「なぁんだ、つまんないわねぇ」
「お前も一応、年頃の牝馬なら、自分の事を考えやがれ。
そんなんじゃ、引退しても、秋華賞馬だってのに、どこの雄馬も相手にしてくんねぇぞ」
ドバイWC日本代表馬の中でも問題児筆頭に、偉そうに引退後のプライベートの事まで説教されたものだから、
年頃の乙女としては、多少、気を害さない筈がない。
「ニトロ。それ、どういう意味よ、あたしが、お嫁にいけないとでも言いたいの?」
「ハッ!じゃあ、お前みたいなじゃじゃ馬が、一丁前に恋愛出来るってのかよ」
「よく言うわよ。そっくり、お言葉返してあげるわ」
売り言葉に、買い言葉。
「あわわ、二人とも落ち着いて…っ」
段々、険悪な雰囲気になる二人に、マキバオーがおろおろと動揺していると、トゥカッターが唯一の年上らしく鷹揚に割って入る。
「まぁ、二人ともそこまでにしておけ。嬢ちゃん、ニトロはな?本当はこう言いてぇんだよ。
『俺がちゃんと嫁にもらって、種つけてやるから、安心しろ』ってなぁ」
「な…っ!?」
トゥカッターがさらりと投下した爆弾発言で、ニトロニクスの頬が、浅黒い毛色の上からも、みるみる内に上気していくのが解る。
その様子をマキバオーとアマゴワクチンが、珍物でも見るような目で、眺めている。
視線を察知したニトロニクスが、一際大声で怒鳴った。
「ふっ…ふざけんな!おっさん!俺はこんな可愛げないオンナなんざ、お断りだぜ!」
照れ隠しであるのは明白だが、女性に向けて発するにはあまりに失礼な台詞だ。
火種が更に燃えあがる展開を予想して、「あーぁー…」とアマゴワクチンが溜息をつく。
そして、予想は当たる。
「冗談じゃないわよ!こちらこそ、あんたみたいに優しくないの、お断りだわ!」
鼻息荒く、ニトロニクスを一瞥するように睨みつけると、ふいっと顔を反らし、言を次ぐ。
「第一、私には、ちゃんと好きな人はいるんだからっ」
えっ?と驚きと痛みを交えた表情で、ニトロニクスが一瞬硬直する。
思い当たったマキバオーとアマゴワクチンが、複雑な気持ちでその言葉を聞いていた。事情を知らないトゥカッターが、
声を潜めてアマゴワクチンに問うのを、横目で苦々しく捉え、胸に走る鋭い痛みと敗北感から生まれる屈辱に、
ニトロニクスの中で抑制出来ない感情が爆発した。
だから、その言葉は本当に、理性無き無意識の勢いのようなものであったのだろう。
「けっ!どうせあのネズミだろ!いつまでも、女々しく死んだヤツの事、引きずってんじゃ…」
「ニトロ!!言い過ぎ!」
意外にも、それ以上の言葉を遮ったのは、つい先程まで右往左往してるだけのマキバオーだった。
その声に、ニトロニクスも自戒の念と共に我に返った。
「あ……」
見れば、アンカルジアは頸をうなだれて、黙っている。長い前髪で隠れて、その表情は窺いしれない。
「お…おいっ」
いつもの強気な彼女と明らかに違う様子に焦るニトロニクスに、黙ったままくるりと背を向けた。
「ちょ…おい、待てよっ」
「…………ニトロの……」
「……え?」
「馬鹿っ!!!」
叫ぶような罵声と共に、地面を一蹴り。凶器と化した後ろ脚の蹄が弧を描いて、見事にニトロニクスの鼻面にヒットする。
天下の秋華賞馬の後ろ蹴りだ。見てる方も痛そうに眉を寄せた。
「て…てめぇっ、オンナのくせに後ろ蹴りって…」
顔にくっきりUの文字を刻んで、ニトロニクスが激昂しかける。
だが、次の刹那、去っていくアンカルジアの横顔に、涙の筋を認めると、一瞬で言葉を失った。
ただ茫然と、駆け去っていく後ろ姿を見つめていると、背後から一斉に声を揃えて非難が飛んできた。
「ニトロが悪い」
「な…なんだよ、お前ら…」
「あんな言い方は、ひどいのね!」
「ほら、早く追いかけて、謝っとけよ」
「冗談じゃねぇ、被害者は俺の方だろうがっ」
マキバオーとアマゴワクチンに責められながらも、素直になれない性格が邪魔して、余計に意地を張ってしまう。
「まぁまぁ、二頭ともよ、そうニトロを責めなさんな」
再び、トゥカッターが仲裁に入ってくる。
「惚れたオンナの心に、まだ他のオトコが住んでるのを知っちまったんだ。ニトロだって辛かろうよ?」
「べ…別に俺は…っ」
「だがなぁ…、勝負事はこちらの事情なんざ、汲み取ってくれねぇのよ」
「何の…話…だよ」
「いや、もしも、さっきのお前の言葉に深く傷ついて、ドバイにまでショック引きずったアンカルジアが走れなくなっちまったら、
誰の責任だと思ってなぁ…」
「………うっ…」
「しかも、そのせいで日本が惨敗し、罪悪感から帰国後も走れなくなり、とうとう競争馬引退…」
「なっ!?」
不吉な予想に、初めてニトロニクスの顔から、意地の仮面が外れる。その瞬間を見逃さない老獪さは、さすがに六歳馬だ。
「あまつさえ…後に待っていたのは『供養』という名の馬刺し行きなんて…」
「うわああん!アンカルジアが食べられるなんて、嫌なのねー!!」
母親が売られた関係で、散々聞かされたひげ牧場の黒い噂のせいか、マキバオーには、『供養』の一言はリアルな恐怖だった。
その恐慌ぶりが、更にニトロニクスの焦燥心を煽る。
「…っくそ」
とうとう意地が折れて、くるりとその巨躯を翻し、アンカルジアが走り去った道を、レースでも見せた事のない速さで走り出した。
その後ろ姿を見送りながら、「若いってのはいいねぇ」等とトゥカッターが呟いた。
「呑気な事言ってる場合かー!あああ、えらいこっちゃ、えらいこっちゃ」
ぐるぐると回りながら、パニック状態のマキバオーの尻尾をアマゴワクチンが口で掴む。
「落ち着け、マキバオー。カッターのデマカセだからよ」
「これが落ち着いてなんか……っ、へ?…デマカセ?」
パニックから我に返ったマキバオーに、トゥカッターがにやりと笑む。
「あの嬢ちゃんは、天下の秋華賞馬だぜ?繁殖馬にしねぇ訳がねぇだろ?」
それに…、と言を続け、
「こんな事で走れなくなるようなオンナじゃねぇ事は、付き合いが長いお前の方が知ってるんじゃねぇか?」
「……うん」
ようやく落ち着きを取り戻したマキバオーの尻尾を離して、アマゴワクチンが呆れと多少意地の悪い作戦に少しの
非難を込めて、トゥカッターを見る。
「策士だな…」
「褒めてんだろ?」
全く悪びれないトゥカッターの様子に、諦めの溜息をつく。
「…まぁ、ああでも言わねぇと、ニトロは意地張っちまうだろうからな」
「そういう事だな。後は若い二人に任せてだな…。その内、らぶらぶしながら戻って来るだろうよ」
そう言うと、三頭は連れ立って馬房に戻ろうとした。だが、それを呼び止めるドラ声が聞こえる。
「おい!お前らー!」
振り返れば、飯富代表調教師が焦燥した様子で、息咳き切って駆け寄って来る。
「んあ?虎先生、そんなに慌てて、どうしたの?」
「いや、お前ら、ニトロとアンカルジアの二頭を見てねぇか?」
「つい、さっきまで一緒だったが…どうかしたのか?」
いつも鷹揚に構えている飯富の珍しく青ざめた表情に、三頭が不審そうにする。
「いや、どこにも居ねぇんだよ。今、スタッフ総出で確認してんだけどよ。なんだか、門の外に二頭らしき蹄の跡を見つけてよ。
もしかしたら、外に出て行っちまったかもしれん」
「えっ!?」
三頭の驚きの声が、ぴたりと重なる。
マキバオーとアマゴワクチンが、策士トゥカッターを頼るように見た。
だが、次に出た言葉は、
「……こいつは計算外だぜ」
*
今度こそ 願っても
見つかったようで見つかんない…
くり返すせつなさに
不安募ってくけど
「…駄目ね、私。どうして、こうなのかな」
独り佇み、アンカルジアは呟いた。
そして、目の前で苔むす小さな墓石にうっすら積もった埃を鼻先で払う。
手作りの墓石に刻まれた名前を呼ぶ。
「…チュウ兵衛」
本多特別分場を飛び出して、悔しさと苛立ちそして悲しみが渾然となったまま、訳も分からず走っていたが、
何故かここに辿り着いた。一度、高坂里華に頼んで墓参りに連れてきてもらったので、
道は知っていたが、意識的に来たつもりはなかった。
だが、理由は解っている。
「…逃げてきたのね、私」
そう、今まで虚勢を張って目を背けていた現実から、ここに逃げ込んできたのだ。
───『そこまで解ってんなら、帰れ』
ふと聞こえた声に、アンカルジアは目を見開いた。
「チュウ兵衛!?」
思わず見える筈もない彼の姿探して、周囲を見回す。
もう聞く事が出来ないと諦めていた懐かしく愛しい声に、胸が高鳴る。
また弱気になった自分を叱って欲しくて、そして励まして欲しくて…。
だが、次に聞こえた声は、冷たく突き放すものだった。
───『お前には、がっかりだぜ。そんな程度のオンナだったのかよ』
「え…?」
期待とは裏腹に、記憶のどんな声よりも冷淡で、容赦のない言葉に戸惑う。
自分が求めていたのは、乱暴で少し意地悪な口調でも、誰よりも深い優しさが隠された彼だった。
「なんでそんな事言うのよ…!私だって、頑張ってる!走って走って、辛いけど
また走って…、少し位、逃げてもいいじゃないっ!」
悲鳴のような叫び。知らぬ間に、双眸から、誰にも見せまいとずっと耐えていた涙が溢れていた。
───『それで…逃げた先に何があるんだ?』
「あなたが…いる。また私を励ましてよ!傍にいてよ!…独りで走るのが怖いのっ!」
───『俺は、もういねぇんだよ』
誰よりも彼の声では、聞きたくなかった現実。
「……っ!?」
彼はもういない。見えずとも、ずっと傍にいてくれる筈だから…、消せない想いと共に自らに言い聞かせて、
決して認めなかった現実。
───『俺がいなけりゃ、走れないって言うんなら…。じゃあ…お前に走る事をやめれんのか?』
その問いにアンカルジアは、何も答える事が出来ない。是とも否とも。
「……それは」
シルバーコレクターと呼ばれ、負け続けた屈辱と、初めて先頭でゴールを切った瞬間の快感が
綯い交ぜに脳裏を交錯する。走るほどに味わう天国と地獄と…。
だが、身体が覚えている。あの震えるような一瞬の天国が、長い地獄さえも吹き飛ばしてくれる事を。
───『それに、お前は独りで走ってる訳じゃねぇだろ?』
「……え?」
「この…馬鹿オンナ!!」
重なったもう一つの声は、聞き慣れて、チュウ兵衛のそれよりも、もっと現実の質量を含んでいる。
驚いて振り返ると、まるで激しいレースを終えた直後のように、滝のような汗を流し、いつもきっちりと
整えたご自慢のリーゼントも振り乱して、ニトロニクスが仁王立ちしていた。
「なんで…ニトロ」
思いも寄らなかった相手の登場に、茫然としてると、怒りも露わに鼻息荒く近づいて来る。
「なんでじゃねぇ!こんなとこまで、のこのこ来やがって、この馬鹿っ」
荒い息そのままに、一気呵成に罵倒したが、何故か後悔混じりの苦虫を噛み潰したような表情で、「いや…」と続け、
「馬鹿は俺だな…」
そう呟くと、アンカルジアの横を神妙な顔ですり抜け、墓石に近づく。
「悪かったな…」
独白のような謝罪が、耳を掠めた。墓石を見つめたままのニトロニクスの顔は解らない。
一瞬、空耳かと疑ったが、今度は振り返り、蒼い瞳がしっかりとこちらを見た。
「悪かった…」
「な…、何よ…」
「忘れんなよ、コイツの事」
ふいっと、鼻先が墓石を指す。
「あんな事、言っちまったけどよ…解ってんだよ。今のアンカルジアがいるのも、コイツと出会った事が
在るからだって。お前の一部なんだって」
「ニトロ…」
まさか彼の口から、そんな言葉を聞くとは思わず、ただただ茫然としていた。
「ただ…それと、同じくらい忘れて欲しくねぇだけなんだよ。仲間の事。マキバオーとか
ワクチンとか、カッターのおっさんとか…………………俺…とかよ」
それは訥々として、決してスマートな物言いではなかったが、彼の持つ不器用な優しさに直に触れ、
素直に心に沁み入っていく。
不意に、心の中に巣くっていた灰色の靄のようなものが、潮が引くようにすうっと晴れていくのが解る。
どうして、自分は彼らを忘れてたのだろう。どうして彼らに、空元気の虚勢を張っていたのだろう。
時には、弱気な自分を晒したって、彼らが拒否する筈がない事を知っていたはずなのに。
自分の愚かさと、気づいた事実の喜びに小さく鼻で笑うと、ニトロニクスを改めて見据えた。
「ねぇ…悪い事したって思ってるなら、ちょっと目瞑ってよ」
「う…、お、お前、また蹴り入れるつもりか?」
未だに痛みが引かない顔を強ばらせて、ニトロニクスは一瞬怯んだが、
「いや、悪ぃのは俺だもんな…。いいぜ、重いの一発入れろや」
と、潔く覚悟を決め、固く目を閉じ、来るであろう激痛に身構えた。
だが、頬を掠めたのは痛みでは無く、温かく柔らかな感覚だった。
「ありがとう、ニトロニクス」
ぺろっと湿った水音に驚き、目を開けたが既にアンカルジアの姿はなく、軽やかな足音が背後に響いていた。
更に遠くから、聞き覚えのある足音が三つ、駆け足で近づいて来る。
「あー!いたいた!」
マキバオーを先頭に、アマゴワクチン、トゥカッターも駆け寄って来る。
「やだ、みんなどうしたの!?」
驚くアンカルジアを呆れ顔で、三頭が囲む。
「この家出娘、どうしたのときたもんだ」
「もう、若造さんに、二頭に似た馬を牧場で見かけたって、連絡もらった時は、びっくりしたのね!」
「俺たちも急いで向かったんだよ。まさか、ここで5000M特訓の成果が生かされるとは、思わなかったぜ…」
まぁ、無事に会えて良かったよと、安堵する様子を見て、アンカルジアがすまなそうに眉を下げる。
「ごめんなさいね?…でも、先生達はみんながここに来たの知ってるの?」
その問いに、三頭が顔をきょとんとして、見合わせる。
「お前が、先生に言ってあるんだろ?マキバオー」
「うんにゃ、ワクチンが言ってあるんじゃないの?」
「いや…、俺は慌てて…、てっきり、カッターが言ってあるんだと」
「……これって、無断外出ってヤツじゃねぇか?」
トゥカッターの一言に、再びマキバオーが奇声を発してパニックに陥る。
「いやあああ!えらいこっちゃ、えらいこっちゃ。絶対、虎先生、怒ってるよ!ぶたれるー!」
その滑稽なまでの慌てぶりに、思わずアンカルジアが吹き出した。
「ぷ…っ!クスクス…。マキバオーは、ともかくワクチンとカッターまでやらかすなんてねぇ?」
面目無さそうにうなだれるアマゴワクチンの横で、さすがのトゥカッターも天を仰いだ。
「もう!誰のせいだと思ってるのね!アンカルジアも他人事じゃないよ!」
大きな鼻穴から荒く息を吐き出しながら憤慨するマキバオーに、アンカルジアは、茶目っ気たっぷりにウィンクして見せる。
「あら、その時は庇ってくれるでしょ?『仲間』なんだから」
しれっとした物言いに、トゥカッターが呆れを通り越して賞賛を送る。
「……大物だぜ、嬢ちゃん」
「ふふ、ありがとっ。さ、これ以上、先生を怒らせると何させられるやら解らないわ。帰りましょ?」
そう促すと、先ほどから石像のように、硬直したままのニトロニクスを呼ぶ。
「ほら、ニトロも!馬鹿みたいに、突っ立ってないで帰るわよ!」
その声に、まるで長い夢から覚めたように、はっと我に返った。
「え…?あ……。だ、誰が馬鹿だよ!」
「誰かしらねぇ~?」
こうなると、いつもの掛け合いだ。空とぼけながら、軽やかな足取りで走り出す。
そして、ちらりと後ろを振り返った。
(バイバイ、チュウ兵衛。私はあなたよりもっと先に行くわ。あなたは『そこ』で、
こんなにイイ女と離れた事、後悔してながら見てなさい?……ずっと見ていてね…)
少しの強がりと願いを心中で呟くと、しっかりと前を向き直った。走り出せば、頬を心地よく風が切る。
───『解ってんじゃねぇか。それでこそ、俺が惚れたオンナだぜ』
傲慢で口は悪いけれど、裏に優しさにを隠して、笑いを浮かべた声が、風に乗って聞こえる。
「……っ!?」
その声に、足を止め掛けたが、アンカルジアはもう振り返らなかった。
ただ小さく満足気な笑みを浮かべ、前へ走る。
涙に濡れていた頬は、いつのまにか風に払われるように乾いていた。
こぼれる涙いつの間に ほら
はじまりに変わってるはずよ
回り道でも歩いていけば
行き先はそう自由自在
こぼれた涙いつだって ほら
願いの数を映してるの
遠回りでもたどり着けるわ
行き先はもう自分次第
Don't you worry
いまone step for tomorrow
進んでいるから alright!
またtwo steps for tomorrow
近づいてるから alright
lyric by Crystal Kay『なみだの先に』
「お前も一応、年頃の牝馬なら、自分の事を考えやがれ。
そんなんじゃ、引退しても、秋華賞馬だってのに、どこの雄馬も相手にしてくんねぇぞ」
ドバイWC日本代表馬の中でも問題児筆頭に、偉そうに引退後のプライベートの事まで説教されたものだから、
年頃の乙女としては、多少、気を害さない筈がない。
「ニトロ。それ、どういう意味よ、あたしが、お嫁にいけないとでも言いたいの?」
「ハッ!じゃあ、お前みたいなじゃじゃ馬が、一丁前に恋愛出来るってのかよ」
「よく言うわよ。そっくり、お言葉返してあげるわ」
売り言葉に、買い言葉。
「あわわ、二人とも落ち着いて…っ」
段々、険悪な雰囲気になる二人に、マキバオーがおろおろと動揺していると、トゥカッターが唯一の年上らしく鷹揚に割って入る。
「まぁ、二人ともそこまでにしておけ。嬢ちゃん、ニトロはな?本当はこう言いてぇんだよ。
『俺がちゃんと嫁にもらって、種つけてやるから、安心しろ』ってなぁ」
「な…っ!?」
トゥカッターがさらりと投下した爆弾発言で、ニトロニクスの頬が、浅黒い毛色の上からも、みるみる内に上気していくのが解る。
その様子をマキバオーとアマゴワクチンが、珍物でも見るような目で、眺めている。
視線を察知したニトロニクスが、一際大声で怒鳴った。
「ふっ…ふざけんな!おっさん!俺はこんな可愛げないオンナなんざ、お断りだぜ!」
照れ隠しであるのは明白だが、女性に向けて発するにはあまりに失礼な台詞だ。
火種が更に燃えあがる展開を予想して、「あーぁー…」とアマゴワクチンが溜息をつく。
そして、予想は当たる。
「冗談じゃないわよ!こちらこそ、あんたみたいに優しくないの、お断りだわ!」
鼻息荒く、ニトロニクスを一瞥するように睨みつけると、ふいっと顔を反らし、言を次ぐ。
「第一、私には、ちゃんと好きな人はいるんだからっ」
えっ?と驚きと痛みを交えた表情で、ニトロニクスが一瞬硬直する。
思い当たったマキバオーとアマゴワクチンが、複雑な気持ちでその言葉を聞いていた。事情を知らないトゥカッターが、
声を潜めてアマゴワクチンに問うのを、横目で苦々しく捉え、胸に走る鋭い痛みと敗北感から生まれる屈辱に、
ニトロニクスの中で抑制出来ない感情が爆発した。
だから、その言葉は本当に、理性無き無意識の勢いのようなものであったのだろう。
「けっ!どうせあのネズミだろ!いつまでも、女々しく死んだヤツの事、引きずってんじゃ…」
「ニトロ!!言い過ぎ!」
意外にも、それ以上の言葉を遮ったのは、つい先程まで右往左往してるだけのマキバオーだった。
その声に、ニトロニクスも自戒の念と共に我に返った。
「あ……」
見れば、アンカルジアは頸をうなだれて、黙っている。長い前髪で隠れて、その表情は窺いしれない。
「お…おいっ」
いつもの強気な彼女と明らかに違う様子に焦るニトロニクスに、黙ったままくるりと背を向けた。
「ちょ…おい、待てよっ」
「…………ニトロの……」
「……え?」
「馬鹿っ!!!」
叫ぶような罵声と共に、地面を一蹴り。凶器と化した後ろ脚の蹄が弧を描いて、見事にニトロニクスの鼻面にヒットする。
天下の秋華賞馬の後ろ蹴りだ。見てる方も痛そうに眉を寄せた。
「て…てめぇっ、オンナのくせに後ろ蹴りって…」
顔にくっきりUの文字を刻んで、ニトロニクスが激昂しかける。
だが、次の刹那、去っていくアンカルジアの横顔に、涙の筋を認めると、一瞬で言葉を失った。
ただ茫然と、駆け去っていく後ろ姿を見つめていると、背後から一斉に声を揃えて非難が飛んできた。
「ニトロが悪い」
「な…なんだよ、お前ら…」
「あんな言い方は、ひどいのね!」
「ほら、早く追いかけて、謝っとけよ」
「冗談じゃねぇ、被害者は俺の方だろうがっ」
マキバオーとアマゴワクチンに責められながらも、素直になれない性格が邪魔して、余計に意地を張ってしまう。
「まぁまぁ、二頭ともよ、そうニトロを責めなさんな」
再び、トゥカッターが仲裁に入ってくる。
「惚れたオンナの心に、まだ他のオトコが住んでるのを知っちまったんだ。ニトロだって辛かろうよ?」
「べ…別に俺は…っ」
「だがなぁ…、勝負事はこちらの事情なんざ、汲み取ってくれねぇのよ」
「何の…話…だよ」
「いや、もしも、さっきのお前の言葉に深く傷ついて、ドバイにまでショック引きずったアンカルジアが走れなくなっちまったら、
誰の責任だと思ってなぁ…」
「………うっ…」
「しかも、そのせいで日本が惨敗し、罪悪感から帰国後も走れなくなり、とうとう競争馬引退…」
「なっ!?」
不吉な予想に、初めてニトロニクスの顔から、意地の仮面が外れる。その瞬間を見逃さない老獪さは、さすがに六歳馬だ。
「あまつさえ…後に待っていたのは『供養』という名の馬刺し行きなんて…」
「うわああん!アンカルジアが食べられるなんて、嫌なのねー!!」
母親が売られた関係で、散々聞かされたひげ牧場の黒い噂のせいか、マキバオーには、『供養』の一言はリアルな恐怖だった。
その恐慌ぶりが、更にニトロニクスの焦燥心を煽る。
「…っくそ」
とうとう意地が折れて、くるりとその巨躯を翻し、アンカルジアが走り去った道を、レースでも見せた事のない速さで走り出した。
その後ろ姿を見送りながら、「若いってのはいいねぇ」等とトゥカッターが呟いた。
「呑気な事言ってる場合かー!あああ、えらいこっちゃ、えらいこっちゃ」
ぐるぐると回りながら、パニック状態のマキバオーの尻尾をアマゴワクチンが口で掴む。
「落ち着け、マキバオー。カッターのデマカセだからよ」
「これが落ち着いてなんか……っ、へ?…デマカセ?」
パニックから我に返ったマキバオーに、トゥカッターがにやりと笑む。
「あの嬢ちゃんは、天下の秋華賞馬だぜ?繁殖馬にしねぇ訳がねぇだろ?」
それに…、と言を続け、
「こんな事で走れなくなるようなオンナじゃねぇ事は、付き合いが長いお前の方が知ってるんじゃねぇか?」
「……うん」
ようやく落ち着きを取り戻したマキバオーの尻尾を離して、アマゴワクチンが呆れと多少意地の悪い作戦に少しの
非難を込めて、トゥカッターを見る。
「策士だな…」
「褒めてんだろ?」
全く悪びれないトゥカッターの様子に、諦めの溜息をつく。
「…まぁ、ああでも言わねぇと、ニトロは意地張っちまうだろうからな」
「そういう事だな。後は若い二人に任せてだな…。その内、らぶらぶしながら戻って来るだろうよ」
そう言うと、三頭は連れ立って馬房に戻ろうとした。だが、それを呼び止めるドラ声が聞こえる。
「おい!お前らー!」
振り返れば、飯富代表調教師が焦燥した様子で、息咳き切って駆け寄って来る。
「んあ?虎先生、そんなに慌てて、どうしたの?」
「いや、お前ら、ニトロとアンカルジアの二頭を見てねぇか?」
「つい、さっきまで一緒だったが…どうかしたのか?」
いつも鷹揚に構えている飯富の珍しく青ざめた表情に、三頭が不審そうにする。
「いや、どこにも居ねぇんだよ。今、スタッフ総出で確認してんだけどよ。なんだか、門の外に二頭らしき蹄の跡を見つけてよ。
もしかしたら、外に出て行っちまったかもしれん」
「えっ!?」
三頭の驚きの声が、ぴたりと重なる。
マキバオーとアマゴワクチンが、策士トゥカッターを頼るように見た。
だが、次に出た言葉は、
「……こいつは計算外だぜ」
*
今度こそ 願っても
見つかったようで見つかんない…
くり返すせつなさに
不安募ってくけど
「…駄目ね、私。どうして、こうなのかな」
独り佇み、アンカルジアは呟いた。
そして、目の前で苔むす小さな墓石にうっすら積もった埃を鼻先で払う。
手作りの墓石に刻まれた名前を呼ぶ。
「…チュウ兵衛」
本多特別分場を飛び出して、悔しさと苛立ちそして悲しみが渾然となったまま、訳も分からず走っていたが、
何故かここに辿り着いた。一度、高坂里華に頼んで墓参りに連れてきてもらったので、
道は知っていたが、意識的に来たつもりはなかった。
だが、理由は解っている。
「…逃げてきたのね、私」
そう、今まで虚勢を張って目を背けていた現実から、ここに逃げ込んできたのだ。
───『そこまで解ってんなら、帰れ』
ふと聞こえた声に、アンカルジアは目を見開いた。
「チュウ兵衛!?」
思わず見える筈もない彼の姿探して、周囲を見回す。
もう聞く事が出来ないと諦めていた懐かしく愛しい声に、胸が高鳴る。
また弱気になった自分を叱って欲しくて、そして励まして欲しくて…。
だが、次に聞こえた声は、冷たく突き放すものだった。
───『お前には、がっかりだぜ。そんな程度のオンナだったのかよ』
「え…?」
期待とは裏腹に、記憶のどんな声よりも冷淡で、容赦のない言葉に戸惑う。
自分が求めていたのは、乱暴で少し意地悪な口調でも、誰よりも深い優しさが隠された彼だった。
「なんでそんな事言うのよ…!私だって、頑張ってる!走って走って、辛いけど
また走って…、少し位、逃げてもいいじゃないっ!」
悲鳴のような叫び。知らぬ間に、双眸から、誰にも見せまいとずっと耐えていた涙が溢れていた。
───『それで…逃げた先に何があるんだ?』
「あなたが…いる。また私を励ましてよ!傍にいてよ!…独りで走るのが怖いのっ!」
───『俺は、もういねぇんだよ』
誰よりも彼の声では、聞きたくなかった現実。
「……っ!?」
彼はもういない。見えずとも、ずっと傍にいてくれる筈だから…、消せない想いと共に自らに言い聞かせて、
決して認めなかった現実。
───『俺がいなけりゃ、走れないって言うんなら…。じゃあ…お前に走る事をやめれんのか?』
その問いにアンカルジアは、何も答える事が出来ない。是とも否とも。
「……それは」
シルバーコレクターと呼ばれ、負け続けた屈辱と、初めて先頭でゴールを切った瞬間の快感が
綯い交ぜに脳裏を交錯する。走るほどに味わう天国と地獄と…。
だが、身体が覚えている。あの震えるような一瞬の天国が、長い地獄さえも吹き飛ばしてくれる事を。
───『それに、お前は独りで走ってる訳じゃねぇだろ?』
「……え?」
「この…馬鹿オンナ!!」
重なったもう一つの声は、聞き慣れて、チュウ兵衛のそれよりも、もっと現実の質量を含んでいる。
驚いて振り返ると、まるで激しいレースを終えた直後のように、滝のような汗を流し、いつもきっちりと
整えたご自慢のリーゼントも振り乱して、ニトロニクスが仁王立ちしていた。
「なんで…ニトロ」
思いも寄らなかった相手の登場に、茫然としてると、怒りも露わに鼻息荒く近づいて来る。
「なんでじゃねぇ!こんなとこまで、のこのこ来やがって、この馬鹿っ」
荒い息そのままに、一気呵成に罵倒したが、何故か後悔混じりの苦虫を噛み潰したような表情で、「いや…」と続け、
「馬鹿は俺だな…」
そう呟くと、アンカルジアの横を神妙な顔ですり抜け、墓石に近づく。
「悪かったな…」
独白のような謝罪が、耳を掠めた。墓石を見つめたままのニトロニクスの顔は解らない。
一瞬、空耳かと疑ったが、今度は振り返り、蒼い瞳がしっかりとこちらを見た。
「悪かった…」
「な…、何よ…」
「忘れんなよ、コイツの事」
ふいっと、鼻先が墓石を指す。
「あんな事、言っちまったけどよ…解ってんだよ。今のアンカルジアがいるのも、コイツと出会った事が
在るからだって。お前の一部なんだって」
「ニトロ…」
まさか彼の口から、そんな言葉を聞くとは思わず、ただただ茫然としていた。
「ただ…それと、同じくらい忘れて欲しくねぇだけなんだよ。仲間の事。マキバオーとか
ワクチンとか、カッターのおっさんとか…………………俺…とかよ」
それは訥々として、決してスマートな物言いではなかったが、彼の持つ不器用な優しさに直に触れ、
素直に心に沁み入っていく。
不意に、心の中に巣くっていた灰色の靄のようなものが、潮が引くようにすうっと晴れていくのが解る。
どうして、自分は彼らを忘れてたのだろう。どうして彼らに、空元気の虚勢を張っていたのだろう。
時には、弱気な自分を晒したって、彼らが拒否する筈がない事を知っていたはずなのに。
自分の愚かさと、気づいた事実の喜びに小さく鼻で笑うと、ニトロニクスを改めて見据えた。
「ねぇ…悪い事したって思ってるなら、ちょっと目瞑ってよ」
「う…、お、お前、また蹴り入れるつもりか?」
未だに痛みが引かない顔を強ばらせて、ニトロニクスは一瞬怯んだが、
「いや、悪ぃのは俺だもんな…。いいぜ、重いの一発入れろや」
と、潔く覚悟を決め、固く目を閉じ、来るであろう激痛に身構えた。
だが、頬を掠めたのは痛みでは無く、温かく柔らかな感覚だった。
「ありがとう、ニトロニクス」
ぺろっと湿った水音に驚き、目を開けたが既にアンカルジアの姿はなく、軽やかな足音が背後に響いていた。
更に遠くから、聞き覚えのある足音が三つ、駆け足で近づいて来る。
「あー!いたいた!」
マキバオーを先頭に、アマゴワクチン、トゥカッターも駆け寄って来る。
「やだ、みんなどうしたの!?」
驚くアンカルジアを呆れ顔で、三頭が囲む。
「この家出娘、どうしたのときたもんだ」
「もう、若造さんに、二頭に似た馬を牧場で見かけたって、連絡もらった時は、びっくりしたのね!」
「俺たちも急いで向かったんだよ。まさか、ここで5000M特訓の成果が生かされるとは、思わなかったぜ…」
まぁ、無事に会えて良かったよと、安堵する様子を見て、アンカルジアがすまなそうに眉を下げる。
「ごめんなさいね?…でも、先生達はみんながここに来たの知ってるの?」
その問いに、三頭が顔をきょとんとして、見合わせる。
「お前が、先生に言ってあるんだろ?マキバオー」
「うんにゃ、ワクチンが言ってあるんじゃないの?」
「いや…、俺は慌てて…、てっきり、カッターが言ってあるんだと」
「……これって、無断外出ってヤツじゃねぇか?」
トゥカッターの一言に、再びマキバオーが奇声を発してパニックに陥る。
「いやあああ!えらいこっちゃ、えらいこっちゃ。絶対、虎先生、怒ってるよ!ぶたれるー!」
その滑稽なまでの慌てぶりに、思わずアンカルジアが吹き出した。
「ぷ…っ!クスクス…。マキバオーは、ともかくワクチンとカッターまでやらかすなんてねぇ?」
面目無さそうにうなだれるアマゴワクチンの横で、さすがのトゥカッターも天を仰いだ。
「もう!誰のせいだと思ってるのね!アンカルジアも他人事じゃないよ!」
大きな鼻穴から荒く息を吐き出しながら憤慨するマキバオーに、アンカルジアは、茶目っ気たっぷりにウィンクして見せる。
「あら、その時は庇ってくれるでしょ?『仲間』なんだから」
しれっとした物言いに、トゥカッターが呆れを通り越して賞賛を送る。
「……大物だぜ、嬢ちゃん」
「ふふ、ありがとっ。さ、これ以上、先生を怒らせると何させられるやら解らないわ。帰りましょ?」
そう促すと、先ほどから石像のように、硬直したままのニトロニクスを呼ぶ。
「ほら、ニトロも!馬鹿みたいに、突っ立ってないで帰るわよ!」
その声に、まるで長い夢から覚めたように、はっと我に返った。
「え…?あ……。だ、誰が馬鹿だよ!」
「誰かしらねぇ~?」
こうなると、いつもの掛け合いだ。空とぼけながら、軽やかな足取りで走り出す。
そして、ちらりと後ろを振り返った。
(バイバイ、チュウ兵衛。私はあなたよりもっと先に行くわ。あなたは『そこ』で、
こんなにイイ女と離れた事、後悔してながら見てなさい?……ずっと見ていてね…)
少しの強がりと願いを心中で呟くと、しっかりと前を向き直った。走り出せば、頬を心地よく風が切る。
───『解ってんじゃねぇか。それでこそ、俺が惚れたオンナだぜ』
傲慢で口は悪いけれど、裏に優しさにを隠して、笑いを浮かべた声が、風に乗って聞こえる。
「……っ!?」
その声に、足を止め掛けたが、アンカルジアはもう振り返らなかった。
ただ小さく満足気な笑みを浮かべ、前へ走る。
涙に濡れていた頬は、いつのまにか風に払われるように乾いていた。
こぼれる涙いつの間に ほら
はじまりに変わってるはずよ
回り道でも歩いていけば
行き先はそう自由自在
こぼれた涙いつだって ほら
願いの数を映してるの
遠回りでもたどり着けるわ
行き先はもう自分次第
Don't you worry
いまone step for tomorrow
進んでいるから alright!
またtwo steps for tomorrow
近づいてるから alright
lyric by Crystal Kay『なみだの先に』
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ざああ、と庵の裏手に茂る竹林が風に揺れる音が遠く聞こえる。
暗い部屋の中、闇に紛れて互いの表情を窺うことは出来ない。
何をするでもなく、何を言うでもなく、流はただ黙って日輪を抱きしめていた。
「流……」
「ん?」
「その……」
腕の中で日輪が小さく身じろぐと、おすおずと伸ばされた腕が流の背中に回る。
抱きしめる腕にほんの少しだけ力を入れてやると、
日輪は流の胸に頬を寄せて小さく溜息を吐いた。
「日輪」
名を呼ぶ声に上げた顔に手を添えて、流はゆっくりと唇を重ねていく。
少しずつ上昇していく体温。欲情に小さく火が灯る。
流の大きな手が日輪の首を強く引き寄せると、腕の中の身体がびくりと震えた。
触れるだけのキスが徐々に深く激しいものへと変化し、
流の舌が小さな唇を割ると口内を柔らかく蹂躙していく。
濡れた音を立てて唇が離れると、日輪は大きく胸を喘がせる。
いちばん上まできっちりと留められたブラウスのボタンを
流の指先がひとつずつゆっくりと外していく。
「あ、あの……流、いいよ、服くらい自分で脱ぐから……」
ボタンを外す手を押し留めて、慌てて身体を起こそうとする日輪を
流は簡単に身体の下へと組み敷いてしまう。
「女にポンポン服脱がれちゃ、ムードも何もあったもんじゃないからな」
暗がりに慣れた目がにやりと笑う流の顔を捕える。
「馬鹿!」
そう言ってそっぽを向く日輪の顔はたちまち耳まで赤く染まった。
手際よく服を脱がせていく流の指先が微かに震えているのにふと気付く。
日輪は小さく目を見開くと口元に淡く笑みを浮かべ、
流に全てを委ねるように目を閉じ、身体の力を抜いた。
ひんやりとした夜気に小さく震えた身体に布団が掛けられた。
素肌を柔らかく包む暖かさに安堵の溜息を吐きながら、
日輪は自分に背を向けて黙々と服を脱ぐ流の後ろ姿をぼんやりと眺める。
露わになった広い背中には無数の傷跡が残っていた。
法力僧として幾多の妖と戦ってきた証としての、傷──。
くるりと向き直った流と目が合った。
頬を染め目を伏せた日輪が布団を小さく捲り、仕草で中に入るよう促す。
無言のまま隣に滑り込んできた身体は火傷しそうな程に熱く、
それでいて酷く優しく日輪を包んだ。
肌と肌が直に触れ合うことが、こんなにも身体中の血をざわめかせ、
切ないくらいに胸が締め付けられることを……日輪は今、初めて知った。
「大丈夫か?」
そう言って心配そうに覗き込む流に、日輪は小さく頷く。
もうずっと……本当にずっと一緒にいたのに、
流がこんなに優しい目をするなんて、今の今まで知らなかった。
ごつごつとした大きな手がそっと髪を梳いていく。
露わになった額に柔らかく落とされた唇からゆっくりと熱が伝わる。
まぶたに頬に小さく落とされるキスに思わず綻ぶ口元。
笑みのかたちを湛えた唇が唇によってそっと塞がれた。
鍛えられているとはいえ、
それでも抱きしめた身体はまるく柔らかな女らしさに溢れていた。
滑らかな肌や淡く漂う甘い匂いに、自分とは対極の性であることをひしひしと感じる。
こんなにも柔らかで何もかもが細いこの身体で、
大の男でも根を上げるようなあの厳しい修行に付いて来ていたのかと思うと、
流は組み敷いた女の秘めた強さに内心舌を巻く。
その強さこそが──自分と日輪との決定的な違いであり、大きな隔たりなのだろう。
拒絶するのではなく、それを受け入れ、自身の糧とすること──。
それは互いの性のあり方と不思議とよく似ていて、
そのことに気付いた流は口元にちらりと自虐の笑みを浮かべた。
まるみを帯びた身体の、そのかたちをなぞるように両の手のひらで撫で、
ゆっくりと開かせていく。
時折漏れる日輪の小さな吐息が、じわり、と劣情を煽った。
腹の底がじりじりと焦げていく。
急激に高まっていく欲望を奥歯で噛み殺しながら、
流は殊更ゆっくりとした動きで愛撫を続けた。
日輪があんなに厭うていた女の性を、
流の手が指が触れた肌から伝わる体温が、いとも容易く歓びに変えていく。
意思とは無関係のその性急な反応に、日輪はただ大きく胸を喘がせることしか出来ずにいた。
無骨な手が思いの外繊細に動くことも、
その指先がもたらす熱が「女」としての己の身体を少しずつ解いていくことも――。
日輪にとっては何もかもがはじめての感覚だった。
するり、と滑っていく手が足の間に割り入り、潤み始めた身体の中心に触れる。
「あ……」
思わず漏れる細い声に流の手が止まった。
「……怖いか?」
怖くないと言えば嘘になるが──日輪は目の前で心配の色を湛えている瞳に小さく首を左右に振る。
「無理、すんなよ」
「うん……」
流は身体を起こすと日輪の足の間に身体を入れ、そっと左右の足に手を掛けた。
肌の上を滑っていく手が、ふくらはぎの辺りでふと止まる。
「傷…残っちまったんだな……」
「囁く者たちの家」で受けたゴーレムの振動波で、膝から下の皮膚はずたずたに裂けた。
白面の遣いにあれだけの攻撃を受けたのだ。
むしろ命が残っていることが不思議なくらいだった。
低い声に日輪が小さく笑った。
「仕方ないわ。それが私の役目だもの。それに……あんたも同じじゃない」
ひんやりとした手が伸ばされ、流の身体に残る傷跡にそっと触れた。
指先に触れるざらりとした感触に日輪の胸の奥がちりりと痛む。
獣の槍の伝承候補者になった時点で命なんて捨てたはずなのに、
それでもこうして失わずに済めば──惜しんでしまうのだ。
「あの時、蒼月がいなかったら……あんたと一緒に死んでたかもしれないわね」
日輪の言葉に不意に流の瞳が翳りを帯びた。ひとつ小さく息を吐いて、流が口を開く。
「……いいか?」
「ん……」
流は小さく頷いた日輪の足を抱え上げ、潤みを湛えた場所に猛り立った己を押し当てた。
そのままぐっ、と体重を乗せ、流は日輪の隘路を半ば力任せに押し開いていく。
「……っ!」
きつく目を閉じ唇を噛んでいる女の苦しげな表情に、流は罪悪感と同時に妙な高揚感を覚える。
冥い目をしたまま、流は黙って組み敷いた女の柔らかな胎内に深々と己を突き立てた。
「う…ぁ……」
小さく息を吐いて、日輪が閉じていた目を開けた。
噛み締めた唇にうっすらと滲んだ血を、流の指先がそっと拭う。
「……悪ぃ」
「謝る、な……。分かっていたことだ、から……」
日輪は目の前で泣き出しそうな顔をしている流に淡く笑んでみせた。
伸ばされた白い手が愛しげに頬を撫で、唇を辿る。
「私に、教えてくれるんだろう? だったら……」
途切れ途切れの言葉に、流は今はもう何もかもが足りないということに気付き一瞬呆然とする。
組み敷いた女に自分が教えてやれるのは痛みだけで――
その先にあるはずの甘やかな幸福感や目眩めく快感を、
日輪が「自分以外の誰か」によって知るということにふと思い至る。
そのことに激しい嫉妬と落胆を味わい、
この期に及んでも尚、醜く身勝手な自分自身を流は胸の内で嘲笑った。
引き裂かれるような痛みは馴染んでいく互いの体温と共に緩く解け、
少しずつ甘い痛みへと摩り替わる。
未知の感覚に眉根を寄せて、日輪は小さく声を上げた。
「んんっ、あぁ……」
背中に回された日輪の手にぎゅっと力が篭り、立てた爪が皮膚に喰い込んだ。
締め付けられるような胸の痛みを振り切るように、
流は殊更乱暴に腰を振り、組み敷いた身体を突き上げる。
眉を顰めた顔。浅く早い呼吸。
痛みで苦しいだろうに、日輪は今まで見たこともないような
優しく穏やかな笑みを浮かべながら視線を合わせる。
(ああ……何だってコイツは……)
絶頂に向かって加速度を上げて高まっていく快感に
流は息を詰めて「その時」を少しでも先延ばしにしようと足掻く。
「っ…、な、が…れ…っ」
名を呼ぶ掠れた細い声が、残っていた掛け金を弾き飛ばしていく。
「日輪…オレ、もう……」
白くなっていく視界に小さく頷く日輪が見えた。
組み敷いた身体をきつく抱きしめながら、流は抑えていたものを解き放つ。
言葉にならない思いは白い奔流となって日輪の胎内の奥深くへと注ぎ込まれた。
は、と短く息を吐いて崩れ落ちた温もりを、日輪は両腕でそっと抱きしめる。
呼吸も荒くふたりは重なり合ったまま、乱れた布団の上にぐったりとその身を沈めた。
「……もう、行くのね……」
身じろぎした流に向かって、日輪が掠れた声で小さく言った。
「……悪ぃ、起こしちまったか……。いつまでもこうしているわけにゃ、行かないからな」
「そう、か……」
「お偉方連中には、お前から伝えてくれるか?」
「……分かった」
「済まねぇな、日輪」
「謝るくらいなら……」
思わず縋ってしまいそうになる日輪の言葉を流はやんわりと、しかし有無を言わさず遮る。
「それでも俺は、行かなきゃならねぇんだ。でないと、俺は……」
日輪を抱く流の腕に力が入る。
そっと目を閉じて、日輪は流の厚い胸に頬を寄せると小声で言った。
「蒼月に怒鳴られて、とらに……雷を落としてもらえばいいわ。
それで正気に戻って……帰ってきて……」
薄暗がりの中、流が大きく目を見開いた。
「……今のは独り言。忘れてちょうだい……」
「……ああ」
日輪を包んでいた温もりが離れ、身支度を整える微かな衣擦れの音もやがて止み、
流がふぅ、と大きく息を吐いた。
「じゃあな、日輪」
襖の閉まる音がして、板の間の廊下を足音が遠ざかっていく。
もうすぐ夜が明ける。白面との決戦の日は近い。
(泣くのは、今夜限り……。朝日が昇ったら、もうあいつのことでは泣かない)
布団の中、両腕で自身の身体をきつく抱きしめながら、
日輪はひとり、声を殺して涙を流し続けた。
翌朝。
紫暮は泣きはらした目で誦経院に現れた日輪に気付いた。
隣に立つ和羅の目配せに小さく頷くと、互いの口から重苦しい溜息が漏れる。
全国各地から集まってくる法力僧の中に、秋葉流の姿は───なかった。
(……不憫な、ことよの……)
仔細は不明だが、大方の予想はつく。
おそらく流は、白面の策略に乗ったのだろう。
(人の心につけ入り弄ぶ……流ほどの法力僧であっても抗えない……)
身体や技術を鍛えることは比較的容易だが、心となるとそう簡単なことではない。
ましてや人心を操る術に長けた白面が相手となれば、
紫暮や和羅であっても篭絡される可能性が高い。
それほど人の心は脆く、流され易い。
しかし、それを責めることなど出来はしないし、責めたところでどうにもならない。
「僧上様……」
紫暮の声に和羅は厳しい表情のまま頷く。
「うむ。今まで以上に気持ちを引き締めてかからねばな」
目元を紅く腫らした日輪は、それでも俯くことなく強い瞳で真っ直ぐに前を向いていた。
そのことに安堵し、また救われたような気持ちで、
和羅は集まった法力僧に打倒白面の作戦について話し始めた。
───今はただ白面を倒す。ただその一念で、私はここにいる───
哀しさも悔しさも全てを抱えたまま、
日輪は来るべき白面との戦いに備えて自らの身を石と化した。
暗い部屋の中、闇に紛れて互いの表情を窺うことは出来ない。
何をするでもなく、何を言うでもなく、流はただ黙って日輪を抱きしめていた。
「流……」
「ん?」
「その……」
腕の中で日輪が小さく身じろぐと、おすおずと伸ばされた腕が流の背中に回る。
抱きしめる腕にほんの少しだけ力を入れてやると、
日輪は流の胸に頬を寄せて小さく溜息を吐いた。
「日輪」
名を呼ぶ声に上げた顔に手を添えて、流はゆっくりと唇を重ねていく。
少しずつ上昇していく体温。欲情に小さく火が灯る。
流の大きな手が日輪の首を強く引き寄せると、腕の中の身体がびくりと震えた。
触れるだけのキスが徐々に深く激しいものへと変化し、
流の舌が小さな唇を割ると口内を柔らかく蹂躙していく。
濡れた音を立てて唇が離れると、日輪は大きく胸を喘がせる。
いちばん上まできっちりと留められたブラウスのボタンを
流の指先がひとつずつゆっくりと外していく。
「あ、あの……流、いいよ、服くらい自分で脱ぐから……」
ボタンを外す手を押し留めて、慌てて身体を起こそうとする日輪を
流は簡単に身体の下へと組み敷いてしまう。
「女にポンポン服脱がれちゃ、ムードも何もあったもんじゃないからな」
暗がりに慣れた目がにやりと笑う流の顔を捕える。
「馬鹿!」
そう言ってそっぽを向く日輪の顔はたちまち耳まで赤く染まった。
手際よく服を脱がせていく流の指先が微かに震えているのにふと気付く。
日輪は小さく目を見開くと口元に淡く笑みを浮かべ、
流に全てを委ねるように目を閉じ、身体の力を抜いた。
ひんやりとした夜気に小さく震えた身体に布団が掛けられた。
素肌を柔らかく包む暖かさに安堵の溜息を吐きながら、
日輪は自分に背を向けて黙々と服を脱ぐ流の後ろ姿をぼんやりと眺める。
露わになった広い背中には無数の傷跡が残っていた。
法力僧として幾多の妖と戦ってきた証としての、傷──。
くるりと向き直った流と目が合った。
頬を染め目を伏せた日輪が布団を小さく捲り、仕草で中に入るよう促す。
無言のまま隣に滑り込んできた身体は火傷しそうな程に熱く、
それでいて酷く優しく日輪を包んだ。
肌と肌が直に触れ合うことが、こんなにも身体中の血をざわめかせ、
切ないくらいに胸が締め付けられることを……日輪は今、初めて知った。
「大丈夫か?」
そう言って心配そうに覗き込む流に、日輪は小さく頷く。
もうずっと……本当にずっと一緒にいたのに、
流がこんなに優しい目をするなんて、今の今まで知らなかった。
ごつごつとした大きな手がそっと髪を梳いていく。
露わになった額に柔らかく落とされた唇からゆっくりと熱が伝わる。
まぶたに頬に小さく落とされるキスに思わず綻ぶ口元。
笑みのかたちを湛えた唇が唇によってそっと塞がれた。
鍛えられているとはいえ、
それでも抱きしめた身体はまるく柔らかな女らしさに溢れていた。
滑らかな肌や淡く漂う甘い匂いに、自分とは対極の性であることをひしひしと感じる。
こんなにも柔らかで何もかもが細いこの身体で、
大の男でも根を上げるようなあの厳しい修行に付いて来ていたのかと思うと、
流は組み敷いた女の秘めた強さに内心舌を巻く。
その強さこそが──自分と日輪との決定的な違いであり、大きな隔たりなのだろう。
拒絶するのではなく、それを受け入れ、自身の糧とすること──。
それは互いの性のあり方と不思議とよく似ていて、
そのことに気付いた流は口元にちらりと自虐の笑みを浮かべた。
まるみを帯びた身体の、そのかたちをなぞるように両の手のひらで撫で、
ゆっくりと開かせていく。
時折漏れる日輪の小さな吐息が、じわり、と劣情を煽った。
腹の底がじりじりと焦げていく。
急激に高まっていく欲望を奥歯で噛み殺しながら、
流は殊更ゆっくりとした動きで愛撫を続けた。
日輪があんなに厭うていた女の性を、
流の手が指が触れた肌から伝わる体温が、いとも容易く歓びに変えていく。
意思とは無関係のその性急な反応に、日輪はただ大きく胸を喘がせることしか出来ずにいた。
無骨な手が思いの外繊細に動くことも、
その指先がもたらす熱が「女」としての己の身体を少しずつ解いていくことも――。
日輪にとっては何もかもがはじめての感覚だった。
するり、と滑っていく手が足の間に割り入り、潤み始めた身体の中心に触れる。
「あ……」
思わず漏れる細い声に流の手が止まった。
「……怖いか?」
怖くないと言えば嘘になるが──日輪は目の前で心配の色を湛えている瞳に小さく首を左右に振る。
「無理、すんなよ」
「うん……」
流は身体を起こすと日輪の足の間に身体を入れ、そっと左右の足に手を掛けた。
肌の上を滑っていく手が、ふくらはぎの辺りでふと止まる。
「傷…残っちまったんだな……」
「囁く者たちの家」で受けたゴーレムの振動波で、膝から下の皮膚はずたずたに裂けた。
白面の遣いにあれだけの攻撃を受けたのだ。
むしろ命が残っていることが不思議なくらいだった。
低い声に日輪が小さく笑った。
「仕方ないわ。それが私の役目だもの。それに……あんたも同じじゃない」
ひんやりとした手が伸ばされ、流の身体に残る傷跡にそっと触れた。
指先に触れるざらりとした感触に日輪の胸の奥がちりりと痛む。
獣の槍の伝承候補者になった時点で命なんて捨てたはずなのに、
それでもこうして失わずに済めば──惜しんでしまうのだ。
「あの時、蒼月がいなかったら……あんたと一緒に死んでたかもしれないわね」
日輪の言葉に不意に流の瞳が翳りを帯びた。ひとつ小さく息を吐いて、流が口を開く。
「……いいか?」
「ん……」
流は小さく頷いた日輪の足を抱え上げ、潤みを湛えた場所に猛り立った己を押し当てた。
そのままぐっ、と体重を乗せ、流は日輪の隘路を半ば力任せに押し開いていく。
「……っ!」
きつく目を閉じ唇を噛んでいる女の苦しげな表情に、流は罪悪感と同時に妙な高揚感を覚える。
冥い目をしたまま、流は黙って組み敷いた女の柔らかな胎内に深々と己を突き立てた。
「う…ぁ……」
小さく息を吐いて、日輪が閉じていた目を開けた。
噛み締めた唇にうっすらと滲んだ血を、流の指先がそっと拭う。
「……悪ぃ」
「謝る、な……。分かっていたことだ、から……」
日輪は目の前で泣き出しそうな顔をしている流に淡く笑んでみせた。
伸ばされた白い手が愛しげに頬を撫で、唇を辿る。
「私に、教えてくれるんだろう? だったら……」
途切れ途切れの言葉に、流は今はもう何もかもが足りないということに気付き一瞬呆然とする。
組み敷いた女に自分が教えてやれるのは痛みだけで――
その先にあるはずの甘やかな幸福感や目眩めく快感を、
日輪が「自分以外の誰か」によって知るということにふと思い至る。
そのことに激しい嫉妬と落胆を味わい、
この期に及んでも尚、醜く身勝手な自分自身を流は胸の内で嘲笑った。
引き裂かれるような痛みは馴染んでいく互いの体温と共に緩く解け、
少しずつ甘い痛みへと摩り替わる。
未知の感覚に眉根を寄せて、日輪は小さく声を上げた。
「んんっ、あぁ……」
背中に回された日輪の手にぎゅっと力が篭り、立てた爪が皮膚に喰い込んだ。
締め付けられるような胸の痛みを振り切るように、
流は殊更乱暴に腰を振り、組み敷いた身体を突き上げる。
眉を顰めた顔。浅く早い呼吸。
痛みで苦しいだろうに、日輪は今まで見たこともないような
優しく穏やかな笑みを浮かべながら視線を合わせる。
(ああ……何だってコイツは……)
絶頂に向かって加速度を上げて高まっていく快感に
流は息を詰めて「その時」を少しでも先延ばしにしようと足掻く。
「っ…、な、が…れ…っ」
名を呼ぶ掠れた細い声が、残っていた掛け金を弾き飛ばしていく。
「日輪…オレ、もう……」
白くなっていく視界に小さく頷く日輪が見えた。
組み敷いた身体をきつく抱きしめながら、流は抑えていたものを解き放つ。
言葉にならない思いは白い奔流となって日輪の胎内の奥深くへと注ぎ込まれた。
は、と短く息を吐いて崩れ落ちた温もりを、日輪は両腕でそっと抱きしめる。
呼吸も荒くふたりは重なり合ったまま、乱れた布団の上にぐったりとその身を沈めた。
「……もう、行くのね……」
身じろぎした流に向かって、日輪が掠れた声で小さく言った。
「……悪ぃ、起こしちまったか……。いつまでもこうしているわけにゃ、行かないからな」
「そう、か……」
「お偉方連中には、お前から伝えてくれるか?」
「……分かった」
「済まねぇな、日輪」
「謝るくらいなら……」
思わず縋ってしまいそうになる日輪の言葉を流はやんわりと、しかし有無を言わさず遮る。
「それでも俺は、行かなきゃならねぇんだ。でないと、俺は……」
日輪を抱く流の腕に力が入る。
そっと目を閉じて、日輪は流の厚い胸に頬を寄せると小声で言った。
「蒼月に怒鳴られて、とらに……雷を落としてもらえばいいわ。
それで正気に戻って……帰ってきて……」
薄暗がりの中、流が大きく目を見開いた。
「……今のは独り言。忘れてちょうだい……」
「……ああ」
日輪を包んでいた温もりが離れ、身支度を整える微かな衣擦れの音もやがて止み、
流がふぅ、と大きく息を吐いた。
「じゃあな、日輪」
襖の閉まる音がして、板の間の廊下を足音が遠ざかっていく。
もうすぐ夜が明ける。白面との決戦の日は近い。
(泣くのは、今夜限り……。朝日が昇ったら、もうあいつのことでは泣かない)
布団の中、両腕で自身の身体をきつく抱きしめながら、
日輪はひとり、声を殺して涙を流し続けた。
翌朝。
紫暮は泣きはらした目で誦経院に現れた日輪に気付いた。
隣に立つ和羅の目配せに小さく頷くと、互いの口から重苦しい溜息が漏れる。
全国各地から集まってくる法力僧の中に、秋葉流の姿は───なかった。
(……不憫な、ことよの……)
仔細は不明だが、大方の予想はつく。
おそらく流は、白面の策略に乗ったのだろう。
(人の心につけ入り弄ぶ……流ほどの法力僧であっても抗えない……)
身体や技術を鍛えることは比較的容易だが、心となるとそう簡単なことではない。
ましてや人心を操る術に長けた白面が相手となれば、
紫暮や和羅であっても篭絡される可能性が高い。
それほど人の心は脆く、流され易い。
しかし、それを責めることなど出来はしないし、責めたところでどうにもならない。
「僧上様……」
紫暮の声に和羅は厳しい表情のまま頷く。
「うむ。今まで以上に気持ちを引き締めてかからねばな」
目元を紅く腫らした日輪は、それでも俯くことなく強い瞳で真っ直ぐに前を向いていた。
そのことに安堵し、また救われたような気持ちで、
和羅は集まった法力僧に打倒白面の作戦について話し始めた。
───今はただ白面を倒す。ただその一念で、私はここにいる───
哀しさも悔しさも全てを抱えたまま、
日輪は来るべき白面との戦いに備えて自らの身を石と化した。
白面との最終決戦が、刻一刻と近付いていた。
光覇明宗最大の作戦会議を明後日に控え、
総本山には全国各地から法力僧がぞくぞくと集結する――。
関守日輪はその日の夕刻、光覇明宗総本山へと到着した。
獣の槍伝承候補者には滞在中の居住場所として、
総本山敷地内の離れにある庵がそれぞれに割り当てられていた。
世話役の僧に案内された庵に荷物を置くと、日輪は本堂へと向かう。
執務中の僧上・和羅や蒼月潮の父・紫暮に到着の報告を手短に済ませ、
庵へと続く石段を戻ってきた日輪は、
上がり口の植え込み脇に置かれた庭石に腰掛けている人影に気付く。
「誰?」
鋭い声に人影が振り向いた。
「よぉ、日輪」
革ジャンにジーンズ姿のラフな格好の男が、
人懐っこそうな笑みを浮かべ軽く手を上げる。
「ああ、何だ……流か」
「何だとは何だよ。ご挨拶だな」
反動を付けて庭石から降りると、流は日輪の側までやって来る。
「あんたにしちゃ随分早く来たじゃない。まだ杜綱兄妹も来ていないのに」
「へぇ。あのふたり、まだ来てないのか」
「明日の正午までに来るようにとの指示だから、それまでには来るだろうけれど……。
流、あんた本堂の僧上様に到着の報告は済ませたの?」
日輪の問いにひょいと肩を竦め曖昧な笑みを浮かべたところを見ると、
どうやらまだのようだ。
「ああ、まぁ……。それよりおまえ、今時間あるか?」
「取り立てて今しなければならないことはないけど……。何?」
「たまにゃおまえと、話でもしようかと思ってよ」
そう言って流は背後の庵を指差す。
「どういう風の吹き回し?」
「いやー、別に」
表情からは、何も読み取れない。
流はいつも……本心を決して露わにしない。
相変わらずだ。
「お茶の一杯くらいなら、付き合ってあげてもいいわ」
「そうこなくっちゃ」
ぱちり、と指を鳴らした流と連れ立って、日輪は庵へと続く小道へ足を踏み入れた。
和室の中央には小さな囲炉裏があり、
その上に提げられた鉄瓶からはゆっくりと湯気が上がっている。
庵へ案内してくれた僧が、日輪が本堂へ出掛けている間に室内を整えていったようだ。
湯呑みをふたつ並べ、慣れた手つきでお茶を入れる日輪に、
流は意外だとでも言いたげに目を細める。
「なぁ」
「何?」
「俺さ、白面の側に付くことにしたからよ」
お茶を注いでいた手が止まる。
急須を手にしたまま、日輪は窘めるような表情で流を見つめた。
「……今のこの時期に、そういう悪い冗談はよしなさいよ、流」
日輪の言葉に、流は例の如く飄々とした笑みを浮かべる。
「おっと、そう怖い顔するなよな」
きっと睨みつけた日輪におどけた様子でそう言うと、伸びをしながら流は続けた。
「いやさ、数日前なんだが、白面の使いとかいう女が俺のところに来たわけよ。
で、まあ退屈しのぎに話だけは聞いてやったんだが……」
そこでちょっと言葉を切って、流は日輪の顔をまじまじと見つめる。
「……何? 言いたいことがあるなら、はっきり言いなさいよ」
憮然とした表情を浮かべたまま、
日輪は流の前にとん、とお茶の入った湯呑みを置いた。
「……おまえは、俺より強いな……」
ぽつり、と零れた言葉に日輪は頬にさっと朱を上らせ、きりきりと流を睨む。
「獣の槍の伝承候補者の中で最強とも謳われるあんたが、私にそんなことを言うの?」
日輪の険のある視線をさらりと受け流し、流はぽつりぽつりと言葉を続けた。
「そうじゃねぇよ。俺の言ってる強さは……法力とかそういうことじゃねぇんだ」
流の言葉に日輪は一瞬、呆けたような表情を見せる。
「……意味が、分からない……」
「分からないなら、それはそれでいいんだ」
小さく笑んで流は湯呑みを手にすると、ゆっくりとお茶を飲む。
「うん、美味い」
黙ってお茶を飲む流をじっと見つめたまま、日輪が硬い表情のままぽつりと言った。
「……裏切る、の?」
「裏切る、ねぇ。ま、そう取られても仕方ないよなぁ」
「何故……」
「何でかねぇ。自分でもバカなことをしようとしてるとは思っちゃいるが……」
のらりくらりとした流の答えに日輪が激昂し、ばん! と両手で畳を叩いた。
その衝撃で畳の上に置かれていた日輪の湯呑みが倒れ、
囲炉裏内に零れたお茶が水蒸気となる。
「うわっ! そんなに興奮するなよ」
流が慌てて倒れた湯呑みを起こした。
「あんたは光覇明宗の法力僧で、獣の槍の伝承候補者でしょ!
それなのに……白面側に付くですって? 本気なの?」
食って掛かる日輪の言葉が流の耳に鋭く突き刺さる。
立ち込める白い湯気の向こう側で、痛みを堪えるかのように流が眉根を寄せた。
「冗談で言っていいことと悪いことがあることくらい、俺だって分かってるさ」
きっぱりと言い切った流に、日輪は探るような視線を向ける。
「……何でその話を、私にするわけ?」
「何となく、な。おまえなら……分かるんじゃねぇかと思ってさ……」
「おめおめと白面に寝返るような奴の気持ちが、私に分かるはず……」
怒りに満ちた瞳を正面から捉えて、流はひどく静かな声で言った。
「日輪……おまえ、前に言ってただろ? 本当は男に生まれたかった、って」
「そ、れは……」
日輪の胸に苦いものが込み上げる。
幾度となく父から言われた言葉。
――お前が男だったらなァ…女はダメだなァ…――
槍の伝承候補者に選ばれたとき、選ばれなかった他の僧から投げつけられた言葉。
──女に何が出来る! 女のくせにでしゃばるんじゃねぇよ!──
自分の努力ではどうにもならない部分で判断されることが悔しかった。
性は選べない。どうすることも出来ないことだ。
女であるというだけで、何度も嫌な思いをしてきた。
戦いの才能があれば男も女も関係ない。
そう信じて……今までずっと歯を食いしばって、人の何倍も努力してきたのだ。
唇を噛んで俯いた日輪を見つめながら、流が口を開く。
「おまえはそれでも、そういう自分に折り合い付けて頑張ってるもんな。
だけどよ……俺にはそれが、どうしても出来ねぇんだよなぁ……」
手にした湯呑みを側に置くと、流は両手で包むように日輪の頬に触れた。
俯いた顔をそっと上向かせると、怒ったような瞳が流の視線を正面から捕えた。
「……どういうつもり?」
「……キスする時くらい、瞳は閉じるもんだぜ、日輪」
「何を……」
流の指が日輪の唇を撫でる。
「餞(はなむけ)に、貰っていくぜ……」
温かな唇は、触れるだけのキスを日輪の唇に落とした。
流はその後に訪れるであろう派手な音と衝撃を覚悟していたが、
一向にその気配はない。
見れば頬を叩こうと振り上げた日輪の手がぶるぶると震えていて、
大きく見開かれた瞳にはみるみる涙がふくれ上がる。
振り上げられた腕をゆっくりと引き降ろした流の大きな手は、
そのまま日輪の肩に触れ、震える小さな身体ごとそっと胸元に引き寄せた。
「涙なんて、おまえらしくないな……」
瞬きするたびに日輪の頬を伝う涙を指先で拭いながら流が言う。
「……ら、しくないのは、あんたも同じでしょう」
「いやー、俺らしいと思うけどなぁ。俺は何でもやればそこそこ出来るからよ。
出来ないことや、なれないものがあるのが、どうも許せないみたいだ」
「……男なんて、分からないな……。
下らないプライドなんて、捨ててしまえばいいのに」
ふ、と諦めにも似た色が流の顔を掠めた。
「今更?」
「今更だろうが何だろうが、捨ててしまえば楽になれるじゃない! 何故そうしない?」
「もう……遅いんだよ……。俺が俺であるためには、もう……」
「……馬鹿……」
流は日輪の言葉に淡く笑みを浮かべ、ゆっくりと顔を近付けると再び唇を重ねた。
「俺が戻ったら……続き、教えてやるぜ、日輪」
腕の中で身体を強張らせたまま、日輪は言う。
「あんたは戻ってくるつもりなんか、ないんでしょう?」
「さぁな。俺は勝てない勝負をするつもりは、ねぇけどよ」
「……嘘吐き」
流が無事に戻るということは、白面が支配する世界が訪れるということ。
今までずっと獣の槍を手に白面を倒すために、
ただそれだけのために生きてきた日輪にとって、
それは到底あってはならない未来。
でも……。
胸がきりきりと痛むのは、何故だろう。
「引き止めても無駄でしょうけど……。どうしても行くというのね?」
「ああ」
「なら……戻ったらなんて言ってないで、今ここで、続きを教えなさいよ」
涙に濡れた瞳が挑むように流を見つめている。
「おいおい、俺を色仕掛けで引き止めるつもりか? 日輪」
流の言葉に日輪は首を左右に振る。
「違う。あんたが確かにいたということを……私が、覚えておきだいだけ……。
あんたが白面側に付くなら、どのみちあんたとはこの後……
生きて会うことはないんだから」
「随分はっきり言ってくれるんだな」
「当たり前でしょう! あんたが無事に戻ってくるなら、
私はとっくに白面に殺されてるわ。……違う?」
「まぁな。ここに集まってる連中は、戦いの最前線に立つことになるだろうからな」
日輪は自嘲気味に笑うと言葉を続けた。
「今くらい、自分が男だったら良かったのに、と思ったことはないわ。
男だったら、あんたを殴ってでも引き止めるのに」
日輪の言葉に流が小さく笑う。
「俺が殴り合いで他の奴に負けるかよ」
「それもそうね……」
日輪が目の前の引き締まった胸元にこつりと額を寄せると、
流の鍛えられた腕が華奢な身体をそっと抱きしめる。
日輪の身体も鍛えられてはいるが、それとは全く違う太く逞しい腕。
抱かれる腕の中はこんなに温かいのに───。
この温もりに触れるのは今夜が最初で最後だということを
日輪は寂しいと思うと同時に、そう思った自分自身に酷く動揺した。
次の間へと続く襖を開けると、部屋の中央には既に一組の布団が敷いてあり、
枕元に置かれた小さなスタンドの淡い光が部屋を満たしていた。
自分から誘ったとはいえ、すっかりお膳立てが整った寝室を目の当たりにして
日輪は急に怖気づき、足が竦んだように動けなくなってしまった。
腕の中の身体がぎゅっと強張ったのに気付いて、流が日輪を窺う。
「なぁ、おまえ……本当は無理してんじゃねぇのか?」
問い掛けに無言で首を振るが、日輪の足はそれ以上前へ出る気配がない。
(やれやれ。こういうことになると……いつもの威勢のよさはどこへやら、だな)
内心ひとりごちて、流は小さく笑うと日輪の身体を軽々と抱き上げる。
「なっ、何を……」
不意を突かれた日輪は思わず流の首筋に腕を回してしまう。
視線がぶつかって、日輪は慌てたように目を伏せた。
その妙に初々しい仕草に思わず笑みが浮かぶ。
「こんなとこへ突っ立ってたって、コトは進まないだろ?」
出来るだけ軽く響くように明るい声を出しながら
流は部屋へと足を踏み入れ、敷かれた布団の上に日輪をそっと下ろす。
「さて……どうする?」
「ここまで来て、今更止めるなんて言わないでよね、流……」
見上げる上気した顔は強張ってはいるが、後悔の色は見えない。
射るような視線に小さく頷くと、流は襖を閉め日輪の隣に身体を横たえた。
枕元に手を伸ばし灯されている明かりを消すと、部屋の中に夜の帳が下りた。
光覇明宗最大の作戦会議を明後日に控え、
総本山には全国各地から法力僧がぞくぞくと集結する――。
関守日輪はその日の夕刻、光覇明宗総本山へと到着した。
獣の槍伝承候補者には滞在中の居住場所として、
総本山敷地内の離れにある庵がそれぞれに割り当てられていた。
世話役の僧に案内された庵に荷物を置くと、日輪は本堂へと向かう。
執務中の僧上・和羅や蒼月潮の父・紫暮に到着の報告を手短に済ませ、
庵へと続く石段を戻ってきた日輪は、
上がり口の植え込み脇に置かれた庭石に腰掛けている人影に気付く。
「誰?」
鋭い声に人影が振り向いた。
「よぉ、日輪」
革ジャンにジーンズ姿のラフな格好の男が、
人懐っこそうな笑みを浮かべ軽く手を上げる。
「ああ、何だ……流か」
「何だとは何だよ。ご挨拶だな」
反動を付けて庭石から降りると、流は日輪の側までやって来る。
「あんたにしちゃ随分早く来たじゃない。まだ杜綱兄妹も来ていないのに」
「へぇ。あのふたり、まだ来てないのか」
「明日の正午までに来るようにとの指示だから、それまでには来るだろうけれど……。
流、あんた本堂の僧上様に到着の報告は済ませたの?」
日輪の問いにひょいと肩を竦め曖昧な笑みを浮かべたところを見ると、
どうやらまだのようだ。
「ああ、まぁ……。それよりおまえ、今時間あるか?」
「取り立てて今しなければならないことはないけど……。何?」
「たまにゃおまえと、話でもしようかと思ってよ」
そう言って流は背後の庵を指差す。
「どういう風の吹き回し?」
「いやー、別に」
表情からは、何も読み取れない。
流はいつも……本心を決して露わにしない。
相変わらずだ。
「お茶の一杯くらいなら、付き合ってあげてもいいわ」
「そうこなくっちゃ」
ぱちり、と指を鳴らした流と連れ立って、日輪は庵へと続く小道へ足を踏み入れた。
和室の中央には小さな囲炉裏があり、
その上に提げられた鉄瓶からはゆっくりと湯気が上がっている。
庵へ案内してくれた僧が、日輪が本堂へ出掛けている間に室内を整えていったようだ。
湯呑みをふたつ並べ、慣れた手つきでお茶を入れる日輪に、
流は意外だとでも言いたげに目を細める。
「なぁ」
「何?」
「俺さ、白面の側に付くことにしたからよ」
お茶を注いでいた手が止まる。
急須を手にしたまま、日輪は窘めるような表情で流を見つめた。
「……今のこの時期に、そういう悪い冗談はよしなさいよ、流」
日輪の言葉に、流は例の如く飄々とした笑みを浮かべる。
「おっと、そう怖い顔するなよな」
きっと睨みつけた日輪におどけた様子でそう言うと、伸びをしながら流は続けた。
「いやさ、数日前なんだが、白面の使いとかいう女が俺のところに来たわけよ。
で、まあ退屈しのぎに話だけは聞いてやったんだが……」
そこでちょっと言葉を切って、流は日輪の顔をまじまじと見つめる。
「……何? 言いたいことがあるなら、はっきり言いなさいよ」
憮然とした表情を浮かべたまま、
日輪は流の前にとん、とお茶の入った湯呑みを置いた。
「……おまえは、俺より強いな……」
ぽつり、と零れた言葉に日輪は頬にさっと朱を上らせ、きりきりと流を睨む。
「獣の槍の伝承候補者の中で最強とも謳われるあんたが、私にそんなことを言うの?」
日輪の険のある視線をさらりと受け流し、流はぽつりぽつりと言葉を続けた。
「そうじゃねぇよ。俺の言ってる強さは……法力とかそういうことじゃねぇんだ」
流の言葉に日輪は一瞬、呆けたような表情を見せる。
「……意味が、分からない……」
「分からないなら、それはそれでいいんだ」
小さく笑んで流は湯呑みを手にすると、ゆっくりとお茶を飲む。
「うん、美味い」
黙ってお茶を飲む流をじっと見つめたまま、日輪が硬い表情のままぽつりと言った。
「……裏切る、の?」
「裏切る、ねぇ。ま、そう取られても仕方ないよなぁ」
「何故……」
「何でかねぇ。自分でもバカなことをしようとしてるとは思っちゃいるが……」
のらりくらりとした流の答えに日輪が激昂し、ばん! と両手で畳を叩いた。
その衝撃で畳の上に置かれていた日輪の湯呑みが倒れ、
囲炉裏内に零れたお茶が水蒸気となる。
「うわっ! そんなに興奮するなよ」
流が慌てて倒れた湯呑みを起こした。
「あんたは光覇明宗の法力僧で、獣の槍の伝承候補者でしょ!
それなのに……白面側に付くですって? 本気なの?」
食って掛かる日輪の言葉が流の耳に鋭く突き刺さる。
立ち込める白い湯気の向こう側で、痛みを堪えるかのように流が眉根を寄せた。
「冗談で言っていいことと悪いことがあることくらい、俺だって分かってるさ」
きっぱりと言い切った流に、日輪は探るような視線を向ける。
「……何でその話を、私にするわけ?」
「何となく、な。おまえなら……分かるんじゃねぇかと思ってさ……」
「おめおめと白面に寝返るような奴の気持ちが、私に分かるはず……」
怒りに満ちた瞳を正面から捉えて、流はひどく静かな声で言った。
「日輪……おまえ、前に言ってただろ? 本当は男に生まれたかった、って」
「そ、れは……」
日輪の胸に苦いものが込み上げる。
幾度となく父から言われた言葉。
――お前が男だったらなァ…女はダメだなァ…――
槍の伝承候補者に選ばれたとき、選ばれなかった他の僧から投げつけられた言葉。
──女に何が出来る! 女のくせにでしゃばるんじゃねぇよ!──
自分の努力ではどうにもならない部分で判断されることが悔しかった。
性は選べない。どうすることも出来ないことだ。
女であるというだけで、何度も嫌な思いをしてきた。
戦いの才能があれば男も女も関係ない。
そう信じて……今までずっと歯を食いしばって、人の何倍も努力してきたのだ。
唇を噛んで俯いた日輪を見つめながら、流が口を開く。
「おまえはそれでも、そういう自分に折り合い付けて頑張ってるもんな。
だけどよ……俺にはそれが、どうしても出来ねぇんだよなぁ……」
手にした湯呑みを側に置くと、流は両手で包むように日輪の頬に触れた。
俯いた顔をそっと上向かせると、怒ったような瞳が流の視線を正面から捕えた。
「……どういうつもり?」
「……キスする時くらい、瞳は閉じるもんだぜ、日輪」
「何を……」
流の指が日輪の唇を撫でる。
「餞(はなむけ)に、貰っていくぜ……」
温かな唇は、触れるだけのキスを日輪の唇に落とした。
流はその後に訪れるであろう派手な音と衝撃を覚悟していたが、
一向にその気配はない。
見れば頬を叩こうと振り上げた日輪の手がぶるぶると震えていて、
大きく見開かれた瞳にはみるみる涙がふくれ上がる。
振り上げられた腕をゆっくりと引き降ろした流の大きな手は、
そのまま日輪の肩に触れ、震える小さな身体ごとそっと胸元に引き寄せた。
「涙なんて、おまえらしくないな……」
瞬きするたびに日輪の頬を伝う涙を指先で拭いながら流が言う。
「……ら、しくないのは、あんたも同じでしょう」
「いやー、俺らしいと思うけどなぁ。俺は何でもやればそこそこ出来るからよ。
出来ないことや、なれないものがあるのが、どうも許せないみたいだ」
「……男なんて、分からないな……。
下らないプライドなんて、捨ててしまえばいいのに」
ふ、と諦めにも似た色が流の顔を掠めた。
「今更?」
「今更だろうが何だろうが、捨ててしまえば楽になれるじゃない! 何故そうしない?」
「もう……遅いんだよ……。俺が俺であるためには、もう……」
「……馬鹿……」
流は日輪の言葉に淡く笑みを浮かべ、ゆっくりと顔を近付けると再び唇を重ねた。
「俺が戻ったら……続き、教えてやるぜ、日輪」
腕の中で身体を強張らせたまま、日輪は言う。
「あんたは戻ってくるつもりなんか、ないんでしょう?」
「さぁな。俺は勝てない勝負をするつもりは、ねぇけどよ」
「……嘘吐き」
流が無事に戻るということは、白面が支配する世界が訪れるということ。
今までずっと獣の槍を手に白面を倒すために、
ただそれだけのために生きてきた日輪にとって、
それは到底あってはならない未来。
でも……。
胸がきりきりと痛むのは、何故だろう。
「引き止めても無駄でしょうけど……。どうしても行くというのね?」
「ああ」
「なら……戻ったらなんて言ってないで、今ここで、続きを教えなさいよ」
涙に濡れた瞳が挑むように流を見つめている。
「おいおい、俺を色仕掛けで引き止めるつもりか? 日輪」
流の言葉に日輪は首を左右に振る。
「違う。あんたが確かにいたということを……私が、覚えておきだいだけ……。
あんたが白面側に付くなら、どのみちあんたとはこの後……
生きて会うことはないんだから」
「随分はっきり言ってくれるんだな」
「当たり前でしょう! あんたが無事に戻ってくるなら、
私はとっくに白面に殺されてるわ。……違う?」
「まぁな。ここに集まってる連中は、戦いの最前線に立つことになるだろうからな」
日輪は自嘲気味に笑うと言葉を続けた。
「今くらい、自分が男だったら良かったのに、と思ったことはないわ。
男だったら、あんたを殴ってでも引き止めるのに」
日輪の言葉に流が小さく笑う。
「俺が殴り合いで他の奴に負けるかよ」
「それもそうね……」
日輪が目の前の引き締まった胸元にこつりと額を寄せると、
流の鍛えられた腕が華奢な身体をそっと抱きしめる。
日輪の身体も鍛えられてはいるが、それとは全く違う太く逞しい腕。
抱かれる腕の中はこんなに温かいのに───。
この温もりに触れるのは今夜が最初で最後だということを
日輪は寂しいと思うと同時に、そう思った自分自身に酷く動揺した。
次の間へと続く襖を開けると、部屋の中央には既に一組の布団が敷いてあり、
枕元に置かれた小さなスタンドの淡い光が部屋を満たしていた。
自分から誘ったとはいえ、すっかりお膳立てが整った寝室を目の当たりにして
日輪は急に怖気づき、足が竦んだように動けなくなってしまった。
腕の中の身体がぎゅっと強張ったのに気付いて、流が日輪を窺う。
「なぁ、おまえ……本当は無理してんじゃねぇのか?」
問い掛けに無言で首を振るが、日輪の足はそれ以上前へ出る気配がない。
(やれやれ。こういうことになると……いつもの威勢のよさはどこへやら、だな)
内心ひとりごちて、流は小さく笑うと日輪の身体を軽々と抱き上げる。
「なっ、何を……」
不意を突かれた日輪は思わず流の首筋に腕を回してしまう。
視線がぶつかって、日輪は慌てたように目を伏せた。
その妙に初々しい仕草に思わず笑みが浮かぶ。
「こんなとこへ突っ立ってたって、コトは進まないだろ?」
出来るだけ軽く響くように明るい声を出しながら
流は部屋へと足を踏み入れ、敷かれた布団の上に日輪をそっと下ろす。
「さて……どうする?」
「ここまで来て、今更止めるなんて言わないでよね、流……」
見上げる上気した顔は強張ってはいるが、後悔の色は見えない。
射るような視線に小さく頷くと、流は襖を閉め日輪の隣に身体を横たえた。
枕元に手を伸ばし灯されている明かりを消すと、部屋の中に夜の帳が下りた。
ふと、トゥーカッターがしげしげと手の中の小さなラッピングを見ているところに通りすがり、アマゴワクチンは何気なくそれを覗き込んだ。
「何だそれ」
外は寒々と晴れ渡った冬空。2月の冷えた空気に、一走りしてきたワクチンの息は白い。それに、一見無表情に見えるいつもの顔で、トゥーカッターは彼を振り仰いだ。
「嬢ちゃんからな」
その呼び名は、本人は嫌がる呼び方だったが、同じ全日本チームの紅一点であるアンカルジアを指していた。
「あー、バレンタインか。忘れていたな」
「…せっかく今年はこいつから逃げられると思ったんだが…」
渋いような口調で言うトゥーカッターが、こういった行事ものや甘ったるい菓子があまり得手でないのは知っていたワクチンだったが、その余りの言いように思わず笑う。
流石にいくつもの重賞に名を連ねるような彼に、昨年一昨年とファンからのチョコレートも届いただろう事は、自分や同年代の知り合いを思い返しても想像に難くない。
それにしても、ファンからの人気投票的な意味合いの贈り物とは違って、どこか胸にちくりと痛いような感覚が残るのは、ワクチン自身も自分に苦笑するしかなかった。アンカルジアがトゥーカッターにこんな贈り物をするとは思いもしなかったのだ。
彼女は、…こんな風に思うのは悪いと思いつつも、亡くした恋人だけを想っているような、そんな一途さを感じていたワクチンだった。
「お前食うか?ワクチン」
そこに無神経に言い放つトゥーカッターに、軽く横蹴りを入れてやったのは仕方がない。
「バカ言え。アンカルジアにばれたら後が怖い」
「…お前も嬢ちゃんには弱いか……。さて困った……」
そう言って包みを睨むトゥーカッターに、ワクチンもむっとした表情になる。思わず咎める言葉を口にしようと、息を吸い込んだそのとき、肝心のアンカルジアがひょこりと柱を回って顔を出した。
「あ、ワクチンここにいたのね。走りに出たって言うから向こうまで追いかけちゃったじゃない。はい、これ」
そう言って、笑顔でワクチンにも包みを渡す。トゥーカッターのものと全く同じラッピングだった。一瞬、反応に困って呆けたような顔でアンカルジアを見たワクチンに、彼女は朗らかに笑った。
「本命のついででゴメンねお二人さん!ご挨拶も立派なバレンタインなのよ、これでも私、大和撫子なんだから!」
およそ、そんな淑やかさとは正反対の闊達さで笑って、彼女はまた踵を返す。片手の小さな袋の中には、まだいくつかのラッピングがあった。
「ねえ、マキバオーとニトロ、見た?」
そして、また春風のように駆けて行った彼女の後ろに取り残された二人は、顔を見合わせて、それから不器用にラッピングを解いた。
小さな箱の中には、艶やかなチョコレートに、白い細い筆で、
義理
と書かれていた。実に達筆だった。
「おい…」
「……いや…ここまでキッパリ書かれると…」
「実に清々しいな…」
そして、二人は再び顔を見合わせて、笑った。腹を抱えて笑った。笑って、笑って、そしてその甘い菓子を口に入れた。ほろりと苦味もあるビターチョコレート。それを音を立てて噛み砕きながら、抜けるように青い空を見上げた。
「さっき、何で急に不機嫌になったんだ?」
「うるせえ。忘れろよ」
ふうん、と、鼻を鳴らして、そしてトゥーカッターは出し抜けにワクチンの首を抱え込んだ。不意をつかれて、ワクチンも驚いた声を上げる。
「お前意外と焼き餅妬きだなぁ」
そう言って笑うトゥーカッターに、顔を上げられずにただ小さく「うるせえ」と呻くワクチンの頬は赤くなっていた。
ひとしきり、じゃれあうように暴れて、そのまま芝に座り込む。トゥーカッターにかけられたヘッドロックは外されていたが、それでもそのままワクチンは彼の肩によりかかってまた空を見上げた。
「アンカルジアの本命があんたになったかと思ったんだよ。よく考えればありえねえが」
「ふん。嬢ちゃんの本命なぁ。……その口ぶりだとお前知ってるんじゃねえのか?」
「知ってる」
だが、そう言って、ワクチンはしばらく口をつぐんだ。その逡巡する気配に、トゥーカッターは急かすでもなくただ彼に肩を貸したままだった。
しばらく黙りこくった後、ワクチンは小さく呟いた。
「死んじまったが………」
少し息を飲んで、トゥーカッターは身じろいだ。
そして、小さな声で「そうか」と言った。
そのまま、二人は黙ったままで空を見上げた。お祭り騒ぎのようなこのイベントが、少しばかり悲しく遣る瀬無かった。
「んあー!チョコレート!?アンカルジア、僕にくれるの?」
「そうよ。バレンタインですもの」
嬉しさを素直に現わして、飛び跳ねて喜ぶマキバオーに、アンカルジアも笑顔でウィンクを返す。受け取って、早速にラッピングを開こうとするマキバオーの不器用な手先に、笑いながらパートナーの菅助が手を貸した。
「……ん………アンカルジア………」
開けられた箱に、飛びついてマキバオーは一瞬固まる。手元を覗き込んで、菅助も苦笑いをした。
「直接的だねアンカルジア…」
滑らかに優しい褐色のミルクチョコレートに、やはり白く書き記された「義理」の文字の仕様に、マキバオーは不満そうにアンカルジアを見た。
「んあー…せっかくモテモテになったと思ったのにー…」
「あら、でもいつもお世話になってるマキバオーに私からの感謝の気持ちなのよ?受け取ってくれないの?」
「んあんあ。美味しいチョコレートには文字は関係ないのね!いっただっきまーーーす!」
幸せそうにチョコレートをほおばって、マキバオーはにこにこと笑う。美味しい、美味しいと、何度も言った。
「でも、義理なんて、もう書かなくてもいいと思うのね…」
そう小さく呟いたマキバオーに、アンカルジアの微笑みは優しかった。果てしなく優しくて、優しくて、マキバオーも菅助も何も言えなくなった。
「アンカルジア……」
「送ったわ。ちゃんと。本命ってね。……鵡川のあなたの小父さんに言伝て。ちゃんと彼に渡してくれると思うわ。…きっと今年はちゃんと受け取ってくれるわよ。あのひねくれ者」
小さな声で、アンカルジアは言った。優しい笑顔に、ほんの一粒、涙が光った。
■■■■ ■■■■
リカは、心底意外なことを聞いたように目を見開いて、いささか頓狂な声を上げた。
「バレンタインチョコですってぇ!?誰に渡すって言うのよアンタが!」
その驚き方に、不服そうに拗ねた目でマキバコがリカを睨む。だが、すぐに呆れたように肩を竦めた。
「しかたないなぁー!アンタには縁のないオシャレなイベントだからって、オレまで一緒にせんでほしいわ!あのな、バレンタインはなー」
得意そうにふんぞり返るマキバコに、うぐぐ、とリカは拳を握り締める。ここ最近、パートナーを組む相手同士だと言うのに、殴り合いが絶えない二人だったが、今日の原因はバレンタインかと思うと一層腹に据えかねるリカであった。
確かにマキバコの言うとおり、今年に入ってもバレンタインに直結するようなロマンスなど欠片もない。用意したのも先輩や同僚に渡す義理チョコだけの我が身に、こうも正面切って揶揄されると歯噛みするしかない。
しかし、続いたマキバコの言葉に、リカの拳の力は抜けた。
「バレンタインはな、世話になっとるおっさんたちにお礼のチョコ上げる日だぞ!知っとった?」
振り上げた拳の下ろしどころに困るというのはまさにこれだ。リカはぽかんと口を開けた。一体誰の入れ知恵か…。だが、すぐに吹き出した。笑った。なんと可愛いことを言い出すのかと、そう思えて笑えて来た。
急に笑い出したリカに、マキバコは口を尖らせて不満を表す。
その赤いリボンで結わった前髪を撫でながら、リカは浮き立つ心のままに言った。
乱暴もので、言うことを聞かないひねくれ者で。でも、やっぱり兄のマキバオーに似てちゃんと優しいこの娘に、リカは確かに可愛がる気持ちが強くなっている自分を知っていた。
「判ったわよ。私の負け。チョコ、一緒に作りましょうか。……ねえ、ねえ、誰に上げたいのよ。それは教えてよ」
「…ふ、ふん。しょうがない、リカの分も作ったる。本当は、アレだぞ。バラモンとかビシャモンとか、ボギーとか……ツァビデルとか……せ、世話になったからだかんな!」
あ、あと兄貴にもかなあ、と呟くマキバコに、リカはくすくすと笑いながらその肩を押した。
「ほら。そうと決まったら材料揃えなきゃ。行きましょ!」
そして、その後の厨房の騒ぎは派手だった。あまりの罵詈雑言と、派手に物の壊れる音と、悲鳴と。
その凄まじさに恐れをなして、近寄ったものはいないと言う。ただ、まことしやかに流れた噂は、
毒物を作っていたのだと言うものとか。
刃傷沙汰があったのだというものとか。
果ては、恐怖のあまり110番通報しかけたものがいたとかいなかったとか。
「だからそうじゃないって言ってんでしょ、何でチョコにハバネロ入れたがるのよあんたはーーー!!」
「うっさい、個性ってもんを知らんのか!!小娘!!」
「それはママレモン!洗剤だってば、やめなさい!!誰を暗殺するつもりよーーーーー!」
こんこんと雪の舞い落ちる、バレンタインデーのその日。宮蔦一家の元に、小包が届けられた。宮蔦の親父さんは、差出人の名と、添えられたリカの手紙を見て、感涙に咽んだという。
「わしらのお嬢から、バレンタインのチョコレートだと…。立派な娘になって……!」
親バカそのままに、男泣きに泣く親父さんの手から、手紙を受け取って目を走らせたボギーは、一瞬冷や汗をかいて包みを見る。その横で、お調子者のビシャモンが嬉しそうにラッピングに飛びついていた。
「泣かせるねー!お嬢の手作りチョコだよ。いやー、いいねいいねー。100の義理チョコよりこの一個が価値があるね!」
そして嬉しそうに包みを開けて、口に入れた。
「ボギー?何難しい顔してんだよ。お嬢からの贈り物だぜ、素直にさあ」
そう言ったバラモンに、ボギーは無言で手紙を押し付けた。ん?とそれを読んだバラモンの顔が引きつる。二人は、何の疑いもなくチョコレートを食べたビシャモンと、まだ泣きながらチョコレートをほおばった親父さんをじっと見た。
「…………!!!???」
「………!!!!」
かたや、真っ赤な顔で辛さにのた打ち回る親父さん。かたや、口からシャボン玉を飛ばしてひっくり返ったビシャモン。
ボギーは、深い溜息と共に、肩を落とした。
バラモンの手から、はらりと落ちた手紙には、震える字でリカの心からの謝罪があった。
『ゴメンなさい、本当にゴメンなさい。頑張って止めたのだけど、私の目を盗んでマキバコがいくつかのチョコレートに激辛唐辛子と、洗剤を混入しています。もうどれがどれか判りません。このチョコレートは、彼女からの気持ちなので送りますけど、絶対に口にしないで下さい。絶対に食べないで下さい。お世話になってる皆さんにチョコレートを送りたいと言うマキバコの気持ちだけは、汲んで上げてください。本当にゴメンなさい!』
「ボ、ボギー………」
「救急車って、何番だ…?電話……」
■■■■ ■■■■
寒い風に、息を白く吐きながら、アンカルジアは丁度走り終えて立ち止まったニトロニクスに声を掛けた。
「気合入ってるわね、ニトロ。そろそろ休憩?」
「あ?なんだよ、用か?」
弾ませた息を整えながら、アンカルジアを見る。楽しそうに笑って、彼女はニトロを手招きした。
「はい。あなたの分。バレンタインの」
そう言って、小さなラッピングがニトロニクスに渡された。手の中の小さな華やかさを見て、ニトロは一瞬驚いたような顔をした。
「俺の?」
「そうよ?チョコ、嫌い?」
悪戯っぽく笑うアンカルジアに、思わずニトロニクスはいつもの憎まれ口も利かずに、またラッピングを見た。戸惑いながら、思わずその場でラッピングを解いた。リボンを解きかけたときに、アンカルジアは軽く身を翻した。
「じゃあ、後でね」
「…あ、おい……!」
思わず声を掛けた、ニトロに振り返らず、アンカルジアは駆けて行った。
もう一度、リボンを解いた、その包みの中には、艶やかなビターチョコ。黒に近いほどの、濃い褐色の、光沢が奇麗だった。
甘い香りが、した。
「…いいのかよ……」
チョコレートを、持ったまま、ニトロニクスは呟いた。チョコレートの表面は、つるりと滑らかだった。
鵡川の牧場で、源次郎は家の裏手の墓に、花と線香と、そして届いたばかりの包みを手向けた。
皺深い手を合わせて、念仏を呟く。
墓碑に刻まれた名を、感慨深そうに撫でて、そろそろ老境に差し掛かった目を瞬かせた。
「去年は受け取らなかったそうだなあ。チュウ兵衛よ。それでもあの子はお前を忘れないよ。忘れることばかりが良い事じゃないからな。ほれ、今年のお前宛のチョコレートだ。今年はちゃんと、受け取ってやれ。ちゃぁんと、礼を言ってやるんだぞ。お前の照れ屋は死んでも治らんかもしれんがなあ」
そう言って、老牧場主は、低く笑った。
そして、ゆっくり腰を上げた。
「さて、一仕事せにゃぁなぁ」
高い空は、真っ白く染まって、まだ天から飽きることなく雪がひらひらと舞い落ちていた。
END
「何だそれ」
外は寒々と晴れ渡った冬空。2月の冷えた空気に、一走りしてきたワクチンの息は白い。それに、一見無表情に見えるいつもの顔で、トゥーカッターは彼を振り仰いだ。
「嬢ちゃんからな」
その呼び名は、本人は嫌がる呼び方だったが、同じ全日本チームの紅一点であるアンカルジアを指していた。
「あー、バレンタインか。忘れていたな」
「…せっかく今年はこいつから逃げられると思ったんだが…」
渋いような口調で言うトゥーカッターが、こういった行事ものや甘ったるい菓子があまり得手でないのは知っていたワクチンだったが、その余りの言いように思わず笑う。
流石にいくつもの重賞に名を連ねるような彼に、昨年一昨年とファンからのチョコレートも届いただろう事は、自分や同年代の知り合いを思い返しても想像に難くない。
それにしても、ファンからの人気投票的な意味合いの贈り物とは違って、どこか胸にちくりと痛いような感覚が残るのは、ワクチン自身も自分に苦笑するしかなかった。アンカルジアがトゥーカッターにこんな贈り物をするとは思いもしなかったのだ。
彼女は、…こんな風に思うのは悪いと思いつつも、亡くした恋人だけを想っているような、そんな一途さを感じていたワクチンだった。
「お前食うか?ワクチン」
そこに無神経に言い放つトゥーカッターに、軽く横蹴りを入れてやったのは仕方がない。
「バカ言え。アンカルジアにばれたら後が怖い」
「…お前も嬢ちゃんには弱いか……。さて困った……」
そう言って包みを睨むトゥーカッターに、ワクチンもむっとした表情になる。思わず咎める言葉を口にしようと、息を吸い込んだそのとき、肝心のアンカルジアがひょこりと柱を回って顔を出した。
「あ、ワクチンここにいたのね。走りに出たって言うから向こうまで追いかけちゃったじゃない。はい、これ」
そう言って、笑顔でワクチンにも包みを渡す。トゥーカッターのものと全く同じラッピングだった。一瞬、反応に困って呆けたような顔でアンカルジアを見たワクチンに、彼女は朗らかに笑った。
「本命のついででゴメンねお二人さん!ご挨拶も立派なバレンタインなのよ、これでも私、大和撫子なんだから!」
およそ、そんな淑やかさとは正反対の闊達さで笑って、彼女はまた踵を返す。片手の小さな袋の中には、まだいくつかのラッピングがあった。
「ねえ、マキバオーとニトロ、見た?」
そして、また春風のように駆けて行った彼女の後ろに取り残された二人は、顔を見合わせて、それから不器用にラッピングを解いた。
小さな箱の中には、艶やかなチョコレートに、白い細い筆で、
義理
と書かれていた。実に達筆だった。
「おい…」
「……いや…ここまでキッパリ書かれると…」
「実に清々しいな…」
そして、二人は再び顔を見合わせて、笑った。腹を抱えて笑った。笑って、笑って、そしてその甘い菓子を口に入れた。ほろりと苦味もあるビターチョコレート。それを音を立てて噛み砕きながら、抜けるように青い空を見上げた。
「さっき、何で急に不機嫌になったんだ?」
「うるせえ。忘れろよ」
ふうん、と、鼻を鳴らして、そしてトゥーカッターは出し抜けにワクチンの首を抱え込んだ。不意をつかれて、ワクチンも驚いた声を上げる。
「お前意外と焼き餅妬きだなぁ」
そう言って笑うトゥーカッターに、顔を上げられずにただ小さく「うるせえ」と呻くワクチンの頬は赤くなっていた。
ひとしきり、じゃれあうように暴れて、そのまま芝に座り込む。トゥーカッターにかけられたヘッドロックは外されていたが、それでもそのままワクチンは彼の肩によりかかってまた空を見上げた。
「アンカルジアの本命があんたになったかと思ったんだよ。よく考えればありえねえが」
「ふん。嬢ちゃんの本命なぁ。……その口ぶりだとお前知ってるんじゃねえのか?」
「知ってる」
だが、そう言って、ワクチンはしばらく口をつぐんだ。その逡巡する気配に、トゥーカッターは急かすでもなくただ彼に肩を貸したままだった。
しばらく黙りこくった後、ワクチンは小さく呟いた。
「死んじまったが………」
少し息を飲んで、トゥーカッターは身じろいだ。
そして、小さな声で「そうか」と言った。
そのまま、二人は黙ったままで空を見上げた。お祭り騒ぎのようなこのイベントが、少しばかり悲しく遣る瀬無かった。
「んあー!チョコレート!?アンカルジア、僕にくれるの?」
「そうよ。バレンタインですもの」
嬉しさを素直に現わして、飛び跳ねて喜ぶマキバオーに、アンカルジアも笑顔でウィンクを返す。受け取って、早速にラッピングを開こうとするマキバオーの不器用な手先に、笑いながらパートナーの菅助が手を貸した。
「……ん………アンカルジア………」
開けられた箱に、飛びついてマキバオーは一瞬固まる。手元を覗き込んで、菅助も苦笑いをした。
「直接的だねアンカルジア…」
滑らかに優しい褐色のミルクチョコレートに、やはり白く書き記された「義理」の文字の仕様に、マキバオーは不満そうにアンカルジアを見た。
「んあー…せっかくモテモテになったと思ったのにー…」
「あら、でもいつもお世話になってるマキバオーに私からの感謝の気持ちなのよ?受け取ってくれないの?」
「んあんあ。美味しいチョコレートには文字は関係ないのね!いっただっきまーーーす!」
幸せそうにチョコレートをほおばって、マキバオーはにこにこと笑う。美味しい、美味しいと、何度も言った。
「でも、義理なんて、もう書かなくてもいいと思うのね…」
そう小さく呟いたマキバオーに、アンカルジアの微笑みは優しかった。果てしなく優しくて、優しくて、マキバオーも菅助も何も言えなくなった。
「アンカルジア……」
「送ったわ。ちゃんと。本命ってね。……鵡川のあなたの小父さんに言伝て。ちゃんと彼に渡してくれると思うわ。…きっと今年はちゃんと受け取ってくれるわよ。あのひねくれ者」
小さな声で、アンカルジアは言った。優しい笑顔に、ほんの一粒、涙が光った。
■■■■ ■■■■
リカは、心底意外なことを聞いたように目を見開いて、いささか頓狂な声を上げた。
「バレンタインチョコですってぇ!?誰に渡すって言うのよアンタが!」
その驚き方に、不服そうに拗ねた目でマキバコがリカを睨む。だが、すぐに呆れたように肩を竦めた。
「しかたないなぁー!アンタには縁のないオシャレなイベントだからって、オレまで一緒にせんでほしいわ!あのな、バレンタインはなー」
得意そうにふんぞり返るマキバコに、うぐぐ、とリカは拳を握り締める。ここ最近、パートナーを組む相手同士だと言うのに、殴り合いが絶えない二人だったが、今日の原因はバレンタインかと思うと一層腹に据えかねるリカであった。
確かにマキバコの言うとおり、今年に入ってもバレンタインに直結するようなロマンスなど欠片もない。用意したのも先輩や同僚に渡す義理チョコだけの我が身に、こうも正面切って揶揄されると歯噛みするしかない。
しかし、続いたマキバコの言葉に、リカの拳の力は抜けた。
「バレンタインはな、世話になっとるおっさんたちにお礼のチョコ上げる日だぞ!知っとった?」
振り上げた拳の下ろしどころに困るというのはまさにこれだ。リカはぽかんと口を開けた。一体誰の入れ知恵か…。だが、すぐに吹き出した。笑った。なんと可愛いことを言い出すのかと、そう思えて笑えて来た。
急に笑い出したリカに、マキバコは口を尖らせて不満を表す。
その赤いリボンで結わった前髪を撫でながら、リカは浮き立つ心のままに言った。
乱暴もので、言うことを聞かないひねくれ者で。でも、やっぱり兄のマキバオーに似てちゃんと優しいこの娘に、リカは確かに可愛がる気持ちが強くなっている自分を知っていた。
「判ったわよ。私の負け。チョコ、一緒に作りましょうか。……ねえ、ねえ、誰に上げたいのよ。それは教えてよ」
「…ふ、ふん。しょうがない、リカの分も作ったる。本当は、アレだぞ。バラモンとかビシャモンとか、ボギーとか……ツァビデルとか……せ、世話になったからだかんな!」
あ、あと兄貴にもかなあ、と呟くマキバコに、リカはくすくすと笑いながらその肩を押した。
「ほら。そうと決まったら材料揃えなきゃ。行きましょ!」
そして、その後の厨房の騒ぎは派手だった。あまりの罵詈雑言と、派手に物の壊れる音と、悲鳴と。
その凄まじさに恐れをなして、近寄ったものはいないと言う。ただ、まことしやかに流れた噂は、
毒物を作っていたのだと言うものとか。
刃傷沙汰があったのだというものとか。
果ては、恐怖のあまり110番通報しかけたものがいたとかいなかったとか。
「だからそうじゃないって言ってんでしょ、何でチョコにハバネロ入れたがるのよあんたはーーー!!」
「うっさい、個性ってもんを知らんのか!!小娘!!」
「それはママレモン!洗剤だってば、やめなさい!!誰を暗殺するつもりよーーーーー!」
こんこんと雪の舞い落ちる、バレンタインデーのその日。宮蔦一家の元に、小包が届けられた。宮蔦の親父さんは、差出人の名と、添えられたリカの手紙を見て、感涙に咽んだという。
「わしらのお嬢から、バレンタインのチョコレートだと…。立派な娘になって……!」
親バカそのままに、男泣きに泣く親父さんの手から、手紙を受け取って目を走らせたボギーは、一瞬冷や汗をかいて包みを見る。その横で、お調子者のビシャモンが嬉しそうにラッピングに飛びついていた。
「泣かせるねー!お嬢の手作りチョコだよ。いやー、いいねいいねー。100の義理チョコよりこの一個が価値があるね!」
そして嬉しそうに包みを開けて、口に入れた。
「ボギー?何難しい顔してんだよ。お嬢からの贈り物だぜ、素直にさあ」
そう言ったバラモンに、ボギーは無言で手紙を押し付けた。ん?とそれを読んだバラモンの顔が引きつる。二人は、何の疑いもなくチョコレートを食べたビシャモンと、まだ泣きながらチョコレートをほおばった親父さんをじっと見た。
「…………!!!???」
「………!!!!」
かたや、真っ赤な顔で辛さにのた打ち回る親父さん。かたや、口からシャボン玉を飛ばしてひっくり返ったビシャモン。
ボギーは、深い溜息と共に、肩を落とした。
バラモンの手から、はらりと落ちた手紙には、震える字でリカの心からの謝罪があった。
『ゴメンなさい、本当にゴメンなさい。頑張って止めたのだけど、私の目を盗んでマキバコがいくつかのチョコレートに激辛唐辛子と、洗剤を混入しています。もうどれがどれか判りません。このチョコレートは、彼女からの気持ちなので送りますけど、絶対に口にしないで下さい。絶対に食べないで下さい。お世話になってる皆さんにチョコレートを送りたいと言うマキバコの気持ちだけは、汲んで上げてください。本当にゴメンなさい!』
「ボ、ボギー………」
「救急車って、何番だ…?電話……」
■■■■ ■■■■
寒い風に、息を白く吐きながら、アンカルジアは丁度走り終えて立ち止まったニトロニクスに声を掛けた。
「気合入ってるわね、ニトロ。そろそろ休憩?」
「あ?なんだよ、用か?」
弾ませた息を整えながら、アンカルジアを見る。楽しそうに笑って、彼女はニトロを手招きした。
「はい。あなたの分。バレンタインの」
そう言って、小さなラッピングがニトロニクスに渡された。手の中の小さな華やかさを見て、ニトロは一瞬驚いたような顔をした。
「俺の?」
「そうよ?チョコ、嫌い?」
悪戯っぽく笑うアンカルジアに、思わずニトロニクスはいつもの憎まれ口も利かずに、またラッピングを見た。戸惑いながら、思わずその場でラッピングを解いた。リボンを解きかけたときに、アンカルジアは軽く身を翻した。
「じゃあ、後でね」
「…あ、おい……!」
思わず声を掛けた、ニトロに振り返らず、アンカルジアは駆けて行った。
もう一度、リボンを解いた、その包みの中には、艶やかなビターチョコ。黒に近いほどの、濃い褐色の、光沢が奇麗だった。
甘い香りが、した。
「…いいのかよ……」
チョコレートを、持ったまま、ニトロニクスは呟いた。チョコレートの表面は、つるりと滑らかだった。
鵡川の牧場で、源次郎は家の裏手の墓に、花と線香と、そして届いたばかりの包みを手向けた。
皺深い手を合わせて、念仏を呟く。
墓碑に刻まれた名を、感慨深そうに撫でて、そろそろ老境に差し掛かった目を瞬かせた。
「去年は受け取らなかったそうだなあ。チュウ兵衛よ。それでもあの子はお前を忘れないよ。忘れることばかりが良い事じゃないからな。ほれ、今年のお前宛のチョコレートだ。今年はちゃんと、受け取ってやれ。ちゃぁんと、礼を言ってやるんだぞ。お前の照れ屋は死んでも治らんかもしれんがなあ」
そう言って、老牧場主は、低く笑った。
そして、ゆっくり腰を上げた。
「さて、一仕事せにゃぁなぁ」
高い空は、真っ白く染まって、まだ天から飽きることなく雪がひらひらと舞い落ちていた。
END
その時、私は、目の前でリカが泣きだしそうな顔をして俯いたのを、良く覚えている。
いいえ、そのとき彼女は泣いていた。
そして、私は、何も言えなかった。何も考えられなかった。何も信じたくなかった。
誰かに、嘘だと言って欲しかった。
ほんの一週前に、オークスを逃した私を笑って励ました彼だった。見に来てくれてたなんて思わなかったから…、負けた悔しさもショックも、救われた思いがあった。
いつも憎まれ口しかきかないくせに。
あの無邪気なマキバオーや、優しい菅助くんと大違いで、斜に構えたような物言いで。私をからかうようなことばかり言って。
予想もしなかった敗戦に、ぐるぐると目が回るような渦に引き込まれていくような、まるで貧血でも起こしているような、そんな私を不意に引き戻したあなたの声だった。いつもどおりの、強気で、自信たっぷりな、声だった。
立派な成績だって言ってくれたわね。
惜しかった、って、言ってくれたわ。
私がどれだけほっとしたか、あなたにはきっと判らないでしょう。私がどんなに嬉しかったか、あなたはきっと知らないでしょう。
そして、私が今どれだけ悔しいか、あなたは知るはずもないわね。
だって、あなたに無条件に褒めてもらえるレースを、まだ見せていないのだもの。
「アンカルジア!……アンカルジア…!」
リカの、泣き声がする。どこで彼女は泣いてるのだろう。
彼女の小さな手の感触が、私の頬に触れてる。震えているの?近くにいるの?
では、どうして、あなたの泣き声がこんなに遠いのかしら、リカ。悲しそうな泣き声。泣かないでと言ってあげたい。
「アンカルジア!」
悲鳴のような、リカの声が聞こえた。その後は、何も聞こえなかった。急に、辺りが暗くなったようだった。…まだ、日暮れには随分間があったのに。
「マキバオーが、ダービーを取ったのよ、アンカルジア。カスケードと同着だったけど。ついにやったの」
そう言ったリカは、そんなにおめでたい報告なのに、酷く暗い表情だった。真っ赤に泣き腫らした目が、痛々しいくらい。
「…どうしたの?リカ?泣いていたの?」
そう聞くと、彼女はその手をぎゅっと握り締めて、小さく体を震わせた。私から、少し目を逸らすようにして、息を吸い込んだ。
「アンカルジア。取り乱さないでね…落ち着いて聞いて欲しいの……。あのダービーで……ダービーのゴールの後で………」
かたかたと震えながら、リカは何度も息を継いで、小さくなっていく声を絞り出すようにしていた。大きな目から、涙がぽたりと落ちた。いつもなら、私は彼女を力づけようとして頬ずりしただろう。声をかけたはず。
でも、どうしてだか、私は何も出来ずただぼんやり立っていた。その続きを、聞いてはいけないような気がした。酷く恐ろしくなった。
なのに、私はリカの言葉を止めることもできず、聞かないという選択も出来ず、立っていた。
「………チュウ兵衛が………亡くなったの…………」
お願い、誰か、嘘だと言って。
ーーーけっ、初めての東京のレースなんで意識してんな、この田舎もん!
ーーーおめーさんも次は違うレースだけどよ…。せいぜい頑張りな
---まあ、確かにそうかもな。日本中探しても、それだけ早く歩く馬はそういねえかもな
---堂々と歩けよ!立派な成績じゃねーか!!
チュウ兵衛…?
---10月…京都か。まあ、行けたら行くわ
来てくれるでしょう?絶対来なさいよ…
---わ、判ったよ、行く行く
……あなたが来てくれるなら、見ててくれるなら、絶対に負けないから。見てなさいよ…?
---じゃ、もう行くわ……
…え……?
---いいレースだったぜ!
…チュウ兵衛?待って、待って、どこへ行くの?
マキバオーのダービーは?その先は?あなたがいなくてどうするの?
…待って、チュウ兵衛。待って…。
見ていてくれるんでしょう?私の秋華賞も。その先も。見ていてくれるんでしょう?チュウ兵衛!?
---じゃあな。
「アンカルジア!アンカルジア、しっかりして!!アンカルジア!!」
瞼が重い。けれど、私の首に縋りついている人の手の感触。そして、悲鳴のような声。…ああ、リカの声だわ。狂ったように私の首を撫で続けてる、小さな人の手。目を開けると、思ったよりも近くに、涙でくしゃくしゃになったリカの顔があった。
「…リカ…」
名前を呼ぶと、彼女は、一度しゃくりあげるように息を吸い込んで、それから私に抱きつくようにして、声を上げて泣き出した。その彼女の肩に私も顔を伏せるようにして、息をついた。
さっきまで、私に語りかけてくれたチュウ兵衛の声が聞こえなかった。
夢だったのかもしれない。でも、夢だなんて思いたくなかった。
きっと、彼は私に別れの挨拶に来てくれたのだと、思いたかった。
「チュウ兵衛…」
彼の名を声に出すと、堰を切ったように涙が出てきた。後から後から、溢れて止まらなくなった。リカに抱きしめられて、彼女に顔を伏せたまま、私は泣いた。どうして。どうして?チュウ兵衛。どうして行ってしまうの。こんなにあなたに残された者たちが悲しんでいるのに。
まだ一度だってあなたに、レースを取った私を見せていないのに。
まだ一度だって、あなたに、私は何も伝えてないのに。
この気持ちも、何もかも。伝えていないのに。
混乱したまま、私は泣き続けた。リカに抱きしめられたまま、子供のように泣き続けた。
まだ、あなたにサヨナラなんて、言いたくないわ…。
END
いいえ、そのとき彼女は泣いていた。
そして、私は、何も言えなかった。何も考えられなかった。何も信じたくなかった。
誰かに、嘘だと言って欲しかった。
ほんの一週前に、オークスを逃した私を笑って励ました彼だった。見に来てくれてたなんて思わなかったから…、負けた悔しさもショックも、救われた思いがあった。
いつも憎まれ口しかきかないくせに。
あの無邪気なマキバオーや、優しい菅助くんと大違いで、斜に構えたような物言いで。私をからかうようなことばかり言って。
予想もしなかった敗戦に、ぐるぐると目が回るような渦に引き込まれていくような、まるで貧血でも起こしているような、そんな私を不意に引き戻したあなたの声だった。いつもどおりの、強気で、自信たっぷりな、声だった。
立派な成績だって言ってくれたわね。
惜しかった、って、言ってくれたわ。
私がどれだけほっとしたか、あなたにはきっと判らないでしょう。私がどんなに嬉しかったか、あなたはきっと知らないでしょう。
そして、私が今どれだけ悔しいか、あなたは知るはずもないわね。
だって、あなたに無条件に褒めてもらえるレースを、まだ見せていないのだもの。
「アンカルジア!……アンカルジア…!」
リカの、泣き声がする。どこで彼女は泣いてるのだろう。
彼女の小さな手の感触が、私の頬に触れてる。震えているの?近くにいるの?
では、どうして、あなたの泣き声がこんなに遠いのかしら、リカ。悲しそうな泣き声。泣かないでと言ってあげたい。
「アンカルジア!」
悲鳴のような、リカの声が聞こえた。その後は、何も聞こえなかった。急に、辺りが暗くなったようだった。…まだ、日暮れには随分間があったのに。
「マキバオーが、ダービーを取ったのよ、アンカルジア。カスケードと同着だったけど。ついにやったの」
そう言ったリカは、そんなにおめでたい報告なのに、酷く暗い表情だった。真っ赤に泣き腫らした目が、痛々しいくらい。
「…どうしたの?リカ?泣いていたの?」
そう聞くと、彼女はその手をぎゅっと握り締めて、小さく体を震わせた。私から、少し目を逸らすようにして、息を吸い込んだ。
「アンカルジア。取り乱さないでね…落ち着いて聞いて欲しいの……。あのダービーで……ダービーのゴールの後で………」
かたかたと震えながら、リカは何度も息を継いで、小さくなっていく声を絞り出すようにしていた。大きな目から、涙がぽたりと落ちた。いつもなら、私は彼女を力づけようとして頬ずりしただろう。声をかけたはず。
でも、どうしてだか、私は何も出来ずただぼんやり立っていた。その続きを、聞いてはいけないような気がした。酷く恐ろしくなった。
なのに、私はリカの言葉を止めることもできず、聞かないという選択も出来ず、立っていた。
「………チュウ兵衛が………亡くなったの…………」
お願い、誰か、嘘だと言って。
ーーーけっ、初めての東京のレースなんで意識してんな、この田舎もん!
ーーーおめーさんも次は違うレースだけどよ…。せいぜい頑張りな
---まあ、確かにそうかもな。日本中探しても、それだけ早く歩く馬はそういねえかもな
---堂々と歩けよ!立派な成績じゃねーか!!
チュウ兵衛…?
---10月…京都か。まあ、行けたら行くわ
来てくれるでしょう?絶対来なさいよ…
---わ、判ったよ、行く行く
……あなたが来てくれるなら、見ててくれるなら、絶対に負けないから。見てなさいよ…?
---じゃ、もう行くわ……
…え……?
---いいレースだったぜ!
…チュウ兵衛?待って、待って、どこへ行くの?
マキバオーのダービーは?その先は?あなたがいなくてどうするの?
…待って、チュウ兵衛。待って…。
見ていてくれるんでしょう?私の秋華賞も。その先も。見ていてくれるんでしょう?チュウ兵衛!?
---じゃあな。
「アンカルジア!アンカルジア、しっかりして!!アンカルジア!!」
瞼が重い。けれど、私の首に縋りついている人の手の感触。そして、悲鳴のような声。…ああ、リカの声だわ。狂ったように私の首を撫で続けてる、小さな人の手。目を開けると、思ったよりも近くに、涙でくしゃくしゃになったリカの顔があった。
「…リカ…」
名前を呼ぶと、彼女は、一度しゃくりあげるように息を吸い込んで、それから私に抱きつくようにして、声を上げて泣き出した。その彼女の肩に私も顔を伏せるようにして、息をついた。
さっきまで、私に語りかけてくれたチュウ兵衛の声が聞こえなかった。
夢だったのかもしれない。でも、夢だなんて思いたくなかった。
きっと、彼は私に別れの挨拶に来てくれたのだと、思いたかった。
「チュウ兵衛…」
彼の名を声に出すと、堰を切ったように涙が出てきた。後から後から、溢れて止まらなくなった。リカに抱きしめられて、彼女に顔を伏せたまま、私は泣いた。どうして。どうして?チュウ兵衛。どうして行ってしまうの。こんなにあなたに残された者たちが悲しんでいるのに。
まだ一度だってあなたに、レースを取った私を見せていないのに。
まだ一度だって、あなたに、私は何も伝えてないのに。
この気持ちも、何もかも。伝えていないのに。
混乱したまま、私は泣き続けた。リカに抱きしめられたまま、子供のように泣き続けた。
まだ、あなたにサヨナラなんて、言いたくないわ…。
END