ちゃん気付いてくれてたんだよね。すぐ近くだったのに、抱き上げて
おじさんの所まで連れてってくれたでしょ?あの時すごく嬉しかったの」
「ええよ、もう。ワシもあいつらに協力しとったからこれでチャラや。気にせんとき」
龍司はゆっくり立ち上がる。遥はにっこり笑い、彼の手を取った。
「良かった。これで目的全部達成しちゃった。大阪に来るまで、龍司お兄ちゃんに会うにはどうしたらいいのかずっと悩んでたの!」
驚いたように龍司は遥を見下ろす。さっき桐生が言ってたことが思い出された。
「そんじゃ、大阪で会いたい人ってのは…」
「ん?何?」
聞き取れなかったのか、首をかしげる遥に龍司は微笑んで首を振った。
「いや、なんでもない。遥、また大阪に遊びに来いや。歓迎するで」
「うん!虎さん達にも会わせてね!」
龍司はそっと彼女の頭を撫でる。遥は両手を後ろで組み、にっこり笑った。
「それじゃ、桐生はんと仲ようやりや」
「またね、龍司お兄ちゃん」
龍司は車に乗り込み、その場を後にした。ミラーを覗くと、遥がずっと手を振っていた。
「礼を言われるんも、悪ないな…」
誰に言うともなく呟き、龍司は目を閉じる。コートにはまだ遥の暖かさが残っていて、それは龍司の背中を柔らかく包んだ。
車はネオンの海を真直ぐに走りぬけ、夜の闇へと消えた。
その頃、桐生と狭山は、遠くから遥の様子を眺め、気の抜けた顔をしていた。
「遥ちゃんの会いたい人って、お兄ちゃんだったんや」
「一体、何話してたんだ?遥…」
落ち着かない桐生を見、狭山は苦笑して溜息をついた。
「これから遥ちゃんと大阪に来る時は、二人一緒にいてもらわなあかんわ。一馬、今日一日中上の空なんやもん」
「そ、そうか?」
慌てる桐生を笑い、狭山は戻ってきた遥を優しく迎えた。
「おじさん達ごめんね。もう用事は全部済んだから」
「そう、なら明日は遥ちゃんが私につきあうこと。三人で遊園地行こうか!」
「うん!」
遥は嬉しそうに桐生と狭山の間に立って二人と手をつないだ。こうして長い長い遥の一日はこうして終わった。
東京に戻ってから、当分遥が虎を欲しがったのは言うまでもない。
-終-
(2007・1・20)
「大晦日」
大晦日の街はどこかせわしない。暮れや正月がイベント化してしまっていても、人には一年の総仕上げのような気持ちがどこかに
あるのだろう。桐生は遥に買い物の荷物持ちを頼まれ、近くの商店街に付き合っていた。
「えっと、黒豆は終わったから、あとはお煮しめに、栗きんとんに……海老をゆでてお酢であえてと。田作は買ったらいいか」
長い二人暮しで遥も料理上手になった。今では授業で調理実習などを行うと、賞賛の嵐だという。今年はおせちを全部作るのだと
意気込んでいるようだ。彼女の成長を桐生は微笑ましく見守った。
「おじさん、これも買っていい?」
遠くで遥が商品を手に持って声を上げる。なんだかよくはわからないが、重要なものなのだろう。彼は頷いた。
「ああ、好きにしろ」
今年は色々あった。血なまぐさいことばかりで、遥には辛い目にあわせてばかりだった。桐生は彼女の横顔を見つめる。
俺達はただ、静かに、平凡な暮らしを求めていた。それなのに周囲はそれを許すことなく、いつしか大きな陰謀の渦中に巻き込まれ
ている。時に死と隣り合わせになる時も、遥は何も言わずただ心配そうに見守っていてくれた。ありがたいものだ。
「よう、桐生じゃないか」
聞きなれた呼び声に振り向くと、そこには伊達の姿があった。その後ろで沙耶が小さく頭を下げる。
「伊達さん、どうしたんだ?」
「お前と同じだよ。お姫様の荷物持ちさ」
伊達はうんざりした様子で苦笑する。沙耶は挨拶もそこそこに遥のところへ行き、なにやら話し込んでいるようだ。桐生は伊達をつれて
人ごみから少し離れた。
「こんなところで会うとはな」
煙草を出しながら桐生が笑う。伊達も煙草をくわえるとライターを取り出し、火をつけながら答えた。
「ま、買い物とは別に、お前達がどうしてるのか気になってたのもあったんだがな」
「俺達が?」
煙を吐き出し、伊達は頷いた。
「いろいろあったろ?今年もよ」
「……まあな」
人波は途切れることなく二人の目の前を行き来する。桐生は灰を落とした。
「大阪で、遥をよそに預けようとしたことがあってな」
「おい、本当か?」
驚いたように目を見開く伊達に、桐生は苦笑した。
「色々あって、やめたんだが…すごい勢いで遥に叱られた」
「お前な……そりゃあ遥も怒るだろ」
「あいつの幸せが、よくわかってなかったんだ。俺みたいなやっかいごとを抱えてる人間に育てられて、まともな人生おくれるわけない
だろ。俺はもう慣れたが、あいつには冷たすぎると思ったんだよ。世間の目ってやつがさ」
伊達は視線を娘達に向ける。二人は楽しそうに買い物を続けていた。あの一件でも、一つ間違えば彼女達が危機や不幸にみまわれる
こともあったかもしれない。桐生の気持ちが、大切な娘を持つ伊達にも痛いほど分かった。
「だがな、俺達は選んじまった。あいつらを守り、慈しみ、育てる道を」
毅然と言い放った伊達を、桐生は静かに見つめる。
「……ああ、そうだ。だからもう迷わない。俺は命張っても遥を守る。そう決めた」
伊達は桐生を見返した。その目つきは、初めて会った時と変わらず鋭いが、今は限りなく優しい。
「生きろよ、桐生。もう二度と、諦めるな」
「そのつもりだ」
二人は再び彼女達の方を眺めた。沙耶が大きな声で値切るのが聞こえてくる。
「おじさん!これとあれ買うから半額にして!」
「おじょうちゃん、それは痛いよ~」
「それじゃ、その値段でこれとこれもつけてください」
「ちっちゃいお嬢ちゃんも言うねえ。仕方ない、売った!」
二人は飛び上がって喜んでいる。いやはや、すごいもんだ。伊達は肩をすくめて溜息をついた。
「このあとどうする?よかったらうちで蕎麦でも食うか?」
桐生は少し考え、答える。
「そうだな、遥がどういうかだが…」
そのとき、遥が桐生に声をかけた。
「おじさーん!沙耶ちゃんがみんなで年越ししないかって!行こうよ~」
「……だとさ。悪いな、伊達さん。親子水入らずの邪魔して」
かまわないさ。伊達はそう言って笑う。二人の視線の先に、大きな袋を両手に持った娘達が歩いてくるのが見えた。
「来年はいい年にしたいな、桐生」
「そうだな。努力はしてみるさ」
二人は煙草を消し、歩き始めた。誰よりも大切な家族の下へ。
-終-
(2006・12・31)
「狂気」
近江との一件以来、寄り付かなかった神室町に桐生は再び立っていた。
といっても、特に何か事件があったわけではなく、電話では伝えきれない事務連絡程度のものだ。わざわざ今住む町に東城会の人間を
出向かせるのは申し訳なかったし、本部に出向くとなると、一応四代目だった手前なにかとわずらわしい事も多い。となれば東城会の
人間も多く、旧知の人間も多い神室町がこういったことには丁度よかった。
「遥、ちょっと行ってくる。その辺でぶらぶらしててくれるか」
桐生の傍らには遥が微笑んでいる。彼女は特に不満を漏らすことなく、素直に頷いた。
「うん、後でね!」
その返事に安心して桐生は東城会の事務所に向かった。残された遥は、久しぶりの神室町を見回しながらゆっくり歩き出した。
神室町はたった数日来ないだけでも風景が変わる。飲み屋だった場所が風俗店になり、廃墟だった空間がコンビニにもなる。その
めまぐるしい変化を、遥は間違い探しのように発見しては笑い、そして残念がった。
「この裏は……まだ空き地なのかな」
神室町では、建物同士の都合上ぽっかりと空いた空間がいくつかある。ビルを建てるには狭すぎて、家を建てるには広すぎる空間。
とはいえ、このような治安も悪い街に家を建てる人間はまずいない。自然、その空き地は空き地のままとなってしまうのだ。
遥はそういった空き地の中のひとつを、そろりと覗いた。そこは薄暗く湿っていて、昼間のためかガラの悪い人間さえ見かけない。
なんとなくそのまま足を進める。周囲にはひびのはいったポリバケツや紙くずが散乱していた。その退廃した闇を見ているだけで、
気分が滅入る。そろそろ出ようと思った時だった。
「誰や」
空間の最奥で声がした。遥はひどく驚き、薄闇に目を凝らす。と、その時奥で何かが閃いた。
「え……?」
次の瞬間、何かが自分の頭上をかすめた。それは背後にあったコンクリートの壁に当たり、地面に転がっていく。
それを見たとき、遥は凍りついた。これは、ドスと呼ばれる刃物ではないか。壁を見るとドスが当たった跡が残っていた。彼女が小さ
かったため当たらなかったが、もし大人が立っていたら間違いなく命を落としていたであろう場所だ。
状況を掴みきれずにいると、奥で舌打ちが聞こえる。
「外れたんか……方向は間違いなかったんやけどな」
その声となまりに、遥は思い当たる人物がいた。しかし、今のようなことをいきなり行う人間だっただろうか。遥は思い切ってその人物の
名を呼んだ。
「真島の…おじさん?」
「その声は、遥ちゃんか……?あかん、ここにいたら危ないで」
「どうしたの?何かあったの?」
声のする方を見つめると、奥で真島の影が見える。影の形から見るに、彼は座り込んでいるようだ。そして、そこからはむせ返るような
血の臭いがした。遥は息をのむ。
「怪我してるの?おじさん!」
駆け寄ろうとした瞬間、真島の怒声が響いた。
「来たらあかん!」
威圧感に満ちた声に、遥は足を止める。しかし、この雰囲気は尋常ではない。
「なんで?手当てしないと駄目だよ。すごい血の臭いがしてるよ」
「今近寄ったら、いくら遥ちゃんでも殺すで……」
彼女は立ち竦んだ。今の真島は普通じゃない。これが殺気というのだろうか、彼がそう言うのだから彼女がこれ以上近づけば確実に
殺されるのだろう。真島は乱れた呼吸を整えつつ、言葉を続ける。
「悪いな。ワシ、今遥ちゃんが一人かどうかなのかもわかれへんねや。だから、ほっといたって」
わからない?遥は困惑しつつ彼に声をかけ続ける。
「そんなわけにいかないよ!私が駄目なら誰か呼んでくるから、言って?」
真島は沈黙する。わずかな時間だったが、遥にはとても長く感じられた。
「なら……桐生ちゃん呼べるか?」
「うん!今呼んで来るから待ってて!」
遥はその言葉を聞くなり踵を返した。早くこのことを知らせなければ。
幸いにも桐生は事務所でつかまえることが出来た。息せき切って駆け込んできた遥を桐生は驚いて見ている。
彼女は彼の手を引き、悲鳴のような声で叫んだ。
「おじさん来て!真島のおじさんが大変なの!」
桐生は、遥に案内され空き地に急いだ。確かに、血の臭いがすごい。彼は遥を外に待たせ奥へと進んだ。
「兄さん!桐生です!」
「ああ……桐生ちゃんか」
確かに真島の声だ。桐生は注意深く奥へ進み、ようやく視界に真島をとらえた。聞いていたのとは違い、彼は壁にもたれて俯いている。
「どうしたんですか、何が……」
手を伸ばそうとした瞬間、真島が動いた。桐生が異様な雰囲気に気付き身を引くが、風を切る音と共に袖口が裂ける。よく見ると彼の
手にはドスが握られていた。真島は注意深く、気配を探るように桐生と距離をとる。
「桐生ちゃん、一人か」
「……一人です。わからないんですか?」
「見えへん。まあええわ……確かに一人みたいやし。ここは信じたるわ……」
その瞬間、真島は桐生に倒れこむ。そのまま意識を失った真島を桐生は何度も呼んだ。
「おい兄さん!兄さん!遥、先に病院行ってこのことを話してくれ!」
「あっはっはっは!手間かけさせて悪かったな~桐生ちゃん。遥ちゃんももう少しで殺すところだったわ。許したってな!」
数時間後、真島は豪快に笑っていた。先ほどの彼とはうってかわってどこから見ても元気いっぱいだ。
横で桐生が呆れたように溜息をつき、遥は困ったように笑いつつ差し入れのりんごをむいた。
「確かに急所付近撃たれてましたけど、わずかにそれてましたし。体に付いた血は相手のものがほとんど。悪運が強いというか
なんというか……」
「そうそう、それや。ま、ワシやからできたワザっちゅうこっちゃ!あ、遥ちゃんおおきに!」
遥のむいたりんごをほおばり、真島は胸を張る。桐生は肩をすくめた
「それはそうと、一体なにがあったんです?」
「あー、どこの組のもんか知らんけど、ワシの命取る言うてな、あいつら突然撃ってきよってん。あいたー、思たらアホが間髪いれずに
催涙スプレーかけよってからに…それで視界ゼロや。しゃーないから、かかってくる奴らみんな叩きのめしてあそこまで逃げたんやけど
何人いるかわかれへんよってな。まあ、あの場所の狭さやったら囲まれることもないし、正面から向かってくる人間だけ殺せばいい話
やろ。今思うと、ハジキ使われたらおしまいやけどな!」
何がおかしいのか、真島は再び豪快に笑う。命を狙われた割にけろっとしているのは、彼の性格だろうか。
「それで私が一人かどうかわからなかったんだね?」
遥が納得しつつ尋ねると、彼は腕を組み真面目な顔で頷いた。
「せや。いくらワシでも気配は感じても、奴らが離れたところにいてたら人数まではわからん。もしかしたら遥ちゃんが誰かの指示で
来てるかもしれへんし。あのまま近づいてたら桐生ちゃんにしたみたいに切りかかってたで」
「あれは正直驚きましたよ。避けられなかったらどうするつもりです」
桐生が抗議するが、真島は乱暴に彼の肩を叩いて笑った。
「えーやん、桐生ちゃんなら避けられると思たから呼んだんやんか!ワシも桐生ちゃんが突然距離詰めるから驚いてしまってな~
つい体が動いてもたわ。すまんすまん!」
あっけらかんとした真島の言葉に、桐生と遥は顔を見合わせ苦笑する。
「とにかく、命に別状がなくてよかったですよ。兄さん」
「おうよ、ワシは不死身や」
冗談に聞こえないのが彼のすごいところだ。遥は元気そうな真島をほっとしたように眺め、ふと先ほどの彼を思い出していた。
あの時の真島は、野生の獣のようだった。桐生と戦っている時とも違う、無論普段の彼とも違う。誰も寄せ付けない手負いの獣。
慣れているはずの自分ですら、彼のただならぬ雰囲気に竦んだ。恐ろしい人だと思う。これが「狂気」と評される所以なのか。
どれが本当の真島なのかわからない。桐生でさえ読めないと言ったのだから、自分にわかるはずがないのだけれど。
遥は目の前で笑う真島を改めて不思議そうに眺めた。真島は肩をならすと寝台から下りようとする。
「というわけで、ワシ自主退院するわ。桐生ちゃん飲み行こ!」
「兄さん、無理です。一応撃たれてるんですから」
「大丈夫やって。ワシこう見えても超合金でできてんねんで」
「超合金でも駄目です」
「冷たいなあ、遥ちゃん、なんとか言ってやって」
「真島のおじさんは、ロボットだったの?」
「今つっこむんかい、遥ちゃん……しかも微妙にズレとる」
「とにかく、安静にしてください。俺も遥も、もう少しだけここにいますから」
真島はその言葉に満足したようだ。言われた通り寝台に戻り、嬉しそうに笑った。
長くなりそうだ、と桐生は溜息をつくが遥と目が合わせ安心したように表情を和らげる。
遥もまた桐生と笑いあい、真島の無事を心から嬉しく思っていた。
-終-
(2006・12・28)