突き上げる衝動。溢れる獣性。わたしは堪えきれずに吼える。
瞬間、自分の間合いに持ち込もうと二人が飛び込んで来る。わたしはそれを避けず、こちらも地面を強く蹴った。本来あるべき力を得て躍動する体は軽い。『私』が使うより数段早く動ける。
一瞬の攻防の後、お互い弾きあうように飛び退った後には斬撃の名残が一筋。獲物の胸板からは、薄皮一枚裂いて赤い切り口が覗いている。対してこちらは、髪が一房千切れ飛んだ。風に舞うそれも赤。
手には、肌を裂いた感触が残っている。窓越しに見るあやふやな景色ではなくて、確かな感触。確かな血の臭い。触れられる。いくら手を伸ばしても届かなかったものに、今なら触れられる。
わたしはもう一声吼える。これは歓喜。歓喜の声だ。
それまでのわたしにとっての世界は、小さな窓から見える四角に切り取られた風景だけだった。
わたしの部屋は狭い。そして暗く、何もない。ベッドや机はもちろん、出入り口さえない部屋だ。そういうものを部屋と呼んでいいかどうかはともかく。
そこにたったひとつ窓がある。出口もない部屋に外の世界を覗くための窓。残酷な部屋だ。
小さな窓から見える四角に切り取られた風景。それだけの世界。
歓喜の声に微か、震えが混じる。あんな場所に戻りたくはない。そのためにはこの場を戦い抜いて、切り抜けなければならない。負ければまた、あの部屋だ。
相手は二人。いや、獲物が二匹。だが、狙いは片方に絞る。この二人を同時に相手にして、両方を仕留めようなどというのは甘い考えだとわたしは知っている。この二人は1+1が2にも3にもなるタイプだ。
だが、逆に言えば片方を潰せば残りにはそれほど苦労しないと言うことだ。とにかく片方を潰した方がいい、そう私は狙った。
問題はどちらを狙うかだが、それは最初から決めていた。赤いバンダナから溢れる、うねった黒髪。こちらだ。絶対にこちらだ。
本当は、別にどちらでもいい。どちらを殺したとしても、今度こそ『私』は今度こそ現実から目をそむけ、自分の殻に閉じこもるだろう。大切な人を再び自分の手にかけた。そのトラウマが『私』を押し潰す。それは同時にあの部屋の崩壊を意味し、わたしは完全に解き放たれる。
それでもわたしの狙いは決まっていた。ずっとずっと、そうすると決めていたのだ。
窓から見える風景が、割と楽しいものだったのが、せめてもの救いかもしれなかった。
この窓からは世界中の戦場が良く見える。銃声とか血の臭いとか泣き声とか誰かの死だとか、そういうものを見るのはとても楽しかった。血の赤は、窓越しのどこかあやふやな光景の中で、ただひとつ鮮やかに見えた。
もうひとつ鮮やかなものは、背中だった。名前も知らない誰かの背中。窓から見える光景の、どこにでもその背中があった。
うねる黒い髪。肩幅が広く、腕が太い。大きな手は銃を握っていることもあったし、ナイフを掴んでいることもあった。
それが容赦なく振るわれる瞬間を見るのが何よりも楽しかった。彼の作り出す死は、何よりも鮮やかで、心地良い光景だった。
でも、彼はわたしがこうして見ていることなど気付きもしない。わたしがいくら手を伸ばしても彼の背中に届くことはないし、もちろん彼がわたしをふりかえることもない。
その背中の持ち主の顔を、わたしは初めて見上げた。
いくら手を伸ばしても届かなかったその背中に、今なら触れられる。触れて、そこから引き裂いて、殺せる。
愉しかった。今まで一番。幸せというものがあるとしたら、きっとこれがそういうものだと思う。
機を捉えて、今度はこちらが一気に懐まで飛び込む。笑って見せる余裕さえあった。わたしが笑っても、獣が牙をむいたようにしか見えないだろうが。
「いい度胸だ! 捕まえてやるぞ、このじゃじゃ馬暴走娘ッ」
声を聞いたのも初めてだ。その背中に似合った、太い声だ。
飛び込んだ体ごと捕まえられる。厚い胸。わたしの倍も太い腕。戦いの均衡を崩すには充分の体格差だ。それを直に感じながら、わたしは笑う。捕まえられるのも計算のうちだ。
笑いながら、噛み付いた。
背中しか見たことがなかった。顔も名前も知らなかった。
それでもたぶん、わたしは彼のことを好きだったのだ。
だから、ずっとこうして殺してしまいたいと思っていた。
肩の肉の感触があった。実際に狙ったのは首だ。喉を噛み破るつもりでいた。それを避け得たのは戦場で研ぎ続けた直感か。
すかさず大きな手で頭を押さえ込まれる。頭を自由にしておけば、肉を噛み千切って持って行かれる。獣もそうだが、そういう時はかえって押し付けてしまった方がいい。
切れた裂かれたの傷ならば、それなりに治りもするが、肉をごっそり持っていかれるのは厄介だと判断したのだろう。
完全に動きが抑えられていた。もうこれで勝ち目はない。わたしは敗ける。抱きしめるように押さえつけられたわたしには次の攻撃は避けようもなくて、それで意識を持っていかれたら、次に目を醒ます時はまたあの部屋の中だ。
それなのに不思議と落ち着いていたのは、口の中に広がる血の味のせいだったかもしれない。
甘かった。当然だ。これは口付けなのだから。
文字通り噛み付くほどの深い口付け。血の味のする口付けは、わたしにだけは甘かった。
でもその想いは、きっと彼には届きはしない。だからほら、こうして彼はわたしのものであって私のものではない名を呼ぶのだ。
「くそっ 早く目ぇ醒ませ! 戻れよ、戻って来いよレオナあっ!!」
レオナ。それはわたしの牢獄の名前。そしてもう一人のわたしの名前。
わたし達は本来、同一のものだ。わたしとレオナの違いは、自分の中のオロチの血を受け入れたかどうか、ただそれだけ。
当然、レオナが惹かれるものにはわたしも惹かれる。パパとママも、義理の父親も、仲間たちも、レオナが大切に想うもののことは、わたしも同じように想っている。
でも、レオナがわたしをどうしても受け入れられないように、誰もがわたしを拒絶する。同じ肉体に宿った同じ魂だというのに、レオナは愛され、わたしだけが憎まれる。双子の姉妹の片方だけが、誰からも憎まれているようなものだ。
まるで聖書に記されたアベルとカイン。自分の捧げ物だけが神に顧みられなかった兄カインは、嫉妬から弟アベルを殺してしまう。人類最初の殺人だ。
けれどわたしはアベルを殺さない。そんなことをしても何の意味もないのを知っているから。
わたしが殺したいのは、わたしたちの大切な人。殺してしまえば、その相手は永遠に誰のものにもなりはしない。レオナのものにも、わたしのものにもならない。わたしを愛することもないけれど、レオナも愛さない。拒まれることもない。
わたしは神殺しのカインだ。
「クラーク、構わねえから俺ごとやっちまえ!」
「了解! 恨まないでくださいよ!!」
背後からの一撃が、わたしを抱き込んだ男ごと突き抜ける。衝撃で息が止まる。彼も同時に息を詰めるのがわかった。
その一撃を放ったのは、彼の相棒と呼ばれる男だ。味方ごとの一撃を躊躇わずに決められる。受ける方もそれを躊躇わない。
そんな二人だから、わたしは負けたのだろう。
視界が一瞬にして暗くなる。引き摺られるように倒れたのは、彼の手がそれでもわたしを離さなかったからだ。私は彼の上に重なるように倒れ込み、その隣に気力も体力も使い果たした彼の相棒がぐったりと座り込む。
それとほとんど同時に、わたしの意識は完全に途絶えた。その瞬間まで、彼の鼓動を聞いていられたのが、少し嬉しかった。
「おお、痛てててて。何気にこの噛み傷深いぞ。跡が残っちまうかもなあ。おいレオナ、お前狂犬病の予防接種は?」
この場合、狂犬病という単語は冗談にしてもセンスが悪いのではないだろうかとクラークは思った。しかもその相手があのレオナだ。冗談としてはかなり成立しにくい部類に入る。
「この間のF国での任務に合わせて済ませたわ――そんなに、深いの?」
案の定、生真面目な答えを返されてラルフは気まずい顔をする。もう一年近くの付き合いなのだ。いい加減にその加減を覚えろ。
「レオナ、お前がそんな顔する必要はないぞ。他はともかく、噛み付かれたとこからその後の傷に関しては、こいつの自業自得だ」
その苛立ちを込めて、クラークは皮肉たっぷり、ラルフの代わりに答えてやった。
「妙な格好ばかりつけてるからそうなるんだ。大体お前、その噛み傷だってやろうと思えば避けられただろう?」
ラルフの技量があれば避けられる状況だった。それを格好つけて抱き止めたりするから噛まれたんだ。そう指摘するクラークに向かって、ラルフは気まずい顔をますます渋くする。甘やかしすぎると突付かれたら言い訳のできない状況なのは、自分でもわかっているのだ。
「あー、あれなあ」
気のせいかも知れないけどな、とラルフは頭を掻く。
「なんかこう、上手く言えないけどよ。そうしなきゃいけないような、そんな顔してたんだよ、こいつが」
「こいつって、レオナが?」
「他に誰がいるよ。泣きながら懐に飛び込んでくる子供みたいでよ。避けられなかった」
「……ああ」
その言葉を聞いた瞬間の、レオナの嘆息はどこか祈るようだった。
それに短い言葉が続いたが、それは呟いた本人にも聞き取れないほど小さい。耳ざとく聞き返したラルフの方が人間離れしている。
「レオナ、お前、今何て言った?」
「いえ、何も」
おかしなことを聞く、と首を傾げた少女の頭上で、髪に結わえたばかりの赤いバンダナが揺れる。レオナには何かを言ったという自覚はない。
「おっかしいなあ。何か聞こえた気がしたんだけどなあ」
「俺も何も聞こえませんでしたよ。空耳じゃないですか。そうじゃなかったら痴呆の初期症状。幻聴ですね」
「あ、てめえ! そういうこと言うか、こら!」
痛むはずの腕を振り上げてラルフが怒鳴り、後は売り言葉に買い言葉。いつもの喧騒に紛れて日常が戻ってくる。
九十七年の夏は、そうして幕を閉じた。
小さな窓から見える四角に切り取られた風景。それだけの世界。それだけがわたしの世界。
窓越しのぼやけてあやふやな光景の中、今日も血の色と、あの背中だけが鮮やかに踊っている。
彼はわたしを知らない。『レオナ』の中の牢獄に閉じ込められた、わたしの視線になど気付きもしない。もちろんわたしが彼を想っていることなど知らない。それでも。
「見つけてくれたのね」
それでも、彼はわたしを見つけた。見つけたというにはあまりにささやかな欠片でしかなくて、そのうち残った傷口を見ても思い出すことさえなくなるのだろうけれど。パパもママも、誰も見つけてくれなかったわたしを彼だけが見つけてくれた。
期待してもいいのだろうか。
彼はわたしのことも受け入れてくれるのかと。
彼を殺す以外の道を探させてくれるのかと。
見上げた小さな窓が、少し滲んで見えた。
瞬間、自分の間合いに持ち込もうと二人が飛び込んで来る。わたしはそれを避けず、こちらも地面を強く蹴った。本来あるべき力を得て躍動する体は軽い。『私』が使うより数段早く動ける。
一瞬の攻防の後、お互い弾きあうように飛び退った後には斬撃の名残が一筋。獲物の胸板からは、薄皮一枚裂いて赤い切り口が覗いている。対してこちらは、髪が一房千切れ飛んだ。風に舞うそれも赤。
手には、肌を裂いた感触が残っている。窓越しに見るあやふやな景色ではなくて、確かな感触。確かな血の臭い。触れられる。いくら手を伸ばしても届かなかったものに、今なら触れられる。
わたしはもう一声吼える。これは歓喜。歓喜の声だ。
それまでのわたしにとっての世界は、小さな窓から見える四角に切り取られた風景だけだった。
わたしの部屋は狭い。そして暗く、何もない。ベッドや机はもちろん、出入り口さえない部屋だ。そういうものを部屋と呼んでいいかどうかはともかく。
そこにたったひとつ窓がある。出口もない部屋に外の世界を覗くための窓。残酷な部屋だ。
小さな窓から見える四角に切り取られた風景。それだけの世界。
歓喜の声に微か、震えが混じる。あんな場所に戻りたくはない。そのためにはこの場を戦い抜いて、切り抜けなければならない。負ければまた、あの部屋だ。
相手は二人。いや、獲物が二匹。だが、狙いは片方に絞る。この二人を同時に相手にして、両方を仕留めようなどというのは甘い考えだとわたしは知っている。この二人は1+1が2にも3にもなるタイプだ。
だが、逆に言えば片方を潰せば残りにはそれほど苦労しないと言うことだ。とにかく片方を潰した方がいい、そう私は狙った。
問題はどちらを狙うかだが、それは最初から決めていた。赤いバンダナから溢れる、うねった黒髪。こちらだ。絶対にこちらだ。
本当は、別にどちらでもいい。どちらを殺したとしても、今度こそ『私』は今度こそ現実から目をそむけ、自分の殻に閉じこもるだろう。大切な人を再び自分の手にかけた。そのトラウマが『私』を押し潰す。それは同時にあの部屋の崩壊を意味し、わたしは完全に解き放たれる。
それでもわたしの狙いは決まっていた。ずっとずっと、そうすると決めていたのだ。
窓から見える風景が、割と楽しいものだったのが、せめてもの救いかもしれなかった。
この窓からは世界中の戦場が良く見える。銃声とか血の臭いとか泣き声とか誰かの死だとか、そういうものを見るのはとても楽しかった。血の赤は、窓越しのどこかあやふやな光景の中で、ただひとつ鮮やかに見えた。
もうひとつ鮮やかなものは、背中だった。名前も知らない誰かの背中。窓から見える光景の、どこにでもその背中があった。
うねる黒い髪。肩幅が広く、腕が太い。大きな手は銃を握っていることもあったし、ナイフを掴んでいることもあった。
それが容赦なく振るわれる瞬間を見るのが何よりも楽しかった。彼の作り出す死は、何よりも鮮やかで、心地良い光景だった。
でも、彼はわたしがこうして見ていることなど気付きもしない。わたしがいくら手を伸ばしても彼の背中に届くことはないし、もちろん彼がわたしをふりかえることもない。
その背中の持ち主の顔を、わたしは初めて見上げた。
いくら手を伸ばしても届かなかったその背中に、今なら触れられる。触れて、そこから引き裂いて、殺せる。
愉しかった。今まで一番。幸せというものがあるとしたら、きっとこれがそういうものだと思う。
機を捉えて、今度はこちらが一気に懐まで飛び込む。笑って見せる余裕さえあった。わたしが笑っても、獣が牙をむいたようにしか見えないだろうが。
「いい度胸だ! 捕まえてやるぞ、このじゃじゃ馬暴走娘ッ」
声を聞いたのも初めてだ。その背中に似合った、太い声だ。
飛び込んだ体ごと捕まえられる。厚い胸。わたしの倍も太い腕。戦いの均衡を崩すには充分の体格差だ。それを直に感じながら、わたしは笑う。捕まえられるのも計算のうちだ。
笑いながら、噛み付いた。
背中しか見たことがなかった。顔も名前も知らなかった。
それでもたぶん、わたしは彼のことを好きだったのだ。
だから、ずっとこうして殺してしまいたいと思っていた。
肩の肉の感触があった。実際に狙ったのは首だ。喉を噛み破るつもりでいた。それを避け得たのは戦場で研ぎ続けた直感か。
すかさず大きな手で頭を押さえ込まれる。頭を自由にしておけば、肉を噛み千切って持って行かれる。獣もそうだが、そういう時はかえって押し付けてしまった方がいい。
切れた裂かれたの傷ならば、それなりに治りもするが、肉をごっそり持っていかれるのは厄介だと判断したのだろう。
完全に動きが抑えられていた。もうこれで勝ち目はない。わたしは敗ける。抱きしめるように押さえつけられたわたしには次の攻撃は避けようもなくて、それで意識を持っていかれたら、次に目を醒ます時はまたあの部屋の中だ。
それなのに不思議と落ち着いていたのは、口の中に広がる血の味のせいだったかもしれない。
甘かった。当然だ。これは口付けなのだから。
文字通り噛み付くほどの深い口付け。血の味のする口付けは、わたしにだけは甘かった。
でもその想いは、きっと彼には届きはしない。だからほら、こうして彼はわたしのものであって私のものではない名を呼ぶのだ。
「くそっ 早く目ぇ醒ませ! 戻れよ、戻って来いよレオナあっ!!」
レオナ。それはわたしの牢獄の名前。そしてもう一人のわたしの名前。
わたし達は本来、同一のものだ。わたしとレオナの違いは、自分の中のオロチの血を受け入れたかどうか、ただそれだけ。
当然、レオナが惹かれるものにはわたしも惹かれる。パパとママも、義理の父親も、仲間たちも、レオナが大切に想うもののことは、わたしも同じように想っている。
でも、レオナがわたしをどうしても受け入れられないように、誰もがわたしを拒絶する。同じ肉体に宿った同じ魂だというのに、レオナは愛され、わたしだけが憎まれる。双子の姉妹の片方だけが、誰からも憎まれているようなものだ。
まるで聖書に記されたアベルとカイン。自分の捧げ物だけが神に顧みられなかった兄カインは、嫉妬から弟アベルを殺してしまう。人類最初の殺人だ。
けれどわたしはアベルを殺さない。そんなことをしても何の意味もないのを知っているから。
わたしが殺したいのは、わたしたちの大切な人。殺してしまえば、その相手は永遠に誰のものにもなりはしない。レオナのものにも、わたしのものにもならない。わたしを愛することもないけれど、レオナも愛さない。拒まれることもない。
わたしは神殺しのカインだ。
「クラーク、構わねえから俺ごとやっちまえ!」
「了解! 恨まないでくださいよ!!」
背後からの一撃が、わたしを抱き込んだ男ごと突き抜ける。衝撃で息が止まる。彼も同時に息を詰めるのがわかった。
その一撃を放ったのは、彼の相棒と呼ばれる男だ。味方ごとの一撃を躊躇わずに決められる。受ける方もそれを躊躇わない。
そんな二人だから、わたしは負けたのだろう。
視界が一瞬にして暗くなる。引き摺られるように倒れたのは、彼の手がそれでもわたしを離さなかったからだ。私は彼の上に重なるように倒れ込み、その隣に気力も体力も使い果たした彼の相棒がぐったりと座り込む。
それとほとんど同時に、わたしの意識は完全に途絶えた。その瞬間まで、彼の鼓動を聞いていられたのが、少し嬉しかった。
「おお、痛てててて。何気にこの噛み傷深いぞ。跡が残っちまうかもなあ。おいレオナ、お前狂犬病の予防接種は?」
この場合、狂犬病という単語は冗談にしてもセンスが悪いのではないだろうかとクラークは思った。しかもその相手があのレオナだ。冗談としてはかなり成立しにくい部類に入る。
「この間のF国での任務に合わせて済ませたわ――そんなに、深いの?」
案の定、生真面目な答えを返されてラルフは気まずい顔をする。もう一年近くの付き合いなのだ。いい加減にその加減を覚えろ。
「レオナ、お前がそんな顔する必要はないぞ。他はともかく、噛み付かれたとこからその後の傷に関しては、こいつの自業自得だ」
その苛立ちを込めて、クラークは皮肉たっぷり、ラルフの代わりに答えてやった。
「妙な格好ばかりつけてるからそうなるんだ。大体お前、その噛み傷だってやろうと思えば避けられただろう?」
ラルフの技量があれば避けられる状況だった。それを格好つけて抱き止めたりするから噛まれたんだ。そう指摘するクラークに向かって、ラルフは気まずい顔をますます渋くする。甘やかしすぎると突付かれたら言い訳のできない状況なのは、自分でもわかっているのだ。
「あー、あれなあ」
気のせいかも知れないけどな、とラルフは頭を掻く。
「なんかこう、上手く言えないけどよ。そうしなきゃいけないような、そんな顔してたんだよ、こいつが」
「こいつって、レオナが?」
「他に誰がいるよ。泣きながら懐に飛び込んでくる子供みたいでよ。避けられなかった」
「……ああ」
その言葉を聞いた瞬間の、レオナの嘆息はどこか祈るようだった。
それに短い言葉が続いたが、それは呟いた本人にも聞き取れないほど小さい。耳ざとく聞き返したラルフの方が人間離れしている。
「レオナ、お前、今何て言った?」
「いえ、何も」
おかしなことを聞く、と首を傾げた少女の頭上で、髪に結わえたばかりの赤いバンダナが揺れる。レオナには何かを言ったという自覚はない。
「おっかしいなあ。何か聞こえた気がしたんだけどなあ」
「俺も何も聞こえませんでしたよ。空耳じゃないですか。そうじゃなかったら痴呆の初期症状。幻聴ですね」
「あ、てめえ! そういうこと言うか、こら!」
痛むはずの腕を振り上げてラルフが怒鳴り、後は売り言葉に買い言葉。いつもの喧騒に紛れて日常が戻ってくる。
九十七年の夏は、そうして幕を閉じた。
小さな窓から見える四角に切り取られた風景。それだけの世界。それだけがわたしの世界。
窓越しのぼやけてあやふやな光景の中、今日も血の色と、あの背中だけが鮮やかに踊っている。
彼はわたしを知らない。『レオナ』の中の牢獄に閉じ込められた、わたしの視線になど気付きもしない。もちろんわたしが彼を想っていることなど知らない。それでも。
「見つけてくれたのね」
それでも、彼はわたしを見つけた。見つけたというにはあまりにささやかな欠片でしかなくて、そのうち残った傷口を見ても思い出すことさえなくなるのだろうけれど。パパもママも、誰も見つけてくれなかったわたしを彼だけが見つけてくれた。
期待してもいいのだろうか。
彼はわたしのことも受け入れてくれるのかと。
彼を殺す以外の道を探させてくれるのかと。
見上げた小さな窓が、少し滲んで見えた。
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ハイデルンは机を前に、静かに目を閉じていた。指先がこつこつと机を叩く。静かな部屋に、その音だけが響いている。
だがその静寂もすぐに破られるだろう。もうすぐ騒がしい部下がやってくるはずだ。そしてきっと、何が何でも早く来てくださいと、彼をこの部屋から引きずり出そうとするだろう。
ハイデルンは机を叩きながら、その時を待っている。
きっかけは三日前、ラルフたちの部隊が任務中に、敵の伏兵に襲われたことだった。
狙われたのはチームの先頭だった。その真後ろにいたラルフが、こちらを狙う銃口に最初に気付いた。
狙われていた仲間を、ラルフがほとんどタックルの要領で強引に伏せさせるのと、敵の銃口が火を吹くのがほとんど同時。間一髪、体を捻ってラルフ自身も銃弾をかわす。その隙を突いてクラークとレオナが反撃した。もう少しで伝説の傭兵を屠った男になれるはずだった襲撃者の人生は、呆気なくそこで終わりを告げる。そこまでは、誰もが惚れ惚れするようなコンビネーションだった。
降り続く雨で、ぬかるんだ足元だけがいただけなかった。
ずるりとラルフの足元が滑る。普段ならなんでもないことだったが、銃撃を避けたせいで体の軸が傾いでいた。
倒れそうになるのを、なんとか踏みとどまろうとした足が空を掻く。やばい、と思った時にはもう、体が宙を舞っていた。
悪いことに、崖っぷちだった。夜の闇に紛れているのと、下に深い森が続いているせいで正確な高さは分からないが、決して低くはない。
「ラルフっ!!」
クラークが手を伸ばす。クラークなら、ラルフの指先だけでも掴めれば引き上げることもできるだろう。だが、その手は届かない。後は何メートルになるかもわからないフリーフォールが待つばかりだ。誰もがそう思った。
その時、薄紅色の風が疾った。
装備込みで120kg越えの、ラルフの落下速度よりまだ速い。そんなスピードが出せるのは、人の枷を弛めたものだけだ。
「レオナ……ッ」
薄紅色の髪が風に舞う。暴走のぎりぎり手前、人としての意識が保てる限界まで、血の宿命を背負う代わりに得た力を引き出しての跳躍だ。
空中でラルフの体を捉まえたレオナは、同時に反対の手を懸命に伸ばした。崖の途中に生える木の枝でも掴めれば、それで落下を止められる。
枝に手が届いた。弾かれた。
二人合わせて200kg超えだ。その落下の衝撃を片手で止めるなど。
枝に弾かれた時に傷付いたのか、赤いものが散る。それに近付くようにさらに深い赤に髪を染め、それでもレオナは次の枝に手を伸ばす。自我と力の限界に挑んでいる。
また、弾かれた。
ラルフはとっさにレオナを引き寄せ、自分の体で包むように抱きしめた。それにどれだけの意味があるか分からないが、地面に叩きつけられた時の衝撃を少しでも和らげることができたら、と思った。
「畜生おおおおおおっ……!」
ラルフの長い叫び声の尾を残し、二人が闇に吸い込まれるように落ちて行くのを、クラークたちは何もできないまま見つめるしかなかった。
だが、その後のクラークたちの動きは早かった。とてつもないスピードで残敵を掃討してのけ、夜を徹して二人を探したのである。あの二人が揃って死ぬはずがない。だがあの高さから落ちたなら、すぐに動くことはできないだろう。きっと助けを待っているはずだ。皆がそう信じていた。
果たして翌朝、崖下の川のを少し下った辺りで二人は見付かった。嘘のような軽傷だった。
川が雨で増水していたせいもあるだろう。いつもより深さを増した川がクッションになったに違いない。
だが、やはりレオナの力によるものが大きかったのは明確だった。川に落ちた後、レオナがラルフを掴まえたまま岸まで泳ぎ着いた跡も見付かった。結局のところ、ラルフはレオナに命を救われたのである。
その代償は軽くはなかった。
ラルフはすぐに意識を取り戻したが、レオナはいつまでも目を覚まさなかった。現地の病院では特に大きな外傷も見付からず、CTも脳波も異常なし。原因不明のまま基地の医療部に搬送されたが、そこでも意識を取り戻さない理由はわからなかった。並の病院よりも遥かに優秀な、ハイデルン傭兵部隊の軍医ですら首を振ったのである。
「精神的なものはあるかもしれないな」
軍医はベッドに横たわるレオナと、カルテを交互に見ながら言った。シーツの上に広がる髪は真紅、伏せた瞼に隠されてはいるが、瞳も真紅だ。レオナが限界以上にその力を引き出した状態、血の暴走と呼ばれる状態になった時と同じ色である。
「今起きたら、自分を抑えられないと思っているかもしれんよ。それで起きるようとしない、ってことも考えられる――様子を見るしかないね」
「……力に頼るつもりはない、って言ってたじゃねえかよ」
そう呟きながら、ラルフは壁を殴りつけた。さっきから何度も同じことを繰り返している。
剛拳で何度も殴りつけられた壁は、脆い表面をぽろぽろと崩して内側のコンクリートと鉄筋を晒していた。そこまですれば殴った拳の方も流石に傷付いて、爆ぜた皮膚から血が溢れている。それでもラルフは拳を止めなかった。
あの時、投げ出された宙で見た薄紅色の髪を、ラルフは以前にも見たことがある。
夕暮れの人気のない兵舎の裏だった。レオナは一人、手刀を振るっていた。
それが普通の訓練ではないことは一目で分かった。レオナが空を蹴る度に、見えない敵を手刀で薙ぎ払う度に、その髪の色が赤を帯びていく。青から紫へ、そこから徐々に明度を上げて薄紫に近くなり、やがて薄紅に染まっていく。
髪に瞳に赤色が濃くなるほど、蹴りも手刀も早くなった。人の身という枷を弛め、その限界を試しているかのように。
「力に頼るつもりはないんじゃなかったのか?」
「ええ、頼るつもりはないわ。頼るつもりはないけれど、限界を知って置こうと思って」
「限界?」
「戻れなくなる、限界」
「血の暴走か」
それにレオナは言葉で答えず、ただ頷いた。
「使わずに済むならその方がいいけれど、もしもの時に使えなかったら後悔すると思う。だから」
その考えを否定しようとは、ラルフは思わなかった。こういう血生臭い世界に生きていれば、『もしもの時』は日常茶飯事のようにやってくるし、それを避けるために皆とっておきの奥の手を隠している。レオナがそういうものを求め、模索するのは別に不思議なことではなかった。
だが、同時にラルフが願ったことがある。それは長い間、ひっそりとラルフの胸の奥に残って、やがて誓いとなっていった。
「……いくら制御できる力でも、できれば使わないで済みゃ、それが一番いいと思ってた」
レオナの父を、母を死なせた力だ。自分の中にそういう力があるということから目を背けることはできなくても、それを再び使わなければならないような『もしも』の時など、来なければいいと思っていた。
「使わないで済みゃあそれでいい。それでももし、使わなきゃならねえような時が来たら……それでも使わずに済むようにしてやりたいと思ってた」
この世の全てから守ってやれるなどと傲慢なことは思っていないが、せめてひとつだけ、それだけはしてやれたらと思っていた。想いはずっと胸の中にあって、いつか誓いになった。
それを、守れなかった。それどころか、『もしもの時』は自分の身の上に降りかかって来て、その為にレオナは人ならぬ力を使った――自分の為に使わせてしまった。
それが悔しくてならなくて、ラルフはもう一度壁を殴った。
さらにもう一度、と振り上げた拳を、クラークの言葉が止めた。
「もうやめとけ。いい加減に壁そのものが崩れるぞ」
「……修理代は俺の給料から引いといてくれ」
「それは別に構わんが、ここが崩壊したらどこの医者にレオナを診せるんだ?」
それが決定打になった。
ラルフは振り上げた拳を下ろすと、それに引き摺られるようにずるずると床に座り込んだ。
それに、レオナの病室には、今はハイデルンが多忙な時間を割いて訪れている。これ以上騒がしくして、邪魔をしてはいけないとも思った。
「赤い髪、か」
病室のハイデルンは、そっとレオナの髪を撫ぜた。
ハイデルンが赤い髪をしたレオナと直接会うのはこれが初めてだった。過去現れたそれを、ハイデルンはモニタ越しに見ただけだ。
初めて見る娘の姿だった。
いや、親子だと思っているのは自分だけで、彼女にとって自分は父という存在ではないのかもしれない。この八年、ハイデルンが接してきたのは青い髪の少女だけなのだ。
だがハイデルンは、いつか叶うのなら、赤い髪をした娘に話したいことがあった。それはおそらく叶わない願いだと思っていたが、思いがけないこの状況がそれを叶えた。
「いつか、お前と話をしたいと思っていた」
ハイデルンが話しかけても、レオナの赤い瞳は動かない。長い睫は伏せられたままだ。
それを意に介さず、ハイデルンは続けた。
「憎みたいのなら、私を憎むといい」
いつか、そう告げてやりたかった。
娘の中にはふたつの魂がある。モニタ越しに見た光景の中、それに気付いたハイデルンは、いつかそう告げたいと思っていた。
レオナの中のふたつの魂の違いは、己の中に流れる血を受け入れたか拒んだか、ただそれだけだ。どちらもレオナの魂であることには変わりない。
だが、その片方は暗く深く、この世の全てを憎んでいる。自分を拒むこの世界を憎んでいる。
そんな風に全てを憎む必要はないのだと、孤独な魂に告げてやりたかった。
憎まれるのは、この義父だけでいい。
レオナの血の宿命から彼女を遠ざけようとした、実の父親を憎む必要はない。確かに彼は、オロチとしてではなく人として生きようとした。だがそれは、彼自身の生だ。それで娘の生まで縛ろうとしたわけではあるまい。
彼はただ、レオナが自身の意思ではなく、他者の力によって強引に瞼を抉じ開けられ、目覚めるのを望まなかっただけだ。娘がもっと歳を重ねて、自分の意思で血の宿命を受け入れようとするなら、それを喜びはしなかったろうが、拒みもしなかっただろう。
大体にして、オロチとして生きることが不幸だと誰が決めた。マチュアは、バイスは、社はクリスはシェルミーは不幸であったと誰が言える? 彼らが彼らの信念の元に幸せでなかったと誰が言える?
結局、父としてできることは、娘が娘の思う幸せを得られることを祈るだけだ。それ以上のことは、たとえ血の繋がった父でもできないし、してはならない。レオナの人生を変えていいのは、彼女自身だけだ。
だからと言って、人として生きようとするもう一人の自分を、レオナが憎む必要もない。
生きとし生けるものは皆、心の内に相反する願望を抱いているものだ。レオナの中で血の宿命への葛藤が起こるのも、それはごく自然なことだ。その全てを許し受け入れろとはどちらの娘にも言うつもりはないが、どうか己を憎まないでくれたらとハイデルンは願う。
その想いを込めて、ハイデルンは繰り返した。
「お前が憎むのは、私だけでいい」
レオナが宿命に立ち向かえるよう戦う術を教え、人として生きられるよう道を示したのはハイデルンだ。血の暴走を命懸けで止めた、ラルフとクラークを彼女に引き合わせたのもハイデルンだ。
もしもハイデルンがレオナを引き取らなければ、おそらくレオナは血の定めのままに生きただろう。そういう意味では、レオナの道行きを決定付けたのはハイデルンだと言える。
「他の誰も、何も憎まなくていい」
だがきっと、もしも本当にレオナが己の意思で、人ではなく神の代行者として生きることを選んだのなら、ハイデルンもただ父として、巣立つ娘を見送るだろう。無理に人の世界に引き止めることはしないだろう。
それでも、ハイデルンは己を憎めと言った。
他のものは何ひとつ憎まなくていい。それでもどうしても、何かを憎まなければいられないというのなら、ただ父として娘を見送って、それから人として戦う道を選ぶ――いや、選ばざるを得ないであろう義父を憎めばいい。
少なくとも自分は、憎まれるのには慣れている。
「世界はお前を憎んではいない。だから、安心して目を覚ますといい」
ベッドの上、赤い髪を広げたレオナの答えはなかった。ハイデルンも無言を選んだ。それ以上多くを語る気はなかった。
そのまま部屋には無音の空気が満ち、しかししばらくして、ハイデルンは娘の言葉に頷いた。
父は娘の声を聞くことのないまま、もしかしたら生涯にたった一度の会話を終えて、静かに病室を出て行った。
病室を出たハイデルンは、もうすぐレオナが目を覚ますだろうから、その後の処置と、念のための再検査の支度をするようにと軍医に告げた。顔に疑問符を浮かべながら病室に向かう軍医を見送り、ハイデルンは自室に戻る。
自室に戻ったハイデルンは、広いデスクの前に座り、それから目を閉じた。
目を閉じたまま、指先で机を叩く。短く4回、それから短く1回、長く1回、短く長く長く短く、また短く――モールス信号というものを娘に教えた時、まさかそれがこういう風に使われるとは思ってもいなかった。
赤い髪のレオナは最後まで声を上げなかった。おそらくそれは、彼女の自由にならなかったのだろう。
その代わりに、指先でハイデルンの掌を叩いて短い言葉を残した。
残した言葉は短かった。それが2回繰り返された。繰り返して伝えればいいのかと確かめたら、Noと返された。
その後、叩かれたのは5つの数字だ。825。続けて95。
ハイデルンはもう一度、指先で机を叩く。短く4回、それから短く1回長く1回、短く長く長く短く、また短く――『HAPPY BIRTHDAY』。825はラルフの誕生日で、95は十日ほど先のハイデルンの誕生日だ。
己の中に流れる血を受け入れたか拒んだか、ただそれだけが違う魂だ。青い髪の少女と同じように、誕生日を覚え祝うほどに、赤い髪の少女も彼女の恋人を、そして父を想っている。
ハイデルンが頷くと、赤い髪の少女の顔はひどく穏やかな顔をした。そう見えた。
おそらく、再び赤い髪の少女は眠る。次の『もしもの時』が来るまで。そしてその時がまた来たのなら、二人の少女は手を取ってそれと戦うのだろう。薄紅色の髪をなびかせて。
いつか薄紅色の髪をした娘とも話ができるだろうか。ハイデルンは目を閉じたまま、そんなことを思った。
ハイデルンの指先が、こつこつと机を叩く。静かな部屋に、その音だけが響いている。
だがその静寂もすぐに破られるだろう。もうすぐ騒がしい部下がやってくるはずだ。そしてきっと、レオナが目を覚ましたんです、だから何が何でも早く来てくださいと、彼をこの部屋から引きずり出そうとするだろう。
きっとその後には金髪の傭兵が苦笑しながら立っていて、神様もずいぶん粋な誕生日プレゼントをくれるじゃないですかと言うだろう。8月25日が終わるまでにはあと数十分ある。赤い髪の娘からの伝言も、それと一緒に伝えようか。
ハイデルンは机を叩きながら、その時を待っている。
だがその静寂もすぐに破られるだろう。もうすぐ騒がしい部下がやってくるはずだ。そしてきっと、何が何でも早く来てくださいと、彼をこの部屋から引きずり出そうとするだろう。
ハイデルンは机を叩きながら、その時を待っている。
きっかけは三日前、ラルフたちの部隊が任務中に、敵の伏兵に襲われたことだった。
狙われたのはチームの先頭だった。その真後ろにいたラルフが、こちらを狙う銃口に最初に気付いた。
狙われていた仲間を、ラルフがほとんどタックルの要領で強引に伏せさせるのと、敵の銃口が火を吹くのがほとんど同時。間一髪、体を捻ってラルフ自身も銃弾をかわす。その隙を突いてクラークとレオナが反撃した。もう少しで伝説の傭兵を屠った男になれるはずだった襲撃者の人生は、呆気なくそこで終わりを告げる。そこまでは、誰もが惚れ惚れするようなコンビネーションだった。
降り続く雨で、ぬかるんだ足元だけがいただけなかった。
ずるりとラルフの足元が滑る。普段ならなんでもないことだったが、銃撃を避けたせいで体の軸が傾いでいた。
倒れそうになるのを、なんとか踏みとどまろうとした足が空を掻く。やばい、と思った時にはもう、体が宙を舞っていた。
悪いことに、崖っぷちだった。夜の闇に紛れているのと、下に深い森が続いているせいで正確な高さは分からないが、決して低くはない。
「ラルフっ!!」
クラークが手を伸ばす。クラークなら、ラルフの指先だけでも掴めれば引き上げることもできるだろう。だが、その手は届かない。後は何メートルになるかもわからないフリーフォールが待つばかりだ。誰もがそう思った。
その時、薄紅色の風が疾った。
装備込みで120kg越えの、ラルフの落下速度よりまだ速い。そんなスピードが出せるのは、人の枷を弛めたものだけだ。
「レオナ……ッ」
薄紅色の髪が風に舞う。暴走のぎりぎり手前、人としての意識が保てる限界まで、血の宿命を背負う代わりに得た力を引き出しての跳躍だ。
空中でラルフの体を捉まえたレオナは、同時に反対の手を懸命に伸ばした。崖の途中に生える木の枝でも掴めれば、それで落下を止められる。
枝に手が届いた。弾かれた。
二人合わせて200kg超えだ。その落下の衝撃を片手で止めるなど。
枝に弾かれた時に傷付いたのか、赤いものが散る。それに近付くようにさらに深い赤に髪を染め、それでもレオナは次の枝に手を伸ばす。自我と力の限界に挑んでいる。
また、弾かれた。
ラルフはとっさにレオナを引き寄せ、自分の体で包むように抱きしめた。それにどれだけの意味があるか分からないが、地面に叩きつけられた時の衝撃を少しでも和らげることができたら、と思った。
「畜生おおおおおおっ……!」
ラルフの長い叫び声の尾を残し、二人が闇に吸い込まれるように落ちて行くのを、クラークたちは何もできないまま見つめるしかなかった。
だが、その後のクラークたちの動きは早かった。とてつもないスピードで残敵を掃討してのけ、夜を徹して二人を探したのである。あの二人が揃って死ぬはずがない。だがあの高さから落ちたなら、すぐに動くことはできないだろう。きっと助けを待っているはずだ。皆がそう信じていた。
果たして翌朝、崖下の川のを少し下った辺りで二人は見付かった。嘘のような軽傷だった。
川が雨で増水していたせいもあるだろう。いつもより深さを増した川がクッションになったに違いない。
だが、やはりレオナの力によるものが大きかったのは明確だった。川に落ちた後、レオナがラルフを掴まえたまま岸まで泳ぎ着いた跡も見付かった。結局のところ、ラルフはレオナに命を救われたのである。
その代償は軽くはなかった。
ラルフはすぐに意識を取り戻したが、レオナはいつまでも目を覚まさなかった。現地の病院では特に大きな外傷も見付からず、CTも脳波も異常なし。原因不明のまま基地の医療部に搬送されたが、そこでも意識を取り戻さない理由はわからなかった。並の病院よりも遥かに優秀な、ハイデルン傭兵部隊の軍医ですら首を振ったのである。
「精神的なものはあるかもしれないな」
軍医はベッドに横たわるレオナと、カルテを交互に見ながら言った。シーツの上に広がる髪は真紅、伏せた瞼に隠されてはいるが、瞳も真紅だ。レオナが限界以上にその力を引き出した状態、血の暴走と呼ばれる状態になった時と同じ色である。
「今起きたら、自分を抑えられないと思っているかもしれんよ。それで起きるようとしない、ってことも考えられる――様子を見るしかないね」
「……力に頼るつもりはない、って言ってたじゃねえかよ」
そう呟きながら、ラルフは壁を殴りつけた。さっきから何度も同じことを繰り返している。
剛拳で何度も殴りつけられた壁は、脆い表面をぽろぽろと崩して内側のコンクリートと鉄筋を晒していた。そこまですれば殴った拳の方も流石に傷付いて、爆ぜた皮膚から血が溢れている。それでもラルフは拳を止めなかった。
あの時、投げ出された宙で見た薄紅色の髪を、ラルフは以前にも見たことがある。
夕暮れの人気のない兵舎の裏だった。レオナは一人、手刀を振るっていた。
それが普通の訓練ではないことは一目で分かった。レオナが空を蹴る度に、見えない敵を手刀で薙ぎ払う度に、その髪の色が赤を帯びていく。青から紫へ、そこから徐々に明度を上げて薄紫に近くなり、やがて薄紅に染まっていく。
髪に瞳に赤色が濃くなるほど、蹴りも手刀も早くなった。人の身という枷を弛め、その限界を試しているかのように。
「力に頼るつもりはないんじゃなかったのか?」
「ええ、頼るつもりはないわ。頼るつもりはないけれど、限界を知って置こうと思って」
「限界?」
「戻れなくなる、限界」
「血の暴走か」
それにレオナは言葉で答えず、ただ頷いた。
「使わずに済むならその方がいいけれど、もしもの時に使えなかったら後悔すると思う。だから」
その考えを否定しようとは、ラルフは思わなかった。こういう血生臭い世界に生きていれば、『もしもの時』は日常茶飯事のようにやってくるし、それを避けるために皆とっておきの奥の手を隠している。レオナがそういうものを求め、模索するのは別に不思議なことではなかった。
だが、同時にラルフが願ったことがある。それは長い間、ひっそりとラルフの胸の奥に残って、やがて誓いとなっていった。
「……いくら制御できる力でも、できれば使わないで済みゃ、それが一番いいと思ってた」
レオナの父を、母を死なせた力だ。自分の中にそういう力があるということから目を背けることはできなくても、それを再び使わなければならないような『もしも』の時など、来なければいいと思っていた。
「使わないで済みゃあそれでいい。それでももし、使わなきゃならねえような時が来たら……それでも使わずに済むようにしてやりたいと思ってた」
この世の全てから守ってやれるなどと傲慢なことは思っていないが、せめてひとつだけ、それだけはしてやれたらと思っていた。想いはずっと胸の中にあって、いつか誓いになった。
それを、守れなかった。それどころか、『もしもの時』は自分の身の上に降りかかって来て、その為にレオナは人ならぬ力を使った――自分の為に使わせてしまった。
それが悔しくてならなくて、ラルフはもう一度壁を殴った。
さらにもう一度、と振り上げた拳を、クラークの言葉が止めた。
「もうやめとけ。いい加減に壁そのものが崩れるぞ」
「……修理代は俺の給料から引いといてくれ」
「それは別に構わんが、ここが崩壊したらどこの医者にレオナを診せるんだ?」
それが決定打になった。
ラルフは振り上げた拳を下ろすと、それに引き摺られるようにずるずると床に座り込んだ。
それに、レオナの病室には、今はハイデルンが多忙な時間を割いて訪れている。これ以上騒がしくして、邪魔をしてはいけないとも思った。
「赤い髪、か」
病室のハイデルンは、そっとレオナの髪を撫ぜた。
ハイデルンが赤い髪をしたレオナと直接会うのはこれが初めてだった。過去現れたそれを、ハイデルンはモニタ越しに見ただけだ。
初めて見る娘の姿だった。
いや、親子だと思っているのは自分だけで、彼女にとって自分は父という存在ではないのかもしれない。この八年、ハイデルンが接してきたのは青い髪の少女だけなのだ。
だがハイデルンは、いつか叶うのなら、赤い髪をした娘に話したいことがあった。それはおそらく叶わない願いだと思っていたが、思いがけないこの状況がそれを叶えた。
「いつか、お前と話をしたいと思っていた」
ハイデルンが話しかけても、レオナの赤い瞳は動かない。長い睫は伏せられたままだ。
それを意に介さず、ハイデルンは続けた。
「憎みたいのなら、私を憎むといい」
いつか、そう告げてやりたかった。
娘の中にはふたつの魂がある。モニタ越しに見た光景の中、それに気付いたハイデルンは、いつかそう告げたいと思っていた。
レオナの中のふたつの魂の違いは、己の中に流れる血を受け入れたか拒んだか、ただそれだけだ。どちらもレオナの魂であることには変わりない。
だが、その片方は暗く深く、この世の全てを憎んでいる。自分を拒むこの世界を憎んでいる。
そんな風に全てを憎む必要はないのだと、孤独な魂に告げてやりたかった。
憎まれるのは、この義父だけでいい。
レオナの血の宿命から彼女を遠ざけようとした、実の父親を憎む必要はない。確かに彼は、オロチとしてではなく人として生きようとした。だがそれは、彼自身の生だ。それで娘の生まで縛ろうとしたわけではあるまい。
彼はただ、レオナが自身の意思ではなく、他者の力によって強引に瞼を抉じ開けられ、目覚めるのを望まなかっただけだ。娘がもっと歳を重ねて、自分の意思で血の宿命を受け入れようとするなら、それを喜びはしなかったろうが、拒みもしなかっただろう。
大体にして、オロチとして生きることが不幸だと誰が決めた。マチュアは、バイスは、社はクリスはシェルミーは不幸であったと誰が言える? 彼らが彼らの信念の元に幸せでなかったと誰が言える?
結局、父としてできることは、娘が娘の思う幸せを得られることを祈るだけだ。それ以上のことは、たとえ血の繋がった父でもできないし、してはならない。レオナの人生を変えていいのは、彼女自身だけだ。
だからと言って、人として生きようとするもう一人の自分を、レオナが憎む必要もない。
生きとし生けるものは皆、心の内に相反する願望を抱いているものだ。レオナの中で血の宿命への葛藤が起こるのも、それはごく自然なことだ。その全てを許し受け入れろとはどちらの娘にも言うつもりはないが、どうか己を憎まないでくれたらとハイデルンは願う。
その想いを込めて、ハイデルンは繰り返した。
「お前が憎むのは、私だけでいい」
レオナが宿命に立ち向かえるよう戦う術を教え、人として生きられるよう道を示したのはハイデルンだ。血の暴走を命懸けで止めた、ラルフとクラークを彼女に引き合わせたのもハイデルンだ。
もしもハイデルンがレオナを引き取らなければ、おそらくレオナは血の定めのままに生きただろう。そういう意味では、レオナの道行きを決定付けたのはハイデルンだと言える。
「他の誰も、何も憎まなくていい」
だがきっと、もしも本当にレオナが己の意思で、人ではなく神の代行者として生きることを選んだのなら、ハイデルンもただ父として、巣立つ娘を見送るだろう。無理に人の世界に引き止めることはしないだろう。
それでも、ハイデルンは己を憎めと言った。
他のものは何ひとつ憎まなくていい。それでもどうしても、何かを憎まなければいられないというのなら、ただ父として娘を見送って、それから人として戦う道を選ぶ――いや、選ばざるを得ないであろう義父を憎めばいい。
少なくとも自分は、憎まれるのには慣れている。
「世界はお前を憎んではいない。だから、安心して目を覚ますといい」
ベッドの上、赤い髪を広げたレオナの答えはなかった。ハイデルンも無言を選んだ。それ以上多くを語る気はなかった。
そのまま部屋には無音の空気が満ち、しかししばらくして、ハイデルンは娘の言葉に頷いた。
父は娘の声を聞くことのないまま、もしかしたら生涯にたった一度の会話を終えて、静かに病室を出て行った。
病室を出たハイデルンは、もうすぐレオナが目を覚ますだろうから、その後の処置と、念のための再検査の支度をするようにと軍医に告げた。顔に疑問符を浮かべながら病室に向かう軍医を見送り、ハイデルンは自室に戻る。
自室に戻ったハイデルンは、広いデスクの前に座り、それから目を閉じた。
目を閉じたまま、指先で机を叩く。短く4回、それから短く1回、長く1回、短く長く長く短く、また短く――モールス信号というものを娘に教えた時、まさかそれがこういう風に使われるとは思ってもいなかった。
赤い髪のレオナは最後まで声を上げなかった。おそらくそれは、彼女の自由にならなかったのだろう。
その代わりに、指先でハイデルンの掌を叩いて短い言葉を残した。
残した言葉は短かった。それが2回繰り返された。繰り返して伝えればいいのかと確かめたら、Noと返された。
その後、叩かれたのは5つの数字だ。825。続けて95。
ハイデルンはもう一度、指先で机を叩く。短く4回、それから短く1回長く1回、短く長く長く短く、また短く――『HAPPY BIRTHDAY』。825はラルフの誕生日で、95は十日ほど先のハイデルンの誕生日だ。
己の中に流れる血を受け入れたか拒んだか、ただそれだけが違う魂だ。青い髪の少女と同じように、誕生日を覚え祝うほどに、赤い髪の少女も彼女の恋人を、そして父を想っている。
ハイデルンが頷くと、赤い髪の少女の顔はひどく穏やかな顔をした。そう見えた。
おそらく、再び赤い髪の少女は眠る。次の『もしもの時』が来るまで。そしてその時がまた来たのなら、二人の少女は手を取ってそれと戦うのだろう。薄紅色の髪をなびかせて。
いつか薄紅色の髪をした娘とも話ができるだろうか。ハイデルンは目を閉じたまま、そんなことを思った。
ハイデルンの指先が、こつこつと机を叩く。静かな部屋に、その音だけが響いている。
だがその静寂もすぐに破られるだろう。もうすぐ騒がしい部下がやってくるはずだ。そしてきっと、レオナが目を覚ましたんです、だから何が何でも早く来てくださいと、彼をこの部屋から引きずり出そうとするだろう。
きっとその後には金髪の傭兵が苦笑しながら立っていて、神様もずいぶん粋な誕生日プレゼントをくれるじゃないですかと言うだろう。8月25日が終わるまでにはあと数十分ある。赤い髪の娘からの伝言も、それと一緒に伝えようか。
ハイデルンは机を叩きながら、その時を待っている。
「なぁレオナ、お前今、何か欲しいものってねえか?」
ラルフの声に振り向いた彼の恋人は、基地の制服に身を包んで、青い髪をきっちりとまとめて結っていた。レオナは普段は髪を下ろしているし、戦いに臨む時でもざっと結う、というより縛るだけだ。それがこうやって、髪を結い上げているというのは。
忙しいのだ。年末が忙しいのは、個人の商店でも大企業でも傭兵部隊でも変わらない。
落ちてくる髪をかき上げる時間も惜しいとばかりに結われた青い髪の少女の手には、別の部署に届けに行く書類がこれでもかと抱え込まれている。それはかなり微妙なバランスで、何かの拍子で一気にぶちまけられてもおかしくなかった。それにはレオナも気付いているようで、片手ではみ出しかけた分を軽く直す。
で、答えた。
「G518から572までの書類に承認を」
「え」
「大佐が承認してくれないと、私と中尉の仕事が進まない」
言われて、ラルフは自分の机の上を思い出した。うず高く積まれた書類の山。戦争と違って書類仕事の才能は壊滅的なラルフだが、そんな男にも書類が回ってくるのが年末というものである。師さえ走るから師走と言うのだ。大佐だって将軍だって走らされる。
それでもレオナとクラークがフォローに走り回って、いやこの時期の場合はそれこそ疾走してくれるお陰で、ラルフの仕事は「目を通して承認のサインを入れて」でほとんど済むようになっている。だと言うのにその書類をほったらかしにして、何を遊んでいるのやら。そこまで口には出さないものの、レオナの目がかなり冷たいことに気付いてラルフは嫌な汗をかいた。血は繋がっていなくてもやはり親子、その冷たさは彼女の義父と質が同じだ。
「わ、わかった、承認だな。よしわかった、わかったからお前はさくっとその書類を届けて来い!」
そうしてラルフは慌ててレオナに背を向け、自分たちの仕事部屋に駆け戻ることになった。別に恋人の尻に敷かれているわけではないが、あの目には抵抗する気がしない。
結局その日は、本当に訊きたいことは訊けずじまいのままで、ラルフは書類と延々格闘する羽目になったのである。
「というわけなんだが」
「それを俺に相談するって言うのもどうかと思いますけどね。ハイスクールに通う歳のガキですか、あなたは」
「相談って言うか愚痴だよ愚痴。普通この時期にああ訊かれて、書類って答える女がいるか? それに俺はともかく、あいつはハイスクールにいてもおかしくない歳だぞ」
「あれはハイスクール飛び越して、もう大学の講義受けてるタイプだと思いますけどね」
ラルフは深夜の天井に向かって、アルコール臭と溜息の混じった煙草の煙を吐き出した。机の上の書類の山は、やっと半分程度まで減っている。なんとか予定通りに終わる目処が付いたところで、レオナは先に上がらせた。同時に他の面子も上がらせて、それからの数時間はクラークとのサシだ。レオナ含め他の連中が邪魔なわけではないが、最後には長年の相棒と一対一の方が効率が上がる。戦争でも、書類処理でもだ。
そうして今日のノルマをなんとか終わらせた頃には、時計の針はとうに頂点を過ぎ、気分転換に呑みに出るという時間でもなく、基地内でも手に入る缶ビールを片手に深夜の雑談となったわけである。
そこで、レオナの話になった。
「あいつの欲しいものってなんだろうな」
もうすぐクリスマスだというのに、何を贈ったらいいか分からない、とラルフが言い出したのだ。
それを聞いた時、クラークはもう少しで缶ビールを取り落とし、書類の上にその中身をぶちまけるところだった。
ラルフは元々、女遊びが派手な部類の男だ。浮名を流したと言えば聞こえはいいが、休日の度に連れている女が違うような男だったのである。長続きしないのはラルフの選んだ職のせいもあるだろうから非難するつもりはないが、とにかく女の匂いがいつでも途切れない男だった。
それはラルフの人懐こく陽気な性格も大きな要因だったが、女の扱いの上手さも同じぐらい大きい。
本人曰く、四半世紀も女口説いてりゃ誰だってそれぐらい覚えるだろうよ、となるのだがクラークは一種の才能だと思う。会話ひとつ取ってみても、褒める笑わせる楽しませる、その反対にちょっと焦らせる驚かせる戸惑わせる、その緩急が実に見事で飽きさせない。見る見るうちに、相手がラルフを見る目が変わっていくのをクラークは何度も見た。
一度デートの約束を取り付けてしまえば、コースを選ぶのも上手いしエスコートも手馴れている。あれで嫌な気分になる女はそういないだろう。
その上、ちょっとしたプレゼントが上手い。何を贈れば相手が喜ぶのか、驚くほどよく見抜いては仕入れてくる。相手が受け取るのをためらうほど高価ではなく、でもちょっと気が利いているもの。そういうものを上手く選んで来て、なおかつ絶妙なタイミングで渡すのだ。その才能は性別を超えて発揮されるようでクラークも時々その恩恵に預かっては、これならさもありなんとラルフの恋人たちを思い出したりしたものだ。
そのラルフが、恋人へのクリスマスプレゼントで悩んでいる。悩むだけでは飽き足らず、本人に何がいいかと聞いた挙句に玉砕して、長年の相棒に愚痴交じりの相談をしている。クラークは驚きを通り越して笑ってしまいそうなのをやっと堪えた。
「いつもみたいに、あなたがこれだって思ったものを渡せばいいじゃないですか。それで外したことないでしょう?」
「それがちっともピンと来ないから困ってるんじゃねえかよ」
ラルフは焼き損ないのCD-ROMを弄びながら、また溜息を吐いた。デスクライトの光がCD-ROMに反射して、事務室の書類棚に飾られたクリスマスリースに当たる。一見軍隊には不似合いなものに見えるが、案外どこの部隊でもそういう行事は大事にしているものだ。ここでもクリスマスは一大行事で、基地のあちこちにそれらしい飾り付けがされている。
「普通ならよ、持ってるバッグだ着てる服だ、暮らしぶりだなんだで何が欲しいかなんて自然に分かって来るんだよ」
しかしラルフは、そのリースを恨めしげに見た。恋人へのクリスマスプレゼントが決められずにいるラルフにとっては、それはまるで見る度に懲罰の執行日を告知されているようなものだ。
「でもあいつの場合は、そういうのがまるで分からねえ。私服見りゃいい服着てるし小物もちゃんとしてるが、ありゃ父親のお仕着せだろ。自分の趣味で選んでるんじゃねえ。例えば俺が服を贈ったとしても同じだ。礼も言うし着るだろうけどよ、喜ぶかどうかはまた別だろ」
「それじゃなおさら、あなたが贈りたいと思うものを贈るよりないでしょう?」
「あいつの欲しいものが、俺の贈りたいものなんだよ」
「……そういう台詞を、よくも恥ずかしげもなく言えるものだと思いますよ、本当に」
言って、クラークは空になったビールの缶をぐしゃりと握りつぶし、ついでにそれをくずかごに放り投げる。放物線を描いてくずかごに落ちた空き缶は、その直前に書類棚にぶつかって、クリスマスリースのベルを微かに鳴らした。
「まあ、今年はこのまま行けば基地でクリスマスを迎えられそうですし。ぎりぎりまで考えて見ればいいんじゃないですか? とりあえず、まだ1日と23時間ばかり猶予がありますよ」
とは言え、ほんの2日ばかりの時間は悩むものには短すぎる。ラルフには何の名案ももたらさないままクリスマスの夜は来て、基地でもささやかながらパーティが行われた。
基地にいる者は「基本的に」全員参加のパーティである。戦場でお互いの命を預けるには常日頃から喜びも悲しみも共有するべきだというのが始まりの、外人部隊やら傭兵部隊の伝統らしいが、ラルフは詳しいことは知らない。ついでに言えば、この世界でも1、2を争う忙しさを誇る傭兵がクリスマスに基地にいること自体が珍しい。
だが今年、ラルフの隊は維持任務に当たっていた。
仮にも軍事基地である。基地を運営するための最低限の人数は残しておかなければならない。だから他の隊がパーティ会場で呑んだり騒いだりしている間も、じっとモニターを監視し続ける者が、絶え間なく届く各地の戦況データを分析し続ける者が、誰かの装備を整え続ける者たちがいる。そういう者達がいてこそ、基地というものは成り立つのだ。
とは言え、せっかくのパーティなのに任務、というのは誰でも少しばかりつまらない。歩哨に立っていた若い兵士が、ついてねえなと小さく漏らし、肩を並べる同僚が頷いた。
その時だった。
「おい、お前らちょっと、バレない程度に楽しんで来いよ」
びっくりして振り向いた兵士の前に、にやりと笑うラルフがいる。
「会場の方にも話は付けてあるから、ローストターキーとビールでも腹に入れて来いや。あんまり人数多いと目立ってバレるから、2人ずつな。その間は俺が代わってやるから」
「え、でも、その」
「いいから行って来い。もし教官に捕まったら、俺に命令されたって言えよ。それで済むから、な?」
愚痴を怒鳴りつけられるかと思ったら、パーティに行って来いと言い出す上官に若い兵士たちは呆然としていたが、ラルフに肩を叩かれるとすぐに走り出した。余程パーティに出ている連中がうらやましかったのだろう。その背中を見送って、ラルフはやれやれと笑う。
どうやっても目立ってしまう自分やクラークはともかく、他の連中ならパーティに潜り込んでも誤魔化せるだろう、というのがラルフの算段だ。もしかしたらハイデルンには見抜かれてしまうかもしれないが、多少のガス抜きは大目に見てくれるだろうと踏んでいる。それに、羽目を外してべろべろに酔って戻ってくるような馬鹿なら、最初からこの部隊には入れない。皆それなりに上手くやるはずだ。
「じゃあ久々に歩哨なんぞやってみるか」
と、担いだ小銃を軽く揺すって位置を直した時、今度はラルフが背後から声をかけられた。
「歩哨なら、2人1組じゃないとおかしいわ」
振り向いたラルフの前に、小銃を担いだレオナがいた。レオナも青い髪のせいで目立ちすぎて、パーティには潜り込めない組だ。今夜はずっと、ラルフやクラークと同じように誰かの仕事を肩代わりし続ける。
「お前、こういう時はその髪、損だなあ」
今夜はざっとまとめただけの青い髪の先端をつまんで、ラルフは軽く苦笑した。綺麗な髪だが、あまりに目立ちすぎる。こんな宝石のような色合いの髪を持つ人間など、この世にそう何人もいない。
以前、ラルフはこの青い髪と瞳に合わせた宝石をレオナに贈ろうとして、結局何も買えなかったことがある。どんな宝石もこの天然の瑠璃色には叶わないような気がしたのだ。
そこで思い出した。恋人へのクリスマスプレゼントという大問題を。今日が課題の締切日だった。
仕方ねえ、と思った。これはもうストレートに訊いてみるしかない。
「お前よ、何か欲しいものねえか?」
レオナは何故、と首を傾げる。これも仕方ない。人並みのイベントだ行事だということには、レオナはとことん疎い。
「クリスマスだろ。プレゼントだよ」
「希望なら、3週間前にちゃんと出したわ」
「そりゃ隊からのやつだろ」
隊では上官から部下へプレゼントを贈る習慣がある。それは3択ぐらいで希望を出せる仕組みで、レオナはそれのことを言ったのだ。
「そうじゃなくて、お前はほら、俺の恋人だろうが。だから個人的になんか欲しいもの、ねえか?」
レオナはもう一度首を傾げた。眉が八の字に歪むのは、かなり真剣に困っているのだろう。
果たして、答えは半ばラルフの予想通りだった。
「欲しいものなんて、ない」
レオナは確かめるように指を折って続ける。
「身の回りのものには困っていないし、仕事もあるし、帰る家もあるし」
それから少し遠い目をして、
「そうね、一番欲しいものはたぶん、絶対に手に入らないものだけれど」
もしそれが、彼女が遠い昔に喪ってしまったものだとしたら、確かにそれは2度と彼女の手に戻ることはない。だが、レオナの視線はすぐに戻った。長々と感傷に浸れるほど、それは優しい過去ではない。
「でも仲間には恵まれてるし、父と呼べる人もいるし、それに」
そして青い髪の少女は、恋人を見上げて言う。
「私には、あなたがいるもの」
――もしもこの場にクラークがいたら、きっとこう言っただろう。よくもそういう台詞を恥ずかしげもなく言えるものだ、と。そしてきっと、2人には聞こえないように付け加える。そういう者同士だから、上手く行くのかもしれない、と。
だからもう、何もいらないわ、とレオナは言った。
「大佐は、何か欲しいものはある?」
ラルフはそれにすぐには答えず、ただレオナの肩を抱いた。歩哨の任務中だが、利き手は空けてあるし今夜はクリスマスだ。パーティも諦めた。だからこれぐらい見逃してくれよな、とラルフは心の中で誰かに詫びた。
「俺も、もういい。さっきのやつで十分だ」
「さっきのやつ?」
「さっきの、「あなたがいるもの」ってやつ。あれをもう一度言ってくれたらそれでいい」
もう一度、と改めて言われると流石に少し恥ずかしいのか、繰り返す声は先程より僅かに小さい。
「あなたがいるもの」
「あなた、じゃなくて他に言い方があるだろ。あ、大佐もパスな」
3度目は、更に小さな声になった。顔も少し俯き加減だ。
それでも、言った。
「ラルフがいるもの」
「――上出来」
目に見えるプレゼントがないクリスマスだって悪くない。ラルフはそう思いながら、ちょっと名残惜しくレオナの肩を離した。
ラルフの声に振り向いた彼の恋人は、基地の制服に身を包んで、青い髪をきっちりとまとめて結っていた。レオナは普段は髪を下ろしているし、戦いに臨む時でもざっと結う、というより縛るだけだ。それがこうやって、髪を結い上げているというのは。
忙しいのだ。年末が忙しいのは、個人の商店でも大企業でも傭兵部隊でも変わらない。
落ちてくる髪をかき上げる時間も惜しいとばかりに結われた青い髪の少女の手には、別の部署に届けに行く書類がこれでもかと抱え込まれている。それはかなり微妙なバランスで、何かの拍子で一気にぶちまけられてもおかしくなかった。それにはレオナも気付いているようで、片手ではみ出しかけた分を軽く直す。
で、答えた。
「G518から572までの書類に承認を」
「え」
「大佐が承認してくれないと、私と中尉の仕事が進まない」
言われて、ラルフは自分の机の上を思い出した。うず高く積まれた書類の山。戦争と違って書類仕事の才能は壊滅的なラルフだが、そんな男にも書類が回ってくるのが年末というものである。師さえ走るから師走と言うのだ。大佐だって将軍だって走らされる。
それでもレオナとクラークがフォローに走り回って、いやこの時期の場合はそれこそ疾走してくれるお陰で、ラルフの仕事は「目を通して承認のサインを入れて」でほとんど済むようになっている。だと言うのにその書類をほったらかしにして、何を遊んでいるのやら。そこまで口には出さないものの、レオナの目がかなり冷たいことに気付いてラルフは嫌な汗をかいた。血は繋がっていなくてもやはり親子、その冷たさは彼女の義父と質が同じだ。
「わ、わかった、承認だな。よしわかった、わかったからお前はさくっとその書類を届けて来い!」
そうしてラルフは慌ててレオナに背を向け、自分たちの仕事部屋に駆け戻ることになった。別に恋人の尻に敷かれているわけではないが、あの目には抵抗する気がしない。
結局その日は、本当に訊きたいことは訊けずじまいのままで、ラルフは書類と延々格闘する羽目になったのである。
「というわけなんだが」
「それを俺に相談するって言うのもどうかと思いますけどね。ハイスクールに通う歳のガキですか、あなたは」
「相談って言うか愚痴だよ愚痴。普通この時期にああ訊かれて、書類って答える女がいるか? それに俺はともかく、あいつはハイスクールにいてもおかしくない歳だぞ」
「あれはハイスクール飛び越して、もう大学の講義受けてるタイプだと思いますけどね」
ラルフは深夜の天井に向かって、アルコール臭と溜息の混じった煙草の煙を吐き出した。机の上の書類の山は、やっと半分程度まで減っている。なんとか予定通りに終わる目処が付いたところで、レオナは先に上がらせた。同時に他の面子も上がらせて、それからの数時間はクラークとのサシだ。レオナ含め他の連中が邪魔なわけではないが、最後には長年の相棒と一対一の方が効率が上がる。戦争でも、書類処理でもだ。
そうして今日のノルマをなんとか終わらせた頃には、時計の針はとうに頂点を過ぎ、気分転換に呑みに出るという時間でもなく、基地内でも手に入る缶ビールを片手に深夜の雑談となったわけである。
そこで、レオナの話になった。
「あいつの欲しいものってなんだろうな」
もうすぐクリスマスだというのに、何を贈ったらいいか分からない、とラルフが言い出したのだ。
それを聞いた時、クラークはもう少しで缶ビールを取り落とし、書類の上にその中身をぶちまけるところだった。
ラルフは元々、女遊びが派手な部類の男だ。浮名を流したと言えば聞こえはいいが、休日の度に連れている女が違うような男だったのである。長続きしないのはラルフの選んだ職のせいもあるだろうから非難するつもりはないが、とにかく女の匂いがいつでも途切れない男だった。
それはラルフの人懐こく陽気な性格も大きな要因だったが、女の扱いの上手さも同じぐらい大きい。
本人曰く、四半世紀も女口説いてりゃ誰だってそれぐらい覚えるだろうよ、となるのだがクラークは一種の才能だと思う。会話ひとつ取ってみても、褒める笑わせる楽しませる、その反対にちょっと焦らせる驚かせる戸惑わせる、その緩急が実に見事で飽きさせない。見る見るうちに、相手がラルフを見る目が変わっていくのをクラークは何度も見た。
一度デートの約束を取り付けてしまえば、コースを選ぶのも上手いしエスコートも手馴れている。あれで嫌な気分になる女はそういないだろう。
その上、ちょっとしたプレゼントが上手い。何を贈れば相手が喜ぶのか、驚くほどよく見抜いては仕入れてくる。相手が受け取るのをためらうほど高価ではなく、でもちょっと気が利いているもの。そういうものを上手く選んで来て、なおかつ絶妙なタイミングで渡すのだ。その才能は性別を超えて発揮されるようでクラークも時々その恩恵に預かっては、これならさもありなんとラルフの恋人たちを思い出したりしたものだ。
そのラルフが、恋人へのクリスマスプレゼントで悩んでいる。悩むだけでは飽き足らず、本人に何がいいかと聞いた挙句に玉砕して、長年の相棒に愚痴交じりの相談をしている。クラークは驚きを通り越して笑ってしまいそうなのをやっと堪えた。
「いつもみたいに、あなたがこれだって思ったものを渡せばいいじゃないですか。それで外したことないでしょう?」
「それがちっともピンと来ないから困ってるんじゃねえかよ」
ラルフは焼き損ないのCD-ROMを弄びながら、また溜息を吐いた。デスクライトの光がCD-ROMに反射して、事務室の書類棚に飾られたクリスマスリースに当たる。一見軍隊には不似合いなものに見えるが、案外どこの部隊でもそういう行事は大事にしているものだ。ここでもクリスマスは一大行事で、基地のあちこちにそれらしい飾り付けがされている。
「普通ならよ、持ってるバッグだ着てる服だ、暮らしぶりだなんだで何が欲しいかなんて自然に分かって来るんだよ」
しかしラルフは、そのリースを恨めしげに見た。恋人へのクリスマスプレゼントが決められずにいるラルフにとっては、それはまるで見る度に懲罰の執行日を告知されているようなものだ。
「でもあいつの場合は、そういうのがまるで分からねえ。私服見りゃいい服着てるし小物もちゃんとしてるが、ありゃ父親のお仕着せだろ。自分の趣味で選んでるんじゃねえ。例えば俺が服を贈ったとしても同じだ。礼も言うし着るだろうけどよ、喜ぶかどうかはまた別だろ」
「それじゃなおさら、あなたが贈りたいと思うものを贈るよりないでしょう?」
「あいつの欲しいものが、俺の贈りたいものなんだよ」
「……そういう台詞を、よくも恥ずかしげもなく言えるものだと思いますよ、本当に」
言って、クラークは空になったビールの缶をぐしゃりと握りつぶし、ついでにそれをくずかごに放り投げる。放物線を描いてくずかごに落ちた空き缶は、その直前に書類棚にぶつかって、クリスマスリースのベルを微かに鳴らした。
「まあ、今年はこのまま行けば基地でクリスマスを迎えられそうですし。ぎりぎりまで考えて見ればいいんじゃないですか? とりあえず、まだ1日と23時間ばかり猶予がありますよ」
とは言え、ほんの2日ばかりの時間は悩むものには短すぎる。ラルフには何の名案ももたらさないままクリスマスの夜は来て、基地でもささやかながらパーティが行われた。
基地にいる者は「基本的に」全員参加のパーティである。戦場でお互いの命を預けるには常日頃から喜びも悲しみも共有するべきだというのが始まりの、外人部隊やら傭兵部隊の伝統らしいが、ラルフは詳しいことは知らない。ついでに言えば、この世界でも1、2を争う忙しさを誇る傭兵がクリスマスに基地にいること自体が珍しい。
だが今年、ラルフの隊は維持任務に当たっていた。
仮にも軍事基地である。基地を運営するための最低限の人数は残しておかなければならない。だから他の隊がパーティ会場で呑んだり騒いだりしている間も、じっとモニターを監視し続ける者が、絶え間なく届く各地の戦況データを分析し続ける者が、誰かの装備を整え続ける者たちがいる。そういう者達がいてこそ、基地というものは成り立つのだ。
とは言え、せっかくのパーティなのに任務、というのは誰でも少しばかりつまらない。歩哨に立っていた若い兵士が、ついてねえなと小さく漏らし、肩を並べる同僚が頷いた。
その時だった。
「おい、お前らちょっと、バレない程度に楽しんで来いよ」
びっくりして振り向いた兵士の前に、にやりと笑うラルフがいる。
「会場の方にも話は付けてあるから、ローストターキーとビールでも腹に入れて来いや。あんまり人数多いと目立ってバレるから、2人ずつな。その間は俺が代わってやるから」
「え、でも、その」
「いいから行って来い。もし教官に捕まったら、俺に命令されたって言えよ。それで済むから、な?」
愚痴を怒鳴りつけられるかと思ったら、パーティに行って来いと言い出す上官に若い兵士たちは呆然としていたが、ラルフに肩を叩かれるとすぐに走り出した。余程パーティに出ている連中がうらやましかったのだろう。その背中を見送って、ラルフはやれやれと笑う。
どうやっても目立ってしまう自分やクラークはともかく、他の連中ならパーティに潜り込んでも誤魔化せるだろう、というのがラルフの算段だ。もしかしたらハイデルンには見抜かれてしまうかもしれないが、多少のガス抜きは大目に見てくれるだろうと踏んでいる。それに、羽目を外してべろべろに酔って戻ってくるような馬鹿なら、最初からこの部隊には入れない。皆それなりに上手くやるはずだ。
「じゃあ久々に歩哨なんぞやってみるか」
と、担いだ小銃を軽く揺すって位置を直した時、今度はラルフが背後から声をかけられた。
「歩哨なら、2人1組じゃないとおかしいわ」
振り向いたラルフの前に、小銃を担いだレオナがいた。レオナも青い髪のせいで目立ちすぎて、パーティには潜り込めない組だ。今夜はずっと、ラルフやクラークと同じように誰かの仕事を肩代わりし続ける。
「お前、こういう時はその髪、損だなあ」
今夜はざっとまとめただけの青い髪の先端をつまんで、ラルフは軽く苦笑した。綺麗な髪だが、あまりに目立ちすぎる。こんな宝石のような色合いの髪を持つ人間など、この世にそう何人もいない。
以前、ラルフはこの青い髪と瞳に合わせた宝石をレオナに贈ろうとして、結局何も買えなかったことがある。どんな宝石もこの天然の瑠璃色には叶わないような気がしたのだ。
そこで思い出した。恋人へのクリスマスプレゼントという大問題を。今日が課題の締切日だった。
仕方ねえ、と思った。これはもうストレートに訊いてみるしかない。
「お前よ、何か欲しいものねえか?」
レオナは何故、と首を傾げる。これも仕方ない。人並みのイベントだ行事だということには、レオナはとことん疎い。
「クリスマスだろ。プレゼントだよ」
「希望なら、3週間前にちゃんと出したわ」
「そりゃ隊からのやつだろ」
隊では上官から部下へプレゼントを贈る習慣がある。それは3択ぐらいで希望を出せる仕組みで、レオナはそれのことを言ったのだ。
「そうじゃなくて、お前はほら、俺の恋人だろうが。だから個人的になんか欲しいもの、ねえか?」
レオナはもう一度首を傾げた。眉が八の字に歪むのは、かなり真剣に困っているのだろう。
果たして、答えは半ばラルフの予想通りだった。
「欲しいものなんて、ない」
レオナは確かめるように指を折って続ける。
「身の回りのものには困っていないし、仕事もあるし、帰る家もあるし」
それから少し遠い目をして、
「そうね、一番欲しいものはたぶん、絶対に手に入らないものだけれど」
もしそれが、彼女が遠い昔に喪ってしまったものだとしたら、確かにそれは2度と彼女の手に戻ることはない。だが、レオナの視線はすぐに戻った。長々と感傷に浸れるほど、それは優しい過去ではない。
「でも仲間には恵まれてるし、父と呼べる人もいるし、それに」
そして青い髪の少女は、恋人を見上げて言う。
「私には、あなたがいるもの」
――もしもこの場にクラークがいたら、きっとこう言っただろう。よくもそういう台詞を恥ずかしげもなく言えるものだ、と。そしてきっと、2人には聞こえないように付け加える。そういう者同士だから、上手く行くのかもしれない、と。
だからもう、何もいらないわ、とレオナは言った。
「大佐は、何か欲しいものはある?」
ラルフはそれにすぐには答えず、ただレオナの肩を抱いた。歩哨の任務中だが、利き手は空けてあるし今夜はクリスマスだ。パーティも諦めた。だからこれぐらい見逃してくれよな、とラルフは心の中で誰かに詫びた。
「俺も、もういい。さっきのやつで十分だ」
「さっきのやつ?」
「さっきの、「あなたがいるもの」ってやつ。あれをもう一度言ってくれたらそれでいい」
もう一度、と改めて言われると流石に少し恥ずかしいのか、繰り返す声は先程より僅かに小さい。
「あなたがいるもの」
「あなた、じゃなくて他に言い方があるだろ。あ、大佐もパスな」
3度目は、更に小さな声になった。顔も少し俯き加減だ。
それでも、言った。
「ラルフがいるもの」
「――上出来」
目に見えるプレゼントがないクリスマスだって悪くない。ラルフはそう思いながら、ちょっと名残惜しくレオナの肩を離した。
「おい、レオナよ」
ラルフは短くなった煙草を消そうとして、灰皿にそのスペースがないことに気が付いた。この数時間、ほとんど途切れることなく吸い続けた煙草の吸殻が、既にうず高く積まれている。
レオナが振り向く。その拍子に、煙草とは違う匂いが僅かに香った。それがレオナが着けている香水だと気付くのに、さして時間はかからなかった。
「お前、こないだの誕生日でいくつになったっけ」
「18」
18か。それなら香水ぐらい着けてもい頃だ。ラルフは足元の、水を張った金バケツ――吸殻専用のゴミ箱に吸殻の小山を放り込んだ。ついでに今の煙草もその中に放る。
決断を。煙草の火の消える小さな音に、そう言われた気がした。
ラルフは追い詰められている。状況を打開する方法はあった。馬鹿な話だとも無謀な話だとも思うが、そうすれば何とかできるという自信はあった。
だが、あまり良い手段とも思えなかった。何か別の手があるならその方が良かった。何かないかと灰皿の中身を3回空にするまで考えたが思いつかない。となれば、後はラルフが腹を括るしかなかった。
決断を。
「18なら、一度ぐらいそういうことがあっても悪くないだろ」
ラルフは言い訳のように呟いた。香水が似合う歳なら、そういうこともなくはないだろう。西陽で赤く染まった部屋の天井付近には、換気扇の容量を超えた白煙が残って霞のように広がっている。
レオナはその夕陽の中で、じっとラルフを見つめていた。レオナも待っている。決断を。
夕陽がレオナの頬を赤く染めている。普段熱にも興奮にも無縁のレオナに、それは不似合いな色だったかもしれない。だが、だからこそ、ラルフはその赤に背を押された。赤というのはそういう色だ。
そしてラルフは、ついに決断の言葉を口にした。
「駆け落ちしよう、レオナ」
「駆け落ちと聞いておりましたが、その割には随分と大所帯ですな」
死神からその娘を攫ったという噂で更に名高くなった伝説の傭兵の後ろには、その腹心の部下たちがずらりと顔を並べていた。ラルフ直下の部隊全員が揃っている。
「義理堅い連中でな。俺が部隊を出るって言ったら、なんだかんだで全員ついて来やがった。迷惑な話だ。まさかほっとくわけにも行かねえから、こいつら全員の面倒を見なきゃならねえ。まったく、心労でやつれちまったぜ」
迷惑といいながら、ちっともそんな風に見えない顔で笑いながら、ラルフはつるりと自分の顔を撫ぜた。確かに目の下にはクマができているし、顔色も少し悪い。なのにちっとも苦労しているとか大変そうに見えないのは、隣に座った少女のせいだろう。
21も年下の恋人を作った男が、寝不足らしい顔をしてやつれている。それを見て猥雑な連想をする者は少なくないだろう。事実、ラルフの目の前にいる小太りの男は、腹の内では毎晩ご盛んなことで、と呟いていた。実際に口に出したのは、商売用の笑顔と当たり障りのない質問だったが。
「ほうほう、で、どちらへ? このまま田舎に引っ込んで、皆さんで養蜂業でもないでしょう?」
脂肪の詰まって膨れた腹を揺らしながらにこにこと笑う姿だけ見ていれば、小さな会社を取り仕切るのに懸命で、食事に気を遣う余裕もなく気が付けば肥満体、来週からジムに通おうかそれともダイエットサプリでも飲もうかと考えていそうなどこにでもいる中年男だ。
だがこの男の商売は、見た目ほど平凡ではなかった。地下マーケットの経営である。美術品から麻薬からワシントン条約級の希少動物、人間、もちろん銃器兵器まで、金になるなら何でもござれだ。まあそれぐらいの男でなければ、どこかぴりぴりと神経を張り詰めさせた歴戦の傭兵達を前にして、平然と冗談など出せやしまい。
男は、ラルフたちがどこかで新しい傭兵部隊を作るものだと思っていた。ラルフの名前を出せば、どこに行っても仕事には困らないだろう。何しろハイデルン傭兵部隊のナンバー1実働部隊だ。
問題は、どこで仕事を始めるかだ。ステイツから南米に掛けての仕事は、ほとんどハイデルンの部隊が抑えている。そこに割り込むのは難しいし得策ではない。となると、ラルフの行き先はアフリカか、それとも中東辺りか。
だが、ラルフの答えは男の予想を裏切った。
「ブラジルだ。ブラジルに戻る」
その声は確固として揺ぎない。同じように、青い髪の少女の表情も微動だにしなかった。レオナだけではない、部隊の全員が、朝食のメニューを聞くのと同じぐらい平然とそれを聞いていた。
顔色を変えたのは、部外者である男だけだ。
「うちの部隊――いやもう、うちじゃねえな。ハイデルンが抱えてるコネだの金脈だの、あの辺がちっと惜しくてな。退職金というか手切れ金というか、どうせなら受け取りてえじゃねえか」
「正直、あなたにまだそこまでの気骨があるとは思っておりませんでしたよ。最近ではすっかり丸くなって、上手く飼いならされていると思っておりました」
「俺はギースのところの忠犬とは違うさ。それに、いい加減に使いっ走りでも、ナンバー2って歳でもねえだろ」
ふふんともう一度笑って見せて、それからラルフは少し目を細めて、昔を見る顔をした。
「それに俺はもう一度、あの人と正面からやり合ってみたいと思ってた。もう一度、な」
あの人、という言葉にラルフとハイデルンの10年が色濃かった。
ラルフがハイデルンを倒して名を上げることを目的に、傭兵部隊に近付いたというのは割と有名な話だ。結局その望みは一度も叶わないまま、やがてラルフはハイデルンという人物に心惹かれ、その部隊に入ることになる。だが、10年前のその熱は、ラルフの中で未だ失せていなかったらしい。
内乱のように部隊の中から反旗を翻すのではなく、わざわざ一度外に出てからぶつかりに行くのは、まさにその炎の再燃か。
「これ以上の説明はいらないな? 武器がいる弾がいる足がいる。揃えてくれ。金はいくらでも、とは言わねえが、まあその後のビジネス込みで悪い話じゃねえだろ」
今後贔屓にさせてもらうぜと言外に含めながら、ラルフはもうひとつ付け加えた。
「それにあんた、ハイデルンの娘煩悩、聞いたことがあるか?」
「……噂には」
あの冷静沈着で知られるハイデルンが、こと娘のことに関してだけはおかしくなる。死んだ娘の分、いや妻の分まで合わせて3人分の愛情と思い入れと、おまけに他人の娘を預かり育てているという、男同士の約束のような(ハイデルンは生前のレオナの父に会ったことはないのだが)意地もあるのか、とにかくレオナに対することでの暴走は尋常ではない。その噂は、男も聞いたことがあった。
それでも、まさかと思っていたのだ。あのハイデルンに限ってそんな馬鹿な話が。せいぜい世間の子煩悩と同じぐらいだろう。大体にして、年頃の娘を持った父親というのは神経質なものだ。それがこんなに綺麗なお嬢さんで、しかも男集団の中で立ち働いているのなら当然だろう。その程度の話に尾ひれが付いているんじゃないのか?
だが、またも男の予想は覆された。
「あの人、娘のためなら大陸間弾道弾だろうが軍事衛星だろうが持ち出すぜ」
そんな馬鹿な、と思った。あのハイデルンが。だが、ラルフを初め、部隊の全員の顔から笑みが引いているのを見て、男はそれが事実だと悟った。ぽつりと付け加えられたレオナの言葉が駄目押しだった。
「そうじゃなきゃ……駆け落ちなんてしない」
この寡黙な少女がこんなタイミングで冗談を言うようには思えず、男の顔色はたちまちレオナの髪と同じ色になった。
あのハイデルンに虫けらのように駆逐されたいか?――否。
ハイデルンから娘を奪った裏切り者に武器を売った愚か者として一生付け狙われたいか――否。
男は今すぐにこの商談を打ち切って、この場から逃げ出したいと心底願った。だが、もう遅い。やっとわかった。ラルフが単身ではなく、腹心数名のみを連れてくるのでもなく、わざわざ部隊全員を連れてこの場に現れた理由が。
目立ちたかったのだ。ハイデルンに自分はここにいる、ここで武器を買うと気付かせたかったのだ。逃げようにももう遅い。ハイデルンはここにやってくる。娘以外は皆殺しにする勢いでやってくる。
死にたくなければ、それに対抗できる勢力を味方につけるしかない。つまり、ラルフに武器を用意するしかない。図ったなラルフ・ジョーンズ。
それでも男はその怒りを顔には出さず、精一杯の営業スマイルを浮かべて見せた。
「それでは急いでご用意しなければなりませんなあ。3日でいかがですか?」
「2日」
「2日と半では?」
「いや2日だ」
「最善の努力はさせていただきますよ」
「OK」
傭兵のなりをした疫病神は、不本意な共同戦線を組まされた男と握手をすると、ぞろぞろと部屋を出て行った。皆、この街のホテルに身を潜めているのだという。
これだけの人数が唐突に訪れて同じホテルに滞在していても目立たないのは、この街が観光地としても栄えているからだ。それを逆手にとって闇の商売を続けていたことを、男が後悔したのは後にも先にもこの時だけだった。普段は後悔どころか、扱っている商品に対して良心に1mmの揺らぎも覚えない。
傭兵達が出ていくの見送るのもももどかしく、男はすぐに部下の1人を部屋に呼んだ。普段は仕入れを任せている男で、情報の収集力にも交渉にも有能な部下だ。
「ハイデルンに連絡を入れろ。ルートがない?それなら今から作れ。死にたくなければ24時間以内にやるんだ。そうでないとドンキホーテと心中することになるぞ。いいか、ラルフがここにいるとハイデルンに知らせるんだ。奴の協力者と思われる前に、ハイデルンに協力するポーズを取るんだ。それしか生き延びる手はないぞ」
「……ですって」
その声は頭上から降りてきた。目の前にはレオナの白い足首だけがある。
盗聴器の電波が弱くて、部屋の天井近くに受信機を置かないと電波を上手く捕まえられない。部屋を出る前にあらかじめ仕掛けておいたそれと、一応回しておいたボイスレコーダーを回収するべく、レオナは目下テーブルの上だ。
「予想通りの展開ですね」
「予想通りだが気分は悪いな。最初から俺が負けると踏んでやがる。最強の実働部隊が抜けてきたんだ。悪くても戦力は五分と五分だぞ」
「五分と五分なら、あの人が勝つと思ってるんでしょうねえ」
レオナの上ったテーブルを抑えながら、ラルフは苦笑いした。別にラルフが抑えていなくても、レオナがバランスを崩して落ちるようなことはないだろうが、まあ保険のようなものだ。クラークも一応、その保険に参加している。男2人が支えるテーブルの上で背を伸ばし、腕を高く差し上げたレオナの姿は、ちょっと変わったダンスのようにも見える。
「ま、予想通りってことは、こっちも計画通りに進めりゃいいってだけのことだ。あいつが今から必死こいてあの人に連絡を付けるとしても、あの人がこっちに着くまで6時間はかかる。それまでこっちは寝られるってこった。クラーク、通達頼む」
「了解」
と、テーブルから手を離そうとして、クラークの動きがふと止まった。
「レオナ、お前香水着けてるか?」
「……匂う?」
伸び上がった姿勢はそのままで、レオナは首だけを傾げる。
「マニュアル通りに着けたつもりだけど、強すぎた?」
化粧や香水の着け方も女らしい楽しみで覚えたのではなく、マニュアルで学んだのかと少し呆れながら、クラークは首を振った。レオナはきっと、毒薬でも調合するような顔をして香水瓶を傾けるのだろう。
「いや、多過ぎってことはないだろう。マニュアル通りなら、足首あたりにでも着けたんだろ? ちょうど目の前に来たから匂ったんだな」
「そうなんだよ、こいつ最近香水なんか着けるようになったんだぜ」
「なんだ、ラルフが寄越したんじゃないのか」
「違うわ」
お前ももういいぞ、とラルフに手招きされ、レオナは身軽にテーブルから飛び降りた。軽業師としては筋肉が多過ぎて重いはずなのに、レオナはほとんど音を立てずに床に降り立つ。
「お前も18ならそれぐらいの嗜みは、ってこの間の誕生日に父が」
それを聞いてラルフが苦い顔をした。自分が掻っ攫った娘の口から、父親の話を聞きたいとは普通思わない。それを誤魔化すように、ラルフは早口で指示を出す。
「とにかく、最後の休憩タイムだ。5時間後に例の場所に集合、それまで各自寝るなり食うなりしとけって皆に言ってくれ」
「了解。お前も遊んでないで良く寝とけよ、ラルフ」
「大きなお世話だっ!」
ひらひらと手を振って出て行くクラークにラルフは短く怒鳴ったが、寝不足で目の下のクマの濃い顔では迫力に欠ける。どう見たって若い恋人にうつつを抜かして夜も昼もない遊蕩者の顔だ。しかもクラークは長い長い付き合いで、ラルフの怒声になど慣れ切っている。怒鳴り声を柳に風と受け流して、クラークは部屋を出て行ってしまった。
後にはラルフとレオナと、豪奢なホテルに相応しい無駄に大きなベッドだけが残される。ダブルではなく、正方形に近いキングサイズだ。ラルフとレオナはもちろん、クラークまで加えても充分安眠できそうな広いベッドには、真っ白なシーツが敷かれ、心地よい眠りを声高に謳っている。
だが、ラルフはそれを見て大きな溜息を吐いた。年の半分以上は戦場の泥に塗れて眠る男である。本当なら、まともなベッドというだけでも嬉しい。恋人が傍にいるならそれも倍増しになるはずなのだが、今のラルフにベッドは鬼門でしかなかった。
それでもここ数日の睡眠不足は耐え難く、ラルフはベッドに潜り込んだ。数時間後の決戦に備えて、少しでも気力と体力を回復させたい。レオナもそれに従って、ベッドに入る。
闇の中にいた。
何も見えない。何も聞こえない。完全に無音の世界だ。
なのに分かる。何かがこちらに近付いてきている。足音はしない。息遣いも聞こえない。ただ、鬼気迫る気配だけがひたひたと迫ってきている、。
声はなかった。それでも、意思は伝わってきた。
とっさにラルフは横に飛んだ。一瞬遅れて、さっきまで立っていた位置に硬い地面を抉る『何か』を感じる。これも無音だ。
音のない、真空の刃。
それから逃れてラルフは走り続ける。その後ろを、なおも真空の刃が追う。
死神だ。死神がいる。娘を奪われた隻眼の死神が、冷たい怒りだけを道連れに追って来た。
何度目かの真空の刃が、ついにラルフを追い詰める。追い詰められたのは肉体ではなくて精神だ。この状態では勝ち目はないと頭では分かっているのに、足が止まった。拳が動いた。
それは技でもなく、力でもなく、ただ恐怖に突き動かされて放った一撃だった。
だがもちろん、そんなものが当たるはずもなく。
入れ替わるように、無言の死神の手刀がラルフの腹に突き立った。
その瞬間に、目が覚めた。冷や汗でシーツまでじっとりと湿っている。
部隊を出てからと言うもの、毎晩のように見る悪夢だ。お陰でここのところ、ラルフは熟睡というものに縁がない。
長年の傭兵としての暮らしは、ラルフに銃弾が飛び交う中ですら眠る術を授けていた。深い眠りの休息と夢うつつの警戒、急激な覚醒のスイッチを巧みに切り替えれば、どんな激戦地でも最低限の睡眠と体力は維持できる。
そのラルフが、睡魔に見放された。ベッドに入れば、やって来るのは穏やかな眠りではなく死神の夢だ。
ふと気が付くと、レオナが横になった姿勢はそのまま、じっとこちらを見ていた。
「……うなされていたわ」
「起こしちまったか? すまねえな」
「平気。どちらにしてもそろそろ時間だし」
言われて外さずに寝た腕時計を見ると、確かにそろそろ準備を始めてもいい時間だ。するりとレオナがベッドを抜け出す。
「着替える前に、シャワー浴びてくる」
「了解」
眠れなかった分、ほんの僅かな時間でも体を休めておこうとラルフは寝返りを打って枕に顔をうずめた。寝なくても横になっていれば少しは違う。
自分の寝汗で気分の悪い辺りから、さっきまでレオナが寝ていた辺りにずれると、自分のそれとは違う体温と香りがラルフを包む。それは嫌な感触ではなかったが、先程の悪夢をラルフの意識の表層に引きずり出すきっかけにもなった。
「さっさとケリを付けねえとな」
ぽつりと呟いた声は、レオナの使うシャワーの音に掻き消された。
この騒動にきっちりと決着を付けなければ、自分は永遠にあの悪夢から逃れられない。ラルフはそれを自覚している。夢の元凶になっているのはこの状況だ。この状況そのものを根本的に変えなければ、あの夢はいつまでも自分を追ってくる。
だから、ケリをつける。
ラルフはもう一度腕時計を見た。シャワーを浴びて、気分を切り替えるぐらいの時間はあった。
上掛けを跳ね飛ばしてベッドから降りた時には、ラルフはもういつもの顔に戻っていた。
男の失敗は、手段を選ばなかったことだった。
とにかくハイデルンに一報をと焦るあまり、直接連絡を取ってしまったのがそもそもの間違いだ。情報なんぞネットにでも上手く流せば、向こうが勝手に拾ってくれる。そう考える余裕がなかった。
失敗した、とやっと男が自覚したのは、電話の向こうから隻眼の傭兵隊長の暗い声が聞こえてからである。暗い怒りに染まった声だった。
「今しばらくの間、奴の話に乗ったふりをしてもらいたい」
協力を仰ぐと言うより、軍隊式の命令口調に近い物言いに文句も言えなかった。
男の脳裏に、ラルフの言葉が甦る。『あの人、娘のためなら大陸間弾道弾だろうが軍事衛星だろうが持ち出すぜ』 それが洒落でも冗談でもないことを、男はもう一度思い知らされた。
「貴方が逃げれば、奴はそれで異変に気付く。そういう気配には鼻が利く男だ。そうなれば、我々がそこに辿り着く前に奴は逃げてしまうだろう。だから、今しばらくは奴の協力者のふりをしていてもらいたい」
自分が到着するまでラルフ達を逃がすな、時間を稼げ、と言うことだ。
嫌も応もなく、電話に向かって相手には見えもしない頷きとお辞儀を何度も繰り返し、やっとのことで受話器を置くと、今度はドアが招かざる来訪者を告げる音を立てた。
ノックではない。蹴破られた。
「教官殿も部外者にずいぶんキツい命令をするもんだ。部外の協力者はもっと大事に扱わなきゃいけねえよなあ?」
笑うラルフの後ろで、男の部下や用心棒たちが両手を挙げていた。ラルフの部下たちに銃を突きつけられている。ハイデルンへの連絡を命じた男もいた。何もかもばれている。
「それでおっさんよ。この場で俺に殺されるのと、後であの人に殺されるの、どっちがいい?――ってのは冗談としても、だ」
完全武装して、小銃片手に笑うラルフに言われても、ちょっと冗談には聞こえない。
ラルフだけではない。ハイデルンから離反した部隊の全員が揃っている。その全員が武装済みだ。運搬に手のかかる重火器はともかく、個人の兵装は使い慣れたものを持ち出したのだろう。使い込まれた小銃が鈍い光を放っていた。
「悪いことは言わねえ、とりあえずは俺らに協力しとけ。俺らが勝てば今後もステキなビジネスパートナー、あの人が勝ったら『脅されて仕方なく』って言っとけよ。少なくともそれで、命の保証はされるぜ?」
「きょ、協力って……」
「最初の話どおり、武器を寄越してくれりゃあいいのさ。あの人と戦争するのに、この装備だけじゃちっと心もとねえ」
「い、嫌だと言ったら?」
「――あんた、人間の体に骨が何本あるか知ってるか?」
誰に呼ばれた訳でもないのに、レオナが一歩前に進み出る。
「関節はいくつあると思う? 爪は数えるまでもなく20枚だな。内臓は? 粘膜の数は?」
男はその時ラルフではなく、後ろに控える傭兵達でもなく、ただ1人無表情を崩さぬ少女を見ていた。
隻眼の死神が猟犬を飼ったらしい。主人の他にはどこの誰にも尻尾を振らないが、艶々した青い毛並みが綺麗な犬だそうだ。その鋭い牙は顎じゃなくて両手にあって、主人が命令すればいくらでも敵の命を狩って来る――死神の猟犬。そんな二つ名で呼ばれたことさえある少女が、自分に情けを掛けるだろうか。
否。使い古された脅し文句でさえ生易しいぐらいの非情さで、この少女は自分を脅しにかかるに違いない。爪を剥ぎ骨を折り関節を潰し、内臓を粘膜をこれ以上ないぐらい見事な手際で傷付けて、愛する男の言うことを聞けと囁くだろう。
男に選択の余地などなかった。
「こりゃ大したもんだ。これだけありゃ、どこか小さな国のひとつやふたつ乗っ取れそうだな」
ずらりと火器を並べた倉庫に、ラルフは素直に感嘆して見せた。
男は商品の一部を、いつも近くに置いていた。ほとんどの商品が、長くても数時間で準備できるようにしてある。急ぎの客のためだ。
武器も同じだった。ほんの30分もあれば行ける場所に、一見中古車ディーラーの工場兼倉庫に見せかけた武器庫を持っている。商品の中でもとりわけ近くに置いてあるのは護身のためでもあった。
そういう用心と気遣いが、この男を一代で地下マーケットのトップに押し上げたのだ。だが、今回ばかりはその用心がかえって首を絞めている。
「しかし上手く隠したもんだ。通りで見付からないはずだぜ」
いやいや参ったとばかりに顔を竦めてラルフは笑って見せたが、男にそれに応える余裕はない。自分が危うく、九死に一生を得たことに気付いたためだ。
ラルフは武器庫を探していた。それはおそらく、自分との交渉が決裂したら、殺してでもこの武器を奪い取るつもりでいたからに違いない。むしろ生かしておく理由がない。どうせ裏切り者だ。
どうやっても見付からなかったから、脅迫だけで済んだのだ。死線のほんの一歩手前で、男は危うく踏みとどまっていた。
その一方で、傭兵たちは死線へと踏み出すために慌しく動き出す。
「偵察隊と思われる敵影を確認しました――こちら、既に発見されています!」
「ちっ、流石に早いな。おいC班、外に展開しろ。だけどよ、相手はあの化物だ。無理に突っ込むな。ヤバいと思ったら即戻って来い」
「了解」
「残りは篭城の準備だ。入り口にバリケード作れ。C班が戻れるように一箇所残して、後の隙間は全部塞げ!」
流石に手馴れたもので、傭兵たちは手早くバリケードを組み上げていく。材料は、本来これも売り物の中古車やらだ。
新車同様に磨き上げられた車の上に、乱雑に、しかし巧みにガラクタが積み上げられていく。その隙間に火器の砲身がねじ込まれ、ボンネットの塗装が削れてガリガリと音を立てる。その音で正気に戻ったのか、ラルフの足元で男が悲鳴を上げた。
「お、おい。あれは普通の中古でも3万ドル以上で売れる車だぞ! それをあんな……! あああ、あれは特別オーダーのチューニングを済ませてもうすぐ納品なのに! 改造に2ヶ月掛かったんだぞ!? いくらの品物だと思ってるんだ!?」
「命よりゃ安いだろ、おっさん」
「き、き、貴様……!」
貴様、である。ついにビジネス用の笑顔も腰の低さも吹き飛んだ。唾というか泡というか、口から何か飛ばしまくりながら、男はラルフに食って掛かる。相変わらず腰を抜かしたままだが。
「大体、貴様は突撃兵だろうが! 完全攻撃型だろうが! それがこんなところに閉じこもってどうする気だ!? この中は弾薬だらけなんだぞ!? 外から一発打ち込まれたら終わりだぞ!!」
「撃てねえよ。こいつがいる間はな」
ラルフはひょいとレオナを指差す。そのレオナもバリケード作りに奔走していた。
「娘取り返しに来て、その娘を殺すような真似する訳ないだろ。少なくとも篭城してる間は負けねえよ」
「負けないだけだろう? 勝てないまま、一生この中にいるつもりか!? 先手を打って出鼻をくじくならともかく、お前がディフェンスに回ってあのハイデルンに勝てるとでも思ってるのか!? こんなところにバリケード作ったところで、所詮袋のネズミだ。じわじわと弱らされて捕まるだけだ。八方ふさがりじゃないか!!」
「いやいや、いいんだよこれで――おい、そっちどうだ? バリ組めたか?」
「完璧ですよ、袋のネズミどころか気密室の細菌並にきっちりです」
「オーケイオーケイ、ばっちりだな。C班、どうだ?」
「標的、目視で確認しました! 来ます!!」
「いよいよ来たか」
徐々に深みを増していく緊迫の中、ラルフは一瞬だけ目を閉じた。レオナの視線が、一瞬その瞼の上を掠める。
「野郎ども!」
その声と共に目を開ける。もうほとんど使わなくなった古い言い回しだ。それをラルフは敢えて選んだ。昔はこんな言い方で突撃の意気を煽った。懐かしい言葉だ。
「覚悟はいいか? 今ならまだ降伏できるぜ? 土下座して謝れば、あの人だって命までは取らねえだろ」
「何を今更」
古参の1人が笑う。
「俺らはそれで助かっても、あんたは間違いなく殺されるじゃないですか。1人で天国に行こうだなんて、虫がいいこと考えてんじゃないですよ」
「馬鹿、俺が天国なんぞ行けるか。良くて地獄だ――だが、よく言った。行くぞ!」
戦闘開始を宣言する声。それに合わせて、全員が小銃を構えた。
もう言葉も出ずに硬直していた男と、その部下たちに向かって。
「……へ?」
男の間の抜けた声を責めるのは、少し酷だったかもしれない。
「無駄な抵抗するなよ? 袋のネズミ、いや気密室の細菌だったか? どうせもう逃げ道なんかねえんだ。おいC班、そっちどうだ?」
『本体との合流完了しました。逃げた子飼いの連中も漏らさず捕まえましたよ。ここ以外の倉庫も全部、本隊が制圧済です』
「よーしよし、上出来だ。今夜はいい夢見れるぞ」
わっと上がった歓声からたっぷり数十秒置いて、やっと男は正気に戻った。
「計ったなラルフッ……!」
「ハハッ、いい芝居だっただろ?」
やっと飲み込めた。ラルフの離反も嘘。ハイデルンとの対決も嘘。全て嘘だ。
「まったく苦労させられたよ、あんたにゃ。あんたんとこのマーケットを潰してくれって依頼は前から受けてたんだが、また随分かかったもんだ。あんた1人吊るしても商品が残ってりゃ誰かが後釜に座っちまうだけだろ?だから倉庫全部押さえちまいたかったんだけどよ、この武器庫だけがどうしても見付からなくてなあ。情報部もお手上げで、それでこの大芝居だ。素直に俺に武器を売ってもアウト、教官に俺を売ってもこうしてアウトって訳」
「それじゃ駆け落ちってのも……」
「もちろん嘘。あいつが親元離れる理由が必要だっただけだっつーの。それともあれか? あんた本気で俺が、あんな油も乗ってないようなヒヨコ食っちまったと思ったか?」
何もかも芝居の台本だ。だが、ラルフの台本に離反の理由は必要はない。永遠のナンバー2だの使いっ走りだのと適当に言っておけば、相手が勝手に納得してくれる。
クラークは元々、ハイデルンの部下としてよりラルフの相棒と見られているし、部下たちの行動も地位だの金だの酔狂だのでいくらでも説明できる。だから特別な台本は何もいらない。
レオナにだけは、それが必要だった。
「普通に考えたら、あいつは父親のところに残る組じゃねえか。よっぽど外そうかとも思ったんだが、あれで結構仕えるし、女じゃないと入り込めない場所があるかもしれないだろ? どうにも仕方がねえから、駆け落ちなんて馬鹿な噂を流したんだよ」
ラルフは半月前、この作戦の計画書をハイデルンに提出した時のことを思い出す。あの時は正直、その場で殺されても仕方がないと腹を括っていた。
自分の素行の悪さは自覚している。それが「あなたの大事な娘さん(嫁入り前)と駆け落ちの芝居をします」と言ってきて、顔をしかめない父親はいないだろう。挙句の果てに、「駆け落ちした恋人同士が、別の部屋、別のベッドで1人寝では芝居じゃないかと疑わるので、ホテルの部屋はダブルにします。ひとつベッドで寝ます」と来たら尚更だ。だが、そんな手しかもうなかったのだ。
散々悩んで書き上げた計画書を、ハイデルンは意外にもほんの少し眉をひそめただけで通した。何か天変地異の前触れじゃないかとうぐらいにラルフは驚いたものだが、考えてみればレオナとは戦場ではいつも同じテントで雑魚寝の仲だ。それがベッドに変わるだけのことで、ハイデルンの軍人としての仕事意識が私情を抑えてしまえば、別に何という話でもない。もちろん、作戦の遂行中に何かやらかしたとか、ラルフが少しでもそんな下心をちらつかせればタダでは済まないだろうが。
それはラルフも重々承知の上で、だからこそラルフは馬鹿な芝居の代償を嫌というほど支払うハメになった――連日の悪夢と、それによる睡眠不足がそれだ。
「しかし参った参った。あいつと雑魚寝なんていつものことだし、それがベッドになるぐらいなんてことねえだろうと思ってたんだが、結構話が変わるもんなんだな。寝ようとする度に、こいつのおっかない親父の顔がちらついて眠れやしねえ。夢にまで出てきやがるんだぜ? お陰ですっかり睡眠不足だよ俺は」
ラルフの目の下のクマは一層濃くなって、ひどくやつれたという印象が強い。艶っぽい話ではないとネタばらしされたせいで、それはすっかり中間管理職の悲哀の色を強めていた。
「ったく、なんで俺が毎晩そんな目に合わなきゃならねえんだ。これが下心のひとつでもあって後ろ暗いってならともかくよ」
下心があったら、こんな作戦は思い付いてもとてもじゃないが実行する気にはなれない。ラルフだってまだまだ命は惜しい。
「大体あいつなんざ、ヒヨコだか小骨ばっかり多い小魚みたいなもんで、食うとこなんてありゃしねえ。まあ将来はそれなり美人になりそうだけどよ、今はちっとばかり見た目が綺麗なだけのガキじゃねえか。その上無愛想で無表情で」
だが、今夜でこの悪夢ともおさらばだ。その開放感がラルフを饒舌にさせる。
「でもあれで笑うと結構可愛いんだけどよ。寝顔も良く見りゃ悪くなかったし……って何言ってんだ俺は。それはともかく、最近は香水なんか着けても似合うぐらいには色気づいたかもしれないが、まだまだこど……もで……」
何か余計なことをひとつふたつ言ったところで、ラルフの言葉が途切れた。
「……レオナ、お前、ちょっと来い」
手を止めて首を傾げるレオナに、ラルフはちょいちょいと手招きした。作戦前にシャワーを浴びたのと、武器庫の中の火薬とオイルの臭いでだいぶ分かりにくいが、それでもラルフの嗅覚は、ほんの僅かに残るレオナの匂いを捕らえた。あの香水の匂いだ。
「お前その香水」
香水。何かが引っかかる――何かが匂うのだ。
「確か、教官から貰ったって言ってたよな?」
「ええ、そうだけれど」
「銘柄は?」
「G社の”Rhapsody”。それが?」
それを聞いた瞬間、ラルフは遠のきそうになった意識を繋ぎとめるのに必死になった。
”Rhapsody”。老舗G社が随分昔に売り出したその香水は、情熱的な名前とは裏腹に落ち着いた香りで、男女を問わず長い間親しまれている銘柄だ。ラルフの身近にも、何人か愛用している者がいる。
そう、例えばハイデルンだとか。
ハイデルンには少し若過ぎる香りだが、妻子を亡くした時から身を飾るとかそういうことに対することに興味を持つ余裕のなかった男だ。10年前から同じ香りを身に着けていたとしても誰も責められまい。
もしかすると、妻と揃いの香りだったのかもしれない。それなら尚更変えられないだろう。
そして娘の誕生日に、そろそろ年頃なのだから香水でもと贈ろうとして、しかし最近の香水の銘柄などわからず悩み、結局自分と同じものを渡したとしても、不器用な養親を誰が責められるだろうか。
いや、果敢にも責めた者がいた。
「何考えてんだあの人はああぁぁっ!」
ラルフの口から出たのはそこまでだが、心の中では更に続いた。あの人がそんな甘い考えでいるわけがあるか。本当にそう思ってるなら俺のこの睡眠不足のクマを見ろ、粟立った肌を見ろ。それから母国に戻って新兵訓練からやり直せ!
レオナから香るハイデルンの匂い。それ以上の「悪い虫除け」はない。抱き寄せて口説こうとした瞬間に、相手の父親の顔が思い浮かぶのだ。それで萎えない男はいない。萎えるどころの騒ぎではない。
だからあの悪夢には、声も姿もなかったのだ。感じるのはただ匂いだけ。ハイデルンの匂いだけが、ずっとラルフを監視していたのだ。
それであの人はあんなにあっさりとこの計画を承諾したのかと、ラルフはようやく理解した。間違いなど絶対に起らないと、ハイデルンは確信していたのだ。
猛烈な睡魔とやり場のない怒りに襲われて、ラルフはいっそその場に昏倒して、眠りの世界に逃げたかった。
後日、ラルフが別の香水をレオナに押し付けたのは言うまでもない。
頼むからもう勘弁してくれ、と。
ラルフは短くなった煙草を消そうとして、灰皿にそのスペースがないことに気が付いた。この数時間、ほとんど途切れることなく吸い続けた煙草の吸殻が、既にうず高く積まれている。
レオナが振り向く。その拍子に、煙草とは違う匂いが僅かに香った。それがレオナが着けている香水だと気付くのに、さして時間はかからなかった。
「お前、こないだの誕生日でいくつになったっけ」
「18」
18か。それなら香水ぐらい着けてもい頃だ。ラルフは足元の、水を張った金バケツ――吸殻専用のゴミ箱に吸殻の小山を放り込んだ。ついでに今の煙草もその中に放る。
決断を。煙草の火の消える小さな音に、そう言われた気がした。
ラルフは追い詰められている。状況を打開する方法はあった。馬鹿な話だとも無謀な話だとも思うが、そうすれば何とかできるという自信はあった。
だが、あまり良い手段とも思えなかった。何か別の手があるならその方が良かった。何かないかと灰皿の中身を3回空にするまで考えたが思いつかない。となれば、後はラルフが腹を括るしかなかった。
決断を。
「18なら、一度ぐらいそういうことがあっても悪くないだろ」
ラルフは言い訳のように呟いた。香水が似合う歳なら、そういうこともなくはないだろう。西陽で赤く染まった部屋の天井付近には、換気扇の容量を超えた白煙が残って霞のように広がっている。
レオナはその夕陽の中で、じっとラルフを見つめていた。レオナも待っている。決断を。
夕陽がレオナの頬を赤く染めている。普段熱にも興奮にも無縁のレオナに、それは不似合いな色だったかもしれない。だが、だからこそ、ラルフはその赤に背を押された。赤というのはそういう色だ。
そしてラルフは、ついに決断の言葉を口にした。
「駆け落ちしよう、レオナ」
「駆け落ちと聞いておりましたが、その割には随分と大所帯ですな」
死神からその娘を攫ったという噂で更に名高くなった伝説の傭兵の後ろには、その腹心の部下たちがずらりと顔を並べていた。ラルフ直下の部隊全員が揃っている。
「義理堅い連中でな。俺が部隊を出るって言ったら、なんだかんだで全員ついて来やがった。迷惑な話だ。まさかほっとくわけにも行かねえから、こいつら全員の面倒を見なきゃならねえ。まったく、心労でやつれちまったぜ」
迷惑といいながら、ちっともそんな風に見えない顔で笑いながら、ラルフはつるりと自分の顔を撫ぜた。確かに目の下にはクマができているし、顔色も少し悪い。なのにちっとも苦労しているとか大変そうに見えないのは、隣に座った少女のせいだろう。
21も年下の恋人を作った男が、寝不足らしい顔をしてやつれている。それを見て猥雑な連想をする者は少なくないだろう。事実、ラルフの目の前にいる小太りの男は、腹の内では毎晩ご盛んなことで、と呟いていた。実際に口に出したのは、商売用の笑顔と当たり障りのない質問だったが。
「ほうほう、で、どちらへ? このまま田舎に引っ込んで、皆さんで養蜂業でもないでしょう?」
脂肪の詰まって膨れた腹を揺らしながらにこにこと笑う姿だけ見ていれば、小さな会社を取り仕切るのに懸命で、食事に気を遣う余裕もなく気が付けば肥満体、来週からジムに通おうかそれともダイエットサプリでも飲もうかと考えていそうなどこにでもいる中年男だ。
だがこの男の商売は、見た目ほど平凡ではなかった。地下マーケットの経営である。美術品から麻薬からワシントン条約級の希少動物、人間、もちろん銃器兵器まで、金になるなら何でもござれだ。まあそれぐらいの男でなければ、どこかぴりぴりと神経を張り詰めさせた歴戦の傭兵達を前にして、平然と冗談など出せやしまい。
男は、ラルフたちがどこかで新しい傭兵部隊を作るものだと思っていた。ラルフの名前を出せば、どこに行っても仕事には困らないだろう。何しろハイデルン傭兵部隊のナンバー1実働部隊だ。
問題は、どこで仕事を始めるかだ。ステイツから南米に掛けての仕事は、ほとんどハイデルンの部隊が抑えている。そこに割り込むのは難しいし得策ではない。となると、ラルフの行き先はアフリカか、それとも中東辺りか。
だが、ラルフの答えは男の予想を裏切った。
「ブラジルだ。ブラジルに戻る」
その声は確固として揺ぎない。同じように、青い髪の少女の表情も微動だにしなかった。レオナだけではない、部隊の全員が、朝食のメニューを聞くのと同じぐらい平然とそれを聞いていた。
顔色を変えたのは、部外者である男だけだ。
「うちの部隊――いやもう、うちじゃねえな。ハイデルンが抱えてるコネだの金脈だの、あの辺がちっと惜しくてな。退職金というか手切れ金というか、どうせなら受け取りてえじゃねえか」
「正直、あなたにまだそこまでの気骨があるとは思っておりませんでしたよ。最近ではすっかり丸くなって、上手く飼いならされていると思っておりました」
「俺はギースのところの忠犬とは違うさ。それに、いい加減に使いっ走りでも、ナンバー2って歳でもねえだろ」
ふふんともう一度笑って見せて、それからラルフは少し目を細めて、昔を見る顔をした。
「それに俺はもう一度、あの人と正面からやり合ってみたいと思ってた。もう一度、な」
あの人、という言葉にラルフとハイデルンの10年が色濃かった。
ラルフがハイデルンを倒して名を上げることを目的に、傭兵部隊に近付いたというのは割と有名な話だ。結局その望みは一度も叶わないまま、やがてラルフはハイデルンという人物に心惹かれ、その部隊に入ることになる。だが、10年前のその熱は、ラルフの中で未だ失せていなかったらしい。
内乱のように部隊の中から反旗を翻すのではなく、わざわざ一度外に出てからぶつかりに行くのは、まさにその炎の再燃か。
「これ以上の説明はいらないな? 武器がいる弾がいる足がいる。揃えてくれ。金はいくらでも、とは言わねえが、まあその後のビジネス込みで悪い話じゃねえだろ」
今後贔屓にさせてもらうぜと言外に含めながら、ラルフはもうひとつ付け加えた。
「それにあんた、ハイデルンの娘煩悩、聞いたことがあるか?」
「……噂には」
あの冷静沈着で知られるハイデルンが、こと娘のことに関してだけはおかしくなる。死んだ娘の分、いや妻の分まで合わせて3人分の愛情と思い入れと、おまけに他人の娘を預かり育てているという、男同士の約束のような(ハイデルンは生前のレオナの父に会ったことはないのだが)意地もあるのか、とにかくレオナに対することでの暴走は尋常ではない。その噂は、男も聞いたことがあった。
それでも、まさかと思っていたのだ。あのハイデルンに限ってそんな馬鹿な話が。せいぜい世間の子煩悩と同じぐらいだろう。大体にして、年頃の娘を持った父親というのは神経質なものだ。それがこんなに綺麗なお嬢さんで、しかも男集団の中で立ち働いているのなら当然だろう。その程度の話に尾ひれが付いているんじゃないのか?
だが、またも男の予想は覆された。
「あの人、娘のためなら大陸間弾道弾だろうが軍事衛星だろうが持ち出すぜ」
そんな馬鹿な、と思った。あのハイデルンが。だが、ラルフを初め、部隊の全員の顔から笑みが引いているのを見て、男はそれが事実だと悟った。ぽつりと付け加えられたレオナの言葉が駄目押しだった。
「そうじゃなきゃ……駆け落ちなんてしない」
この寡黙な少女がこんなタイミングで冗談を言うようには思えず、男の顔色はたちまちレオナの髪と同じ色になった。
あのハイデルンに虫けらのように駆逐されたいか?――否。
ハイデルンから娘を奪った裏切り者に武器を売った愚か者として一生付け狙われたいか――否。
男は今すぐにこの商談を打ち切って、この場から逃げ出したいと心底願った。だが、もう遅い。やっとわかった。ラルフが単身ではなく、腹心数名のみを連れてくるのでもなく、わざわざ部隊全員を連れてこの場に現れた理由が。
目立ちたかったのだ。ハイデルンに自分はここにいる、ここで武器を買うと気付かせたかったのだ。逃げようにももう遅い。ハイデルンはここにやってくる。娘以外は皆殺しにする勢いでやってくる。
死にたくなければ、それに対抗できる勢力を味方につけるしかない。つまり、ラルフに武器を用意するしかない。図ったなラルフ・ジョーンズ。
それでも男はその怒りを顔には出さず、精一杯の営業スマイルを浮かべて見せた。
「それでは急いでご用意しなければなりませんなあ。3日でいかがですか?」
「2日」
「2日と半では?」
「いや2日だ」
「最善の努力はさせていただきますよ」
「OK」
傭兵のなりをした疫病神は、不本意な共同戦線を組まされた男と握手をすると、ぞろぞろと部屋を出て行った。皆、この街のホテルに身を潜めているのだという。
これだけの人数が唐突に訪れて同じホテルに滞在していても目立たないのは、この街が観光地としても栄えているからだ。それを逆手にとって闇の商売を続けていたことを、男が後悔したのは後にも先にもこの時だけだった。普段は後悔どころか、扱っている商品に対して良心に1mmの揺らぎも覚えない。
傭兵達が出ていくの見送るのもももどかしく、男はすぐに部下の1人を部屋に呼んだ。普段は仕入れを任せている男で、情報の収集力にも交渉にも有能な部下だ。
「ハイデルンに連絡を入れろ。ルートがない?それなら今から作れ。死にたくなければ24時間以内にやるんだ。そうでないとドンキホーテと心中することになるぞ。いいか、ラルフがここにいるとハイデルンに知らせるんだ。奴の協力者と思われる前に、ハイデルンに協力するポーズを取るんだ。それしか生き延びる手はないぞ」
「……ですって」
その声は頭上から降りてきた。目の前にはレオナの白い足首だけがある。
盗聴器の電波が弱くて、部屋の天井近くに受信機を置かないと電波を上手く捕まえられない。部屋を出る前にあらかじめ仕掛けておいたそれと、一応回しておいたボイスレコーダーを回収するべく、レオナは目下テーブルの上だ。
「予想通りの展開ですね」
「予想通りだが気分は悪いな。最初から俺が負けると踏んでやがる。最強の実働部隊が抜けてきたんだ。悪くても戦力は五分と五分だぞ」
「五分と五分なら、あの人が勝つと思ってるんでしょうねえ」
レオナの上ったテーブルを抑えながら、ラルフは苦笑いした。別にラルフが抑えていなくても、レオナがバランスを崩して落ちるようなことはないだろうが、まあ保険のようなものだ。クラークも一応、その保険に参加している。男2人が支えるテーブルの上で背を伸ばし、腕を高く差し上げたレオナの姿は、ちょっと変わったダンスのようにも見える。
「ま、予想通りってことは、こっちも計画通りに進めりゃいいってだけのことだ。あいつが今から必死こいてあの人に連絡を付けるとしても、あの人がこっちに着くまで6時間はかかる。それまでこっちは寝られるってこった。クラーク、通達頼む」
「了解」
と、テーブルから手を離そうとして、クラークの動きがふと止まった。
「レオナ、お前香水着けてるか?」
「……匂う?」
伸び上がった姿勢はそのままで、レオナは首だけを傾げる。
「マニュアル通りに着けたつもりだけど、強すぎた?」
化粧や香水の着け方も女らしい楽しみで覚えたのではなく、マニュアルで学んだのかと少し呆れながら、クラークは首を振った。レオナはきっと、毒薬でも調合するような顔をして香水瓶を傾けるのだろう。
「いや、多過ぎってことはないだろう。マニュアル通りなら、足首あたりにでも着けたんだろ? ちょうど目の前に来たから匂ったんだな」
「そうなんだよ、こいつ最近香水なんか着けるようになったんだぜ」
「なんだ、ラルフが寄越したんじゃないのか」
「違うわ」
お前ももういいぞ、とラルフに手招きされ、レオナは身軽にテーブルから飛び降りた。軽業師としては筋肉が多過ぎて重いはずなのに、レオナはほとんど音を立てずに床に降り立つ。
「お前も18ならそれぐらいの嗜みは、ってこの間の誕生日に父が」
それを聞いてラルフが苦い顔をした。自分が掻っ攫った娘の口から、父親の話を聞きたいとは普通思わない。それを誤魔化すように、ラルフは早口で指示を出す。
「とにかく、最後の休憩タイムだ。5時間後に例の場所に集合、それまで各自寝るなり食うなりしとけって皆に言ってくれ」
「了解。お前も遊んでないで良く寝とけよ、ラルフ」
「大きなお世話だっ!」
ひらひらと手を振って出て行くクラークにラルフは短く怒鳴ったが、寝不足で目の下のクマの濃い顔では迫力に欠ける。どう見たって若い恋人にうつつを抜かして夜も昼もない遊蕩者の顔だ。しかもクラークは長い長い付き合いで、ラルフの怒声になど慣れ切っている。怒鳴り声を柳に風と受け流して、クラークは部屋を出て行ってしまった。
後にはラルフとレオナと、豪奢なホテルに相応しい無駄に大きなベッドだけが残される。ダブルではなく、正方形に近いキングサイズだ。ラルフとレオナはもちろん、クラークまで加えても充分安眠できそうな広いベッドには、真っ白なシーツが敷かれ、心地よい眠りを声高に謳っている。
だが、ラルフはそれを見て大きな溜息を吐いた。年の半分以上は戦場の泥に塗れて眠る男である。本当なら、まともなベッドというだけでも嬉しい。恋人が傍にいるならそれも倍増しになるはずなのだが、今のラルフにベッドは鬼門でしかなかった。
それでもここ数日の睡眠不足は耐え難く、ラルフはベッドに潜り込んだ。数時間後の決戦に備えて、少しでも気力と体力を回復させたい。レオナもそれに従って、ベッドに入る。
闇の中にいた。
何も見えない。何も聞こえない。完全に無音の世界だ。
なのに分かる。何かがこちらに近付いてきている。足音はしない。息遣いも聞こえない。ただ、鬼気迫る気配だけがひたひたと迫ってきている、。
声はなかった。それでも、意思は伝わってきた。
とっさにラルフは横に飛んだ。一瞬遅れて、さっきまで立っていた位置に硬い地面を抉る『何か』を感じる。これも無音だ。
音のない、真空の刃。
それから逃れてラルフは走り続ける。その後ろを、なおも真空の刃が追う。
死神だ。死神がいる。娘を奪われた隻眼の死神が、冷たい怒りだけを道連れに追って来た。
何度目かの真空の刃が、ついにラルフを追い詰める。追い詰められたのは肉体ではなくて精神だ。この状態では勝ち目はないと頭では分かっているのに、足が止まった。拳が動いた。
それは技でもなく、力でもなく、ただ恐怖に突き動かされて放った一撃だった。
だがもちろん、そんなものが当たるはずもなく。
入れ替わるように、無言の死神の手刀がラルフの腹に突き立った。
その瞬間に、目が覚めた。冷や汗でシーツまでじっとりと湿っている。
部隊を出てからと言うもの、毎晩のように見る悪夢だ。お陰でここのところ、ラルフは熟睡というものに縁がない。
長年の傭兵としての暮らしは、ラルフに銃弾が飛び交う中ですら眠る術を授けていた。深い眠りの休息と夢うつつの警戒、急激な覚醒のスイッチを巧みに切り替えれば、どんな激戦地でも最低限の睡眠と体力は維持できる。
そのラルフが、睡魔に見放された。ベッドに入れば、やって来るのは穏やかな眠りではなく死神の夢だ。
ふと気が付くと、レオナが横になった姿勢はそのまま、じっとこちらを見ていた。
「……うなされていたわ」
「起こしちまったか? すまねえな」
「平気。どちらにしてもそろそろ時間だし」
言われて外さずに寝た腕時計を見ると、確かにそろそろ準備を始めてもいい時間だ。するりとレオナがベッドを抜け出す。
「着替える前に、シャワー浴びてくる」
「了解」
眠れなかった分、ほんの僅かな時間でも体を休めておこうとラルフは寝返りを打って枕に顔をうずめた。寝なくても横になっていれば少しは違う。
自分の寝汗で気分の悪い辺りから、さっきまでレオナが寝ていた辺りにずれると、自分のそれとは違う体温と香りがラルフを包む。それは嫌な感触ではなかったが、先程の悪夢をラルフの意識の表層に引きずり出すきっかけにもなった。
「さっさとケリを付けねえとな」
ぽつりと呟いた声は、レオナの使うシャワーの音に掻き消された。
この騒動にきっちりと決着を付けなければ、自分は永遠にあの悪夢から逃れられない。ラルフはそれを自覚している。夢の元凶になっているのはこの状況だ。この状況そのものを根本的に変えなければ、あの夢はいつまでも自分を追ってくる。
だから、ケリをつける。
ラルフはもう一度腕時計を見た。シャワーを浴びて、気分を切り替えるぐらいの時間はあった。
上掛けを跳ね飛ばしてベッドから降りた時には、ラルフはもういつもの顔に戻っていた。
男の失敗は、手段を選ばなかったことだった。
とにかくハイデルンに一報をと焦るあまり、直接連絡を取ってしまったのがそもそもの間違いだ。情報なんぞネットにでも上手く流せば、向こうが勝手に拾ってくれる。そう考える余裕がなかった。
失敗した、とやっと男が自覚したのは、電話の向こうから隻眼の傭兵隊長の暗い声が聞こえてからである。暗い怒りに染まった声だった。
「今しばらくの間、奴の話に乗ったふりをしてもらいたい」
協力を仰ぐと言うより、軍隊式の命令口調に近い物言いに文句も言えなかった。
男の脳裏に、ラルフの言葉が甦る。『あの人、娘のためなら大陸間弾道弾だろうが軍事衛星だろうが持ち出すぜ』 それが洒落でも冗談でもないことを、男はもう一度思い知らされた。
「貴方が逃げれば、奴はそれで異変に気付く。そういう気配には鼻が利く男だ。そうなれば、我々がそこに辿り着く前に奴は逃げてしまうだろう。だから、今しばらくは奴の協力者のふりをしていてもらいたい」
自分が到着するまでラルフ達を逃がすな、時間を稼げ、と言うことだ。
嫌も応もなく、電話に向かって相手には見えもしない頷きとお辞儀を何度も繰り返し、やっとのことで受話器を置くと、今度はドアが招かざる来訪者を告げる音を立てた。
ノックではない。蹴破られた。
「教官殿も部外者にずいぶんキツい命令をするもんだ。部外の協力者はもっと大事に扱わなきゃいけねえよなあ?」
笑うラルフの後ろで、男の部下や用心棒たちが両手を挙げていた。ラルフの部下たちに銃を突きつけられている。ハイデルンへの連絡を命じた男もいた。何もかもばれている。
「それでおっさんよ。この場で俺に殺されるのと、後であの人に殺されるの、どっちがいい?――ってのは冗談としても、だ」
完全武装して、小銃片手に笑うラルフに言われても、ちょっと冗談には聞こえない。
ラルフだけではない。ハイデルンから離反した部隊の全員が揃っている。その全員が武装済みだ。運搬に手のかかる重火器はともかく、個人の兵装は使い慣れたものを持ち出したのだろう。使い込まれた小銃が鈍い光を放っていた。
「悪いことは言わねえ、とりあえずは俺らに協力しとけ。俺らが勝てば今後もステキなビジネスパートナー、あの人が勝ったら『脅されて仕方なく』って言っとけよ。少なくともそれで、命の保証はされるぜ?」
「きょ、協力って……」
「最初の話どおり、武器を寄越してくれりゃあいいのさ。あの人と戦争するのに、この装備だけじゃちっと心もとねえ」
「い、嫌だと言ったら?」
「――あんた、人間の体に骨が何本あるか知ってるか?」
誰に呼ばれた訳でもないのに、レオナが一歩前に進み出る。
「関節はいくつあると思う? 爪は数えるまでもなく20枚だな。内臓は? 粘膜の数は?」
男はその時ラルフではなく、後ろに控える傭兵達でもなく、ただ1人無表情を崩さぬ少女を見ていた。
隻眼の死神が猟犬を飼ったらしい。主人の他にはどこの誰にも尻尾を振らないが、艶々した青い毛並みが綺麗な犬だそうだ。その鋭い牙は顎じゃなくて両手にあって、主人が命令すればいくらでも敵の命を狩って来る――死神の猟犬。そんな二つ名で呼ばれたことさえある少女が、自分に情けを掛けるだろうか。
否。使い古された脅し文句でさえ生易しいぐらいの非情さで、この少女は自分を脅しにかかるに違いない。爪を剥ぎ骨を折り関節を潰し、内臓を粘膜をこれ以上ないぐらい見事な手際で傷付けて、愛する男の言うことを聞けと囁くだろう。
男に選択の余地などなかった。
「こりゃ大したもんだ。これだけありゃ、どこか小さな国のひとつやふたつ乗っ取れそうだな」
ずらりと火器を並べた倉庫に、ラルフは素直に感嘆して見せた。
男は商品の一部を、いつも近くに置いていた。ほとんどの商品が、長くても数時間で準備できるようにしてある。急ぎの客のためだ。
武器も同じだった。ほんの30分もあれば行ける場所に、一見中古車ディーラーの工場兼倉庫に見せかけた武器庫を持っている。商品の中でもとりわけ近くに置いてあるのは護身のためでもあった。
そういう用心と気遣いが、この男を一代で地下マーケットのトップに押し上げたのだ。だが、今回ばかりはその用心がかえって首を絞めている。
「しかし上手く隠したもんだ。通りで見付からないはずだぜ」
いやいや参ったとばかりに顔を竦めてラルフは笑って見せたが、男にそれに応える余裕はない。自分が危うく、九死に一生を得たことに気付いたためだ。
ラルフは武器庫を探していた。それはおそらく、自分との交渉が決裂したら、殺してでもこの武器を奪い取るつもりでいたからに違いない。むしろ生かしておく理由がない。どうせ裏切り者だ。
どうやっても見付からなかったから、脅迫だけで済んだのだ。死線のほんの一歩手前で、男は危うく踏みとどまっていた。
その一方で、傭兵たちは死線へと踏み出すために慌しく動き出す。
「偵察隊と思われる敵影を確認しました――こちら、既に発見されています!」
「ちっ、流石に早いな。おいC班、外に展開しろ。だけどよ、相手はあの化物だ。無理に突っ込むな。ヤバいと思ったら即戻って来い」
「了解」
「残りは篭城の準備だ。入り口にバリケード作れ。C班が戻れるように一箇所残して、後の隙間は全部塞げ!」
流石に手馴れたもので、傭兵たちは手早くバリケードを組み上げていく。材料は、本来これも売り物の中古車やらだ。
新車同様に磨き上げられた車の上に、乱雑に、しかし巧みにガラクタが積み上げられていく。その隙間に火器の砲身がねじ込まれ、ボンネットの塗装が削れてガリガリと音を立てる。その音で正気に戻ったのか、ラルフの足元で男が悲鳴を上げた。
「お、おい。あれは普通の中古でも3万ドル以上で売れる車だぞ! それをあんな……! あああ、あれは特別オーダーのチューニングを済ませてもうすぐ納品なのに! 改造に2ヶ月掛かったんだぞ!? いくらの品物だと思ってるんだ!?」
「命よりゃ安いだろ、おっさん」
「き、き、貴様……!」
貴様、である。ついにビジネス用の笑顔も腰の低さも吹き飛んだ。唾というか泡というか、口から何か飛ばしまくりながら、男はラルフに食って掛かる。相変わらず腰を抜かしたままだが。
「大体、貴様は突撃兵だろうが! 完全攻撃型だろうが! それがこんなところに閉じこもってどうする気だ!? この中は弾薬だらけなんだぞ!? 外から一発打ち込まれたら終わりだぞ!!」
「撃てねえよ。こいつがいる間はな」
ラルフはひょいとレオナを指差す。そのレオナもバリケード作りに奔走していた。
「娘取り返しに来て、その娘を殺すような真似する訳ないだろ。少なくとも篭城してる間は負けねえよ」
「負けないだけだろう? 勝てないまま、一生この中にいるつもりか!? 先手を打って出鼻をくじくならともかく、お前がディフェンスに回ってあのハイデルンに勝てるとでも思ってるのか!? こんなところにバリケード作ったところで、所詮袋のネズミだ。じわじわと弱らされて捕まるだけだ。八方ふさがりじゃないか!!」
「いやいや、いいんだよこれで――おい、そっちどうだ? バリ組めたか?」
「完璧ですよ、袋のネズミどころか気密室の細菌並にきっちりです」
「オーケイオーケイ、ばっちりだな。C班、どうだ?」
「標的、目視で確認しました! 来ます!!」
「いよいよ来たか」
徐々に深みを増していく緊迫の中、ラルフは一瞬だけ目を閉じた。レオナの視線が、一瞬その瞼の上を掠める。
「野郎ども!」
その声と共に目を開ける。もうほとんど使わなくなった古い言い回しだ。それをラルフは敢えて選んだ。昔はこんな言い方で突撃の意気を煽った。懐かしい言葉だ。
「覚悟はいいか? 今ならまだ降伏できるぜ? 土下座して謝れば、あの人だって命までは取らねえだろ」
「何を今更」
古参の1人が笑う。
「俺らはそれで助かっても、あんたは間違いなく殺されるじゃないですか。1人で天国に行こうだなんて、虫がいいこと考えてんじゃないですよ」
「馬鹿、俺が天国なんぞ行けるか。良くて地獄だ――だが、よく言った。行くぞ!」
戦闘開始を宣言する声。それに合わせて、全員が小銃を構えた。
もう言葉も出ずに硬直していた男と、その部下たちに向かって。
「……へ?」
男の間の抜けた声を責めるのは、少し酷だったかもしれない。
「無駄な抵抗するなよ? 袋のネズミ、いや気密室の細菌だったか? どうせもう逃げ道なんかねえんだ。おいC班、そっちどうだ?」
『本体との合流完了しました。逃げた子飼いの連中も漏らさず捕まえましたよ。ここ以外の倉庫も全部、本隊が制圧済です』
「よーしよし、上出来だ。今夜はいい夢見れるぞ」
わっと上がった歓声からたっぷり数十秒置いて、やっと男は正気に戻った。
「計ったなラルフッ……!」
「ハハッ、いい芝居だっただろ?」
やっと飲み込めた。ラルフの離反も嘘。ハイデルンとの対決も嘘。全て嘘だ。
「まったく苦労させられたよ、あんたにゃ。あんたんとこのマーケットを潰してくれって依頼は前から受けてたんだが、また随分かかったもんだ。あんた1人吊るしても商品が残ってりゃ誰かが後釜に座っちまうだけだろ?だから倉庫全部押さえちまいたかったんだけどよ、この武器庫だけがどうしても見付からなくてなあ。情報部もお手上げで、それでこの大芝居だ。素直に俺に武器を売ってもアウト、教官に俺を売ってもこうしてアウトって訳」
「それじゃ駆け落ちってのも……」
「もちろん嘘。あいつが親元離れる理由が必要だっただけだっつーの。それともあれか? あんた本気で俺が、あんな油も乗ってないようなヒヨコ食っちまったと思ったか?」
何もかも芝居の台本だ。だが、ラルフの台本に離反の理由は必要はない。永遠のナンバー2だの使いっ走りだのと適当に言っておけば、相手が勝手に納得してくれる。
クラークは元々、ハイデルンの部下としてよりラルフの相棒と見られているし、部下たちの行動も地位だの金だの酔狂だのでいくらでも説明できる。だから特別な台本は何もいらない。
レオナにだけは、それが必要だった。
「普通に考えたら、あいつは父親のところに残る組じゃねえか。よっぽど外そうかとも思ったんだが、あれで結構仕えるし、女じゃないと入り込めない場所があるかもしれないだろ? どうにも仕方がねえから、駆け落ちなんて馬鹿な噂を流したんだよ」
ラルフは半月前、この作戦の計画書をハイデルンに提出した時のことを思い出す。あの時は正直、その場で殺されても仕方がないと腹を括っていた。
自分の素行の悪さは自覚している。それが「あなたの大事な娘さん(嫁入り前)と駆け落ちの芝居をします」と言ってきて、顔をしかめない父親はいないだろう。挙句の果てに、「駆け落ちした恋人同士が、別の部屋、別のベッドで1人寝では芝居じゃないかと疑わるので、ホテルの部屋はダブルにします。ひとつベッドで寝ます」と来たら尚更だ。だが、そんな手しかもうなかったのだ。
散々悩んで書き上げた計画書を、ハイデルンは意外にもほんの少し眉をひそめただけで通した。何か天変地異の前触れじゃないかとうぐらいにラルフは驚いたものだが、考えてみればレオナとは戦場ではいつも同じテントで雑魚寝の仲だ。それがベッドに変わるだけのことで、ハイデルンの軍人としての仕事意識が私情を抑えてしまえば、別に何という話でもない。もちろん、作戦の遂行中に何かやらかしたとか、ラルフが少しでもそんな下心をちらつかせればタダでは済まないだろうが。
それはラルフも重々承知の上で、だからこそラルフは馬鹿な芝居の代償を嫌というほど支払うハメになった――連日の悪夢と、それによる睡眠不足がそれだ。
「しかし参った参った。あいつと雑魚寝なんていつものことだし、それがベッドになるぐらいなんてことねえだろうと思ってたんだが、結構話が変わるもんなんだな。寝ようとする度に、こいつのおっかない親父の顔がちらついて眠れやしねえ。夢にまで出てきやがるんだぜ? お陰ですっかり睡眠不足だよ俺は」
ラルフの目の下のクマは一層濃くなって、ひどくやつれたという印象が強い。艶っぽい話ではないとネタばらしされたせいで、それはすっかり中間管理職の悲哀の色を強めていた。
「ったく、なんで俺が毎晩そんな目に合わなきゃならねえんだ。これが下心のひとつでもあって後ろ暗いってならともかくよ」
下心があったら、こんな作戦は思い付いてもとてもじゃないが実行する気にはなれない。ラルフだってまだまだ命は惜しい。
「大体あいつなんざ、ヒヨコだか小骨ばっかり多い小魚みたいなもんで、食うとこなんてありゃしねえ。まあ将来はそれなり美人になりそうだけどよ、今はちっとばかり見た目が綺麗なだけのガキじゃねえか。その上無愛想で無表情で」
だが、今夜でこの悪夢ともおさらばだ。その開放感がラルフを饒舌にさせる。
「でもあれで笑うと結構可愛いんだけどよ。寝顔も良く見りゃ悪くなかったし……って何言ってんだ俺は。それはともかく、最近は香水なんか着けても似合うぐらいには色気づいたかもしれないが、まだまだこど……もで……」
何か余計なことをひとつふたつ言ったところで、ラルフの言葉が途切れた。
「……レオナ、お前、ちょっと来い」
手を止めて首を傾げるレオナに、ラルフはちょいちょいと手招きした。作戦前にシャワーを浴びたのと、武器庫の中の火薬とオイルの臭いでだいぶ分かりにくいが、それでもラルフの嗅覚は、ほんの僅かに残るレオナの匂いを捕らえた。あの香水の匂いだ。
「お前その香水」
香水。何かが引っかかる――何かが匂うのだ。
「確か、教官から貰ったって言ってたよな?」
「ええ、そうだけれど」
「銘柄は?」
「G社の”Rhapsody”。それが?」
それを聞いた瞬間、ラルフは遠のきそうになった意識を繋ぎとめるのに必死になった。
”Rhapsody”。老舗G社が随分昔に売り出したその香水は、情熱的な名前とは裏腹に落ち着いた香りで、男女を問わず長い間親しまれている銘柄だ。ラルフの身近にも、何人か愛用している者がいる。
そう、例えばハイデルンだとか。
ハイデルンには少し若過ぎる香りだが、妻子を亡くした時から身を飾るとかそういうことに対することに興味を持つ余裕のなかった男だ。10年前から同じ香りを身に着けていたとしても誰も責められまい。
もしかすると、妻と揃いの香りだったのかもしれない。それなら尚更変えられないだろう。
そして娘の誕生日に、そろそろ年頃なのだから香水でもと贈ろうとして、しかし最近の香水の銘柄などわからず悩み、結局自分と同じものを渡したとしても、不器用な養親を誰が責められるだろうか。
いや、果敢にも責めた者がいた。
「何考えてんだあの人はああぁぁっ!」
ラルフの口から出たのはそこまでだが、心の中では更に続いた。あの人がそんな甘い考えでいるわけがあるか。本当にそう思ってるなら俺のこの睡眠不足のクマを見ろ、粟立った肌を見ろ。それから母国に戻って新兵訓練からやり直せ!
レオナから香るハイデルンの匂い。それ以上の「悪い虫除け」はない。抱き寄せて口説こうとした瞬間に、相手の父親の顔が思い浮かぶのだ。それで萎えない男はいない。萎えるどころの騒ぎではない。
だからあの悪夢には、声も姿もなかったのだ。感じるのはただ匂いだけ。ハイデルンの匂いだけが、ずっとラルフを監視していたのだ。
それであの人はあんなにあっさりとこの計画を承諾したのかと、ラルフはようやく理解した。間違いなど絶対に起らないと、ハイデルンは確信していたのだ。
猛烈な睡魔とやり場のない怒りに襲われて、ラルフはいっそその場に昏倒して、眠りの世界に逃げたかった。
後日、ラルフが別の香水をレオナに押し付けたのは言うまでもない。
頼むからもう勘弁してくれ、と。
どうしようもないことなんて、世の中にはいくらでもある。
例えば傭兵なんて職を選んでしまった以上は、ベースボールの試合が9回裏2アウト満塁だろうと、上等のサーロインが目の前でじゅうじゅう焼けていようと、ベッドの上で女とよろしくやっていようと、召集があれば何もかも放り出して駆け付けなければならない。そのまま2ヵ月も海外に飛ばされて、やっとのことで戻って来たらベースボールはシーズンオフだし、女の携帯電話は着信拒否。上等のサーロインに至っては異臭を放つゲル状の物体になっていて、訳のわからない虫がたかっていた。それ以来、ラルフは自宅で料理を作るのを諦めている。
だが、こればかりはどうしようもない。嫌なら傭兵稼業を止めるしかないのだ。
そこまで行かなくても、世の中はどうしようもないことで満ちている。どんなに雨が嫌いでもいつかは雨の日が来るのだし、どんなに金曜日が嫌いでも7日に1度は必ずやってくる。
少し前まではテロ組織の主要人物だったはずの死体を見下ろして、これもどうしようもないことだよなとラルフは溜息を吐いた。
生かして捕らえろ、という命令だった。この男を手がかりに、組織の全容を暴き壊滅させようという計画だったのだ。だが、運悪く流れ弾が当たったらしい。周囲を制圧した時には、男は既に物言わぬ屍になっていた。
乱戦だったしどうしようもねえよな、さて何枚始末書を書いたらいいのやら、と胸のうちで指折り数え始めたところで、悲鳴が上がった。
「――パパ!?」
まだ幼さの残る声だ。男の娘だった。
娘は傭兵たちの姿など見えていないかのように、まっすぐ父親の死体に駆け寄って取り縋る。悲鳴はすぐに泣き声に変わって、ただパパ、パパと繰り返す。
やがて泣き声はそのまま、娘は振り返る。その手に父親の銃を持って。
震える肩でおぼつかなくこちらを狙う前に、手馴れた傭兵がその銃を取り上げる。だがそれだけで治まるはずもない。よくもパパを、と小さな拳を振り上げたところで、誰かが首筋に軽く手刀を落とした。
崩れ落ちる軽い体を支えて、その傭兵はラルフの方を見た。ラルフは無言で後方を指す。外で待機している連中に引き渡して来いということだ。向こうも無言で了解して、娘を抱えて出て行った。たぶん娘は、どこか施設に引き取られて暮らすことになるのだろう。暗い記憶と怒りを抱えたままで。
こういう場面は何度も見たが、だからと言って慣れるものでもない。子供がこちらに向ける暗い怒りの色。あれに慣れてしまったら、自分たちは傭兵だと言えども何か大切なものを失ってしまうのだと思う。だからと言って避けて通れるものでもないから、傭兵たちはいつも無口に、何も見なかったふりをしてその場をやり過ごすことになる。
しかもこちらには、その泣き声に心の傷をひどく抉られるのがいる。青い瞳がいつもより硬く見えるのは、気のせいだけではないだろう。
「私の撃った弾だわ」
レオナは低く呟いた。
レオナがそう言うなら、おそらく間違いないだろうと思った。どんな乱戦の中でも、それなりの技量があるなら自分の弾の行方は把握できるものだ。撃った角度やらタイミングやらで大体のところは掴める。
掛ける言葉は、ちょっと思い付かなかった。
お前の弾じゃねえよと言ったとしても、それはそれこそ気休めにしかならない。生かして捕らえろというものを殺してしまったのだ。責任の所在を明らかにするため、調査が入る可能性は大きい。そうなれば誰の弾が男の命を絶ったのか、確実にわかってしまう。それにラルフのカンも、あれはレオナの弾だと告げていた。そういうカンをラルフは滅多に外さない。
それでもラルフは、レオナの肩をぽんと叩いて、少しだけ笑って見せる。
「どうってことねえよ」
それしか出てこなかった。
そんなはずはない。あの娘はきっと、青い髪の少女のことを忘れないだろう。子供ならではの不可思議な直感で、きっとあの娘は父親を撃ったのはレオナだと確信している。そう、あの暗い目は確かにレオナを見ていた。いつか復讐のために命を狙いに来るかもしれない。もしその時が来たとしたら、レオナはどうするのだろうか。理不尽な力に父を母を奪われて、しかし復讐の対象を持たなかった少女はどうするのだろうか。
もっと現実的な問題もある。現場の指揮を執ったラルフは責任を追及させるだろうし、始末書の枚数も、その後の処理も考えると頭が痛い。レオナにも何らかの処分はあるだろう。この後始末は大変なことになりそうだ。
それでも、繰り返した。
「どうってこと、ねえんだからよ」
我ながらどうしようもない嘘だよな、と思いながら。
例えば傭兵なんて職を選んでしまった以上は、ベースボールの試合が9回裏2アウト満塁だろうと、上等のサーロインが目の前でじゅうじゅう焼けていようと、ベッドの上で女とよろしくやっていようと、召集があれば何もかも放り出して駆け付けなければならない。そのまま2ヵ月も海外に飛ばされて、やっとのことで戻って来たらベースボールはシーズンオフだし、女の携帯電話は着信拒否。上等のサーロインに至っては異臭を放つゲル状の物体になっていて、訳のわからない虫がたかっていた。それ以来、ラルフは自宅で料理を作るのを諦めている。
だが、こればかりはどうしようもない。嫌なら傭兵稼業を止めるしかないのだ。
そこまで行かなくても、世の中はどうしようもないことで満ちている。どんなに雨が嫌いでもいつかは雨の日が来るのだし、どんなに金曜日が嫌いでも7日に1度は必ずやってくる。
少し前まではテロ組織の主要人物だったはずの死体を見下ろして、これもどうしようもないことだよなとラルフは溜息を吐いた。
生かして捕らえろ、という命令だった。この男を手がかりに、組織の全容を暴き壊滅させようという計画だったのだ。だが、運悪く流れ弾が当たったらしい。周囲を制圧した時には、男は既に物言わぬ屍になっていた。
乱戦だったしどうしようもねえよな、さて何枚始末書を書いたらいいのやら、と胸のうちで指折り数え始めたところで、悲鳴が上がった。
「――パパ!?」
まだ幼さの残る声だ。男の娘だった。
娘は傭兵たちの姿など見えていないかのように、まっすぐ父親の死体に駆け寄って取り縋る。悲鳴はすぐに泣き声に変わって、ただパパ、パパと繰り返す。
やがて泣き声はそのまま、娘は振り返る。その手に父親の銃を持って。
震える肩でおぼつかなくこちらを狙う前に、手馴れた傭兵がその銃を取り上げる。だがそれだけで治まるはずもない。よくもパパを、と小さな拳を振り上げたところで、誰かが首筋に軽く手刀を落とした。
崩れ落ちる軽い体を支えて、その傭兵はラルフの方を見た。ラルフは無言で後方を指す。外で待機している連中に引き渡して来いということだ。向こうも無言で了解して、娘を抱えて出て行った。たぶん娘は、どこか施設に引き取られて暮らすことになるのだろう。暗い記憶と怒りを抱えたままで。
こういう場面は何度も見たが、だからと言って慣れるものでもない。子供がこちらに向ける暗い怒りの色。あれに慣れてしまったら、自分たちは傭兵だと言えども何か大切なものを失ってしまうのだと思う。だからと言って避けて通れるものでもないから、傭兵たちはいつも無口に、何も見なかったふりをしてその場をやり過ごすことになる。
しかもこちらには、その泣き声に心の傷をひどく抉られるのがいる。青い瞳がいつもより硬く見えるのは、気のせいだけではないだろう。
「私の撃った弾だわ」
レオナは低く呟いた。
レオナがそう言うなら、おそらく間違いないだろうと思った。どんな乱戦の中でも、それなりの技量があるなら自分の弾の行方は把握できるものだ。撃った角度やらタイミングやらで大体のところは掴める。
掛ける言葉は、ちょっと思い付かなかった。
お前の弾じゃねえよと言ったとしても、それはそれこそ気休めにしかならない。生かして捕らえろというものを殺してしまったのだ。責任の所在を明らかにするため、調査が入る可能性は大きい。そうなれば誰の弾が男の命を絶ったのか、確実にわかってしまう。それにラルフのカンも、あれはレオナの弾だと告げていた。そういうカンをラルフは滅多に外さない。
それでもラルフは、レオナの肩をぽんと叩いて、少しだけ笑って見せる。
「どうってことねえよ」
それしか出てこなかった。
そんなはずはない。あの娘はきっと、青い髪の少女のことを忘れないだろう。子供ならではの不可思議な直感で、きっとあの娘は父親を撃ったのはレオナだと確信している。そう、あの暗い目は確かにレオナを見ていた。いつか復讐のために命を狙いに来るかもしれない。もしその時が来たとしたら、レオナはどうするのだろうか。理不尽な力に父を母を奪われて、しかし復讐の対象を持たなかった少女はどうするのだろうか。
もっと現実的な問題もある。現場の指揮を執ったラルフは責任を追及させるだろうし、始末書の枚数も、その後の処理も考えると頭が痛い。レオナにも何らかの処分はあるだろう。この後始末は大変なことになりそうだ。
それでも、繰り返した。
「どうってこと、ねえんだからよ」
我ながらどうしようもない嘘だよな、と思いながら。