きっかけは、些細なことだった。
「レオナ、お前の名前って、なんだっけ?」
「少なくとも、アニーとかベロニカとかクリスじゃないわ。それが?」
「そりゃ、俺がここ3ヶ月で口説いて振られた女の名前じゃねえか――って、すまん。俺の訊き方が悪かった」
どう聞いても間が抜けた質問に、冗談こそ交えたが真顔で答えた律儀な部下に向かって、ラルフは苦笑いしながら訊き直した。
「名前って言うか、あれだ、ファミリーネームの方」
レオナというのはコードネームで、彼女の本名ではない。それは前から知っていた。
こういう稼業では、人に恨まれることも少なくない。だから皆、素性を隠すためにコードネームを持っているし、部隊の中ではほとんどそれで呼び合っている。もちろん書類もそれで通る。顔が売れ過ぎて偽名も意味をなくして、それならいっそと本名で仕事をしている、ラルフやクラークの方が珍しいのだ。
だから今まで、レオナの本名を訊く機会もなかったし、そのことを気にもしていなかったのだが。
「お前の苗字って、なんだったっけか?」
数日後に控えたレオナの誕生日に、ケーキでも注文してやろうと、ラルフが世話焼きの本領を発揮したのがきっかけだった。
ケーキにお名前をお入れすることができます、お誕生日の方のフルネームは? 注文の電話口でそう訊かれ、そう言えばレオナの苗字を知らなかったということに、ラルフは今更ながらに気付いたのである。
「ないわ、特に」
ぽかん。そう表現するのがぴったりな表情とタイミングで、ラルフは口を開ける。その口から再び、まともな言葉が出るまでに掛かった時間は、たっぷり数十秒を数えた。
「……えーっと、何だよそりゃ。名無しのレオナさんって訳か?」
「一応、偽造のパスポートの名前は『レオナ・ハイデルン』になってる」
「それは偽名だろ?」
彼女の義父である、ハイデルンのその名も本名ではない。これもコードネームだ。
「ええ、そうよ。でも、名前といったらそれしかないもの」
「それしかないって、お前、本名ってもんがあるだろうよ。戸籍に載ってるやつ」
「戸籍は、持ってない」
「はぁ?」
唖然とするラルフの手の中の受話器から、お客さん、お客さんどうされました?とケーキ屋の声が聞こえてくる。そういえばまだ、電話が繋がっていたままだ。
「すまん。また掛け直す」
やや乱暴にそう伝えて、ラルフは電話を切った。電話口でケーキ屋を待たせるには申し訳ないぐらい、長い話になるだろうと思ったのだ。
「戸籍がないって、お前それ、いつからよ?」
「生まれてからずっと。出生届を出さなかったそうだから」
「――ああ、そっか」
レオナの両親が娘の出生届を出さなかった、その理由はラルフにも理解できる。
血の宿命を背負って生まれた娘を、その呪われた力を求める者達の目から隠すために、レオナの両親は長い逃亡生活を続けていたという。
娘の出生届を出さなかったのは、追手の目を少しでも遠ざけるためだろう。戸籍を持っていれば、移動の度にどうしても痕跡が残る。逆に、書類の上では存在すらしない人間を探すのは、なかなかに難しい。
「それきり、そのまんまなのか」
「そう。特に必要もなかったし」
その後、ハイデルンに引き取られたレオナは、その存在をひた隠しにして育てられた。彼女の父母が恐れたのと同じ理由と、彼女の義父が敵の多い男だったためである。
ハイデルンのような立場の人間は、自分の命だけではなく、その縁者までもが狙われることが少なくない。実際にその悲劇に遭ったハイデルンが、戸籍の上でも義娘の存在を隠したことも、ラルフには理解できる。
だが、まさか今の今まで、そのままだったとは。
「そうだよなあ。最初の勤め口がここなら、戸籍のあるなしなんて問題にならなかったもんなあ――ってお前、KOFの時はどうしてたんだ? パスポートとかビザとか」
「偽造で済ませてる」
「そっか、さっきもそう言ってたっけ。でもそれじゃお前、身分証明書もねえんじゃねえか? そんなことじゃ銀行の口座ひとつ、いやレンタルビデオ屋の会員カードも作れないだろ? そういうのはどうしてたんだ?」
「作ろうとしたことがないからわからないわ。必要ないもの」
「給料はどうしてるんだよ。貯金箱に入る額じゃねえだろう?」
「必要な額だけ残して、後は教官に預かってもらってる」
「お前ねえ……」
ほとほと呆れ果てたという口調で、ラルフは溜息と一緒に呟いた。あまりに呆れたせいで、いつものように大声で怒鳴る気力もない。
「ここにいる間はそれでもいいけどよ、ちょっと問題だぞ、それは」
「そう?」
「考えても見ろよ。この稼業以外で、戸籍もない人間を雇ってくれるようなところがあると思うか? 稼がなかったらメシも食えないんだぞ?」
「……そうね」
「同業他社に転職するとしても、この国にはもう、うちしかねえからな。一昔前ならもう幾つかあったんだが――まあ、お前の腕ならどこに行ってもやっていけるだろうが、そこまで行くのにだって、パスポートがいるんだぞ? 戸籍がなきゃ、それだって作れないんだからよ」
「そうね」
「そうね、ってお前」
レオナはと言うと、少し首を傾げて青い髪を斜めに落とし、思案顔ではあるが、何を考えているかは皆目見当も付かない。表情の乏しさはいつものことなのだが、こういう時には、こいつは何を言われているのか本当に認識できているのだろうか、と言う気分にさせられて、ラルフは頭を抱えたくなった。
「――とりあえずお前さ、この機会に戸籍作れ。ちゃんとしたやつ。そうじゃなきゃお前の場合、物理的に親離れすることもできやしねえ」
「親離れ?」
「そうだよ。今のままじゃお前、ずっとここでしか生きていけないだろうが。『教官の作った世界』の中でしか」
今はいい。それでもいい。だが、いずれそれでは済まない時が来るだろう、とラルフは思う。そして、その時が来てからでは遅いのだと思う。
「そこから出る出ないはお前の自由だけどよ、ともかく、出られないままにしておくのは感心しねえよ、俺は」
親と子で話ができるうちに――どちらがいつ、物言わぬ姿になって戻るかわからない世界で生きているのだから、それができるうちに、形にした方が良いのだと思う。
「そう……そうなのかしら?」
「そうなんだよ――おい、ちょっと待ってろよ」
そう言い放つと、ラルフはもう一度電話に向かった。しかし、掛けた先はケーキ屋ではない。
ハイデルンの秘書役を務める情報士官に連絡を入れ、その電話を切ったかと思うとまた別の部署に電話を掛け、と猛然と電話を掛けまくる。その勢いに、レオナは口を挟む間もない。
奮戦すること約10分、ふふんどうだと言わんばかりの顔で、向き直ったラルフは開口一番、
「2時間後に教官のスケジュール、30分空けたからな」
これにはレオナの方が、僅かではあるが驚きの表情を浮かべた。
分刻みのスケジュールに日々追われるハイデルンに、仕事以外で30分の時間を取らせる。それがどれだけのことであるかは、レオナにも良くわかる。むしろ、驚異的な戦果と言っていい。
だが、戦果はそれだけではなかった。
「隊の中の書類は今日中に書き換えられるとさ。戸籍そのものにも、今週いっぱいありゃ手を回せるらしい。どこの国籍でも、どこの生まれでもなんとでもなるってよ」
ラルフはすでに、そこまで手を回していたのだ。
「だから、あとは教官とお前が、話をするだけだ。30分しかねえが、名前のこととか、教官の正式な養女になるかどうかとか、ちゃんと話し合って来いよ」
そう言ってから、ラルフは一番大切なことを言い忘れた、という顔でこう付け加えた。
「あと、苗字が決まったら、すぐに教えろよ。そうじゃなきゃケーキが注文できねえ」
名前など、何でもいいと思っていた。
義父に保護された時には記憶を失っていて、両親が付けてくれた名前さえ思い出せなかった。だから、初めてレオナという名で呼ばれた時にも違和感はなかったし、それが自分の名前であることに疑問を持つこともなかった。
少なくとも、自分の周りの狭い世界――この部隊の中では、自分は「レオナ」でしかない。それ以外の名前で自分が認識されることはないし、自分でもそう認識している。
記憶が戻ってからも、本当の名前は遠い記憶の中のものでしかなく、それが自分の本名かというと不思議には思うものの、実感はなかった。
口の中で、その名を呟いてみる。古い言葉で「神は私の光」という意味を持つ名前に、父の姓。
その響きは嫌いではなかったし、どこか懐かしく優しい音でもあったが、しかしそれが自分の本当の名前かと言うと、少しだけ違うと思った。
「話は聞いた」
執務室の窓からは、南半球の夏の日差しが差し込んでいる。しかし、部屋の印象は、いつでも東欧の冬の凍てつく冷気だ。それは、レオナがこの部屋の主と過ごした日々が、ほとんどその国でのものだったがゆえの錯覚かもしれないが、その冷たさをレオナは心地よく思う。
「ラルフがまた、か」
ハイデルンは、あるかなきかの微かな苦笑を口元に浮かべていた。
ラルフの世話焼きは有名で、部隊のものなら皆、一度や二度はその対象にされている。それも、そのために憎まれることを厭わないタイプだから(むしろ嫌がられるのを楽しんでいる風さえある)、かなり突っ込んだ部分にまで踏み込んで、時にはトラブルを起こすことも少なくない。
だが、それが後まで続く遺恨にならないのは、ラルフも一応踏み込むタイミングを考えていると言うべきか、それともそれが人徳なのだろうか。ハイデルンの慧眼を持ってしても、付き合いの長いクラークから見ても、それはわからないのだと言う。
「ともかく、私に異論はない。後は、お前がどうしたいかだ」
「私……私は……」
レオナは少しだけ、言葉に詰まった。口に出したら、何かと決別することになる。そんな気がして、少しだけ躊躇った。
躊躇いながらも、続く言葉ははっきりと声になった。
「レオナ・ハイデルンと名乗りたいと思います」
少女の義父は、一瞬虚を突かれたような顔をした。
ハイデルンという名は本名ではない――つまりそれは、レオナがハイデルンの戸籍に入らないことを選んだと言うことである。
戸籍がないために、今までもそうだった。血の繋がりも、戸籍の繋がりもない、形だけの親子。だが、もしレオナがそれを望むなら、もちろんハイデルンは正式な養女として受け入れるつもりでいた。
それと同じように、レオナが本当の名前――実の父母が付けた名を選ぶことも、ハイデルンは想定していた。
それも良いと思っていた。記憶は戻り、彼女の呪われた血を狙う悪夢が再び封印されたことで、彼女が身を隠す理由はなくなった。もう、偽りの父の元で、偽りの名を名乗る理由はない。
だが、レオナはそのどちらも選ばなかった。
「あなたの正式な養女であろうとなかろうと、私はあなたを父だと思っています」
血の繋がりがなくても、戸籍に記録が残らなくても、この9年、間違いなくハイデルンはレオナの父であり、レオナはハイデルンの娘であった。姓が違っても、その絆が消えるわけではない。
「そして、本当の名前を名乗ろうと名乗るまいと、あの人たちが私の父母であることには変わりません」
記憶を失おうと、名前を変えようと消えない罪があるように、血の絆で結ばれた父母が、名前ひとつで他人になる訳でもない。
だから、レオナはこの名を選んだ。レオナ・ハイデルン。
ハイデルンの最初の贈り物であるレオナという名と、彼女が知る唯一の義父の名である、ハイデルンという姓を。
「では、そう手配しておこう」
「ありがとうございます」
レオナが頭を下げると同時に、机の上で電話がなった。30分の猶予が終わるにはまだ時間があったが、それを待てないほど世界は目まぐるしく動いているらしい。
2人が話している間にも、ハイデルンのコンピューターからは何度もメールの着信音が鳴っていたし、おそらく情報仕官の元にはFAXの山ができている。感傷に浸って、無為な時間を過ごす時間の余裕はなさそうだった。また、そういうことに慣れた2人ではない。
1人で過去を振り返ることはできても、人とそれを共有できるほど、器用ではないのだ。その不器用さがラルフにしてみれば、血の繋がりはなくとも良く似た親子に見えるのだが。
「では、私はこれで」
「待て」
すっ、と一分の隙もない敬礼をして、執務室を去ろうとしたレオナを、ハイデルンが呼び止める。
「父親として、お前の新しい名を祝わせてくれ――レオナ」
祝福の鐘の音には少々けたたましい電話のベルが、もう10回目のコールを鳴らそうとしている。その中で、ハイデルンは初めて、娘が選んだ彼女の名を呼んだ。
「……ありがとう、おとうさん」
数日後、届いたケーキには、チョコレートでその名と19歳の誕生日を祝う言葉が記されていた。
「レオナ、お前の名前って、なんだっけ?」
「少なくとも、アニーとかベロニカとかクリスじゃないわ。それが?」
「そりゃ、俺がここ3ヶ月で口説いて振られた女の名前じゃねえか――って、すまん。俺の訊き方が悪かった」
どう聞いても間が抜けた質問に、冗談こそ交えたが真顔で答えた律儀な部下に向かって、ラルフは苦笑いしながら訊き直した。
「名前って言うか、あれだ、ファミリーネームの方」
レオナというのはコードネームで、彼女の本名ではない。それは前から知っていた。
こういう稼業では、人に恨まれることも少なくない。だから皆、素性を隠すためにコードネームを持っているし、部隊の中ではほとんどそれで呼び合っている。もちろん書類もそれで通る。顔が売れ過ぎて偽名も意味をなくして、それならいっそと本名で仕事をしている、ラルフやクラークの方が珍しいのだ。
だから今まで、レオナの本名を訊く機会もなかったし、そのことを気にもしていなかったのだが。
「お前の苗字って、なんだったっけか?」
数日後に控えたレオナの誕生日に、ケーキでも注文してやろうと、ラルフが世話焼きの本領を発揮したのがきっかけだった。
ケーキにお名前をお入れすることができます、お誕生日の方のフルネームは? 注文の電話口でそう訊かれ、そう言えばレオナの苗字を知らなかったということに、ラルフは今更ながらに気付いたのである。
「ないわ、特に」
ぽかん。そう表現するのがぴったりな表情とタイミングで、ラルフは口を開ける。その口から再び、まともな言葉が出るまでに掛かった時間は、たっぷり数十秒を数えた。
「……えーっと、何だよそりゃ。名無しのレオナさんって訳か?」
「一応、偽造のパスポートの名前は『レオナ・ハイデルン』になってる」
「それは偽名だろ?」
彼女の義父である、ハイデルンのその名も本名ではない。これもコードネームだ。
「ええ、そうよ。でも、名前といったらそれしかないもの」
「それしかないって、お前、本名ってもんがあるだろうよ。戸籍に載ってるやつ」
「戸籍は、持ってない」
「はぁ?」
唖然とするラルフの手の中の受話器から、お客さん、お客さんどうされました?とケーキ屋の声が聞こえてくる。そういえばまだ、電話が繋がっていたままだ。
「すまん。また掛け直す」
やや乱暴にそう伝えて、ラルフは電話を切った。電話口でケーキ屋を待たせるには申し訳ないぐらい、長い話になるだろうと思ったのだ。
「戸籍がないって、お前それ、いつからよ?」
「生まれてからずっと。出生届を出さなかったそうだから」
「――ああ、そっか」
レオナの両親が娘の出生届を出さなかった、その理由はラルフにも理解できる。
血の宿命を背負って生まれた娘を、その呪われた力を求める者達の目から隠すために、レオナの両親は長い逃亡生活を続けていたという。
娘の出生届を出さなかったのは、追手の目を少しでも遠ざけるためだろう。戸籍を持っていれば、移動の度にどうしても痕跡が残る。逆に、書類の上では存在すらしない人間を探すのは、なかなかに難しい。
「それきり、そのまんまなのか」
「そう。特に必要もなかったし」
その後、ハイデルンに引き取られたレオナは、その存在をひた隠しにして育てられた。彼女の父母が恐れたのと同じ理由と、彼女の義父が敵の多い男だったためである。
ハイデルンのような立場の人間は、自分の命だけではなく、その縁者までもが狙われることが少なくない。実際にその悲劇に遭ったハイデルンが、戸籍の上でも義娘の存在を隠したことも、ラルフには理解できる。
だが、まさか今の今まで、そのままだったとは。
「そうだよなあ。最初の勤め口がここなら、戸籍のあるなしなんて問題にならなかったもんなあ――ってお前、KOFの時はどうしてたんだ? パスポートとかビザとか」
「偽造で済ませてる」
「そっか、さっきもそう言ってたっけ。でもそれじゃお前、身分証明書もねえんじゃねえか? そんなことじゃ銀行の口座ひとつ、いやレンタルビデオ屋の会員カードも作れないだろ? そういうのはどうしてたんだ?」
「作ろうとしたことがないからわからないわ。必要ないもの」
「給料はどうしてるんだよ。貯金箱に入る額じゃねえだろう?」
「必要な額だけ残して、後は教官に預かってもらってる」
「お前ねえ……」
ほとほと呆れ果てたという口調で、ラルフは溜息と一緒に呟いた。あまりに呆れたせいで、いつものように大声で怒鳴る気力もない。
「ここにいる間はそれでもいいけどよ、ちょっと問題だぞ、それは」
「そう?」
「考えても見ろよ。この稼業以外で、戸籍もない人間を雇ってくれるようなところがあると思うか? 稼がなかったらメシも食えないんだぞ?」
「……そうね」
「同業他社に転職するとしても、この国にはもう、うちしかねえからな。一昔前ならもう幾つかあったんだが――まあ、お前の腕ならどこに行ってもやっていけるだろうが、そこまで行くのにだって、パスポートがいるんだぞ? 戸籍がなきゃ、それだって作れないんだからよ」
「そうね」
「そうね、ってお前」
レオナはと言うと、少し首を傾げて青い髪を斜めに落とし、思案顔ではあるが、何を考えているかは皆目見当も付かない。表情の乏しさはいつものことなのだが、こういう時には、こいつは何を言われているのか本当に認識できているのだろうか、と言う気分にさせられて、ラルフは頭を抱えたくなった。
「――とりあえずお前さ、この機会に戸籍作れ。ちゃんとしたやつ。そうじゃなきゃお前の場合、物理的に親離れすることもできやしねえ」
「親離れ?」
「そうだよ。今のままじゃお前、ずっとここでしか生きていけないだろうが。『教官の作った世界』の中でしか」
今はいい。それでもいい。だが、いずれそれでは済まない時が来るだろう、とラルフは思う。そして、その時が来てからでは遅いのだと思う。
「そこから出る出ないはお前の自由だけどよ、ともかく、出られないままにしておくのは感心しねえよ、俺は」
親と子で話ができるうちに――どちらがいつ、物言わぬ姿になって戻るかわからない世界で生きているのだから、それができるうちに、形にした方が良いのだと思う。
「そう……そうなのかしら?」
「そうなんだよ――おい、ちょっと待ってろよ」
そう言い放つと、ラルフはもう一度電話に向かった。しかし、掛けた先はケーキ屋ではない。
ハイデルンの秘書役を務める情報士官に連絡を入れ、その電話を切ったかと思うとまた別の部署に電話を掛け、と猛然と電話を掛けまくる。その勢いに、レオナは口を挟む間もない。
奮戦すること約10分、ふふんどうだと言わんばかりの顔で、向き直ったラルフは開口一番、
「2時間後に教官のスケジュール、30分空けたからな」
これにはレオナの方が、僅かではあるが驚きの表情を浮かべた。
分刻みのスケジュールに日々追われるハイデルンに、仕事以外で30分の時間を取らせる。それがどれだけのことであるかは、レオナにも良くわかる。むしろ、驚異的な戦果と言っていい。
だが、戦果はそれだけではなかった。
「隊の中の書類は今日中に書き換えられるとさ。戸籍そのものにも、今週いっぱいありゃ手を回せるらしい。どこの国籍でも、どこの生まれでもなんとでもなるってよ」
ラルフはすでに、そこまで手を回していたのだ。
「だから、あとは教官とお前が、話をするだけだ。30分しかねえが、名前のこととか、教官の正式な養女になるかどうかとか、ちゃんと話し合って来いよ」
そう言ってから、ラルフは一番大切なことを言い忘れた、という顔でこう付け加えた。
「あと、苗字が決まったら、すぐに教えろよ。そうじゃなきゃケーキが注文できねえ」
名前など、何でもいいと思っていた。
義父に保護された時には記憶を失っていて、両親が付けてくれた名前さえ思い出せなかった。だから、初めてレオナという名で呼ばれた時にも違和感はなかったし、それが自分の名前であることに疑問を持つこともなかった。
少なくとも、自分の周りの狭い世界――この部隊の中では、自分は「レオナ」でしかない。それ以外の名前で自分が認識されることはないし、自分でもそう認識している。
記憶が戻ってからも、本当の名前は遠い記憶の中のものでしかなく、それが自分の本名かというと不思議には思うものの、実感はなかった。
口の中で、その名を呟いてみる。古い言葉で「神は私の光」という意味を持つ名前に、父の姓。
その響きは嫌いではなかったし、どこか懐かしく優しい音でもあったが、しかしそれが自分の本当の名前かと言うと、少しだけ違うと思った。
「話は聞いた」
執務室の窓からは、南半球の夏の日差しが差し込んでいる。しかし、部屋の印象は、いつでも東欧の冬の凍てつく冷気だ。それは、レオナがこの部屋の主と過ごした日々が、ほとんどその国でのものだったがゆえの錯覚かもしれないが、その冷たさをレオナは心地よく思う。
「ラルフがまた、か」
ハイデルンは、あるかなきかの微かな苦笑を口元に浮かべていた。
ラルフの世話焼きは有名で、部隊のものなら皆、一度や二度はその対象にされている。それも、そのために憎まれることを厭わないタイプだから(むしろ嫌がられるのを楽しんでいる風さえある)、かなり突っ込んだ部分にまで踏み込んで、時にはトラブルを起こすことも少なくない。
だが、それが後まで続く遺恨にならないのは、ラルフも一応踏み込むタイミングを考えていると言うべきか、それともそれが人徳なのだろうか。ハイデルンの慧眼を持ってしても、付き合いの長いクラークから見ても、それはわからないのだと言う。
「ともかく、私に異論はない。後は、お前がどうしたいかだ」
「私……私は……」
レオナは少しだけ、言葉に詰まった。口に出したら、何かと決別することになる。そんな気がして、少しだけ躊躇った。
躊躇いながらも、続く言葉ははっきりと声になった。
「レオナ・ハイデルンと名乗りたいと思います」
少女の義父は、一瞬虚を突かれたような顔をした。
ハイデルンという名は本名ではない――つまりそれは、レオナがハイデルンの戸籍に入らないことを選んだと言うことである。
戸籍がないために、今までもそうだった。血の繋がりも、戸籍の繋がりもない、形だけの親子。だが、もしレオナがそれを望むなら、もちろんハイデルンは正式な養女として受け入れるつもりでいた。
それと同じように、レオナが本当の名前――実の父母が付けた名を選ぶことも、ハイデルンは想定していた。
それも良いと思っていた。記憶は戻り、彼女の呪われた血を狙う悪夢が再び封印されたことで、彼女が身を隠す理由はなくなった。もう、偽りの父の元で、偽りの名を名乗る理由はない。
だが、レオナはそのどちらも選ばなかった。
「あなたの正式な養女であろうとなかろうと、私はあなたを父だと思っています」
血の繋がりがなくても、戸籍に記録が残らなくても、この9年、間違いなくハイデルンはレオナの父であり、レオナはハイデルンの娘であった。姓が違っても、その絆が消えるわけではない。
「そして、本当の名前を名乗ろうと名乗るまいと、あの人たちが私の父母であることには変わりません」
記憶を失おうと、名前を変えようと消えない罪があるように、血の絆で結ばれた父母が、名前ひとつで他人になる訳でもない。
だから、レオナはこの名を選んだ。レオナ・ハイデルン。
ハイデルンの最初の贈り物であるレオナという名と、彼女が知る唯一の義父の名である、ハイデルンという姓を。
「では、そう手配しておこう」
「ありがとうございます」
レオナが頭を下げると同時に、机の上で電話がなった。30分の猶予が終わるにはまだ時間があったが、それを待てないほど世界は目まぐるしく動いているらしい。
2人が話している間にも、ハイデルンのコンピューターからは何度もメールの着信音が鳴っていたし、おそらく情報仕官の元にはFAXの山ができている。感傷に浸って、無為な時間を過ごす時間の余裕はなさそうだった。また、そういうことに慣れた2人ではない。
1人で過去を振り返ることはできても、人とそれを共有できるほど、器用ではないのだ。その不器用さがラルフにしてみれば、血の繋がりはなくとも良く似た親子に見えるのだが。
「では、私はこれで」
「待て」
すっ、と一分の隙もない敬礼をして、執務室を去ろうとしたレオナを、ハイデルンが呼び止める。
「父親として、お前の新しい名を祝わせてくれ――レオナ」
祝福の鐘の音には少々けたたましい電話のベルが、もう10回目のコールを鳴らそうとしている。その中で、ハイデルンは初めて、娘が選んだ彼女の名を呼んだ。
「……ありがとう、おとうさん」
数日後、届いたケーキには、チョコレートでその名と19歳の誕生日を祝う言葉が記されていた。
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