ヒィッツカラルドの執務室に珍しく残月がいた。
この2人、任務で同行することはあっても普段は特に親しくしている間柄ではなかったが今はテーブル上のチェス盤を挟んでチェスに興じている。
二手に分かれて取り仕切った共同作戦も朝方には成功、2人とも担当支部へ支持を出し結果報告などの残務処理を終えた後は執り行う作戦も特になくペーパーワークも済ませていたため暇を持て余していた。そしてたまたま共通の趣味がチェスだったのでこうして時間をのんびりと潰している、ということだった。
ヒィッツカラルドが淹れた香り高いエスプレッソ・ソロに砂糖を軽めに一杯、そして残月は盤上で自分が優勢なのに満足する。一方眉間に皺を寄せて劣勢をどう打開しようかと頭をひねるヒィッツカラルド。このままでは負けてしまう、それはチェスに関しては腕に覚えありと自負する自分が許さない。なによりもこの覆面男に勝ちを譲るのは面白くない。
長考しはじめたヒィッツカラルドだったがその時執務室のドアをノックする音がした。
「開いている、入りたまえ」
「失礼しますヒィッツカラルド様」
「?おや、お嬢ちゃんか」
入ってきたのはサニー、温室の一件(「禁断の果実はかくも甘く」参照)以来ヒィッツカラルドに対する苦手意識が無くなったのか、珍しく自分から彼を訪ねてきたのだった。
「あ、また出直します」
そう言って引っ込もうとしたのは両者に挟まれているチェス盤を見たため。
「いやいやいや、そんなことはない待ちたまえ、お嬢ちゃんが来たなら勝負はお預けだ。そうだろう?白昼の」
「あ!ヒィッツカラルド貴様っ」
ヒィッツカラルドは劣勢だっチェスの駒を手でかき混ぜるように崩してしまった。
「・・・まったく・・・見事な逃げっぷりだな、いいか再戦は近いうちにするからな」
残月は溜息をついてエスプレッソを一気に飲み干した。
チェスの名手から勝ちを奪う絶好の機会であったがもうどうしようもない。
「済みません・・・」
「いや、いいのだよ、お嬢ちゃんは私に負けを与えない女神だ」
相変わらずの調子とは言え、よくもまぁそんなことがスラリと吐けるものだと残月は呆れながらも感心する。
「さて、私に何か用かな?」
「あの・・・」
口ごもるサニーは何か戸惑っているようだった。
その様子に残月とヒィッツカラルドは顔を見合わせた。
「サニー、私がいて言いにくいのであれば席を外すが」
「いえ、残月様そうではないのです」
少し赤くなってようやく口を開いた。
「ヒィッツカラルド様のお持ちでいらっしゃる香水を・・・私にも少しつけさせていただきたいのです、だめですか?」
両者は再び顔を見合わせる。香水、確かにヒィッツカラルドは常に香水をつけている。さらに言えばヒィッツカラルド以外常日頃香水をつける者はほとんど居ない。せいぜい紳士の身だしなみ程度の香り付けにセルバンテスやアルベルト、そして今いる残月がつけるくらい。それでも「お洒落の香水」といえるべきものはヒィッツカラルドぐらいなものだった。
ヒィッツカラルドは「ふむ」と頷くと執務室の壁にある古代樫で作られた見事な彫り飾りの戸棚を開けた。中には約40種類くらいだろうか、様ざまな形と色の瓶が並んでおり、そのいずれもが彼がTPOによって使い分けている香水。男性用のモノもあれば女性用のモノもあって彼にとっては気に入れば関係ないらしい。執務室に広がるのはそんな香りが混じりあったさらに濃厚な香り。
「わぁ・・・」
宝石にも見える綺麗な香水瓶、女性を魅了するその色と輝き。
思わずサニーがため息とともに声を漏らす。
「もちろんつけるのは全く構わないが、お嬢ちゃんどうしてまた」
「実は樊瑞のおじ様が今夜オペラ鑑賞に私を連れて行ってくださるとおっしゃられたので・・・その・・・」
「ふむ、樊瑞がオペラとは・・・これまた随分と不思議な取り合わせだ」
残月が覆面の下で目を丸くして言うとヒィッツカラルドも同じ表情。
2人にしてみればあの堅物仙人がオペラとは、といった具合だった。
「いえ、テレビでしか見たことが無かったので・・・私がわがままを言って一度劇場で本物のオペラを見てみたいとお願いしたのです」
「なるほど、オペラ鑑賞ともなれば正装であり女性ともなればとびきりお洒落しないとな。それでお嬢ちゃん、香水を、というわけなんだろう?」
「はい・・・」
気恥ずかしそうに俯く少女を前に納得する2人、そして少しでもお洒落したいと考えるのはやはり子どもであっても女であるには変わりない、ということかとも思う。
が、残月はふと疑問に思う。
「サニー、着ていくドレスは誰が用意するのかね」
「ドレス・・・ですか?それがおじ様がこれを着ていけばいいと」
サニーが今着ているいつもの服だった。確かに可愛い服ではあるが、それは当然オペラといったハイクラスの社交場へ足を踏み入れるにはあまりにも場違い。「そういった感覚」に極めて乏しい樊瑞ならばそれで十分だと思うだろうが。
しかし見るにやや浮かないサニーの表情。彼女自身「この服じゃ違うかも」と気づいているのかもしれない。そろそろ「年頃」といえるはずなのに普段でもお洒落を楽しむことが少ないサニー、先日の一件(「love letter」参照)のこともあり残月としてはむくつけき男ばかりに囲まれるという特殊な環境に身を置く少女を少し不憫に思う。
「ううむ・・・そのいつもの服ではせっかくのオペラも面白くはないだろ・・・」
「でもオペラに着て行くようなドレスは持っていないので」
「なんと・・・生粋の貴族である衝撃の娘がドレス一枚も持ってはいないでは、これは問題だろう。親も親なら後見人も後見人だな」
「まったくだ、着飾る喜びを与えないとは罪深い・・・よし!よかろう!お嬢ちゃんは私の女神だ、一肌脱ごうではないか」
ヒィッツカラルドがそう言うと「まずドレスだ、それと靴。他は後でいいか」とつぶやきながら執務室のデスクに座る、デスクから光彩モニターとキーボードが浮かびあがり「セルバンテスは確かリビアだったな」と残月に確認し手早くキーボードを操作する。
そしてその最先端の機器の横にある骨董品的なデザインの電話の受話器を手に取った。
「あーセルバンテスか、私だヒィッツカラルドだ、任務ご苦労だな。ところでいつこちらへ戻る予定だ?何?国際警察機構と交戦中だから後にしろ?ふん、いいのか?そんなことを言って、お嬢ちゃんが「セルバンテスのおじ様」の助けを求めているのだが?」
受話器の向こう側は激しい銃撃音と怒声や悲鳴が飛び交っている。しかしそれ以上に大きな声で「1分待て!」とセルバンテスが叫んだ。すぐに聞き取れないほどの大きな音が鳴り響き1分経過、受話器の向こうが気味が悪いほどに静かになった。落ち着いたところでセルバンテスに事の次第を説明し「オペラに行くお嬢ちゃんが輝くドレスが欲しい、それと靴だ」とだけ伝え受話器を置いた。
「これでよし、ふふふ魔法使いに言っておいたから後はのんびり待つだけだ」
「うむ、一時間もすれば山のようにドレスと靴がやってくるだろう。サニー、君が心配することは何も無い、まぁ我々に任せてくれないか」
妙な結束力を発揮しだした2人を前にサニーは眼を丸くするばかりだった。
3人がお茶して過ごして一時間後、クフィーヤの裾を少し焦がしたセルバンテスが大量の紙袋を抱えヒィッツカラルドの執務室にやってきた。紙袋はすべて高級の上にに超がつく一般人では到底手が出ないVIP御用達ブランドのものだった。
「いやあ~どれがいいか選びきれなくてね、とりあえずいっぱいだよははは」
世界屈指の大富豪オイル・ダラーの一声あればどの店も喜んで自慢のドレスとを持ってくる。そんな魔法を使う魔法使いが笑いながら紙袋から取り出したのは仕立ての良いマーメイドラインのクリムゾンレッドのイブニングドレス。他にも胸元に白い薔薇飾りをあしらった裾にボリュームのある愛らしい白ドレス、様ざまなデザインのドレスがどんどん目の前に並べられていく。子供用とはいえいずれも大人顔負けの本格的な仕立てとデザイン。靴もまた普段履くことの無いお洒落なものばかり幼い頃に絵本で見たおとぎ話のお姫様を思い浮かべててサニーは目を輝かせた。
「これなんか華美に走らず清楚な印象がなかなか良いと思うが、足元はこの赤いので合わせればバランスがとれる」
「あーそれよりこっちの黄色いリボンがポイントのが可愛いじゃないかな女の子らしくって私は好きだがねぇ、それと靴はこの白いのがいいなぁ」
「まてまて、お嬢ちゃんの色気を引き出すにはこのドレスがいい、そしてあわせるならこのヒールのある靴だ。」
ところが真っ先にドレスと靴に飛びついたのは男3人。いつになく真剣な顔でドレスを手に取りあれこれと独自のセンスを披露する、いったい何がそこまで本気にさせるのかわからないがやけに楽しそうにも見えるから不思議だ。
しばらくしてサニーそっちのけの十傑集3人によるドレス選考会はようやく終結したらしく、ヒィッツカラルドの手に残ったのは胸元に同系色の花柄の刺繍があしらわれたベビーピンクのドレス、そしてリボンのついた白い靴。
「さあ、お嬢ちゃん早速着てみたまえ」
満場一致のドレスを手渡し執務室に隣接された小部屋に案内して3人はサニーがドレスに着替えるのをまった。
しばらくして現れたのはベビーピンクのドレスを着た小さなお姫様。ポイントは胸元から首回りまでの繊細な花柄の刺繍でジルコニアを贅沢に散りばめられ上品な光沢を放つ。腰から緩やかに広がるスカートの裾にも刺繍が施され揺れ動くと表情を変える。そしてノースリーブの腕には二の腕まであるシルクの白手袋。足元の白い靴が非常にバランス良く全体を締めているように思える。
「おかしくないですか?なんだかこういうの着るのって恥ずかしいです」
「おかしいなどとはとんでもない、サニー良く似合っているぞ」
「うん、そうだとも素敵なお姫様だよ」
「ちゃんとドレスを着こなしている、たいしたもんだ」
よしっ、とばかりに頷きあう3人。普段ならありえない光景だがいわゆるひとつのサニーマジックというやつなのかもしれない。
「む、しかしサニーには少々サイズが大きいな」
残月が目ざとく腰周りの余分を見つけた。サニーに「動かないでいなさい」と言いどこから取り出したのか1本の針、選ばれなかったドレスの中から同系色の物を取ってそこから一本の糸を引っ張る。そしてドレスの余分部分を摘み上げると手早く綺麗に縫い上げてしまった。
「これでいい、身体に沿ってはいるがきつくはないはずだ」
「はい、ありがとうございます」
とたんにオーダーメードのドレスに早変わりし、細かい変化なのに大きく見違える。
「ドレスが決まればあとは・・・ヘアースタイルか」
ヒィッツカラルドが指を顎にあてながらサニーのドレス姿を観察、そしてひとつ頷くとボリュームのあるサニーの髪をそっと掴み上げる。繊細な指さばきでそれを捻ったり編んだりし、器用なことにピンを一本も使わないでボリュームを程よく抑えたアップスタイルに整えてしまった。仕上げに自分が愛用している整髪料を毛先に馴染ませ、執務室に飾られていた白い薔薇を1本手折りると髪にそっと差し込んだ。
「白い薔薇がサニーの髪によく映える、そして大人っぽくなったな」
「サニーちゃんが髪をアップにしたのを見たの初めてだが、随分と印象が変わるねぇ」
他の2人にも、サニーにも好評のようだった。
「それじゃあ私からサニーちゃんへのプレゼントだ」
といってセルバンテスが胸ポケットから取り出したのはどこで買ったのかリップグロス。「年頃のレディの身だしなみだ、使いたまえ」とサニーに笑顔で手渡した。
「さすがと言うべきか用意がいいな眩惑の」
「当然だ、ドレスを着るだけでは女性は輝かないからね」
「さて、お嬢ちゃんいかがかな?香水は私が後で合うものをつけてあげよう」
サニーは顔も瞳もキラキラ輝かせて「ありがとうございます」と三人に頭を下げた。
その表情は三人を十分に満足させるものだった。
「しかし、樊瑞がこのレディを上手くエスコートできるかどうか・・・」
残月が火の点いていない煙管を咥える。ヒィッツカラルドも同感だった、あの男のことだ、いつもの趣味の悪いピンクのマントを翻して劇場に乗り込むに違いないと思う。いくら最近は昔ながらの「男はタキシード、女はイブニングドレス」といったお決まりの正装を求めなくなったとしてもそんな野暮な男を引き連れてはこの小さなレディは周囲の冷たい視線を浴びることになるだろう。それに男が場に慣れていないというのが最大の問題。セルバンテスも「むー」と唸り他の2人と同じ不安を抱えた。
「サニーちゃん、今夜はどこの劇場に鑑賞しに行くのかね?」
一計を思いついたのはセルバンテスだった。
着飾った紳士淑女たちが格式高いオペラ座に集まってきていた。
数あるオペラ座の中でも最も格式があるそこは楽しむ人々もまた社交界の中でもハイクラスの者たち。中には有名人、著名人も混じっているようだ。
そこに一台のリムジンが止まる。リムジンでも最高クラスのロングリムジン、磨き上げられた黒の光沢を放って否応がなしにも周囲の目を引く。ブラウンの髪の男がすばやくリムジンから降りて後部差席のドアを開ければ中から出てきたのは小さなレディ、恭しく手を添えられて車から降りてきた。
「これなら安心だ」
「うむ、魔王なんかに任せられないからねぇ」
「しかしまだ着いていないのか樊瑞は、女性と待ち合わせして時間に遅れるとは信じられない奴だ」
当然といっていいのかそこには・・・
ヒィッツカラルドは上品なクリーム色のダブルスーツ、光沢のある黒のシルクシャツは同色の糸でスプライト模様。そしていつもより幅広の白ネクタイ。ブラウンの髪を白い指で掻き上げているが指には凝った装飾が施されたシルバーリングが2つ輝く。
セルバンテスはいつもの白クフィーヤはどこかへ置いてきたのか珍しく地毛の黒髪を披露。仕立ての良いオフホワイトのスーツに映える赤銅色の綿シャツ。黒のネクタイと目にダイヤが埋められた髑髏を飾ったプラチナのネクタイピン。目元は細いフレームで薄い黄色味をおびた眼鏡。
残月はいつもと同じだが夜会用なのかスーツの裾がいつもよりやや長め、今日はシルクのチーフが胸ポケットに形良くしまわれている。当然いつもの覆面ではなく、地毛なのかウイッグなのかは誰もわからないが艶のある黒髪。目元は最新ブランドのスタイリッシュなサングラス。そしてやはり白手袋を被った手に持たれるのは朱塗りの煙管。
背が高く、魅力を存分に引き出す着こなしで乗り込んだ例の3人。
眼の肥えた淑女たちの熱い視線を受ける3人でもある。
そしてその3人に囲まれる愛らしいレディ。そういう状況がそこにあった。
「ああ、来た来た、ほらやっぱりあのマントだ」
苦笑するのはセルバンテス。案の定樊瑞は「いつもの格好」で劇場に乗り込んできた。セルバンテスがサニーを劇場に送るというので時間を合わせていたのだが、任務に少々手間取ってしまい大慌てで駆けつけたのだった。
「待たせたなセルバンテスっなな!?なんだお主たち、んん?残月?ヒィッツカラルド?」
「遅いぞ混世魔王、レディを待たせるんじゃない」
「それになんだその格好は、さっさとマントを取れみっともない」
一瞬にして残月に剥がされるようにマントを取られてしまった。それでもやぼったいスーツには変わりない、ついでに言えば伸ばし放題の長い髪もこの場では野暮ったさの極みだった。
「ちょ・・・何をする、んん?サニー?サニーなのか??」
少し照れた笑顔を浮かべ、ドレスの裾を持ち上げおしとやかに『おじ様』に挨拶をするサニー。樊瑞は口をあんぐりとあけて半分以上正気を失っている様子だった。あまりに素晴らしく見違えた姿に言葉が出ない。
「ほら、貴様の分の衣装も用意してやったんだ、車の中で着替えて来い。いいか?その鬱陶しい髪は丁寧に結ぶんだぞ?そして早くしろ幕が上がってしまう」
ヒィッツカラルドは呆然としている樊瑞を蹴飛ばすようにリムジンに押し込んだ。5分ほどしてすこし赤い顔をした樊瑞が出てくる。スーツは一目で上等だとわかるダークブラック、シャツは同系色のシルク刺繍が入った白の綿シャツ、そして光沢を帯びた黒のネクタイ。胸元にはプラチナの細いチェーンブローチ。そして額に沿って丁寧に撫で付けられ長い髪は一つに束ねられている。普段の彼からは想像もつかないほどにずいぶんとすっきりとした印象になった。
もともとの素材が良いだけに様変わりが素晴らしい。
そこには野暮ったさなど存在しない、洗練された男ぶりの良い紳士がいるだけだった。
「わあ・・・おじさま、とっても素敵です」
サニーが見とれるように自分を見るのでどうしていいのかわからず赤くなる。
「さて、それではオペラ鑑賞といきましょうか?お嬢様、旦那様」
セルバンテスの手には5枚のチケット。
そして「うむ」とうなずく残月とヒィッツカラルド。
「はぁ?だ、旦那様?え?私がか?」
「樊瑞・・・君はオペラ鑑賞の作法をしらないだろう?」
「オペラを見るのに作法があるのか?」
「当たり前だ、お前はこういった場の経験はなかろう。サニーに恥かしい思いをさせたくなければこそこうして我々3人が協力してやろうというのだ。お前は胸を張ってサニーの横についていてやれ、あとは我々がフォローしてやる感謝するが良い」
目の前にするどく煙管を突きつけられ、残月の言葉にぐぅの音もでない。横ではヒィッツカラルドが手慣れた手つきで劇場の使用人にチップを渡しリムジンを預けている。こういう世界を知らない自分にはとうてい真似できないことだ。
「むむ・・・すまん、お主らに頼むとしよう」
「ふふ、まぁ我々に任せて君は気楽にいきたまえ」
2人を引き立てるように腰を折る3人。
「さあ、お嬢様、旦那様」
色男にエスコートされ淑女たちの羨望を一身に浴びるのはサニー。自分の手を大切に握ってくれる大きな手に引き連れられてオペラ座の階段を上っていく。
少女には何もかもが輝いて見えたのだった。
END
この2人、任務で同行することはあっても普段は特に親しくしている間柄ではなかったが今はテーブル上のチェス盤を挟んでチェスに興じている。
二手に分かれて取り仕切った共同作戦も朝方には成功、2人とも担当支部へ支持を出し結果報告などの残務処理を終えた後は執り行う作戦も特になくペーパーワークも済ませていたため暇を持て余していた。そしてたまたま共通の趣味がチェスだったのでこうして時間をのんびりと潰している、ということだった。
ヒィッツカラルドが淹れた香り高いエスプレッソ・ソロに砂糖を軽めに一杯、そして残月は盤上で自分が優勢なのに満足する。一方眉間に皺を寄せて劣勢をどう打開しようかと頭をひねるヒィッツカラルド。このままでは負けてしまう、それはチェスに関しては腕に覚えありと自負する自分が許さない。なによりもこの覆面男に勝ちを譲るのは面白くない。
長考しはじめたヒィッツカラルドだったがその時執務室のドアをノックする音がした。
「開いている、入りたまえ」
「失礼しますヒィッツカラルド様」
「?おや、お嬢ちゃんか」
入ってきたのはサニー、温室の一件(「禁断の果実はかくも甘く」参照)以来ヒィッツカラルドに対する苦手意識が無くなったのか、珍しく自分から彼を訪ねてきたのだった。
「あ、また出直します」
そう言って引っ込もうとしたのは両者に挟まれているチェス盤を見たため。
「いやいやいや、そんなことはない待ちたまえ、お嬢ちゃんが来たなら勝負はお預けだ。そうだろう?白昼の」
「あ!ヒィッツカラルド貴様っ」
ヒィッツカラルドは劣勢だっチェスの駒を手でかき混ぜるように崩してしまった。
「・・・まったく・・・見事な逃げっぷりだな、いいか再戦は近いうちにするからな」
残月は溜息をついてエスプレッソを一気に飲み干した。
チェスの名手から勝ちを奪う絶好の機会であったがもうどうしようもない。
「済みません・・・」
「いや、いいのだよ、お嬢ちゃんは私に負けを与えない女神だ」
相変わらずの調子とは言え、よくもまぁそんなことがスラリと吐けるものだと残月は呆れながらも感心する。
「さて、私に何か用かな?」
「あの・・・」
口ごもるサニーは何か戸惑っているようだった。
その様子に残月とヒィッツカラルドは顔を見合わせた。
「サニー、私がいて言いにくいのであれば席を外すが」
「いえ、残月様そうではないのです」
少し赤くなってようやく口を開いた。
「ヒィッツカラルド様のお持ちでいらっしゃる香水を・・・私にも少しつけさせていただきたいのです、だめですか?」
両者は再び顔を見合わせる。香水、確かにヒィッツカラルドは常に香水をつけている。さらに言えばヒィッツカラルド以外常日頃香水をつける者はほとんど居ない。せいぜい紳士の身だしなみ程度の香り付けにセルバンテスやアルベルト、そして今いる残月がつけるくらい。それでも「お洒落の香水」といえるべきものはヒィッツカラルドぐらいなものだった。
ヒィッツカラルドは「ふむ」と頷くと執務室の壁にある古代樫で作られた見事な彫り飾りの戸棚を開けた。中には約40種類くらいだろうか、様ざまな形と色の瓶が並んでおり、そのいずれもが彼がTPOによって使い分けている香水。男性用のモノもあれば女性用のモノもあって彼にとっては気に入れば関係ないらしい。執務室に広がるのはそんな香りが混じりあったさらに濃厚な香り。
「わぁ・・・」
宝石にも見える綺麗な香水瓶、女性を魅了するその色と輝き。
思わずサニーがため息とともに声を漏らす。
「もちろんつけるのは全く構わないが、お嬢ちゃんどうしてまた」
「実は樊瑞のおじ様が今夜オペラ鑑賞に私を連れて行ってくださるとおっしゃられたので・・・その・・・」
「ふむ、樊瑞がオペラとは・・・これまた随分と不思議な取り合わせだ」
残月が覆面の下で目を丸くして言うとヒィッツカラルドも同じ表情。
2人にしてみればあの堅物仙人がオペラとは、といった具合だった。
「いえ、テレビでしか見たことが無かったので・・・私がわがままを言って一度劇場で本物のオペラを見てみたいとお願いしたのです」
「なるほど、オペラ鑑賞ともなれば正装であり女性ともなればとびきりお洒落しないとな。それでお嬢ちゃん、香水を、というわけなんだろう?」
「はい・・・」
気恥ずかしそうに俯く少女を前に納得する2人、そして少しでもお洒落したいと考えるのはやはり子どもであっても女であるには変わりない、ということかとも思う。
が、残月はふと疑問に思う。
「サニー、着ていくドレスは誰が用意するのかね」
「ドレス・・・ですか?それがおじ様がこれを着ていけばいいと」
サニーが今着ているいつもの服だった。確かに可愛い服ではあるが、それは当然オペラといったハイクラスの社交場へ足を踏み入れるにはあまりにも場違い。「そういった感覚」に極めて乏しい樊瑞ならばそれで十分だと思うだろうが。
しかし見るにやや浮かないサニーの表情。彼女自身「この服じゃ違うかも」と気づいているのかもしれない。そろそろ「年頃」といえるはずなのに普段でもお洒落を楽しむことが少ないサニー、先日の一件(「love letter」参照)のこともあり残月としてはむくつけき男ばかりに囲まれるという特殊な環境に身を置く少女を少し不憫に思う。
「ううむ・・・そのいつもの服ではせっかくのオペラも面白くはないだろ・・・」
「でもオペラに着て行くようなドレスは持っていないので」
「なんと・・・生粋の貴族である衝撃の娘がドレス一枚も持ってはいないでは、これは問題だろう。親も親なら後見人も後見人だな」
「まったくだ、着飾る喜びを与えないとは罪深い・・・よし!よかろう!お嬢ちゃんは私の女神だ、一肌脱ごうではないか」
ヒィッツカラルドがそう言うと「まずドレスだ、それと靴。他は後でいいか」とつぶやきながら執務室のデスクに座る、デスクから光彩モニターとキーボードが浮かびあがり「セルバンテスは確かリビアだったな」と残月に確認し手早くキーボードを操作する。
そしてその最先端の機器の横にある骨董品的なデザインの電話の受話器を手に取った。
「あーセルバンテスか、私だヒィッツカラルドだ、任務ご苦労だな。ところでいつこちらへ戻る予定だ?何?国際警察機構と交戦中だから後にしろ?ふん、いいのか?そんなことを言って、お嬢ちゃんが「セルバンテスのおじ様」の助けを求めているのだが?」
受話器の向こう側は激しい銃撃音と怒声や悲鳴が飛び交っている。しかしそれ以上に大きな声で「1分待て!」とセルバンテスが叫んだ。すぐに聞き取れないほどの大きな音が鳴り響き1分経過、受話器の向こうが気味が悪いほどに静かになった。落ち着いたところでセルバンテスに事の次第を説明し「オペラに行くお嬢ちゃんが輝くドレスが欲しい、それと靴だ」とだけ伝え受話器を置いた。
「これでよし、ふふふ魔法使いに言っておいたから後はのんびり待つだけだ」
「うむ、一時間もすれば山のようにドレスと靴がやってくるだろう。サニー、君が心配することは何も無い、まぁ我々に任せてくれないか」
妙な結束力を発揮しだした2人を前にサニーは眼を丸くするばかりだった。
3人がお茶して過ごして一時間後、クフィーヤの裾を少し焦がしたセルバンテスが大量の紙袋を抱えヒィッツカラルドの執務室にやってきた。紙袋はすべて高級の上にに超がつく一般人では到底手が出ないVIP御用達ブランドのものだった。
「いやあ~どれがいいか選びきれなくてね、とりあえずいっぱいだよははは」
世界屈指の大富豪オイル・ダラーの一声あればどの店も喜んで自慢のドレスとを持ってくる。そんな魔法を使う魔法使いが笑いながら紙袋から取り出したのは仕立ての良いマーメイドラインのクリムゾンレッドのイブニングドレス。他にも胸元に白い薔薇飾りをあしらった裾にボリュームのある愛らしい白ドレス、様ざまなデザインのドレスがどんどん目の前に並べられていく。子供用とはいえいずれも大人顔負けの本格的な仕立てとデザイン。靴もまた普段履くことの無いお洒落なものばかり幼い頃に絵本で見たおとぎ話のお姫様を思い浮かべててサニーは目を輝かせた。
「これなんか華美に走らず清楚な印象がなかなか良いと思うが、足元はこの赤いので合わせればバランスがとれる」
「あーそれよりこっちの黄色いリボンがポイントのが可愛いじゃないかな女の子らしくって私は好きだがねぇ、それと靴はこの白いのがいいなぁ」
「まてまて、お嬢ちゃんの色気を引き出すにはこのドレスがいい、そしてあわせるならこのヒールのある靴だ。」
ところが真っ先にドレスと靴に飛びついたのは男3人。いつになく真剣な顔でドレスを手に取りあれこれと独自のセンスを披露する、いったい何がそこまで本気にさせるのかわからないがやけに楽しそうにも見えるから不思議だ。
しばらくしてサニーそっちのけの十傑集3人によるドレス選考会はようやく終結したらしく、ヒィッツカラルドの手に残ったのは胸元に同系色の花柄の刺繍があしらわれたベビーピンクのドレス、そしてリボンのついた白い靴。
「さあ、お嬢ちゃん早速着てみたまえ」
満場一致のドレスを手渡し執務室に隣接された小部屋に案内して3人はサニーがドレスに着替えるのをまった。
しばらくして現れたのはベビーピンクのドレスを着た小さなお姫様。ポイントは胸元から首回りまでの繊細な花柄の刺繍でジルコニアを贅沢に散りばめられ上品な光沢を放つ。腰から緩やかに広がるスカートの裾にも刺繍が施され揺れ動くと表情を変える。そしてノースリーブの腕には二の腕まであるシルクの白手袋。足元の白い靴が非常にバランス良く全体を締めているように思える。
「おかしくないですか?なんだかこういうの着るのって恥ずかしいです」
「おかしいなどとはとんでもない、サニー良く似合っているぞ」
「うん、そうだとも素敵なお姫様だよ」
「ちゃんとドレスを着こなしている、たいしたもんだ」
よしっ、とばかりに頷きあう3人。普段ならありえない光景だがいわゆるひとつのサニーマジックというやつなのかもしれない。
「む、しかしサニーには少々サイズが大きいな」
残月が目ざとく腰周りの余分を見つけた。サニーに「動かないでいなさい」と言いどこから取り出したのか1本の針、選ばれなかったドレスの中から同系色の物を取ってそこから一本の糸を引っ張る。そしてドレスの余分部分を摘み上げると手早く綺麗に縫い上げてしまった。
「これでいい、身体に沿ってはいるがきつくはないはずだ」
「はい、ありがとうございます」
とたんにオーダーメードのドレスに早変わりし、細かい変化なのに大きく見違える。
「ドレスが決まればあとは・・・ヘアースタイルか」
ヒィッツカラルドが指を顎にあてながらサニーのドレス姿を観察、そしてひとつ頷くとボリュームのあるサニーの髪をそっと掴み上げる。繊細な指さばきでそれを捻ったり編んだりし、器用なことにピンを一本も使わないでボリュームを程よく抑えたアップスタイルに整えてしまった。仕上げに自分が愛用している整髪料を毛先に馴染ませ、執務室に飾られていた白い薔薇を1本手折りると髪にそっと差し込んだ。
「白い薔薇がサニーの髪によく映える、そして大人っぽくなったな」
「サニーちゃんが髪をアップにしたのを見たの初めてだが、随分と印象が変わるねぇ」
他の2人にも、サニーにも好評のようだった。
「それじゃあ私からサニーちゃんへのプレゼントだ」
といってセルバンテスが胸ポケットから取り出したのはどこで買ったのかリップグロス。「年頃のレディの身だしなみだ、使いたまえ」とサニーに笑顔で手渡した。
「さすがと言うべきか用意がいいな眩惑の」
「当然だ、ドレスを着るだけでは女性は輝かないからね」
「さて、お嬢ちゃんいかがかな?香水は私が後で合うものをつけてあげよう」
サニーは顔も瞳もキラキラ輝かせて「ありがとうございます」と三人に頭を下げた。
その表情は三人を十分に満足させるものだった。
「しかし、樊瑞がこのレディを上手くエスコートできるかどうか・・・」
残月が火の点いていない煙管を咥える。ヒィッツカラルドも同感だった、あの男のことだ、いつもの趣味の悪いピンクのマントを翻して劇場に乗り込むに違いないと思う。いくら最近は昔ながらの「男はタキシード、女はイブニングドレス」といったお決まりの正装を求めなくなったとしてもそんな野暮な男を引き連れてはこの小さなレディは周囲の冷たい視線を浴びることになるだろう。それに男が場に慣れていないというのが最大の問題。セルバンテスも「むー」と唸り他の2人と同じ不安を抱えた。
「サニーちゃん、今夜はどこの劇場に鑑賞しに行くのかね?」
一計を思いついたのはセルバンテスだった。
着飾った紳士淑女たちが格式高いオペラ座に集まってきていた。
数あるオペラ座の中でも最も格式があるそこは楽しむ人々もまた社交界の中でもハイクラスの者たち。中には有名人、著名人も混じっているようだ。
そこに一台のリムジンが止まる。リムジンでも最高クラスのロングリムジン、磨き上げられた黒の光沢を放って否応がなしにも周囲の目を引く。ブラウンの髪の男がすばやくリムジンから降りて後部差席のドアを開ければ中から出てきたのは小さなレディ、恭しく手を添えられて車から降りてきた。
「これなら安心だ」
「うむ、魔王なんかに任せられないからねぇ」
「しかしまだ着いていないのか樊瑞は、女性と待ち合わせして時間に遅れるとは信じられない奴だ」
当然といっていいのかそこには・・・
ヒィッツカラルドは上品なクリーム色のダブルスーツ、光沢のある黒のシルクシャツは同色の糸でスプライト模様。そしていつもより幅広の白ネクタイ。ブラウンの髪を白い指で掻き上げているが指には凝った装飾が施されたシルバーリングが2つ輝く。
セルバンテスはいつもの白クフィーヤはどこかへ置いてきたのか珍しく地毛の黒髪を披露。仕立ての良いオフホワイトのスーツに映える赤銅色の綿シャツ。黒のネクタイと目にダイヤが埋められた髑髏を飾ったプラチナのネクタイピン。目元は細いフレームで薄い黄色味をおびた眼鏡。
残月はいつもと同じだが夜会用なのかスーツの裾がいつもよりやや長め、今日はシルクのチーフが胸ポケットに形良くしまわれている。当然いつもの覆面ではなく、地毛なのかウイッグなのかは誰もわからないが艶のある黒髪。目元は最新ブランドのスタイリッシュなサングラス。そしてやはり白手袋を被った手に持たれるのは朱塗りの煙管。
背が高く、魅力を存分に引き出す着こなしで乗り込んだ例の3人。
眼の肥えた淑女たちの熱い視線を受ける3人でもある。
そしてその3人に囲まれる愛らしいレディ。そういう状況がそこにあった。
「ああ、来た来た、ほらやっぱりあのマントだ」
苦笑するのはセルバンテス。案の定樊瑞は「いつもの格好」で劇場に乗り込んできた。セルバンテスがサニーを劇場に送るというので時間を合わせていたのだが、任務に少々手間取ってしまい大慌てで駆けつけたのだった。
「待たせたなセルバンテスっなな!?なんだお主たち、んん?残月?ヒィッツカラルド?」
「遅いぞ混世魔王、レディを待たせるんじゃない」
「それになんだその格好は、さっさとマントを取れみっともない」
一瞬にして残月に剥がされるようにマントを取られてしまった。それでもやぼったいスーツには変わりない、ついでに言えば伸ばし放題の長い髪もこの場では野暮ったさの極みだった。
「ちょ・・・何をする、んん?サニー?サニーなのか??」
少し照れた笑顔を浮かべ、ドレスの裾を持ち上げおしとやかに『おじ様』に挨拶をするサニー。樊瑞は口をあんぐりとあけて半分以上正気を失っている様子だった。あまりに素晴らしく見違えた姿に言葉が出ない。
「ほら、貴様の分の衣装も用意してやったんだ、車の中で着替えて来い。いいか?その鬱陶しい髪は丁寧に結ぶんだぞ?そして早くしろ幕が上がってしまう」
ヒィッツカラルドは呆然としている樊瑞を蹴飛ばすようにリムジンに押し込んだ。5分ほどしてすこし赤い顔をした樊瑞が出てくる。スーツは一目で上等だとわかるダークブラック、シャツは同系色のシルク刺繍が入った白の綿シャツ、そして光沢を帯びた黒のネクタイ。胸元にはプラチナの細いチェーンブローチ。そして額に沿って丁寧に撫で付けられ長い髪は一つに束ねられている。普段の彼からは想像もつかないほどにずいぶんとすっきりとした印象になった。
もともとの素材が良いだけに様変わりが素晴らしい。
そこには野暮ったさなど存在しない、洗練された男ぶりの良い紳士がいるだけだった。
「わあ・・・おじさま、とっても素敵です」
サニーが見とれるように自分を見るのでどうしていいのかわからず赤くなる。
「さて、それではオペラ鑑賞といきましょうか?お嬢様、旦那様」
セルバンテスの手には5枚のチケット。
そして「うむ」とうなずく残月とヒィッツカラルド。
「はぁ?だ、旦那様?え?私がか?」
「樊瑞・・・君はオペラ鑑賞の作法をしらないだろう?」
「オペラを見るのに作法があるのか?」
「当たり前だ、お前はこういった場の経験はなかろう。サニーに恥かしい思いをさせたくなければこそこうして我々3人が協力してやろうというのだ。お前は胸を張ってサニーの横についていてやれ、あとは我々がフォローしてやる感謝するが良い」
目の前にするどく煙管を突きつけられ、残月の言葉にぐぅの音もでない。横ではヒィッツカラルドが手慣れた手つきで劇場の使用人にチップを渡しリムジンを預けている。こういう世界を知らない自分にはとうてい真似できないことだ。
「むむ・・・すまん、お主らに頼むとしよう」
「ふふ、まぁ我々に任せて君は気楽にいきたまえ」
2人を引き立てるように腰を折る3人。
「さあ、お嬢様、旦那様」
色男にエスコートされ淑女たちの羨望を一身に浴びるのはサニー。自分の手を大切に握ってくれる大きな手に引き連れられてオペラ座の階段を上っていく。
少女には何もかもが輝いて見えたのだった。
END
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