渇いた風が、頬を撫でる。地上を遥か遠くに見下ろす上空で強い風に髪をなびかせていたメイは、柵から上体を乗り出して眼下を見つめていた。
建物も殆ど区別できない高さからでは、もう、人影を探すことは不可能だったが、それでも何となく二人が消えていった道の向こうを目で追った。懸命に目を凝らしてはみるものの、やはり、人影は判別することは出来なかったけれど。
小さく息を吐いてくるりと柵に背を向けると、コートの端をはためかせて歩み寄ってくるジョニーの姿があった。片手でサングラスを直し、少々疲れたような顔をしている男に、メイは堪えきれずに笑った。
まだ先程の、カイを女と間違えていたという最大の失態のショックが消えていないらしい。あのジョニーが男を女と間違うなんて自分が知る限りでも初めての事だし、無理もない事なのかもしれないが。
ジョニーは少し難しい顔をしたが、あえてメイを窘めはせず、代わりに頭に手を置いて自らも柵から下へ視線を投げた。もちろんジョニーが見下ろしたところで、光景が変わるわけでもない。地上は遠く、やはり求める人影を捉える事はできなかった。
軽く叩くようにしてメイの頭を撫でながら、ジョニーはぽつりと呟いた。
「途中まで送ってやればよかったかねえ」
「男なのに、いーの?」
「・・・いい加減大人をからかうんじゃないよ、メイ」
心地好く髪を梳く手が強張る。メイは陽気に笑った。
「だって、こういう時じゃないとジョニーの弱味なんて握れないもん」
「・・・そこそこにしてくれよ・・・」
疲れた顔を更に憔悴させて、ジョニーは低く呟いて苦笑した。困った顔は珍しく、また嬉しく、メイは擽ったそうに肩を竦めた。
そうしてまた、大地に視線を落とした。上空の風は澄んでいて肌に冷たかった。地上はどうなのだろうかと、そんな事を考える。今日は風の勢いが強い。下も、徒歩で進むには少し辛いかもしれないが、心配はないだろう。
あのソルが他人を気遣いながら旅をする姿というのはちょっと想像に難いのだけれど、きっと、カイは大事にされているんだろうと思った。笑顔は結局殆ど見れなかったが、ソルの話題に真っ赤になった顔は鮮明に思い出すことが出来る。おそらくは、ソルの知らない顔だ。
それを思うと、ちょっとした優越感に浸る事が出来た。恋する者同士の秘密というやつだ。
時に寂しげに、時に楽しげに表情をくるくると変えているメイを暖かい、少しだけ複雑な眼差しで見守って、ジョニーは柵に寄りかかり、急に思い立ったように、ああ、と手を叩いた。
「プランツ、買ってやろうか」
「ええっ?」
唐突な言葉に驚いて、メイは声を大きくしてジョニーを見た。大きな瞳をさらに大きくして瞬かせる。ジョニーは照れたように片手で頬をかきながら、にっと歯を見せて笑った。気障ったらしい笑みだが、この男にはよく似合う笑みである。
「今回の賞金はかなりの額だからな。たまにはお前さんの我侭を聞いてやってもいいと思ってね」
お前さんも頑張ってくれたからな、と軽く頭を叩きながら、ジョニーは背を屈めてメイに顔を近付けた。間近に瞬くサングラスの奥の青い瞳は冗談を言っている風ではなく、それにまた驚いたメイは、返事も忘れてジョニーを凝視した。ジョニーは優しい笑顔のまま、メイの視線を受け止める。
今までも、散々我侭を言って欲しがったものはたくさんあった。ぬいぐるみや洋服や、年頃の少女ともなれば欲しいものはいくらだってある。が、クルーの手前もあり、そういった物欲的な我侭をジョニーは殆ど聞いてくれた事がない。ディズィーや、他のクルーにしてみても同じである。集団の頭領として、ジョニーは誰か一人を特別に扱うようなことは絶対にしなかった。
それが一転しての、しかも目が飛び出るほどの金額の買い物をあっさりと言い出したジョニーに、さすがのメイも驚愕と戸惑いとを隠せない。噂に聞くだけで実際に店に行った事はないけれど、今回の賞金全てをつぎこんだとて、例えばカイのような一級品を買い求めるとすれば足りないだろう。
メイが何とも言えずに黙りこんでしまうと、ジョニーは軽い溜め息と共に苦笑した。
「うちの一番の元気娘が、珍しく寂しそうにしてるからな」
そこでようやく合点がいって、メイは納得した顔になる。自覚してのことではないが、どうやら随分沈んだ顔をしてしまっていたらしい。そういえばディズィーも、お菓子を分けてくれたりしていた事を思い出した。寂しい思いをしているのは、彼女だって同じなのに。
ばつの悪い顔になって、メイは悪戯っぽく舌を出してみせた
「えへへ、もしかして妬いてるとか」
「うーん、じゃ、まあ、今回はそういう事にしておこうかね」
「・・・ごめんなさい」
あえて否定はせずに、ジョニーは目を細める。その様子に、メイはくすぐったいような気持ちになって肩を竦めた。素直にぺこりと頭を下げると、ジョニーはそれを褒める代わりに小さく頷きながらまた頭を撫でた。優しく大きな手に、目元が熱くなる。
ジョニーに気を遣われるというのは、何だかおかしな気分だ。でも、知っている。いつだってジョニーは、自分の一挙一動を気にかけてくれている。体調を崩した時も、いつも一番に気が付いてくれる。そうして、甘えさせてくれるのだ。
けれど、いつまでも、子供ではいられない。
メイは意気揚々と息を吐き、腰に両手を当てて、勢いよくジョニーを振り仰いだ。晴れやかな笑顔に、逆にジョニーが少し驚いた顔になる。
「いらない」
「ん?」
「いらないっていったの! ・・・ボクには、ボクに笑ってくれる家族がたくさんいるもん」
もちろん一番はジョニーだけど、と飛び付いて剥き出しの胸に頬を摺り寄せていたメイは、ふと動きを止め、声のトーンを落として囁くように言った。
「カイにはソルだけだってジョニーは言ったけど・・・ソルにも、カイだけなんだよね」
「・・・そうだな」
応えるジョニーの声は、いつになく穏やかな響きがある。
自分は、ソルという人間をよく知っているわけではない。けれど、自分が知っていたソルと、カイを伴って現れたソルは、まるで別人のように感じた。以前に会った時に感じた冷たさや威圧感は、完全に消えてはいないけれど、それでも随分穏やかな印象になっていた。最初は、何事かと思ったものだったが。
その原因が何なのか、今はわかる。
メイはもう一度名残りを惜しむように地上に視線を投げた。けれどそれも一瞬で、メイはすいっと顔をあげた。晴れやかな、明るい笑顔だった。
「いいよ、約束したもん、また遊びに来てって・・・その頃には、カイも、ソルも、もう少しボクに笑ってくれるかなあ・・・」
夢見るように呟いたメイを、ジョニーは優しく抱いてやった。
抱き締める腕は暖かい。その感触にうっとりと目を閉じながら、メイは思う。―――今はまだ、この腕は自分だけのものではないけれど。でもいつかはきっと自分だけに振り向かせてみせる。見惚れずにはいられないような、とびきりのいい女になって。
―――カイが、ソルを変えたように。
ふと思いついて、メイは身動ぎして少し体を離し、ジョニーを見上げた。
「ねえ、ジョニーはプランツ欲しい? カイみたいな、すっごい可愛いの。こんどはちゃんと女の子のをだよ」
「さあてねぇ」
悪戯っぽい表情で覗き込んでくるメイに、ジョニーは大袈裟に肩をひそめてみせる。おどけた動作だった。肯定とも否定ともつかない動作にメイが大きな瞳を瞬かせると、ジョニーはそっとメイの髪を撫で、前髪を払って、白い額に軽く口接けてやった。
栗色の瞳が更に大きく瞠られる。ジョニーは目を細めた。
「俺にはもう、真っ直ぐ俺を見て笑ってくれるレディがいるからな」
メイは大輪の花が咲くような笑みを満面に浮かべて、ジョニーを真っ直ぐ見つめ、大きく頷いた。
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