忍者ブログ
Admin*Write*Comment
うろほろぞ
[1]  [2]  [3]  [4]  [5]  [6]  [7]  [8]  [9
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。


母の日―紅―

「姐さん!私悔しい~!」
堂島家の居間で、女が号泣していた。彼女は幹部衆の妻の一人で、弥生とも懇意にしている。今日は夫が浮気をしたと、泣きながら
飛び込んできたのだ。とりあえず、家に入れたものの、泣いたままで埒が明かない。前に座った弥生は頭が痛むように額に手を当てた。
「悔しいも何も、極道やってりゃ浮気の一つや二つ、しょうがないだろう」
あくまでも冷静に諭してはみるが、女には逆効果だったらしい。涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げて叫んだ。
「でも姐さん!あの人もう浮気はしないって、土下座して言ったんですよ!その舌の根も乾かないうちに、女囲ってマンションや車まで
 買ってやって!しまいには二人で海外旅行まで!もう、絶対許せません!姐さんからも、何とか言ってやってください!」
こんな興奮状態では、説得も聞きはしないだろう。溜息をついたとき、廊下から声がした。
「お茶を持って来ました」
「ああ、すまないね。お入り」
弥生に許可を得、礼儀正しく正座して遥は襖を開けて入ってくる。それまで泣いていた女は驚いたように遥を目で追った。
「どうぞ」
目の前に茶を出され、女は戸惑いながら頭を下げる。
「あ、ありがとう……」
いいえ、と遥は微笑む。彼女は遥と弥生を交互に眺め、恐る恐る問いかけた。
「あの……この子、姐さんの?」
「そう思うかい?」
微笑む弥生に、女は目を丸くした。
「え、そうなんですか?いつの間に……じゃない、もしかして再婚でも?!」
「馬鹿だね、そんなわけないだろう。この子は遥といってね。うちでちょっと預かってるんだよ」
女はしげしげと遥を見つめる。その興味本位の視線に耐えかねて、遥は乾いた笑みを浮かべた。
「あの、お話続けてください……私もう行きますから」
「いや、遥ちゃんも女なら聞いて!極道の妻になんてなるもんじゃないわよ!絶対!」
「……はあ」
わかったようなわからないような顔をしている遥を見て、弥生が告げた。
「ちょっと、子供にそんなこと言うのはおよし」
「いいえ!こういうことは小さい頃から知っておかないと駄目なんです!女遊びの激しい男に引っかかったらろくなことにならないん
 だから!いい?最初は好きだの愛してるだの言ってても、手に入ったら満足して、見向きもしなくなるんだから!責めても『浮気は
 男の勲章だ!』なんて開き直っちゃって、ああもう、悔しい!だからね、遥ちゃんは真面目でしっかりした普通の男を探しなさい!
 わかった?」
詰め寄られ、遥は身を引きながら何度も頷いた。
「えーと……よくわかんないけど、わかりました」
「でも、遥ちゃんはしっかりしてるから、大丈夫だよ。それよりあなたの話を……」
このままでは遥にどんな話をされるかわからない。弥生が話の矛先を修正しようとするのを、女は怪訝に見つめた。
「……遥ちゃんにえらくご執心じゃないですか」
「そりゃあ、大切なお嬢さんだから。変な事を教えたら後々困るだろう?」
女はしばらく考え、ふと何かを思いついたように顔を上げた。
「そういえば、姐さんには跡目継がれる息子さんが……さては、この子を理想通りに育て上げて、ゆくゆくは嫁にとお考えじゃ!」
「嫁……?」
きょとんとする遥を見て、弥生は慌てて女を一喝した。
「そ、そんなわけないだろう!変な勘繰りはおよし!」
「……冗談です」
思い詰めたような表情で呟く女を、遥は心配そうに覗き込んだ。
「おば……お姉さん。私、わかったから。ちゃんと、言うとおりにするから。だから元気出して」
「遥ちゃん……あなたって、なんていい子なの!」
女は遥を力いっぱい抱きしめたかと思うと、すごい勢いで泣き始めた。ぽかんとする遥と目をあわせ、弥生は大きく溜息をついた。
この分だと当分遥は解放されそうにない。
それから、なだめて説得して数時間。やっと女は機嫌を直して堂島家を去っていった。遥は茶碗を片付けてしまうと、驚いたように告げる。
「すごい人でしたね。でも何だか大変そう」
弥生は苦笑して遥に手を振った。
「ああ、大丈夫。あの子はいっつもあんな感じなんだよ。何かあると泣いて別れるだの、もう駄目だの言って、最後にはけろっとして
 帰るんだから」
へえ、と遥は頷き、ふと笑顔を浮かべた。
「でも、弥生さんって慕われてるんですね。あんなふうに相談しに来られるなんて」
「なんだかねえ、いいんだか悪いんだか。何かあるとこうやって手間かけさせられて、困ってしまうよ」
困ったように微笑む弥生を遥は頼もしく思った。どんな時でも男達の中で毅然としている弥生。関西との抗争の折にも、あの龍司と
対峙して、一歩たりとも引かなかったという。遥はそんな弥生が大好きだった。
「それじゃ、本部に行くとしようか。あの子の旦那にも、ああ泣きつかれた手前言って聞かせないと」
遥は頷き、彼女の後について行く。弥生は今日も何かと忙しそうだ。


本部で遥はカレンダーを見て、短く声を上げる。それを聞いた構成員が彼女に声をかけてきた。
「どうしたんです?」
「母の日なの、今日」
「母の日ねえ……」
男はぴんとこないような顔でカレンダーを眺めた。遥は少し考える。
「弥生さんにお花でも買おうかな」
「姐さんに?」
驚く構成員に、遥は頷いた。
「だって、いつもお世話になってるもん。ちょっと行ってくるよ!」
「あ、遥さん!ちょっと待った!」
呼び止められ、遥は振り返る。すると男はポケットから小銭を取り出した。
「俺も出しますから、姐さんへの花、一本追加してください」
「えー、自分で買ったらいいのに!」
「いや、自分どうも花屋は行きにくくて…」
照れたように告げる男に、遥はしょうがないな、と笑ってお金を受け取った。男に別れを言って彼女が廊下に出ると、彼女の顔が
嬉しそうに見えたのか、他の構成員達が話しかける。
「どうしたんです?いいことでもありましたか?」
「あのねー、母の日だから、弥生さんにカーネーションを買おうかと思って。今行くところ!」
「へー……」
「姐さんに……」
彼らは顔を見合わせ、しばらく考えていたようだったが、慌てて遥を追いかけた。
「ちょ、ちょっと!遥さん!」
「何?」
男達を見上げる遥に、彼らはそれぞれ金を出しながら、声をそろえた。
「俺達の分も買ってきてください!」
その様子を珍しそうに眺めていた他の構成員達も、その声を聞きつけてやってきた。
「何やってんだ?」
「母の日だってよ」
「姐さんにカーネーション送るんだって」
「お、それ俺も乗った!一本追加!」
「それじゃ、俺も追加で!」
次々に追加を頼まれ、遥は悲鳴のような声を上げた。
「もう、みんなして私をあてにして~!」
「楽しそうだな、何をやってるんだ?」
穏やかな声がして、皆はその人物が誰かわかるや、慌てて頭を下げた。遥はほっとしたように声の主に駆け寄る。
「柏木のおじさん、みんなずるいの。私が弥生さんにカーネーション買うって言ったら、私に追加で買って来いって言うんだよ!」
「カーネーション?」
彼は少し考え、やがて、ああ、と思い出したように微笑んだ。
「母の日か」
「そう、いつもお世話になってるから」
柏木は遥の頭を撫で、頷いた。
「確かに、姐さんはこいつらの母親みたいなもんかもな。いいじゃないか、買ってきてやってくれないか」
彼の頼みなら断れるはずもない。遥は苦笑を浮かべた。
「うん、わかった。それじゃみんなの分も買ってくるよ」
「ああ、遥それなら…」
柏木の声に、遥は嫌な予感を感じて見上げる。すると彼は紙幣を取り出して彼女に渡した。
「私の分も追加だ。よろしく」
脱力したように遥はそれを受け取る。とはいえ、これだけの額の花束だと彼女だけでは持ちきれない。そこで、構成員の一人に車を
回してもらうように頼むと。彼女は会長室に向かった。
「大吾お兄ちゃん」
遥が入ってくるのを見て、大吾は素っ気無く告げた。
「仕事中だぞ」
「少しだけ。あのね、今から他の人たちに頼まれた分と一緒に、弥生さんに母の日の花を買いに行くんだけど、お兄ちゃんはどうする?」
「母の日~?」
大吾は露骨に面倒そうな顔をする。そんなものをした覚えは、記憶に残っている限りでは全くない。
「別に、勝手にやればいいだろ」
どうでも良さそうな大吾の言葉に、遥は寂しそうな顔をした。
「だって、弥生さんはお兄ちゃんのお母さんなのに」
「あのな、いい年して今更母の日もないだろ。恥ずかしいっつの!ほら、行けって」
追い払うように手を振られ、遥は渋々彼に背を向ける。そして、部屋を出ようとして彼女は振り返った。
「喜ぶと思うけどなあ、弥生さん。私、お兄ちゃんが羨ましいよ。感謝の気持ちを、いつでも伝える事ができるんだから」
そういえば、遥の母親はもうこの世にいなかったのだ。大吾は思い出し、落ち着きなく乱暴に髪をかきあげる。そして遥に歩み寄り
ポケットの小銭入れからいくらか遥に手渡した。
「ああ、わかったよ!ほら、これで一番しぼんだ奴買って来い。あと、このことお袋には言うなよ」
「うん!」
彼女は嬉しそうに笑顔を浮かべ、去っていく。大吾はそれを見送り、苦笑を浮かべて溜息をついた。
「まったく……ガラにもねえ」


 それから遥は、一軒の花屋のカーネーションをほとんど使って大きな花束を作ってもらい、意気揚々と帰ってきた。彼女は丁度
本部に帰ってきた弥生をホールで見つけ、その花束を彼女に渡すことにした。
「弥生さん、これ私とここのみなさんから!」
「どうしたんだい?こんな立派な花。誕生日でもないし……」
戸惑う弥生に、遥は声を上げて笑った。
「母の日だよ。いつもありがとう、弥生さん!」
彼女は驚いたように花束を見つめていたが、やがて呆れたように叫んだ。
「まったく、こんな大きな花束なんて、私にはどれだけ沢山の子供がいるんだろうね。ちょっと、あんたたち!遥ちゃんに任せてないで
 少しは顔出しな!」
遠巻きに見ていた構成員達は、きまりが悪そうな顔で姿を現す。彼女は彼らを見回すと、やれやれという風に笑みを浮かべた。
「とにかく、礼は言っておくよ。ありがとうね。あんたたちは、これからも気を引き締めてしっかりやりな」
皆が弥生に頭を下げ、弥生はその中を遥を連れて歩いていく。その後姿を構成員達はどこか嬉しそうな顔で見送った。
大きな花束と共に彼女が会長室に入ると、部屋の中は柔らかな香りに包まれる。弥生は中にいた柏木に声をかけた。
「お前もこの企みに加担したんだって?なんだかすまないね」
「いえ、いつも世話になってるからという遥の言葉に、もっともだと思っただけです」
その様子を憮然とした表情で大吾は眺める。遥は彼のところに行くと、そっと囁いた。
「約束通り、言ってないからね」
「当たり前だろ」
大吾は噛み付くように告げる。弥生はここに礼だけ言いに来たらしい。そのまま後はよろしくと二人に告げ、遥を伴って踵を返した。
「ああ、そうそう」
彼女は振り向くと、優しい顔で大吾を見つめた。
「大吾も、ありがとうね」
「なんのことだよ」
ぶっきらぼうに告げる彼に何も答えず、弥生は会長室を出た。遥は驚いたように弥生に話しかける。
「え、え、どうして?弥生さんは、なんでお兄ちゃんも私に頼んだ事知ってるの?」
「とりあえず、遥ちゃんなら、間違いなく大吾も巻き込んでるだろうと思ったからかね。大当たりだったみたいだけど」
視線を向けられ、遥は思わず口を押さえる。その様子を、弥生はおかしそうに声を上げて笑った。
「さ、帰ってこれを生けようか。遥ちゃんも手伝っておくれ」
はーい、と遥は元気良く返事をする。弥生は遥の頭を撫で、嬉しそうにもう一度花を眺めた。
強く、美しき女極道に、心からの敬愛を。

PR
---

Tea For Two

 週に一度のクラブの日、遥は調理室にいた。部活と違い、半年に一度自由に選べるクラブは種類も豊富で子供たちはめいめいに
好きな事を行っている。
 遥が今期選んだのは『家庭科クラブ』だった。ちょっとしたお菓子を作るというクラブなのだが、遥が特に入りたかったわけではない。
料理などはやろうと思えばいつでもできたからである。しかし、これが意外に女子生徒に人気で、競争率も高いというのだから
彼女には驚きだ。家でやったらいいのに、と材料をかき混ぜながら思った。ちなみに、今日はパウンドケーキだ。
 そんな遥がこのクラブに入ったのは、友人がどうしても遥と一緒に入りたいと頼み込んだせいである。なんでも、遥となら美味しい
お菓子ができるから!だそうで、そこまで便りにされたら遥としても嫌とは言ない。かくして、今までこのクラブを選んでいない事もあり
彼女は優先的に入る事が出来たのだ。
「あー、遥と一緒でよかった!他の班とは出来が全然違うもん!」
嬉しそうに少女が声を上げる。遥は首をかしげた。
「そうかなあ、本の通りやってるだけだよ」
「だって、前回の隣の班なんか、クッキーが固焼きせんべいになるんだよ。うちはまるで売ってるみたいなクッキーだったもんね」
ねー、と遥の班の女生徒は顔を見合わせて得意顔だ。遥は苦笑して彼女達に告げた。
「でも、お菓子くらい家で作ってもいいんじゃないかな。何も学校でやらなくても……」
その瞬間、少女達は口を揃えて遥に叫んだ。
「駄目だよ!」
「……なんで?」
ぽかんとする遥に、少女達は含みのある笑みを浮かべて囁きあった。
「学校で作るのが重要なんじゃない、ねえ」
「終わったらあげられるもんね~」
「ああ、どうしよう。私、今日はお菓子渡せるかなあ」
遥は微笑み、混ぜていた生地を型に流し込んだ。
「上手に出来たら、みんなと楽しく食べたいもんね」
女子生徒はそれを聞いて驚いたように顔を見合わせ、一斉に黄色い声を上げた。
「やだぁ、今更!みんな何でこんなに気合入れて、お菓子作ってると思ってるの?」
「あげるのは、気になってる男の子だからじゃない!」
男の子?遥はぴんとこない顔をして天板の上に生地を入れた型を置き、オーブンに入れる。少女の一人が同じようにオーブンを
覗き込みながら微笑んだ。
「だって、お菓子作るのはこのクラブだけなんだよ。そのお菓子を好きな人にあげたら、特別に思ってもらえるかもしれないでしょ」
「そ、そうだったんだ……」
考え込みながら遥は使った用具を洗う。別の少女が大きく頷いた。
「知ってる?クラブの後に男子が物欲しそうに待ってるの。みんな期待してるんだよ」
「お菓子食べたいだけじゃないの?」
どうも遥は、そういったことに反応が薄いようだ。少女達は顔を見合わせて遥をつついた。
「いっときますけど、遥のお菓子が一番狙われてるんだよ」
「何で?私のもみんなのも変わんないよ」
これだから!と少女は首を振り、洗い物をする遥に囁いた。
「遥の手作りだから欲しいんじゃない。いっつも遥自分で食べちゃうから、手ぶらで戻ってくるのを見てみんながっかりしてるんだよ!」
「ふうん……」
もてもてだね、と口々にはやし立てる少女達を横目に、遥は用具を綺麗に拭いた。なんだかんだ言って、今日も全部自分でやって
しまった。綺麗に片付いた調理台を眺め、遥は溜息をついた、
「ねえ、使ったものをしまうのだけはやってね」


 オーブンから出されたパウンドケーキは、二つとも香ばしい香りと共に皆の前に出された。同じ班の少女達は嬉しそうに歓声を上げた。
遥は丁寧にそれを切り分け、皆に分けていく。少女達はそれに手も付けず、大切そうに包んでしまった。遥は呆れたようにそれを
眺めていたが、今日は彼女も少女達と同じように一つも食べず。皆と同じようにラップとハンカチに包んで横に置いた。
「え、遥!それどうするの?」
目ざとい少女がそれを覗き込む。遥は曖昧に笑って、用意しておいた紅茶を飲んだ。しかし、それで済むようなことではないらしく
少女達はクラブの時間が終わっても、遥から離れようとしなかった。
「ちょっと、教えてよ~」
「誰にあげるの?ねえ」
こんな調子でつきまとわれるものだから、どうやらクラス中に遥がお菓子を誰かに渡すということが知れ渡ってしまったらしい。
無論、遥の珍しい行為に男子生徒も色めき立つ。一体その幸運に与れるのは誰だろうと、誰もが周囲をうかがった。
しかし、クラブや終礼を終えても遥はいっこうに動こうとしない。ついには教科書を片付けて帰ろうという始末。痺れを切らした
女子生徒が彼女を扉の前で通せんぼした。
「このまま帰すわけにはいかないわ!遥、そのケーキ誰にあげるの?」
「えーと……」
遥は口ごもりながら周囲を見渡す。誰一人として帰ろうとしないクラスの雰囲気は、これ以上ないほどに張り詰めていた。
その異様な空気に遥は乾いた笑みを浮かべ、やがて少し恥ずかしそうに呟いた。
「……男の人」
その瞬間、教室中がどよめく。遥からそういう言葉が出ると思わなかったため、女子生徒は彼女に詰め寄った。
「だ、誰!?男の人?男子じゃないの?」
その勢いに、遥は気圧されたように後ずさる。このままでは絶対に帰してくれそうにない。彼女はしばらく逡巡していたが、やがて
思い切ったように顔を上げた。
「好きな人だよ。これでいい?じゃあね!」
驚愕している少女の横をすり抜け、遥は教室から逃げるように走リ去った。その後から遥の名を呼ぶ声と、ばたばたと追ってくるような
足音がする。今彼らに捕まったら、名前や素性まで聞かれてしまう、遥は必死で走って皆を振り切った。
 学校から出ても全速力で走り、駅まで来ると発車直前の電車に飛び乗る。息を切らして窓の外を見ると、最後まで追いかけて
きたのだろう、数名のクラスメートがホームで何かしら叫んでいた。どうやら追いつかれていないらしい、ほっとしたように遥は
空いた席に座った。
「みんな、すごいガッツ……」
呟き、遥は鞄を抱いて息を整える。ふと、手提げの中からバターのいい香りがした。そういえば、大分振り回したかも。慌てて覗くと
ケーキは潰れることなくそこにあった。週末でよかった。土日をはさめば、ほとんどの生徒が今日のことを忘れているだろう。
電車は彼女を乗せて、いつもの帰り道とは違う方向へ。日はまだ傾きかけなので、夕方までには目的地に着くだろう。

「こんにちは~」
いつものように挨拶を交わし、遥は本部に入っていく。今日は定例会議があったためか、駐車場には車が多く停まっている。
会長の承認を得た事で、大吾も幹部会議に参加するようになった。就任していない為、代表は相変わらず会長代行の弥生だが
発言権は大方認められているようだ。どうなるかと思ったけど、よかった。遥は嬉しそうに会議室の窓を見上げた。
 遥はこういった日は表に出ず、裏でお茶を入れたり洗い物をしたりすることになっている。特例とはいえ、子供が暴力団の本部にいて
みだりに幹部衆の前へ顔を出すのは倫理上好ましくないと言うわけだ。遥も、そこのところは理解していて、今日も許可が出るまで
詰め所で出された宿題などをやっていた。
 にわかに表が騒がしくなり、詰め所にいた構成員達は全て幹部衆の見送りに出て行く。遥もそれをきっかけにノートなどをたたみ
そわそわと誰かが外出の許可を言いに来るであろう扉を見つめた。
「皆さんお帰りになりましたよ、どうぞ」
やがて笑顔で構成員が扉を開ける。遥は嬉しそうに立ち上がり、外に顔を覗かせた。
「皆さん帰っちゃったの?」
「そうですね、幹部衆の方々は」
ということは、柏木も帰ったのか。遥は少々がっかりしながら表に出た。
「あら、遥ちゃん。来てたんだね、お疲れ様」
遠くから弥生の声がする。遥は笑顔を浮かべ、彼女に歩み寄った。
「弥生さんも、会議お疲れ様です」
畏まったように告げる遥の頭を撫で、弥生は優しく微笑んだ。
「私は少し出るけど、すぐに帰るから待っててね。大吾はまだまだ本部に居残りだから、脱走しないように見張っておいて」
「はーい」
元気良く返事する遥に、弥生は手を振り去ろうとする。しかし、しばらく歩いて彼女は急に振り向いた。
「言っておくけど、遥ちゃんも一緒に脱走するんじゃないよ。なんかあなたたち最近よく一緒にいるでしょ、お願いだから遥ちゃんは
 大吾の悪いところを見習わないようにね」
思わぬことを言われ、きょとんとする遥の横で構成員達が声を殺して笑う。彼女が不満げに頬を膨らませ皆を見回すと、彼らは慌てた
ようにその場を去っていった。
「そんなに一緒にいないけどなあ……」
その後、遥はぼやきながら丁寧に紅茶を入れる。確かに一緒に行方をくらました事は何度かあるが、彼女にしてみたら大吾の
悪いところを見習った気はない。というより、大吾の悪いところってどこ?遥は首をかしげながらお茶を持って会長室に向かった。
「入るね」
ノックをして中に入ると、大吾は窓際に立って外を眺めながら煙草をふかしていた。彼は遥に視線をやると、近くの灰皿に灰を落とした。
「早速檻から出されたな、小動物」
「なにそれ」
思わずむくれる遥を大吾は笑う。彼は窓に寄りかかると、溜息と共に煙を吐いた。
「お袋は?」
遥は紅茶の入ったカップを机に置きながら苦笑を浮かべた。
「ちょっと出ますって。でも、すぐ帰られるみたいだよ。ああそうだ。お兄ちゃんと脱走しないようにって言われちゃった」
「しねえっつの。あの鬼代行、前にやらかしたことまだ警戒してやがる」
大吾は乱暴に火を消し、肩を竦める。彼は疲れたように椅子に座ると、珍しそうに机の上を見た。
「あれ、今日は紅茶か」
うん、と頷き、遥はそっとその横にケーキを乗せた皿を置いた。
「あと、おまけ」
「なんだこれ」
怪訝な顔で皿を眺める大吾に、遥は恥ずかしそうに笑った。
「今日クラブで作ったの。パウンドケーキ」
「お前が?」
「そうだよ」
お盆を抱えて遥は頷く。大吾は机に頬杖をつき、ケーキを指差した。
「俺に食えと?」
「あ、なんでそんな嫌そうな顔するの~?」
「いや、食えるのかよって」
悪態をつく彼に、遥は頬を膨らませケーキの皿に手を伸ばした。
「それなら食べなくてもいいよーだ。私が食べるもん。あと弥生さんや、お世話になってる組員さんにあげちゃうから」
大吾は彼女が皿を手に取る瞬間、それを取り上げた。
「待てよ、食わねえとは言ってねえだろ」
「もう、それなら最初から食べるって言ってよ~」
口を尖らせる遥を小突き、大吾は問いかけた。
「そういや、お前は食ったのか?」
「ううん。全部持って帰ったから」
ふうん、と大吾はケーキを眺め、彼女を指差した。
「なら、お前毒見役」
「毒見役~?」
不満げな声を上げた遥に、彼はもっともらしく頷いた。
「当たり前だろ。人に食わす前に、まず自分が食って確かめる。これ常識」
しょうがないなあ、と遥は頷き、ふと両手を合わせた。
「あ、そうだ。それじゃ私の分もお茶入れてくる!待ってて!」
踵を返して遥は会長室を出て行く。慌しい奴だな、と大吾は苦笑した。
「ケーキね……」
呟き、大吾は目を細める。手作りの菓子など、今まで一度も家で食べた事はなかった。弥生は忙しい人間だったし、もし作ろうと
思っても、父親である宗平は甘いものが嫌いだった。いつしか自分も甘いものは苦手になり、ケーキなどというものに興味も示さなく
なったのはかなり昔の事だったと思う。
「すっげー甘そう」
呟き、大吾は溜息をつく。彼女が作るものだけに味は間違いないとは思うが、甘いものとなると話は別だ。こういった手合いのものは
歯が浮くほど甘いと相場は決まっている。うんざりしたように眺めていると、やがて遥が自分用にお茶を入れてやってきた。
「お待たせ!毒見するよ~」
遥は近くの応接テーブルに皿などを移動させ、ソファにちょこんと座る。大吾はその目の前に座り、彼女を促した。
「先食えよ」
「うん!」
遥は嬉しそうにケーキを手で掴み、口にした。口を動かしながら少し考え、彼女は頷く。
「こんなもんかな」
「おいおい、大丈夫かよ」
苦笑しながら大吾も手を伸ばす。気が重そうに甘い香りのするケーキを口にした瞬間、大吾は何かに気がついたようにそれを眺めた。
「あれ、あんま甘くねえのな」
「だって、お兄ちゃん甘いもの苦手でしょ?」
彼が思わず顔を上げると、遥はくすくす笑った。
「班のみんなも持って帰るんだけど、内緒で私用に甘さ控えめにしちゃった。みんな作るのを全部私に任せちゃったんだから
 これくらい許されるよね」
「それじゃ、お前わざわざ……」
驚いたように声を上げる大吾に、彼女は紅茶を飲みながら頷いた。
「みんなが作ったお菓子を誰かにあげてたのは知ってたの。きっと美味しいお菓子だから、仲のいい人とわけあうんだろうなって
 思ってたんだ。だって、美味しいものって一人で食べても美味しいけど、二人で食べたらもっと美味しいでしょ。だから今日はちょうど
 こっちに来るし、上手く出来たらお兄ちゃんにあげようかなって思ったの」
そういうことか、と大吾はケーキを眺める。彼女の作ったケーキはほどよく甘く、どうやら全部食べられそうだ。というより、これならもう一度食べてもいいかもしれない。
 彼はさっきの遥の言葉を思い出す。一人で食べるよりも、二人で食べた方が美味しい。それは一人の寂しさをよく知っている遥だから
尚更そう思うのだろう。そして自分もまた、その法則に従っている。あんなに苦手だった甘いものが、美味しく感じられるとは思わなかった。
大吾は思わぬ発見に、わずかに笑みを浮かべた。
「でもね、みんなはなんか違ってたみたい」
「違う?」
紅茶を飲みながら問い返すと、遥は不可解な顔で頬杖をついた。
「みんなね、好きな男の子に気に入られたかったからあげてたみたいなの。なんか、がっかりしちゃった。今日も大変だったんだよ。
 今まで私が誰にもあげなかったから、持って帰ろうとした時、誰にあげるんだってもう大騒ぎ」
ふうん、と大吾は興味がなさそうに最期の一切れを口に放り込む。遥は疲れたように体を伸ばした。
「帰り際に、通せんぼされてまで追及されちゃって……しょうがないから皆に言っちゃった」
「何て」
紅茶を口にしながら上目遣いに遥を見つめると、彼女は膝の上に手を置いて小さく笑った。
「ケーキは、好きな男の人にあげるのって」
「あー……そうですか」
大吾は特にうろたえることもなく、素っ気無く返答した。彼女のこういった発言はよく聞かされるせいか、もう慣れた。それに、子供の
言うことにいちいち動揺していたらきりがない。しかし、同級生にそれを言ったならそれはえらい騒ぎだっただろう。大吾は苦笑した。
「あんまそういうこと言うなって、誤解されて後で困るのは遥だぞ」
「困らないもん」
遥は足をぶらぶらさせ、微笑んだ。
「間違ったこと、言ってないもん」
そうやって、ふいに大人びた目をする。大吾は困ったように遥を見つめた。こんな時にどう対応していいのか、たまにわからなくなる。
遥の事だから特に自覚はないのだろうが、それを目の当たりにさせられる自分の身にもなってほしい。桐生がいらぬ誤解をするのも
きっと普段この目を見ているからだと思う。なんにせよ、迷惑な話だ。
「ね、どうだった?」
「あ?」
思考中だった大吾が気の抜けた声を上げると、遥は不安げに彼を見上げた。
「ケーキだよ、やっぱり甘すぎた?おいしくない?」
ああ、と大吾は空になった皿を眺めた。全部食べたのを見ているのに、まだ心配なのか。大吾は苦笑した。
「ま、そこそこ食えるんじゃねえの?」
曖昧な感想に怒ると思いきや、遥はほっとしたように頷いた、
「なら大成功かな。よかった!」
「なんでそういうことになるんだよ、そこそこって言ったんだぞ」
不満そうにつっかかる大吾に、彼女はうんうん、と笑顔を浮かべながら、食器を片付け始めた。
「そうだね、だから大成功なの」
「なんだよそれ、わけわかんねえ」
不可解な顔で腕を組む大吾を笑い、遥は食器を載せたお盆を手に扉を開いた。
「私にしか、わからないよ」
遥は小さく振り向いて、嬉しそうに告げると、困惑顔の大吾を残し部屋を出た。
「今度は何作ってあげようかな」
呟きながら彼女は鼻歌交じりに廊下を歩いていく。もう少ししたら、弥生も帰ってくるだろう。
 そうだ、今度はもっと沢山お菓子を作って、ここにいる組員たちにもあげよう。みんなで食べたら、お菓子はもっともっと美味しいに
違いない。想像したら楽しみになってくる、遥は小さくガッツポーズをして微笑んだ。

--

再再会

 今日の遥は、とにかく上機嫌だった。堂島家にいる時には特に機嫌が悪い事はないのだが、それ以上に今日はゴキゲンなのだ。
それがどうも気にかかったらしい、大吾は本部を歩いていた彼女を呼び止めた。
「おい、今日はどうした?」
「何が?」
遥は、そわそわしながら笑顔で答える。時折、時計も見ているようだ。彼は考えながら問いかける。
「ゴキゲンだが、何かいいことでもあるのか?」
驚いたように身を引くと、遥は上目遣いに大吾を見た。
「あるよ」
「何があるんだよ」
彼女はしばらく考え、ふと彼の顔を覗きこんだ。
「……気になる?」
思わぬ返答をされ、大吾は呻く。彼女の目は『気にして、気にして』と言わんばかりだ。彼は苛立ちを含んだ声を上げた。
「そうじゃねえ!」
「なら言わない」
がっかりしたように遥が踵を返すのを、大吾は腕を掴んで止める。
「わかった、わかったって。気になる。これでいいだろ。早く言えって」
そのぞんざいな物言いに遥は不満げに振り向いたが、まあいいか、と微笑んだ。
「今日はねー、デートなんだ!」
「で、デート?!」
思わず大声を上げる大吾を、組員達が不思議そうに眺めて通り過ぎていく。彼はその視線を気にして、遥を会長室に入れた。
「おまえ、ガキのくせして……」
困惑しながら問う大吾に、遥は少しむくれた。
「だって、デートしようって、誘われたんだもん」
最近の子供は、どれだけませたことを言ってるんだ。彼は遥を見据え、首を振った。
「ガキ同士で生意気な事言ってんじゃねえよ。桐生さんがいないときに、そんな勝手なことは許さねえからな」
「ガキ同士じゃないもん!誘ってくれたのは年上の人だもん!」
彼女は必死で抗議する。しかし、それを聞いて彼は怒鳴りつけた。
「なお悪いだろ、それ!いったいどこのロリだ、馬鹿!そんなんにほいほい付いていったら、後で泣くハメになるんだからな!」
「ならないもん!優しくていい人だもん!」
遥の一生懸命さに、大吾は疑問を覚えた。幼いとはいえ、しっかり者の遥が、会ったばかりの知らない男についていくとは考えにくい。
かといって、この辺りで遥が知っている人間なら、大吾も顔や名前を知っているはずだ。その中には、とうてい遥とデート、など誘う
人間はほとんど皆無に思える。彼は、気持ちを落ち着かせ、遥に再度問いかけた。
「相手は誰だ?俺が知ってる奴か?」
「えー……」
彼女はそう言ったきり、黙りこくる。その反応からすると、自分が知っている人物だろう。そこで大吾は我に返る。ここまで知っていたら
特に自分がやっきになって、問い詰めるようなことではないのではないか。そもそも、なんで自分はここまでして遥に追求しているんだ。
冷静になったら、逆に自分に疑問が湧いてくる。大吾は思い詰めたような顔で悩み始めた。遥は、そんな彼を見て自分が困らせて
いるのではと感じたのだろう。彼女は思い切ったように大吾の両手を掴んだ。
「ごめんなさい、やっぱり秘密はよくないよね。言わないようにって言われてたけど、やっぱり言うよ!」
「え?あ、ああ……」
大吾はすでに別のことで悩んでいたため、遥の言葉が意外だったらしい。驚いたように曖昧な返事をする。遥は少し恥ずかしそうに
俯くと、落ち着きなく体を揺らし、呟いた。
「今日会うのはね……」


「ねえ、本当に一緒に来るの?お兄ちゃん」
遥は、心配そうに隣に座る大吾を見上げた。組の車は嫌、と遥が言ったため、大吾と遥はタクシーに乗っている。大吾はあれから
何も言わず、機嫌が悪そうに窓の外を見ている。彼女は大きく溜息をついた。
 車は神室町の象徴である、電飾に彩られた赤いアーチの前で停まる。車から降りると遥は辺りを見回し、急に顔を輝かせて走り
出した。
「こんばんはー!」
ためらいもなく、背を向けた大柄な男の足に抱きつく遥を、その人物は軽々と抱え上げた。
「よう!久しぶりやなあ、遥。桐生はんと仲良うやってたか?」
独特な関西訛りの男は、遥に笑みを浮かべる。彼女は大きく頷いた。
「うん!龍司お兄ちゃんも久しぶりだね!」
「てめえ、さっきからなにベタベタやってんだ!そいつを下ろせよ!」
我慢できなくなったのか、大吾が声を張り上げる。龍司は今気付いたかのようにきょとんとして彼を見つめた。
「あれ、おったんか」
「いただろ!最初から、ずっと!」
龍司は、せやったかな、と頭をかき、遥を眺めた。
「誰かに言うてもうたんか?せやけど、よりにもよって、一番うるさいのを連れて来たなあ」
遥は龍司の肩の上で、小さく頭を下げた。
「ごめんなさい、でも大吾お兄ちゃんには黙っておけないから」
「大吾『お兄ちゃん』~?」
龍司は含みのある声を上げ、大吾を見つめる。大吾は声を詰まらせ、見返した。
「な、なんだよ……」
「ワシはともかく、自分、いつからそんなに遥とフレンドリーになっとんねん。ワシてっきり、バレても桐生はんが来るかと思てたわ」
それを聞いて、遥は龍司を覗き込んだ。
「おじさんは、今大阪だよ。入れ違いだったね」
そうか。龍司は気の抜けた顔をすると、今度は遥に問いかけた。
「で、遥は大吾とはどういう関係なんや?」
「えっと……」
彼女は大吾を見下ろし、少し考える。大吾が嫌な予感がした瞬間、遥は大きく頷いた。
「おじさんがいない時に、一緒に暮らしてるんだよ」
「一緒に暮らす…」
ぽつりと繰り返し、龍司は大吾に視線を向ける。絶対、誤解されている。言い訳する前に、龍司が首を振った。
「あかん、人としてあかんで、幼女は」
「違う!」
大吾は噛み付くように声を上げる。そして大きく溜息をつき、苛立ちを隠せない声で告げた。
「桐生さんが大阪に行ってる間だけ、お袋がうちの家で預かってんだ。別に、何もねえよ。当たり前だろ」
「それだけで、普通ついてくるか~?」
からかうように声を上げる龍司を、大吾は睨みつけた。
「てめえ、自分の立場をわかって言ってんのか?ここは東城会の縄張り、そのど真ん中だぞ。そこに一人で乗り込んで来て
 ガキとデートなんて冗談だろ!帰れ!」
「帰ってええんか?」
意地悪く龍司が笑う。その裏のあるような言い方に、大吾が何か言おうとしたとき、彼はわざとらしく残念そうに首を振った。
「折角遥と神室町を満喫しようと思って来たのに、残念やなあ。しゃあないから、帰るわ。遥も一緒に来るか?」
「うん!」
元気良く返事する遥に、大吾は慌てる。
「馬鹿!なに承諾してんだよ!こいつと大阪なんて、ふざけんな!」
遥は首を振り、寂しそうに告げた。
「だって、龍司お兄ちゃんと久しぶりに会えたんだもん。もっとお話したいよ」
「そうやんなあ、ワシも同じ気持ちやで」
ねー、と二人は顔を見合わせて頷く。大吾は大きく溜息をついた。
「わかった、勝手にしろ。そのかわり、俺がお前を見張る。いいな!」
龍司はその言葉を待っていたかのように、口の端に笑みを浮かべ、頷いた。

遥は龍司に買ってもらったアイスを食べながら、楽しそうに二人の前を立って歩いていく。それを眺めながら、大吾は苦笑した。
「足元気をつけろよ、転ぶぞ」
「大丈夫~!」
遥は振り向くと、返事をしながら手を振った。それをのんびりと眺めていた龍司は声を抑えて笑い出す。
「なんや、兄妹みたいやなあ、自分ら」
大吾は龍司を一瞥すると、きまりが悪そうに呟いた。
「うるせえな、あいつ危なっかしくて、放っておけねえんだよ」
「ま、なんかわかるような気がするわ」
龍司はふと遠い眼をする。それを見て、大吾は肩を竦めた。
「お前はあの妹じゃ、遥の数倍大変だな」
彼は豪快に笑うと、急に神妙な顔で何度も頷いた。
「せやなあ、頑固やし、気は強いし、やくざ狩りの女なんて、えげつないあだ名付いとるしな……四課の刑事やっとるせいで
 顔合わせたら、すぐ何かしら説教が飛んでくるねんで。うるさくてかなわんわ」
うんざりといった風だが、その表情はいつになく柔らかい。そんな顔も出来るのか、大吾は意外な面持ちで龍司を眺めた。
その時。いつの間にかアイスを食べ終えた遥が、二人の方にかけてきた。
「ね、プリクラ撮ろ、プリクラ!」
「あ?いや、俺は……」
明らかに拒否反応を示す大吾とは逆に、龍司は大きく頷いた。
「おう、ええで!撮ろか!」
「おい、待っ……」
呼び止めようとする大吾を振り向き、龍司はにやりと笑った。
「大吾は嫌ならええで。なあ遥、なんならワシと二人でちゅー写真でも撮ろか?」
「わあ、どうしよう。恥ずかしいな~」
まんざらでもない様子の遥に、大吾はにわかに危機感を覚える。彼は龍司の肩を掴み、激しく睨みつけた。
「……俺も撮る」
龍司は勝ち誇ったような笑みを浮かべ、遥の肩を抱いた。
「そうか、そらよかった。遥、大吾も一緒に撮ってくれるて!」
「本当?やったあ!」
和気藹々としている二人の後ろで、大吾はがっくりとうなだれた。どうも龍司のペースに乗せられたらしい。以前会った時もこんな
調子でなんだかんだとつきあわされたような気がする。俺は自分で思っている以上に単純なんだろうか、大きく溜息をつき
大吾は二人と肩を並べた。
 数分後、遥は出てきたシールを丁寧に切り分け、二人に渡す。遥の選んだファンシーなフレームに、彼女はともかく、いかつい
二人はどうも似合わない。
しかし、龍司は満足げにそれを眺めた。
「ええ感じやないか。これうちの事務所に貼ろかな」
「貼るなよ!絶対貼るな!」
大吾は慌てて声を上げる。こんな可愛らしい世界に納まった東城会会長など、身内はおろか関西には絶対知られたくない。遥は
嬉しそうにそれを一枚はがして、自分の携帯電話の裏に貼り付けた。
「またおじさんに見せたげよ~」
その言葉を聞き、にわかに二人は真剣な顔で遥に告げた。
「それはアカン。ワシ桐生はんにも薫にも殺される」
「頼むからやめろ、叱られるのは俺だ」
遥はえー?と不満げに声を上げたが、仕方なくシールをはがし、内部の電池パックに貼り付けた。どうやら、ここで三人がこうしている
事が知れたら、何かと難しい事態が起きるようだ。


 その後、遥がUFOキャッチャーをやりたいというので、いくらか金を渡して二人は店を出、遠巻きに眺めた。彼女はコツがつかめない
のか、ネコのぬいぐるみに何度もチャレンジしている。真剣な表情の遥を、龍司は楽しそうに見つめた。
「あないなもんに、えらい集中力やなあ」
大吾はふと真顔になり、腕を組んで龍司に話しかけた。
「今日関東に来たのは、どういうことなんだ。遥に会いに来たのが一番の理由じゃないだろ」
龍司は肩を竦め、近くの自動販売機でコーヒーを二本買う。その一つを大吾に投げ、彼は蓋を開けた。
「ま、どうとでも考えてや。ワシは、遊びに来ただけやし」
「信じると思うか?」
大吾に鋭く視線を向けられ、彼は小さく笑った。
「一人で何ができる言うねん」
「残念ながら、敵対している組織に属する人間の言葉を、額面どおりに受け取るほど素直な性格じゃない」
何も言わず、龍司はコーヒーを飲む。そして、大きく息を吐くと視線を大吾に向けた。
「……東城会はどないや」
彼は龍司を一瞥すると、蓋も開けていない缶に視線を落とした。
「言う義理はねえ」
「聞けば、まだ正式に会長になっとらんらしいやないか。思ったほど信用ないのう」
龍司は口の端に笑みを浮かべる。それを聞き、大吾は彼を睨みつけた。
「余計なお世話だ。てめえだって下手すりゃ近江から絶縁じゃねえのか。人の心配よりも自分の心配するんだな」
「ワシはお前と違って世渡りが上手やねん。新体制になっても、手回しは完璧や。また動き出すんも時間の問題やで」
龍司が動く。大吾はわずかに表情を固くした。
「そうなれば、またうちにちょっかいかけてくるのか、てめえは」
「準備が整えばな」
二人の視線がかち合う。その鋭い眼光は、互いの隠された野心を露にした。関東が上か、関西が上か。そうやって二つの組織では
また多くの血が流れるのだろうか。
先に緊張を解いたのは、龍司。
「ま、近江は当分のんびりやらせてもらうし、東城会はせこせこ金でも貯めとき。ただでさえショボい組織なんやから」
「こうやって、わざわざガキに会いに来る暇な男がいる連合なんざ、眼中にねえよ」
「なんやと?」
「なんだよ!」
二人が一触即発の状態になった時、急に背後から声がした。彼らが振り向くと、そこには薄ら笑いを浮かべた若者が何人も立っている。
「おじさん達、楽しそうじゃん。俺達にもカンパしてよ」
龍司は彼らを見もせず、呆れたように肩を竦めた。
「神室町は、空気も読めんとキャンキャン鳴く犬が多てうるさいなあ、保健所呼びや」
「おい、やめろ」
挑発的な態度に、大吾は龍司をたしなめる。ここで目立つ真似はしないほうがいい。特に龍司は。しかし、若者達はそれが気に
障ったらしく、二人に詰め寄ってきた。
「はあ?舐めた口利いてんじゃねえぞ、オッサン!」
「痛い目見たいか?ああん?」
その無遠慮な物言いに、龍司の顔つきが変わっていく。面白い玩具を見つけたような、そんな目だ。大吾は間に割って入る。
「もうやめとけ、喧嘩を売る相手は選ぶんだな」
それが彼らの戦意に火をつけたらしい。その中の一人が大吾の襟首をつかんだ。
「うっせえんだよ、腰抜けはすっこんでろ」
大吾は大きく溜息をつく。今日は何かと苛々させられっぱなしだ。彼はその手を払いのけた。
「俺は今、人に振り回されっぱなしで、すげーむかっ腹立ってんだ。今引かねえと、後悔するぞ」
龍司はそれを聞いて、驚いたように大吾を眺めた。
「自分、怒ってたんか?メチャメチャ楽しそうやったやないか」
大吾は龍司を振り向き、怒鳴りつけた。
「急にお前が来たから、今みたいに色々煩わしいことが起きて苛々してんだよ!
「またまた。さては心配やったんやろ。遥がワシに取られる思て。大丈夫や、ワシにはもう大阪に大切な女がおる!」
「そんなことは、言ってねえ!」
急に口論を始めた二人を、若者達はぽかんとしたように眺めていたが、ふと我に返った一人が怒声を上げた。
「お、おいてめえら!何ごちゃごちゃ…」
「うるせえ!」
叫んだかと思うと、大吾は持っていた缶コーヒー(中身入り)を若者めがけて投げつける。それは目標を違えることなく
男の顔面にめり込み、彼はその場に倒れこんだ。大吾は不機嫌そうに肩を回すと、龍司を睨んだ。
「話は後だ。こいつらうるさくてしょうがねえ」
「初めて意見が合うたなあ、いっちょ暴れたろか」
二人は若者達に視線をめぐらす。彼らはめいめいに武器を構えると、勢い良く彼らに躍りかかっていった。
一方、にわかに騒がしくなった外を気にもせず、遥は何度目かのネコ捕獲にチャレンジしていた。

「見て見て~、とれたよ!どでかちぃねこ!」
彼女の体が隠れてしまうそうなネコのぬいぐるみを抱え、遥は店を飛び出してきた。龍司と大吾は、彼女がUFOキャッチャーで
遊び始める前と、なんら変わらぬ姿で彼女を迎えた。
「大物やなあ、よう取ったで」
感心したように眺める龍司の横で、大吾は首をかしげた。
「んなもん取って、どうすんだよ。わっかんねえなあ……」
遥は誇らしげに笑うと、ふと周囲を見回した。
「あの人たち、どうしたの?こんな所で寝たら、風邪ひいちゃうのにね」
先ほど二人に絡んできた若者達は、折り重なるようにして倒れている。龍司は豪快に笑うと、彼女を促した。
「人それぞれやて、放っとき。そないなことよりも、メシでも食いに行こうや」
「さんせーい!」
遥は特に気にする事もなく、嬉しそうに声を上げた。その場にいた人々は、子供連れの猛者たちが行ってしまうのを、珍しそうに
見送っていた。
「そうだ。本部に定時連絡忘れてた」
大吾は思い出したように告げ、二人から離れる。遥は小さく笑って告げた。
「龍司お兄ちゃん、もしかして本当は大吾お兄ちゃんに会いたかったんじゃない?」
「ほお、そら何でや?」
驚く龍司に、遥は少し考えた。
「龍司お兄ちゃん、大吾お兄ちゃんと話しているほうが、なんか楽しそうだったもん」
そうか?と龍司は空々しく考え込む。それを笑う遥に、龍司はにやりと笑った。
「そういや、遥は大吾の家に世話になっとるようやけど、東城会の姐さんになるんか?やったら大変やで。腕の立つ奴もおらんし
 金もない。会長はワシより弱いしな!」
「あ、龍司お兄ちゃんひどい。大吾お兄ちゃんが怒るんだから!」
遥は両手で拳を作り、龍司を叩く。彼は声を上げて笑い、彼女の手を取った。
「そうやなくて、それを何とかするんが姐さんの役目やろ。どうしようもない組でも、姐さんがしっかりしてれば、たいてい何とか
 なるもんや。大吾のオカンがそうやろ」
「……あ、そうか。そうだね」
思い当たる節があるように、遥は考え込む仕草をする。龍司は腕を組んだ。
「気が向いたら、いつか六代目の姐さんやってみ。遥なら、結構うまくいくかもな」
「そうかな。近江の人とも仲良くなれる?」
思わぬ難問に、流石に龍司も考え込んだ。
「……そら難しいなあ。よっしゃ、もしそん時ワシが会長になってたら、考えてやってもええで」
「それじゃ、約束!」
その意味をわかっているのかいないのか、遥は大きく頷き、龍司と指切りをする。彼は面白そうに笑みを浮かべると、彼女に
聞こえないように、ぽつりと呟いた。
「たきつけすぎたかいな。ま、ええか。困るんは大吾やし」
その時、定時連絡の済んだ大吾が戻ってくる。彼らは再び夕暮れの神室町を歩き出した。
 その後、奇妙な4人でとる夕食は、遥にとって楽しいひとときとなった。大吾も龍司に対しては悪態をついていたが、もう遺恨は
ないようでちょっとした雑談には応じている。それを見るのが、遥には何よりも嬉しかった。
 夕食が終わると、忙しい龍司は流石に帰らなければならない時間になったらしい。乗ってきた車を呼ぶと、名残惜しそうに遥に
声を掛けた。
「ほな、また大阪にも遊びに来いや」
「うん!絶対行くよ!」
龍司は、彼女の後ろで憮然としている大吾に視線を送る。
「心配なら、遥について来いや。大吾」
「ああ、わかったわかった。さっさと行けよ。そろそろ東城会の人間が歩き回る時間だから、何があっても知らねえぞ」
大吾の素っ気無い返事に気分を害すことなく、龍司は二人に手を上げ、神室町を去った。車が見えなくなると、遥は大吾を振り返る。
「寂しい?お兄ちゃん」
「そんなわけねえだろ、帰ってくれてほっとした」
ぞんざいな割には、大吾の口調は穏やかだった。遥は嬉しそうにぬいぐるみを抱き、先に立って歩く大吾を追いかける。
このまま二人が、そして二つの組織が仲良くなったらいいと遥は心から思った。


 東城会本部では、半日行方をくらましていた大吾と遥を弥生がかんかんになって説教した。しかも、二人はその理由を話したがらない
ため、余計に疑惑が深まっていく。その後、どうにか詳細を語らずには済んだが、残業を命じられた大吾は会長室で缶詰になっていた。
「大吾お兄ちゃん」
遥が会長室にそっと顔を覗かせる。大吾は書類から目を離さず答えた。
「なんだよ」
「今から帰るから、ご挨拶しようと思って」
大吾は書類に何やら書きとめながら、もう片方の手で彼女を追い払う仕草をした。
「一緒に本部脱走したくせに早いお帰りだな、裏切り者。帰れ帰れ」
ごめんね、と遥は両手を合わせ、続けた。
「あとね、私が東城会の姐さんになったら、龍司お兄ちゃんが会長になった時関東と仲良くしてくれるって」
「へー……」
大吾は仕事に思考が傾いていて、生返事を返す。遥はぬいぐるみを抱きなおした。
「東城会六代目の姐さんかあ、悩んじゃうな。それだけ、じゃあね!」
扉が閉まり、大吾はふと考える。さっき遥は何を言ってた?聞き流していたが、何か引っかかる。彼はゆっくりと彼女の言葉を思い出した。
「龍司に言われて……六代目の姐さんになる……とか……って、六代目姐!?」
顔を上げるが、遥の姿は当然もうない。大吾はしばらくぽかんとしていたが、やがて激しく机を殴りつけた。
「変な事遥に教えやがって……龍司、次会ったときは問答無用でぶっとばす!」
その頃、遥は言った事の重大さも知らず、ぬいぐるみを抱きながら帰りの車の中で眠っていた。楽しい夢を見ているのだろう、その
表情は幸せそうだ。横に座っていた弥生は、優しく遥の頭を撫でた。
 数日後、遥に「東城会の姐さんになるにはどうしたらいいの?」と聞かれ、あたふたする桐生の姿があったとか。それによって
当然大吾が桐生に呼び出され、問題発言の理由を詰問されたのは言うまでもない。

-

春雷

空は昼間にも関わらず、辺りが薄暗くなるほど厚い雲に覆われていた。自室の襖を開けると、遠くで唸るような音が響いている。
「雷か……」
呟き、大吾は座ったまま部屋の中から庭を眺めた。
 ふいに、ぽつりぽつりと降っていた雨が激しくなってくる。このところ晴天続きだったため乾ききっていたた庭が、その雨で一気に
潤されていった。やがて立ちのぼる土と水の臭いは、何故か心を落ち着かせる。久しぶりの休日に雨とは運がないとは思うが
今日はどこにも外出する気分でもなかったため、特に落胆はしていない。
 突如、光が辺りを照らし出す。少し遅れて、腹の底に響くような雷鳴。彼は一瞬目を細めたが、再びぼんやりと空を眺めた。
雷は嫌いじゃない、むしろ好きだ。空を駆け抜ける美しい稲妻を見るたび、心拍数が上がるのがわかる。
「ガキみてえだ」
彼は苦笑する。その瞬間、再び雷鳴が轟いた。ふと、大吾は視線を動かす。遠くで小さな声がしたような気がしたのだ。しかし
耳を澄ませても、聞こえてくるのは土砂降りの音だけ。気のせいか、と大吾はまた庭に目を向けた。相変わらず低く唸るような音が
辺りに響き、濡れた木々の若芽が雨に応じて美しく揺れていた。
「……ああ、ちくしょう!」
当分そのままでいた大吾は、吐き捨てるように呟き立ち上がった。彼は髪をかきあげながら、廊下を歩いていく。雨はその激しさを
弱めることもなく、屋根に叩きつけている。
 大吾は母屋の端にある洋室の前に立つと、小さく溜息をついた。そして面倒そうにその扉を一回ノックする。しかし、それはノックと
言うよりは、叩いたと言った方がいいようなぞんざいなものだ。そして、ぶっきらぼうに声をかける。
「俺だ」
部屋の中でわずかに物音がする。その後、足音がかけてきたかと思うと、小さく扉が開いた。顔を覗かせたのは、顔を強張らせた遥。
「……どうしたの?」
どうしたのも何も、と大吾は腰に手を当てて首を振った。
「お前、うるさい。雷にキャーキャー言ってんじゃねえよ」
「い、言ってないもん」
強気に返すが、彼女の言葉は少し震えている。大吾は肩を竦め、彼女に背を向けた。
「あ、そ。それなら大丈夫だな」
素っ気無く言い捨て、立ち去ろうとする。遥は慌てたように彼の手を掴んだ。
「やだやだ、お兄ちゃん待って!」
「なんだよ」
溜息混じりに振り向くと、遥は彼を上目遣いに見つめた。
「大吾お兄ちゃんが、雷が怖くて一人でいられないんだったら、一緒にいてあげてもいいよ」
それを聞くなり、大吾は呆れたように首を振った。強がりもここまできたら大したもんだ。
「……もう、この際それでいい」
「やった!」
遥は笑顔を浮かべ、彼を部屋に招き入れる。彼女にあてがわれた部屋は、元々来客用の部屋だった。そのせいか、インテリアは
子供部屋らしからぬ落ち着いたものだ。久しぶりに入った部屋で大吾は中を見回す。寝台が乱れているのは、先ほどまで彼女が
潜りこんでいたからだろう。彼は寝台に寄りかかって床に座った。
「遥、お前家にいる時に雷だったらどうしてんだよ」
すっかり雷が苦手なことを前提に話が成されている。彼女はきまりが悪そうに呟いた。
「家には、いつもおじさんがいるもん」
そう言って、遥は彼の隣に座り、膝を抱えた。
「こんな広いおうちで、一人なんて初めてだったから……こんなことで、迷惑かけちゃダメだと思って」
大吾は苦笑を浮かべ、遥の頭を乱暴に撫でた。
「ガキがそんなこと気にしてんじゃねえよ」
「だって……」
遥が何か言おうとした瞬間、閃光と共にひときわ大きい雷鳴が轟いた。彼女は高い声をあげ、大吾にしがみつく。
「やだやだやだー!」
大吾は驚いたように遥を見下ろしていたが、小さく溜息をつき彼女の背を軽く叩いた。
「つか、なんでお前が雷を嫌がるのかがわかんねえ」
遥は彼から離れずに、顔を上げた。その顔は今にも泣き出しそうだ。
「……だって急に光るし、すごく大きな音がするんだもん」
彼はしばらく窓の外を眺め、雨が窓を叩くのを聞いた。
「雨ってのはな、龍神の仕業だ」
「龍神?」
ああ、と大吾は頷いて見せた。
「龍は雲を呼び、雨を降らす。雷なんてそのおまけみたいなもんだ。お前は龍と呼ばれる人の一番近くにいるのに、龍が呼ぶ
 雷が嫌いなんて、おかしいんだよ」
遥は複雑な表情で窓の外を眺める。そして、ぽつりと呟いた。
「なら、今おじさん怒ってるのかな」
「さあな、また喧嘩でもしてんじゃないのか」
「……怪我、しないといいけどな」
消え入るような声で告げ、遥は彼の腕の中に潜り込む。大吾は困ったように彼女を眺めた。
「何してんだよ、もう平気じゃないのか」
「違うよう……おじさんのこと思い出したら、なんか……」
それ以上遥の声は聞き取れなかった。大吾は寝台に頬杖を付く。彼女はさっき『寂しい』と言いたかったのではないだろうか。
そうでなければ『切ない』なのかもしれない。今桐生は遠く離れた場所で、最愛の女と一緒にいる。忘れようとしていても、一度
気にすれば泥沼だ。大人でさえ持て余す気持ちを、どうして幼い遥が処理しきれるだろうか。わずかに彼女が震えているのは
雷のせいだけじゃない。
「あのね」
ふいに声を掛けられ、大吾は窓の外を眺めたまま答える。
「……なんだよ」
いつの間にか顔を上げた遥は、ぎこちなく笑った。
「大吾お兄ちゃんがいてくれて、よかった」
大吾は彼女に気付かれぬよう、わずかに微笑んだ。しかし、すぐにいつもの素っ気無い表情に戻り、彼女に手を出す。
「なに?」
首を傾げる遥に、大吾はぶっきらぼうに告げた。
「ここまでしてやったんだから、礼くらいしろ」
彼の言葉に、遥は目を丸くして声を上げた。
「えー?!もしかして、お金取るの?」
大吾は意地悪く笑うと、もっともらしく頷く。
「とりあえず、即金で500円貰うか。後は貸しにしといてやる。利息はトイチな」
「後は……って、全額いくらなの?500円なんてお小遣いの残りが全部飛んじゃうよー!そ、それにトイチって何?」」
「自分で調べろ。しかし、500円で小遣いの残りが飛ぶって、お前普段いくら小遣い貰ってんだよ、この貧乏人」
「だ、だって今月は買いたいものがいっぱいあったんだもん!あ、そうじゃなくてお金取るなんてひどいよう!」
遥は抗議の声を上げながら、両拳で彼を叩く。大吾はそれを受け流しながら、声を上げて笑った。
「誰もが善人と思ったら大間違いだぞ。高い授業料だったな、ご愁傷様!」
抗議で息を切らしつつ、珍しく遥が考え込む。それを興味深く眺める大吾に、遥は伏目がちに呟いた。
「……それなら、仕方ないよね」
その思い詰めたような表情に、少しからかいすぎたかな、と大吾が今までの言葉を取り消そうとした時だった。
遥は真剣な表情で顔を上げた。その瞬間、雷光が部屋の中を照らし出す。
「残りの借金は、体で払うよ!」
「………………あ?」
何かとんでもないことを聞いたような気がする。大吾は自分の耳を疑った。誰が、何で払うって?
ぽかんとしている彼に、遥は大きく頷く。
「そうだよね、お礼はちゃんとしないといけないよね。私、なんでもするから。好きにして!」
どうやら、聞き間違いや幻聴の類ではない。にわかに大吾は顔色を変え、彼女から後ずさった。
「ななな、何言ってんだ!ガキのくせして!」
「私は大丈夫だよ、どんなことでも嫌って言わないから!」
「そういう問題じゃない!お前、自分が何言ってるかわかってんのか?!」
激しく拒絶する大吾に、遥はそっと俯いた。
「もしかして、お兄ちゃんおじさんに遠慮してるの?」
「え、遠慮?!そんなわけあるか!そもそも人として駄目だ!そんなことは!」
このままでは埒が明かないと思ったのか、遥は彼の手を強く引いた。
「わけがわからないよ。しょうがないなあ。それじゃ、私がしてあげる」
「お、おい、馬鹿、引っ張るな!」
「大丈夫だよ~、おじさんにも評判いいんだから。気持ち良いんだよ」
「評判いいって…何やってんだよお前は!つか、桐生さん見損なったぞ!」
「どうしたの?変なお兄ちゃん」
遥は首を傾げつつ、お泊り用の鞄から小さなポーチを取り出す。彼女はそこを探り、何やら取り出した。
「ほらほら、横になって」
「だから、何をする……!」
隙を突かれ、無理やり引き倒された大吾は慌てて遥を見上げる。彼女は細長い棒を持って、きょとんとしていた。
「ん?耳かきだよ」
「耳かき……」
事の真相がやっと理解でき、大吾は疲れたように脱力した。遥は驚いたように彼を覗き込む。
「あとはねー、してあげられることといったら、洗った髪を乾かしてあげたりとか、爪切ってあげたりとか……」
「グルーミングかよ……」
力なく呟く大吾が不満げに思えたのか、遥はまた考え込んだ。
「うーん。他に、他に……そうだ、お風呂で背中流してあげる!」
「それは、絶対いらねえ!」
即答され、ちぇ、と遥は口を尖らせる。まったく、冗談じゃない。大吾は溜息をついた。
「もういい。あれは冗談だ」
冗談?遥は驚き彼を見下ろしている。大吾は彼女の髪に触れた。ふと、前にもこういうことがあったな、と思い苦笑する。
その時、遥が笑った。
「前にも、こうやって触ってくれたね」
「そうだな」
「すごく嬉しかったのに、お兄ちゃん、後ですごく悲しいこと言った」
「……悪かった」
他愛ない会話をしながらぼんやりと髪を弄ぶ大吾に、遥は目を細めた。
「私ね、桐生のおじさんが好きだったんだ」
彼は視線を移す。彼女の瞳は穏やかに澄んでいる。
「でもね、私は小さいし、おじさんには薫さんがいるでしょう?すごく切なくて、どうしようもないときに、弥生さんに言われてここに来たの。
 あの時、お兄ちゃん本部の会長室にいたよね」
「ああ、そうだったな。知らないガキが平然と組員に茶出してて、びっくりした」
遥はふふ、と笑って頷いた。さらさらと彼女の黒髪が肩から流れる。
「今は自分の気持ちから逃げてもいいって、お兄ちゃん言ってくれた。それですごく楽になったの」
「……まだ、逃げるのか」
問われ、彼女は視線をめぐらせた。
「うーん。本当はね、最近はおじさん達のことを考えても、あまり苦しくないの」
「そうなのか?」
驚く大吾に、遥は微笑んだ。
「だって、私はおじさんが薫さんのところに行っても、一人じゃないもの」
静かに見返す大吾に、遥は嬉しそうに呟いた。
「大吾お兄ちゃんが、いてくれるでしょ?」
あどけない笑顔は、最初に会った時のままだ。20も歳の離れた少女なのに、時折こうやって殺し文句を口に出してくるのは
計算してやっているようにしか思えない。これが天然なのだとしたら、末恐ろしい。大吾は苦笑を浮かべた。
「悪女」
「え、どういうこと?」
「なんでもねえよ。ほら、耳かきしろよ。それで今日のことはチャラにしてやる」
「あ、うん!」
遥は大吾の頭を膝に乗せ、楽しそうに手を動かし始める。気がつけば雷は通り過ぎたらしく、雷鳴は遠くなっていた。
依然雨は優しく降り続けている。心地よい雨垂れの音を聞きながら、彼はそっと目を閉じた。


花嫁修業?

 大吾が自宅の廊下を歩いていると、小気味のいい音が聞こえてきた。これは、弥生がいつも使っている花鋏の音だ。弥生は
茶道や生け花などに精通しており、師範の免状も持っている。今日も客間に飾る花を生けているのだろうと、部屋の前を通り過ぎ
ようとした時だった。弥生ともう一人、少女の声もしてくる。彼はふと部屋を覗き込んだ。
「……でね、この枝振りを生かして自然な感じにしてごらん」
「こ、こうかな?あれ……何か変?」
「いいんじゃない?でも、ここの部分をもっとすっきりさせると花が引き立つかな」
弥生に教わりながら、遥が真剣な顔で花と格闘している。素人目から見てもまだまだ上手いとは言いがたいが、弥生の教え方で
もっと良くなるだろう。大吾はふと意地悪く笑った。
「下手くそ」
遥が驚いたように振り返る。弥生は顔をしかめ、彼をしかりつけた。
「もう、あんたはどうしてそういうことしか言えないの!」
大吾は肩を竦め、大げさに首を振った。
「こんなガキに生花なんて、できんの?」
「小さい頃に始めておくから身に付くの。ね、遥ちゃん」
遥は大きく頷き、彼に笑顔を見せた。
「お兄ちゃん、お花楽しいよ。弥生さんすごく丁寧に教えてくれるもん」
大吾は開け放した襖に寄りかかり、苦笑を浮かべる。
「鬼教師の間違いじゃないのか?」
「大吾っ!」
弥生は咎めるように彼の名を呼んだが、やがて諦めたように溜息をついた。
「あんたにはわかんないんだよ。遥ちゃんは桐生から預かった大切な娘さんだもの。来るべき日のために、どこに出しても
 恥ずかしくないようにしてあげなきゃね」
「来るべき日?」
ぴんと来ない顔で遥は首を傾げる。弥生は真剣な顔で頷いた。
「遥ちゃんは、いつか誰かと結婚するんだから。その時慌てない為にも、今花嫁修業しとかないと」
「わーい、花嫁修業!がんばりまーす」
遥は無邪気に喜ぶ。それまで黙って聞いていた大吾は、思いも寄らぬ単語が出たため慌てたように声を上げた。
「お、おい!花嫁修業って、それは早すぎるだろ!遥はまだ小学生で……!」
「何言ってんの。女の子はすぐに成長するんだよ。それまでに、お茶やお花、礼儀作法なんか教えないと間に合わないじゃないか」
大吾は大きく溜息をついて頭を抱える。正直遥はずっと小さいままでいるような気がしていただけに、こういった具体的なことを
言われると、なんだか複雑な心境になる。彼はそれ以上考えないようにしながら、ふらふらとその場を離れた。
「俺、本部行くわ……」
遥は廊下に身を乗り出して大吾を見送ると、心配そうに呟いた。
「大吾お兄ちゃん、どうしたんだろ」
「放っておきなさい。急に現実を突きつけられてショックでも受けてんでしょ」
「現実?」
首を傾げる遥に、弥生はそっと囁いた。
「遥ちゃんも、成長するんだってことよ」
弥生の言葉がまだ理解できないのか、遥は難しい顔をして首をかしげた。


「今日は遥はいないんだな」
会長室にやってくるなり、柏木が問いかける。どうも自分は遥のスケジュールまで把握していると思われているらしい、大吾は不機嫌な
顔で彼を見た。
「なんで俺に聞くんだよ」
「お前が一番近くにいるじゃないか。今日は堂島家にいるんだろ?」
柏木は大吾はあからさまに不機嫌になるのを面白そうに眺め、答える。大吾は大きく溜息をつき、煙草に火をつけた。
「家にいるよ」
「それは珍しいな。いつも本部で忙しくしているのに」
書類を机の上に置きながら、柏木は首を傾げる。大吾は落ち着きなく煙草をふかすと、首を振った。
「花嫁修業するんだと。今、お袋が張り切ってる」
流石に驚いたのか、柏木は書類から顔を上げた。
「姐さんが?花嫁修業とは、また気の早いことだな」
「そう思うだろ?俺もそう言ったんだけどな……」
困ったように笑う大吾を眺め、柏木は小さく笑った。
「姐さんがやる気になったってことは、今のうちに姐さん修行もさせようというわけかな」
「ああ?どういう意味だよ」
柏木は意味ありげに大吾に視線を送り、肩を竦めて踵を返した。
「遥がお前と一緒になって6代目の姐さんになってもおかしくないってことさ」
「な……!そ、そんなわけねえだろ!おい、柏木さん!」
名を呼ばれ、会長室を出て行こうとした柏木は足を止めた。
「そうだな、遥なら理想の姐さんになるかもな。器量もいいし、度胸もある。極道のことに理解は深いし、頭もいいし、社交術もある。
 うちの者たちの信望も厚いし、まんざら冗談で終わりそうもないかもしれないぞ」
「ふざけんなよ!冗談でも言うな、そんなこと!」
大吾は思わず立ち上がると、乱暴に机を叩く。柏木は声を上げて笑いながら、会長室を出て行った。大吾は疲れたように
椅子に座りなおし、煙草を揉み消す。
「……そんなことは、一生ありえねえ」
呟き、大吾は窓の外を眺めた。今日もいい天気だ。遥はまだ弥生に習って花を生けているのだろうか。

 大吾が帰宅すると、玄関先に少々いびつな盛り花が生けてあった。この作風からすると、きっと遥の手によるものだろう。
彼は苦笑して居間に向かう。すると、いつもなら誰も自室に戻っていていないはずの居間から、光が漏れていた。
「今度はなんだ?遥」
自分に背を向けて何やら細かい仕事をしている遥に、大吾は声をかける。彼女は彼が帰ったことも気付かないくらい集中していた
らしい、ひどく驚いて振り返った。
「あ、大吾お兄ちゃんお帰りなさい!気付かなかったよ~。ごはんは?」
「いらね」
素っ気無く呟いて、大吾は上着を脱ぎネクタイを緩める。遥はそう、とだけ答え作業を再開した。大吾は台所の冷蔵庫からビールを
取り出し、蓋を開けながら遥の手元を覗き込む。
「で、何してんだよ」
遥は彼を見上げると、彼に手に持った針と布を見せた。
「あの後ね、弥生さんに和裁を習ったの。私、ボタン付けくらいしかしたことがなかったから」
「和裁……裁縫か?」
ぴんとこない風の大吾に、遥は何度も頷く。
「そんなものみたい」
彼女の手の中にあるのは、渋い色目の生地。彼女のものにしてはいささか大人びた布地のようだ。大吾はそこに座ると
ビールを飲みながら珍しそうに眺めた。
「何縫ってんだよ」
遥は手を止めることなく嬉しそうに微笑む。
「浴衣だよ」
「浴衣?」
うん、と遥は視線を大吾に向ける。
「練習ついでに作ってみたらって弥生さんに言われたの。生地もちゃんと自分で選んだんだよ。夏までに作って、おじさんに着て
 もらうんだ!」
「桐生さんにか」
大吾は改めて彼女の手元を眺める。藍海松茶(あいみるちゃ)色の生地は若すぎず、桐生によく似合うと思った。
似合う色を知っているというのは、いつもその人物を見ている証拠だ。それを見ていると。遥の桐生に対する思いが伝わってきて
大吾はわずかに視線をそらした。
「うまくできたらいいな」
「うん!頑張る!」
彼女は器用に針を動かす。しかし、手際がいい。この分なら、本格的な夏を待たずに作りあげてしまいそうな勢いだ。彼は苦笑した。
「根を詰めると後で疲れちまうぞ」
「うーん、でも夏まで時間がないもん」
「大丈夫だろ、まだ2ヶ月はゆっくりあるじゃないか」
遥は大きく首を振り、大吾を見つめた。
「急がないと間に合わないよ。だって、もう一つ作るんだもん」
「もう一つ?」
大吾は不思議そうに問い返す。遥は大きく頷いて優しく微笑んだ。
「もう一つは、お兄ちゃんの」
「え……」
「私が縫ってあげるから、夏になったら着て一緒に出かけようね」
彼は思わず言葉に詰まる。まさか、遥が自分にまで気にかけているとは思わなかった。黙りこくっている大吾を彼女は覗き込む。
「駄目?」
大吾はしばらく彼女を見つめていたが、ふいに意地悪く笑った。
「着られるもんができたらな」
「あ、またそういうこと言う!いいもん、頑張るんだから!出来上がりを見て驚かせちゃうからね!」
「やってみろよ、もし俺を驚かせたら、何でも買ってやる」
「本当?約束だからね、忘れちゃだめだよ!」
真剣な顔で詰め寄る遥を、大吾は声を上げて笑う。こんなことにムキになる遥は、やはりまだ幼い。彼女だけは、もう少しだけ
このままでいてほしいと彼は心から思った。
「……あ、お兄ちゃんボタン外れかけてる」
彼の胸の辺りを指差して遥が驚く。大吾がそこに手をやると、Yシャツのボタンはすぐに取れてしまった。遥はもう一本の針に糸を通し
彼に歩み寄った。
「ボタンなくしたら大変だよ。丁度いいから今付けてあげる」
「ああ、面倒だから脱いだ後でいいって」
疲れたように首を振る大吾に、遥は少し睨んだ。
「駄目だよ、後回しにしたら絶対忘れちゃうんだから。覚えてるうちに付けておきたいの。大丈夫、私ボタン付けは結構うまいんだよ」
「お、おい……」
遥は彼からボタンを奪うと、彼に針を刺さないよう注意しながら付け始めた。彼女は自分で言うだけあって、手つきがいい。
普段家でやっているのだろう。大吾はしばらく彼女の真剣な顔を上から眺めていた。
「なあ、遥」
「なに?」
彼女は手元から目を離さずに返事をする。大吾は近くの座卓に頬杖をついた。
「お前、この先どうすんだ?」
「どうするって……?普通だよ。学校行ったり、遊んだり……」
「ずっと、桐生さんといるのか?」
ふと、彼女の手が止まる。痛いところを突かれたように遥は少し俯いた。
「……それは、無理かな」
「そうか」
彼女は何も言わずまた針を動かし始める。心なしか、さっきよりペースが落ちたような気がする。大吾もそれ以上追求しなかった。
やがて遥は納得したように頷く。どうやらきちんとボタンが付いたらしい。玉止めをして、少し何か探すような仕草をする。
「あれ……」
糸切り鋏が見当たらない。さっきまで使っていたのに、と遥は思う。探しに行ってもいいが、ここで針を置くのは危ない気がした。
「ごめん、ちょっと…」
「……え」
急に遥の顔が自分の胸に寄せられる。急なことに驚き思わず固まる大吾を、遥は不思議そうに見上げた。
「どうしたの?終わったよ」
遥は糸の切れ端を持ってぽかんとしている。どうやら鋏がなくて自分の歯で切ったらしい。大吾はやっと状況を把握して
決まりが悪そうな顔で立ち上がった。昼間柏木にあんなことを言われたからか、今日の自分はどこかおかしい。
「俺もう寝る。お前も早く寝ろよ!」
「あ、うん」
遥はきょとんとしたように大吾を見送る。彼は居間を出ようとして、ふいに足を止めた。
「もし、桐生さんといられなくなったら、うちに来い」
針をしまおうとした遥は思わず顔を上げる。しかし、その時にはもう大吾の姿はなかった。
その頃、大吾は肩に上着を引っ掛け廊下を歩いていく。彼は煙草に火をつけ煙を吐くと、見るともなしに庭を眺めた。
「なにしてんだかな、俺」
ぽつりと呟いて彼は苦笑した。このところ小さな女の子にペースを狂わされっぱなしだ。こんなこと、昔の自分では考えられない。
桐生も最初はそうだったのだろうか、そこまで考えて大吾は首を振った。桐生を引き合いに出すなんて、本当に、どうかしている。
「……それにしても、変な約束しちまったな」
遥との賭けにも似た約束をふと思い出す。大吾の顔は面倒そうではあったが、ほのかに嬉しそうにも見えた。
頬を撫でる風が温かくなってきた。きっと、夏もあっという間にやってくるだろう。

  • ABOUT
うろほらぞ
Copyright © うろほろぞ All Rights Reserved.*Powered by NinjaBlog
Graphics By R-C free web graphics*material by 工房たま素材館*Template by Kaie
忍者ブログ [PR]