「本当に、レオナには言わないつもりなんですか?」
「言えるかよ」
首を振りつつ、ラルフは予備弾のパウチを手に取った。
「本当にあの人のことを思うなら、言うべきだと思いますけどね」
「あいつに説明して、わかることだと思うか?」
「難しいとは思いますけどね」
クラークは肩をすくめて首を振る。そのクラークの腰にも、弾を詰め込んだパウチが鈴なりだ。
ラルフとクラークだけではない。そこに集まった、部隊のざっと半数近くの傭兵たちは皆、同じような装備を身に着けている。
「何もかも終わった後で教える方が残酷なんじゃないですか?」
「確かにそうかも知れないけどよ。あいつはこの世がひっくり返ったって、あの人の側に立つ人間だろう? そいつをこっち側に口説き落とせるならとっくにやってる」
「それはそうですがね」
「それに、もしこんなことがレオナの耳に入ってみろ。あいつが教官に情報を漏らさないって保障がどこにある。そしたらここまで計画したことが丸潰れだ」
教官、と口にした時、ラルフは無意識に唇を舐めた。かさついた唇で呼ぶには重過ぎる名だった。
喉が圧迫されるような緊張感が、今更ながらにこみ上げて来る。戦いの前にはいつも同じものを感じているが、今回はそれがべっとりと喉に貼り付いているような気がした。
限りなく近くでその姿を見てきたからこそ、死んでも敵に回すものかと思った相手を、ラルフたちは今、襲おうとしている。
「他にも方法はあるじゃないですか」
「それじゃあ今までと変わらねえだろ。それじゃ意味がねえ。あの人を変えるにはこれぐらいやらねえと駄目だ――それが、あの人のためでもあるんじゃねえのか」
「その意見に同意したから、俺はここにいるんですけどね」
「感謝するぜ、相棒」
「そう思うなら、言葉じゃなくて態度で示してくださいよ」
「終わったら1本奢ってやるよ。飲めたらの話だが」
ラルフは時計を見た。そろそろ時間だ。傭兵たちはすでに、各班に分かれて準備を終えている。一部は先行して位置についているはずだ。
もう、引き返せない。
「それじゃあ、行くぞ」
戦いの始まりを告げる声も、応じる声も小さかった。どこか冷え冷えとした出陣は、この戦いには相応しいものだったかもしれない。
ハイデルンという男に、ただがむしゃらに突っ込んで行けた10年近く前の自分の無謀さが、今のラルフには羨ましかった。
ハイデルンの視界は、その時おそらく真っ白に染まっただろう。白い粉塵の煙幕の向こう、こちらからも肉眼ではその長身を捉えることはできない。しかし、熱源感知式のスコープなら、それを越えてハイデルンの姿を捉えることができるはずだった。
「いない!?」
どこかで引き攣った悲鳴が上がる。まだ若い兵士の声だ。
この世代はこういうところに弱い、とラルフは思う。次々と配備される最新鋭の機器や兵器の取り扱いは上手いが、それに頼りすぎるきらいがある。そういうものが役に立たなくなった時の混乱が酷いのだ。
戦場には、精密機械の計算を易々と超えてくる化け物がいくらでもいる。今、彼らが相手にしているのは、そういう類の生物だ。
ラルフは乱暴にスコープを剥ぎ取って投げ捨てた。役に立たないなら邪魔なだけだ。
どんな精密機器より最新兵器より、最後に役に立つのは戦場で研ぎ澄まされた直感だとラルフは信じていた。ハイデルンのようにkm単位離れた距離から向けられた殺気を感知するとは言わないが、こちらの勘も負けてはいない。非公式なデータではあるが、ラルフが直感だけで狙いをつけた攻撃は、なんと9割の命中率を誇る。人外のデータに過ぎて、非公式にされているのである。。
そのラルフの直感は、ハイデルンはまだ粉塵の中にいると言っていた。元より、そこから逃すつもりもない。
「構うな、予定通りやれ!」
その声がハイデルンに自分の位置を教えることになると知りながら、それでも叫んだのは若い兵士への叱咤か、それとも自分への鼓舞か。
攻撃は次々と粉塵の中に吸い込まれていく。軽い炸裂音。だが、捕らえたという手ごたえはない。いや、予想よりも着弾がほんの少し遅い。
ムーンスラッシャーで弾を叩き落している。そう、ラルフは予想した。つくづくハイデルンという男は化け物だ。全方向から囲んでの攻撃を、視界の効かない中で全弾叩き落している。
しかも、ハイデルンは防戦一方にとどまる男ではない。
「反撃来るぞ! 一箇所に止まるな、動け!」
叫びつつ、ラルフはとっさに横に走る。嫌な予感がした。
次の瞬間、それまでラルフがいた位置に真空の刃が飛んでくる。指揮を執るラルフをまず落とすつもりなのだろう。刃はラルフの位置に確実に飛んで来ていた。
それならそれでいい。こっちにはクラークがいる。ラルフは囮になっていればいい。
「手を止めるな! 走れ! 走りながら手ぇ動かせ!」
わざと派手に騒ぎながらラルフは駆け抜ける。その裏では、クラークがボディサインで傭兵たちを誘導していた。
狙いは真空の刃が飛んでくる方向から察しをつけた、ハイデルンの左前方だ。光を失った右側や背後は、普段から見えていないだけに煙幕の影響を受けにくい。狙うなら唐突に視界を失ったはずの左目の側だ。
クラークの合図で、そこに攻撃が集中する。ラルフはそれに合わせ、反対側に走りこんでいた。そちらからもラルフと陽動に徹していた部隊が攻撃を仕掛ける。
計画通りの、最高の一撃だった。タイミングも状況も申し分ない。
おそらく、これを外せば次はないだろう。煙幕ももうすぐ消える。音が混じりすぎて、もう命中か叩き落されたのかもわからない。
頬に、風を感じた。風はクラークの小さな呟きを乗せていた。
「これで、晴れるな」
その通りだった。煙幕が風に流されて、視界が晴れていく。
徐々に明らかになる視界の中、ラルフは何事もなかったかのように悠然と立つハイデルンを見た。あれだけの粉塵に巻かれていたというのに、その痕跡すら完璧な制服姿のどこにも残っていない。呼吸すら穏やかなままだ。
やっぱりこの人は化け物だ。その化け物を相手に、ラルフは身構える。
沈黙があった。ハイデルンも、それを取り囲む傭兵達も、どちらも動かない。
ラルフはそっと腰に手をやって、残弾を確かめた。残り少ない。だが、やれない数ではない。どちらにしても、もう戻れないのだ。
何が何でもこの一撃、決めてやる。
その気配に気付いたか、ハイデルンの視線がラルフに向けられた。まだ誰も動けない。動けないまま、二人をじっと見ていることしかできない。氷のように冷たく硬い緊張だけが膨れ上がっていく。
呆気ないほど軽い音が、その氷の空気を打ち砕いた。
どろりと粘性の染みが、ハイデルンの背に広がる。それはみるみる広がって、ついに地面にこぼれた。
「レオナ」
戦鬼とも死神とも呼ばれ、戦場にいるものならその名を畏れぬ者はないとまで言わしめた隻眼の傭兵隊長は、ゆっくりと彼の義娘を振り返る。凄腕の傭兵数十人がかりでも成し得なかった一撃を義父の背に加えた青い髪の少女の目には、熱も興奮も狂乱もなく、ただいつもの表情のない顔で立ち尽くしていた。
片手に、生卵を持ったまま。
「状況の説明を」
義娘からいきなり、背中に生卵をぶつけられたハイデルンは短く訊いた。
答えも短かった。
「誕生日だから、と」
「……そうか」
ブラジルには、卵と小麦粉をぶつけて誕生日を祝うという奇習がある。
この地を本拠地とするこの傭兵部隊にも、もちろんその習慣は浸透していて、部隊の人間は誰でも一度は卵と小麦粉まみれにされている――ただ一人、ハイデルンを除いては。
無理もない。ハイデルンとある程度親しい古参の兵士は、彼を襲った悲劇を知っているだけにそういう強引な明るさの中に彼を引き込むことを恐れ、新参の兵士はハイデルンの、ある一定以上の距離に踏み込ませない雰囲気に気圧されて近付けなかった。
それでもラルフは過去に2回、卵を手にハイデルンに近付いたことがある。ハイデルンの長い復讐が終わった一昨年と、彼に養女がいたという比較的明るいニュースがあった去年のことだ。
復讐も終わった。新しい家族も得た。それならいい加減に暗い顔を少しは引っ込めて、馬鹿みたいな騒ぎに笑ったっていいじゃねえか。そういう風に変わったっていいんじゃねえか? その方があの人のためじゃねえのか? それがラルフの言い分だ。
未遂に終わった理由は、単に実力の差だった。ラルフの実力を持ってしても、ハイデルンの不意をついてに卵を投げつける隙を見つけられなかったのである。
だが、それで諦めるラルフではない。元々お節介な性質でもあるし、基本的に熱しやすい。そのラルフが2回の失敗を重ねて、ムキにならないはずがなかった。
今年こそ、何が何でもあの人に卵をぶつけてやる。それの意気込みに周りの人間、つまりお祭り好きの気のいい傭兵たちも加担した。それでこの騒ぎだ。
ハイデルンやラルフへの好意だけで参加した者だけではないだろう。ハイデルンに卵をぶつけたらどんな顔をするだろう、そんな好奇心が理由の者もいた。弾が生卵とはいえ、あのハイデルンを奇襲して一撃を加えた、そんな箔付けが欲しい者もいた。度胸試しの者もいたに違いない。とにかく、その人数は部隊の半分近くに膨れ上がった。
相手がハイデルンであるということが、また騒ぎを増長した。普通に卵を投げつけてもきっと避けられる。それじゃあ皆で一度に投げよう。いや、それじゃ足りない、煙幕で目隠しでもしなけりゃ無理だ。それなら煙幕じゃなくても小麦粉でいいじゃないか。どうせ小麦粉もメニューに入ってる。そうだフォーメーションも決めようぜ――ここまで来ると、むしろ職業病か。
そこまでしても、結局は不可能だった。
ラルフは無数の卵が落ちて潰れ、しかもそこらじゅう粉塗れという悲惨な状況の中、義父と向き合う青い髪の少女を見ながら苦笑いした。
こういう冗談は理解できないだろうと計画から外され、外した以上はそこから計画が漏れては困ると完全に情報から遮断されていたレオナが、歴戦の傭兵たちが本気で挑んでも不可能だったことをやってのけた。その皮肉な結末に、首謀者としては笑うしかない。
「レオナ」
ハイデルンはもう一度、義娘の名を呼んだ。
「これからの予定はどうなっている?」
「15分後に会議が入っています。が、先程、開始時刻を30分遅らせるよう連絡を入れました。その後のスケジュールも全て調整済みです」
「他には?」
「シャワー室と、換えの制服の用意が」
「そうか」
見ている方が不安になるほど淡々と問うハイデルンに、レオナも淡々と答える。
「レオナ」
「はい」
「後ろに下がれ」
「了解」
義娘を後ろに下がらせ、ハイデルンが傭兵たちに向き直る。
ただでは済むまい。飛んでくるのはクロスカッターかムーンスラッシャーか、はたまたブリンガーか。この馬鹿騒ぎの代償は、決して安くはないだろう。最初から覚悟していたことだが、全員2~3日はまともに動けなくなるかもしれない。
誰かが、ごくりと唾を飲んだ。
「――で、続きはどうした?」
その言葉の意味を理解するまでの傭兵達の一瞬の空白は、ひどく長く感じられた。
「祝ってくれるのだろう?」
ふとハイデルンの口元が緩み、耳が割れるような歓声が上がる。
ああ、と思った。ラルフがずっと、ハイデルンにさせてみたいと思っていたのは、こんな顔だったのだ。
だが、そうさせたのはラルフではない。きっかけを投じたのはラルフかもしれないが、そうせたのはレオナだ。
つまり、レオナだけなのだ。レオナだけが、ハイデルンの心の奥底に沈みこんだ暖かいものを掬い上げることができる。それに思い至って、ラルフはもう一度浮かびかけた苦笑を別の笑顔で誤魔化した。苦笑いはこの場には相応しくない。
ラルフは残った卵をありったけ掴む。大きな手の中には3つも入った。それを、草野球で鍛えたフォームで振りかぶる。
卵が砕ける軽い音は、更に大きくなった歓声にすぐかき消された。
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今でこそラルフの口喧嘩の相手はウィップ、もっと昔ならクラークと相場が決まっているが、その頃ラルフの舌鋒の攻撃を受けるのは、もっぱらレオナだった。
仕方あるまい。ラルフのような人間にとって最も気に障るのは、レオナのようなタイプだ。無口で陰気で堅物で、融通も利かないし冗談も通じない。戦場に出ることなんか怖いとも辛いとも思っていないという素振りをするくせに、いつもどこか鈍い痛みを堪えるような顔をしている。
実はそれはレオナの義父であるハイデルンにも通じるものだが、そちらはラルフの許容範囲内だ。上官だから、という理由で盲目的に許容しているわけではない。ハイデルンにあってレオナにはまだないもの、それがラルフの中で決定的な差になっている。
信念。あるいは意志の力。覇気と言い換えてもいいし、生命力のようなものと言ってもいいかもしれない。そういうものが、ハイデルンにはあってレオナからは欠落しているのだ。
もちろん、まだ若い上に短い人生の2/3の記憶は失われていて、精神年齢だけで言ったら十にも満たないであろうレオナに、ハイデルン並のそれを期待するのは間違いだということは承知の上だ。承知の上で苛立つのは、子供は子供らしく泣いたり叫んだりしながら成長すればいいものを、レオナの気質がそれすら押し殺しているせいもある。そういうところがひどくラルフの気に障るのだ。
そんな訳で、ラルフはよくレオナに突っかかった。口喧嘩と言ったが、実際は少し違う。ラルフが勝手に突っかかり、勝手に文句を言い、勝手に終わる。いつもそうだ。
そして最後にはたいてい、この台詞が出る。
「そんなんじゃ嫁の貰い手もねえぞっ!!」
ラルフはどちらかと言えば古いタイプの人間で、女性に対してもそういう考えが見え隠れする。結婚したら仕事は辞めて家に入れと叫ぶほどには時代錯誤ではないが、恋愛や結婚が女性にとっての幸福の最終形態だと考えている節はあった。
とにかく、この台詞の後、ったくもうとかなんとかラルフが口の中でごにょごにょいって終わるのが定番なのだが、その日は少し違った。
いつも理不尽に言われっぱなしで、レオナも少しばかり腹を立てていたのかもしれない。
「貰い手なら、一人は確保してるわ」
それまでラルフの一人騒ぎなど馬耳東風に受け流していたレオナが、不意にそう答えたのである。
「……お前、今のもう一度言ってみろ」
「だから、貰い手なら確保してる。少なくとも一人は」
その時のラルフの顔色を、後にクラークはこう語る。信号機だってあんなに早くは赤から青には変わらない、と。その上目を白黒させているのだから、なんともカラフルだ。
「えーと、レオナ。その相手ってのは、あれか? 俺らも知ってる人間か?」
「ええ、良く知ってると思う」
「KOFで会った連中か? それとも部隊の誰かか?」
「部隊内の人間よ」
「……嘘だろぉ」
それきり、絶句だ。
当然だ。レオナとは公私共にかなり近い位置にいるラルフの気付かぬところで、レオナとそこまでの関係を結んだ男がこの基地の中にいるというのだ。いや、ことレオナのことに関しては娘可愛さにリミッターが外れる性質のハイデルンが、そんなことを知ったら絶対にただでは済まさない。つまり、その男はハイデルンの目さえ誤魔化しているということになる。どんな高度な隠密行動を取ったらそんなことが可能なのか。
「そいつ、諜報機関あたりに放り込んだら相当使えるだろうなあ」
ふとそんなことを考えた瞬間、ラルフは反射的に長年の相棒を見た。基地内でレオナと接触する機会が多く、割と突っ込んだ付き合いをしていて、しかも情報局出身で隠密行動に長けている。そんな男が、ラルフの視線の先で書類をタイプしていた。
「――何を誤解してるんです」
口をぱくぱくさせるラルフの視線に気付いたクラークは、顔を上げ憮然とした口調で言った。
「そうだよなあ、そりゃそうだよなあ」
そうしてラルフの思考は再び混乱のスパイラルに戻る。
もしかしたらレオナのことだから、嫁の貰い手だなんだと言ってもそこまでの関係にはなってはいなくて、子供がするように指切りして「○○くんのお嫁さんになります」とやっただけかもしれない。精神年齢のことを考えたらそちらの方が妥当だ。ああそうだ、きっとそうに違いない。それに、その辺りから人生やり直すのが、レオナには丁度いいだろう。誰か知らんが教官に殺されない程度に頑張れよ、とラルフはその勇者のために祈った。
そんな上官の気持ちを知ってか知らずか、少女は何事もなかったように、自分に割り当てられた書類の山に向かっている。その素っ気無い横顔と、世界の終わりをいきなり告げられたようなラルフの顔を見比べて、クラークはついに吹き出した。
「ラルフ、お前いい加減この手の遣り口に慣れろよ。嘘は言わないが、本当のことも全部は言わないってのは基本のセオリーだろうが」
「は?」
「レオナ、いい加減許してやれ。これだけ驚かせりゃ気も済んだだろ?」
「……そうね」
なおも合点が行かない顔のラルフに、レオナは短く告げた。
「私、『嫁の貰い手』だなんて一言も言ってない」
「というわけだ。確かにレオナは一回貰われてるし、それが今も継続中だからな。『少なくとも一人、貰い手を確保している』で嘘は言っていないがな」
そこまで言われて、ラルフはやっと理解した。
嫁の貰い手、ではなくて義娘の貰い手。確保している、と言うか現在進行形の、その相手はハイデルンだ。
「お……お前なあ……いや確かにお前は教官に貰われたって言うか拾われたって言うか、そうかもしれねえけどよ……それは反則だろ反則!」
「喚くなラルフ。今回はお前の負けだ。悔しかったらもう少し、悪口のバリエーションを増やせ」
「だからってお前……!」
「レオナ、こっち書類揃ったから、教官のところに持っていってくれ」
「了解」
書類は方便だ。これ以上この二人を一緒にしておいたら煩くてかなわんと言うのが、クラークの正直なところだろう。
机越しに渡された書類を手に、レオナは音もなく立ち上がる。そのまま出て行こうとするレオナの背に、諦めきれないラルフが叫んだ。
「糞ッ、真剣に可愛げねえな、お前! そんなんじゃお前、本当に嫁の貰い手――」
「別に、そんなものは要らないもの」
今度は皆まで言わさず、レオナは首だけ振り返ってその言葉を遮った。
「誰かに貰われるのなんて、一生に一度でいいわ」
少しばかり頭の古い上官は今度こそ絶句し、勘の良い方の上官は少しばかり複雑な顔をした。
その二人を置いて、少女は彼女の人生にたった一人の貰い手の元へと向かう。その足取りは、普段より少しだけ軽かった。
きっかけは、些細なことだった。
「レオナ、お前の名前って、なんだっけ?」
「少なくとも、アニーとかベロニカとかクリスじゃないわ。それが?」
「そりゃ、俺がここ3ヶ月で口説いて振られた女の名前じゃねえか――って、すまん。俺の訊き方が悪かった」
どう聞いても間が抜けた質問に、冗談こそ交えたが真顔で答えた律儀な部下に向かって、ラルフは苦笑いしながら訊き直した。
「名前って言うか、あれだ、ファミリーネームの方」
レオナというのはコードネームで、彼女の本名ではない。それは前から知っていた。
こういう稼業では、人に恨まれることも少なくない。だから皆、素性を隠すためにコードネームを持っているし、部隊の中ではほとんどそれで呼び合っている。もちろん書類もそれで通る。顔が売れ過ぎて偽名も意味をなくして、それならいっそと本名で仕事をしている、ラルフやクラークの方が珍しいのだ。
だから今まで、レオナの本名を訊く機会もなかったし、そのことを気にもしていなかったのだが。
「お前の苗字って、なんだったっけか?」
数日後に控えたレオナの誕生日に、ケーキでも注文してやろうと、ラルフが世話焼きの本領を発揮したのがきっかけだった。
ケーキにお名前をお入れすることができます、お誕生日の方のフルネームは? 注文の電話口でそう訊かれ、そう言えばレオナの苗字を知らなかったということに、ラルフは今更ながらに気付いたのである。
「ないわ、特に」
ぽかん。そう表現するのがぴったりな表情とタイミングで、ラルフは口を開ける。その口から再び、まともな言葉が出るまでに掛かった時間は、たっぷり数十秒を数えた。
「……えーっと、何だよそりゃ。名無しのレオナさんって訳か?」
「一応、偽造のパスポートの名前は『レオナ・ハイデルン』になってる」
「それは偽名だろ?」
彼女の義父である、ハイデルンのその名も本名ではない。これもコードネームだ。
「ええ、そうよ。でも、名前といったらそれしかないもの」
「それしかないって、お前、本名ってもんがあるだろうよ。戸籍に載ってるやつ」
「戸籍は、持ってない」
「はぁ?」
唖然とするラルフの手の中の受話器から、お客さん、お客さんどうされました?とケーキ屋の声が聞こえてくる。そういえばまだ、電話が繋がっていたままだ。
「すまん。また掛け直す」
やや乱暴にそう伝えて、ラルフは電話を切った。電話口でケーキ屋を待たせるには申し訳ないぐらい、長い話になるだろうと思ったのだ。
「戸籍がないって、お前それ、いつからよ?」
「生まれてからずっと。出生届を出さなかったそうだから」
「――ああ、そっか」
レオナの両親が娘の出生届を出さなかった、その理由はラルフにも理解できる。
血の宿命を背負って生まれた娘を、その呪われた力を求める者達の目から隠すために、レオナの両親は長い逃亡生活を続けていたという。
娘の出生届を出さなかったのは、追手の目を少しでも遠ざけるためだろう。戸籍を持っていれば、移動の度にどうしても痕跡が残る。逆に、書類の上では存在すらしない人間を探すのは、なかなかに難しい。
「それきり、そのまんまなのか」
「そう。特に必要もなかったし」
その後、ハイデルンに引き取られたレオナは、その存在をひた隠しにして育てられた。彼女の父母が恐れたのと同じ理由と、彼女の義父が敵の多い男だったためである。
ハイデルンのような立場の人間は、自分の命だけではなく、その縁者までもが狙われることが少なくない。実際にその悲劇に遭ったハイデルンが、戸籍の上でも義娘の存在を隠したことも、ラルフには理解できる。
だが、まさか今の今まで、そのままだったとは。
「そうだよなあ。最初の勤め口がここなら、戸籍のあるなしなんて問題にならなかったもんなあ――ってお前、KOFの時はどうしてたんだ? パスポートとかビザとか」
「偽造で済ませてる」
「そっか、さっきもそう言ってたっけ。でもそれじゃお前、身分証明書もねえんじゃねえか? そんなことじゃ銀行の口座ひとつ、いやレンタルビデオ屋の会員カードも作れないだろ? そういうのはどうしてたんだ?」
「作ろうとしたことがないからわからないわ。必要ないもの」
「給料はどうしてるんだよ。貯金箱に入る額じゃねえだろう?」
「必要な額だけ残して、後は教官に預かってもらってる」
「お前ねえ……」
ほとほと呆れ果てたという口調で、ラルフは溜息と一緒に呟いた。あまりに呆れたせいで、いつものように大声で怒鳴る気力もない。
「ここにいる間はそれでもいいけどよ、ちょっと問題だぞ、それは」
「そう?」
「考えても見ろよ。この稼業以外で、戸籍もない人間を雇ってくれるようなところがあると思うか? 稼がなかったらメシも食えないんだぞ?」
「……そうね」
「同業他社に転職するとしても、この国にはもう、うちしかねえからな。一昔前ならもう幾つかあったんだが――まあ、お前の腕ならどこに行ってもやっていけるだろうが、そこまで行くのにだって、パスポートがいるんだぞ? 戸籍がなきゃ、それだって作れないんだからよ」
「そうね」
「そうね、ってお前」
レオナはと言うと、少し首を傾げて青い髪を斜めに落とし、思案顔ではあるが、何を考えているかは皆目見当も付かない。表情の乏しさはいつものことなのだが、こういう時には、こいつは何を言われているのか本当に認識できているのだろうか、と言う気分にさせられて、ラルフは頭を抱えたくなった。
「――とりあえずお前さ、この機会に戸籍作れ。ちゃんとしたやつ。そうじゃなきゃお前の場合、物理的に親離れすることもできやしねえ」
「親離れ?」
「そうだよ。今のままじゃお前、ずっとここでしか生きていけないだろうが。『教官の作った世界』の中でしか」
今はいい。それでもいい。だが、いずれそれでは済まない時が来るだろう、とラルフは思う。そして、その時が来てからでは遅いのだと思う。
「そこから出る出ないはお前の自由だけどよ、ともかく、出られないままにしておくのは感心しねえよ、俺は」
親と子で話ができるうちに――どちらがいつ、物言わぬ姿になって戻るかわからない世界で生きているのだから、それができるうちに、形にした方が良いのだと思う。
「そう……そうなのかしら?」
「そうなんだよ――おい、ちょっと待ってろよ」
そう言い放つと、ラルフはもう一度電話に向かった。しかし、掛けた先はケーキ屋ではない。
ハイデルンの秘書役を務める情報士官に連絡を入れ、その電話を切ったかと思うとまた別の部署に電話を掛け、と猛然と電話を掛けまくる。その勢いに、レオナは口を挟む間もない。
奮戦すること約10分、ふふんどうだと言わんばかりの顔で、向き直ったラルフは開口一番、
「2時間後に教官のスケジュール、30分空けたからな」
これにはレオナの方が、僅かではあるが驚きの表情を浮かべた。
分刻みのスケジュールに日々追われるハイデルンに、仕事以外で30分の時間を取らせる。それがどれだけのことであるかは、レオナにも良くわかる。むしろ、驚異的な戦果と言っていい。
だが、戦果はそれだけではなかった。
「隊の中の書類は今日中に書き換えられるとさ。戸籍そのものにも、今週いっぱいありゃ手を回せるらしい。どこの国籍でも、どこの生まれでもなんとでもなるってよ」
ラルフはすでに、そこまで手を回していたのだ。
「だから、あとは教官とお前が、話をするだけだ。30分しかねえが、名前のこととか、教官の正式な養女になるかどうかとか、ちゃんと話し合って来いよ」
そう言ってから、ラルフは一番大切なことを言い忘れた、という顔でこう付け加えた。
「あと、苗字が決まったら、すぐに教えろよ。そうじゃなきゃケーキが注文できねえ」
名前など、何でもいいと思っていた。
義父に保護された時には記憶を失っていて、両親が付けてくれた名前さえ思い出せなかった。だから、初めてレオナという名で呼ばれた時にも違和感はなかったし、それが自分の名前であることに疑問を持つこともなかった。
少なくとも、自分の周りの狭い世界――この部隊の中では、自分は「レオナ」でしかない。それ以外の名前で自分が認識されることはないし、自分でもそう認識している。
記憶が戻ってからも、本当の名前は遠い記憶の中のものでしかなく、それが自分の本名かというと不思議には思うものの、実感はなかった。
口の中で、その名を呟いてみる。古い言葉で「神は私の光」という意味を持つ名前に、父の姓。
その響きは嫌いではなかったし、どこか懐かしく優しい音でもあったが、しかしそれが自分の本当の名前かと言うと、少しだけ違うと思った。
「話は聞いた」
執務室の窓からは、南半球の夏の日差しが差し込んでいる。しかし、部屋の印象は、いつでも東欧の冬の凍てつく冷気だ。それは、レオナがこの部屋の主と過ごした日々が、ほとんどその国でのものだったがゆえの錯覚かもしれないが、その冷たさをレオナは心地よく思う。
「ラルフがまた、か」
ハイデルンは、あるかなきかの微かな苦笑を口元に浮かべていた。
ラルフの世話焼きは有名で、部隊のものなら皆、一度や二度はその対象にされている。それも、そのために憎まれることを厭わないタイプだから(むしろ嫌がられるのを楽しんでいる風さえある)、かなり突っ込んだ部分にまで踏み込んで、時にはトラブルを起こすことも少なくない。
だが、それが後まで続く遺恨にならないのは、ラルフも一応踏み込むタイミングを考えていると言うべきか、それともそれが人徳なのだろうか。ハイデルンの慧眼を持ってしても、付き合いの長いクラークから見ても、それはわからないのだと言う。
「ともかく、私に異論はない。後は、お前がどうしたいかだ」
「私……私は……」
レオナは少しだけ、言葉に詰まった。口に出したら、何かと決別することになる。そんな気がして、少しだけ躊躇った。
躊躇いながらも、続く言葉ははっきりと声になった。
「レオナ・ハイデルンと名乗りたいと思います」
少女の義父は、一瞬虚を突かれたような顔をした。
ハイデルンという名は本名ではない――つまりそれは、レオナがハイデルンの戸籍に入らないことを選んだと言うことである。
戸籍がないために、今までもそうだった。血の繋がりも、戸籍の繋がりもない、形だけの親子。だが、もしレオナがそれを望むなら、もちろんハイデルンは正式な養女として受け入れるつもりでいた。
それと同じように、レオナが本当の名前――実の父母が付けた名を選ぶことも、ハイデルンは想定していた。
それも良いと思っていた。記憶は戻り、彼女の呪われた血を狙う悪夢が再び封印されたことで、彼女が身を隠す理由はなくなった。もう、偽りの父の元で、偽りの名を名乗る理由はない。
だが、レオナはそのどちらも選ばなかった。
「あなたの正式な養女であろうとなかろうと、私はあなたを父だと思っています」
血の繋がりがなくても、戸籍に記録が残らなくても、この9年、間違いなくハイデルンはレオナの父であり、レオナはハイデルンの娘であった。姓が違っても、その絆が消えるわけではない。
「そして、本当の名前を名乗ろうと名乗るまいと、あの人たちが私の父母であることには変わりません」
記憶を失おうと、名前を変えようと消えない罪があるように、血の絆で結ばれた父母が、名前ひとつで他人になる訳でもない。
だから、レオナはこの名を選んだ。レオナ・ハイデルン。
ハイデルンの最初の贈り物であるレオナという名と、彼女が知る唯一の義父の名である、ハイデルンという姓を。
「では、そう手配しておこう」
「ありがとうございます」
レオナが頭を下げると同時に、机の上で電話がなった。30分の猶予が終わるにはまだ時間があったが、それを待てないほど世界は目まぐるしく動いているらしい。
2人が話している間にも、ハイデルンのコンピューターからは何度もメールの着信音が鳴っていたし、おそらく情報仕官の元にはFAXの山ができている。感傷に浸って、無為な時間を過ごす時間の余裕はなさそうだった。また、そういうことに慣れた2人ではない。
1人で過去を振り返ることはできても、人とそれを共有できるほど、器用ではないのだ。その不器用さがラルフにしてみれば、血の繋がりはなくとも良く似た親子に見えるのだが。
「では、私はこれで」
「待て」
すっ、と一分の隙もない敬礼をして、執務室を去ろうとしたレオナを、ハイデルンが呼び止める。
「父親として、お前の新しい名を祝わせてくれ――レオナ」
祝福の鐘の音には少々けたたましい電話のベルが、もう10回目のコールを鳴らそうとしている。その中で、ハイデルンは初めて、娘が選んだ彼女の名を呼んだ。
「……ありがとう、おとうさん」
数日後、届いたケーキには、チョコレートでその名と19歳の誕生日を祝う言葉が記されていた。
「レオナ、お前の名前って、なんだっけ?」
「少なくとも、アニーとかベロニカとかクリスじゃないわ。それが?」
「そりゃ、俺がここ3ヶ月で口説いて振られた女の名前じゃねえか――って、すまん。俺の訊き方が悪かった」
どう聞いても間が抜けた質問に、冗談こそ交えたが真顔で答えた律儀な部下に向かって、ラルフは苦笑いしながら訊き直した。
「名前って言うか、あれだ、ファミリーネームの方」
レオナというのはコードネームで、彼女の本名ではない。それは前から知っていた。
こういう稼業では、人に恨まれることも少なくない。だから皆、素性を隠すためにコードネームを持っているし、部隊の中ではほとんどそれで呼び合っている。もちろん書類もそれで通る。顔が売れ過ぎて偽名も意味をなくして、それならいっそと本名で仕事をしている、ラルフやクラークの方が珍しいのだ。
だから今まで、レオナの本名を訊く機会もなかったし、そのことを気にもしていなかったのだが。
「お前の苗字って、なんだったっけか?」
数日後に控えたレオナの誕生日に、ケーキでも注文してやろうと、ラルフが世話焼きの本領を発揮したのがきっかけだった。
ケーキにお名前をお入れすることができます、お誕生日の方のフルネームは? 注文の電話口でそう訊かれ、そう言えばレオナの苗字を知らなかったということに、ラルフは今更ながらに気付いたのである。
「ないわ、特に」
ぽかん。そう表現するのがぴったりな表情とタイミングで、ラルフは口を開ける。その口から再び、まともな言葉が出るまでに掛かった時間は、たっぷり数十秒を数えた。
「……えーっと、何だよそりゃ。名無しのレオナさんって訳か?」
「一応、偽造のパスポートの名前は『レオナ・ハイデルン』になってる」
「それは偽名だろ?」
彼女の義父である、ハイデルンのその名も本名ではない。これもコードネームだ。
「ええ、そうよ。でも、名前といったらそれしかないもの」
「それしかないって、お前、本名ってもんがあるだろうよ。戸籍に載ってるやつ」
「戸籍は、持ってない」
「はぁ?」
唖然とするラルフの手の中の受話器から、お客さん、お客さんどうされました?とケーキ屋の声が聞こえてくる。そういえばまだ、電話が繋がっていたままだ。
「すまん。また掛け直す」
やや乱暴にそう伝えて、ラルフは電話を切った。電話口でケーキ屋を待たせるには申し訳ないぐらい、長い話になるだろうと思ったのだ。
「戸籍がないって、お前それ、いつからよ?」
「生まれてからずっと。出生届を出さなかったそうだから」
「――ああ、そっか」
レオナの両親が娘の出生届を出さなかった、その理由はラルフにも理解できる。
血の宿命を背負って生まれた娘を、その呪われた力を求める者達の目から隠すために、レオナの両親は長い逃亡生活を続けていたという。
娘の出生届を出さなかったのは、追手の目を少しでも遠ざけるためだろう。戸籍を持っていれば、移動の度にどうしても痕跡が残る。逆に、書類の上では存在すらしない人間を探すのは、なかなかに難しい。
「それきり、そのまんまなのか」
「そう。特に必要もなかったし」
その後、ハイデルンに引き取られたレオナは、その存在をひた隠しにして育てられた。彼女の父母が恐れたのと同じ理由と、彼女の義父が敵の多い男だったためである。
ハイデルンのような立場の人間は、自分の命だけではなく、その縁者までもが狙われることが少なくない。実際にその悲劇に遭ったハイデルンが、戸籍の上でも義娘の存在を隠したことも、ラルフには理解できる。
だが、まさか今の今まで、そのままだったとは。
「そうだよなあ。最初の勤め口がここなら、戸籍のあるなしなんて問題にならなかったもんなあ――ってお前、KOFの時はどうしてたんだ? パスポートとかビザとか」
「偽造で済ませてる」
「そっか、さっきもそう言ってたっけ。でもそれじゃお前、身分証明書もねえんじゃねえか? そんなことじゃ銀行の口座ひとつ、いやレンタルビデオ屋の会員カードも作れないだろ? そういうのはどうしてたんだ?」
「作ろうとしたことがないからわからないわ。必要ないもの」
「給料はどうしてるんだよ。貯金箱に入る額じゃねえだろう?」
「必要な額だけ残して、後は教官に預かってもらってる」
「お前ねえ……」
ほとほと呆れ果てたという口調で、ラルフは溜息と一緒に呟いた。あまりに呆れたせいで、いつものように大声で怒鳴る気力もない。
「ここにいる間はそれでもいいけどよ、ちょっと問題だぞ、それは」
「そう?」
「考えても見ろよ。この稼業以外で、戸籍もない人間を雇ってくれるようなところがあると思うか? 稼がなかったらメシも食えないんだぞ?」
「……そうね」
「同業他社に転職するとしても、この国にはもう、うちしかねえからな。一昔前ならもう幾つかあったんだが――まあ、お前の腕ならどこに行ってもやっていけるだろうが、そこまで行くのにだって、パスポートがいるんだぞ? 戸籍がなきゃ、それだって作れないんだからよ」
「そうね」
「そうね、ってお前」
レオナはと言うと、少し首を傾げて青い髪を斜めに落とし、思案顔ではあるが、何を考えているかは皆目見当も付かない。表情の乏しさはいつものことなのだが、こういう時には、こいつは何を言われているのか本当に認識できているのだろうか、と言う気分にさせられて、ラルフは頭を抱えたくなった。
「――とりあえずお前さ、この機会に戸籍作れ。ちゃんとしたやつ。そうじゃなきゃお前の場合、物理的に親離れすることもできやしねえ」
「親離れ?」
「そうだよ。今のままじゃお前、ずっとここでしか生きていけないだろうが。『教官の作った世界』の中でしか」
今はいい。それでもいい。だが、いずれそれでは済まない時が来るだろう、とラルフは思う。そして、その時が来てからでは遅いのだと思う。
「そこから出る出ないはお前の自由だけどよ、ともかく、出られないままにしておくのは感心しねえよ、俺は」
親と子で話ができるうちに――どちらがいつ、物言わぬ姿になって戻るかわからない世界で生きているのだから、それができるうちに、形にした方が良いのだと思う。
「そう……そうなのかしら?」
「そうなんだよ――おい、ちょっと待ってろよ」
そう言い放つと、ラルフはもう一度電話に向かった。しかし、掛けた先はケーキ屋ではない。
ハイデルンの秘書役を務める情報士官に連絡を入れ、その電話を切ったかと思うとまた別の部署に電話を掛け、と猛然と電話を掛けまくる。その勢いに、レオナは口を挟む間もない。
奮戦すること約10分、ふふんどうだと言わんばかりの顔で、向き直ったラルフは開口一番、
「2時間後に教官のスケジュール、30分空けたからな」
これにはレオナの方が、僅かではあるが驚きの表情を浮かべた。
分刻みのスケジュールに日々追われるハイデルンに、仕事以外で30分の時間を取らせる。それがどれだけのことであるかは、レオナにも良くわかる。むしろ、驚異的な戦果と言っていい。
だが、戦果はそれだけではなかった。
「隊の中の書類は今日中に書き換えられるとさ。戸籍そのものにも、今週いっぱいありゃ手を回せるらしい。どこの国籍でも、どこの生まれでもなんとでもなるってよ」
ラルフはすでに、そこまで手を回していたのだ。
「だから、あとは教官とお前が、話をするだけだ。30分しかねえが、名前のこととか、教官の正式な養女になるかどうかとか、ちゃんと話し合って来いよ」
そう言ってから、ラルフは一番大切なことを言い忘れた、という顔でこう付け加えた。
「あと、苗字が決まったら、すぐに教えろよ。そうじゃなきゃケーキが注文できねえ」
名前など、何でもいいと思っていた。
義父に保護された時には記憶を失っていて、両親が付けてくれた名前さえ思い出せなかった。だから、初めてレオナという名で呼ばれた時にも違和感はなかったし、それが自分の名前であることに疑問を持つこともなかった。
少なくとも、自分の周りの狭い世界――この部隊の中では、自分は「レオナ」でしかない。それ以外の名前で自分が認識されることはないし、自分でもそう認識している。
記憶が戻ってからも、本当の名前は遠い記憶の中のものでしかなく、それが自分の本名かというと不思議には思うものの、実感はなかった。
口の中で、その名を呟いてみる。古い言葉で「神は私の光」という意味を持つ名前に、父の姓。
その響きは嫌いではなかったし、どこか懐かしく優しい音でもあったが、しかしそれが自分の本当の名前かと言うと、少しだけ違うと思った。
「話は聞いた」
執務室の窓からは、南半球の夏の日差しが差し込んでいる。しかし、部屋の印象は、いつでも東欧の冬の凍てつく冷気だ。それは、レオナがこの部屋の主と過ごした日々が、ほとんどその国でのものだったがゆえの錯覚かもしれないが、その冷たさをレオナは心地よく思う。
「ラルフがまた、か」
ハイデルンは、あるかなきかの微かな苦笑を口元に浮かべていた。
ラルフの世話焼きは有名で、部隊のものなら皆、一度や二度はその対象にされている。それも、そのために憎まれることを厭わないタイプだから(むしろ嫌がられるのを楽しんでいる風さえある)、かなり突っ込んだ部分にまで踏み込んで、時にはトラブルを起こすことも少なくない。
だが、それが後まで続く遺恨にならないのは、ラルフも一応踏み込むタイミングを考えていると言うべきか、それともそれが人徳なのだろうか。ハイデルンの慧眼を持ってしても、付き合いの長いクラークから見ても、それはわからないのだと言う。
「ともかく、私に異論はない。後は、お前がどうしたいかだ」
「私……私は……」
レオナは少しだけ、言葉に詰まった。口に出したら、何かと決別することになる。そんな気がして、少しだけ躊躇った。
躊躇いながらも、続く言葉ははっきりと声になった。
「レオナ・ハイデルンと名乗りたいと思います」
少女の義父は、一瞬虚を突かれたような顔をした。
ハイデルンという名は本名ではない――つまりそれは、レオナがハイデルンの戸籍に入らないことを選んだと言うことである。
戸籍がないために、今までもそうだった。血の繋がりも、戸籍の繋がりもない、形だけの親子。だが、もしレオナがそれを望むなら、もちろんハイデルンは正式な養女として受け入れるつもりでいた。
それと同じように、レオナが本当の名前――実の父母が付けた名を選ぶことも、ハイデルンは想定していた。
それも良いと思っていた。記憶は戻り、彼女の呪われた血を狙う悪夢が再び封印されたことで、彼女が身を隠す理由はなくなった。もう、偽りの父の元で、偽りの名を名乗る理由はない。
だが、レオナはそのどちらも選ばなかった。
「あなたの正式な養女であろうとなかろうと、私はあなたを父だと思っています」
血の繋がりがなくても、戸籍に記録が残らなくても、この9年、間違いなくハイデルンはレオナの父であり、レオナはハイデルンの娘であった。姓が違っても、その絆が消えるわけではない。
「そして、本当の名前を名乗ろうと名乗るまいと、あの人たちが私の父母であることには変わりません」
記憶を失おうと、名前を変えようと消えない罪があるように、血の絆で結ばれた父母が、名前ひとつで他人になる訳でもない。
だから、レオナはこの名を選んだ。レオナ・ハイデルン。
ハイデルンの最初の贈り物であるレオナという名と、彼女が知る唯一の義父の名である、ハイデルンという姓を。
「では、そう手配しておこう」
「ありがとうございます」
レオナが頭を下げると同時に、机の上で電話がなった。30分の猶予が終わるにはまだ時間があったが、それを待てないほど世界は目まぐるしく動いているらしい。
2人が話している間にも、ハイデルンのコンピューターからは何度もメールの着信音が鳴っていたし、おそらく情報仕官の元にはFAXの山ができている。感傷に浸って、無為な時間を過ごす時間の余裕はなさそうだった。また、そういうことに慣れた2人ではない。
1人で過去を振り返ることはできても、人とそれを共有できるほど、器用ではないのだ。その不器用さがラルフにしてみれば、血の繋がりはなくとも良く似た親子に見えるのだが。
「では、私はこれで」
「待て」
すっ、と一分の隙もない敬礼をして、執務室を去ろうとしたレオナを、ハイデルンが呼び止める。
「父親として、お前の新しい名を祝わせてくれ――レオナ」
祝福の鐘の音には少々けたたましい電話のベルが、もう10回目のコールを鳴らそうとしている。その中で、ハイデルンは初めて、娘が選んだ彼女の名を呼んだ。
「……ありがとう、おとうさん」
数日後、届いたケーキには、チョコレートでその名と19歳の誕生日を祝う言葉が記されていた。
この国では停電は珍しい話ではない。
だから基地内の電源が全て落ちた時も、誰も驚きはしなかった。テレビでサッカーの試合中継を見ていた誰かが舌打ちしたぐらいだ。
だが、問題はその後だった。なかなか予備電源に切り替わらない。予備電源が作動しても、電力が足りないのか弱々しい非常灯しか点かない。
焦ったのは電源関係全般のスタッフたちだ。
「ええい、何が原因だ? おい予備電源の担当!」
「げ、原因不明です!」
「5分で調べて来い! それで、電圧はどれぐらい確保できてる?」
「通常の10%にも足りませんッ」
「何が何でも医療機器と通信回線とメインコンピューターの電源は落とすなよ!? は? 優先順位だと? 今言った通りだ、医療、通信が最優先だ!」
「メインコンピューターは?」
「コンピューターなんざなくても四半世紀前は戦争やれてたんだ、後回しでいい! 他に何か問題起きてるか?」
「エレベーター停止、何人か閉じ込められている模様。エレベーター内の緊急マイクに電源回します……繋がりました!」
「馬鹿野郎、軍人なら階段使え階段! 足腰弱るぞっ!」
『了解、今後は気を付けるようにしよう』
スピーカーから戻ってきた陰鬱な低い声が、主任担当者の魂もろとも部屋中の空気を凍りつかせるまでに一瞬もかからなかった。
『こちらハイデルン。状況を報告せよ――どうした、状況を報告せよ』
「すいません、2時間……いや、1時間で必ず復旧させますんで!」
結局、察しのいいラルフが駆けつけるまで、部屋の空気は凍りついたまま溶け出さなかったらしい。
スピーカー越しのラルフの声の向こうには、クラークの大声が聞こえる。何か指示を飛ばしているのだろう。たぶんその更に向こうでは、技術者たちが走り回っている。
「……スケジュールに1時間余裕ありますかね、教官。なけりゃ電力そっちに全部回すなり人力なりで、意地でもその檻、動かしますが」
「余裕はないが、後回しに出来ないものでもない。緊急事態が起きればその限りではないが」
「了解。それじゃ、最低限の空調と通信回線残して電源落としますよ。ちっと休憩ってことで頼みます」
「了解した」
ふっと非常灯が落ち、エレベーターの中は闇に包まれる。ハイデルンはひとつ溜息を吐くと、闇を良く透かす目で隣に立つレオナを見た。父と狭い空間に閉じ込められた養女は、直立不動の姿勢で上官の指示を待っている。
「聞いてのとおりだ、1時間は動かん。その間に休息を取るように」
「了解」
ハイデルンがエレベーターの床に腰を下ろすのを見て、レオナもそれに倣った。レオナも夜目が良く利く。そういう風にハイデルンが育てた。
「私は少し仮眠を取る。お前も少し寝るといいだろう。ここから出たら、この1時間分以上にあれこれ仕事が増えているはずだからな」
原因の追究、担当技術者の責任、ひいてはその上官の責任――軍では部下1人叱責するにも、手順が多くてややこしい。ハイデルンが直接叱り飛ばせる、ラルフやクラークは例外中の例外だ。
今夜ベッドに入るのは予定の3時間遅れだな。そんなことを思いながら、ハイデルンは上着を脱ぎ、エレベーターの壁に体を預けて座ったまま眠る姿勢を取った。
その腕が、小さく引かれた。
「……座位での30分以上の睡眠は、却って疲労を溜めます」
「横になれ、と?」
こくり、とレオナが頷く。
長い軍隊生活で、座っていようが立っていようが、眠り体力を回復させる術ぐらい身に付けてはいる。だが、確かに横になった方が楽には楽である。
幸い基地のエレベーターは、乗せる人数とその体格に合わせて充分以上に広い。実際ハイデルンの長身が横たわっても、まるで問題のないサイズだった。
自分の腕を枕に、今度こそと目を閉じたハイデルンの腕が、また小さく引かれた。顔を上げると、闇の中でもまだ鮮やかな青い髪を揺らして、レオナが戸惑いながらこちらを覗き込んでいた。
それは部下ではなく、娘としての顔のようにも見えた。
一通り技術者たちに指示を飛ばし、電気関係の得意な整備班の連中やら傭兵たちやらを応援に行かせて、ラルフはとりあえず一息ついた。
これから自分自身も応援に行くつもりだ。クラークはとっくに行っている。少なくとも2人とも電子回路制御の爆薬の設置・解体ぐらいはできるわけだから、全くの素人というわけではない。充分戦力である。
それじゃあ俺も参戦するらここを離れますよ、とエレベーターの中の2人に呼び掛けようとして、ラルフは出掛かった声を飲み込んだ。
万が一に備えて電源を回されていた、エレベーター内の監視カメラのモニタには闇ばかりが映っている。だがその、一見闇に塗りつぶされた映像から、不幸な当事者2人の輪郭を見るぐらいは出来た。なにしろラルフも夜目が利く。
そしてラルフは、無言のままモニタのスイッチを切った。事故は事故だが貴重な「親子水入らず」の時間だ。邪魔をするのは野暮じゃないか、と。
エレベーターの中ではハイデルンが眠っている。レオナだけに見せるその寝顔は穏やかで、かつて彼を苦しめた悪夢からは縁遠い。
それもそうだ。愛する娘の膝が枕なら、悪夢も寄る辺がないだろう。
娘の膝枕で、死神と呼ばれた男が1時間だけの穏やかな夢を見る。
だから基地内の電源が全て落ちた時も、誰も驚きはしなかった。テレビでサッカーの試合中継を見ていた誰かが舌打ちしたぐらいだ。
だが、問題はその後だった。なかなか予備電源に切り替わらない。予備電源が作動しても、電力が足りないのか弱々しい非常灯しか点かない。
焦ったのは電源関係全般のスタッフたちだ。
「ええい、何が原因だ? おい予備電源の担当!」
「げ、原因不明です!」
「5分で調べて来い! それで、電圧はどれぐらい確保できてる?」
「通常の10%にも足りませんッ」
「何が何でも医療機器と通信回線とメインコンピューターの電源は落とすなよ!? は? 優先順位だと? 今言った通りだ、医療、通信が最優先だ!」
「メインコンピューターは?」
「コンピューターなんざなくても四半世紀前は戦争やれてたんだ、後回しでいい! 他に何か問題起きてるか?」
「エレベーター停止、何人か閉じ込められている模様。エレベーター内の緊急マイクに電源回します……繋がりました!」
「馬鹿野郎、軍人なら階段使え階段! 足腰弱るぞっ!」
『了解、今後は気を付けるようにしよう』
スピーカーから戻ってきた陰鬱な低い声が、主任担当者の魂もろとも部屋中の空気を凍りつかせるまでに一瞬もかからなかった。
『こちらハイデルン。状況を報告せよ――どうした、状況を報告せよ』
「すいません、2時間……いや、1時間で必ず復旧させますんで!」
結局、察しのいいラルフが駆けつけるまで、部屋の空気は凍りついたまま溶け出さなかったらしい。
スピーカー越しのラルフの声の向こうには、クラークの大声が聞こえる。何か指示を飛ばしているのだろう。たぶんその更に向こうでは、技術者たちが走り回っている。
「……スケジュールに1時間余裕ありますかね、教官。なけりゃ電力そっちに全部回すなり人力なりで、意地でもその檻、動かしますが」
「余裕はないが、後回しに出来ないものでもない。緊急事態が起きればその限りではないが」
「了解。それじゃ、最低限の空調と通信回線残して電源落としますよ。ちっと休憩ってことで頼みます」
「了解した」
ふっと非常灯が落ち、エレベーターの中は闇に包まれる。ハイデルンはひとつ溜息を吐くと、闇を良く透かす目で隣に立つレオナを見た。父と狭い空間に閉じ込められた養女は、直立不動の姿勢で上官の指示を待っている。
「聞いてのとおりだ、1時間は動かん。その間に休息を取るように」
「了解」
ハイデルンがエレベーターの床に腰を下ろすのを見て、レオナもそれに倣った。レオナも夜目が良く利く。そういう風にハイデルンが育てた。
「私は少し仮眠を取る。お前も少し寝るといいだろう。ここから出たら、この1時間分以上にあれこれ仕事が増えているはずだからな」
原因の追究、担当技術者の責任、ひいてはその上官の責任――軍では部下1人叱責するにも、手順が多くてややこしい。ハイデルンが直接叱り飛ばせる、ラルフやクラークは例外中の例外だ。
今夜ベッドに入るのは予定の3時間遅れだな。そんなことを思いながら、ハイデルンは上着を脱ぎ、エレベーターの壁に体を預けて座ったまま眠る姿勢を取った。
その腕が、小さく引かれた。
「……座位での30分以上の睡眠は、却って疲労を溜めます」
「横になれ、と?」
こくり、とレオナが頷く。
長い軍隊生活で、座っていようが立っていようが、眠り体力を回復させる術ぐらい身に付けてはいる。だが、確かに横になった方が楽には楽である。
幸い基地のエレベーターは、乗せる人数とその体格に合わせて充分以上に広い。実際ハイデルンの長身が横たわっても、まるで問題のないサイズだった。
自分の腕を枕に、今度こそと目を閉じたハイデルンの腕が、また小さく引かれた。顔を上げると、闇の中でもまだ鮮やかな青い髪を揺らして、レオナが戸惑いながらこちらを覗き込んでいた。
それは部下ではなく、娘としての顔のようにも見えた。
一通り技術者たちに指示を飛ばし、電気関係の得意な整備班の連中やら傭兵たちやらを応援に行かせて、ラルフはとりあえず一息ついた。
これから自分自身も応援に行くつもりだ。クラークはとっくに行っている。少なくとも2人とも電子回路制御の爆薬の設置・解体ぐらいはできるわけだから、全くの素人というわけではない。充分戦力である。
それじゃあ俺も参戦するらここを離れますよ、とエレベーターの中の2人に呼び掛けようとして、ラルフは出掛かった声を飲み込んだ。
万が一に備えて電源を回されていた、エレベーター内の監視カメラのモニタには闇ばかりが映っている。だがその、一見闇に塗りつぶされた映像から、不幸な当事者2人の輪郭を見るぐらいは出来た。なにしろラルフも夜目が利く。
そしてラルフは、無言のままモニタのスイッチを切った。事故は事故だが貴重な「親子水入らず」の時間だ。邪魔をするのは野暮じゃないか、と。
エレベーターの中ではハイデルンが眠っている。レオナだけに見せるその寝顔は穏やかで、かつて彼を苦しめた悪夢からは縁遠い。
それもそうだ。愛する娘の膝が枕なら、悪夢も寄る辺がないだろう。
娘の膝枕で、死神と呼ばれた男が1時間だけの穏やかな夢を見る。
某スレの怒チーム組み合わせ話から、そういやそんな小ネタがメモ帳に入れっ放しだったと思い出し、引っ張り出してリライトしたもの。組み合わせはレオナ→ハイデルン。追加要素にアデルくん。全年齢OK。
私の書くレオナは本当にとことんハイデルンが好きで、私が書くハイデルンはとことんヘタレだなあと思った次第。本物のハイデルンはこんなんじゃないやい。
「All That I'm Living For」
それはラルフの役目だったはずだ。だからそれを後ろから見守っている自分に違和感があった。
最初は、ハイデルンがその役目を果たそうとした。
「私がいく、手を出すな」
そう言ってハイデルンが踏み出したのを、とっさに肩を掴んで止めたのはラルフの直感だった。やばい気がする。これを黙って行かせたら、きっと自分は後悔する。
「手を離せ。私がいく」
ハイデルンは静かにそう言った。だがラルフは首を振る。今度は直感ではなく確信だった。
「行く」ではなく、「逝く」に聞こえたのだ。
目の前に敵として立った青年は、ハイデルンの妻子を殺した男の息子だった。
数年前に、ハイデルンは男への復讐を遂げている。それはつまり、青年から見るハイデルンが父の仇になったということだった。そうして今度はあの青年・アーデルハイドが復讐を遂げようとしている。
まともな勝負なら十中八九、ハイデルンが勝つとラルフは見ていた。アデルも父譲りの才能には恵まれているようだが、まだ経験が足りない。ハイデルンにはとても及ばないだろう。
しかしきっと、ハイデルンはアデルを殺せない。アデルは生かされて、また復讐の機会を伺うだろう。技という刃を研ぎ、そこに執念という毒を塗って、その日をじっと待つだろう。
それは振り返れば空しい時間だ。ハイデルンはそのことを、誰よりも良く知っている。復讐は何も生みはしない。費やした時間はただ虚ろな抜け殻となって残る。
ハイデルンはそれを止めようとしている。そのためにここで死ぬつもりだ。あの青年のために死ぬつもりだ。ラルフはそう確信していた。
元よりハイデルンの人生は、とうの昔に終わっていたのだ。愛する者たちと共に生きるという、ささやかな望みを失った時点で。そしてその復讐を遂げた時点で。その後の生は、彼にとって余禄に過ぎない。
その余禄の時間を手放すことで、それであの青年が空しい時を費やさずに済むのなら。そんなハイデルンの心情が、ラルフは手に取るように分かる。
「手を離せ。これは命令だ」
だがラルフはそれに抗う。ハイデルンの心中を察しているからこそ命令に逆らう。
「離せるかよ! 分かってて離せるかよ!! あんたはそれでいいかもしれないが――」
そう叫んで、いっそぶん殴ろうかと思った時、ラルフの手が妙な衝撃を感じた。それはハイデルンの体を通して、ラルフの手に伝わる衝撃だった。
それはラルフの役目だった。だからとっさに肩を掴んで止めた。怒鳴ってでも、ぶん殴ってでも、2人の間に割って入ってでも止めるつもりだった。
それより前に、ハイデルンの鳩尾に容赦ない一撃を入れたのは、青い髪の少女だった。
信じられない、という顔でハイデルンがレオナを見た。それはラルフも、クラークですら同じだった。本来なら不意打ちでも、レオナの一撃などハイデルンは軽く受け止めただろう。だがそれを不覚にも受けてしまったのは、ハイデルンの意識がラルフに向かっていたせいか、それともレオナだけは自分に逆らうはずがないという油断があったのか。
「いかせません」
改めて宣言するまでもない。不意打ちで鳩尾だ。さしものハイデルンも、しばらくはまともに動けないだろう。むしろ胃の中身をぶちまけずに済ませた、その鋼の肉体を流石と言うべきかも知れない。
「……命令違反だぞ」
ハイデルンが苦しい声で言うが、それをレオナは聞かない。たぶん、最初で最後の命令違反だ。
「それでもいかせません」
そしてレオナはアデルの前に出た。それはラルフの役目だったはずの立ち位置だ。
だが、アデルはレオナを見ない。
「どきたまえ」
若き貴公子が言い放つ。
「君には関係のないことだろう」
「いいえ」
青い髪の少女は首を振る。
「血の繋がらぬ父親ではなかったか?」
「ええ」
「血の繋がらない父のため、命を賭けるのか」
「そうよ」
「なぜ、そこまで」
「まだ、この人といきたいからだと思う」
充分すぎる理由だ、とラルフは思った。結局のところ、自分も同じ理由でハイデルンを止めたのだ。
アーデルハイドは静かにうつむき、それから再び顔を上げて、レオナに向かって身構えた。相手になろう、という無言の答えだ。
レオナも構えを少し直して、それに応えた。
「レオナ・ハイデルン――」
義父の与えた名を確かめるように口にして、それから「いきます」と。
それは高らかな宣言だった。
私の書くレオナは本当にとことんハイデルンが好きで、私が書くハイデルンはとことんヘタレだなあと思った次第。本物のハイデルンはこんなんじゃないやい。
「All That I'm Living For」
それはラルフの役目だったはずだ。だからそれを後ろから見守っている自分に違和感があった。
最初は、ハイデルンがその役目を果たそうとした。
「私がいく、手を出すな」
そう言ってハイデルンが踏み出したのを、とっさに肩を掴んで止めたのはラルフの直感だった。やばい気がする。これを黙って行かせたら、きっと自分は後悔する。
「手を離せ。私がいく」
ハイデルンは静かにそう言った。だがラルフは首を振る。今度は直感ではなく確信だった。
「行く」ではなく、「逝く」に聞こえたのだ。
目の前に敵として立った青年は、ハイデルンの妻子を殺した男の息子だった。
数年前に、ハイデルンは男への復讐を遂げている。それはつまり、青年から見るハイデルンが父の仇になったということだった。そうして今度はあの青年・アーデルハイドが復讐を遂げようとしている。
まともな勝負なら十中八九、ハイデルンが勝つとラルフは見ていた。アデルも父譲りの才能には恵まれているようだが、まだ経験が足りない。ハイデルンにはとても及ばないだろう。
しかしきっと、ハイデルンはアデルを殺せない。アデルは生かされて、また復讐の機会を伺うだろう。技という刃を研ぎ、そこに執念という毒を塗って、その日をじっと待つだろう。
それは振り返れば空しい時間だ。ハイデルンはそのことを、誰よりも良く知っている。復讐は何も生みはしない。費やした時間はただ虚ろな抜け殻となって残る。
ハイデルンはそれを止めようとしている。そのためにここで死ぬつもりだ。あの青年のために死ぬつもりだ。ラルフはそう確信していた。
元よりハイデルンの人生は、とうの昔に終わっていたのだ。愛する者たちと共に生きるという、ささやかな望みを失った時点で。そしてその復讐を遂げた時点で。その後の生は、彼にとって余禄に過ぎない。
その余禄の時間を手放すことで、それであの青年が空しい時を費やさずに済むのなら。そんなハイデルンの心情が、ラルフは手に取るように分かる。
「手を離せ。これは命令だ」
だがラルフはそれに抗う。ハイデルンの心中を察しているからこそ命令に逆らう。
「離せるかよ! 分かってて離せるかよ!! あんたはそれでいいかもしれないが――」
そう叫んで、いっそぶん殴ろうかと思った時、ラルフの手が妙な衝撃を感じた。それはハイデルンの体を通して、ラルフの手に伝わる衝撃だった。
それはラルフの役目だった。だからとっさに肩を掴んで止めた。怒鳴ってでも、ぶん殴ってでも、2人の間に割って入ってでも止めるつもりだった。
それより前に、ハイデルンの鳩尾に容赦ない一撃を入れたのは、青い髪の少女だった。
信じられない、という顔でハイデルンがレオナを見た。それはラルフも、クラークですら同じだった。本来なら不意打ちでも、レオナの一撃などハイデルンは軽く受け止めただろう。だがそれを不覚にも受けてしまったのは、ハイデルンの意識がラルフに向かっていたせいか、それともレオナだけは自分に逆らうはずがないという油断があったのか。
「いかせません」
改めて宣言するまでもない。不意打ちで鳩尾だ。さしものハイデルンも、しばらくはまともに動けないだろう。むしろ胃の中身をぶちまけずに済ませた、その鋼の肉体を流石と言うべきかも知れない。
「……命令違反だぞ」
ハイデルンが苦しい声で言うが、それをレオナは聞かない。たぶん、最初で最後の命令違反だ。
「それでもいかせません」
そしてレオナはアデルの前に出た。それはラルフの役目だったはずの立ち位置だ。
だが、アデルはレオナを見ない。
「どきたまえ」
若き貴公子が言い放つ。
「君には関係のないことだろう」
「いいえ」
青い髪の少女は首を振る。
「血の繋がらぬ父親ではなかったか?」
「ええ」
「血の繋がらない父のため、命を賭けるのか」
「そうよ」
「なぜ、そこまで」
「まだ、この人といきたいからだと思う」
充分すぎる理由だ、とラルフは思った。結局のところ、自分も同じ理由でハイデルンを止めたのだ。
アーデルハイドは静かにうつむき、それから再び顔を上げて、レオナに向かって身構えた。相手になろう、という無言の答えだ。
レオナも構えを少し直して、それに応えた。
「レオナ・ハイデルン――」
義父の与えた名を確かめるように口にして、それから「いきます」と。
それは高らかな宣言だった。