送信完了
「退屈や……」
放り出した金属バットが高い音を立ててアスファルトを転がった。痛々しいほど大きく歪み、所々に鮮血が飛んでいることから
明らかに本来の用途と違うことに使用されたことがわかる。
退屈、とこぼした男は視線を動かした。男の目の前には数人の男達が地を這い、ある者は呻き声をあげ、またある者は昏倒していた。
喧嘩というにはあまりにも無残な状況である。きっかけは、彼らがこの男にふっかけたささいな因縁に他ならない。しかし、彼らが
男の素性を知っていたなら、因縁をつけるなどという無謀な事はしなかっただろう。しかし、不幸にも彼らはこの街では新顔で、悪を
気取るにはあまりにも無知だった。
「ほな。行くで」
黄色のジャケットを翻し、男は薄暗い路地を後にした。男の名は真島吾朗、かつて『嶋野の狂犬』とも恐れられた武闘派だ。
今は堅気になっているとはいえ、その腕っ節は健在。関西との抗争の折、たった一人で千石組の精鋭を一人残らず倒したのは
極道の間でもまだ記憶に新しい。
少しでも裏社会で生きた者なら、誰もが口を揃えて言うだろう。『狂犬に手を出すほど、愚かなことはない』と。
真島はあれだけの人数を相手にした後だというのに、眠そうに大きく欠伸をした。彼にしてみたら肩慣らしにもならないというわけか。
「ホンマに退屈やわ」
改めて真島は呟いた。この街で、自分と渡り合える男はもういない。ただ一人認めた男は、少女を連れ街を出た。空虚感を埋める為に
喧嘩を買ってはみるが、どれも似たようなもので、当たり前に勝つものの更に虚しい気持ちになった。
「親父!」
人ごみの中で聞きなれた声がした。ふり向くと、そこには人のいい笑顔を浮かべた部下がやってくるところだった。
「なんや、お前か」
ぞんざいな言葉だが、慣れているのか男は表情を崩さない。すんません、と事務的に話し始めた。
「ヒルズの今日の工程終了しました。細かいことは書類にまとめて事務所の方に置いてあります」
「わかった。後で見るわ、見るだけやけどな。ごくろうさん。」
礼儀正しく頭を下げ、男は真島に背を向けた。ふと、真島は彼を呼び止める。
「ちょい待ちや」
「なんですか?」
振り向く男に、真島は真剣な顔で告げた。
「ワシ、退屈やねん」
「はあ」
「きっと寂しいねん」
「そうですか」
「どうしたらええ?」
「……は?」
男はぽかんとする。話が抽象的過ぎてわからない。ただ、何も言わなければ叱られるのは間違いない。退屈で寂しいか…悩んだ末に
真島に告げた。
「女はどうです?キャバクラいいですよ」
「もうああいうんは飽きた。却下や」
「な、ならカジノとか。親父なら稼ぎ放題ですよ!」
「アホ、ワシが行ったら細工されるやんけ。接待ギャンブルは御免や」
次々に拒否され、男は心底困った。退屈な時には女かギャンブルかと相場は決まっている。しかし、真島には当てはまらないらしい
イライラしたように真島は声を上げた。
「他にないんかい!せや、お前はどうやねん。何かあるんか退屈しのぎは!」
「お、俺は…あ、メールしてます。メル友いるんすよ」
「メル友~?メールか……メールなあ。もうええわ、行き」
男はほっとしたように頭を下げ、足早にその場を離れた。真島はしばらく考え、携帯を取り出した。
「個人的なメールなんて初めてやなあ」
ビルの壁に寄りかかり、真島は短く文章を打った。送信を押すと、しばらくした後に『送信完了』の文字が出た。
鼻歌交じりでしばらく待つと短く返事が返ってきた。
『元気です』
たった4文字の返信。真島は小さく笑った。
「相変わらずそっけないのう。これならどうや」
再び真島がメールを打つ。送信できたのを確認すると、彼は近くの販売機でコーヒーを買った。それを口にしていると
ふと、足元に気配を感じる。見下ろすと灰色の猫が足にまとわりついていた。
「なんや、猫かいな」
真島はしゃがむと猫の頭を乱暴に撫でた。しかし、猫が嫌がるそぶりはない。懐かれるまま遊んでやっていると
ポケットの中で携帯が鳴った。彼はメールを開いた。
『わかりません』
「わからんて…寂しいなあ。おまえ見て、見たってこのつれなさ!」
文面を猫に見せるがそれがわかるはずもなく、きょとんとしている。真島はすごい勢いでメールを打った。
「送信や!」
言いつつ送信ボタンを押す。そしてまた猫を豪快にわしわしと撫でた。
やがて街灯に明かりがともる。気がつかないうちに、通りに人も増えた。もうすぐこの街も夜の顔に変貌するだろう。
夜は嫌いじゃない。むしろ好きなくらいだ。だが、今は昼も夜もひどく退屈だ。ここには何でもあるが、何もない。
そして携帯が鳴った。
「お、メールや。えらい時間かけて、なんやろな~」
楽しそうにメールを開く。読んだ瞬間、真島の表情が変わった。そこには先ほどと変わらず、ひどく簡潔な文面があった。
『いつでも構いません』
しげしげと眺め、しばらく考えていたが、真島はおもむろに大きく頷いた。
「うん!それでこそ桐生チャンや~!いや、メールておもろいな。またやろ」
ふと視線を動かすと、物欲しそうな猫と目が合う。彼はゆっくり立ち上がり、猫に手招きした。
「腹へっとんのか?一緒に来たらうまいもん食わせたるで!」
知ってか知らずか、猫は素直に彼の後をついていく。真島は先ほどまで感じていた退屈などすっかり忘れ、足取りも軽く賑やかな
通りを歩いていった。
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受信完了
「おじさん、お米安くなっててよかったね」
大きな買い物袋を提げ、桐生は遥と帰宅していた。5キロの米袋は子供の手には重すぎる。いつもこういった買い物は桐生が手伝う
ことにしていた。遥は久しぶりに二人で買い物に行けたので、上機嫌で買い物の時の話をあれこれ話している。楽しそうな顔をしている
遥を見るとこちらも嬉しい。彼は相槌をうちつつ、ささやかな幸せを感じていた。
あの抗争から数ヶ月、身辺も落ち着いてきた。抗争直後は、なんやかやと東城会の人間が身の回りに現れ、東城会に戻れと迫って
きたものだ。無論戻る気はないと跳ねつけた。自分は堅気で生きると決めたのだから。
ただ、今でも神室町のことは忘れてはいない。あの中で何年も過ごしてきた。いい思い出も悪い思い出も沢山残っている。自分の古巣
のようなものだ。そこに愛着があるのはごく自然なことである。時折、神室町の近くまで行ったりはしたが足を踏み入れることは一度も
なかった。
「ね、おじさん。神室町の人たち、元気かな」
心中を悟ったように遥が微笑む。桐生は言葉を詰まらせた。
「い、いきなり…どうした」
「いい人沢山いたもんね。ユウヤお兄ちゃんや一輝お兄ちゃん。花屋のおじさんに、真島のおじさん!」
無邪気な笑顔につられ、桐生は笑みを浮かべた。いい人か、確かに悪い人間ではないだろう。彼は小さく頷き、二人の住む部屋の
扉を開けた。
「……ん、携帯が」
ふと携帯が鳴る。見ると、メールが届いていた。見知らぬ番号からだったが、詐欺の類ではないようだ。
メールを開くと、そこにはこう書いてあった。
『桐生ちゃん元気か?ワシのメル友になったって~』
「メル友……」
いきなり何を、桐生は溜息をつく。こんな文面を送る男は知っている限りでただ一人だ。携帯を眺めて固まっている桐生に遥は首を
傾げた。
「おじさん、どうしたの?」
「なんでもない。メールが来ただけだ」
「薫さんから?」
うふふ、と冷やかすように笑う遥の頭を小突き、苦笑した。
「違う。変なこと考えるな」
「はーい。それじゃ、私夕食作るね」
遥は残念そうに返事をすると、キッチンに向かっていった。残された桐生は、どう返事したものかと悩んでいたが簡単にあたりさわりなく
返信した。
キッチンに米を置き、桐生はベランダで煙草に火をつけた。あのメールが真島の兄さんだとすると、急に何故自分にメールを送って
きたのだろう。しかもメル友とはどういうことなんだろうか、やはり読めない男だ。
煙を吐き出すと、また携帯が鳴った。メールだ。先ほどと同じ番号だというのを確認し、それを開いた。
『神室町にいつ来るんや?また派手にやりあおうやないか』
「兄さんは相変わらずだな」
桐生は困ったように笑う。何も言ってないのに、また必ず桐生が神室町に来ると確信しているのも真島らしい。
しばらく考え、短く文章を打った。
夕闇が迫っている。ベランダから見る街の夕暮れは好きだ。暖かい家の明かりも、幼い頃は寂しさが募るので好きではなかったが
家族が増えた今では、何より安らぐ光景だ。もう少しすれば遥が自慢の手料理を披露してくれることだろう。これはかつて夢見た
『幸せな家族の風景』そのままではないか。桐生が灰を落としたとき、メールが届いた。
『そんなつれないこと言わんといてや~神室町にあんたがおらんと寂しいねん。もしこのまま神室町に来いひんかったら
そっちにおしかけたるで!本気やで!』
桐生はしばらく驚いたように文面を眺め、おもむろに携帯を閉じた。一体何がしたいのだこの人は……桐生は煙草を吸いきると
灰皿でもみ消した。
「おじさん」
いつの間にか遥が後ろに立っていた。振り向く桐生に彼女は携帯でメールを打つまねをした。
「そんなにメール打つの珍しいね。メル友?」
「あ、いや……そういうことではないな」
「そうなの?でもなんか楽しそうだったから。お友達かなって」
友達。これほど真島と自分の関係にそぐわない単語はない。真島はあくまでも目上の存在で、上下社会の厳しい極道では対等に振舞う
などありえなかった。それが今やメル友(仮)扱いとは。思いも寄らないことだった。しかし、楽しそうに見えたのか。彼は苦笑し、首を
かしげながら去っていく遥を呼び止めた。
「遥、真島の兄さんがうちに来たいんだと。どうだ?」
真島のおじさん?遥は笑顔で振り向き、大きく頷いた。
「いつ?私はいつでもいいよ!」
「いいのか」
「おじさんは駄目なの?だって真島のおじさんは桐生のおじさんのお友達でしょ?」
どうも誤解があるようだ。桐生がちゃんと説明しようとした時には、遥は鼻歌交じりでキッチンに戻っていくところだった。
遥はふと振り向くと、嬉しそうに桐生に告げた。
「真島のおじさん何が好きかな。ごちそう作っちゃうね!日にちが決まったら言ってね」
「あ、ああ……決まったらな」
桐生は腹をくくったように携帯を開いた。彼はしばらく悩み、ゆっくり文章を打った。送信ボタンを押してメールが送り届けられたことを
確認すると、そっと携帯を閉じた。
もうすぐ夜。神室町は今頃賑やかになっているだろう。
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