同じ時代に生きてたことがあるって言うのが、そんなに特別なことかい?
彼自身も抵抗できない強引な力で時間を飛び越えてアクセルが戻ってきた。
ソルはベットで体を起こしてからしばらく、ぼんやり自分の腕を見下ろしていた。ここしばらく獲物という獲物にありついていない。懐のわびしさ以前に喉が乾く感覚が日増しに強くなり、頭の芯が熱くなってくる禁断症状、ギアを切り刻む自分を確かめたいという焦燥感が、ソルを内側から侵食していた。
初めのうちは単に気に入らないと舌打ちする程度の苛立ちだったのが、真綿で首をしめるようにゆっくりと確実に魂を削っていく。ある日、食事が喉を通らなくなる。ある日、酒が飲めなくなる。ある日、ふと通行人を食い殺したくなる。そして眠らせてあるはずのギアの意思が下腹部から、額から、ゆっくりと染み出してくる。目の前の景色を捉えられなくなり、次第に頭を埋め尽くしていく渇望、地の赤、赤、また赤。
見た目には分からないソルの激しい渇望を聞きつけたように、アクセルはふらりと現れた。
そもそも、居場所の定まっていない人間だ。昨日まで隣にいても、明日はどこかに飛んでいるかもしれない。絶えない不確定に、しかしアクセルはあっけらかんとして前向きだった。肯定的で楽観的な性格は異常だとさえ思える。アクセルは飛ぶたびに、結局時間は自分の味方だという自信を強めているらしかった。結果が思い通りにならなくても、時間そのものが自分を損なうことはない。そういう自信を、得たらしい。
再会したアクセルはやはり満面の笑顔で、両腕を広げて近づいてきた。人通りもまばらな町の通りに面した壁際によりかかり、そのままずるずる座り込んでいたソルは、他人事のように自分に近づくアクセルを見ていた。渇望と戦うあまり意識がぶれて曖昧で、自分がギアなのか人間なのか、普段は根強い自覚と願いで掴んでいるはずの事実さえ、手放しかけていたのだ。指は、本当は差し伸べようという気持ちがあったはずなのに重く、むしろ喉笛を引きちぎるためなら万力でも込められそうだった。ギアと人間は必ず矛盾する。ソルは、矛盾する渇きだった。
ソルに駆け寄ってきたアクセルは、いつにも増して火照った肩をつかむと明るく名前を呼んだ。
「ソルの旦那!俺だって。帰ってきたんだよ?」
笑顔。ソルは朦朧とした目でアクセルの金髪碧眼の顔立ちを見上げた。人懐っこい顔の下に、舌を出してソルの渇きを嗤う顔が潜んでいる。赤く濁った視界でアクセルは二重写しに見える。誰の警戒心も和らげる人当たりのいい軽い性格と、その後ろに抱いている薄暗い欲望。ソルの頭を赤く占めている本能は、男を殺せと喚いた。
これは敵だ。これは脅威だ。これは殺せ。
「………て、め…いつ、」
ゆっくり口を開いたソルがしゃがれた声でようやくそれだけ尋ねると、アクセルはソルが腕を振り払わないのをいいことに、恭しく肩を貸して立ち上がらせると介抱する素振りで歩かせた。自分自身をねじ伏せるのに消耗しきったソルには、アクセルの強引な行動を止める術はない。一言くらい脅し文句を言えれば良かったが、そんな力も残っていなかった。
「旦那がへばってるって。時間の違う場所にいても、そう思ったら飛んでこれんだよ?俺はね」
優しい声に満ちた自信が、ソルの警戒心を煽った。用心深いソルでさえ結局絡め取られてしまったのだ。例え今更でも、この声に、笑顔に、警戒せずにはおれない。
アクセルの腕が押すままに歩き出したソルは、内側で猛り狂っていた渇きがひとつの目的を経て、鋭く集約されていくのを感じた。集約され研ぎ澄まされれば、手の内に閉じ込めることも出来る。手の内に閉じ込められさえすれば、ソルはギアの自分を制することが出来た。
内面の怪物は、アクセルを敵だという。いまや、三々五々に散らばっていたあらゆる殺意はアクセル一人に向けられている。黒々とした謂われない憎悪の塊をアクセルに向けて、ソルはアクセルに体を預けきっていた。
「旦那、軽くなったんじゃない?食ってないんでしょー」
しょうがないなあ、せっかく旦那に食わしてもらお、って思ってたのにさ。軽口をたたくアクセルが言葉の裏でソルの衰弱を実は歓迎していることをギアは注意深く見抜いていた。敵。殺せ。殺すべき。まさにこの生き物こそ殺すべき。そう呟く自分にソルは舌打ちする。
ソル自身も分かっている。アクセルは危険だ。ずっと以前から危険だった。
しかし、危険を知って弄んでいる自分がいる。恐怖や警戒というギアの本能とは別に、人としての理性が、火遊びの危険を愉しみたがっている。
「愛の力で飛んできた俺に、ご褒美くれる?」
アクセルの言葉に、ソルはせせら笑った。ほざいてろ、そうしゃがれた声が言い返すのを聞いて、ソルの体を支えるアクセルの腕に力がこもった。くわえた獲物の感触を確かめる顎のように。
アクセルがこの界隈にやって来たのは半月前だった。それ以前は、別の時間軸の話になり、それがかなり遡る過去だというところで、話は中断された。アクセルが目指していた場所に到着したのだ。
活気のある、町で親しまれているらしい酒場だった。人の匂いと気配にソルが顔を上げる。
「ここにジョニーがいんの。こっちで食い扶持世話してもらってさ」
「……」
ソルの見上げる視線を感じながら、アクセルは普段と変わらない口調で続けた。
「ちょうど団長も来てるし、船に乗せてもらえば?」
「ジョニーが……何で降りてる」
人の臭気から意識を遠ざけようと頭を振りつつ、嫌な符号に顔をしかめた。待ち構えたように降りてるジョニーは、果たして自分の意思で進んで降りたのか、それとも、
「旦那、ちょっとここで待ってて」
ソルの鈍い思考を麻痺させたいのか、アクセルは店の入口近くにソルを座らせると、ドアを開け放つ。
通りに溢れ出る人いきれや、活き活きとした気配にソルは喉で呻いた。喧しい話し声を聞いただけで、血管の震えまで伝わってきそうだ。ソルは唇をかみ締めた。このままここから動くこともままならない。しかもアクセルはドアを開け放ったまま、中に入っていった。気が利かない、のではなく確信犯だ。ソルはぐったりとうなだれて店の壁に背中を預けると、壁越しに伝わる足音の振動、椅子を引く響き、それらにさえ殺戮衝動を感じた。店全部を握りつぶして血まみれにしたら、どれだけ渇きが癒えるだろう。想像するだけで陶酔の目眩を感じる。
程なく、ブーツとシューズの音をさせて人が出てくる。ソルの上に影を落とした長身は、コツンとアスファルトを木製の鞘で小突いた。ソルが顔を上げると、サングラスで本当の表情が定かでない顔が大仰に驚いて見せる。
「おやおや。ディズィーの騎士がそんな顔をするもんじゃないぜ」
かすかに錆を含んだ、好意的な声にソルは舌打ちした。ジョニーは相変わらず、ソルに得体の知れない好意を見せている。隣に並んだアクセルがジョニーに肩をすくめて、ダイエットってのも考えもんだよな、などとうそぶいた。
「うちの船にご招待してやってもいいが…」
「もち、俺も一緒だろ?」
「……ま、アンタがどうしたいかによるんだがな、俺は」
ジョニーがそう言いながらソルを見下ろし、手を差し伸べる。ソルは黙ってその手を掴むとずるずると立ち上がった。ジョニーが生身の人間であるために、手を握った瞬間、肌がひりつく渇きがカッとこみ上げてきたが、ジョニーの冷静さと落ち着きはソルにも余裕を持たせてくれた。足元をふらりとさせながら、俺は、と口を開く。
「……誰も、助けなんか」
「まーたダンナ、そういう事言っちゃうんだ?ねぇ?ジェリーフィッシュにお邪魔しちゃおうよ、この際なんだし。歩いて次の町まで何日かかると思ってんの?」
「………」
饒舌なアクセルが割り込んでくると、ソルは唇を噛み締めて顔を背ける。アクセルの言葉は事実で、肯定してそこに甘んじたくなる安易さと許しがあった。楽ニナッチャエバイイジャン。ソルの今の苦しみだけでなく背負っている全てに対して言われている感じがする、それがソルにはたまらなく嫌だった。ジョニーの手を強く握りしめて、俺は、と呟く。
「まあ、隣町までなら拾っていってやる。…いいか?ソル」
ソルが自分の嫌悪を口にする前にジョニーが安易な許可を口にしてしまい、ソルはアクセルを振り返った。いつもこうだ。誰でも彼でも警戒させず、懐に滑り込んでくる。ソルに睨まれて、アクセルは笑顔のまま両手を上げた。
「だーいじょうぶ、なーんもしないよ?なーんにもね」
無害を装う顔に、ソルは小さく舌打ちすることしかできなかった。
ジェリーフィッシュに着くと、メイと一緒にディズィーが顔を見せた。自分に視線もくれないソルに、不安といたわりの視線を注いでいる。ジョニーが肯いてみせるのを見届けて、言いたそうにしていた言葉を全てこらえ、そのまま奥に戻っていった。
ジョニーはディズィーのことをギアだと思っている。ソルをギアだと思っているのと同様に。二人の共通点は、ギアであり自分の知人ないし仲間だという事だった。ジョニーにとって必要な定義はその部分だ。そういう意味で、アクセルも危険な匂いがしつつも知り合いである以上、ないがしろには出来ない。
ジョニーがアクセルに対して、どんなときもある程度寛容なのはそのせいだ。ただ、アクセルが寛容さにつけ込んだという言い方も出来る。そのあたりについては、ジョニーもやはり他の連中と変わらずノーマークだった。
奥の部屋に案内され、取りあえず横になるとソルは息をつき、自分をわざわざ運んできたジョニーを呼び止めた。
「なんだい?ディズィーの面会なら、もっと後がいいんだろう?お前さんの場合」
「……そうじゃない。…アクセルを、部屋に入れるな」
「ああ、奴さんなら心得たもんで、当分面会は遠慮しとくとさ。あと、目的地についても言ってたぜ?」
「…………何て」
「ギアのいる町」
ソルは黙り込んだ。アクセルは知っている。自分が渇いていることも、その原因も、知っているのだ。ジョニーには何もかも話したのだろうか。自分が一番嫌悪している部分がジワジワと知れ渡っていく不快感に、口の中が渇く。
ソルが黙り込んで難しい顔をしているのを見て、ジョニーは肩をすくめた。
「お前さんが仕事熱心だから、しつけのなってないギアがいる町にでも行けば、嫌でも元気が出るって話だったんだが。ま、お前さんから言われればそこに行くさ」
「……いや、………それでいい」
ソルは深くため息をついて、諦めた口調でそう言ったきり、黙り込んだ。口を動かすのも怠くなってきたのだ。ソルが深々と体を休めたがっているのを察して、ジョニーは静かに部屋を出ていった。人の気配がしていたのに、部屋には整えられた静寂が満ちていた。ジョニーの気配は、ソルにとって妙に凶暴さを落ち着かせる、不思議な効果があるらしい。
ソルの弱り果てた姿について、アクセルから何も説明はなかった。ふらりと現れ(それまでそもそもこの時間軸にいたのかどうかも解らないが)、船を下ろして欲しいと言ってきた。
旦那を見つけたからサ、ちょっと乗せてあげて欲しいんだよ。
ディズィーに会うのではなく?とジョニーは尋ね返さなかった。ソルもカイもテスタメントも、自分にディズィーを預けたきりで会いに来もしない。彼女がその事に傷ついているとは思わないが、気になっていた。しかし、その話をアクセルに振ってもアクセルは首を傾げるだけだろう。ディズィーの存在に、アクセルは以前肩をすくめた。是非や好悪以前に、「どうでもいい」存在だったらしい。
言われて、降りてみれば弱りきったソルに引き合わされた。
弱ってるから、気を付けて。
弱っているのに気を付けて、という話し方は妙だ。しかし、すっかり弱りきったソルの手を取った途端に、何に気を付ける必要があるかは解った。冷静に、拍動を出来る限り静かに押さえて、体の訳読を寝かしつけるように鎮めた。そうでもしないと、ソルは手を取ったその続きに、喉に食らいついてきたかも知れない。
アクセルが乗せてくれと頼んだのは、ギアだったのだ。ジョニーは、今さっき部屋を提供した相手に生き物として恐怖を感じ、ジェリーフィッシュ快賊団団長として興味と好意を感じた。
デッキに戻ってくると、アクセルがメイと喋っている。無邪気なメイは、土産話の面白さに目を輝かせている。
「そーそー、嬢ちゃんにお土産。賞味期限が切れる前に渡せてヨカッタよ」
「なあに?食べ物なの?」
「ハイ」
見かけない、粗悪でけばけばしいパッケージをメイがしきりにひねくり回している。ジョニーが近づいてくると、嬉しさで一杯の笑顔を振り向けた。
「お土産だって!20世紀のお菓子なんだって」
「腹壊しても知らんぞ、俺は」
「えー」
「だーいじょうぶだって。団長の可愛いお嬢ちゃん方に、毒なんか渡すわけないでしょ?」
笑って両手を上げているアクセルに、ジョニーは首を振る。メイに下がるように言って、デッキには二人きりになった。
「どうも俺は、」
ジョニーは、雲海の上をごんごんと飛んでいる船の振動を足にしっかり感じながら、機嫌良さげに窓の外を見下ろしているアクセルに切り出した。
「問題児を預けられることが多くってな。ソルからはあのコ、お前からはソルときた。ま、こっちとしては信用問題もある。責任持って預かるさ」
「そりゃあ、助かるねぇ?それに、俺もある意味問題児だし、預かってもらってるわけだ」
「お前はただの風来坊さ。場所まで着けば理由に関係なく降りてもらう。むしろ、預けた人間として俺に話すことはないか?」
「なーに?旦那の弱ってる理由?俺がここにいる事?それとも、行き先について?」
「ま、全部だな」
ジョニーが腕組みして回答を促すと、アクセルはようやくジョニーを振り返り、にゃははは、と馬鹿にしたように誤魔化し笑い一つ、更に続けた。
「企業秘密」
おどけた顔で、目の先は抜け目無くジョニーの手を確認している。狭いデッキで自慢の腕を披露すれば、船そのものに傷が付く、それを計算してその場所に立っている。アクセルの立ち位置は、ジョニーにそう推測させた。アクセルはまたしても降参の意味か両手を上げて首を傾げると、
「あんね、それをあんたに話しちゃうと、俺の専売特許が一個減るわけ。損な取引はしない主義でね」
「専売特許?」
「旦那のコイビトってことさ」
相変わらずどこまでふざけているか見当のつかない回答で、ジョニーは納得し引き下がるしかないようだった。まあいい、と構えかけていた手を戻すと、アクセルはにこやかに、
「団長のこと、信用してるんだよ?」
そう言った。本当か嘘か以前に、信用されたいかされたくないかという話だ。そうジョニーは思う。信用が即利用に繋がるならご免だ、とジョニーはアクセルのヘラヘラした顔にサングラス越しの一瞥をくれた。
「ソルは、面会謝絶を希望だ。お前は入れるなとよ」
「あら、ヒドッ!俺は旦那のナイトなのにねぇ」
ジョニーは笑う。ナイトとはどの口が言っているのかと思う。アクセルは不審の塊だ。笑っているジョニーに、アクセルは自信たっぷりの声で言いきった。
「だって、俺以外の誰が旦那のナイトになれるっての?」
「大した自信だな」
ジョニーが皮肉な嗤いを浮かべるのを見て、アクセルは笑う。口の端をつり上げる嗤いを多分、自分以外は見たことがないだろうなとジョニーは思った。不遜な嗤いは、時間が敵でないことから来る自信のためなのだろうか。
「ねぇ?誰もあのひとのことを、本当は知らないのに」
「同じ時代に生きてたことがあるって言うのが、そんなに特別なことかい?」
ジョニーは初めからアクセルの言葉を見透かしていたようにあつらえた言葉を、突きつけた。ソルに対する自信、その不遜さに、ジョニーは珍しく神経を逆撫でされたらしい。チラッと垣間見えたジョニーの気持ちに、アクセルはゆっくりポケットに手を突っ込んで、窓の外、続く雲海を見る。
「常に、だよ。俺は常に、旦那の弱みを握ってるのさ。そしてこれからも」
振り向いたアクセルは、心の底から楽しそうな笑顔だった。
「俺がナイトになってあげるしかないだろ?だって旦那は未来永劫、俺の物だもの」
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