忍者ブログ
Admin*Write*Comment
うろほろぞ
[1]  [2]  [3]  [4]  [5]  [6]  [7]  [8
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

^

「灯」


女がひとり、微笑んでいた。

「火ぃ、お貸ししましょうか?お兄さん」





 花屋から少々高めの情報を買い、歓楽街である賽の河原を帰っていた時だった。
あ、と遥が小さく声を上げ、桐生を見上げた。
「おじさん、花屋のおじさんのところに『ぴよちゃん』忘れてきちゃった」
『ぴよちゃん』とはUFOキャッチャーのぬいぐるみである。黄色くて丸い愛嬌のある顔は
遥のお気に入りだ。今日もここに来る前、桐生にせがんで一つ取ってもらったのだ。
「私取ってくる。待ってて!」
素早く踵を返す彼女を、桐生は言葉少なに呼び止めた。
「大丈夫か」
「うん!」
遥は笑顔で頷き、通りをかけていった。だが、ここは決して治安のいい場所ではない。多少気にはなったが
ここから花屋のところまでたいした距離ではない。花屋も自分達を見ているだろう、心配することもないか、と
ここは待つことにした。
桐生は胸ポケットから煙草を出すと、慣れたように銜える。彼は遥が側にいる時は決して煙草を口にしない。
「遥ちゃんに煙草の煙はよくないから、近くで吸うのはやめなさい」
以前麗奈に言われ、始めたことが習慣になっていた。
彼女が来るまでに一本は吸えるだろう、ポケットを探っていた桐生が眉をひそめた。ライターがない。
「そういえば……」
街を歩いていたらその辺りのゴロツキに絡まれた。しかも、相手が多人数だったため結構な大立ち回りをやらかした。
もしかしたらあの時落としたのかもしれない。彼は小さく溜息をつくと煙草を箱に戻そうとした。
「火ぃ、お貸ししましょうか?お兄さん」
涼やかな声がした。振り向くと紅い格子の向こうに女が座っていた。着物は大きく胸元を開き、顔はよく見えなかったが、
誘うように微笑む紅い唇が艶かしかった。そういえば、ここは遊郭だったのだな。今更ながらに思った。
静かに見返す彼に、女は白く細い手で手招きした。
「もう少し、近くに」
「……ああ」
躊躇いながらも格子に近づくと、女は声を立てて笑った。
「お兄さん、なにを恐れていらっしゃる。とって食おうというわけでなし」
「すまない。いろいろあってな」
煙草を銜えなおして彼女に顔を近づける。女は格子の外に手を出し、そっとマッチを擦った。独特の匂い。
彼女は小さな灯火を消えぬように手をかざした。
「はい、どうぞ」
「すまん」
自然と、桐生も火を守ろうとする。

一瞬、手が触れた。

 驚くほど冷たい手だった。煙を吐き、格子にもたれかかると改めて女を見る。彼女は丁寧に火の消えたマッチを
煙草盆に置いた。
「いつも、見てました」
女は着物の裾を直しながら、ぽつりと告げた。そして、上目遣いに桐生を見、少し笑った。
「小さいかわいいお嬢さん連れた、見るからにカタギじゃない人が、いつもそこををわき目も振らず通り過ぎる……
 お兄さんはここの女達の噂の的よ。ご存知?」
「いや。知らなかった」
確かに、ここには花屋に用事があるときくらいしか来ることはない。遊郭の存在も今の今まで忘れていたくらいだ。
遥も一緒なら余計に目立つだろう。きまりがわるそうにニ、三回煙草をふかした。その様を彼女はおかしそうに眺める。
「あの可愛いお嬢さん、お兄さんの娘さん?」
「違う」
桐生は首を振ったが、少しの沈黙の後わずかに笑みを浮かべた。それは微笑みというにはあまりにもささやかで、
よく見ていないとわからないほどだ。
「でも、今は大切な家族だ」
「……家族」
女が呟いたとき、遠くからかけ寄る足音と元気な声がした。
「おじさん、取ってきたよ!」
声の主の手には、ひと抱えもある大きな黄色い鳥が抱かれている。走ってきたのだろう、息を弾ませ笑う少女には
それがとてもよく似合った。
「そうか。すぐわかったか?」
「うん。花屋のおじさんが持っててくれたよ。なんかね、目の前にぴよちゃん置いてにらめっこしてた。好きなのかも。
 ……お姉さん、だあれ?」
突然顔を覗き込まれ、女はひどく驚いていたが、やがて静かに微笑んで遥を見た。
「私は……ここの女。ずっとここにいる、女」
「ずっと?」
「そう、ずっと」
「お外には行かないの?」
「行けないのよ。お嬢さん」
二人の間にある紅の格子が、世界を隔絶していた。遊女は借金がなくなるまでここから出ることはない。
その借金は日ごとに増え、永遠になくなることはないだろう。よしんば借金を返し終えたとしても、この女はここを出て
どうやって生きるというのか。桐生は女の用意した煙草盆に吸いさしを押し付け、遥を促した。
「行くぞ」
「え、待ってよ~!あ、お姉さんこれあげるね!キャンディー!」
彼女の手に握らせたのは、小さな赤い飴玉。ずっとポケットにあったのか、ほんのり暖かかった。
女は遥の手を包み、そっとささやいた。
「お嬢さん。絶対こっちの世界に来てはだめよ。何があっても、あの人と一緒にね」
「お姉さん?」
「……あなたが、羨ましい。」
女は、手を離した。遥は女を振り返りつつ、桐生を追いかけ人の波に消えた。
こつん、女は格子に額をつけ、まだ煙の立つ煙草を見つめた。
「家族、か……」
女の言葉は人々のさざめきの中に沈んだ。




 数日後、桐生は遥を地上で待たせ、一人で賽の河原に来ていた。あの遊郭の前を通ると女はいなかった。
一言、二言言葉を交わしただけの遊女。普通なら気にも留めないが、この日の桐生は何故か胸騒ぎを覚えた。
「花屋、ここの遊郭の女を知ってるか」
些細な情報交換の後、ふと尋ねてみた。花屋は薄笑いを浮かべると、何もかも分かっているような顔で答える。
「女はここにはごまんといるぜ」
「そんな手には乗らん。伝説の情報屋ならこの程度のことは呼吸をするようなものだろう」
花屋は肩をすくめ、革張りの椅子に体を預けた。
「死んだよ」
桐生は眉をひそめた。花屋は用意してあったのか、机の引き出しを探ると何かを出して見せた。
 鏡、櫛、少しの紙幣、あのときのマッチ……赤い、遥のキャンディー。更に花屋は袱紗を開く。そこにあったのは、
あの時もみ消した煙草の吸殻だった。
「最近客同士のトラブルで、ある女巻き込んで騒ぎがあってな。何をトチ狂ったのか刃傷沙汰さ。
 その女の持ち物整理したら出てきたのはこれっぽっち。哀れじゃねえか、二十年かそこら生きてきた証がこれってわけさ。
 トラブル起こした客には、払うもん払わせて入場差し止め。ま、当然だわな。
 墓はねえよ。賽の河原で死ねばあの世はすぐそこ。墓標なんざ無粋なだけってね」
じっと花屋の話に耳を傾けていた桐生は、やがて口を開いた。
「そこにあるのは、どうするんだ」
花屋は手早くそれらを包むと、視線を合わせようともせず桐生に差し出した。
「捨てといてくれや」
「……わかった」
桐生はそれを手に取ると、丁寧にポケットに収めた。

 地上に戻ると、空は快晴だった。日差しはやわらかく、風が優しく頬をなでた。
「おじさーん!見て見て、お花が咲いたのよ」
遥が仲良くなったホームレス達と花に水をやっていた。綺麗に咲いているが、花の名前は知らない。
「遥、悪いんだが……」
桐生は遥に頼んで花壇に花屋から受け取ったものを埋めた。遥は何も聞かなかった。何か薄々感づいているのかも
しれない。
「お花、いっぱいになるといいね」
「そうだな」
水を汲みに行った遥を眺め、桐生は女の持っていた最後のマッチで煙草に火をつけた。
「線香がわりだ。極楽往生」

空に一筋、煙草の煙。
名も知らぬ魂よ、安らかに眠れ。

-終-

(20061128)
PR
+++

胡蝶の夢―弥生―

 色のない世界だった。いや、色がないというよりは、まるで昔の白黒映画のような世界。いつしか現れた足元の花も、本来なら
鮮やかな色で自分を楽しませるものだが、目の前のそれはひどく暗鬱な灰色に染まっていた。
 視線を落とすと、目の前の大地には亀裂が入り、底はうかがい知れぬほどに深い。落ちたらひとたまりもないと思った。ただ、亀裂の
幅はそこまで広くはなく、その気になれば飛び越せるほどだ。ただ、対岸に行く理由もない弥生は、静かにその光景を眺めていた。
「賽の河原ってやつかね」
弥生は苦笑する。しかし、賽の河原にあるべき三途の川がこんな殺風景な地割れとは、なんと芸のないものだ。
「ちょっと違うな」
ふいに対岸から声がした。その懐かしい声に顔を上げると、亀裂の先に男が俯いたまま胡坐をかいていた。男は口の端を歪めた。
「ここは、地獄の綻びさ」
ああ、間違いない。弥生は両手を握り締めた。目の前にいるのは、彼女が今なお愛し続けるただ1人の男。
「宗兵さん……」
すがるように呼ぶその名は、口に出すだけで胸が締め付けられる。宗兵は、ゆっくりと顔を上げた。
「久しぶりだなあ、お前がそんな風に呼ぶのは」
穏やかな笑み。出会ったときは、いつも彼女にその顔を見せてくれた。弥生は懐かしそうに目を細めた。
「あんたがいなくなってから、色々あったんだよ」
宗兵は片膝を立て、そこに腕を乗せた。
「みてえだな。後から来た奴らに全部聞いたよ。お前にも……苦労かけたな」
「……本当だよ。いきなり会長代行だなんて、できもしないのにやらされてさ」
困ったように首を振る弥生を、宗兵は押し殺した声で笑った。
「だが、新藤のガキには驚いたぜ。人の女房に横恋慕とはなあ、やってくれるじゃねえか」
「もう、その話はよしておくれよ。恥ずかしいじゃないのさ」
そっぽをむく弥生を眺め、宗兵は意地悪く笑った。
「どうだ?若い男に求められた気分は。まんざらでもないだろ?」
「ちょっと、からかわないでおくれ。私の気持ちはわかってるくせに……」
弥生は視線を落とし、苦笑を浮かべる。それを眺めていた宗兵は、自嘲気味に笑った。
「好き勝手してきた俺に、まだ惚れていてくれるのか?」
「……覚悟が違うよ」
呟き、弥生は顔を上げる。その顔に浮かんだ笑みは、うっとりするほど美しい。
「私はこの人についていこうと決めた時から、他の男は目に入らないんだ。あんたと違ってね」
「違いねえ」
宗兵は声を上げて笑う。そして、名残惜しそうに彼女を見つめた。
「時間だ、地獄の業火に焼かれてくらあ」
ゆっくりと立ち上がる宗兵に、弥生は声の限り叫んだ。
「これは夢なのかい?!いえ、夢でもいい、あんたにもういちど触れられるなら!お願いだよ、あんたの傍に行かせておくれ!」
なりふり構わず足を踏み出そうとする弥生を、宗兵は止めた。
「やめておけ。お前はここに来るべき女じゃねえ」
「嫌!もう、あんたが目の前からいなくなるのは、耐えられないんだよ!私も、疲れたよ。たとえそこが地獄でも、あんたの傍に
 いたいんだ!連れて行っておくれよ!」
宗兵は困ったように彼女を眺め、目を細めた。
「お前は、まだやることがあるだろう?大吾もまだまだ半人前だ。お前がついててやらなくてどうすんだ」
「でも……!」
弥生は悲壮な声を上げる。ああ、なんてあのひとは遠いのだろう。さっきまでは彼岸までわずかな距離だと思っていたのに、今の彼は
遠く、遥か彼方に見える。宗兵は彼女に背を向けた。
「大吾を頼む。あと……遥だったかな、あのお嬢にも詫びといてくれや。なんなら、玩具代わりに俺の息子もくれてやるってな」
「あなた……宗兵さん!待って!」
目の前がだんだんと暗くなる。どんなに手を伸ばしても、弥生はなにも掴めなかった。ただねっとりと絡みつく闇の中で、彼女は
宗兵の名を呼び続けた。
「弥生さん、弥生さん」
漆黒の闇の中で、あどけない声が聞こえた。その声に、弥生は聞き覚えがあった。辺りを見回すが、その姿は見えない。
「ここだよ、弥生さん」
ふと、弥生の頬に手のひらの感触。促されるままに視線を動かすと、そこには見たことのない女性が立っていた。長い黒髪で、背は
自分よりもわずかに高い。思わず見とれてしまうほど端麗な顔には、素直な笑顔が浮かんでいる。
「遥……ちゃん?」
何故か自然に名前が口から零れた。目の前の女性は普段の遥とは年齢が全く違う。だが、弥生には間違いなく遥だと思ったのだ。
『遥』は小さく笑った、
「そうだよ、遥だよ。なんで弥生さんはこんなところにいるの?」
「あの人がね、逝ってしまったんだよ。だから、追いかけなくちゃ……」
歩を進めようとする弥生の手を握り、『遥』は悲しそうに声を上げた。
「行ったら駄目、弥生さんがいなくなったら、みんな泣いちゃうもん」
「お願いだよ、行かせておくれ」
しかし、彼女は首を横に振る。そして、弥生の手をそっと引いた。
「みんな、待ってるよ」
視線を動かした瞬間、辺りがにわかに明るくなった。そのあまりのまぶしさに弥生が目を覆うと、『遥』の笑い声が響いた。
「ね、弥生さん。私、六代目の姐さんになっていい?」
「……え?」
驚いたように弥生が目を見開く。その正面には『遥』が自分と同じように紫の着物に身を包んで立っていた。ご丁寧に右手には弥生
愛用の日本刀まで携えて。弥生は慌てた。
「は、遥ちゃん。その格好どうしたの?!ああ、それより姐さんになるって……だ、大吾はなんて言ってるの!」
『遥』は、幼い頃と変わらない無邪気な笑顔を浮かべる。やがて暗闇は見慣れた東城会本部に景色を変えた。思わず辺りを見回した
弥生に、大吾の声がした。
「お袋」
弥生は驚いたように声を追って視線を向ける。そこでは大吾が『遥』と並んで立っていた。
「俺、こいつと結婚するから」
誰と、何を?彼女は半ばパニックになりながら大吾に詰め寄った。
「え、ええ?!ちょ……大吾!あんた遥とは20も離れてるんだよ!桐生だってこんなこと許すはずないよ!」
「姐さん、いいんです。遥が幸せなら……」
振り向くと、桐生が痛々しいほどに落ち込んだ様子で俯いている。遥は嬉しそうに大吾に抱きついた。
「結婚式は教会がいいな!ハワイで!」
ハワイで結婚式……こんなにこの子は俗っぽい子だったかね……弥生はそこまで考えて、慌てて首を振った
「教会なんて、とんでもない!六代目の式ともなれば……!じゃない、遥ちゃん!早まっちゃ駄目!極道の妻なんてやめなさい!」
「いいじゃないですか、姐さん。これで東城会も安泰ですよ」
横では微笑ましそうに柏木が笑っている。彼女は彼に詰め寄った。
「何言ってんだい!遥ちゃんは普通に女としての幸せを掴まないと……!」
「……しかし、もう時間です」
呟き、柏木は弥生の背後に視線を向ける。やがて聞こえる鐘の音に、彼女は慌てて振り向いた。
「お袋、俺達幸せになるよ」
「弥生さん。私、大吾お兄ちゃんに一生添い遂げます!」
目の前に繰り広げられているのは、ひどく陳腐な結婚式のイメージ。青い空の下、白い衣装に身を包んだ二人は、手に手を取り合って
いつの間にか現れた真っ白な教会の前で手を振っている。沿道では黒服の男達が歓声をあげて米を投げ、桐生といえば、ひたすら
号泣していて話にならない。弥生は力が抜けたようにその場にへたりこみ、大きく首を振った。
「せめてハワイは……やめてほしかった……」

「姐さん?姐さん!」
車の中で、組員が弥生を呼んだ。しかし、彼女は首を振ってうわごとのように声を上げる。
「……だ、だめだよ……二人とも歳が違いすぎるじゃないか……」
運転席と助手席に座った男は、不可解な顔で首を傾げる。弥生の横に座っていた構成員は、彼女の肩を掴んで揺り動かした。
「代行、着きました。起きてください!」
その瞬間、弥生は目を覚ます。どうやら、送迎の車の中で眠ってしまったらしい。ふと気付くと、車内にラジオがかかっていた。
そこからは番組のテーマである「ジューンブライド」に対する投稿を、DJが楽しそうに読み上げていた。その内容も、ハワイの教会が
どうの、幸せになるがどうのと華やかなことこの上ない。弥生は大きく溜息をついた。
「すまないね、ついうとうとしてしまって……なにか私……変な事言ったかい?」
構成員達は顔を見合わせ、恐る恐る声を上げた。
「その……歳が違うとかなんとか……あとは特に」
「そうかい、すぐに忘れておくれ」
車は本部の前で停まっていた。弥生は自らドアを開けて車を降りると、ぼんやりしたように建物へと向かった。
ふと、宗兵の顔を思い出す。夢に出てくるなんて、彼が死んでから初めてだった。ああやって彼と言葉を交わすことで、自分自身との
心の整理をつけているのだろうか。苦笑した時、ふと彼の言葉を思い出した。
『玩具代わりに俺の息子もくれてやるってな』
「……あれは、どういう意味なのかねえ」
思い詰めたように弥生は呟く。ふと、ホールから賑やかな声がした。顔を上げると、そこには遥と大吾が相変わらずじゃれあうように
追いかけあっている。
「あんたたちねえ……」
呆れたように声をかけようとした瞬間、おもむろに大吾が遥を抱き上げる。目を丸くしている弥生の前で、彼は怒鳴った。
「やっと捕まえたぞ、てめえ、もう逃がさねえからな!」
弥生はその場で立ち尽くす。遥は大吾を見下ろして声を上げて笑った。
「助けて~一生お兄ちゃんに囲われちゃう~」
「おい、人聞きの悪い事言うなよ!」
夢の続きでも見ているような気分がする。弥生は複雑な表情で頭を抱えていたが、いきなり怒鳴りつけた。
「あんたたち!なにやってんだい!」
「あ、お袋」
「弥生さん」
二人は、そのままの体勢でぽかんとして彼女を眺める。弥生は足早に二人に歩み寄ると、凄みのある顔で二人を見据えた。
「大吾、いい大人が小さい子となにいちゃいちゃしてるんだい……」
「い、いちゃいちゃ?!変な事言うなよよ!」
抗議する大吾を睨みつけ、弥生は怒鳴りつけた。
「うるさいっ!遥ちゃんも安易に極道の男に近付いちゃ駄目!」
「……だって大吾お兄ちゃんだし」
神妙な顔ではあるが、自分の主張を口にする遥に、いいから!と弥生は叫び、両手の拳を何度も振った。
「そりゃあ、あんた達がそれでいいなら、私としては願ったり叶ったりだけどね……ああ、もう、そうじゃない。と、とにかく私は……
 その……ハワイだけは許さないからね!」
「……ハワイ?」
二人は訳が分からないという風に声を上げる。弥生は疲れたように踵を返した。
「……教会だって、冗談じゃないったら……!」
ぶつぶつと呟きつつ彼女は階段を上がって行ってしまう。大吾と遥は首をかしげながら顔を見合わせた。
「海外旅行の話かな?」
「でも、俺達別に行きたいとか行ってねえけど」
二人は困惑したまま、弥生の歩いていった先を見つめていた。
夢は夢。しかし夢は時として願望。果たしてその願い、成就するか否か。弥生の苦労はまだまだ続きそうである。

++

胡蝶の夢 ―大吾―

――ああ、またあの夢だ。

大吾は思う。目の前には、堂島組の組長室が広がっている。目の前に座るのは、父である宗兵。彼は大吾を見上げ、上機嫌で何事か
話している。恐らく、自分の昔の栄光を語って聞かせているのだろう。幼い頃はその英雄譚のような話にいちいち感心し、尊敬の念を
抱いたものだが、今となっては聞く気もうせた。死してなお息子に自慢をしたいのか、大吾は苦笑した、
 自分が極道の世界に入ると決めたことを、宗兵はひどく喜んだ。しかし、あれだけ息子を溺愛していたにも拘らず、極道の修行は
厳しいものだった。まず、組長の息子という甘えは捨てさせ、他の新入りと同じように見習いから始めさせた。それが終われば幹部の
護衛、更には自らシノギを見つけさせ、ノルマを達成させる。それができない時は兄貴分である桐生から、嫌と言うほど殴られた。
おかげで、一人前の極道に少しは近づけたかと思った頃、あの忌まわしい事件が起こった。
 ふいに、大吾の周囲の景色が変わる。これもいつもの夢通りだ。時間は夜、目の前には、東堂ビルがそびえ立っている。天候は
雨、雷鳴も聞こえていた。それもすべてあの夜と同じ。大吾はあの日、この事務所にはいなかった。事件も目の当たりにはしていない。
しかし、こうやって夢にその情景が生々しく構築されるのは、それだけ宗兵が起こした事は、想像するに難くないということなのだろう。
 ふいに車が前に停まる。そこから出てきたのは宗兵。そして彼の手で引きずり出されたのは、顔も見えぬ女。長い髪の、線の細い
女だった。桐生といる際、何度かその女と顔を合わせたことがある。しかし、顔が夢の中ではっきりしないのは、それを覚えていない
証拠だ。
 宗兵達を追って事務所に入る。暗い部屋の中、宗兵は獣と化していた。床に組み敷かれた女は、涙ながらに何かを訴え、悲鳴を
上げた。大吾は拳を握り締める。あまりにも野蛮で愚劣な行為に彼は眉をひそめた。
「なにしてんだよ……てめえ」
しかし、宗兵には届かない。これは夢で、ここには自分はいなかった。そして、もう終わった出来事だ。しかし、叫ばずにはいられない。
これがかつて東城会にこの人ありと言われた男の姿だというのか。
「お前が……お前がそんな事をしたから、全部狂っちまったんだ!桐生さんもムショには入らなかったし、錦山さんだってもっと違う道
 歩いてたはずだ!この女だって……遥をあんな形で産むこともなかったんだ……!」
ふいに、視界が揺らいだ。同時に、眩暈に似た感覚に襲われ、彼はかたく目を閉じる。そして、再び目を開けたときには、周囲は
一変していた。見慣れた東城会の会長室、その中央で彼は立ち尽くしていた。
「夢にまで見るか?普通……」
大吾は苦笑する。その時、背後に気配を感じた彼は驚いたように振り向いた。そこにいたのは、19、20歳くらいの女性だった。
「お前……?」
大吾はそう言ったまま黙りこくった。女は黙ったまま、ひどく怯えたように自分を見つめてくる。長い黒髪に、華奢な体つきの彼女は
今までの夢には出てこなかった。それに、顔もはっきりしているのも不思議だ。一度も会った事がないのに、どうしてこんなにも
親近感がわくのだろう。まるでいつも身近にいるかのような、そんな感覚。
 改めて彼女の顔を見る。単純に、綺麗な女だと思う。しかし、その顔立ちにどこか見覚えがあるのは何故だ。どれだけ考えても
今まで大吾が出会った中には、こういう女性はいない。
 まてよ、と大吾は思う。そこまでして思い出せないのは、『まだ、その顔を見たことがない』のだとしたら?今近くにいるのは幼いだけで
『成長してないだけ』だとしたら?大吾の中で何かが符合した。確かに、『彼女』が成長したらこんな感じなのかもしれない。
彼は思い切ったように頭に浮かんだ人物の名を呼んだ。
「遥……か?」
その女性は驚き、大吾を見つめ返した。そして、戸惑いがちに声を上げた。
「大吾お兄ちゃん――わかるの?」
その呼び方、やはり遥だ。自分の勘も捨てたもんじゃないな、彼は笑った。
「まんまだろ。これで気付かねえ奴がいるのか?」
遥は、心から安堵したような表情でかけてくる。そして止める間もなく背を伸ばし、彼の首に手を回して抱きついてきた。
「お、おい遥」
思わぬ行動に、大吾はうろたえた。成長した姿のせいか、こういう状況は非常にまずい――気がする。いや、かなりまずい。
しかし、遥は彼から離れず、嬉しそうに声を上げた。
「そうだよ、遥だよ。お母さんじゃない……遥だよ……」
お母さん?大吾は疑問に思う。お母さんというのは、遥の母のことだろうか。わけがわからずにいたが、やけに遥が嬉しそうだったので
大吾は追求せずにいた。どうせ夢は矛盾だらけなものだ。彼は彼女の背に腕を回した。
「ああ、遥だ」
しかし、夢とはいえこの内容は実際どんなものかと思う。現実の遥は小さくて、ともすれば親子ほども歳が違うのに、成長しているからと
いってさすがにこれはないだろう。桐生さんが見たら、拳じゃ済まないかも知れない。まあ、夢だから見られることもないのだが。
しかし、こうなってくると自分の深層心理も疑ってしまう。一体何がしたいんだ、俺は。困ったように大吾は宙を見つめた。
「なんか、急に大きくなっちゃった」
ふいに遥は呟く。急に大きく?そいつはすごいな。大吾は苦笑した。
「成長期も真っ青だな」
遥は笑い、彼の顔を覗きこんだ。
「ね、私、大きくなったよ。どう思う?」
「はあ?」
大吾はひどく動揺する。目の前の遥は、現実の小さい遥と違って、もう立派に女だ。思うところは数々あるが、それをどう表現しても
倫理上危険なことには変わりない。逡巡する大吾を、遥は不安そうに見上げた。その目には、弱い。大吾は苦笑を浮かべた。
「――――だ」
その瞬間、大吾は目を覚ました。そしてすぐに飛び起きた。気がつくと、なんか嫌な汗をかいている。彼は大きく息を吐いた。
「おいおい……もう少しで妙な事口走るとこだったぞ……」
危なかった、彼は胸をなでおろす。携帯を見ると、起きる時間には少し早かった。しかし、目が覚めてしまったのと、これでもう一度寝て
同じ夢を見ないとも限らない。大吾は部屋を出た。
「あ、大吾お兄ちゃん。おはよー!」
元気な遥の挨拶に、大吾は一瞬身を引いた。
「遥!あ、ああ……おはよ」
いかん、あの夢のせいか、遥の顔をまともに見られない。彼は会話もそこそこに洗面所に向かった。
「あら、大吾。早いねえ」
廊下で弥生とすれ違う、大吾は生返事を返した。
「……ああ」
「ちょっと、大吾?目が覚めてないのかい?シャンとおし!」
「目は覚めてるって……」
大吾は肩を落とす。あんな夢を見た事実も、その夢に引きずられている自分も心底情けない。そんなに女に餓えてるのか俺は……
彼は首を傾げる弥生を後に、廊下を歩いていった。
 しかし、洗面を済ませ、着替えも済ませる頃には大吾はすっかり立ち直っていた。いくらリアルな夢でも、夢は夢だ。考えていても
しょうがない。気を取り直して、彼は朝食の席につこうとした。その瞬間、遥の口がわずかに開いた。
「私、大きくなったよ……」
大吾の頭の中が真っ白になる。さっき、遥は何て言った?視線を上げると、彼女は複雑な表情で大吾を見上げていた。その瞬間、
あの夢での彼女が生々しく思い出される。あの夢は……本当に夢だった……?考えれば考えるほど怖い想像が膨らみ、彼は首を振った。
「……俺、もう本部行く」
踵を返し、大吾は部屋を出て行く。後から弥生から何事か声をかけられたが、彼の耳にはもう入っていなかった。なんであの言葉を
遥が口に出せる?あの遥は遥でなくて、でも遥で……彼は髪をかきむしった。
「あああああ!なんだよちくしょう!わけわかんねええええ!」
怒鳴りつつ、大吾は玄関を出た。早めに到着していた運転手の組員は、その声に驚いたように姿勢を正す。朝だというのに、大吾は
疲れたように溜息をつくと、車に乗り込んだ。
――初夏の夢は、時々混線するらしい。

+

胡蝶の夢 ―遥―

――どこだろう、ここ。

遥は辺りを見回した。自分の周囲はまるで深い霧に覆われているように白く、ほんの少し先さえも窺い知ることはできない。
置かれている状況がわからないと、まず自分の方に関心が向くものだ。遥は今自分がどんな姿でいるのか視線を動かした。
こんなに深い霧の中にいるのに、自分の姿は目の届く範囲でしっかりと確認できる。しかし、彼女は何か違和感を感じた。
「私の手、こんなに大きかったっけ……」
目の前に自分の手をかざす。それはいつも見ている自分の手ではない。最後に見た自分の手よりも幾分肉付きも落ち、指はすんなりと
長い。まるでかつて見た母の手のようだと思った。
 そこから遥は手から腕、そして体に視線を向ける。おかしい、確かに自分は同級生の中でも背が高い方ではあったが、こんなに腕や
足が長かったわけではない。そして、視界。自分のつま先はこんなに自分の目から遠かっただろうか。
その瞬間、彼女の周囲の霧が晴れる。見渡すと、そこは彼女にとって見慣れた景色だ。
「神室町?」
足を踏み出す。相変わらず、雑然とした町並み。人々はそれぞれに行き交い、彼女の横を通り過ぎた。
そのまま目的もないまま歩を進める。というより、何故か頭の中で歩かなければと思ったのだ。やがて彼女はセレナのあるビルの
前まで来た。どうしたらいいか分からないのなら、知ってる人を探さなければ。遥はセレナへと向かった。
「あら、『由美』。早いのね」
店に入るなり、麗奈が遥を出迎えた。しかし『由美』?遥は首をかしげた。
「麗奈さん、違います。私は遥、遥だよ」
麗奈は驚いたように彼女を見つめ、小さく笑って肩を竦めた。
「どうしちゃったの?ははあ、あんまり早起きしたから寝ぼけてるのね。そんなことじゃ、二人に笑われるわよ」
「二人?」
遥は訳が分からないという風に問い返す。麗奈は心配そうに覗き込んだ。
「ちょっと、しっかりしてよ。あなたたち、親友なんでしょ?忘れたなんて言ったら、二人とも怒るわよ~」
その時、エレベーターの止まる音がした。ほら、噂をしたら……麗奈はそう言って笑った。
――二人、二人って誰の事だろう。由美って、お母さんのこと?なんで?私は遥なのに、どうして気づいてくれないの?
困ったように遥が立ち尽くしていると、店の扉から男が二人入ってきた。彼らを遥はよく知っていた。
二人のうち1人は、遥にとっては何よりも大切で、かけがえのない男だ。彼の顔をみた安堵からか、遥は思わず駆け寄った。
「桐生のおじさん!」
「……『由美』?」
その男はまぎれもない桐生なのに、彼は驚いたように遥を見つめた。横にいた錦山は苦笑を浮かべる。
「どうしたんだよ『由美』急に桐生をオヤジ呼ばわりか?」
桐生もまいったな、と小さく笑い、肩を竦めた。
「これでも若いつもりなんだがなあ、結構傷つくぞ、『由美』」
「ち、違うよ。何言ってるの?おじさん、私だよ。遥だよ!」
その様子を見ていた麗奈は困ったように笑った。
「さっきからその調子なの。自分は遥だって。この子、源氏名でもつけるつもりなのかしらねえ」
「まあ、悪い名前じゃないけどな」
錦山は遥に微笑んでみせる。彼女は首を振った。
「違う、違うよ!私は遥なんだから!由美は私のお母さんなんだから!なんでわかってくれないの?おじさん、ずっと一緒にいたでしょ?
 私のことを忘れちゃったの?!」
「『由美』、どうしたんだ。少し落ち着け」
桐生は遥の両肩を掴む。遥はそこで初めて気付いた。なんで、桐生の顔がこんなにも近いのだろう。
「私……」
遥は視線を動かす。壁にかけられた絵のカバーガラスに、自分の顔が映った。その顔は、どこかで見たことがある。
「お母さん?」
まだ顔も変えていない頃の、写真で見た由美がそこにいた。私は、遥?それとも、由美――?
「おい『由美』、一体どうし……」
「嫌!」
遥は思わず桐生の手を振り払う。驚愕に満ちた彼を残し、遥は店を飛び出した。
――おじさん、おじさんは私のことがわからないの?なんでお母さんの名前で呼ぶの?でも、あの顔はお母さんだった。
   それじゃあ、私は一体誰?誰なの?
 気がつくと、周囲は神室町とは違っていた。真直ぐに伸びる石畳。白い砂。その奥に佇む巨大な建築物。そこも、彼女には見慣れた
場所、東城会本部だった。
 ふらふらと、遥は建物の中に入っていく。人気のないホールの両脇には階段。ふと、そこから降りてくる男性がいる。彼のことも遥は
よく知っている。すがるような思いで、遥は彼に駆け寄った。
「柏木のおじさん!」
柏木はふと顔を上げたが、いつもの笑みもなく遥を訝しげに見つめた。
「……君は?ああ、そういえばセレナで見たな。確か――『由美』さんだったかな?」
遥は言葉を失う。また、『由美』?立ち尽くす彼女に、柏木は苦笑を浮かべた。
「ここは君の来るところではないよ。神室町に帰った方がいい」
「私は……私は『由美』じゃない!」
叫び、遥は夢中で走った。自分が自分であると言う証明ができない。誰も『遥』を知らない。
 もしかして、私は本当は由美で、遥は自分で作り上げた子供ではないだろうか?にわかに背筋が冷たくなる。それでは、自分が
自分を『遥』だと思っている意識も妄想?今まであった全ての事も、全部由美の想像だったら?
「誰か、助けて……」
搾り出すような声で呟き、遥は目の前の扉を開いた。目の前には、見慣れた背中の男。彼は物音に気付いたのか、ゆっくりと振り返った。
「お前……?」
怪訝な顔をするのは、大吾。彼はそれきり何も言わず、彼女を見つめている。もしかして、また由美と呼ばれるのだろうか。遥は
怯えたように立ち尽くした。
 長い沈黙が彼女を追い詰める。今ここで遥だと主張したとしても、今の自分は母の顔をしている大人の女だ。これが遥だとわかる
人間がいるはずがない。一番近くにいた桐生さえ自分に気付いてくれなかったのだ。大吾だって同じだろう。絶望的な状況に、遥は
思い詰めたように視線を落とす。その時、大吾は戸惑いがちに声を上げた。
「遥……か?」
思わず遥は顔を上げる。大吾は突然現れた彼女を目の前にして、困惑の表情を浮かべている。遥は震える声で告げた。
「大吾お兄ちゃん――わかるの?」
その返答で、本人だと確信したのだろう。大吾は苦笑を浮かべた。
「まんまだろ。これで気付かねえ奴がいるのか?」
彼の言葉が終わるのを待たず、遥は大吾にむかって走り出す。そして、彼の首に腕を回して抱きついた。
「お、おい。遥!」
「そうだよ、遥だよ。お母さんじゃない……遥だよ……」
大吾はしばらく両手を上げて困っている様子だったが、やがて彼女の背にぎこちなく腕を回した。
「ああ、遥だ」
彼女は少し身を離し、大吾を見上げる。その顔は、いつもよりもずっと近い。彼女は少し照れたように笑った。
「なんか、急に大きくなっちゃった」
「成長期も真っ青だな」
苦笑を浮かべ、彼は肩を竦める。遥はそんな彼を覗き込んだ。
「ね、私、大きくなったよ。どう思う?」
「はあ?」
ひどく驚いたように大吾は声をあげ、彼女を見つめる。彼は長い沈黙の後、そっと笑みを浮かべた。
「――――だ」
「え?なに?」
言葉が聞き取れず、遥は聞き返す。しかし、急に周囲の景色があやふやになったかと思うと、突然遠くからアラーム音が聞こえてきた。
「……あれ……」
目を覚ますと、そこはベッドの上だった。その部屋の様子から、そういえば堂島家に世話になっているのだと気付く。相変わらず
耳元に置いた携帯が、目覚まし代わりにアラームを鳴らしている。遥はそれを止め、辺りを見回した。
「夢……?でも、どんな夢だったっけ……」
夢の中の出来事は、起きてしまえばすぐに消えてしまう。それを何とか思い出そうとしながら遥は身支度を整え、部屋を出た。
洗面を済ませ、朝食の準備をしていると珍しく大吾が起きてくる。遥は驚いたように振り返った。
「あ、大吾お兄ちゃん。おはよー!」
遥の声に、大吾は異常なほど驚いてわずかに後ずさった。
「遥!あ、ああ……おはよ」
「……どうしたの?」
怪訝な顔で歩み寄る遥に、大吾は首を振った。
「い、いや、何でもない。何でも!あ、そうだ。俺、先に顔洗ってくる!」
足早に出て行く大吾を見送り、遥は首を傾げる。そういえば、夢には大吾がいたような……?改めて思い出そうとしても夢の内容は
さっぱりわからない。そのうち目の前で魚がわずかに焦げる。遥は小さく悲鳴をあげ、慌てて魚をひっくり返した。
「おはよう、遥ちゃん。いつも早いねえ」
やがて支度も済んだ頃、弥生がやってきて遥に微笑む。遥は頭を下げた。
「おはようございます。あ、ごはんできてますよ。どうぞ」
「それじゃ、お茶は入れてあげるから遥ちゃんもいらっしゃい。もうすぐあれも来るでしょ」
あれとは大吾のことだろう。遥はエプロンを外し、頷いた。朝食の席に着くと、ふと弥生が溜息をついた。
「さっき大吾に会ったんだけどねえ、なんかおかしいんだよ。ぼんやりしてるって言うか、落ち込んでるって言うか……」
「私と会った時も、なんかおかしかったですよ、お兄ちゃん」
遥が頷くのを見て、やっぱり?と弥生は呆れた、
「なんか、夢見でも悪かったのかね。おかしな子だよ、まったく……」
夢。遥はそれで思い出したように思考をめぐらせる。しばらくして大吾が浮かない表情でやってきた。朝食の席につく彼を見て
遥はぽつりと呟いた。
「私、大きくなったよ……」
ふと頭に浮かんだ言葉をそのまま口に出してしまった。それを聞いた瞬間、目の前に座ろうとした大吾は、思わず固まる。
「……俺、もう本部行く」
そのまま立ち上がると、彼は部屋を後にしようとする。弥生は驚いたように声をかけた。
「大吾?あんた朝食は?!」
「い、いい!いらねえ!」
逃げるように去っていく大吾を見送り、二人は顔を見合わせ首をかしげた。そのうち、遠くで彼の怒声のようなものも聞こえてくる。
何がなんだかわからぬ遥は、心配そうに口を開いた。
「やっぱり、大吾お兄ちゃんおかしいです……」
「もう、あんな馬鹿放っておきなさいな」
遥は頷くと、夢の事を思い出すのをやめた。あやふやな夢より、現実の方が彼女にしてみれば大事だ。今日もいい天気で、やることも
いっぱいある。忙しい一日なりそう、遥は再び食事を始めた。

---------


CALLIN’

『もしもし』
東城会幹部衆の親睦会の帰り、突然大吾の携帯にがかかってきた。その電話の相手は、前に会った時より実に一ヶ月ぶりでは
あったが、特に畏まるわけでもなく楽しそうな声を上げた。大吾はネクタイを緩め、後ろに流れる車窓の景色を眺めた。
「遥か。何か用か」
電話の向こうの少女は小さく笑い声を上げた。
『別にないよ。大吾お兄ちゃん何してるかなって思って』
「用もないのに、かけんなよな。桐生さんは?」
『おじさんは、薫さんと電話してる』
そうか、と大吾は少し長くなった前髪をかきあげた。遥は再び問いかける。
『ね、お兄ちゃんは今なにしてるの?』
「車で帰ってる」
『車?どこか行ってたんだ』
「まあな。幹部連中と飲み会だ」
遥は一瞬沈黙し、次に心配そうに声を上げた。
『えー、飲みすぎてない?大丈夫?』
どうやら、大吾が前に飲みすぎた時の事を根に持っているらしい。彼は肩で携帯を挟み、袖のボタンを外した。
「仕事で飲みすぎるか、ばーか」
『そっかあ。あ、そうだ。幹部の人がいたなら柏木のおじさんもいた?』
柏木さん?大吾は怪訝な顔で答える。
「まあ、いたけど……なんだよ」
『柏木のおじさん、元気?』
なんで今そんなこと聞くんだ。彼は素っ気無く答える。
「何で俺に聞くんだよ、自分で聞け」
『えー、聞きたいけど、柏木さんの携帯番号知らないもん。今度会った時教えてもらおうかな』
真剣な遥の様子からして、冗談ではなさそうな口ぶりだ。大吾はぽつりと告げた。
「……元気だったぞ」
『え?』
「柏木さん」
『あ、そうなんだ。よかった!このところ本部にも行ってないから、皆さんどうしてるかなって思ってたんだ』
スケジュールが合わないためか、今月は桐生も狭山に会ったりする事はなかったらしい。そのため、堂島家にも遥は訪れる事は
なく、当然本部にも顔を出す事もない。いつも半月に一度くらいのペースで堂島家に来ていたのが、今回一月もあいたことで
弥生はひどく寂しそうだった。丁度いいから聞いてやるか、大吾は問いかけた。
「お前、今度いつ来るんだよ」
『え?』
驚いたように遥は声を上げる。同時に、ガラスの触れ合うような高い音が響いた。どうやら遥は氷の入ったジュースでも飲みながら
話をしているらしい。彼女はうーん、と言いつつ足音をたて始めた。どうやらどこかに移動しているらしい。
やがて紙をめくる音――おそらくカレンダーだろう――が聞こえる。そしてまたうーん、と言いながらどこかに歩き始めた。
大吾は煙草に火をつけながら告げた。
「おい、わからなきゃいいんだぞ」
遥はくすくす笑い、どこかの扉を開けた。
『ううん、いいんだ。私、お兄ちゃんに会いたいもん』
大吾は言葉を詰まらせ、やがて苦笑を浮かべる。はたから聞けば、これはまるで恋人同士の会話だと思った。
『どうした、遥』
電話の向こうで聞き覚えのある声がする。桐生だ。ということは、桐生のところまで聞きにきたのか、大吾は慌てた。
「お、おい遥!桐生さんには聞かなくていい……!」
しかし、時すでに遅し。遥は彼の声が聞こえていないらしく、桐生に告げた。
『電話中ごめんなさい。今度おじさんいつ薫さんと会う?』
『え?なんでそんなことを?』
桐生の声は訝しげだ。彼は遥が電話中だということに気付いていないらしい。頼むから、いらない事を言ってくれるなよ。大吾は
祈るような思いで煙草をふかした。遥は少し沈黙し、やがて無邪気に答えた。
『大吾お兄ちゃんに、会いたいから!』
「……言いやがった……」
がっくりうなだれ、彼は頭を抱える。助手席の護衛が心配そうに声をかけてきた。
「大丈夫ですか?何か……」
「あ、ああ。大丈夫だ。厳密に言えば大丈夫じゃないが、気にするな」
「はあ……」
男はその尋常ではない様子に、バックミラーで大吾を窺うように見ている。大吾が電話の向こうに意識を集中すると、それから
しばらく沈黙していた桐生が声を上げた。
『そんなに、大吾に会いたいのか』
不機嫌だ、非常に桐生は不機嫌だ。彼は背筋を寒くする。しかし、遥はそれを気にもしていないように明るく答える。
『うん!会いたい!』
「も、もう、それ以上言うな、遥!」
おそらく携帯は耳から離しているのだろう、叫んでも、彼の声は届かない。やがて、桐生の声が近付いてきた。
『遥、大吾は今一番忙しいんだ。邪魔したら駄目だ』
必死に諭してるよ、桐生さん……大吾は溜息混じりに煙を吐く。遥はえー、と不満を口に出した。
『邪魔してないよ。ちょっとお話したりするだけだよ』
『でもな、迷惑かもしれないだろ』
『そんなことないもん、だって……』
嫌な予感がする。大吾は俯いていた顔を上げた。遥は携帯を振っているらしい、時折ストラップのあたる音がした。
『お兄ちゃんにさっき、今度いつ来るんだって聞かれたもん。お兄ちゃんだって私に会いたいよ!』
「わあああああああ!誤解だ!誤解!こらー!人の話をちゃんと聞けー!」
突然叫んだ大吾に驚き、護衛はさすがに振り返る。しかし、彼にはそれに構っている余裕はない。
長い沈黙の後、貸せ、と桐生が声を低めて告げる。大吾は息を呑んだ。やがて聞こえてきた桐生の声は、往年の彼を髣髴とさせる
ような迫力のあるものだった。
『仲のいいことだな、大吾』
「桐生さん、誤解だ」
『誤解か。お前はこの前もそんなこと言ってたな、こんな時間に遥と連絡をとって、一体どうするつもりだったんだ?』
「いや、俺がかけたわけじゃないって!それに、あれはただ、お袋が遥に会いたがってたからだな……」
『言い訳が上手くなったじゃないか、大吾』
『おじさん、携帯返してよー!』
遠くで遥がせがむ声が聞こえる。桐生はそれに答えず、続けた。
『素直に言えば、許してやる。お前は俺に黙って遥に会おうとしてたんじゃねえのか?』
「なんでそうなるんだよ!違うって!さっき言ったとおり、お袋が遥に会いたそうだったから聞いただけだ!」
『本当だろうな』
「頼むよ、桐生さん。変な誤解はよしてくれ。俺を犯罪者にする気かよ!」
それもそうだな、と桐生は渋々ではあるが納得したようだ。携帯を遥に返したらしい、彼女の声が近くなった。
『ねえ、おじさん。いつ薫さんと会うの?』
正直、もう聞かないでくれと大吾は思う。桐生はしばらく沈黙していたが、やがて重い口を開いた。
『再来週だ』
『わかった、ありがとう!』
扉の閉まる音がして、遥の足音がする。よいしょ、とかけ声がしたので、恐らくもといた場所に戻ったのだろう。
『再来週だって』
弾むような声が聞こえてくる。大吾は疲れたように溜息をついた。
「聞こえたって……」
そう、と遥は嬉しそうな声を上げた。
『会えるの、楽しみだね!』
ここは、ちゃんと言っておかなければ。後でどんな会話が展開されるか分からない。大吾は叫んだ。
「会いたがってるのはお袋だ!いいな、お袋がお前に会いたがってんだ!それだけ覚えとけ!」
『あれ、そうなの?』
遥のきょとんとした声がする。大吾は舌打ちした。
「そうだよ」
『それじゃ、大吾お兄ちゃんは、私に会いたくない?』
よりにもよって、今聞くのか、それを。彼は苛立たしげに煙草を揉み消し、わざとらしく声を上げた。
「ああ、もう本部に着いたから切るぞ!」
本当は、まだ本部に着くまで時間がある。しかし、それを知らない遥は不満そうに声を上げた。
『えー、答えてよー!』
「うるさい、そんなこと聞きたいなら、直接聞け!」
一方的にまくしたて、大吾は電話を切った。どうやら、窮地は乗り越えた……ような気がする。と、同時に、勢いとはいえ遥に対して
かわいそうなことをしたような気にもなる。携帯を見つめていると、やがてメールが届いた。差出人は遥。

『そうする』

短い文面。大吾はそれに返信することなく携帯をポケットに収めた。さて、次会うときまで彼女は今日の事を覚えているだろうか。
「頼むから、忘れてろよ……」
祈るような声で呟き、大吾は窓の外を眺めた。車は大通りから離れ、閑静な住宅街へ。あと15分もすれば本部に到着するだろう。

  • ABOUT
うろほらぞ
Copyright © うろほろぞ All Rights Reserved.*Powered by NinjaBlog
Graphics By R-C free web graphics*material by 工房たま素材館*Template by Kaie
忍者ブログ [PR]