地球上のどこかに存在するBF団本部。
ヒィッツカラルドは温度が一定に保たれた温室内にいた。
様ざまな甘い果実の匂いと色を楽しみながら温室内を歩き、抜けた先にある彼が所有するワインセラーへと向う。
バベルの塔を中心とする本部の敷地は非常に広大で、組織の様ざまな施設がありまた幹部の私邸や別邸も隣接されている。バベルの塔内部の本部施設にもいくつかに分かれた中庭があるが外の敷地にも庭園とよべる場所があり、温室施設もある。そこでは最新かつ先端技術でもって四季折々の植物、野菜、果実が栽培されバイオ実験や遺伝子操作実験などに使われることもあるが多くの団員を抱えるBF団本部の食料にもなっている。
そういった目的以外の温室も存在する。個人所有の温室。それは単なる観賞用であったり、趣味で果実を収穫後はワインやジャムなどに加工を目的とした栽培用だったり。しかしそういったことは一部のA級以上のエージェント、もしくは幹部にしか許されてはいない。
十傑集の面々も何人か温室を所有している。
やはり趣味とする者がいるからだった。
「ふーん、相変わらず丁寧に育てているな」
ヒィッツカラルドは目の前にある丸々と太った無花果(いちじく)をなで、その白い目を細める。無花果酒も悪くないか、とひとりごちながらまた歩みを進めた。
ちなみに彼も所有する一人ではあったが彼が今歩いているのは幽鬼の温室。自分が所有するワインセラーへ行く途中、他の十傑たちが管理する温室の視察といった具合だった。そして彼が温室を持つ目的はただ一つ、目がないワインや酒類のため。
温室の中ほどに来た所で人の気配を感じ、ふと足を止める。
「幽鬼か?奴は今アルゼンチン支部で作戦中だったと思うが・・・」
管理を手伝っている下級エージェントというわけでも無かった。気配する方へ見やれば少し離れた先の大きな林檎の木の上で木陰から赤いスカートが見え隠れしてた。
「あれは・・・」
気づいた時にはその赤いスカートが木から落ちようとしていた。
咄嗟に疾風と化して小さい体を二つ腕に受け止める。
「おや、スカートはいたお嬢ちゃんが木登りとは、これは勇ましい」
「あ・・・ヒィッツカラルド様、ありがとうございます・・・」
突然の事で赤い瞳を丸くしていたが、我に気づいて恥かしそうにスカートを押さえ、ヒィッツカラルドの腕からサニーは降りた。
「あの・・・ごめんなさい・・・」
サニーが気まずそうに地面を見る、そこには林檎が一つ転がっていた。
「ん?もしかしてここの林檎を食べようとしたのか?」
綺麗に赤く色づいた林檎、今が一番美味しい時だとよくわかる色だ。
サニーは悪い事だとわかっているらしく俯いて小さく頷いた。
「ふふ、私は別に構わないけどな、第一ここは私のじゃない幽鬼の温室だ。だがあれが気づいたらうるさいだろうよ、なんせ我等の中でも一番熱心な温室守だからな。お嬢ちゃんでも覚悟した方がいいんじゃあないかい」
彼なりのささやかな意地悪で脅しを含んだ口調で囁きかけてみる。
もっとも幽鬼がこの程度のことでとやかく言うことは無いのを知った上でだが。
「ごめんなさい・・・つい・・・」
歪んだ白眼の表情にサニーは怯え、ますます小さくなって俯いた。
サニーはヒィッツカラルドが少し苦手だった。
小さい頃はわからないがある程度成長してから彼がたまに見せる暗く澱んだような白眼の表情と、薄い笑みが子どもながらに危うさを感じるからだった。だから普段は積極的に会話をすることも、接点を作ることも極めて少ない。
「ふむ」
ヒィッツカラルドは地面に転がっている林檎を手に取るとスーツの裾でそれを磨いた。
艶々と赤い色を深めて林檎は輝く。
「お嬢ちゃん、どうしてこの林檎を食べようと思った?」
「最初は見てただけだったの・・・でも、でもとっても・・・おいしそうだったから・・・その、もうしませんごめんなさいっ」
「ふふふふふ、正直でよろしい・・・」
手にあるそれは確かに少女を惑わせるに十分な魅力の林檎。
「なるほど、お嬢ちゃんが木登りしたくなるほど美味しそうだ」
「えへへ・・・」
サニーは今更ながらに自分の大胆な行動を恥かしく思うが、意外なことにヒィッツカラルドが自分を叱らずに惑わされた気持ちを察してくれたことに安心した。これが例の後見人であればきっちりと小言を言われ窘められる覚悟が必要だが。
ヒィッツカラルドは手にある林檎を見つめる。
美味しそうだが何ら変哲も無い赤い果実。
かつての自分もこうして林檎を盗って食べたことがあったかもしれない。
まだ林檎が大きく感じるくらい、手が小さかった頃だろう。
木に登って盗ったのか?
それとも・・・指を鳴らした?
誰かと一緒に食べたのか?
誰とでもなく一人で食べたのか?
林檎を自分はどんな顔して食べた?
笑っていた?
泣いていた?
その林檎は美味しかったのか?
その記憶はとても大切だったような気もする。
でも、無い方が良かったような気もする。
「・・・・・・・・・・・」
遥か昔に丸めて捨ててしまった過去。
思い出そうにもどこに捨てたかわからない。
それに、自分は今ここにいる。
もはや思い出す意味も無い。
彼は林檎を軽く放り上げるとパチンと指を鳴らした。再び手に落ちた時に林檎はぱっくりと二つに割れ、果汁に煌めく断面を披露する。そしてためらう事無く半分のそれを口に運び、思い切り良く齧りついた。
「あ・・・・」
サニーはヒィッツカラルドの思わぬ行動に少し驚いた。自分同様に食べてはいけないとわかっている林檎をシャクシャクと音を立てながら彼は芯も残さず食べていき、そしてお終いとばかりに濡れた白い指をペロリと舐めてしまった。
「ふふふ・・・『おいしそうだったから』私もつい食べてしまった・・・・というわけだ。」
背の高い身体を折り曲げるとサニーの小さな手にもう半分の林檎を乗せた。
「さあ、これで私も同罪だ。遠慮なく召し上がれお嬢ちゃん」
サニーはそう言うヒィッツカラルドの顔を見た。初めて見る表情だ。暗さも無ければ澱みも無い。一緒になって子どもの悪戯を楽しんでくれるような笑顔を見せる。サニーはとても嬉しくなって思い切って林檎に齧りついた。
「おいしい・・・」
「食べてはいけない物は美味しいものなんだよ」
肩をすくめて笑いヒィッツカラルドは身体を起こし再び指を軽く鳴らす。今度は良く熟れた無花果が二つ、彼の手に落ちてくる。無花果を手で割ると豊潤な香りが漂い、濡れた果肉が自分を誘う。彼はそれも惑うことなく口にした。
「ほら、これもなかなかいける、お嬢ちゃんも食べるがいい」
サニーも無花果を手渡され、これも美味しそうに食べた。
「あの、ごめんなさいヒィッツカラルド様、私のせいで、その・・・」
「なぁに悪いのは美味しそうな顔をしたこいつらだ、ま、このことは2人の秘密としよう」
ヒィッツカラルドは笑って唇に人差し指を添える。
それは子どもでも知っている『秘密』の仕草。
「はい・・・」
サニーも笑って同じ仕草を一緒に取る。
サニーは大人であるヒィッツカラルドから「秘密」と言われて不思議と罪悪感が消えていき、それどころか何故かワクワクしてしまう。しかも食べてはいけない物を食べてしまい、それがまた格別に美味しい。
彼女はまだ子どもだったがそれは本人も気づかない甘く背徳めいた悦び。
子どもの無邪気な悪戯であろうとも、欲望に打ち負け蕩けるような罪に身を浸す心地良さには違いなかった。しかし身を浸しすぎると決して這い上がれない深い沼底でもある。
もちろんサニーはそんな沼底が存在することを知らない。
「ふふふ・・・たまにはこんな使い道もよかろう・・・」
つぶやきながら指を鳴らすと一段と大きく赤い林檎が手に落ち、それをサニーに手渡す。
「見つからないように私のワインセラー側を抜けて出るといい」
「ありがとうございます、秘密・・・にしますね」
彼の白い指で手渡された大きな林檎。心臓がドキドキしている、顔が熱くなるのが良くわかる。悪いことなのに嬉しくて仕方がないからだ。ただの大きな林檎なのに、まるで神の至宝を手にしたような高揚した気分のままサニーは温室を駆け抜けていった。
ヒィッツカラルドは温室の出口へ駆けるサニーの背中を見えなくなるまで見つめていた。
「甘く美味しいからといって食べ過ぎてはいけない・・・」
一人彼は指を鳴らす。
「私みたいな取り返しのつかない、救い様の無いほど真っ黒な人間になってしまうから・・・気をつけることだお嬢ちゃん」
手に落ちてきたのはやはり赤い林檎。
そそのかしたのは無邪気な蛇。
遥か昔に丸めて捨ててしまった過去。
思い出そうにもどこに捨てたかわからない。
それに、自分は今ここにいる。
もはや思い出す意味も無い。
光が届かない沼底の中、彼は蛇に見せたかつての笑みで神の至宝に歯を立てた。
END
ヒィッツカラルドは温度が一定に保たれた温室内にいた。
様ざまな甘い果実の匂いと色を楽しみながら温室内を歩き、抜けた先にある彼が所有するワインセラーへと向う。
バベルの塔を中心とする本部の敷地は非常に広大で、組織の様ざまな施設がありまた幹部の私邸や別邸も隣接されている。バベルの塔内部の本部施設にもいくつかに分かれた中庭があるが外の敷地にも庭園とよべる場所があり、温室施設もある。そこでは最新かつ先端技術でもって四季折々の植物、野菜、果実が栽培されバイオ実験や遺伝子操作実験などに使われることもあるが多くの団員を抱えるBF団本部の食料にもなっている。
そういった目的以外の温室も存在する。個人所有の温室。それは単なる観賞用であったり、趣味で果実を収穫後はワインやジャムなどに加工を目的とした栽培用だったり。しかしそういったことは一部のA級以上のエージェント、もしくは幹部にしか許されてはいない。
十傑集の面々も何人か温室を所有している。
やはり趣味とする者がいるからだった。
「ふーん、相変わらず丁寧に育てているな」
ヒィッツカラルドは目の前にある丸々と太った無花果(いちじく)をなで、その白い目を細める。無花果酒も悪くないか、とひとりごちながらまた歩みを進めた。
ちなみに彼も所有する一人ではあったが彼が今歩いているのは幽鬼の温室。自分が所有するワインセラーへ行く途中、他の十傑たちが管理する温室の視察といった具合だった。そして彼が温室を持つ目的はただ一つ、目がないワインや酒類のため。
温室の中ほどに来た所で人の気配を感じ、ふと足を止める。
「幽鬼か?奴は今アルゼンチン支部で作戦中だったと思うが・・・」
管理を手伝っている下級エージェントというわけでも無かった。気配する方へ見やれば少し離れた先の大きな林檎の木の上で木陰から赤いスカートが見え隠れしてた。
「あれは・・・」
気づいた時にはその赤いスカートが木から落ちようとしていた。
咄嗟に疾風と化して小さい体を二つ腕に受け止める。
「おや、スカートはいたお嬢ちゃんが木登りとは、これは勇ましい」
「あ・・・ヒィッツカラルド様、ありがとうございます・・・」
突然の事で赤い瞳を丸くしていたが、我に気づいて恥かしそうにスカートを押さえ、ヒィッツカラルドの腕からサニーは降りた。
「あの・・・ごめんなさい・・・」
サニーが気まずそうに地面を見る、そこには林檎が一つ転がっていた。
「ん?もしかしてここの林檎を食べようとしたのか?」
綺麗に赤く色づいた林檎、今が一番美味しい時だとよくわかる色だ。
サニーは悪い事だとわかっているらしく俯いて小さく頷いた。
「ふふ、私は別に構わないけどな、第一ここは私のじゃない幽鬼の温室だ。だがあれが気づいたらうるさいだろうよ、なんせ我等の中でも一番熱心な温室守だからな。お嬢ちゃんでも覚悟した方がいいんじゃあないかい」
彼なりのささやかな意地悪で脅しを含んだ口調で囁きかけてみる。
もっとも幽鬼がこの程度のことでとやかく言うことは無いのを知った上でだが。
「ごめんなさい・・・つい・・・」
歪んだ白眼の表情にサニーは怯え、ますます小さくなって俯いた。
サニーはヒィッツカラルドが少し苦手だった。
小さい頃はわからないがある程度成長してから彼がたまに見せる暗く澱んだような白眼の表情と、薄い笑みが子どもながらに危うさを感じるからだった。だから普段は積極的に会話をすることも、接点を作ることも極めて少ない。
「ふむ」
ヒィッツカラルドは地面に転がっている林檎を手に取るとスーツの裾でそれを磨いた。
艶々と赤い色を深めて林檎は輝く。
「お嬢ちゃん、どうしてこの林檎を食べようと思った?」
「最初は見てただけだったの・・・でも、でもとっても・・・おいしそうだったから・・・その、もうしませんごめんなさいっ」
「ふふふふふ、正直でよろしい・・・」
手にあるそれは確かに少女を惑わせるに十分な魅力の林檎。
「なるほど、お嬢ちゃんが木登りしたくなるほど美味しそうだ」
「えへへ・・・」
サニーは今更ながらに自分の大胆な行動を恥かしく思うが、意外なことにヒィッツカラルドが自分を叱らずに惑わされた気持ちを察してくれたことに安心した。これが例の後見人であればきっちりと小言を言われ窘められる覚悟が必要だが。
ヒィッツカラルドは手にある林檎を見つめる。
美味しそうだが何ら変哲も無い赤い果実。
かつての自分もこうして林檎を盗って食べたことがあったかもしれない。
まだ林檎が大きく感じるくらい、手が小さかった頃だろう。
木に登って盗ったのか?
それとも・・・指を鳴らした?
誰かと一緒に食べたのか?
誰とでもなく一人で食べたのか?
林檎を自分はどんな顔して食べた?
笑っていた?
泣いていた?
その林檎は美味しかったのか?
その記憶はとても大切だったような気もする。
でも、無い方が良かったような気もする。
「・・・・・・・・・・・」
遥か昔に丸めて捨ててしまった過去。
思い出そうにもどこに捨てたかわからない。
それに、自分は今ここにいる。
もはや思い出す意味も無い。
彼は林檎を軽く放り上げるとパチンと指を鳴らした。再び手に落ちた時に林檎はぱっくりと二つに割れ、果汁に煌めく断面を披露する。そしてためらう事無く半分のそれを口に運び、思い切り良く齧りついた。
「あ・・・・」
サニーはヒィッツカラルドの思わぬ行動に少し驚いた。自分同様に食べてはいけないとわかっている林檎をシャクシャクと音を立てながら彼は芯も残さず食べていき、そしてお終いとばかりに濡れた白い指をペロリと舐めてしまった。
「ふふふ・・・『おいしそうだったから』私もつい食べてしまった・・・・というわけだ。」
背の高い身体を折り曲げるとサニーの小さな手にもう半分の林檎を乗せた。
「さあ、これで私も同罪だ。遠慮なく召し上がれお嬢ちゃん」
サニーはそう言うヒィッツカラルドの顔を見た。初めて見る表情だ。暗さも無ければ澱みも無い。一緒になって子どもの悪戯を楽しんでくれるような笑顔を見せる。サニーはとても嬉しくなって思い切って林檎に齧りついた。
「おいしい・・・」
「食べてはいけない物は美味しいものなんだよ」
肩をすくめて笑いヒィッツカラルドは身体を起こし再び指を軽く鳴らす。今度は良く熟れた無花果が二つ、彼の手に落ちてくる。無花果を手で割ると豊潤な香りが漂い、濡れた果肉が自分を誘う。彼はそれも惑うことなく口にした。
「ほら、これもなかなかいける、お嬢ちゃんも食べるがいい」
サニーも無花果を手渡され、これも美味しそうに食べた。
「あの、ごめんなさいヒィッツカラルド様、私のせいで、その・・・」
「なぁに悪いのは美味しそうな顔をしたこいつらだ、ま、このことは2人の秘密としよう」
ヒィッツカラルドは笑って唇に人差し指を添える。
それは子どもでも知っている『秘密』の仕草。
「はい・・・」
サニーも笑って同じ仕草を一緒に取る。
サニーは大人であるヒィッツカラルドから「秘密」と言われて不思議と罪悪感が消えていき、それどころか何故かワクワクしてしまう。しかも食べてはいけない物を食べてしまい、それがまた格別に美味しい。
彼女はまだ子どもだったがそれは本人も気づかない甘く背徳めいた悦び。
子どもの無邪気な悪戯であろうとも、欲望に打ち負け蕩けるような罪に身を浸す心地良さには違いなかった。しかし身を浸しすぎると決して這い上がれない深い沼底でもある。
もちろんサニーはそんな沼底が存在することを知らない。
「ふふふ・・・たまにはこんな使い道もよかろう・・・」
つぶやきながら指を鳴らすと一段と大きく赤い林檎が手に落ち、それをサニーに手渡す。
「見つからないように私のワインセラー側を抜けて出るといい」
「ありがとうございます、秘密・・・にしますね」
彼の白い指で手渡された大きな林檎。心臓がドキドキしている、顔が熱くなるのが良くわかる。悪いことなのに嬉しくて仕方がないからだ。ただの大きな林檎なのに、まるで神の至宝を手にしたような高揚した気分のままサニーは温室を駆け抜けていった。
ヒィッツカラルドは温室の出口へ駆けるサニーの背中を見えなくなるまで見つめていた。
「甘く美味しいからといって食べ過ぎてはいけない・・・」
一人彼は指を鳴らす。
「私みたいな取り返しのつかない、救い様の無いほど真っ黒な人間になってしまうから・・・気をつけることだお嬢ちゃん」
手に落ちてきたのはやはり赤い林檎。
そそのかしたのは無邪気な蛇。
遥か昔に丸めて捨ててしまった過去。
思い出そうにもどこに捨てたかわからない。
それに、自分は今ここにいる。
もはや思い出す意味も無い。
光が届かない沼底の中、彼は蛇に見せたかつての笑みで神の至宝に歯を立てた。
END
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