揺籃
あの方は―――母上は、今でもあの部屋で一人、私を抱きしめてく
れているのだろうか。
「有能な参謀殿かと思えば王の勅命を受けた密使、寝返って我が部
隊に粉骨したかと思えば皇太子殿下に情報を洩らす―――まったく
あきぬ男だ、貴様は…」
シップの逆噴射で兄上のコルベットの攻撃を逸らしたその男に駆け寄
ると、そいつは虚ろな目でちらりと私を見た。
「―――」
「喋るな、どうせ声は出んのだ」
小声で制するとクロトワは目を閉じてゆっくりと息を吐く。
「気は保て。意識の無い男を担いで走るのは流石に負担が大きい」
そう声を掛けるとそいつは驚いた様に眉を上げ、ゆるゆると口を開いた。
「…動かすぞ、舌を噛まぬ様歯を食いしばっておけ」
蟲共が飛び交うその場所になんとか塹壕を見つけて滑り込むと、脇に
抱えたクロトワがガクリと身体を脱力させた。
「なんて様だ、クロトワ。おまえお得意の日和見主義はどこへいった?」
私が揶揄を含んだ調子でそう言うと、そいつは腕の中で微かに笑った
様だった。
「こんな場所でおまえの様な奴と…蟲に喰われて最期を迎えるなど思
いもしなかったが―――見てみろ、この蟲の数を」
「ああ…空、が見えねえ程…たぁ、こりゃまた壮観、ですな」
クロトワはそう言って私の腕の中で身動ぎすると、眉を寄せ低く呻いた。
「蟲が寄るぞ、騒ぐな」
「そうは…言ったってこの、数じゃあどう、せ―――」
そのまま顔を固まらせたクロトワを抱え直して眼前に目をやると、大きな
影と共に舞い下りた蟲が一匹、こちらを向いて口を開けていた。
―――不思議と、私の心中は穏やかだった。自分でも不思議でなら
なかったが、煩い程鳴っているであろう蟲鳴りも、周囲で上がる絶望の
悲鳴も、鉄を含んだ人血の生臭さも、なにもかもが何故か酷く遠い世
界の事の様に感じた。
「…何故だろうな」
ああそうか、これは穏やかというのではない、寧ろ空虚なのだ、そう思い
至って、私は小さく笑った。
『―――クシャナ、私のクシャナ。大丈夫、おまえは誰にも渡しません。
だから心配しないで、私の可愛いクシャナ…』
部屋に入った私に怯え、その手に抱いた人形を『クシャナ』と呼んで胸
に抱き寄せる母上を見る度、この人をこんな風にしてしまった父王や兄
上達への憎しみは増すばかりだった。
『大丈夫、おまえは私が守ってあげます。さあ泣かないで…』
そう言って胸に抱いた『クシャナ』に母上が聴かせてくれたあの歌の、な
んと優しかった事か。
そんな母上を、終ぞ一度も抱きしめる事が出来なかった己の弱さを思
いながら、私はその歌を口ずさんだ。
クロトワが途中何度か絶望的な表情でこちらを見上げたが、私が気に
せず歌い続けると諦めたのか、細く息を吐いてその目を閉じた。
「…上も、静かに…なった様で、殿下…」
暫くの後クロトワの言葉に空を見上げると、なるほど蟲共はもうその姿
を消していた。気がつけば空の端も陽の光で白んでいる。
「『上も』か…調子が戻ってきたではないか。死に損ねたな、クロトワ」
「殿下の腕の中で…美しい歌声を、聴きながら…死ぬのも悪くはない
か、とも、思ったんです…がね」
「ははっ!だから貴様は信用ならんというのだ!」
言いながら私が身体を揺らして笑うと、クロトワは唸り声を上げて私の
胸に倒れ込んだ。
「どうした、傷に響くか?そう忌々しげな顔をするな。生きてその身で痛
みを感じられる幸運に感謝するがいい」
「幸運、ですか…ね。折角ですが自、分には、そういう趣味は…ないも
んで…出来る事ならこのまま、殿下の胸、の―――」
半生半死の状態でまだこうして下らん軽口を叩けるこの男の図太さに
もう一度笑ってから、剣を突き勢いよく立ち上がると、支えを失くしたク
ロトワは地面に倒れて苦悶の声を上げた。
「それだけ喋れるのなら手を貸す事はいらんな。行くぞ、クロトワ。立て」
「…殿下、は―――俺を殺す気…なん、ですか…」
「殺しても死なぬ奴がなにを言う。だがいっそ一思いに殺してくれと言う
のなら叶えてやらんでもないぞ」
そう言って手を伸べるとクロトワは、それは…またの機会に、と小さく返
して私の手を掴んだ。
死に満ちたその一帯にありながら、私と、私が支えるその男の身体はま
だ温かかった―――その中身が如何に空虚なものであっても、身体は
まだ温かく、昇り始めた陽もやはり、未だその輝きを失ってはいなかった。
PR