戦場のメリークリスマス
「レオナ、お前、どこの引いた?」
「フランス」
「お、当たりじゃねえか。クラークは?」
「アメリカですね」
「なんだ、外れ組か。俺もだけどさ」
「エネルギーバーに当たりも外れもないでしょうよ。パウチならともかく」
「けどなあ」
ぼやくラルフの手元にあるのは、レーション(戦闘糧食)の通称「エネルギーバー」だ。
傭兵部隊の装備品その他は、各国の横流しによるものが多く、レーションもそのひとつである。だが、レーションの味には各国で大きな差があるため、不公平にならないよう、ランダムに配給されることになっている。そこで、当たり外れというものが発生するのだ。
レオナが齧っているフランスのものは、「美味しい」ことで有名な部類だ。他にも、イタリアや日本のものが美味しいと言われ、配給された者は「当たり」と羨ましがられる。
逆に外れがアメリカ。かつての物よりはだいぶ改善されたとはいえ、まだまだ微妙な味である。それが一番、一般市場に流出しやすく、傭兵部隊の糧食の8割以上を占めているのだから不満の声が上がるのも当然だろう。
しかし、エネルギー不足を補うためだけの、油脂と炭水化物と糖分の塊であるエネルギーバーに関しては、どこの国も大して差はない。せいぜい、ナッツが主体だとか、ドライフルーツが多いとか、その程度の差だ。クラークなど、かえって慣れた味のアメリカ産の方が口に合う。
もそもそとバーを齧り、水筒の水を飲む。
気温は低い。底冷えするような夜だというのに、敵に発見されることを恐れて火も焚けずにいるせいで、体が冷えて来ている。こうしてカロリーを摂取して、内側から体温を上げないと、凍えきって体が動かなくなりそうだ。
本当は、同じレーションでももう少し料理らしい料理が入ったパウチを温め、きちんとした食事を摂りたいところだが、それが許される状況ではなかった。。
敵陣の真っ只中である。作戦のメインである目標の破壊には成功したが、撤退にしくじった。負傷者もいるから無茶な行動はできないし、なにより圧倒的多数の敵兵に包囲されてしまっている。
幸いにも、まだこちらの居場所は発見されていないが、脱出する程の隙もない。このままでは、じわじわと包囲の輪を狭められて、発見されるのは時間の問題だ。
「しかし参ったな」
いち早くバーを胃に収めたラルフが、バーの包装紙をぐしゃりと握りつぶしてポケットに押し込む。
別にラルフは、自然環境の保護を心がけてゴミを残さないわけではない。その辺りに適当に捨てて、それをきっかけに追跡されるのはあまりにも馬鹿らしいと思っているだけだ。移動を前提にしているなら、自分達がここにいたという痕跡は、なるべく減らすに限る。
「参りましたね。こんな風に追い詰められたのは、数年ぶりじゃないですか」
「確かにここんとこなかったな。若い頃は負け戦なんか日常茶飯事で、しょっちゅうこんな目に遭ってたけどな」
そういや、こいつはこういうの、初めてじゃなかったっけ?と、ラルフは傍らの少女を見る。
レオナは、バーの最後のひとかけらを、口に入れたところだった。この、戦場に出てから日の浅い少女は、まだ本当の負け戦を知らない。こんな風に、呑気にバーを齧っていられるようなものではない、本当の負け戦。少し前まで仲間と呼んでいたものがただの肉の塊になって、それを踏み越えて逃げ惑うような負け戦を知らない。
動揺するでもなく、食事が喉を通らないということもなく、黙々とバーを齧っていられるのは、そのせいだろうかなどと考えてみる。
レオナがバーを飲み込んだのを見計らって、ラルフは声を掛けた。
「レオナ」
「何?」
やはり、不安の色など微塵も見せない声である。
「負傷者の具合を、ちょっと聞いてきてくれ」
「了解」
負傷者を抱えたチームは、ラルフたちが隠れている岩陰から少し離れた、別の岩の陰に身を潜めている。普通なら大声を出せば済む距離だが、今はそういう訳にはいかない。となると、習い覚えた暗殺術の成果として、足音をほとんど立てずに移動できるレオナは、これ以上ない伝令と言えた。
レオナは周囲を伺いながら、素早く岩陰を飛び出していく。その矢先に、ぽつりと来た。
雨である。
雨は更に体温を、そして体力を奪う。その上、ここの土地は泥質でぬかるみやすい。雨が降れば降るほど、脱出が更に困難になるのは目に見えていた。
「参ったな」
そう繰り返し、ラルフは空を見上げた。夜空には、雲が厚く重なっている。通り雨で済む気配ではなかった。
慣れたはずの装備が妙に重く感じるのは、ブーツの中までずぶ濡れになってしまったせいだろうか。いくら防水素材の戦闘服とはいえ、雨を防ぐには限界がある。こんなに激しく動いていればなおさらだ。雨滴は、襟元やあちこちの裂け目から容赦なく入り込んでくる。
体が冷えている、そう自覚していた。冷えて筋肉が強張った体が、思考の速度に付いていかない。まるで自分だけがスローモーションの世界にいるような気がする。
後方から声が聞こえた。味方の声では有り得ない。
一番近くて太くて、盾にできるぐらい頑丈そうに見える木の陰に飛び込みながら、挨拶代わりに小銃を何発か撃ち込んでやった。悲鳴が上がったところを見ると、少なくとも1発は当たったらしい。相手は何秒かそれに気を取られる、と予測してまた走る。
「やべえかな」
そんな台詞が出てくるうちはまだ大丈夫だと思いつつ、頭の中で残弾を計算した。あまり余裕のある数は残っていない。もう無駄遣いはできない。
「やべえな、やっぱり」
先程より、怒りの度合いが増した声が追ってくる。仲間を撃たれて逆上したのだろう。ばら撒かれる鉛弾を横っ飛びに避けて、また走る。
走るより、ない。
表情の変化の乏しいレオナから、感情の起伏を読み取るのは難しい。だが、そこは長い付き合いだ。戻ってきたレオナの報告を聞く前に、普段よりも僅かに眉を顰めた顔から、ラルフとクラークは状況があまり芳しくないことを理解した。
「早いうちに、まともな医療施設に搬送した方がいいわ。このまま4時間も放っておいたら、担架じゃなくて死体袋が必要になると思う」
「お前、そんなブラックな冗談、どこで覚えた?」
「ここで。大佐と中尉から」
その答えに、ラルフは憮然とし、クラークは苦笑した。確かにそれは、ラルフとクラークのやり取りに良く使われるような冗談だ。
「だからって、お前ね。使って笑いが取れる人間と、そうでない人間がいるってことをわきまえろよ」
「使う場所はわきまえたつもり」
「あのなあ――」
「で、どうします?」
非建設的なやり取りに、終止符を打ったのはクラークだった。クラークも、レオナの冗談などという滅多に出ない貴重な代物をもう少し聞いていたいという気持ちはあったが、状況が状況である。
「完全包囲の四面楚歌。戦力差は計算するのも馬鹿らしいぐらい圧倒的。援軍を待つ時間もない。どうやって、切り抜けます?」
「あー、そうだよなー」
がりがりと頭を掻きながら、ラルフが考え込む。その間、ほんの数秒。
悩むのは苦手で、決断の早い男である。それを無謀と言うか、英断と評するかは別の問題として。
「俺がちょっと、引っ掻き回してくるから、お前たちはその間に脱出しろ」
「大佐1人で?」
「陽動にそんなに人数裂くもんじゃねえだろ。かえって1人の方が身軽でいいさ」
「無謀だわ」
レオナが、ゆっくりと首を横に振る。
「1人じゃ無理よ。私も行くわ」
「駄目だ。お前はクラークの補佐」
「あれだけの人数を、1人で相手にするの? 危険だわ」
「1人の方がいいんだよ」
今度は、ラルフが首を横に振る番だ。まだまだ分かっちゃいねえヒヨコだな、という顔だ。
「味方が周りにいないからこそ、できる無茶ってもんがあるんだよ。大体、負傷者連れて移動するそっちの方が、ある意味よっぽど面倒で危険だっての。そこからこれ以上、主力を割けるか?」
「でも……!」
「レオナ、指揮官命令」
クラークの言葉に、急に現実に引き戻されたかのように、レオナは絶句する。
この場の最高指揮官はラルフだ。そのラルフがやる、と言っている。レオナは、それに口答えして良い立場ではない。
上官の命令は絶対。それはレオナにも骨の髄まで染み込んでいる、軍人の最低限にして最大のルールだ。
それを、一瞬とは言え、忘れた。忘れさせるほど、ラルフの存在はレオナの中で重かった。
「……了解」
納得したわけではないが、そう答えるよりない。
「よし、それじゃあ俺は出る準備するわ。30分きっかり経ったら、D地点で行動起こすから、そっちはそれに合わせて脱出しろ。合流予定時間は現時刻から2時間後、場所はA地点。俺が合流しなくても、時間が来たらそのまま撤退。その間の指揮はクラークに任す。いいな?」
自分が本隊を離れる時の指示は最低限、というのがラルフの信条だ。代理の指揮官さえしっかりしていれば、後は状況に応じて、臨機応変に何とかするはずだ。そこに妙な口を挟むような指示を残して、余計な問題を起こすのはつまらない。
性格上、大雑把な指示しか残せないと見る向きもあるが、少なくともクラークと組んで、それが悪い方に転んだことはないのだから、それはそれで良いのだろう。
「了解――それじゃあ、これ。いつものです」
そう言ってラルフに差し出されたのは、クラーク愛用のコルトガバメント、それもじっくりと時間をかけてカスタムされた1丁である。
「わかった、借りとくぜ」
そのやり取りに、レオナが首をかしげた。確かにクラークの銃は良いものだ。圧倒的不利な状況に飛び込もうという戦友への選別には悪くない。
だが、ラルフの武器が不足しているわけではない。弾もそれなりの数を持っているし、何よりこういう時に必要なのは、良い武器よりも使い慣れた武器だ。何かあった時、使い方に一瞬でも戸惑っては命取りだからだ。
クラークの銃は、彼の手のサイズや射撃の癖に合わせてカスタムされている。ラルフにとって使いやすい銃――この状況で差し出し、受け取るのに相応しい武器かというと、疑問だった。
疑問符を顔に浮かべたレオナを見て、何を考えているのか悟ったのだろう。質問の前に、クラークが答えた。
「験担ぎみたいなものさ。お互いに預けるんだよ、自分の大切な物を」
それは、2人が出会った頃からの、奇妙なルールだと言う。
預けたものは銃だったことも、勲章だったこともある。暗闇で押し付けられたものを後で見たら、手持ち最後の糧食に入っていたガムだったこともある。
それが何の役に立つということではない。ただ、預かったということが大切なのだ。
「これを返すまで、返してもらうまで、死ぬなってことさ」
どんな小さな約束でも、果たそうという意地が力になる。意地で全てが解決するほど戦場は甘くはないが、それでもそういうものが、必要になる時がある。
「で、大佐は何を預けます? 今回はナイフですか? バンダナですか?」
「それじゃ、こいつ」
言葉と同時に、乱暴に背中を押され、レオナは軽くよろめいた。
「頼むわ。預かっといてくれ」
クラークが、笑った。確かに、ラルフにとってこれ以上大切なものはない。
ラルフも笑った。笑いながら、その間も淀みなく、ラルフは出撃の準備を整えていく。
と言っても、元々臨戦態勢だから、改めて整えるほどの装備はない。せいぜい予備の銃弾を確認するぐらいだ。それとクラークから預かった分の銃をホルスターに収めて、ほとんどそれだけで準備は終わる。
「じゃ、また後で」
「おう」
あっさりと別れの言葉を交わして、クラークは自分の仕事に向かった。ラルフが言うとおり、負傷者を連れての脱出行は楽なものではない。長年の相棒であるラルフとのコンビネーションを使えないならなおさらだ。かといって、経験の浅いレオナを陽動に使うのは心もとない。その不利を埋める為に、指揮官としてやらなければならないことは山ほどある。
だが、レオナはその後を追わなかった。
「どうした、レオナ。お前はクラークの補佐だろうが」
先程まで、冷静すぎるほどだった顔が、明らかに動揺し、不安げに揺れている。滅多に見せない表情だ。
「馬鹿、そんな顔するな」
レオナの気持ちは、ラルフにもよく分かる。
かつての自分がそうだった。誰かが死ぬかもしれない、と思うと出撃前夜は眠れなかった。恐怖のあまり吐き気を催し、しまいには吐くものもなくなって、涙目で胃液ばかりを吐き出したことも1度や2度ではない。
「ちゃんと帰ってくるって、な?。もっとヤバい橋だって随分渡ってきたんだ。こんなん大したことじゃねえ。ちゃんと帰ってくるって」
帰ってくる、とラルフが言う度に、ただレオナは頷いた。
繰り返した言葉は、意味のない約束だ。奇跡的な生還の度に、英雄だ伝説だと祭り上げられてきたが、ラルフ自身は魔法使いでも超能力者でもない。ただ運が良かっただけだ。
その運が続くとは限らない。今日死神に見初められているのは、敵ではなくラルフ自身かもしれない。それどころか、今この瞬間にも銃弾に貫かれ、2人ともただの血塗れの肉塊となって転がるかもしれない。
それでも、傭兵達は約束をする。銃を預け、大切な人を預けて。
「クラークにお前を預けっぱなしじゃ死ねねえよ。だから、お前も死ぬな」
「……了解」
「じゃ、行ってくる。もう出ねえと、間に合わないからな。クラークのこと、頼んだぜ」
「ええ。了解」
それ以上、言葉はなかった。
そして2人は、互いに背を向ける。それぞれの戦場に向かう為に。
ぬかるみで足を滑らせ、転んだ拍子に、口の中に泥が入り込んだ。先程からずっと口の中に広がっていた鉄錆の臭いと混じって、ひどい味だ。
戦場で1人きり、と言うのは何年ぶりだろう。ふと、そんなことを思った。
ここのところ、いつも誰かと一緒だった。味方がほぼ全滅し、孤立するような負け戦になった記憶はもう随分長い間ないし、安心して背中を預けられる戦友も得た。それは悪いことではないが、慣れすぎてしまった気がする。
昔は、こういう状況を単純に楽しんでいた。いくら銃を乱射しても、味方に当たる心配をすることがない状況。人影と見れば撃てばいい。ただそれだけの世界。命懸けの爽快感。
もっと昔は、同じ状況で、泣きながら這いずっていた。仲間の死体に泣き、千切れた腕に泣き、誰のものかもわからない認識票を握り締めて泣きながら、それでも生きることを諦められずに、いつ自分も死ぬかと怯えながら這い進んだ。
今は、そのどちらとも違う。
背中の軽さには懐かしい爽快感を思い出さなくもないが、妙な寂しさも感じる。泣くほどの恐怖や怯えがある訳でもないが、何ともないと言うにはどこかが虚ろだった。
老けたのかね、俺も。そんなことを思ったすぐ脇を、銃弾が走り抜けた。狙われた気配はない。威嚇を兼ねて撃った1発が、偶然掠めただけだろう。だが、次の1発も外れるとは限らない。
「老けたかもしれないが、まだおとなしく死ぬ気になるほど歳喰っちゃいねえよ」
残弾はもう僅かだが、ナイフで行くには骨が折れる人数か。ぼそりと呟きながら、そんなことを考えていた。
夜明け前には雨も上がった。夜明けを目前にして空は白み始め、光は差さないまでもだいぶ明るくなってきている。
戦場は静かだった。昨夜の騒乱が嘘のようである。
「もうすぐ約束の時間だな」
腕時計を見ながら、クラークは誰にともなく呟いた。
負傷者が数人増えたが、それ以上の犠牲はなく、クラーク率いる本隊は無事、脱出を遂げた。
これも、ラルフが派手に立ち回ってくれたお陰だ。ひっきりなしに聞こえた銃声から推測すると、相手は相当な苦戦を強いられたらしい。そちらの対応に追われ、こちらに割く兵力がなかったのだろう。
ラルフなら当然だ、とクラークは戦友を思う。あれは、そういうことができる男だと。
「あと5分」
「そうね、5分あるわ」
何気なく口に出した言葉を、レオナが拾い上げて繰り返す。
ラルフは、まだ戻らない。いくら戦場を見渡しても、あの見慣れた姿は見えなかった。
それでも予定通り、5分後には移動しなければならない。いつまでもここにいれば、また敵に追撃されるおそれがある。
「……中尉は……」
「ん? なんだレオナ」
「中尉は、不安じゃないの?」
「そりゃ、不安さ」
誰も口には出さないが、最悪の結果を覚悟しているのは確かだ。有り得ないことではない。むしろ、今までそうならなかったことが不思議なのだ。
クラークはそれを、正直に答えた。
「でも、あなたは迷わないのね」
「迷う?」
「時間が来たら、あなたは移動を始めるでしょう?」
「ああ、そうだな」
「私は、ずっと迷っているわ」
言いながら、レオナはラルフを探し、遠くに目を凝らしている。
「命令に従って、帰投するか。命令違反と承知で、ラルフを探しに戻るか。どちらの道を選ぶべきか。自分はどちらを望んでいるのか……ずっと迷っているわ」
「不安、なのか?」
「ええ……そうね」
「お前、随分まともになったな」
それは、クラークの正直な感想だった。
出会った頃のレオナは、ただ作りの良い人形のような娘で、悲しみ以外の感情がすっぽりと抜け落ちているようなところがあった。
だが、近頃ではどうだ。相変わらず表情は乏しいが、笑いもするし、喜びもする。こんな風に、不安にもなる。
だが、レオナをそう変えた男は、まだ戻らない。かつて、同じようにクラークの何かを変えた男は。
「俺は、 あの馬鹿が簡単にくたばるはずがない、って信じている。だから、迷わない」
自分自身に言い聞かせるようにそう言った時、時計の針が動いた。
「――時間だ、撤退する」
「中尉……!」
レオナが短く、しかし鋭く叫ぶ。思わずクラークがそちらを見てしまうほどの、縋るような声で。
後に続きそうな言葉は簡単に想像できる。レオナがそれを口に出すかどうかは分からないが、「もう少し待って」と、そう続けたいに違いない。
そう言いたい気持ちは分かる。
だから、言われる前に遮ろうとした。
「合流できるポイントは、まだいくらでも――」
「良かったら、もう少し待ってくれねえか?」
声は、逆にクラークの言葉を遮った。
最初、それは人型の泥の塊にしか見えなかった。だが、泥人形の顔が作る、あの人懐こい笑顔は。
歓声が、どっと押し寄せてラルフを包んだ。さすが大佐だ、やっぱり帰ってきた、万歳、俺は信じてましたよ――
何をどう切り抜けてきたのか、傷だらけの泥だらけで、しかもあちらこちらに返り血らしい血飛沫まで飛ばして、顔は煤けて黒くなった上に乾きかけた泥が貼り付いている。ひどい格好だが、傷はどれも浅いらしいのは幸いだ。
「クラーク、悪い。銃な、途中で落としちまったみたいでよ。帰ったら――わ、やめろよ、冷てえ」
誰かが水筒を開け、中身を盛大にラルフに掛けて、顔の泥を拭う。1人が始めると、我も我もと後に続くのが大変だ。泥まみれの上に水浸しまで加わって、かえってひどい有様である。しまいには泥を流そうというより、勝利者へのシャンペンシャワーの様相を呈してきた。
「いや、俺はあれが気に入ってたんですけどね」
不服そうに言いながら、サングラスの向こうで、大騒ぎを見詰める青い目が笑っている。
「あれを返してくれないと、こっちの分は返せませんよ――と、言いたいところですが、まあ、今日のところは貸しにしておいてあげますよ」
今度はクラークに背を押され、レオナが一歩、前に出る。泥水に塗れた手が伸ばされてその髪を撫ぜ、青い髪も泥で汚れたが、レオナは嫌がらなかった。不器用な表情のせいで分かりにくいが、むしろ喜んでいるようにも見える。
レオナの髪を撫ぜながら、ラルフが怪訝そうに聞き返す。
「随分と寛大だな。どういう風の吹き回しだ? 俺が戻ったのが嬉しくて、何て気持ち悪いこと言うなよ?」
「まさか」
クラークは、肩を竦めて笑う。
「今日はクリスマスですから。プレゼントの代わりに、まけときますよ」
戦場に、朝日が差し込み始めていた。
「Good Morning、Merry Christmas!」
誰かが、そう叫んだ。
「レオナ、お前、どこの引いた?」
「フランス」
「お、当たりじゃねえか。クラークは?」
「アメリカですね」
「なんだ、外れ組か。俺もだけどさ」
「エネルギーバーに当たりも外れもないでしょうよ。パウチならともかく」
「けどなあ」
ぼやくラルフの手元にあるのは、レーション(戦闘糧食)の通称「エネルギーバー」だ。
傭兵部隊の装備品その他は、各国の横流しによるものが多く、レーションもそのひとつである。だが、レーションの味には各国で大きな差があるため、不公平にならないよう、ランダムに配給されることになっている。そこで、当たり外れというものが発生するのだ。
レオナが齧っているフランスのものは、「美味しい」ことで有名な部類だ。他にも、イタリアや日本のものが美味しいと言われ、配給された者は「当たり」と羨ましがられる。
逆に外れがアメリカ。かつての物よりはだいぶ改善されたとはいえ、まだまだ微妙な味である。それが一番、一般市場に流出しやすく、傭兵部隊の糧食の8割以上を占めているのだから不満の声が上がるのも当然だろう。
しかし、エネルギー不足を補うためだけの、油脂と炭水化物と糖分の塊であるエネルギーバーに関しては、どこの国も大して差はない。せいぜい、ナッツが主体だとか、ドライフルーツが多いとか、その程度の差だ。クラークなど、かえって慣れた味のアメリカ産の方が口に合う。
もそもそとバーを齧り、水筒の水を飲む。
気温は低い。底冷えするような夜だというのに、敵に発見されることを恐れて火も焚けずにいるせいで、体が冷えて来ている。こうしてカロリーを摂取して、内側から体温を上げないと、凍えきって体が動かなくなりそうだ。
本当は、同じレーションでももう少し料理らしい料理が入ったパウチを温め、きちんとした食事を摂りたいところだが、それが許される状況ではなかった。。
敵陣の真っ只中である。作戦のメインである目標の破壊には成功したが、撤退にしくじった。負傷者もいるから無茶な行動はできないし、なにより圧倒的多数の敵兵に包囲されてしまっている。
幸いにも、まだこちらの居場所は発見されていないが、脱出する程の隙もない。このままでは、じわじわと包囲の輪を狭められて、発見されるのは時間の問題だ。
「しかし参ったな」
いち早くバーを胃に収めたラルフが、バーの包装紙をぐしゃりと握りつぶしてポケットに押し込む。
別にラルフは、自然環境の保護を心がけてゴミを残さないわけではない。その辺りに適当に捨てて、それをきっかけに追跡されるのはあまりにも馬鹿らしいと思っているだけだ。移動を前提にしているなら、自分達がここにいたという痕跡は、なるべく減らすに限る。
「参りましたね。こんな風に追い詰められたのは、数年ぶりじゃないですか」
「確かにここんとこなかったな。若い頃は負け戦なんか日常茶飯事で、しょっちゅうこんな目に遭ってたけどな」
そういや、こいつはこういうの、初めてじゃなかったっけ?と、ラルフは傍らの少女を見る。
レオナは、バーの最後のひとかけらを、口に入れたところだった。この、戦場に出てから日の浅い少女は、まだ本当の負け戦を知らない。こんな風に、呑気にバーを齧っていられるようなものではない、本当の負け戦。少し前まで仲間と呼んでいたものがただの肉の塊になって、それを踏み越えて逃げ惑うような負け戦を知らない。
動揺するでもなく、食事が喉を通らないということもなく、黙々とバーを齧っていられるのは、そのせいだろうかなどと考えてみる。
レオナがバーを飲み込んだのを見計らって、ラルフは声を掛けた。
「レオナ」
「何?」
やはり、不安の色など微塵も見せない声である。
「負傷者の具合を、ちょっと聞いてきてくれ」
「了解」
負傷者を抱えたチームは、ラルフたちが隠れている岩陰から少し離れた、別の岩の陰に身を潜めている。普通なら大声を出せば済む距離だが、今はそういう訳にはいかない。となると、習い覚えた暗殺術の成果として、足音をほとんど立てずに移動できるレオナは、これ以上ない伝令と言えた。
レオナは周囲を伺いながら、素早く岩陰を飛び出していく。その矢先に、ぽつりと来た。
雨である。
雨は更に体温を、そして体力を奪う。その上、ここの土地は泥質でぬかるみやすい。雨が降れば降るほど、脱出が更に困難になるのは目に見えていた。
「参ったな」
そう繰り返し、ラルフは空を見上げた。夜空には、雲が厚く重なっている。通り雨で済む気配ではなかった。
慣れたはずの装備が妙に重く感じるのは、ブーツの中までずぶ濡れになってしまったせいだろうか。いくら防水素材の戦闘服とはいえ、雨を防ぐには限界がある。こんなに激しく動いていればなおさらだ。雨滴は、襟元やあちこちの裂け目から容赦なく入り込んでくる。
体が冷えている、そう自覚していた。冷えて筋肉が強張った体が、思考の速度に付いていかない。まるで自分だけがスローモーションの世界にいるような気がする。
後方から声が聞こえた。味方の声では有り得ない。
一番近くて太くて、盾にできるぐらい頑丈そうに見える木の陰に飛び込みながら、挨拶代わりに小銃を何発か撃ち込んでやった。悲鳴が上がったところを見ると、少なくとも1発は当たったらしい。相手は何秒かそれに気を取られる、と予測してまた走る。
「やべえかな」
そんな台詞が出てくるうちはまだ大丈夫だと思いつつ、頭の中で残弾を計算した。あまり余裕のある数は残っていない。もう無駄遣いはできない。
「やべえな、やっぱり」
先程より、怒りの度合いが増した声が追ってくる。仲間を撃たれて逆上したのだろう。ばら撒かれる鉛弾を横っ飛びに避けて、また走る。
走るより、ない。
表情の変化の乏しいレオナから、感情の起伏を読み取るのは難しい。だが、そこは長い付き合いだ。戻ってきたレオナの報告を聞く前に、普段よりも僅かに眉を顰めた顔から、ラルフとクラークは状況があまり芳しくないことを理解した。
「早いうちに、まともな医療施設に搬送した方がいいわ。このまま4時間も放っておいたら、担架じゃなくて死体袋が必要になると思う」
「お前、そんなブラックな冗談、どこで覚えた?」
「ここで。大佐と中尉から」
その答えに、ラルフは憮然とし、クラークは苦笑した。確かにそれは、ラルフとクラークのやり取りに良く使われるような冗談だ。
「だからって、お前ね。使って笑いが取れる人間と、そうでない人間がいるってことをわきまえろよ」
「使う場所はわきまえたつもり」
「あのなあ――」
「で、どうします?」
非建設的なやり取りに、終止符を打ったのはクラークだった。クラークも、レオナの冗談などという滅多に出ない貴重な代物をもう少し聞いていたいという気持ちはあったが、状況が状況である。
「完全包囲の四面楚歌。戦力差は計算するのも馬鹿らしいぐらい圧倒的。援軍を待つ時間もない。どうやって、切り抜けます?」
「あー、そうだよなー」
がりがりと頭を掻きながら、ラルフが考え込む。その間、ほんの数秒。
悩むのは苦手で、決断の早い男である。それを無謀と言うか、英断と評するかは別の問題として。
「俺がちょっと、引っ掻き回してくるから、お前たちはその間に脱出しろ」
「大佐1人で?」
「陽動にそんなに人数裂くもんじゃねえだろ。かえって1人の方が身軽でいいさ」
「無謀だわ」
レオナが、ゆっくりと首を横に振る。
「1人じゃ無理よ。私も行くわ」
「駄目だ。お前はクラークの補佐」
「あれだけの人数を、1人で相手にするの? 危険だわ」
「1人の方がいいんだよ」
今度は、ラルフが首を横に振る番だ。まだまだ分かっちゃいねえヒヨコだな、という顔だ。
「味方が周りにいないからこそ、できる無茶ってもんがあるんだよ。大体、負傷者連れて移動するそっちの方が、ある意味よっぽど面倒で危険だっての。そこからこれ以上、主力を割けるか?」
「でも……!」
「レオナ、指揮官命令」
クラークの言葉に、急に現実に引き戻されたかのように、レオナは絶句する。
この場の最高指揮官はラルフだ。そのラルフがやる、と言っている。レオナは、それに口答えして良い立場ではない。
上官の命令は絶対。それはレオナにも骨の髄まで染み込んでいる、軍人の最低限にして最大のルールだ。
それを、一瞬とは言え、忘れた。忘れさせるほど、ラルフの存在はレオナの中で重かった。
「……了解」
納得したわけではないが、そう答えるよりない。
「よし、それじゃあ俺は出る準備するわ。30分きっかり経ったら、D地点で行動起こすから、そっちはそれに合わせて脱出しろ。合流予定時間は現時刻から2時間後、場所はA地点。俺が合流しなくても、時間が来たらそのまま撤退。その間の指揮はクラークに任す。いいな?」
自分が本隊を離れる時の指示は最低限、というのがラルフの信条だ。代理の指揮官さえしっかりしていれば、後は状況に応じて、臨機応変に何とかするはずだ。そこに妙な口を挟むような指示を残して、余計な問題を起こすのはつまらない。
性格上、大雑把な指示しか残せないと見る向きもあるが、少なくともクラークと組んで、それが悪い方に転んだことはないのだから、それはそれで良いのだろう。
「了解――それじゃあ、これ。いつものです」
そう言ってラルフに差し出されたのは、クラーク愛用のコルトガバメント、それもじっくりと時間をかけてカスタムされた1丁である。
「わかった、借りとくぜ」
そのやり取りに、レオナが首をかしげた。確かにクラークの銃は良いものだ。圧倒的不利な状況に飛び込もうという戦友への選別には悪くない。
だが、ラルフの武器が不足しているわけではない。弾もそれなりの数を持っているし、何よりこういう時に必要なのは、良い武器よりも使い慣れた武器だ。何かあった時、使い方に一瞬でも戸惑っては命取りだからだ。
クラークの銃は、彼の手のサイズや射撃の癖に合わせてカスタムされている。ラルフにとって使いやすい銃――この状況で差し出し、受け取るのに相応しい武器かというと、疑問だった。
疑問符を顔に浮かべたレオナを見て、何を考えているのか悟ったのだろう。質問の前に、クラークが答えた。
「験担ぎみたいなものさ。お互いに預けるんだよ、自分の大切な物を」
それは、2人が出会った頃からの、奇妙なルールだと言う。
預けたものは銃だったことも、勲章だったこともある。暗闇で押し付けられたものを後で見たら、手持ち最後の糧食に入っていたガムだったこともある。
それが何の役に立つということではない。ただ、預かったということが大切なのだ。
「これを返すまで、返してもらうまで、死ぬなってことさ」
どんな小さな約束でも、果たそうという意地が力になる。意地で全てが解決するほど戦場は甘くはないが、それでもそういうものが、必要になる時がある。
「で、大佐は何を預けます? 今回はナイフですか? バンダナですか?」
「それじゃ、こいつ」
言葉と同時に、乱暴に背中を押され、レオナは軽くよろめいた。
「頼むわ。預かっといてくれ」
クラークが、笑った。確かに、ラルフにとってこれ以上大切なものはない。
ラルフも笑った。笑いながら、その間も淀みなく、ラルフは出撃の準備を整えていく。
と言っても、元々臨戦態勢だから、改めて整えるほどの装備はない。せいぜい予備の銃弾を確認するぐらいだ。それとクラークから預かった分の銃をホルスターに収めて、ほとんどそれだけで準備は終わる。
「じゃ、また後で」
「おう」
あっさりと別れの言葉を交わして、クラークは自分の仕事に向かった。ラルフが言うとおり、負傷者を連れての脱出行は楽なものではない。長年の相棒であるラルフとのコンビネーションを使えないならなおさらだ。かといって、経験の浅いレオナを陽動に使うのは心もとない。その不利を埋める為に、指揮官としてやらなければならないことは山ほどある。
だが、レオナはその後を追わなかった。
「どうした、レオナ。お前はクラークの補佐だろうが」
先程まで、冷静すぎるほどだった顔が、明らかに動揺し、不安げに揺れている。滅多に見せない表情だ。
「馬鹿、そんな顔するな」
レオナの気持ちは、ラルフにもよく分かる。
かつての自分がそうだった。誰かが死ぬかもしれない、と思うと出撃前夜は眠れなかった。恐怖のあまり吐き気を催し、しまいには吐くものもなくなって、涙目で胃液ばかりを吐き出したことも1度や2度ではない。
「ちゃんと帰ってくるって、な?。もっとヤバい橋だって随分渡ってきたんだ。こんなん大したことじゃねえ。ちゃんと帰ってくるって」
帰ってくる、とラルフが言う度に、ただレオナは頷いた。
繰り返した言葉は、意味のない約束だ。奇跡的な生還の度に、英雄だ伝説だと祭り上げられてきたが、ラルフ自身は魔法使いでも超能力者でもない。ただ運が良かっただけだ。
その運が続くとは限らない。今日死神に見初められているのは、敵ではなくラルフ自身かもしれない。それどころか、今この瞬間にも銃弾に貫かれ、2人ともただの血塗れの肉塊となって転がるかもしれない。
それでも、傭兵達は約束をする。銃を預け、大切な人を預けて。
「クラークにお前を預けっぱなしじゃ死ねねえよ。だから、お前も死ぬな」
「……了解」
「じゃ、行ってくる。もう出ねえと、間に合わないからな。クラークのこと、頼んだぜ」
「ええ。了解」
それ以上、言葉はなかった。
そして2人は、互いに背を向ける。それぞれの戦場に向かう為に。
ぬかるみで足を滑らせ、転んだ拍子に、口の中に泥が入り込んだ。先程からずっと口の中に広がっていた鉄錆の臭いと混じって、ひどい味だ。
戦場で1人きり、と言うのは何年ぶりだろう。ふと、そんなことを思った。
ここのところ、いつも誰かと一緒だった。味方がほぼ全滅し、孤立するような負け戦になった記憶はもう随分長い間ないし、安心して背中を預けられる戦友も得た。それは悪いことではないが、慣れすぎてしまった気がする。
昔は、こういう状況を単純に楽しんでいた。いくら銃を乱射しても、味方に当たる心配をすることがない状況。人影と見れば撃てばいい。ただそれだけの世界。命懸けの爽快感。
もっと昔は、同じ状況で、泣きながら這いずっていた。仲間の死体に泣き、千切れた腕に泣き、誰のものかもわからない認識票を握り締めて泣きながら、それでも生きることを諦められずに、いつ自分も死ぬかと怯えながら這い進んだ。
今は、そのどちらとも違う。
背中の軽さには懐かしい爽快感を思い出さなくもないが、妙な寂しさも感じる。泣くほどの恐怖や怯えがある訳でもないが、何ともないと言うにはどこかが虚ろだった。
老けたのかね、俺も。そんなことを思ったすぐ脇を、銃弾が走り抜けた。狙われた気配はない。威嚇を兼ねて撃った1発が、偶然掠めただけだろう。だが、次の1発も外れるとは限らない。
「老けたかもしれないが、まだおとなしく死ぬ気になるほど歳喰っちゃいねえよ」
残弾はもう僅かだが、ナイフで行くには骨が折れる人数か。ぼそりと呟きながら、そんなことを考えていた。
夜明け前には雨も上がった。夜明けを目前にして空は白み始め、光は差さないまでもだいぶ明るくなってきている。
戦場は静かだった。昨夜の騒乱が嘘のようである。
「もうすぐ約束の時間だな」
腕時計を見ながら、クラークは誰にともなく呟いた。
負傷者が数人増えたが、それ以上の犠牲はなく、クラーク率いる本隊は無事、脱出を遂げた。
これも、ラルフが派手に立ち回ってくれたお陰だ。ひっきりなしに聞こえた銃声から推測すると、相手は相当な苦戦を強いられたらしい。そちらの対応に追われ、こちらに割く兵力がなかったのだろう。
ラルフなら当然だ、とクラークは戦友を思う。あれは、そういうことができる男だと。
「あと5分」
「そうね、5分あるわ」
何気なく口に出した言葉を、レオナが拾い上げて繰り返す。
ラルフは、まだ戻らない。いくら戦場を見渡しても、あの見慣れた姿は見えなかった。
それでも予定通り、5分後には移動しなければならない。いつまでもここにいれば、また敵に追撃されるおそれがある。
「……中尉は……」
「ん? なんだレオナ」
「中尉は、不安じゃないの?」
「そりゃ、不安さ」
誰も口には出さないが、最悪の結果を覚悟しているのは確かだ。有り得ないことではない。むしろ、今までそうならなかったことが不思議なのだ。
クラークはそれを、正直に答えた。
「でも、あなたは迷わないのね」
「迷う?」
「時間が来たら、あなたは移動を始めるでしょう?」
「ああ、そうだな」
「私は、ずっと迷っているわ」
言いながら、レオナはラルフを探し、遠くに目を凝らしている。
「命令に従って、帰投するか。命令違反と承知で、ラルフを探しに戻るか。どちらの道を選ぶべきか。自分はどちらを望んでいるのか……ずっと迷っているわ」
「不安、なのか?」
「ええ……そうね」
「お前、随分まともになったな」
それは、クラークの正直な感想だった。
出会った頃のレオナは、ただ作りの良い人形のような娘で、悲しみ以外の感情がすっぽりと抜け落ちているようなところがあった。
だが、近頃ではどうだ。相変わらず表情は乏しいが、笑いもするし、喜びもする。こんな風に、不安にもなる。
だが、レオナをそう変えた男は、まだ戻らない。かつて、同じようにクラークの何かを変えた男は。
「俺は、 あの馬鹿が簡単にくたばるはずがない、って信じている。だから、迷わない」
自分自身に言い聞かせるようにそう言った時、時計の針が動いた。
「――時間だ、撤退する」
「中尉……!」
レオナが短く、しかし鋭く叫ぶ。思わずクラークがそちらを見てしまうほどの、縋るような声で。
後に続きそうな言葉は簡単に想像できる。レオナがそれを口に出すかどうかは分からないが、「もう少し待って」と、そう続けたいに違いない。
そう言いたい気持ちは分かる。
だから、言われる前に遮ろうとした。
「合流できるポイントは、まだいくらでも――」
「良かったら、もう少し待ってくれねえか?」
声は、逆にクラークの言葉を遮った。
最初、それは人型の泥の塊にしか見えなかった。だが、泥人形の顔が作る、あの人懐こい笑顔は。
歓声が、どっと押し寄せてラルフを包んだ。さすが大佐だ、やっぱり帰ってきた、万歳、俺は信じてましたよ――
何をどう切り抜けてきたのか、傷だらけの泥だらけで、しかもあちらこちらに返り血らしい血飛沫まで飛ばして、顔は煤けて黒くなった上に乾きかけた泥が貼り付いている。ひどい格好だが、傷はどれも浅いらしいのは幸いだ。
「クラーク、悪い。銃な、途中で落としちまったみたいでよ。帰ったら――わ、やめろよ、冷てえ」
誰かが水筒を開け、中身を盛大にラルフに掛けて、顔の泥を拭う。1人が始めると、我も我もと後に続くのが大変だ。泥まみれの上に水浸しまで加わって、かえってひどい有様である。しまいには泥を流そうというより、勝利者へのシャンペンシャワーの様相を呈してきた。
「いや、俺はあれが気に入ってたんですけどね」
不服そうに言いながら、サングラスの向こうで、大騒ぎを見詰める青い目が笑っている。
「あれを返してくれないと、こっちの分は返せませんよ――と、言いたいところですが、まあ、今日のところは貸しにしておいてあげますよ」
今度はクラークに背を押され、レオナが一歩、前に出る。泥水に塗れた手が伸ばされてその髪を撫ぜ、青い髪も泥で汚れたが、レオナは嫌がらなかった。不器用な表情のせいで分かりにくいが、むしろ喜んでいるようにも見える。
レオナの髪を撫ぜながら、ラルフが怪訝そうに聞き返す。
「随分と寛大だな。どういう風の吹き回しだ? 俺が戻ったのが嬉しくて、何て気持ち悪いこと言うなよ?」
「まさか」
クラークは、肩を竦めて笑う。
「今日はクリスマスですから。プレゼントの代わりに、まけときますよ」
戦場に、朝日が差し込み始めていた。
「Good Morning、Merry Christmas!」
誰かが、そう叫んだ。
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粗雑で乱暴で鈍感で、そういうことはまるで不得手なように見えて、ラルフは案外、女性の扱いというものに長けている。本人曰く、女遊びも四半世紀続けてりゃ誰でもそれなりに覚えるものさというのだが、クラークに言わせると、あれは女というより人間の扱いが得意なんだ、ということになる。両者の言い分を聞いたものは、圧倒的な確率でクラークの方を支持する。確かに経験や馴れというものもあるだろうが、ラルフの持つ、なんというか他人に壁を作らせない人懐っこさは、男女を問わず相手を自分の側に引きずり込むだけの魅力がある。
それはともかく、ラルフが女性の扱いに長けているのは確かなことで、そういう男が予定外に懐に入ってきた小銭を若すぎる恋人へのプレゼントに変えようか、と考えるのはそれほど不自然な話ではなかった。
小銭といっても文字通りのコインではない。ちょっとした任務を遂行してみたら、その時に確保した馬鹿どもの中に賞金首が混じっていて、その報奨金がチームに分配されたのである。それはそれなりの額になって、皆で飲みに行ってもまだ残った。それをこつこつ貯金をするような甲斐性はない。実際、貯金なんぞしておいても降ろす前にあの世に行ってしまう可能性もあるのだから、通帳の残高を気にする方がナンセンスというものだ。
で、レオナに何か、身に着けるものでも買ってやろうか、となった。恋人からのプレゼントというのは、贈った方も贈られた方も気分がいいものだ。そして自分の贈ったものを恋人が身に着けているというのは、かなり気分がいいものである。
ところが、改めて考えるとこれがなかなか難しい。洒落た服やバッグなど、贈ったところであまり使う機会もないし、普段使いのシャツだブーツだ背嚢だではあまりに味気ない。かといって、部屋着や下着ではあまりに親密な相手への贈り物だ。いや、実際そうなのだが、ラルフはまだハイデルンにレオナとのことを告げていない。あの過剰に娘想いな父親に、あなたの娘さんに手を付けましたと言う度胸がない。腰抜けと笑いたくば笑え、俺はレオナも好きだが命も惜しい―― わかりやすい話ではある。
とにかく、下着なんぞ贈ったら、ハイデルンに見咎められた時に面倒なことになるのは必至だ。それならもっと実用的な品ならどうかと考えるが、財布はこの間新調したばかりらしいし、キーケースは愛用のものがある。それじゃあナイフか拳銃か、と考えそうになってラルフは頭を振った。それでは背嚢よりもまだ悪い。
口紅あたりも考えたが、使わないものを贈っても仕方がない。最近になってやっと1本99セントのリップクリームを塗り始めたようなレオナに、化粧品など贈っても持て余すだけだ。
いや、持て余すというのも間違いだ。あれは、不要なのだ。
飾らない女ならいくらでもいるが、飾ることを必要としない女というのは珍しい。たとえ口紅ひとつ塗らなくても、泥だらけの戦闘服姿だろうと、それでレオナは充分に美しいのだ。それは若さのなせる奇跡かもしれないが、そこにわざわざ化粧などという手を施すのは、それが自分が贈ったものであっても野暮になる気がした。
結局、無難なのは定番だがアクセサリーか、と考えて周りを見渡し、最初に目に付いた店に入る。
「プレゼントですか? どんなものをお探しで?」
商魂たくましい店員がまとわりついてくるのに、プレゼントに決まってるだろ、俺が着けるんじゃ怖いだろうがと冗談を飛ばしながら、ラルフはケースに収められた華奢なアクセサリーを見る。
イヤリングは駄目だ。あいつの耳たぶにはおっかない先客がいる。指輪も駄目だ。下着と同じ理由で却下だ。バングルやアンクレットは悪くないが、任務中には邪魔になるだろう。その時だけ外せばいいことだが、生真面目なレオナのことだ、律儀に着けたままにして難儀することになるに違いない。
となると、ペンダントあたりが無難か。それなら制服のシャツの下に隠れて目立たないし、たいして邪魔にもならない。そうだ、青い石のペンダントだ。青い髪に青い瞳のレオナには、きっと青い石が似合う。
「青でございますか。でしたらこちらに」
案内されたショーケースの中には、ありとあらゆる青い宝石がきらめいていた。トルコ石、アクアマリン、タンザナイト。レオナの髪に一番似て、いかにも似合いそうなのはラピスラズリ。
けど、あいつももうすぐ十九だからな。少し大人っぽい石にしてもいいだろう。そうするとサファイアがいいか。あまり大きな石だと仰々しすぎるから、シンプルな台に小さな石が乗ったやつ。でも小さくても良い石がいい。レオナの瞳に負けないような深い青で、良く光る……
…………
………………
……………………
「何かお気に入りのものはありましたか?」
「……すまん、気が変わった。また来る」
戸惑う店員を置き去りに、ラルフは店を出た。低い位置のショーケースを覗き込んでいたせいか、なんだか重くなった背をぐいと伸ばす。
遠くに、ドラッグストアの派手な看板が見えた。
「おいレオナ」
ひょいと放られたものを受け取って、レオナは首を傾げた。
「目薬?」
疲れ目・充血用の、何の変哲もない目薬である。
「ああ。それ、お前にやる」
「……ありがとう。最近パソコン仕事が多いから助かる。でも、どうして?」
「いや、なんとなく。目は大切にしろよってことだ」
「だから、どうして急に?」
「ほら、商売道具だからよ。悪くすると困るだろ。だから使っとけ」
本当の理由なんていくらなんでも言えるかよ、というのが正直なところだ。臭い口説き文句も相当口にしてきたが、今回のは核爆弾級だ。そんな言葉が素で思い浮かんでしまったことを自己嫌悪したいぐらいだ。
まさか、「お前の目より綺麗なサファイアなんてなかった」なんて言えるもんか。お前の目玉に比べたら、あんなの全部クズ石だ。そんなことを考えてしまった馬鹿さ加減に、自分でもがっくりくる。
それなのに、でもやっぱりあれだけの目なんだから大事にして欲しいよな、などと結局目薬なんか買ってきた。ほとんど笑い話のレベルだ。それも百年先まで人から笑われる類の。
首を傾げたままのレオナに、ラルフは何でもないふりでそっぽを向いた。
それはともかく、ラルフが女性の扱いに長けているのは確かなことで、そういう男が予定外に懐に入ってきた小銭を若すぎる恋人へのプレゼントに変えようか、と考えるのはそれほど不自然な話ではなかった。
小銭といっても文字通りのコインではない。ちょっとした任務を遂行してみたら、その時に確保した馬鹿どもの中に賞金首が混じっていて、その報奨金がチームに分配されたのである。それはそれなりの額になって、皆で飲みに行ってもまだ残った。それをこつこつ貯金をするような甲斐性はない。実際、貯金なんぞしておいても降ろす前にあの世に行ってしまう可能性もあるのだから、通帳の残高を気にする方がナンセンスというものだ。
で、レオナに何か、身に着けるものでも買ってやろうか、となった。恋人からのプレゼントというのは、贈った方も贈られた方も気分がいいものだ。そして自分の贈ったものを恋人が身に着けているというのは、かなり気分がいいものである。
ところが、改めて考えるとこれがなかなか難しい。洒落た服やバッグなど、贈ったところであまり使う機会もないし、普段使いのシャツだブーツだ背嚢だではあまりに味気ない。かといって、部屋着や下着ではあまりに親密な相手への贈り物だ。いや、実際そうなのだが、ラルフはまだハイデルンにレオナとのことを告げていない。あの過剰に娘想いな父親に、あなたの娘さんに手を付けましたと言う度胸がない。腰抜けと笑いたくば笑え、俺はレオナも好きだが命も惜しい―― わかりやすい話ではある。
とにかく、下着なんぞ贈ったら、ハイデルンに見咎められた時に面倒なことになるのは必至だ。それならもっと実用的な品ならどうかと考えるが、財布はこの間新調したばかりらしいし、キーケースは愛用のものがある。それじゃあナイフか拳銃か、と考えそうになってラルフは頭を振った。それでは背嚢よりもまだ悪い。
口紅あたりも考えたが、使わないものを贈っても仕方がない。最近になってやっと1本99セントのリップクリームを塗り始めたようなレオナに、化粧品など贈っても持て余すだけだ。
いや、持て余すというのも間違いだ。あれは、不要なのだ。
飾らない女ならいくらでもいるが、飾ることを必要としない女というのは珍しい。たとえ口紅ひとつ塗らなくても、泥だらけの戦闘服姿だろうと、それでレオナは充分に美しいのだ。それは若さのなせる奇跡かもしれないが、そこにわざわざ化粧などという手を施すのは、それが自分が贈ったものであっても野暮になる気がした。
結局、無難なのは定番だがアクセサリーか、と考えて周りを見渡し、最初に目に付いた店に入る。
「プレゼントですか? どんなものをお探しで?」
商魂たくましい店員がまとわりついてくるのに、プレゼントに決まってるだろ、俺が着けるんじゃ怖いだろうがと冗談を飛ばしながら、ラルフはケースに収められた華奢なアクセサリーを見る。
イヤリングは駄目だ。あいつの耳たぶにはおっかない先客がいる。指輪も駄目だ。下着と同じ理由で却下だ。バングルやアンクレットは悪くないが、任務中には邪魔になるだろう。その時だけ外せばいいことだが、生真面目なレオナのことだ、律儀に着けたままにして難儀することになるに違いない。
となると、ペンダントあたりが無難か。それなら制服のシャツの下に隠れて目立たないし、たいして邪魔にもならない。そうだ、青い石のペンダントだ。青い髪に青い瞳のレオナには、きっと青い石が似合う。
「青でございますか。でしたらこちらに」
案内されたショーケースの中には、ありとあらゆる青い宝石がきらめいていた。トルコ石、アクアマリン、タンザナイト。レオナの髪に一番似て、いかにも似合いそうなのはラピスラズリ。
けど、あいつももうすぐ十九だからな。少し大人っぽい石にしてもいいだろう。そうするとサファイアがいいか。あまり大きな石だと仰々しすぎるから、シンプルな台に小さな石が乗ったやつ。でも小さくても良い石がいい。レオナの瞳に負けないような深い青で、良く光る……
…………
………………
……………………
「何かお気に入りのものはありましたか?」
「……すまん、気が変わった。また来る」
戸惑う店員を置き去りに、ラルフは店を出た。低い位置のショーケースを覗き込んでいたせいか、なんだか重くなった背をぐいと伸ばす。
遠くに、ドラッグストアの派手な看板が見えた。
「おいレオナ」
ひょいと放られたものを受け取って、レオナは首を傾げた。
「目薬?」
疲れ目・充血用の、何の変哲もない目薬である。
「ああ。それ、お前にやる」
「……ありがとう。最近パソコン仕事が多いから助かる。でも、どうして?」
「いや、なんとなく。目は大切にしろよってことだ」
「だから、どうして急に?」
「ほら、商売道具だからよ。悪くすると困るだろ。だから使っとけ」
本当の理由なんていくらなんでも言えるかよ、というのが正直なところだ。臭い口説き文句も相当口にしてきたが、今回のは核爆弾級だ。そんな言葉が素で思い浮かんでしまったことを自己嫌悪したいぐらいだ。
まさか、「お前の目より綺麗なサファイアなんてなかった」なんて言えるもんか。お前の目玉に比べたら、あんなの全部クズ石だ。そんなことを考えてしまった馬鹿さ加減に、自分でもがっくりくる。
それなのに、でもやっぱりあれだけの目なんだから大事にして欲しいよな、などと結局目薬なんか買ってきた。ほとんど笑い話のレベルだ。それも百年先まで人から笑われる類の。
首を傾げたままのレオナに、ラルフは何でもないふりでそっぽを向いた。
銃口を向けられたから撃ち返してみれば、相手はまだほんの子供だった。どういうわけか、その日はそんなことが三度も続いた。子供が戦場にいるのは珍しいことではないし、やり合うこともにも慣れてはいるが、決して気分のいいものではない。わずかばかりの食事と、とりあえずは雨風が防げる程度の寝ぐらという、とても割に合わない報酬のために戦って、十二やそこらの命を失う子供。それを手にかけて何とも思わないほど、ラルフは枯れてはいなかった。かといって、判断を迷えば自分が死ぬ。それでいいと思えるほど、お人良しでもなかった。
だからアフリカは嫌いなんだ、とラルフは思う。人買いの習慣が色濃く残る土地だ。どこに行っても、親に売られたり、どこからか攫われてきた子供が戦場を支えている。仕事先をより好みできるほど偉くなったつもりはないが、できれば避けて通りたい場所ではあった。
そんな風に思っていたからか、久しぶりに夢を見た。夢というよりむしろ幻覚だ。昔良く見た悪い夢だ。
親もなくて家もなくて、金も食い物ももちろんなくて、暖かい毛布なんざ知らないから憧れたこともなくて、ただこれを使ってこういうことをすればその日の飯にありつけるということだけ知っていて、毎日銃を持って人を殺した。悪い夢だ。しかもただの夢ではなくて、昔の記憶が夢になってやってくるのだから性質が悪い。
そんな日々を送っていた頃からかれこれ三十年近くも過ぎて、悲鳴を上げて飛び起きることこそなくなったが、今でも嫌な汗をたっぷりかいて、真夜中に目を覚ますことはある。
テントの中、簡易寝台の上で身を起こすと、汗を吸って嫌な手触りになった毛布が床に落ちた。横を見れば、十年来の相棒が静かな寝息を立てている。良く寝てやがるな畜生め、と思いながら、その眠りを妨げないように息を殺してテントを出た。
明日にはもう少し前線に近付く。そうしたらもう、テントも張れないし寝台も置けない。それどころかまともに寝る余裕があるかどうかもわからないのだから、今夜ぐらいは良く寝ておきたかったのになと頭を掻く。だが、すぐに寝台に戻る気にはなれない。悪い夢が寝台を離れていくまで、自分も少し離れていたい。
昼間のアレのせいかな、と煙草に火を点けながら考える。無造作に煙草を吸えるのも今の内だけだ。前線では火や煙を敵に気付かれるのを恐れて、煙草一本吸うにも気を使う。そんな状況で吸う煙草は旨くない。かと言って、滅入った気持ちのまま咥えた煙草もさして旨いわけではない。
ああいう子供を、憐れみたいわけでも、救いたいわけでもない。そんなことを考えていたら、銃を向けられても撃ち返せなくなる。いや、一瞬でも迷えばその間に自分が撃ち殺される。
それでも心のどこかに、何かわだかまるものがあって、それが悪夢になって寝台にやってくる。過去の自分を、悪夢の中に残る自分の亡霊を何度も何度も撃ち殺す、そんな気がして滅入ってくる。
夜に忍んでやって来るのなんて女だけで結構なのに、と忍び笑いを漏らしたところだった。
「……ラルフ?」
別のテントで寝ていたはずの恋人の姿に少し慌てたのは、その気配に気付かなかったせいではない。ここは戦場だ。最前線でなくても戦場だ。眠っていても油断なく周りの気配を伺っていて、何かあればすぐ飛び起きる。基地で過ごす訓練以外の大半はデスクに突っ伏して惰眠を貪っていようと、戦場に戻るとそういう風に意識が切り替わる。だから、敵ではない誰かが近付いてきているということぐらい、ちゃんとわかっていた。
それなのに驚いたのは、「忍んで来る女」の数にこの歳若い恋人を含めていなかったせいかもしれない。単に、レオナにはそういうことを期待していないだけなのだが。
「何やってんだお前。今日ぐらいはちゃんと寝とけよ。明日はテントはもう無理だぞ。良くて地べたに寝袋だ」
「それはあなたも同じよ」
「まあ、そうなんだけどよ」
座り込んで煙草の煙を吐き出すラルフの隣にレオナも座る。地面は堅く、夜気で冷えていて座り心地がいいとは言えない。当然寝心地だって悪い。そういう場所で敵の気配に気を配りつつ、それでも難なく眠れるようになったのはいつの頃だったろう。そして、すでにそれができるようになっているレオナを、ラルフは少し複雑な気持ちで見る。
憐れみたいわけではない。救いたいわけではない。きっかけはどうあれ、レオナは自分の意思でこの世界に残ることを選んだのだ。ラルフも同じだ。いつでも出て行くことができたはずなのに、どういうわけかずっと戦場に居残っている。
「眠れないのか、お前も」
「あなたも?」
「さっきちょっと、夢見が悪くて目が覚めた」
「私も」
「どんな夢を見た」
「私の知らない私の夢」
「なんだそりゃ」
ラルフは二本目の煙草に火を点ける。レオナは手持ち無沙汰を、髪を一房弄んで誤魔化す。
「それが私であることは確かなの。戦場にいて、銃を持って戦って、疲れると適当な木の陰を探すか浅い穴を掘ってそこで寝て、空腹になると装備から糧食を出して食べて。それは今と変わらないのだけれど」
でも、とレオナは言った。
「でも、一人なの。誰もいなかったわ。チームの皆も、クラークも、義父も、あなたも。今日のあの子達みたいに、一人だった」
なんだ、二人して似たような夢見てたのかよと笑おうとして、ラルフは上手く笑えなかった。
言い得て妙だ。私の知らない私の夢。確かにそれは、いつラルフやレオナの人生に置き換わってもおかしくはなかった。実際にラルフにはそうやって生きた時期があって、たまたまそこから抜け出す機会があっただけだ。レオナも同じだ。あの教官を義父に持ったお陰で、レオナは自分の人生を選択する自由を得た。それがなければ、レオナはおそらく、あの呪われた血の一族の一人として生き、戦う以外の道を知らなかっただろう。
今も戦っていることには変わりはない。だがいくつかの偶然が、二人に戦うことを止める自由をもたらした。それがどれほどの幸運であるか、ラルフもレオナもわかっている。だから笑えなかった。
「私と彼らと、何が違うというのかしら」
レオナがぽつりと漏らす。その声の重さに、ラルフはあの夏の終わりを思い出す。レオナが自ら命を絶とうとした、あの時の声に似ていた。
「私に、彼らを殺してまで生きる資格はあるのかしら」
自分達はきっと、あの子供たちよりほんの少しだけ運が良かったのだ。それだけで運のなかった何万人かの、もう一人の自分の屍の上を歩いている。それだけの価値が自分にはあるか。その資格はあるのか。そうレオナは訊いている。
「私に彼らを殺す権利はあるのかしら」
それはそのまま、ラルフ自身がずっと抱えてきた疑問でもあった。
「誰も誰かを殺す権利なんか持っちゃいないさ」
それでもすぐにそう言えたのは年の功だ。単に年の違いならほんの倍だが、悩みを抱えた時間は十倍を超える。それなりの答えも持っていた。
「例えば、教官や俺はお前の命を救ったことがあるけどよ、だからってお前を殺していいって法はないわな。お前の命はお前のもんだ。他の誰かにどうこうする権利はねえよ」
それじゃ、とレオナが何か言いかかるのを制して、ラルフは続ける。
「俺達にあるのは、生きる権利だけさ。誰だってみんな、獣だの魚だの植物だの、他の何かの命を皿の上に載せて、フォークとナイフでとどめ刺して、そいつを食らって生きてんだ。そういう意味では、誰でも自分が生きるために誰かを殺す権利を持ってるんだな。さっき言ったのとはまるで逆になっちまうが」
詭弁かもしれない。言い訳かもしれない。
「だからお前、殺していいとは言わねえけどよ――いや、言えねえけどよ」
だが、時にはその言葉が必要なのだ。誰かの許しの言葉が。
「生きていいんだぞ。それには権利も資格も必要ねえんだ」
くぅ、とレオナが小さく喉を詰まらせる気配がした。ラルフはそっと、その肩を抱いてやる。
それがやがて抱擁に変わり、レオナの手が背中に回されて抱き返される格好になった時、ラルフはその手に自分も許されているのだと思った。
++++++++++++++++++++++++++++++
だからアフリカは嫌いなんだ、とラルフは思う。人買いの習慣が色濃く残る土地だ。どこに行っても、親に売られたり、どこからか攫われてきた子供が戦場を支えている。仕事先をより好みできるほど偉くなったつもりはないが、できれば避けて通りたい場所ではあった。
そんな風に思っていたからか、久しぶりに夢を見た。夢というよりむしろ幻覚だ。昔良く見た悪い夢だ。
親もなくて家もなくて、金も食い物ももちろんなくて、暖かい毛布なんざ知らないから憧れたこともなくて、ただこれを使ってこういうことをすればその日の飯にありつけるということだけ知っていて、毎日銃を持って人を殺した。悪い夢だ。しかもただの夢ではなくて、昔の記憶が夢になってやってくるのだから性質が悪い。
そんな日々を送っていた頃からかれこれ三十年近くも過ぎて、悲鳴を上げて飛び起きることこそなくなったが、今でも嫌な汗をたっぷりかいて、真夜中に目を覚ますことはある。
テントの中、簡易寝台の上で身を起こすと、汗を吸って嫌な手触りになった毛布が床に落ちた。横を見れば、十年来の相棒が静かな寝息を立てている。良く寝てやがるな畜生め、と思いながら、その眠りを妨げないように息を殺してテントを出た。
明日にはもう少し前線に近付く。そうしたらもう、テントも張れないし寝台も置けない。それどころかまともに寝る余裕があるかどうかもわからないのだから、今夜ぐらいは良く寝ておきたかったのになと頭を掻く。だが、すぐに寝台に戻る気にはなれない。悪い夢が寝台を離れていくまで、自分も少し離れていたい。
昼間のアレのせいかな、と煙草に火を点けながら考える。無造作に煙草を吸えるのも今の内だけだ。前線では火や煙を敵に気付かれるのを恐れて、煙草一本吸うにも気を使う。そんな状況で吸う煙草は旨くない。かと言って、滅入った気持ちのまま咥えた煙草もさして旨いわけではない。
ああいう子供を、憐れみたいわけでも、救いたいわけでもない。そんなことを考えていたら、銃を向けられても撃ち返せなくなる。いや、一瞬でも迷えばその間に自分が撃ち殺される。
それでも心のどこかに、何かわだかまるものがあって、それが悪夢になって寝台にやってくる。過去の自分を、悪夢の中に残る自分の亡霊を何度も何度も撃ち殺す、そんな気がして滅入ってくる。
夜に忍んでやって来るのなんて女だけで結構なのに、と忍び笑いを漏らしたところだった。
「……ラルフ?」
別のテントで寝ていたはずの恋人の姿に少し慌てたのは、その気配に気付かなかったせいではない。ここは戦場だ。最前線でなくても戦場だ。眠っていても油断なく周りの気配を伺っていて、何かあればすぐ飛び起きる。基地で過ごす訓練以外の大半はデスクに突っ伏して惰眠を貪っていようと、戦場に戻るとそういう風に意識が切り替わる。だから、敵ではない誰かが近付いてきているということぐらい、ちゃんとわかっていた。
それなのに驚いたのは、「忍んで来る女」の数にこの歳若い恋人を含めていなかったせいかもしれない。単に、レオナにはそういうことを期待していないだけなのだが。
「何やってんだお前。今日ぐらいはちゃんと寝とけよ。明日はテントはもう無理だぞ。良くて地べたに寝袋だ」
「それはあなたも同じよ」
「まあ、そうなんだけどよ」
座り込んで煙草の煙を吐き出すラルフの隣にレオナも座る。地面は堅く、夜気で冷えていて座り心地がいいとは言えない。当然寝心地だって悪い。そういう場所で敵の気配に気を配りつつ、それでも難なく眠れるようになったのはいつの頃だったろう。そして、すでにそれができるようになっているレオナを、ラルフは少し複雑な気持ちで見る。
憐れみたいわけではない。救いたいわけではない。きっかけはどうあれ、レオナは自分の意思でこの世界に残ることを選んだのだ。ラルフも同じだ。いつでも出て行くことができたはずなのに、どういうわけかずっと戦場に居残っている。
「眠れないのか、お前も」
「あなたも?」
「さっきちょっと、夢見が悪くて目が覚めた」
「私も」
「どんな夢を見た」
「私の知らない私の夢」
「なんだそりゃ」
ラルフは二本目の煙草に火を点ける。レオナは手持ち無沙汰を、髪を一房弄んで誤魔化す。
「それが私であることは確かなの。戦場にいて、銃を持って戦って、疲れると適当な木の陰を探すか浅い穴を掘ってそこで寝て、空腹になると装備から糧食を出して食べて。それは今と変わらないのだけれど」
でも、とレオナは言った。
「でも、一人なの。誰もいなかったわ。チームの皆も、クラークも、義父も、あなたも。今日のあの子達みたいに、一人だった」
なんだ、二人して似たような夢見てたのかよと笑おうとして、ラルフは上手く笑えなかった。
言い得て妙だ。私の知らない私の夢。確かにそれは、いつラルフやレオナの人生に置き換わってもおかしくはなかった。実際にラルフにはそうやって生きた時期があって、たまたまそこから抜け出す機会があっただけだ。レオナも同じだ。あの教官を義父に持ったお陰で、レオナは自分の人生を選択する自由を得た。それがなければ、レオナはおそらく、あの呪われた血の一族の一人として生き、戦う以外の道を知らなかっただろう。
今も戦っていることには変わりはない。だがいくつかの偶然が、二人に戦うことを止める自由をもたらした。それがどれほどの幸運であるか、ラルフもレオナもわかっている。だから笑えなかった。
「私と彼らと、何が違うというのかしら」
レオナがぽつりと漏らす。その声の重さに、ラルフはあの夏の終わりを思い出す。レオナが自ら命を絶とうとした、あの時の声に似ていた。
「私に、彼らを殺してまで生きる資格はあるのかしら」
自分達はきっと、あの子供たちよりほんの少しだけ運が良かったのだ。それだけで運のなかった何万人かの、もう一人の自分の屍の上を歩いている。それだけの価値が自分にはあるか。その資格はあるのか。そうレオナは訊いている。
「私に彼らを殺す権利はあるのかしら」
それはそのまま、ラルフ自身がずっと抱えてきた疑問でもあった。
「誰も誰かを殺す権利なんか持っちゃいないさ」
それでもすぐにそう言えたのは年の功だ。単に年の違いならほんの倍だが、悩みを抱えた時間は十倍を超える。それなりの答えも持っていた。
「例えば、教官や俺はお前の命を救ったことがあるけどよ、だからってお前を殺していいって法はないわな。お前の命はお前のもんだ。他の誰かにどうこうする権利はねえよ」
それじゃ、とレオナが何か言いかかるのを制して、ラルフは続ける。
「俺達にあるのは、生きる権利だけさ。誰だってみんな、獣だの魚だの植物だの、他の何かの命を皿の上に載せて、フォークとナイフでとどめ刺して、そいつを食らって生きてんだ。そういう意味では、誰でも自分が生きるために誰かを殺す権利を持ってるんだな。さっき言ったのとはまるで逆になっちまうが」
詭弁かもしれない。言い訳かもしれない。
「だからお前、殺していいとは言わねえけどよ――いや、言えねえけどよ」
だが、時にはその言葉が必要なのだ。誰かの許しの言葉が。
「生きていいんだぞ。それには権利も資格も必要ねえんだ」
くぅ、とレオナが小さく喉を詰まらせる気配がした。ラルフはそっと、その肩を抱いてやる。
それがやがて抱擁に変わり、レオナの手が背中に回されて抱き返される格好になった時、ラルフはその手に自分も許されているのだと思った。
++++++++++++++++++++++++++++++
夜の街の人波には、様々な人間が漂っている。家路を急ぐ勤め人、友人達と飲み歩く若者、酔っ払いの財布を狙うスリ、暗がりには麻薬の密売人。それから、手を繋いで歩く恋人たち。
それは、傍目にも似合いのカップルだった。赤い髪の男は背が高く、体を鍛えているらしく筋肉が盛り上がった肩が広い。さぞや頼りがいのある恋人だろう。
女の方も、男と吊り合う長身である。赤の強いピンクのサマードレスが、金髪と長い脚に良く似合った。顔立ちはややきついが造作が整っていて、割と美人の部類と言える。
ふと、女が歩みを止めて、男の麻のジャケットの袖を引っ張った。反対の手で指差した先は、屋台のアイスクリーム売りだ。いいよ、買っておいで。そんな会話があったのか、女は男をその場において、華奢なサンダルの足元も軽やかに駆けていく。
「お、アイス買ってますよ。しかもダブル」
その様子を、近くのビルの屋上から双眼鏡で見ていた男達がいた。
「フレーバーは?」
「チョコミントとメロンでしょうかね、二段ともグリーンですよ」
デートの出歯亀にしては、物騒な集団だった。高倍率の双眼鏡と黒尽くめはともかく、完全武装である。ハンドガンやらナイフやら、ショットガンや手榴弾まで装備した出歯亀がどこの世界にいる。
「いや、あいつはどっちかというとフローズンヨーグルト派だからな。チョコミントじゃなくて、ジャパニーズグリーンティ入りのフローズンヨーグルトとかじゃねえか?」
「そんな小洒落たものが、屋台のアイス屋にありますかね」
「賭けるか?」
「いいですよ。何ドルにします?」
「俺、大佐が負ける方に10ドル」
「俺もそっち。しかし、いいなあ」
物騒すぎる出歯亀の一人がついに、堪りかねたような声を上げた。途端に同意するかのような溜息があちこちでこぼれる。
「馬鹿、言うなよ。みんな空しいんだから」
「そうだそうだ、俺だってこんなところに詰めてないで女の子とアイス舐めたいよ」
そんなことを言われているとは露知らず、いやもしかしたら予想の範疇かもしれないが、赤毛と金髪の恋人同士――クラークとレオナは、アイスを片手にまた歩き出す。
そう呼ぶにはお粗末なほどの、ごく簡単な変装だ。クラークがトレードマークの帽子とサングラスを取って額の傷跡をパテで埋め、レオナがちょっと化粧をして、らしくない格好をすれば、それだけでもうまるで他人に見える。ついでに髪の色まで変えてしまったら、いくらKOFを熱心にTV観戦していた者でも、なかなかあの二人だとは気付かない。
人間の思い込みとは恐ろしいものである。だからこそ、ラルフもクラークも、あえてトレードマークになるようなものを身に着けてKOFに臨んでいるのだが。
「あー、レオナちゃんからアイス分けてもらってるぜ、中尉ってば」
「レオナちゃんとデート、しかもアイスクリーム付きかよ! 畜生!!」
ほとんど悲鳴に近い声を、ラルフはうんざりした顔で聞いていた。
クラークとレオナの変装は、別にこの出歯亀――もとい、同じチームの仲間達の目を欺くためのものではない。任務のための変装である。
時と場合にもよるが、男女のペアは街中での尾行に向いている。女の気まぐれに付き合っているふりを装えば、突然止まっても進行方向を変えてもおかしくないし、歩みが遅くても早くてもそれなりに自然だ。腕を組むふりをして相手の体に触れていれば、何かあった時には言葉を発せずにサインを送ることもできる。それにターゲットが女性にしか入れない場所、男性にしか入れない場所に向かったとしても、一旦別れて都合のいい方が追えばいいのだ。だから、情報局には女性の工作員が多数配属されている。
しかし、通常の部隊にはまだ女性は少ないし、情報局の手を借りるには荒過ぎる仕事もやってくる。そういう時はなんとか自前でペアを用意するのだが、その役に立ちそうなのは、ラルフのチームにはレオナしかいなかった。
当然、部隊は相手役を巡って騒然となる。レオナは色気のないチームの中では、ちょっとした「隠れアイドル」的存在だ。普段は色恋沙汰に縁も興味もなく、口説いたところで走り込みやトレーニングルームを御一緒するのが精一杯、それ以上を望めばあの教官にどんな「教育的指導」を食らうかわからない、というレオナと、擬似とはいえ公認でデートができるのだ。
だが、ペアを組む最低条件はレオナの足を引っ張らない尾行スキルを持つこと、というラルフの言葉に部隊の盛り上がりは一気に消火した。そんなスキルを持っているのは、情報局出身のクラークと、いざという時は野性的なカンと能力を発揮するラルフだけだ。なにしろ、レオナの尾行術はハイデルン仕込である。並の人間ではスキルが釣り合わない。
そして、今回はクラークにその役目が行った。レオナと街中を歩くなら、クラークの方がより馴染む。これがナイトクラブやカジノなら、ラルフの方がそれらしい雰囲気になるだろう。ラルフにしてみたら、単にそれだけのことなのである。
「いい加減にしろよ、お前ら。これから一仕事だ」
だからラルフはうんざり顔だ。
クラークはレオナなど、というより女性全般が眼中にないような男だし、ラルフに言わせれば「あんなヒヨコなんか齧ったって俺の腹の足しにゃならねえよ」となる。つまり、レオナにそういった下心を持たない二人だけが条件に合致するというのは皮肉な話ではあるが、ラルフにしてみればそれ以上でもそれ以下でもない。確かにレオナは将来有望な美少女だが、チームの連中を狂騒っぷりを見ていると、何もそこまでという気分にもなる。
「そんな話は帰投してからにしろ。信号は「オールグリーン」だったんだ。無駄口叩いてる間にターゲットが来るぞ」
二段のアイスクリームのどちらも緑。それは二人の行動を双眼鏡で確認しているはずのラルフたちに対する、レオナからの「万事問題なし」のサインだ。無線を使っての連絡を傍受されることを恐れて、今回はそんな回りくどい手を使っている。
「確認するぞ。ターゲットが建物内に入り次第、正面入り口はレオナとクラーク、それから外で待機しているB班が制圧。C班は裏口他の脱出経路を押さえる。で、俺達A班の仕事は?」
「屋上から順に階下を制圧。ターゲットの身柄を確保するついでに、いい想いをした中尉に一杯奢ってもらう」
「アイスクリームで良けりゃ俺が奢ってやるよ」
無駄口は止めろと言いながら、自分も軽口を返してラルフは双眼鏡を覗く。レンズの向こうでは、相変わらず二人が恋人の演技を続けている。ターゲットが確実にこの建物に入らないと、今回の作戦は成り立たない。その瞬間を確実に捉えるために、戦力としては大きい二人をわざわざ割いて、ターゲットを尾行させているのだ。
普段のレオナは髪と軍服の色の暗さと無表情のせいで近寄りがたい雰囲気が強いが、こうして金髪にして明るい色のドレスを着せ、演技とはいえ笑って見せれば。
「……結構グラマーだし可愛いじゃねえかよ」
ラルフは思わずそう呟いて、それからしまったと口元を押さえた。そんな言葉を聞かれたら、後でなんと笑われるかわかったものではない。幸いにも、仲間達は相変わらず軽口を叩いてはいるが、装備の最後の確認やら何やらでラルフの様子など見ていなかった。
安堵しつつ、再び双眼鏡を覗いて、ラルフはちょっと首を傾げた。目に入る光景にどことなく違和感がある。何がおかしいとははっきり言えないのだが、何かが妙なのだ。それがレオナに関することだということまではわかるのだが、そこから先がわからない。
首を傾げているうちに、クラークとレオナは最終チェックポイントの到着した。クラークがレオナの肩をぽんと叩く。これも「問題なし」の合図だ。二人の目の前で、ターゲットはラルフ達が屋上に陣取ったビルに入ったらしい。
「よっしゃ、合図出たぞ。状況開始!」
「了解!!」
「いいか、絶対に周囲の建物や一般人に気取られるなよ! それも今回の任務のうちだからな。騒いでいいなら警察に任しときゃいいんだ」
そして静かに闘争の時は過ぎ、いくらかの血と命を散らせて終わる。
それでも街は何事もなかったかのように、人波に人を漂わせているだけだ。その一角で、小さな戦争が起きたことなど意に介さないように。
「A班総員、撤収準備完了しました」
「B班も撤収準備完了」
「C班も同じく」
「了解。それじゃ各班ごとに帰投だ。今日は気持ち良く眠れるぜ?」
これで終わりとばかりに掌をぱんぱんと払う仕草をして、ラルフは満足げに笑った。作戦は気持ちいいぐらい予定通りに進み、こちらの被害はゼロ。確保した馬鹿どもは警察に引き渡した。後は基地に戻るだけだ。
「――って、ちょっと待てレオナ」
ラルフの指示で、一度は報告に集まった各班の担当者が、再び自分の班に戻っていく。その中の、藍色の髪の後姿に再びラルフは違和感を覚えて、それを呼び止めた。
振り返ったレオナは、恋人の演技が終わって、もういつもの無表情だ。髪は藍色。金髪のウィッグは外してしまったらしい。
「何かお前、さっきから妙なんだよな。ケガでもしたか? それとも腹でも痛いか?」
「いいえ、そんなことないわ。大丈夫よ」
「本当か? 慣れない靴なんか履いてて、足首捻ったとかそんなんじゃないのか?」
「大佐、そりゃ心配し過ぎってもんですよ」
口を挟んだのは、通りがかったB班の連中だ。クラークもいる。
クラークも傷口を埋めるパテを剥がし、サングラスを掛けたいつものスタイルに戻っている。髪はまだ赤いが、これはシャンプー一度で落ちるはずだ。
「レオナ、今回はちょっと凄かったですよ。殊勲賞ものです。ありゃケガ人や病人の動きじゃないですってば。あれでケガ人なら、俺らの仕事なんてなくなっちまう」
「ああ、そんな高いヒールのサンダルで、良くそれだけ動けるもんだよ。レオナお前、情報局でも充分やっていけるぞ?」
クラークにもそう言われてしまえば、ラルフはそれ以上何も言えない。
「それじゃあ何だろうなあ。本当にお前、なんでもないのか?」
そう食い下がってみるものの、「なんでもないって、言っているでしょう?」と言われてしまえばそれまでだ。
「いや、でも何か違うんだよなあ」
「……用がないなら、帰投するわ」
「んー、本人がそう言うんじゃ仕方ねえよな。それじゃ、また後でな」
「了解」
そう言って再び離れかける後姿を見て、ラルフは再び首を捻る。どうにも腑に落ちない。まさか服と靴が違うせいで引っかかっている、と言うわけでもないだろう。だが、髪の色が戻った今、普段と違うのはその二ヶ所ぐらいなものなのだ。服と靴、服と――
「待てレオナ! お前、靴脱いで見ろ、そのサンダル!!」
振り向いたレオナは、何か言いたげな顔をして、しかしすぐに諦めた風でサンダルを脱いだ。
「うわ、こりゃひどい人魚姫だわ」
ラルフの予想通りだった。スニーカーと軍靴と、良くてパンプスしか履かないレオナが、服装に合わせるためとはいえ、急にヒールの高い華奢なサンダルなど履かされたのだ。作戦準備の訓練で履き馴らしたとはいえ、尾行を始めてから数時間、すっかり痛々しい靴擦れだらけである。
「お前、この足で良く動けたなあ」
「……戦場だもの」
「そりゃ俺だって、豆の上に豆ができるぐらいの強行軍は何度もやったけどよ。こいつはひでえぞ、皮がべろべろじゃねえか」
「大丈夫よ、まだ歩けるから」
「馬鹿、無理すると治りが遅くなって余計に迷惑だってんだよ。今回は楽な仕事だったんだ、例え靴擦れだろうと、後に引くようなダメージ残すな。次の任務に障ったらどうする」
「わかったわ」
今度はレオナが溜息を吐いた。誰にも気付かせないようにしていたつもりだったのだろう。こと戦場に関することには、プライドも高いし気の強いところを見せるレオナだ。その少々間の抜けた負傷を、最後の最後で上官に気付かれてしまったのは無念かもしれない。
それをこっそり笑ってから、ラルフはレオナに背を向けてしゃがむ。
「……?」
「車まで背負っていってやるよ。本当は立ってるのも辛いんだろ?」
「大丈夫よ、歩ける」
「いいから、早いとこ乗れよ。結構この体勢、疲れるんだぞ?」
「でも」
「殊勲賞ものの働きだったんだろ? お祝いに上官殿が背負ってやるって言ってるんだ。速くしろよ」
「レオナ、こいつ言い出したら聞かないから、もう諦めろ」
上の方から降って来た声はクラークのものだ。
しばらく戸惑っていた気配があって、それからおずおずと肩に手が乗せられ、続いて体の重みが背中に預けられる。
「よいせ、っと」
足を抱えて立ち上がると、長い間ウィッグを被っていたせいか、妙な癖が付いてしまった髪が、居心地悪そうにラルフの顔の横に落ちてきた。
「あ、大佐がレオナちゃんおんぶしてる」
「いいなあ、俺も俺も」
「うるせえ、羨ましかったらクラークに背負ってもらえ」
「そっちが羨ましいんじゃないですよっ」
再び騒ぎ出す連中を無視して、レオナを背負ったラルフは歩き出す。まさかこの歳になって人に背負われるとは思わなかったのだろう。しかも車に着くまでは街中を歩かなければならない。集まる視線がさすがに恥ずかしいらしく、レオナは顔を伏せて無言だ。
「ところで、よお」
そのレオナに、ラルフは思い出したように訊いてみる。
「さっきの「オールグリーン」のアイス、フレーバーは何だったんだ?」
「……メロンと……アボカドのフローズンヨーグルト」
「うわ、そんなフレーバーあるのか。今度あの店、行ってみるかな」
「その時は、奢るわ」
「何でよ?」
「背負ってもらった、お礼」
「その時はサンダルじゃなくて、スニーカー履いて来いよ」
「そうね」
夜の街を、レオナを背負ってラルフが歩く。
車までは、あともう少しだ。二人とも、「あと少ししかない」と心のどこかで思っている自分に気付かないまま、夜が更けていく。
それは、傍目にも似合いのカップルだった。赤い髪の男は背が高く、体を鍛えているらしく筋肉が盛り上がった肩が広い。さぞや頼りがいのある恋人だろう。
女の方も、男と吊り合う長身である。赤の強いピンクのサマードレスが、金髪と長い脚に良く似合った。顔立ちはややきついが造作が整っていて、割と美人の部類と言える。
ふと、女が歩みを止めて、男の麻のジャケットの袖を引っ張った。反対の手で指差した先は、屋台のアイスクリーム売りだ。いいよ、買っておいで。そんな会話があったのか、女は男をその場において、華奢なサンダルの足元も軽やかに駆けていく。
「お、アイス買ってますよ。しかもダブル」
その様子を、近くのビルの屋上から双眼鏡で見ていた男達がいた。
「フレーバーは?」
「チョコミントとメロンでしょうかね、二段ともグリーンですよ」
デートの出歯亀にしては、物騒な集団だった。高倍率の双眼鏡と黒尽くめはともかく、完全武装である。ハンドガンやらナイフやら、ショットガンや手榴弾まで装備した出歯亀がどこの世界にいる。
「いや、あいつはどっちかというとフローズンヨーグルト派だからな。チョコミントじゃなくて、ジャパニーズグリーンティ入りのフローズンヨーグルトとかじゃねえか?」
「そんな小洒落たものが、屋台のアイス屋にありますかね」
「賭けるか?」
「いいですよ。何ドルにします?」
「俺、大佐が負ける方に10ドル」
「俺もそっち。しかし、いいなあ」
物騒すぎる出歯亀の一人がついに、堪りかねたような声を上げた。途端に同意するかのような溜息があちこちでこぼれる。
「馬鹿、言うなよ。みんな空しいんだから」
「そうだそうだ、俺だってこんなところに詰めてないで女の子とアイス舐めたいよ」
そんなことを言われているとは露知らず、いやもしかしたら予想の範疇かもしれないが、赤毛と金髪の恋人同士――クラークとレオナは、アイスを片手にまた歩き出す。
そう呼ぶにはお粗末なほどの、ごく簡単な変装だ。クラークがトレードマークの帽子とサングラスを取って額の傷跡をパテで埋め、レオナがちょっと化粧をして、らしくない格好をすれば、それだけでもうまるで他人に見える。ついでに髪の色まで変えてしまったら、いくらKOFを熱心にTV観戦していた者でも、なかなかあの二人だとは気付かない。
人間の思い込みとは恐ろしいものである。だからこそ、ラルフもクラークも、あえてトレードマークになるようなものを身に着けてKOFに臨んでいるのだが。
「あー、レオナちゃんからアイス分けてもらってるぜ、中尉ってば」
「レオナちゃんとデート、しかもアイスクリーム付きかよ! 畜生!!」
ほとんど悲鳴に近い声を、ラルフはうんざりした顔で聞いていた。
クラークとレオナの変装は、別にこの出歯亀――もとい、同じチームの仲間達の目を欺くためのものではない。任務のための変装である。
時と場合にもよるが、男女のペアは街中での尾行に向いている。女の気まぐれに付き合っているふりを装えば、突然止まっても進行方向を変えてもおかしくないし、歩みが遅くても早くてもそれなりに自然だ。腕を組むふりをして相手の体に触れていれば、何かあった時には言葉を発せずにサインを送ることもできる。それにターゲットが女性にしか入れない場所、男性にしか入れない場所に向かったとしても、一旦別れて都合のいい方が追えばいいのだ。だから、情報局には女性の工作員が多数配属されている。
しかし、通常の部隊にはまだ女性は少ないし、情報局の手を借りるには荒過ぎる仕事もやってくる。そういう時はなんとか自前でペアを用意するのだが、その役に立ちそうなのは、ラルフのチームにはレオナしかいなかった。
当然、部隊は相手役を巡って騒然となる。レオナは色気のないチームの中では、ちょっとした「隠れアイドル」的存在だ。普段は色恋沙汰に縁も興味もなく、口説いたところで走り込みやトレーニングルームを御一緒するのが精一杯、それ以上を望めばあの教官にどんな「教育的指導」を食らうかわからない、というレオナと、擬似とはいえ公認でデートができるのだ。
だが、ペアを組む最低条件はレオナの足を引っ張らない尾行スキルを持つこと、というラルフの言葉に部隊の盛り上がりは一気に消火した。そんなスキルを持っているのは、情報局出身のクラークと、いざという時は野性的なカンと能力を発揮するラルフだけだ。なにしろ、レオナの尾行術はハイデルン仕込である。並の人間ではスキルが釣り合わない。
そして、今回はクラークにその役目が行った。レオナと街中を歩くなら、クラークの方がより馴染む。これがナイトクラブやカジノなら、ラルフの方がそれらしい雰囲気になるだろう。ラルフにしてみたら、単にそれだけのことなのである。
「いい加減にしろよ、お前ら。これから一仕事だ」
だからラルフはうんざり顔だ。
クラークはレオナなど、というより女性全般が眼中にないような男だし、ラルフに言わせれば「あんなヒヨコなんか齧ったって俺の腹の足しにゃならねえよ」となる。つまり、レオナにそういった下心を持たない二人だけが条件に合致するというのは皮肉な話ではあるが、ラルフにしてみればそれ以上でもそれ以下でもない。確かにレオナは将来有望な美少女だが、チームの連中を狂騒っぷりを見ていると、何もそこまでという気分にもなる。
「そんな話は帰投してからにしろ。信号は「オールグリーン」だったんだ。無駄口叩いてる間にターゲットが来るぞ」
二段のアイスクリームのどちらも緑。それは二人の行動を双眼鏡で確認しているはずのラルフたちに対する、レオナからの「万事問題なし」のサインだ。無線を使っての連絡を傍受されることを恐れて、今回はそんな回りくどい手を使っている。
「確認するぞ。ターゲットが建物内に入り次第、正面入り口はレオナとクラーク、それから外で待機しているB班が制圧。C班は裏口他の脱出経路を押さえる。で、俺達A班の仕事は?」
「屋上から順に階下を制圧。ターゲットの身柄を確保するついでに、いい想いをした中尉に一杯奢ってもらう」
「アイスクリームで良けりゃ俺が奢ってやるよ」
無駄口は止めろと言いながら、自分も軽口を返してラルフは双眼鏡を覗く。レンズの向こうでは、相変わらず二人が恋人の演技を続けている。ターゲットが確実にこの建物に入らないと、今回の作戦は成り立たない。その瞬間を確実に捉えるために、戦力としては大きい二人をわざわざ割いて、ターゲットを尾行させているのだ。
普段のレオナは髪と軍服の色の暗さと無表情のせいで近寄りがたい雰囲気が強いが、こうして金髪にして明るい色のドレスを着せ、演技とはいえ笑って見せれば。
「……結構グラマーだし可愛いじゃねえかよ」
ラルフは思わずそう呟いて、それからしまったと口元を押さえた。そんな言葉を聞かれたら、後でなんと笑われるかわかったものではない。幸いにも、仲間達は相変わらず軽口を叩いてはいるが、装備の最後の確認やら何やらでラルフの様子など見ていなかった。
安堵しつつ、再び双眼鏡を覗いて、ラルフはちょっと首を傾げた。目に入る光景にどことなく違和感がある。何がおかしいとははっきり言えないのだが、何かが妙なのだ。それがレオナに関することだということまではわかるのだが、そこから先がわからない。
首を傾げているうちに、クラークとレオナは最終チェックポイントの到着した。クラークがレオナの肩をぽんと叩く。これも「問題なし」の合図だ。二人の目の前で、ターゲットはラルフ達が屋上に陣取ったビルに入ったらしい。
「よっしゃ、合図出たぞ。状況開始!」
「了解!!」
「いいか、絶対に周囲の建物や一般人に気取られるなよ! それも今回の任務のうちだからな。騒いでいいなら警察に任しときゃいいんだ」
そして静かに闘争の時は過ぎ、いくらかの血と命を散らせて終わる。
それでも街は何事もなかったかのように、人波に人を漂わせているだけだ。その一角で、小さな戦争が起きたことなど意に介さないように。
「A班総員、撤収準備完了しました」
「B班も撤収準備完了」
「C班も同じく」
「了解。それじゃ各班ごとに帰投だ。今日は気持ち良く眠れるぜ?」
これで終わりとばかりに掌をぱんぱんと払う仕草をして、ラルフは満足げに笑った。作戦は気持ちいいぐらい予定通りに進み、こちらの被害はゼロ。確保した馬鹿どもは警察に引き渡した。後は基地に戻るだけだ。
「――って、ちょっと待てレオナ」
ラルフの指示で、一度は報告に集まった各班の担当者が、再び自分の班に戻っていく。その中の、藍色の髪の後姿に再びラルフは違和感を覚えて、それを呼び止めた。
振り返ったレオナは、恋人の演技が終わって、もういつもの無表情だ。髪は藍色。金髪のウィッグは外してしまったらしい。
「何かお前、さっきから妙なんだよな。ケガでもしたか? それとも腹でも痛いか?」
「いいえ、そんなことないわ。大丈夫よ」
「本当か? 慣れない靴なんか履いてて、足首捻ったとかそんなんじゃないのか?」
「大佐、そりゃ心配し過ぎってもんですよ」
口を挟んだのは、通りがかったB班の連中だ。クラークもいる。
クラークも傷口を埋めるパテを剥がし、サングラスを掛けたいつものスタイルに戻っている。髪はまだ赤いが、これはシャンプー一度で落ちるはずだ。
「レオナ、今回はちょっと凄かったですよ。殊勲賞ものです。ありゃケガ人や病人の動きじゃないですってば。あれでケガ人なら、俺らの仕事なんてなくなっちまう」
「ああ、そんな高いヒールのサンダルで、良くそれだけ動けるもんだよ。レオナお前、情報局でも充分やっていけるぞ?」
クラークにもそう言われてしまえば、ラルフはそれ以上何も言えない。
「それじゃあ何だろうなあ。本当にお前、なんでもないのか?」
そう食い下がってみるものの、「なんでもないって、言っているでしょう?」と言われてしまえばそれまでだ。
「いや、でも何か違うんだよなあ」
「……用がないなら、帰投するわ」
「んー、本人がそう言うんじゃ仕方ねえよな。それじゃ、また後でな」
「了解」
そう言って再び離れかける後姿を見て、ラルフは再び首を捻る。どうにも腑に落ちない。まさか服と靴が違うせいで引っかかっている、と言うわけでもないだろう。だが、髪の色が戻った今、普段と違うのはその二ヶ所ぐらいなものなのだ。服と靴、服と――
「待てレオナ! お前、靴脱いで見ろ、そのサンダル!!」
振り向いたレオナは、何か言いたげな顔をして、しかしすぐに諦めた風でサンダルを脱いだ。
「うわ、こりゃひどい人魚姫だわ」
ラルフの予想通りだった。スニーカーと軍靴と、良くてパンプスしか履かないレオナが、服装に合わせるためとはいえ、急にヒールの高い華奢なサンダルなど履かされたのだ。作戦準備の訓練で履き馴らしたとはいえ、尾行を始めてから数時間、すっかり痛々しい靴擦れだらけである。
「お前、この足で良く動けたなあ」
「……戦場だもの」
「そりゃ俺だって、豆の上に豆ができるぐらいの強行軍は何度もやったけどよ。こいつはひでえぞ、皮がべろべろじゃねえか」
「大丈夫よ、まだ歩けるから」
「馬鹿、無理すると治りが遅くなって余計に迷惑だってんだよ。今回は楽な仕事だったんだ、例え靴擦れだろうと、後に引くようなダメージ残すな。次の任務に障ったらどうする」
「わかったわ」
今度はレオナが溜息を吐いた。誰にも気付かせないようにしていたつもりだったのだろう。こと戦場に関することには、プライドも高いし気の強いところを見せるレオナだ。その少々間の抜けた負傷を、最後の最後で上官に気付かれてしまったのは無念かもしれない。
それをこっそり笑ってから、ラルフはレオナに背を向けてしゃがむ。
「……?」
「車まで背負っていってやるよ。本当は立ってるのも辛いんだろ?」
「大丈夫よ、歩ける」
「いいから、早いとこ乗れよ。結構この体勢、疲れるんだぞ?」
「でも」
「殊勲賞ものの働きだったんだろ? お祝いに上官殿が背負ってやるって言ってるんだ。速くしろよ」
「レオナ、こいつ言い出したら聞かないから、もう諦めろ」
上の方から降って来た声はクラークのものだ。
しばらく戸惑っていた気配があって、それからおずおずと肩に手が乗せられ、続いて体の重みが背中に預けられる。
「よいせ、っと」
足を抱えて立ち上がると、長い間ウィッグを被っていたせいか、妙な癖が付いてしまった髪が、居心地悪そうにラルフの顔の横に落ちてきた。
「あ、大佐がレオナちゃんおんぶしてる」
「いいなあ、俺も俺も」
「うるせえ、羨ましかったらクラークに背負ってもらえ」
「そっちが羨ましいんじゃないですよっ」
再び騒ぎ出す連中を無視して、レオナを背負ったラルフは歩き出す。まさかこの歳になって人に背負われるとは思わなかったのだろう。しかも車に着くまでは街中を歩かなければならない。集まる視線がさすがに恥ずかしいらしく、レオナは顔を伏せて無言だ。
「ところで、よお」
そのレオナに、ラルフは思い出したように訊いてみる。
「さっきの「オールグリーン」のアイス、フレーバーは何だったんだ?」
「……メロンと……アボカドのフローズンヨーグルト」
「うわ、そんなフレーバーあるのか。今度あの店、行ってみるかな」
「その時は、奢るわ」
「何でよ?」
「背負ってもらった、お礼」
「その時はサンダルじゃなくて、スニーカー履いて来いよ」
「そうね」
夜の街を、レオナを背負ってラルフが歩く。
車までは、あともう少しだ。二人とも、「あと少ししかない」と心のどこかで思っている自分に気付かないまま、夜が更けていく。
基地の中でオートバイを見るのは、レオナにとっては珍しいことだったが、ラルフにはそうでもなかった。
少なくとも一昔前までは、軍用オートバイはかなり重宝されたものだ。伝令や隠密偵察に向いているとか、機動性が高く悪路も走れるとか、輸送しやすいとか、使い捨てにしても惜しくないコストだとか。ついでに自動車よりも運転技術を習得するのが簡単で、兵の訓練機関が短く済むということもあって、かつてはどこの戦場でもオートバイが走っていた。
だが、今は軍用オートバイの出番は減っている。センサーなどの技術の向上に伴って、地上からの隠密偵察が厳しくなっているからだ。そうなってくると偵察には飛行機を飛ばした方が早いし、地上で行うなら威力偵察の方が重視される世の中だ。さらにヘリコプターで運べる軽装甲車の登場もあって、装甲の薄いオートバイは軍隊と言うものから姿を消そうとしている。
ラルフは軍用オートバイが現役だった時代を知っている兵士の一人だ。これがクラークになると、ほんの数年の歳の差だが微妙なところになり、レオナはもちろん、その時代を知らない組に入る。
レオナが整備中のオートバイに視線を注いでいるのは、工場見学が趣味だと言うぐらい「物を作る行程」を見るのが好きだということもあるが、単純に物珍しいと言うこともあったのだ。オートバイに向かってスパナ片手に格闘しているのがラルフである、ということも理由のひとつだったが。整備班でもないラルフが、休日に機械油に塗れてバイクの整備をする理由などどこにもない。
「これ払い下げて貰ったんだよ。だから俺の私物。うちの部隊でももう少しバイク減らすんだと」
背中越しにレオナが首を傾げる気配に気付いたか、ラルフは振り返りもせずに答えた。
「こないだまで現役で整備点検されてたんだから走るにゃ問題ねえし、サイドカーと装甲外せば普通のバイクだろ。外に払い下げるつもりだったらしいんだけどよ、俺こういうの好きだから買い取った」
「……そうなの」
「もし乗りたかったら貸してやるぜ? どうせ俺の家のあたりなんかに停めといたら、一晩持たずに盗まれちまうんだ。基地の中に置いとくからさ」
「別にいいわ。運転できないもの」
ラルフはわざわざ振り返って、心底意外だという顔で青い髪の少女を見上げた。普段は逆だが、整備の為にしゃがみこんでいるラルフの方が、今は視線が低い。
「料理とか刺繍とかそういうのならともかく、お前の口から「できない」って台詞を聞くとは思わなかったぜ、おい。本当かそれ」
「嘘を吐く理由はないわ。訓練を受けてないの。それだけ」
「あー、そうか。最近は使わねえもんな」
ラルフが軍服に初めて袖を通したその頃は、オートバイの訓練はほとんど必須だった。レオナは違う。オートバイが消え始めた時代の兵士だ。無駄を好まぬ彼女の義父が、それに関する訓練をメニューから外したのは当然かもしれない。
「でも、できることなら覚えておいた方がいいぜ、これ」
「そう?」
「街中移動するのに、こいつほど都合のいい乗り物はねえぞ。一刻を争うって時は絶対にこいつだ。何しろ渋滞関係なしだからな」
それはそうかもしれない、とレオナは頷いた。並んだ車の間をすり抜けるのだから、当然スピードはそのままと言うわけには行かないが、それでも渋滞で身動き取れなくなる自動車よりは、オートバイの方が先に進める分早いだろう。自動車では入り込めない細い路地にも突っ込めるのも利点だ。
だが、逆に言えばそれだけだ。車輪がふたつしかないオートバイは、支えなしでは立っていることもできない。気を抜けば簡単に倒れる。屋根も覆いもないから、雨が降れば下着まで濡れるし、夏には容赦なく照り付ける日差しに背中が焼ける。逆に冬は凍るほど寒い。そして事故にでもなれば、乗り手は体ひとつでアスファルトに放り出されるのだ。
一刻を争う状況など、オフの時にどれだけあるというのだろう。だとしたら車で充分ではないか、とレオナなどは思う。
だが、ラルフに言わせると違うらしい。
「それに、こいつで走るとすっきりするんだよ。少なくとも、延々と拳銃撃ち続けるよりよっぽどいい」
自分のひそかなストレス解消法を揶揄されて、レオナは形のいい眉を顰めた。自分の趣味をどうこう言われるのは、レオナでも気分があまり良くない。クラークなら倍ほども濃くて厳しい文句を言い返すところだが、レオナは沈黙した。ラルフが後を続けたせいもある。
「風がな、いいんだよ」
「風?」
「こいつに乗ってると、体いっぱいに風がぶつかって来るんだよ。それが頭の中のもやもやしたものを吹き飛ばすんだ。気持ちいいぜ」
「……風なら、幌なしのジープに乗っててもぶつかってくるわ」
「それが違うんだよ」
ラルフは工具箱にスパナを戻してにやりと笑う。
「バイクってのはな、他の何とも違う乗り物なんだ。走り方そのものが違うんだよ――と言っても、口で言ってもわかりゃしねえだろ。ヘルメット持って来な、後ろに乗せてやる」
オートバイは鮮やかに車と車の間を抜け、何もかを置き去りにしていく。ラルフそのものを透かして見せるかのように、その運転は荒っぽいくせにとてつもなく正確だ。メーターはとてつもないスピードを指しているというのに、まるで不安な気がしない。
鉄の塊でしかない機械にもそういう言葉を使っていいのなら、これが気が合うということなのだろう。ラルフの気質に、この乗り物がぴたりと嵌っているのだ。考えてみれば、鋼鉄の暴れ馬の主にこれほど合った男はいない。
確かに走り方そのものが違うのだとレオナは思った。
自動車とはアクセルもブレーキも、タイミングが何もかも違う。自分はタンデムシートに座ってラルフの腰にしがみついているだけだが、それでもそれがはっきりとわかった。
オートバイにはオートバイの走り方がある。他のものと同じ走り方はできないし、他のものにはオートバイの走りはできない。
風もそうだ。オートバイに乗っていて受ける風は、他のものとはまるで違う。ジープと同じ、と言った時にラルフが笑った理由が、今ならレオナにもわかる。
風がぶつかってくるのではない。風に包まれて、同じものになるのだ。
ラルフの背に頬を押し付け、風に髪をなびかせながら、レオナは後ろに飛び去る世界を見ていた。
二人を乗せたバイクは基地に戻ってきたのは二時間後だった。
バイクを降りると、思ったより疲れていることにレオナは驚いた。独特の緊張感のせいだろう。自分で運転していたわけでもないのに体が重い。
「後でシャワーの熱いの浴びとけよ。風で冷えるし、慣れないと体が強張るからな」
数百キロもあるオートバイを自転車のように軽々と押して、ラルフはガレージの隅にバイクを停めた。チャン・コーハンあたりの体重を考えると、もしかすると担いで自室に持ち込むことだってできるのかもしれないが、流石にそこまで酔狂ではないらしい。
「で、どうだこいつは。少しはすっきりするって意味がわかっただろう?」
「……そうね。気持ちよかったわ」
「それじゃ運転覚えるか? 教えてやるぜ」
風に弄られてもつれた髪に指を通していたレオナは、しかし首を横に振った。
「任務で必要になってからでいい」
「気持ちよかったんじゃねえのかよ」
憮然としてラルフは聞き返す。子供のように口が尖るあたり、わかりやすい男だ。
確かにオートバイは、レオナにとっても気持ちよい乗り物だった。走っている間中、体を包んでいた風の感触も悪くはなかった。
「でも。これはたぶん、私のやり方とは違う」
オートバイにはオートバイの走り方があるように、レオナにはレオナに合うものがある。それがレオナにとっては射撃訓練であって、いくら心地よくてもオートバイは違うのだ。ラルフのそれが射撃訓練ではないように。
それに、と年も身長も十以上違う恋人を見上げて、レオナは付け加える。
「後ろに乗る方が、嬉しい気がする」
「甘えんな、こら」
そう言いながらラルフの顔が笑っているのを、オートバイのミラーが映していた。
少なくとも一昔前までは、軍用オートバイはかなり重宝されたものだ。伝令や隠密偵察に向いているとか、機動性が高く悪路も走れるとか、輸送しやすいとか、使い捨てにしても惜しくないコストだとか。ついでに自動車よりも運転技術を習得するのが簡単で、兵の訓練機関が短く済むということもあって、かつてはどこの戦場でもオートバイが走っていた。
だが、今は軍用オートバイの出番は減っている。センサーなどの技術の向上に伴って、地上からの隠密偵察が厳しくなっているからだ。そうなってくると偵察には飛行機を飛ばした方が早いし、地上で行うなら威力偵察の方が重視される世の中だ。さらにヘリコプターで運べる軽装甲車の登場もあって、装甲の薄いオートバイは軍隊と言うものから姿を消そうとしている。
ラルフは軍用オートバイが現役だった時代を知っている兵士の一人だ。これがクラークになると、ほんの数年の歳の差だが微妙なところになり、レオナはもちろん、その時代を知らない組に入る。
レオナが整備中のオートバイに視線を注いでいるのは、工場見学が趣味だと言うぐらい「物を作る行程」を見るのが好きだということもあるが、単純に物珍しいと言うこともあったのだ。オートバイに向かってスパナ片手に格闘しているのがラルフである、ということも理由のひとつだったが。整備班でもないラルフが、休日に機械油に塗れてバイクの整備をする理由などどこにもない。
「これ払い下げて貰ったんだよ。だから俺の私物。うちの部隊でももう少しバイク減らすんだと」
背中越しにレオナが首を傾げる気配に気付いたか、ラルフは振り返りもせずに答えた。
「こないだまで現役で整備点検されてたんだから走るにゃ問題ねえし、サイドカーと装甲外せば普通のバイクだろ。外に払い下げるつもりだったらしいんだけどよ、俺こういうの好きだから買い取った」
「……そうなの」
「もし乗りたかったら貸してやるぜ? どうせ俺の家のあたりなんかに停めといたら、一晩持たずに盗まれちまうんだ。基地の中に置いとくからさ」
「別にいいわ。運転できないもの」
ラルフはわざわざ振り返って、心底意外だという顔で青い髪の少女を見上げた。普段は逆だが、整備の為にしゃがみこんでいるラルフの方が、今は視線が低い。
「料理とか刺繍とかそういうのならともかく、お前の口から「できない」って台詞を聞くとは思わなかったぜ、おい。本当かそれ」
「嘘を吐く理由はないわ。訓練を受けてないの。それだけ」
「あー、そうか。最近は使わねえもんな」
ラルフが軍服に初めて袖を通したその頃は、オートバイの訓練はほとんど必須だった。レオナは違う。オートバイが消え始めた時代の兵士だ。無駄を好まぬ彼女の義父が、それに関する訓練をメニューから外したのは当然かもしれない。
「でも、できることなら覚えておいた方がいいぜ、これ」
「そう?」
「街中移動するのに、こいつほど都合のいい乗り物はねえぞ。一刻を争うって時は絶対にこいつだ。何しろ渋滞関係なしだからな」
それはそうかもしれない、とレオナは頷いた。並んだ車の間をすり抜けるのだから、当然スピードはそのままと言うわけには行かないが、それでも渋滞で身動き取れなくなる自動車よりは、オートバイの方が先に進める分早いだろう。自動車では入り込めない細い路地にも突っ込めるのも利点だ。
だが、逆に言えばそれだけだ。車輪がふたつしかないオートバイは、支えなしでは立っていることもできない。気を抜けば簡単に倒れる。屋根も覆いもないから、雨が降れば下着まで濡れるし、夏には容赦なく照り付ける日差しに背中が焼ける。逆に冬は凍るほど寒い。そして事故にでもなれば、乗り手は体ひとつでアスファルトに放り出されるのだ。
一刻を争う状況など、オフの時にどれだけあるというのだろう。だとしたら車で充分ではないか、とレオナなどは思う。
だが、ラルフに言わせると違うらしい。
「それに、こいつで走るとすっきりするんだよ。少なくとも、延々と拳銃撃ち続けるよりよっぽどいい」
自分のひそかなストレス解消法を揶揄されて、レオナは形のいい眉を顰めた。自分の趣味をどうこう言われるのは、レオナでも気分があまり良くない。クラークなら倍ほども濃くて厳しい文句を言い返すところだが、レオナは沈黙した。ラルフが後を続けたせいもある。
「風がな、いいんだよ」
「風?」
「こいつに乗ってると、体いっぱいに風がぶつかって来るんだよ。それが頭の中のもやもやしたものを吹き飛ばすんだ。気持ちいいぜ」
「……風なら、幌なしのジープに乗っててもぶつかってくるわ」
「それが違うんだよ」
ラルフは工具箱にスパナを戻してにやりと笑う。
「バイクってのはな、他の何とも違う乗り物なんだ。走り方そのものが違うんだよ――と言っても、口で言ってもわかりゃしねえだろ。ヘルメット持って来な、後ろに乗せてやる」
オートバイは鮮やかに車と車の間を抜け、何もかを置き去りにしていく。ラルフそのものを透かして見せるかのように、その運転は荒っぽいくせにとてつもなく正確だ。メーターはとてつもないスピードを指しているというのに、まるで不安な気がしない。
鉄の塊でしかない機械にもそういう言葉を使っていいのなら、これが気が合うということなのだろう。ラルフの気質に、この乗り物がぴたりと嵌っているのだ。考えてみれば、鋼鉄の暴れ馬の主にこれほど合った男はいない。
確かに走り方そのものが違うのだとレオナは思った。
自動車とはアクセルもブレーキも、タイミングが何もかも違う。自分はタンデムシートに座ってラルフの腰にしがみついているだけだが、それでもそれがはっきりとわかった。
オートバイにはオートバイの走り方がある。他のものと同じ走り方はできないし、他のものにはオートバイの走りはできない。
風もそうだ。オートバイに乗っていて受ける風は、他のものとはまるで違う。ジープと同じ、と言った時にラルフが笑った理由が、今ならレオナにもわかる。
風がぶつかってくるのではない。風に包まれて、同じものになるのだ。
ラルフの背に頬を押し付け、風に髪をなびかせながら、レオナは後ろに飛び去る世界を見ていた。
二人を乗せたバイクは基地に戻ってきたのは二時間後だった。
バイクを降りると、思ったより疲れていることにレオナは驚いた。独特の緊張感のせいだろう。自分で運転していたわけでもないのに体が重い。
「後でシャワーの熱いの浴びとけよ。風で冷えるし、慣れないと体が強張るからな」
数百キロもあるオートバイを自転車のように軽々と押して、ラルフはガレージの隅にバイクを停めた。チャン・コーハンあたりの体重を考えると、もしかすると担いで自室に持ち込むことだってできるのかもしれないが、流石にそこまで酔狂ではないらしい。
「で、どうだこいつは。少しはすっきりするって意味がわかっただろう?」
「……そうね。気持ちよかったわ」
「それじゃ運転覚えるか? 教えてやるぜ」
風に弄られてもつれた髪に指を通していたレオナは、しかし首を横に振った。
「任務で必要になってからでいい」
「気持ちよかったんじゃねえのかよ」
憮然としてラルフは聞き返す。子供のように口が尖るあたり、わかりやすい男だ。
確かにオートバイは、レオナにとっても気持ちよい乗り物だった。走っている間中、体を包んでいた風の感触も悪くはなかった。
「でも。これはたぶん、私のやり方とは違う」
オートバイにはオートバイの走り方があるように、レオナにはレオナに合うものがある。それがレオナにとっては射撃訓練であって、いくら心地よくてもオートバイは違うのだ。ラルフのそれが射撃訓練ではないように。
それに、と年も身長も十以上違う恋人を見上げて、レオナは付け加える。
「後ろに乗る方が、嬉しい気がする」
「甘えんな、こら」
そう言いながらラルフの顔が笑っているのを、オートバイのミラーが映していた。