そして彼は彼女の手を離す
その日の東城会はどこか緊張感が漂っていた。手伝いに来ていた遥は前もって表に出ることを許されず、専ら内々の雑務をこなす
ことと指示された。そういえば、今日は何かあったはずだ。遥は近くにいた構成員に問いかけた。
「今日は、何か大切なことがあるんだよね」
「そうですね。今日は次期会長の承認がありますから」
承認、遥は首をかしげて呟いた。
「これで大吾お兄ちゃんは会長になるの?」
「ちがいますよ。跡目相続はちゃんとしたしきたりに則って行うんですけど、それとは別に幹部の承認を前もって取っておくんですよ。
これが通らないと、会長にはなれません。かなり重要な会議なので、遥さんは会議室には近寄らないでくださいね」
構成員は丁寧に教えてくれる。遥は神妙な顔で頷いた。
「わかりました。あ、それなら邪魔しないように買出しに行こうかな。頼まれ物もあるし、神室町まで行ってくるよ」
「助かります。それではお願いしますね」
慌しい事務所で、構成員の一人が買出しリストを書いて渡してくれる。遥はそれに目を通してうん、と呟いた。
「それじゃ、いってきまーす!」
「承認会議は午後からなので、ゆっくりでいいですから。行ってらっしゃい」
数人の男達に見送られ、遥は出かけた。子供の自分がいれば何かと邪魔になる。遥は気を遣って駅まで駆け出した。
今からなら午後にはゆっくり間に合うだろう。
しばらく歩いただろうか、遥はふと後をつけてくる車の存在に気付いた。それが異常なことに今までの経験ですぐわかった。
少し足取りを速める。それに合わせて車は動く。気持ち悪くなり、彼女はかけだした。車は一度彼女を追い越し、彼女の目の前で停まる。
中から何人かの男が出てくると、あっという間に彼女を車に押し込んだ。
「出せ」
後部座席の男が冷たく指示する。車は通りを猛スピードでかけぬけて行った。
その頃、大吾は堂島家で会議の支度をしていた。着慣れないスーツにネクタイを締めながら、いつもならうるさく付きまとってくる遥が
いないのに気付く。
「あれ、あいついないのか」
「遥ちゃんなら、一足先に本部で手伝いをしてるよ。いいって言ってるのに、働き者だねえ」
彼の支度を見ながら弥生が溜息混じりに呟く。大吾は舌打ちして告げた。
「今日はあいつにちょろちょろされたら困るってのに……まあいい。俺、後から行くから、お袋は先に行ってくれよ」
「はいはい、わかりました。あなたも早く来なさいよ」
弥生は肩をすくめ、家を出て行く。大吾は小さく溜息をつき、煙草に火をつけた。
「ついに今日、か」
実質会長就任の決定は今日にかかっている。柏木によれば、余程のことがない限り決定の方向だと聞いた。しかし、緊張することに
変わりはない。大吾は煙を吐いた。
「……携帯、か?」
彼の普段着のポケットから着信音が流れてくる。こんな時間に誰だろう、と彼は携帯を取り出した。番号は非通知、しかしずっとかかり
続けている。大吾は電話に出ることにした。
「誰だ」
『堂島大吾だな』
何の感情も感じられない声、大吾は不審に思い返事をしない。相手はそれに構わず話を続けた。
『用件を簡潔に言う、お前の家に出入りしている女の子を預かった』
「おい……それはどういうことだ!」
流石に聞き流せない話に大吾は声を荒げる。相手は笑いを堪えながら告げた。
『神室町、中道通り裏の空き地で待ってるぜ。一人で来い。もし来なかったら……あのお嬢ちゃんは、大変なことになるだろうよ』
「ふざけんな。そんな脅しに乗ると思ってんのか」
『いいんだぜ、信じなくても。だが、後悔するのはお前だ。うちにはちょっとおかしな趣味の奴も多いからな』
余裕のある声は、嘘を言っているとは思えない。心なしか、遠くで少女の声が聞こえたような気がした。大吾は叫ぶ。
「てめえ、誰だ!」
『昔、お前に世話になった人間さ。早く来ないと……知らねえぞ』
それだけ言うと、電話は一方的に切れる。大吾はすぐに本部へと電話をかけた。しかし、遥は買出しに行ったという。
あながち嘘でもないわけか。彼は庭に煙草を投げ捨てた。
「くそ……」
時計を見ると、10時を回っている。大吾は窓に寄りかかり、頭を抱えた。
遥は空き地の隅で男達に囲まれていた。以前攫われたのとはわけが違う。異常な雰囲気が彼らを取り巻いていた。
伺うように視線を動かすと、その中の一人が彼女のもとに寄ってきた。遥はこの男が嫌いだった。生理的嫌悪感とでも言うのだろうか
自分を見る目が他の誰とも違う。
「お嬢ちゃん、どうしたの?怖い?怖いよね~」
「……来ないで」
気丈に告げると、男は何がおかしいのか気の障る笑い声を上げた。
「かーわいーい。なあ、この子貰っていい?好きにしていい?」
奥で壁に寄りかかっていたリーダー格の男は、唾を吐き捨てると首を振った。
「まだだ。どんな関係か知らないが、こいつは堂島大吾への切り札だ。手え出すんじゃねえ」
目の前の男は露骨にがっかりした声を上げる。そして、遥に手を伸ばすとおもむろに彼女の髪を撫でた。
全身が総毛立つような気色の悪い感覚。そこから自分が汚れていくようで遥は嫌悪感を露にした。
「お兄……大吾さんは来ないもん。あんた達の為に来るわけないもん!」
「元気だな、ガキ」
冷たい目で取り合わない男に、遥は睨みつけた。
「今日は大切な日なんだから!あなたに構ってる暇ないんだから!絶対来ないよ。残念でした!」
「それは不幸だったな。大吾にとっても、お前にとっても」
「……え」
目を見開く遥に、先ほどの男が後ろから抱きつく。その感覚がひどく気持ち悪い。遥は叫んだ。
「放して!」
「なあ、もういいだろ?まさかあいつか来るまでお預け?」
男は舌打ちし、首を振った。
「ガキが来ないと言ってんだから、来ないんだろ。好きにしろ」
男は歓声をあげ、遥を抱き上げる。彼女は暴れるが、この男には全く効いてないらしい。遥はうち捨てられた車の後部座席に
押し込まれた。男の手が迫る。何かは分からない、しかし何かひどく恐ろしいことが起きることだけはわかった。
「嫌……!」
悲鳴のような声をあげ、遥は瞳を閉じた。
「おい!来たぞ!」
見張りの男が叫ぶ。遥を襲おうとした男の手が止まる。その場にいた若者達が視線を向ける。そこには息を切らして立ち尽くす
大吾がいた。走ってきたのだろう、大吾は荒い息を整えながらゆっくりと皆を睨みつけた。
「来たぞ……遥は、どうした」
リーダー格の男は口の端に笑みを浮かべ、顎で遥の方を促した。
「そっちでお楽しみだ」
「……お兄ちゃん」
男に押し倒され、泣きそうな顔を向けた遥を見、大吾は表情を変えた。その目は憤怒に彩られる。
「返せ……こいつは、俺の女だ」
その場にいた若者達は、大吾に気圧されたようにその場を動けない。リーダー格の男は冷ややかに告げた。
「断る。てめえはここで死ね!」
促すと、若者達は金属バットや木刀を持ち出してくる。あっという間に大吾は取り囲まれた。
「やめて!お兄ちゃん、逃げて!」
「黙ってな!」
遥を押し倒していた男は彼女を羽交い絞めにすると、ナイフを突きつける。遥は言葉を失った。
「相変わらず、汚ねえ手を使いやがる」
大吾は吐き捨てるように告げた。リーダー格の男は声を上げて笑った。
「覚えてたのか、説明する手間が省けたな!さあ、抵抗すればガキの顔に傷が付くぞ。お前ら、やれ!」
若者達は一斉に彼に襲い掛かる。次の瞬間、遥の耳に次々と鈍い音が聞こえてきた。
「嫌!やめて、やめてよ!」
刃物を突きつけられていることさえ忘れ、叫び暴れる遥に面食らったのか、男は怒声を上げた。
「おい!ガキ、暴れるな!」
遥は視線を彷徨わせ、男の足元に目をやった。そして思い切ったように大きく息を吸うと、渾身の力を込めて向こうずねを踵で蹴った。
「ぐぁ……!」
男は思わず手を緩める。遥はナイフに構わず飛び出した。異変を感じて手を止めた若者達の間をすり抜け、遥は大吾のもとへ駆け寄る。
しかし、足がもつれ遥はあと少しのところで転倒してしまう。
「このガキ!」
近くの若者が遥を捕まえようと手を伸ばした。が、その腕が何者かに掴まれる。若者が嫌な気配を感じ視線を動かすと、目に飛び込んで
きたのは今まさに大吾が拳を振り下ろす瞬間だった。
「こいつに触んじゃねえ!」
若者は顔を歪ませ、次の瞬間地を這った。皆、何が起こったのかわからず立ち竦む。彼は遥の顔を確認すると、口の端に滲んだ血を
袖で拭いた。白いシャツが赤く染まる。
「馬鹿野郎……お前、攫われすぎなんだよ」
「ごめんなさい…私のせいで……」
大吾はスーツの泥を払い、ゆっくり立ち上がる。その鬼気迫る気迫に誰もが後ずさった。
「形勢逆転だ。用意はいいな」
言い放つと不意を付くように大吾は近くの男の鳩尾をを蹴り上げる。その男が取り落とした木刀を掴み、一人、二人と一撃の下に
叩きのめしていく。戦意を喪失した若者たちに勝機はない。残るは二人、リーダー格の男と、遥を襲った男だ。
「昔のことを、いつまでも根に持ちやがって……どこまでも陰気な奴だよ、お前らは」
この男達とは、大吾と昔からの因縁のようだ。折れた木刀を投げ捨てる大吾に、リーダー格の男は殴りかかった。
「うるせえ!死ね!」
酷い怪我を負わされているとは思えないほどの素早さで、大吾は拳を後ろに避ける。と、同時に隙の出来た腹部に拳を叩き込む。
痛みで態勢を崩した男の首に、容赦なく組んだ両手を振り下ろした。間髪入れず下から膝で顔面を蹴り上げる。やがて男は動きを止めた。
勝敗は決した。
「次はお前か」
遥を襲った視線を向ける。男は状態をかがめ、大吾にナイフを向けた。
「な、なんだよ。ちょっとあの子と遊んだだけじゃねえかよ」
大吾は拳を握り締めた。先程の光景が彼の頭にこびりついて離れない。ゆっくり近付くと、大吾は呻くように呟いた。
「お前だけは、絶対許さねえ」
「言ってろ!」
男のナイフは真直ぐ大吾に向かってくる。大吾はそれを避けず、あえて腕でそれを受け止めた。
「嫌!」
悲鳴のような遥の声が響く。ナイフの切っ先は大吾の右腕に突き刺さる。避けるかと思っていた男は、大吾の思わぬ行動にナイフを
放棄した。彼はそれを見逃さず、左拳を男の顔面に叩き込む。呻き声と共に壁に吹き飛ぶ男を、大吾はまだ許さない。
「あいつに何をした」
横たわる男の腹部を蹴り上げる。男は血を吐きながら咳き込んだ。
「な、なにも……」
「何もだと…それを信じると思ってんのか!」
大吾の足が男の顔にめり込む。男は後ずさりながら何度も首を振る。
「本当だ!何にもしてねえ!もう何もしねえ!」
「当たり前だ、下衆野郎」
吐き捨てるように告げ、二、三度蹴りを食らわせる。男が意識を失ったのに気付き、大吾は攻撃をやめた。
「大吾お兄ちゃん!」
振り向いた大吾に、遥は抱きついてきた。泣いているのか、少し震えている。
「……大丈夫か」
遥は頷き、ふと思い出したように声を上げた。
「お兄ちゃん、腕!」
「腕?」
驚いていると、遥は彼のシャツを捲る。そういえば、刺されたのだなと今気付いた。思ったより傷は浅いが、出血が酷い。
遥はポケットからハンカチを取り出し、腕に巻いた。
「血、止まるかな……ごめんなさい」
ハンカチを結ぶ指が震えている。彼は遥を手伝いながら、問いかけた。
「時間がない。東城会に帰るぞ」
先に立って歩くと、遥の足取りがおかしい。片足を庇っているようだ。
「足、どうかしたのか」
突然の指摘に驚き、遥は慌てて首を振った。
「ううん。大丈夫!早く行こう!」
転んだ時に足を捻ったのか。大吾は彼女に歩み寄り片腕で担ぎ上げた。
「い、いいよ!大吾お兄ちゃん怪我してるのに」
困った顔をする遥を無視し、大吾は歩き出した。
「うるせえ、お前に合わせてるといつまでたっても帰れねえだろ」
「駄目だって、ねえ!下ろして~!」
わめく遥を叱りつけながらしばらく歩くと、聞きなれた声がする。振り向くと大吾の昔の仲間だった。
「兄貴!どうしたんですその格好…!」
「いや、これは……」
なんでもない、と言おうとして大吾は思い出したように仲間に詰め寄った、
「そうだ、お前車乗ってたな!今出せるか?!」
「は、はい!」
「乗せてくれ!東城会だ!」
その頃、東城会本部の会議室ではピリピリしたな雰囲気が漂っていた。何の報告もなく次期会長が会議を欠席。しかも行方も
わからないでは、何かあったと考えるのが妥当だろう。
「こいつはおかしいぜ」
幹部の一人が口を開く。他の幹部達も視線をめぐらせた。
「まさか、ヒットマンに……」
「およし!」
弥生は叫ぶ。おかしい、たとえ次期会長を狙ったとしても、今事を起こして利を得る組がどこにある。何か理由があるはずだ、何か……
顔色が悪い弥生に、柏木は囁いた。
「姐さん、組のもんに探させましょう。何かあってからでは」
「……今、事を荒立てたくない。もう少し待つ。いいね」
皆は顔を見合わる。その時だった、会議室の扉が荒々しく開いた。
「申し訳ありません。遅れました!」
皆は大吾の姿を見て唖然とする。顔の傷、汚れ、所々裂けたスーツ。見ただけで何かあったとわかる。
「だ、大吾!お前どこで何をしてたんだい!」
弥生が思わず立ち上がり、叫ぶ。しかし大吾は表情も変えず、淡々と告げた。
「喧嘩しておりました」
「喧嘩……」
幹部達がざわめく。流石に柏木も眉をひそめた。幹部の一人が怒気をはらんだ声を上げた。
「こんな重要な日に、連絡もなしに行方をくらませ、挙句の果てに喧嘩してた、だと。それがどういうことか、わかっているんだろうな!」
「申し訳ありません」
大吾は深々と頭を下げる。弥生は眩暈を起こしたように力なく座り込んだ。
「情けない……こんな子だったとは思わなかった」
大吾の様子を眺めていた柏木は大きく溜息をつき、弥生に告げた。
「仕方ありませんね。今日のところは承認会議は中止ということに。大吾の会長就任の承認は無期延期。これでよろしいですか」
「異議なし」
「やれやれ、とんでもねえ跡目だなこれは」
「元気がありあまっとるのはいいが、会長の椅子狙っとる連中に餌ぁ与えるような真似するなよ」
皆は口々に不満を漏らし、去っていく。残された大吾、弥生、柏木は黙りこくった。先に沈黙を破ったのは弥生だ。
「理由があるんじゃないのかい」
「喧嘩は喧嘩だ。売られたから買った。それだけだ」
取り付く島もない。彼女は首を振り大吾を追い払うしぐさをした。
「……もういい。大吾、お前は家で謹慎。傷の手当てもしておくんだよ。このことで跡目の話、覚悟しておくんだね」
「はい」
大吾は踵を返し、部屋を出て行く。弥生は大きな溜息をついた。
「一体どうしちまったんだろうね。あの子は……」
「姐さん……」
柏木が彼女を気遣った時、小さく扉が開いた。顔を覗かせたのは、遥。
「ああ、遥ちゃん。今はちょっとかまってやれないんだよ……出て行っておくれ」
遥は唇を噛み、俯く。その尋常でない雰囲気に二人は顔を見合わせた。やがて遥は震える声で話し出した。
「弥生さん。今日のお兄ちゃんが会議に来られなかったの……私のせいなの」
「なんだって……?」
「ごめんなさい。今日が大事な日だって知ってたのに、私、私……!」
ぽろぽろと涙を零す遥に、弥生と柏木はは駆け寄った。
「どういうことなんだい?泣かないで、教えておくれ」
遥は小さく頷くと、今日あった出来事を話し始めた。自分が攫われたこと、大吾はそれで呼び出され怪我をしたこと、泣きながらでは
あるが、彼女なりに分かりやすく説明した。弥生は何度も頷き、彼女の肩を叩く。
「遥ちゃん、教えてくれてありがとう。でも、遥ちゃんが悪いわけじゃないよ。本当に怖かったね、ごめんね」
「大吾お兄ちゃんは?お兄ちゃんどうなるの?」
柏木と弥生は顔を見合わせる。先に口を開いたのは柏木だった。
「大吾の会長就任は先延ばしになったよ」
遥は思わず顔を上げ、柏木を見つめる。彼女が一番恐れていたことが起きてしまったようだ。弥生は苦笑する。
「ごめんね、遥ちゃん。こればっかりはしょうがないんだよ。あなたは心配しないで今日はもうお帰り。良かったら、大吾の手当てを
してやっておくれ」
「……はい」
遥は肩を落として部屋を出て行く。弥生は腕を組み、溜息をついた。
「まったく、あの子は何にも言わないで……ええかっこしいなんだから」
「さて、どうします。こんな理由では幹部連中は納得しませんよ」
そうだね、と弥生は眉をひそめる。そして苦笑を浮かべた。
「ほとぼりが冷めるのを待って、あの子に詫びを入れさせるよ。それからまた当分は会長修行だね。それで認められないなら……
仕方ないね」
「わかりました。こちらからも幹部達には話してみます」
「……悪いね、柏木。あんな馬鹿息子に」
申し訳なさそうに視線を落とす弥生に、柏木は苦笑を浮かべ、首を横に振った。
「いいえ、こういう役回りは慣れてますから」
家に帰ってから、大吾は一度も外に出ることなく部屋に引きこもっていた。後から戻った遥は、弥生に言われたように手当てをするため
救急箱を持ち大吾の部屋に向かった。
「お兄ちゃん、入るよ」
中からは返事もない。遥はゆっくり襖を開いた。視線を動かすと、寝室で大吾が大の字になっている。寝てはいないようだ。
「なんだよ」
近くに座る遥を見もせず、ぶっきらぼうに告げる大吾に遥は言葉を詰まらせた。
「怪我の手当てしなくちゃ」
大吾はゆっくりと起き上がり、近くの壁にもたれかかった。さすがに体が痛む。
「お前、足はどうした。そっちの方が大変だろ」
そうだった、と遥は足を伸ばす。白い足首は少し腫れていた。
「後でやるよ。最初はお兄ちゃんね」
遥はそう言うと薬をつけ始め、腕には包帯を巻いていく。上手とは言えないが、一生懸命なのはわかる。ふと、彼は遥の首筋に
目をやる。
「おい、お前も怪我してんじゃないか」
「え?」
大吾が彼女の首に触れる。ちり、と痛みが走り、遥は顔をしかめた。
「あれ……本当だ」
近くの鏡に映して改めて驚く。恐らく、突きつけたナイフがかすったのだろう。遥は小さく笑った。
「あはは…忘れてました」
「忘れてたじゃないだろ。痕になったらどうするんだ、見せてみろ」
大吾が彼女の首の手当てを始める。遥は思わず身を竦ませた。
「しみるよ~」
「我慢しろ」
幸い、そう大きな傷ではない。大吾はほっとしていた。痕に残る怪我などさせたら、自分自身が許せない。大吾は溜息をつき、彼女に
絆創膏を張った。
「ありがとう」
遥は礼を言い、不意にくすくすと笑い始めた。
「なんだよ」
「なんか、おかしくなっちゃった。お兄ちゃんも私もなんかボロボロなんだもん」
「……そうだな」
二人は顔を見合わせ、珍しく声を上げて笑い始めた。笑いもおさまり、遥は足に湿布を貼っている。やがて、できた、と微笑む
彼女の顔がぎこちない。やはり痛むのだろうか、彼は眉をひそめた。
「どうした?他にも痛む所があるのか」
遥は慌てて首を振ると、自分の体を抱きしめた。
「……ううん。大丈夫。なんか、今頃怖くなっちゃった」
「遥…」
「あの人、すごく嫌だった。よくわからないけど、すごく気持ち悪かった。なんでだろう、いままで攫われて怖くても、こんなこと
思わなかったのに」
それは恐らく、あからさまな男の本能に晒されたからだろう。女である自分を蹂躙される恐怖は、大人でも恐ろしいという。
彼女は何も分かっていない。それが大きなトラウマになるかもしれないと思った時、大吾は自分の拳を握り締めていた。
深刻な表情を心配しているのか、顔を覗き込む遥に、大吾は言葉を選びながら問いかけた。
「その……あいつには……何も、されなかったか?」
遥は思い出したくない様子で考えていたが、やがてぽつりと呟いた。
「……された」
「なんだと!?」
大吾は思わず身を乗り出す。遥は彼から視線を逸らし、重い口を開いた。
「触られたの」
「触られた?……いや、もういい。これ以上は言いたくないなら、いい」
彼は口ごもる。何かあったのなら、これ以上彼女に思い出させるのは酷だ。あの野郎、でまかせ言いやがって。大吾は呻くように呟く。
遥は消え入るような声で告げた。
「髪……触られた」
「は?」
間の抜けた声を上げる彼に、遥は汚いものを見るように自分の髪を摘み、眺めた。
「髪を触られたの。ここだよ。気持ち悪い。切っちゃいたい」
髪か。大吾はほっとしたように大きく息を吐く。考えていたことよりは物事は深刻じゃないようだ。
「お前…髪くらい」
「違うもん!」
突然怒りの声を上げる遥の勢いに気圧され、彼は身を引く。彼女は大吾から目を離さない。
「私は、嫌いな人に髪なんて絶対触らせたくない。髪はすごく大切なんだから。絶対嫌!」
「おいおい……」
大吾は苦笑を浮かべる。そんな大げさな、そう思った。しかし、彼女は真剣だ。
「……やっぱり切る!」
「え」
遥は救急箱の鋏を手に取り、髪を一房掴む。彼は驚き、慌てて彼女から鋏を奪った。
「おまえ、急に何してんだよ!馬鹿!」
「だって、本当に嫌なんだもん!」
遥はぽろぽろと涙を零す。そこまで思い詰めてたのか、大吾は溜息をついた。
「遥には、短い髪は似合わねえよ」
そう言うと、先ほど遥が摘んでいた髪に触れた。遥は驚いたように顔を上げた。
「嫌か」
思わず離そうとする彼の手を握り止め、遥は首を振った。
「……平気」
「そうか」
「嬉しい」
涙の残る瞳で遥は微笑む。大吾は穏やかな顔で、艶やかな髪を弄んでいたが、やがて呟いた。
「……お前、もう俺に近付くな」
突然の言葉に、遥は驚いたように大吾を見つめる。彼の瞳は真剣だ。
「俺の周りにいれば、またこんなことが起こる。その度にお前は傷つくだろう。お袋がうるさいから、家にいるのは構わない。勝手にしろ。
だが、東城会や俺には一切関わるな。いいな」
「お兄ちゃ……」
何か言おうとする遥を遮るように、大吾は話を続ける。
「今日のことでよくわかった。俺は桐生さんみたいに、完璧にお前を守ってやれない。そんな余裕もない。そんなんでお前に近くに
いられたら迷惑なんだよ。もう、兄妹ごっこは終わりだ。誰が何と言っても、俺はもう、お前に関わらない」
大吾は話し終えると、急に掴んでいた髪を引っ張る。
「痛…」
眉をひそめ、遥は引かれるがまま彼に近付く。大吾はしばらく遥を見つめ、おもむろに彼女の髪に口付けた。
「じゃあな。遥」
大吾は髪を手離し、部屋から出て行く。遥は呆然としていたが、慌てて追いかけた。いや、追いかけようとしたが足が言うことを
きかなった。
「大吾お兄ちゃん!」
彼女の呼びかけに、何も返ってはこなかった。邸内は静寂に包まれ、寂寥感だけが残る。遥は大吾の触れていた髪を握り締め
いつまでもその場を離れなかった。
その日、大吾は部屋には戻らなかった。
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長い夜
それは本当に突然な誘いだった。相手は桐生。しかし、誘いという形式を取ってはいたが、桐生の口ぶりは
「ちょっと出て来い」
と、ほとんど命令に近い一言だった。
昔の上下関係の名残が多少ならずとも残っている大吾には、情けないが今でもこの言葉に逆らうことはできない。しかも、桐生が
ここまで強い口調で誘うからには、何か深刻な用件でもあるのだろう。彼は指定されたバーに向かった。
ミレニアムタワーの前を曲がり、少し行くとそのバーはある。その名をバンタムといい、ささやかながら落ち着いた雰囲気のこの店は
神室町でいい酒を飲ませてくれる店で有名だ。寡黙ではあるが親しみのあるマスター、戸部は酒に関する造詣も深く、頼めば客の
好みに合わせた酒を出してくれたりもする。正統派な酒場といえるだろう。
大吾は木製の扉をゆっくり開いた。落ち着いた照明、店内に流れる音楽はスタンダードなジャズナンバーだ。マスターは大吾に気付き
頭を下げた。
「いらっしゃいませ」
大吾は何も言わず店内に入っていく。そこで目に入ったのは、カウンターに座るいつものグレーのスーツ。誘ってきたはずのこの男は
こちらを振り向きもしないで、煙草を燻らせている。グラスの中にはほとんど酒は残っていない。もう一杯やっているようだ。
「待たせたか」
声をかけながら、彼は桐生の横に座る。桐生はいや、と煙草の灰を落とした。
「何になさいますか」
マスターが笑顔を向けてくる。桐生は空になったグラスを出し同じものを、とオーダーする。大吾もそれに続けた。
「スコッチをダブルで、氷はいらねえ」
「かしこまりました」
目の前では、几帳面な動きでマスターが酒を用意し始める。桐生はふと大吾を見た。
「悪かったな、急に」
「急なのは慣れてるよ」
大吾が肩をすくめる。それもそうだ、と桐生は苦笑した。そのうちに二人の前にグラスが並ぶ。琥珀色とも違う、香り立つような深い色は
その酒の年代を感じさせる。グラスを手に取り、大吾は飲むでもなくそれを揺らした。
「で、何の用だ?」
桐生は短くなった煙草を消し、マスターの出した水割りを飲んだ。店は二人以外客はいない。静かなものだ。
しばらく酒の余韻を楽しみ、桐生はふと表情を消した。
「お前の話ばかりするんだ」
「……は?」
気の抜けた声を上げる大吾に、桐生は視線を送った。
「遥が、家に帰ってはお前のことばかり話すようになった」
「ちょ……そ、それがなんだってんだ」
大吾は彼の目つきがいつになく鋭いのを見逃さなかった。桐生のこの顔は、少々機嫌が悪い時の顔だ。
「お前、遥に手ぇ出してないだろうな」
いきなり話の核心に迫られ、大吾は思わず声を荒げた。
「ふざけんなよ!あんな子供をどうこうしようなんて考えるほど、俺は女に困っちゃいねえ!」
「なら、いい」
桐生はぞんざいに言葉を返し、苛立たしく煙草に火をつける。その表情は完全に納得していないようだ。勘弁してくれ、と彼は
頭を抱える。しかし、桐生をそこまで思い詰めさせるようなことを遥は話していたのだろうか。大吾は顔を上げた。
「遥…なんか言ってたのか」
溜息混じりに煙を吐き出し、桐生は視線を動かした。
「知りたいのか」
「そんなわけじゃねえけど、知らないところで俺の話されたら、気にもなるだろ」
大吾の言葉に、彼は押し黙る。桐生の口はいつもより重い。そんなに深刻なことか、大吾は唾を飲み込んだ。
やがて、思い切ったように桐生は口を開いた。
「……大好きらしい」
「あぁ?!」
「お前が……大好きだと……」
それだけ言うので精一杯だったようだ。苦しげに呟き、彼は俯く。こんなにも打ちひしがれている桐生を、大吾は半ば呆れたように
眺めた。
『親バカだ…親バカだよ桐生さん……』
言いたい気持ちを飲み込むように、大吾は酒を口にする。好きな酒だが、今日はことのほか苦い気がした。
「それくらい、東城会でいくらでも言ってる。ちなみに、お袋も『大好き』だとよ。龍司は『好き』、柏木さんも『好き』って言ってたな
子供ってそんなもんじゃねえのか」
桐生はカウンターを拳で叩く。マスターはいつもと違う桐生に目を丸くした。
「問題なのは、独身の男で大好きだと言ってるのが大吾、お前だけだってことだ!それは特別ってことじゃないのか?!」
「そんなの言いがかりだろ!関係ねえ!」
「とにかく、姐さんが言ってくれた手前、今夜も遥は堂島の家に預けるが、間違いは起こすなよ。絶対だ」
「桐生さん!」
「返事はどうした!」
ここで、かつての上下関係が露になった。大吾は自分でも嫌になるほど、この高圧的な命令に逆らえない。自分ではそんな気は
毛頭ないのだが、もう極道でもない桐生にここで諾と言うのも気分が悪い。無言で席を立ち、金をカウンターに叩きつけた。
「親バカ」
「なっ…おい、大吾!」
振り向きもせず、大吾は店を出た。いや、振り向けなかったのだ。桐生の命令に従わなかったことが、大吾にはひどく恐ろしい。
もしかつての桐生なら、こんな返答は絶対に許さなかったはずだ。未だにこんな反抗しか出来ない自分が我ながら情けない。
通りをぶらつきながら、大吾は小さく舌打ちした。
「兄貴!」
遠くで声がかかる。目を凝らすと、そこには久しぶりの顔が何人か見えた。
「お前ら…もう俺は兄貴じゃねえ。そう言ったはずだ」
目の前で嬉しそうに笑う若者達は、かつてこの辺りで遊び歩いていた頃の仲間だ。昔は大吾を『兄貴』と慕い、鬱陶しいほど後を付いて
歩いていたものだ。しかし、跡目に決まった時からもう彼らとは会わないことにしていた。彼らは極道とは違うのだから。
「それでも、兄貴は兄貴っすよ。よかったら、久しぶりに飲みに行きましょう!」
「いや、俺は…」
断ろうとすると、別の男が声を上げた。
「いいじゃないですか!店の女も兄貴のこと待ってんですよ!」
「久しぶりにパーッと!ね」
口々に誘われ、大吾は表情を緩めた。どうしようもない気分だったが、彼らと昔のように無茶をするのもいい気分転換だろう。
苦笑しながら大吾は頷いた。
「しょうがねえな、お前らは」
皆は歓声を上げつつ大吾の後をついて歩き始める。徒党を組んで賑やかに歩いていく一団を、通行人は珍しそうに眺めていた。
弥生に引き止められ、遥は堂島の家にもう一泊することにしていた。聞くところによると、桐生は今日夜遅くなるとか。
確かにいつ帰るかわからない桐生を一人で待つのも寂しい。そうそう堂島の家にも来ることはないのだから、と遥は言葉に甘えさせて
もらった。
屋敷が眠りについて数刻。すっかり熟睡していた遥は、玄関を開ける大きな音で目が覚めた。弥生の怒声も聞こえる。その異変に
遥は寝間着のまま玄関に向かった。
「大吾!あんたそんなになるまで飲んで!」
弥生の後ろから覗くと、大吾が玄関で大の字になっていた。遥は驚いて駆け寄る。
「お兄ちゃん!大丈夫?」
「うるせえ」
大吾は彼女を押しのけて起き上がり、ふらふらと自分の部屋に向かって歩いていく。途中、何度も壁や襖にぶつかっていくのが心配だ。
「大吾おにいちゃん、大丈夫かな」
「放っておきなさい。もう、夜遊びはとうにやめたと思ってたのに。明日は説教だね」
弥生は頭が痛い、と額を押さえ部屋に戻っていく。遥はしばらく悩んでいたが、大吾の向かった方にかけて行った。
急いで追いかけ、大吾は部屋の前で捕まった。遥は慌てて彼の部屋に入っていく。
「今お布団敷くから!まだ横になっちゃ駄目だよ」
「……放っておいてくれ」
「駄目だよ、風邪ひいちゃう」
言いながら、遥はてきぱきと布団を敷いていく。大吾は上着を脱ぎ、放り投げた。
「お前、なんでうちにいるわけ」
「なんでって……弥生さんが言ってくれたから」
「それだけか」
遥は怪訝な顔で大吾を見る。彼は苦しげに首を振り、手を出した。
「水」
「あ、はい」
彼女が部屋の冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出す。大吾はそれを一気に飲み干し、空のペットボトルを机に置いた。
「寝る」
「え?」
言うが早いか、あっという間に大吾は布団に倒れこみ、側にいた遥は避ける間もなく巻き込まれた。うつ伏せのまま、遥は大吾の
体の下でもがく。
「お、重い。お兄ちゃん重い!苦しい~」
なんとか横に逃げ、遥は首を振った。
「もう、窒息するかと思ったよ…お兄ちゃん、布団、布団かけて」
大吾の体の下にある掛け布団を引きずり出し、かけてやる。ふと、大吾は寝返りを打ち朦朧とした面持ちで薄目を開けた。
「なにしてんだ」
ここまでしてやっていて、何をしてるもなにもないものだが。遥は彼を覗き込んだ。
「布団、かけてるんだよ」
「お前、付き合ってきてそんなことしたことねえだろ…」
なんだか話が噛み合わなくなってきた。遥は首を傾げる。こんなに酔っている人間を介抱したことがないので、勝手が分からない。
「それじゃ、行くね」
立ち上がろうとすると、大吾はいきなり遥を引っ張った。
「どこ行くんだよ…」
「部屋に帰るんだよ~」
どうしたらいいものか。遥が考えているうちに、大吾は彼女を更に引き寄せると彼女の肩を抱いて表情を曇らせた。
「そんなに冷たい女だったか…?朝までいろよ」
冷たいと言われても。さすがに彼が人違いをしているのに気付き、遥は彼の胸の上で首を振った。
「駄目だよ。お兄ちゃん、誰かと間違えてる。私だよ、遥だよ!」
「遥…?どうでもいい……眠い」
「どうでもよくない~」
すでに寝息をたて始めている大吾を、遥は困った顔で見つめた。とりあえず、手を離してくれるまで、と遥はそのままでいることにする。
胸に顔を寄せると、酒と香水の臭いがした。いつもの大吾の香水とは違う、女物の香水の香りだ。
「この人と間違えたのかな」
遥は呟く。大人びた甘い香り。こういう香りの似合う人が好きなのか、彼女は想像をめぐらした時、大吾は遥の方に寝返りを打った。
その拍子に力が緩められ、そっと腕の中から出ようとすると、大吾は口を開いた。
「寝てないのか」
驚いていると、彼は遥の背中に腕を回し、何度か優しく叩く。無意識に腕の中の女を寝かしつけているようだ。
「寝ろ」
そう言うと、また彼は寝息をたて始めた。遥は呆れたように彼を見つめていたが、やがて眠そうに目を擦り始めた。
そういえば、真夜中に起こされたのだと思い出す。こんなことをされたからか、遥は急に眠くなってきた。
「もういいや…おやすみなさい」
遥は呟いてそっと目を閉じた。静かな夜は、こうやって更けていく。
「ん…あー……頭いてえ……」
朝、目が覚めた大吾は酷い二日酔いに襲われた。昨日の記憶はほとんどない。昔の仲間と飲みに行って…と思いをめぐらすが
そこから家までのことが彼にはさっぱり思い出せない。そこで、ふと自分の横にある暖かな存在に気付く。割れそうな頭の痛みに
顔をしかめ、大吾は布団をはいだ。
「…………え」
そこには丸くなって眠る遥。思わず大吾は後ずさった。なんで彼女がここにいる?しかも一緒に眠っているのはどういうわけだ?
思い出そうにも思い出せない。そうしている間に目が覚めたのか遥は目を擦りながら起き上がった。
「おはよ~」
「お、おいお前…なんでここに」
遥は目を丸くして信じられない、と口を開いた。
「お兄ちゃんひどいんだから、いきなり酔っ払って帰ってきたんだよ。私がお布団敷いたらいきなり…(倒れこんできて)、しかも
私が駄目だって言ってるのに(手を)離してくれないし!『朝までいろ』って無理やり私を(寝かしつけたんだから)…」
寝起きの為か、遥の言葉は所々聞きとれない。そのためか、思わぬ事態を想像し大吾の顔は蒼白になっていく。
遥は欠伸交じりに伸びをすると、立ち上がった。
「でも、お兄ちゃん優しかった。それじゃ、行くね」
「は、遥!俺はお前に何かしたのか!?」
部屋を出た彼女を大吾は追う。廊下に出た彼の目に飛び込んできたのは、眠そうに振り向く寝間着姿の遥と、昨夜の大吾を叱りに来た
弥生。事態はまさに最悪の一途をたどっていた。弥生はしばらく目の前の状況が飲み込めなかったようだったが、やがて慎重に
問いかけた。
「は、遥ちゃん。昨日の夜は、部屋で寝たのよね?今大吾を起こしに来たのよね?」
その雰囲気が尋常ではないことを知ったのか、遥は申し訳なさそうに頭を下げた。
「ごめんなさい…お兄ちゃんの部屋で寝ちゃいました。お布団かけに行ったら部屋に帰られなくなっちゃったんです」
「か、帰られなくなったって?」
「えっと、大吾お兄ちゃんが別の女の人と間違えたらしくて…」
説明が難しいので口ごもる遥を、弥生は別の受け取り方をしたらしい。優しい表情は消え、その顔は修羅と化した。
「大吾」
その威圧感漂う表情の弥生は、いい年をした男でも震え上がる。大吾もまた、母の尋常ならざる雰囲気に身を引いた。
「違う。きっと、いや、絶対違う」
「お黙り。いいから来な」
「もっと遥に昨日のことを聞いてくれよ!絶対誤解…」
「あんた、こんな小さな女の子に、そんな恥ずかしいこと言わせる気かい!?もう、今日という今日は許さないよ。場合によっては
指三本でも許さないからね!」
引きずられるように弥生に無理やり連行されていく大吾。よく状況が飲み込めてない遥は、二人に声をかけた。
「朝ごはんはどうしますか~?」
二人は答えずに去っていく。遥は困ったように首をかしげ、着替える為に自室へ戻って行った。
それから遥は朝食を用意して待ってはいたが、二人とも帰ってくることはなかった。その後、彼女が二人に昨夜の真相を話して
聞かせるまで、弥生の折檻…もとい、説教は続いたのだった。そこで弥生が下した罰は、大吾の三ヶ月の禁酒。さすがに大吾も
それに異論を唱える気にならなかったらしい。ついでに遥にも身の安全の為に一ヶ月間大吾に接近禁止が言い渡された。
それから遥は、当分東城会に来るたびに遠くから働く大吾を眺めていたという。
このことは、珍しく大吾に頼み込まれ桐生に話していない。こんなに疑問に思う事だらけなのに、聞いたり出来ないのが残念だ。
遥は口止め料として彼に買ってもらったケーキを食べながら、何故言ってはいけないのかぼんやり考え、ぽつりと呟いた、
「男心って難しい」
休日
「お休み?」
朝食の席、遥は大吾の茶碗にご飯を盛りつつ聞き返した。大吾は遅めの朝食をとりながら欠伸交じりに答える。
「まぁな。昨日おふくろが突然言ってきた。当然だろ、このところずっと本部に詰めてたんだから」
「私、極道の人ってお休みないのかと思ってた」
湯気の立つ茶碗を渡し、遥は笑う。今日は朝早く弥生が本部に向かった為、食事は大吾と二人だ。純和風のメニューは
栄養バランスも整っている遥の自信作である。美味いとも不味いとも言わず、大吾は目の前のおかずを口にした。
「まあ、特殊な稼業だからな。今日はおふくろに任せて久しぶりにゆっくりさせてもらうさ」
遥は遅まきながら自分も食事を始めていたが、ふと上目遣いに彼を見た。
「私もお休みだよ」
「土曜なんだから、当たり前だろ。小学生」
素っ気無い返事にへこたれず、遥は尚も話しかける。
「どこか行きたいな~」
「行けば」
遥の方を見もせず大吾は答える。遠まわしではだめか、と遥は彼の顔を覗き込んだ。
「一緒にお出かけしたいな」
「却下」
「なんで?」
「折角の休日に、ガキなんか連れて歩けるか」
遥は不満そうに頬を膨らませる。そして、急に思い出したように手を叩いた。
「それじゃ、龍司お兄ちゃんに遊んでもらおう!」
思わぬ名前が飛び出し、大吾は思わずむせ返る。ひとしきり咳き込んだ後、茶をすすると身を乗り出した。
「どうしてそこで龍司なんだよ!つーか、お前龍司と遊ぶような仲なのか?!」
「前におじさんに大阪に連れて行ってもらったの。そこで龍司お兄ちゃんと会って、仲良くなったんだよ。いつでも遊びにおいでって
言われたもん」
大吾はそれを聞き、おもむろに激しく卓を叩いた。
「お前、ふざけんな!龍司は近江の奴なんだぞ、東城会に喧嘩吹っかけて…」
「関係ない」
「な……」
遥は不満げに大吾を見返した。その目は誰の意見にも左右されることのない固い意思に満ちていた。
「私には東城会とか、近江とか関係ないもん。龍司お兄ちゃんは私を助けてくれたんだよ。それに優しくしてくれた。だから私
龍司お兄ちゃんが好き」
彼女の発した言葉が彼にとって思いのほか大きなダメージだったようだ。混乱した頭を整理しながら大吾はやっとの思いで言葉を発した。
「好き……好きだと!?お前、あんな奴に!」
その様子に、話にならない、と遥は溜息をつくと、呆れた顔で立ちあがった。
「大吾お兄ちゃん、あんな奴とか失礼だよ。もういい。今から龍司お兄ちゃんに連絡とって来る。今からなら昼過ぎには着くもん」
「……待て」
部屋を出ようとする遥を、大吾は服の袖をつかんで止めた。その顔は真剣そのものだ。
「お兄ちゃん?」
遥は怪訝な顔で首を傾げる。大吾はしばらく考え、突然頭をかきむしると観念したように叫んだ。
「俺が付き合ってやるから!龍司にだけは間違っても頼るな!」
「やったー!どこ行く?どこ行く?」
先程とはうってかわって上機嫌になる遥は、こういう結果を狙っていたかのようだ。しかし、今その言葉を撤回したら彼女なら本当に
大阪に行きかねない。大吾は疲れたように肩を落とし、両手で顔を覆った。
準備をするため別れて一時間後、用意の済んだ大吾は玄関で声を張り上げた。
「遥!何やってんだ。もう行くぞ!」
「待ってよ~」
小さな足音と共に、遥がかけてくる。彼にせかされブーツを履くと、彼女はにっこり笑った。
「準備完了!お兄ちゃん、行こう!」
こんな嬉しそうな顔をされては、大吾とてこれ以上彼女を邪険に出来るはずがない。溜息混じりに微笑むと、彼女の頭を軽く叩いた。
「行くか」
「うん!」
大吾は先に立って歩き出す。その後を遥は遅れないように追いかけた。
電車を乗り継ぎ、着いたのは海。遥がどうしてもとねだったため、わざわざ港ではなく砂浜のある海岸にやってきた。大吾も
知り合いの多い神室町には、彼女を連れて来る訳にも行かなかったので好都合と言える。よく晴れ、風もなく穏やかに凪いだ春の海は
オフシーズンのためか、所々に家族連れが見えるくらいだ。到着すると遥は歓声をあげて砂浜に駆け出す。その様子を大吾は目を細め
ぽつりと呟いた。
「ガキ」
溜息をつきながら煙草を銜えて火をつける。遥は靴まで脱いで、波打ち際で踊るように歩いた。
「お兄ちゃん!そんなに冷たくないよ!」
足首まで海水に浸し、手を振る遥に大吾は声をかけた。
「あんまり沖に行くなよ、転ぶぞ」
「わかってるー!」
煙を吐き、彼は流木に腰を下ろした。なんとも奇妙な二人だ、と彼は苦笑した。弥生も、どんな思いで彼女を家に迎え入れたのだろう。
父である宗平は、彼女の母親を手に入れようとしたために命を落としたのだ。母としては心中穏やかではないだろう。
遥は賢い子だ。そういった話を弥生としていないわけではないだろうが、いくら乞われたとはいえ何も思わず堂島の家に来ることを
承諾したのだろうか。
大吾は表情を曇らせる。彼女は自分に対して何の屈託もなく接してくれる。父の起こした事件を知っているはずなのに、遥はいつだって
彼のそばで笑っている。正直戸惑う。言葉にならない負の感情。負い目のようなものが常に自分を苛む。
「どうしてあんなことしたんだ……親父」
苦しげに呟いた時、突然顔に冷たい感触がした。驚いて手をやると、髪に海水の粒が光っている。すぐそばで遥が声を上げて笑った。
「呼んでも返事しないから、水攻めの計だよ!」
冷たそうに手を振り、彼女はまた波打ち際に走っていく。大吾は静かに煙草を消し、立ち上がった。
「遥!何すんだてめえ!」
全力で走り出す大吾を見て、彼女は悲鳴を上げて逃げる。しかし、子供と大人の差で、遥はすぐに追いつかれてしまった。
「俺にこんなことしたからには、わかってんだろうな遥!」
「ごめん、ごめんなさい!」
言いつつも笑って後ずさる彼女に大吾は海水を蹴飛ばした。飛沫は陽に輝き、彼女に降り注ぐ。
「冷たい!」
遥は頭を庇いながら再び走り出す。それを追う大吾。二人の鬼ごっこは当分続いた。彼は遥を横抱きにすると、疲れたように海から
上がった。
「まったく……シャレなんねえ。春先だってのに、海水浴する趣味はないぞ」
「もっと遊ぶ~!下ろして~!」
じたばたと暴れる遥に、大吾は首を振った。
「駄目だ。もしお前が風邪ひいたら、俺が叱られるんだよ」
遥は諦めたように抵抗をやめる。ほっとして大吾が彼女を下ろすと、遥は遠くを見て顔を輝かせた。
「お兄ちゃん!アイス食べたい!」
「はぁ?」
彼女の視線の先には、アイスの自動販売機がぽつんと立っている。大吾は顔をしかめ、彼女を見た。
「遥、お前あんだけ冷たい水に足漬けといてアイスはないだろ…ハラ壊すぞ」
「大丈夫だもん。ね、お兄ちゃん。アイス、アイス!」
こうなったら誰も彼女の願いを断れない。前に桐生から聞いたことがある。大吾は困った顔をしつつそれを実感する。彼は溜息をつき
ポケットから小銭入れを出し、遥に突き出した。
「買って来い。俺にはホットコーヒーな」
「ありがとう!お兄ちゃん大好き!」
遥は勢い良く砂浜を駆けて行った。
「大好き、ね」
こんなことで彼女の好意を得られるなら安いものだ。なんと手軽な感情だろう。しかし、ふと思う。龍司は好き。自分は大好き。この
感情に何か差はあるのだろうか。ならば、桐生はどうなんだ。柏木は?弥生は?大吾はぐるぐると思考をめぐらす。しばらく考えた
ところで彼は我に返った。
「なに考えてんだ、俺は」
思いを振り切るように足元の貝殻を海に投げる。本当に、どうかしている。大吾は溜息をついた。
「お待たせ~はいコーヒー。熱いよ~」
遥は直接持たないように袖でくるみ、缶コーヒーを持って来た。小銭入れとそれを受け取り、彼は腰を下ろした。
「よっと……あぁ、疲れた」
「お兄ちゃん年寄りみたい」
横に座って、遥が笑う。その右手には純白のアイスが、小さくかじられていた。
「バニラおいし~」
満面の笑みで食べている遥を、大吾は微笑ましく眺める。と、急に彼は何かを確かめるように、彼女に顔を近づけた。
「……な、なに?」
大吾は驚く遥の顎をつまみ、上向かせる。思わず黙りこくる彼女に、彼は手を離し小さく笑った。
「つけてんのか、リップ」
遥は顔を赤らめる。気付いてもらったことが嬉しいのか、遥は照れたように笑った。
「だって、嬉しかったんだもん。だから、大吾お兄ちゃんとお出かけする時に、最初につけようって思ったの」
年齢が年齢なら、最高の殺し文句だ。どこで覚えたんだか、彼は肩をすくめ、コーヒーの蓋を開けた。
「……似合ってなくはない、な」
意地悪く笑う大吾に、遥は頬を膨らませる。
「なんでお兄ちゃんはそういう風に言うかな~」
「褒めてんだろ」
「もっと素直に!」
「あー似合う似合う」
からかうように褒める彼を、遥は空いた手で叩く。大吾は痛いな、と顔をしかめ彼女の持っていたアイスを奪った。
「あ、駄目!私のアイス!」
「俺の金だろ」
すがりつく彼女を押しやり、大吾はアイスをかじる。何年ぶりかに味わう甘さに、彼は思わず口を押さえた。
「甘」
「もう、文句言うなら返してよ~あ、お兄ちゃん、いっぱい食べた!」
「そんなに食ってねえよ、まったく……ほら」
彼がアイスを返すと、遥は安心したように食べ始める。その横顔は普通の少女の顔だ。大吾は小さく笑い、コーヒーを口にした。
「それ食ったら、帰るか」
「うん」
遥は素直に頷く。大吾は彼女の頭を乱暴に撫でた。
思った以上に疲れたらしく、大吾達はタクシーに乗り、家に帰った。車内で眠ってしまった遥を居間で寝かせ、大吾は毛布を持ってきて
かけてやる。彼女が目を覚まさないのを確認し、自室に戻ろうとした時遥は呟いた。
「……おじさん」
寝言だろうか、振り向いた大吾には、彼女の寝顔はひどく寂しそうに見えた。大吾は彼女のそばに座り、乱れた髪をかきあげてやった。
「やっぱり、桐生さんじゃなきゃ駄目か」
呟き、そっと溜息をつく。まだ幼い彼女には、堂島家の生活は慣れないのだろう。彼女の寂しさを感じ、苦笑した時だった。
ふと、遥は寝返りをうち、そばにあった彼の手を握る。驚いていると、遥はそのまま幾分表情を和らげ、安らかな寝息をたて始めた。
「おいおい…」
思わず手を引くが、彼女は握った手を離さない。大吾は溜息をつき、手はそのままに開け放した襖にもたれた。空を仰ぎ見ると
陽も傾いてきた。弥生が帰るまでに手を離してくれればいいが。彼は困ったように笑いながら、陽の当たる庭をずっと眺めていた。
そんな二人の休日も、終わる。
口紅
「遥、こっちこっち!」
放課後、ほとんど生徒が下校した後の教室。珍しく女子生徒が隅に固まって遥に手招きをした。下校準備をしていた遥は首を傾げつつ
少女達の輪の中に入っていく。と、同時に他の生徒は廊下を見渡した後、しっかりと扉を閉めて戻ってきた。
「誰も来ないよ、今のうち!」
不思議そうな顔で皆を眺める遥に、輪の中心にいた少女が声を潜めて笑った。
「いいもの持ってきたんだ。じゃーん!」
言いつつ少女が取り出したのは細い小瓶。それが何かわかった生徒達は思わず歓声を上げた。
「それ、去年の人気色!」
「ねえ、高いんじゃないの?買ったの?」
「可愛い!いいなあ」
口々に誉めそやす少女達を、遥はぽかんとして見ている。いったいこれが何なのだと言うのだろう。
「これ、なに?」
素直に問いかける遥に対し、中心にいる少女は笑いながら手に持った瓶をニ、三度振った。
「口紅だよ。リキッドタイプの」
聞くなり遥は思わず辺りを見回した。
「く、口紅?持って来ていいの?」
少女は皆人差し指を立てて唇に当てる。なるほど、扉を閉めたのはそういうわけか。遥は苦笑を浮かべた。
「駄目に決まってるよ。だから、秘密ね」
皆は小さな円筒形の瓶を羨望のまなざしで見ている。その様子を見ていると、小学生にはそうそう手に入れられないような物なの
だろう。遥は首をかしげた。
「買ったの?」
「違うよ。お姉ちゃんがこういうの好きだけど、飽きっぽいんだ。去年のはもういらないからって言ってたから、頼みこんで貰ったの」
「ね、はやく塗って」
「私も!」
この口紅を持ってきた少女は、今やこの場の女王様だ。皆にせがまれて、幾分慣れた手つきで少女達の唇を彩っていく。
塗ってもらった生徒は、めいめいに手鏡を覗いて嬉しそうに微笑みあった。その表情は普段の彼女達とは違い、わずかに大人びて
いるようにも見える。
「綺麗だね」
遥が発した思ったままの感想を聞き、自分もやってみたいと受け取ったらしい。少女達は彼女の手を引いた。
「遥もやってもらいなよ!」
「え、私はいいよ!つけたことないし!」
「いいじゃない。今日だけ今日だけ」
半ば無理やり座らされ、遥は緊張した面持ちで正面の少女を見つめる。そんな遥を笑い、彼女は手招きした。
「そんなに目立たないから、大丈夫。もう少しこっちに来て」
「こ、こう?」
身を乗り出すと、早速少女が遥に口紅を塗っていく。自分の唇に何か塗られていくのは、少し変な感覚だ。
わずかな時間の後、少女は満足そうに微笑んだ。
「できた。遥、この色似合うね!」
少女が言うのを聞き、皆が彼女の顔を覗き込む。遥の唇は今、あまり派手にならないような淡いローズ。誰もが小さく声を上げて
顔を見合わせた。
「遥、いいんじゃない?」
「見てみなよ、ほら」
手渡された鏡を覗くと、大人びた色に染まるいつもと違う彼女の表情があった。初めは気が乗らなかったが、皆に似合うと言われたら
やはり嬉しいものだ。遥は照れたように笑う。
「なんか、変な感じ。でも、いいのかな」
「他の子なんか、先生に叱られてもばっちり化粧してるんだよ。たまにはこれくらいしなきゃ」
そうなのかな。遥は首を傾げた時、勢いよく教室の扉が開いた。
「こら!お前達、いつまで残ってるんだ!」
「いけない」
少女は慌てて鞄に口紅を隠し、席を立った。
「すぐ帰りまーす!みんなも帰ろ!」
「先生さよなら!」
少女達は見つからないように教師の横をすりぬけ、教室を出て行く。遥もまた、皆に遅れまいと後に続いて教室を出た。
幸いにも彼女達の口紅には教師も気付かなかったようだ、皆は秘密を共有したことに満足したのか、嬉しそうに微笑みあい、それぞれの家に帰って行った。
遥は電車に揺られ、東城会へと向かう。扉の前に立つと、電車の窓に自分の顔が映った。化粧をした自分を見てもらいたい桐生は
今日はいない。少し残念な気もするが、もし桐生に見つかったらと考える。きっと最初は困った顔をして黙り、その後当然叱られて
しまうのだろう。遥はその情景を思い、小さく笑った。その後、図書館で借りた本を読みながら帰るうち、自分が口紅を塗ったことなど
すぐに忘れてしまった。
「こんにちは。またお世話になります」
東城会本部に寄った遥は、日頃良くしてくれる構成員達に頭を下げた。皆は彼女の存在に慣れたらしい、ごく自然に彼女を迎えた。
「久しぶりです。遥さん」
「学校はどうだい?楽しいかい?」
「この間話してたCD持って来てるよ。持って帰んな」
日頃殺伐としている彼らも、一人の少女には甘いらしい。彼女の顔を見ると途端に顔をほころばせ、声をかけてきた。
遥は彼らと他愛のない話に付き合いながら、いつもの場所に鞄を置いた。
「弥生さんは、お仕事ですか?」
「姐さんは用があるそうで、ちょっと出ていらっしゃいます。大吾さんは会長室でさ」
遥は礼を言い、彼らの詰め所を後にする。途中、給湯室でコーヒーを淹れ、会長室へ向かった。
ノックをすると久しぶりに聞く大吾の声がした。遥はコーヒーを零さないように、注意深く重い扉を開く。
「こんにちは。お兄ちゃん」
大吾は遥に気付き、吸っていた煙草をもみ消した。
「遥か。そういや今日からうちに来るんだったな」
「そうだよ。またお世話になります」
かしこまったようにお辞儀をして、遥はコーヒーを彼の邪魔にならない場所に置く。大吾は礼を言いつつそれを飲んでいたが
ふと顔を上げ遥の顔を見つめた。彼女は小さく首をかしげる。
「何?」
「……丸顔だな、お前」
それを聞いて遥は表情を曇らせる。おもむろに持っていたお盆を振り上げ、叫んだ。
「またそうやってからかうんだから、お兄ちゃんは!」
「悪い悪い!そんなにすぐ怒んなよ、だからガキだっつの!」
大吾は笑いながら彼女の攻撃を手で受ける。しばらくそうやっていたら溜飲が下がったらしい、遥は腰に手を当て、横柄な口ぶりで
告げた。
「今日はこのくらいで許してあげる。次はお盆じゃ済まないから」
大吾はそれに気分を害することなく、楽しそうに遥の額をつついた。
「おう、今度は銃や刀でも持って来い」
額を押さえながら、自分の脅しが効かないと知るや、遥は意地悪く笑った。
「それじゃ、桐生のおじさん連れて来よ」
それを聞いた瞬間、大吾は頭を抱える。言葉にならない呻き声を上げ、遥に両手を上げて見せた。
「参った」
遥は勝った、と嬉しそうに声を上げて笑う。その時、会長室の扉が開いた。
「遥ちゃん、よく来たねえ。大吾のお守りまでさせちまって悪かったね」
その言葉が気に入らなかったのか、大吾は顔を曇らせ、抗議する。
「なんだよそれ。俺が遥のお守りしてやってんだろ」
「それはもう、お兄ちゃんのお守りは大変でした……」
言いつつわざとらしく汗を拭く真似をする遥を、大吾は小突いた。
「調子乗んな」
「大吾っ!」
弥生に叱られ、大吾は肩をすくめ立ち上がった。
「はいはい、全部俺が悪いんだな。今日の仕事は済んだし、ちょっと出てくる」
「お兄ちゃん、夕食は?」
「いらね」
大吾は首を振り、颯爽と部屋を出て行く。後に残された弥生と遥は困ったように顔を見合わせた。
「それじゃ、あのバカ息子は放っておいて帰ろうか」
「はーい。夕飯何にします?私頑張ります!」
弥生は優しく微笑みながら、遥の背を押して部屋を出る。二人で笑いあう姿は、本当の親子にも似ていた。横で待機していた
構成員達は、その姿を穏やかな面持ちで眺め、いつまでも見送っていた。
堂島家での久しぶりの夕食。このところ堂島家にいる時は遥が食事を作ることにしている。弥生はしなくてもいいと言ってくれたが
お世話になっているからと、後片付けまで遥の仕事にしていた。
彼女の作った得意料理と共に、遥は弥生と会えなかった時に起こった話などを楽しく話して聞かせる。弥生は彼女の話すことを
面倒がらず聞いてくれ、女同士ならではの相談にも快く乗ってくれた。夕食も済み弥生は自室へと戻ったのを確かめ、遥は鼻歌交じりに
後片付けを始めた。
食卓を拭いていると、車の止まる音とガレージが開く音がする。大吾が帰ってきたようだ。遥は布巾を片付け、いそいそと玄関に
向かった。
「おまえら、もう帰っていいぞ」
彼女が玄関に付いた時、大吾は車を降り運転手の男に指示を出していた。
「では明日またお迎えに上がります」
男が立ち去り、大吾は疲れた顔で歩いてくる。遥は手を後ろで組み、笑顔で迎えた。
「おかえりなさい、大吾お兄ちゃん」
「なんだ、わざわざ迎えに出なくていいって言ったろ」
面倒そうに靴を脱ぎ捨て、遥の頭を軽く叩く。彼女は頬をふくらませ、彼を追いかけた。
「ただいまは?挨拶ないのよくない!」
「ああ、わかった。ただいま。これでいいか?」
適当にあしらわれている。遥は溜息混じりに仕方ないなあと呟き、付いて歩いた。
「何か飲む?おつまみ作ろうか?」
「適当にやるからいい。テレビでも見とけ」
「テレビ面白くない」
「なら勉強しろよ。時間割は確認しろ。ドリル忘れんな。連絡帳出せよ」
「もう!どうでも良さそうな言い方して。ちゃんとやってあるもん。」
気がつくと、大吾の部屋の前まで来ていた。大吾は急に振り向き、彼女を指差した。
「寝、ろ!」
言うが早いか、大吾は素気無く部屋に入って行ってしまう。彼女はしばらく部屋の襖を見つめていたが、もう、と呟き踵を返した。
少し歩いた時、いつ部屋から出てきたのか、大吾に突然呼び止められた。
「遥」
振り向いた瞬間、彼はポケットから何か取り出した。
「受け取れ」
彼女が身構えるのを待たず、大吾は彼女に何か投げて寄越した。取り落としそうになりながら、遥がそれを掴むのを確認すると
大吾はぶっきらぼうに告げた。
「あんな高い口紅、ガキには似合わねえ。それで十分だ」
驚き、遥は手の中の物を見た。そこにはピンクの色付きのリップクリーム。顔を上げるとすでに大吾は部屋に戻っていた。
「気付いてたんだ」
遥はそれを握り締め、大吾の部屋の前に戻る。しばらく考え、彼女は嬉しそうに微笑んだ。
「大吾お兄ちゃん、ありがとう。大切にするね」
中から返事はない。遥はくすりと笑い、自分の部屋に戻って行った。
寝る前、彼女は鏡の前でリップを塗ってみる。それはとても優しい色で、遥はあの口紅よりこっちの方が好きになれそうだった。
でもこのことは、みんなには秘密。遥はそっと微笑んで電気を消し、布団に潜り込んだ。今夜はきっと、桜色の夢を見るだろう。
『天国のお母さん、お元気ですか。私はまた誘拐されてしまったようです』
遥の長い一日
『どうして私、ここにいるのかな』
遥は神室町にある空きビルの一室でぼんやり思った。
老朽化のためテナントとして入ってる店はない。電気も入ってないのか、薄暗くすすけた室内の詳細はわからない。
入ってきた時にカウンターが見えたので、元々バーだったのかもしれない。椅子に座らされたまま縛られているため、身動きが取れない。
彼女は、視線だけ動かした。
目の前には挙動不審の男が三人、先程から言い争いを続けている。一人は三人のリーダー格らしい、上からものを言うスーツの男。
もう一人は派手な柄シャツに茶髪の若い男。あと一人は、でっぷりと太った目の優しい男。まるでアニメに出てくるような三人組だと
遥は思った。
「な、な、なんで子供攫っちまうんだよ!お前は!」
スーツの男が柄シャツの頭を殴った。柄シャツは頭を押さえてうずくまると、情けない声を上げた。
「だって急にガキが声かけるから驚いちまって…気がついたら車に押し込んでたんすよ」
どうやら彼女を攫ったのは不測の事態らしい。遥が困ったように眺めていると、太った男が彼女にチョコを差し出した。
「お嬢ちゃん、これ食う?」
時間をさかのぼることにする。遥は東城会本部で細々とした雑用をやらせてもらっていた。特に誰が命令したわけでもないのだが
彼女は生来働き者らしく、自然とやっている。最初は構成員達も戸惑いを覚えたり彼女を疎ましく思っていたが、今や彼女なしでは
組織の台所事情は回らないほどだ。この日も遥は小さな仕事を見つけつつ、いつもの日々を過ごしていた。
今日は桐生も関東に戻る日だった。遥は夕方に桐生に会えるのをうきうきしながら待ちつつ、本部の門前を竹箒で掃いていた。
「遥さん、えらく機嫌がいいですね」
門を守る男が彼女に声をかける。遥は笑顔で答えた。
「うん、今日おじさんが帰ってくるんだ」
「それじゃ、遥さんはまた当分こちらにこないんですね。残念だな」
がっかりしたように男が肩を落とす。ここに通う間に構成員達と仲も良くなった。遥は堂島の家に世話になっているからか、皆彼女に
かしこまったように話すのが不満だが、とてもいい人ばかりだ。遥は掃除の手を止め、彼の方を見た。
「またすぐ来るよ。約束」
「はは、約束」
男はそう言って、他の男と何やら仕事の話を始めた。遥は門の外を掃除しようと外に出たときだった。少し離れたところで見慣れぬ
三人組の男がなにやら密談を交わしている。服装もばらばら、東城会の人間ではないようだ。彼女は彼らのそばに近寄ってみた。
「おい、行ってこい」
「やや、ここは親父がひとつ」
「馬鹿、俺が先に行ったら威厳もなにも…」
「腹減った」
なんだかよくわからない。遥は首をかしげつつ声をかけることにした。
「おじさんたち、どうしたの?」
「ぅわーーーー!」
三人のうち二人がひどく驚いたのか、叫び声を上げる。一人は遥を珍しそうに眺めた。
「え、どうしたの?何かここに御用ですか?」
スーツの男はうろたえながら何度も首を振る
「いいいいいやその、なんでもないこともねえがなんでもあるっつうか、でもまだ心の準備がないこともないような」
全く要領を得ない。彼女はすっかり困ってしまい、先程言葉を交わした構成員を呼ぶことにした。
「おじさん!なんかよくわからないけど用がありそうな人がいる……」
その瞬間、彼女の口がふさがれる。若い男が彼女を近くの車に押し込んだ。
「ストップ!ストーーーーップ!親父、ここはいったん引きましょう!」
「お、おう!」
彼女の声を聞きつけ、構成員が出てきた頃には、車は門の前を通り過ぎて行くところだった。車内では遥がぽかんとした顔をしている
のが見えた。こういったことに慣れているのか、構成員は手早くナンバーを控え、深刻な顔で建物に入っていった。
遥は太った男にチョコを食べさせてもらい、足をぶらぶらさせた。正直とても退屈なのだ。
「おじさんたち、私を誘拐してどうするの?東城会さんと喧嘩するの?」
スーツの男は東城会の名前を聞いた瞬間震え上がり、手を振った。
「めめめ、めっそうもない!あ、そういやてめえガキか。ちょっと黙ってろ!」
「だって、退屈なんだもん。ロープも手加減してくれてゆるゆるだし。ちょっと取るね」
遥は言いながら拘束していたロープをはずして伸びをした。その大胆な態度に三人はあっけにとられたように彼女を見た。
「大丈夫だよ。逃げないから」
「逃げないって、そういう問題じゃねえ!お前攫われたんだぞ!普通泣いたりわめいたり…!」
「おじさんたち、そんなに怖い人じゃないから。本当に怖い人だったら、私こんなことしないよ」
けろっとした顔で言い放つ遥に三人は驚かされっぱなしだ。柄シャツは我に返って彼女に詰め寄った。
「てめえ、生意気言ってんじゃねえぞ!怖くねえだ?強がんな。じゃ、誰が本当に怖いって言うんだよ!」
「最近だったら、近江の…千石さんところとか。虎さんが二匹もいてね、あ、虎さんは可愛いんだけど、お城の中には鎧来た人が
いるんだよ」
スーツの男が駆け寄ってきた。
「近江…近江連合か!?」
「そうだった…かも。でも千石さん、龍司お兄ちゃんに殺されちゃった」
龍司の名を聞き、柄シャツは情けない声を上げた。
「龍司?そ、それ郷田龍司…『関西の龍』って言われてる奴だよ親父!」
「あ、それ言うとすごく怒られるみたいだよ。気をつけたほうがいいよ」
遥がこともなげに話すのを聞き、スーツの男は力が抜けたように座り込んだ。隅の方では、太った男がひたすら菓子をつまんでいる。
我関せずといったところか。
「お前、何者なんだ?本部にいるってことは、関係者なんだろうが」
「関係者…かなあ。よくわかんない」
「だってなんで近江の奴のこと知ってんだよ!ただのガキが、おかしいだろうがよ!」
「だって攫われちゃったんだもん。助けてもらったけど」
スーツの男は力なく彼女を見ると、両手で顔を覆った。
「てことは会長の縁戚かそういう関係か……もう駄目だ。こんなことしちまって、俺はおしまいだ……」
「おじさんたち、何しに本部まで来たの。教えて」
太った男がそれを聞き、笑顔でやってきた。
「俺達東城会に入りたいんだ」
「東城会に?」
思わず聞き返す遥に柄シャツが溜息をついた。
「そ。一念発起してきたけどもう駄目だな、消されるわ。俺達」
スーツの男が顔を上げた。
「ワシらは地方の小さな田舎町で、やくざまがいなことをやってきたんだ。といっても、映画や本の見よう見まねみたいなことばっかりで
要するに町からはみだした乱暴者の集まりというやつでね。でも、いつか組を大きくして、故郷の奴らを見返してやりたくて、こっちに
出てきたんだ。杯ってんだっけ?それを交わしたくてよ」
「誰と?」
「誰とって…か、会長さ!どうせ杯交わすんなら東城会の頭しか考えられねえな!」
遥は開いた口がふさがらない。組織のことはよくわからないが、それがいかに無謀なことかは誰にだって分かる。
「そんで、杯の申し入れをしたくてあそこにいたんだけどな…こんなことに」
「そうだったんだ……」
柄シャツが煙草に火をつけ、カウンターに寄りかかる。
「あとな、神室町にも来てみたかったんだよな。なんせここは俺達みたいな人間には伝説の地だから」
「伝説?」
彼を見つめると、柄シャツは煙を吐いた。
「『関東の龍』桐生一馬が守った街だからな。一度は破門されたのに腕っ節だけで四代目にまでなった男だぜ、しびれるよなあ!
今はカタギになってるみたいだけど、俺にとっちゃどんな人より憧れてんだ。あと、『嶋野の狂犬』真島吾朗って知ってっか?
知ってるよな、関係者なら。あの人も尊敬してんだよ!近江との抗争で、一人で何十人もの兵隊達をちぎっては投げ、ちぎっては投げ!
これに惚れない男はいないね!どうよ!」
まるで子供がヒーローを語るように柄シャツは興奮してまくしたてる。遥は思わぬところで桐生の名前を聞き、少し驚いた。
「おじさん達、桐生のおじ…じゃない、桐生さんや真島さんをよく知ってるんだね」
スーツの男は大きく頷いた。
「そりゃあそうさ。ワシより年下だが、その二人の名前は地方のやくざでも知らない奴はないんだからな!」
遥は少し嬉しそうに、スーツの男の顔を覗き込んだ。
「それ聞いたら、きっと真島さんは喜ぶよ。あ、でも桐生さんは困っちゃうかも。」
「……へ?」
その時、部屋の扉が激しい音を立てて破壊された。扉の向こうの人物が蹴破ったらしい、古い扉は中央からへし折られている。
「遥!」
「桐生のおじさん!」
そこには息を切らして立っている桐生がいた。桐生?三人は顔を見合わせる。遥は嬉しそうに飛び跳ねながら彼に手を振った。
「おかえりなさーい」
「遥、無事か!?」
「大丈夫だよ。心配かけてごめんなさい」
歩み寄る遥を見、桐生は安心したように笑顔を浮かべた。彼らは二人を眺めると恐る恐る問いかける。
「ま、ま、まさかとは思うが、あなたは…」
遥は二人に歩み寄るとにっこり笑った。
「そう、さっき話してた桐生一馬さんだよ。よかったね、会えて」
「ひええええ!す、すいません!攫う気はなかったんです。ほんとすみません!お前らも謝れ!早く!」
三人は素早く土下座すると、額を床に押し当てて何度も謝る。抵抗するかと思っていただけに、桐生は彼らの意外な反応に驚いて固まった。
その時、もう一人駆け込んできた人物がいる。驚いて視線を移すと大吾だった。
「遥!大丈夫か!?って……どういうことだ?これは」
妙な雰囲気に面食らったのか、大吾は怪訝な顔をする。桐生も首を振った。
「さっぱりわからん」
頭を下げていたスーツの男は新たなる男の登場に思わず問いかけた。
「あ、あのこちらは…」
「あ、大吾お兄ちゃん?お兄ちゃんは…堂島大吾さんで…東城会の会長になる人。だよね?」
遥に話をふられ、状況を分かってない大吾は、ためらいながらも頷いた。
「あ?急に何言ってんだ?俺が跡目になることと今回のことと何か関係あんのか」
三人は卒倒寸前だ。遥は三人の代わりに話し始めた。
「このおじさん達ね、東城会に入りたかったんだって」
「はあ?意味わかんねえ。説明しろ!」
大吾が思わず声を荒げる。遥は彼らが話したことをかいつまんで二人に話した。その話を聞いていくうちに桐生は頭を抱え、大吾は
怒りのあまり顔を真っ赤にした。
「お前らみたいなどうしようもない奴らは、東城会にいらねえー!」
「はい!すみません!」
まあまあ、と桐生は今にも掴みかからんばかりの大吾をなだめ、三人に向き直った。
「わかってるだろうが、お前達に極道は向いてねえよ。悪いことは言わない、故郷に帰って真面目に働け」
「で、ですが…」
「馬鹿にした奴らを見返すのは、別に極道でなくてもできる。いいな」
三人は肩を落としてうなだれるのを背に、二人は部屋を後にした。遥は彼らを覗き込むと、申し訳なさそうな顔をする。
「ごめんね、力になれなくて。あ、そうだ。チョコありがとうね」
小さく手を振り、遥は出て行った二人を追った。
「お、桐生チャンはっけ~ん」
ビルの外に出た瞬間、聞きなれた声がした。
「真島の兄さん」
「いや、大丈夫やとは思ったんやけどな。面白そうやったから見に来たった」
「真島のおじさんまで。心配かけてごめんなさい」
遥は皆に深々と頭を下げる。ええよ、と真島は彼女の頭を撫でた。
「にしても、なんやバトルにしては全く音がしいひんかったけど、なんやったんや?」
真島の問いに、大吾は顔を曇らせた。
「何というか…事故、なのか?」
「どういったらいいのか…」
煮え切らない二人に真島も首をかしげていたが、うん、と大きく頷いた。
「ま、遥チャンが無事やったらええ!そういうことにしとこ!そだ、遥チャン、メシ食おか?なにがいい?」
「えっと、えっと、なんにしようかな。あ、そうだ。真島のおじさん有名なんだって。地方でも知らない人はいないんだって」
「あったりまえやんか。ワシを知らん奴はモグリじゃモグリ」
「そっかー、あたりまえなんだ。すごいね、おじさん!」
「せやろ?で、なに食おか~」
上機嫌で遥を連れて行く真島を、二人は慌てて追った。外はもう夕暮れ、もうすぐ夜になって神室町はいつもの顔を見せることだろう。
四人の後ろでは、あの三人組が残念そうな顔で見送っていた。
「真島さんまで来るとは…あのガキ可愛い顔してあなどれん」
「あ!皆さんに握手してもらえばよかった…まあいいや、口もきけたし、地元の奴に自慢しよ」
「腹へった」
遥のの荷物を取りに行くため、堂島の家まで大吾が乗ってきた車で行くことにした。彼女は車中でふと思い出したように問いかける。
「そういえば、おじさん、なんであそこに来れたの?」
桐生はああ、と遥を挟んで反対側に座る大吾を見た。大吾は疲れたのか窓に頭を寄せ、眠っている。
「攫われた車のナンバーを組員が見てたらしいんだ。それを大吾が知って、即そのナンバーの車を探すように緊急通達を出したらしい。
で、遥の居場所がわかったら、すぐ俺に連絡が入った。こいつ、何度も俺に謝ってたぞ。まさか大吾があのビルまで来るとは思わな
かった。思った以上に心配してくれてたようだな」
遥は驚いたように大吾を見つめ、やがて嬉しそうにそっと微笑んだ。
「ありがとう、大吾お兄ちゃん」
大吾は寝返りをうつように、彼女に背を向ける。窓に映る大吾の顔は少し赤く見えた。
車は一路東城会へ、きっと本部では弥生が心配そうに遥の姿を待っていることだろう。
-終-
(2007・2・6)