「本当に、レオナには言わないつもりなんですか?」
「言えるかよ」
首を振りつつ、ラルフは予備弾のパウチを手に取った。
「本当にあの人のことを思うなら、言うべきだと思いますけどね」
「あいつに説明して、わかることだと思うか?」
「難しいとは思いますけどね」
クラークは肩をすくめて首を振る。そのクラークの腰にも、弾を詰め込んだパウチが鈴なりだ。
ラルフとクラークだけではない。そこに集まった、部隊のざっと半数近くの傭兵たちは皆、同じような装備を身に着けている。
「何もかも終わった後で教える方が残酷なんじゃないですか?」
「確かにそうかも知れないけどよ。あいつはこの世がひっくり返ったって、あの人の側に立つ人間だろう? そいつをこっち側に口説き落とせるならとっくにやってる」
「それはそうですがね」
「それに、もしこんなことがレオナの耳に入ってみろ。あいつが教官に情報を漏らさないって保障がどこにある。そしたらここまで計画したことが丸潰れだ」
教官、と口にした時、ラルフは無意識に唇を舐めた。かさついた唇で呼ぶには重過ぎる名だった。
喉が圧迫されるような緊張感が、今更ながらにこみ上げて来る。戦いの前にはいつも同じものを感じているが、今回はそれがべっとりと喉に貼り付いているような気がした。
限りなく近くでその姿を見てきたからこそ、死んでも敵に回すものかと思った相手を、ラルフたちは今、襲おうとしている。
「他にも方法はあるじゃないですか」
「それじゃあ今までと変わらねえだろ。それじゃ意味がねえ。あの人を変えるにはこれぐらいやらねえと駄目だ――それが、あの人のためでもあるんじゃねえのか」
「その意見に同意したから、俺はここにいるんですけどね」
「感謝するぜ、相棒」
「そう思うなら、言葉じゃなくて態度で示してくださいよ」
「終わったら1本奢ってやるよ。飲めたらの話だが」
ラルフは時計を見た。そろそろ時間だ。傭兵たちはすでに、各班に分かれて準備を終えている。一部は先行して位置についているはずだ。
もう、引き返せない。
「それじゃあ、行くぞ」
戦いの始まりを告げる声も、応じる声も小さかった。どこか冷え冷えとした出陣は、この戦いには相応しいものだったかもしれない。
ハイデルンという男に、ただがむしゃらに突っ込んで行けた10年近く前の自分の無謀さが、今のラルフには羨ましかった。
ハイデルンの視界は、その時おそらく真っ白に染まっただろう。白い粉塵の煙幕の向こう、こちらからも肉眼ではその長身を捉えることはできない。しかし、熱源感知式のスコープなら、それを越えてハイデルンの姿を捉えることができるはずだった。
「いない!?」
どこかで引き攣った悲鳴が上がる。まだ若い兵士の声だ。
この世代はこういうところに弱い、とラルフは思う。次々と配備される最新鋭の機器や兵器の取り扱いは上手いが、それに頼りすぎるきらいがある。そういうものが役に立たなくなった時の混乱が酷いのだ。
戦場には、精密機械の計算を易々と超えてくる化け物がいくらでもいる。今、彼らが相手にしているのは、そういう類の生物だ。
ラルフは乱暴にスコープを剥ぎ取って投げ捨てた。役に立たないなら邪魔なだけだ。
どんな精密機器より最新兵器より、最後に役に立つのは戦場で研ぎ澄まされた直感だとラルフは信じていた。ハイデルンのようにkm単位離れた距離から向けられた殺気を感知するとは言わないが、こちらの勘も負けてはいない。非公式なデータではあるが、ラルフが直感だけで狙いをつけた攻撃は、なんと9割の命中率を誇る。人外のデータに過ぎて、非公式にされているのである。。
そのラルフの直感は、ハイデルンはまだ粉塵の中にいると言っていた。元より、そこから逃すつもりもない。
「構うな、予定通りやれ!」
その声がハイデルンに自分の位置を教えることになると知りながら、それでも叫んだのは若い兵士への叱咤か、それとも自分への鼓舞か。
攻撃は次々と粉塵の中に吸い込まれていく。軽い炸裂音。だが、捕らえたという手ごたえはない。いや、予想よりも着弾がほんの少し遅い。
ムーンスラッシャーで弾を叩き落している。そう、ラルフは予想した。つくづくハイデルンという男は化け物だ。全方向から囲んでの攻撃を、視界の効かない中で全弾叩き落している。
しかも、ハイデルンは防戦一方にとどまる男ではない。
「反撃来るぞ! 一箇所に止まるな、動け!」
叫びつつ、ラルフはとっさに横に走る。嫌な予感がした。
次の瞬間、それまでラルフがいた位置に真空の刃が飛んでくる。指揮を執るラルフをまず落とすつもりなのだろう。刃はラルフの位置に確実に飛んで来ていた。
それならそれでいい。こっちにはクラークがいる。ラルフは囮になっていればいい。
「手を止めるな! 走れ! 走りながら手ぇ動かせ!」
わざと派手に騒ぎながらラルフは駆け抜ける。その裏では、クラークがボディサインで傭兵たちを誘導していた。
狙いは真空の刃が飛んでくる方向から察しをつけた、ハイデルンの左前方だ。光を失った右側や背後は、普段から見えていないだけに煙幕の影響を受けにくい。狙うなら唐突に視界を失ったはずの左目の側だ。
クラークの合図で、そこに攻撃が集中する。ラルフはそれに合わせ、反対側に走りこんでいた。そちらからもラルフと陽動に徹していた部隊が攻撃を仕掛ける。
計画通りの、最高の一撃だった。タイミングも状況も申し分ない。
おそらく、これを外せば次はないだろう。煙幕ももうすぐ消える。音が混じりすぎて、もう命中か叩き落されたのかもわからない。
頬に、風を感じた。風はクラークの小さな呟きを乗せていた。
「これで、晴れるな」
その通りだった。煙幕が風に流されて、視界が晴れていく。
徐々に明らかになる視界の中、ラルフは何事もなかったかのように悠然と立つハイデルンを見た。あれだけの粉塵に巻かれていたというのに、その痕跡すら完璧な制服姿のどこにも残っていない。呼吸すら穏やかなままだ。
やっぱりこの人は化け物だ。その化け物を相手に、ラルフは身構える。
沈黙があった。ハイデルンも、それを取り囲む傭兵達も、どちらも動かない。
ラルフはそっと腰に手をやって、残弾を確かめた。残り少ない。だが、やれない数ではない。どちらにしても、もう戻れないのだ。
何が何でもこの一撃、決めてやる。
その気配に気付いたか、ハイデルンの視線がラルフに向けられた。まだ誰も動けない。動けないまま、二人をじっと見ていることしかできない。氷のように冷たく硬い緊張だけが膨れ上がっていく。
呆気ないほど軽い音が、その氷の空気を打ち砕いた。
どろりと粘性の染みが、ハイデルンの背に広がる。それはみるみる広がって、ついに地面にこぼれた。
「レオナ」
戦鬼とも死神とも呼ばれ、戦場にいるものならその名を畏れぬ者はないとまで言わしめた隻眼の傭兵隊長は、ゆっくりと彼の義娘を振り返る。凄腕の傭兵数十人がかりでも成し得なかった一撃を義父の背に加えた青い髪の少女の目には、熱も興奮も狂乱もなく、ただいつもの表情のない顔で立ち尽くしていた。
片手に、生卵を持ったまま。
「状況の説明を」
義娘からいきなり、背中に生卵をぶつけられたハイデルンは短く訊いた。
答えも短かった。
「誕生日だから、と」
「……そうか」
ブラジルには、卵と小麦粉をぶつけて誕生日を祝うという奇習がある。
この地を本拠地とするこの傭兵部隊にも、もちろんその習慣は浸透していて、部隊の人間は誰でも一度は卵と小麦粉まみれにされている――ただ一人、ハイデルンを除いては。
無理もない。ハイデルンとある程度親しい古参の兵士は、彼を襲った悲劇を知っているだけにそういう強引な明るさの中に彼を引き込むことを恐れ、新参の兵士はハイデルンの、ある一定以上の距離に踏み込ませない雰囲気に気圧されて近付けなかった。
それでもラルフは過去に2回、卵を手にハイデルンに近付いたことがある。ハイデルンの長い復讐が終わった一昨年と、彼に養女がいたという比較的明るいニュースがあった去年のことだ。
復讐も終わった。新しい家族も得た。それならいい加減に暗い顔を少しは引っ込めて、馬鹿みたいな騒ぎに笑ったっていいじゃねえか。そういう風に変わったっていいんじゃねえか? その方があの人のためじゃねえのか? それがラルフの言い分だ。
未遂に終わった理由は、単に実力の差だった。ラルフの実力を持ってしても、ハイデルンの不意をついてに卵を投げつける隙を見つけられなかったのである。
だが、それで諦めるラルフではない。元々お節介な性質でもあるし、基本的に熱しやすい。そのラルフが2回の失敗を重ねて、ムキにならないはずがなかった。
今年こそ、何が何でもあの人に卵をぶつけてやる。それの意気込みに周りの人間、つまりお祭り好きの気のいい傭兵たちも加担した。それでこの騒ぎだ。
ハイデルンやラルフへの好意だけで参加した者だけではないだろう。ハイデルンに卵をぶつけたらどんな顔をするだろう、そんな好奇心が理由の者もいた。弾が生卵とはいえ、あのハイデルンを奇襲して一撃を加えた、そんな箔付けが欲しい者もいた。度胸試しの者もいたに違いない。とにかく、その人数は部隊の半分近くに膨れ上がった。
相手がハイデルンであるということが、また騒ぎを増長した。普通に卵を投げつけてもきっと避けられる。それじゃあ皆で一度に投げよう。いや、それじゃ足りない、煙幕で目隠しでもしなけりゃ無理だ。それなら煙幕じゃなくても小麦粉でいいじゃないか。どうせ小麦粉もメニューに入ってる。そうだフォーメーションも決めようぜ――ここまで来ると、むしろ職業病か。
そこまでしても、結局は不可能だった。
ラルフは無数の卵が落ちて潰れ、しかもそこらじゅう粉塗れという悲惨な状況の中、義父と向き合う青い髪の少女を見ながら苦笑いした。
こういう冗談は理解できないだろうと計画から外され、外した以上はそこから計画が漏れては困ると完全に情報から遮断されていたレオナが、歴戦の傭兵たちが本気で挑んでも不可能だったことをやってのけた。その皮肉な結末に、首謀者としては笑うしかない。
「レオナ」
ハイデルンはもう一度、義娘の名を呼んだ。
「これからの予定はどうなっている?」
「15分後に会議が入っています。が、先程、開始時刻を30分遅らせるよう連絡を入れました。その後のスケジュールも全て調整済みです」
「他には?」
「シャワー室と、換えの制服の用意が」
「そうか」
見ている方が不安になるほど淡々と問うハイデルンに、レオナも淡々と答える。
「レオナ」
「はい」
「後ろに下がれ」
「了解」
義娘を後ろに下がらせ、ハイデルンが傭兵たちに向き直る。
ただでは済むまい。飛んでくるのはクロスカッターかムーンスラッシャーか、はたまたブリンガーか。この馬鹿騒ぎの代償は、決して安くはないだろう。最初から覚悟していたことだが、全員2~3日はまともに動けなくなるかもしれない。
誰かが、ごくりと唾を飲んだ。
「――で、続きはどうした?」
その言葉の意味を理解するまでの傭兵達の一瞬の空白は、ひどく長く感じられた。
「祝ってくれるのだろう?」
ふとハイデルンの口元が緩み、耳が割れるような歓声が上がる。
ああ、と思った。ラルフがずっと、ハイデルンにさせてみたいと思っていたのは、こんな顔だったのだ。
だが、そうさせたのはラルフではない。きっかけを投じたのはラルフかもしれないが、そうせたのはレオナだ。
つまり、レオナだけなのだ。レオナだけが、ハイデルンの心の奥底に沈みこんだ暖かいものを掬い上げることができる。それに思い至って、ラルフはもう一度浮かびかけた苦笑を別の笑顔で誤魔化した。苦笑いはこの場には相応しくない。
ラルフは残った卵をありったけ掴む。大きな手の中には3つも入った。それを、草野球で鍛えたフォームで振りかぶる。
卵が砕ける軽い音は、更に大きくなった歓声にすぐかき消された。
PR