合格祝い
賑やかな通りを少し歩き、遥は後ろを振り返る。視線の先には大吾が恐ろしく不機嫌な顔で歩いている。彼女は誰にも気付かれぬよう
そっと溜息をついて自分の横を眺めた。そこには和服を身に纏った弥生が笑っていた。
「いい天気だねえ、遥ちゃん」
「あ、そ、そうですね」
頷く遥を眺め、大吾は舌打ちして声を上げた。
「遥の合格祝いを買うのに、何でお袋がついてくるんだよ」
刺々しい空気に、遥は困ったように二人を眺める。弥生はしれっとした顔で大吾を振り返った。
「おや、私だって遥ちゃんに合格祝いをあげたいんだよ。丁度いいじゃないか」
「よくねえよ!」
「あ、あの、お二人とも私のことは気にしないでください……」
険悪な状況をなんとかしようと、遥は二人の間に割って入る。しかし、二人は遥にきっぱりと言い放った。
「遥ちゃんこそ、気にしなくていいの。これはうちの問題なんだから」
「お前は黙ってろ。この年増、車に押し込んで本部に突っ返してやる」
遥は額をおさえ、大きく溜息をつく。どうしてこんなことになってしまったのだろう。彼女は睨みあう二人を眺めながら今朝のことを思い
出していた。
大吾の休日がとれたと聞かされたのは、一昨日のことだった。前々から休みがとれたら二人で出かけようと話をしていたため、遥は
喜んでこの日を楽しみにしていたが、今朝彼女が堂島家に向かうと、弥生が二人について行くと言い出したのだ。当然大吾は猛反発し
弥生はそれに対して引こうとしない。結局、遥がなだめて三人で出かける羽目になったというわけだ。
そういえば、家を出るときも桐生が、彼女に何度も門限の確認をしてきた。最終的には薫が彼を押さえ込み、今のうちに行ってき!
と言われ遥は家を出ることができたのだが、それがなければきっとまだ家で桐生に外出の心得を聞かされていたことだろう。
目の前の二人は何事か口論を続けていたが、やがて口には勝てなかったらしく最終的に大吾が黙り込む。弥生は満足そうに微笑んで
遥の手を取った。
「さ、こんな馬鹿はほっといて、遥ちゃん行きましょう」
「え?え?あの、弥生さん!」
引っ張られながら遥は大吾を振り返る。彼は諦めたように溜息をつき、頭をかきながら後をついてくるのが見えた。
数分後、遥は弥生の懇意にしている店で服を選んでもらっていた。入学式用のスーツを買ってやろうというのだろう。しかし、遥は
その服に付いた値札を見て愕然とする。この0の数は、何かの間違いじゃないだろうか。
「あ、あの、こんないい服着たら、外に出られません」
弱弱しく告げる遥に、弥生はあっけらかんと笑い飛ばした。
「何言ってるんだい。この歳ならこれくらいのものを着なきゃ駄目。重要なのは、いい物を着るってこと。普段はどんな安いものを着てても
構わないさ。でも、いつも安っぽい格好だと気持ちまで安くなってしまうからね。ここぞという時にはちゃんとしたものを着て、気持ちを
しゃんとさせるの。わかる?」
言ってることはわかるし、納得も出来るが、いくらなんでもこれはないだろう。遥はいつも自分が切るものより0が一つ二つ多い値札を
途方にくれたように眺めた。弥生はそんな彼女を尻目に、店員と会話しつつ何点か彼女に見せた。
「まあ、まずは着てみなさいな。これ、似合うわよ、きっと」
「あ、はい」
弥生が選ぶだけあって、綺麗なラインの上品なスーツだと思った。遥は店員に付き添われ、フィッティングルームに消える。その様子を
遠巻きに眺めていた大吾は溜息をついた。
「監視ってわけかよ」
「さあね」
弥生は髪を直しながら大吾を横目に見る。彼は舌打ちして彼女を睨んだ。
「信用されてねえなあ、おい」
「信用してもらえると思ってんのかい?昔あれだけ酒と女にうつつをぬかしてたお前をさ」
痛いところを突かれ、大吾はわずかに動揺しながらなおも詰め寄った。
「あ、あれは昔の事だろうが。今は別に遊んでねえだろ」
「どうだかねえ。あんたはうちの人によく似てるから……」
「ぶっ殺すぞ、てめえ」
物騒なことを大吾が吐き捨てた時、遥が出てくる。弥生は大吾に構わず彼女のもとへ行った。
「あら、いいじゃないの。着てみてどう?」
「素敵だし、すごく着心地いいです」
遥は嬉しそうに笑みを浮かべる。弥生はもう一つのスーツを指差して告げた。
「こっちも着てみなさいな。着るだけならタダなんだから」
戸惑いがちに頷き、遥はまた奥へと消える。戻ってきた弥生を大吾は睨みつけた。
「話は終わってねえぞ、親父のことは関係ねえだろうが」
「まだ言ってんのかい。やだねえ、根に持つタイプなんて」
彼女は肩を竦めて薄笑いを浮かべる。大吾は弥生を指差し、きっぱり告げた。
「とにかく、だ。お袋は俺達の邪魔すんじゃねえ。いいな!」
「いいでしょ、そんなに言うなら邪魔しないでおこうじゃないのさ。でも、その代わり言ってもらおうじゃない。あんた、遥ちゃんの受験前に
あの子に何したんだい?ええ?」
彼女の問いに、大吾は言葉に詰まる。どうして弥生がそんな事を知っている?彼は沈黙の末、口を開いた。
「な、何言ってんだ。俺は何も……」
「お黙り。桐生から聞いてるよ。あの時遥ちゃんと言い合いになった時に、心の準備がどうのって言ってたそうじゃないか。まさかとは
思うけど、あの子に手を出してないだろうね。ほら、お言い。お言いったら!」
桐生からか。大吾は低く呻く。そういえば、あの場で桐生は全てを聞いていた。幸い、遥は具体的なことは何一つ言っていないが
少し考えれば容易に想像はつく。彼は目の前で睨みをきかせる弥生をから目をそらした。
「……何もしてない」
「嘘おっしゃい。あんたは昔っから嘘をつくときは目をそらすんだから。もしかして……」
弥生が追求しようと詰め寄った時、先ほどとはまた違った雰囲気のスーツに身を包んだ遥が出てきた。弥生は溜息をつき、大吾に
言い聞かせた。
「いずれ、きっちり聞かせてもらうからね」
助かった。彼は胸をなでおろす。これが知られたら、恐らく桐生と弥生の警戒網は今の比ではないだろう。やがて、視線を動かすと
遥が弥生と話をした後、照れたように大吾を見た。
「どっちもいいと思うけど、どうかなあ」
「……一着目」
最初の服が一番似合っていたと思う。大吾は思ったままを口にする。遥は服を見比べて笑みを浮かべた。
「あ、そうなんだ。それなら一着目にしようかな……」
「ええ?今着てるのもいいじゃないの。そっちになさいな」
弥生が不満そうに声を上げる。遥は困ったように笑った。
「え、で、でも折角大吾さんが……」
フォローしようとする遥を遮るように、大吾が弥生を睨んだ。
「おい、お袋。なに俺の意見にケチつけてんだよ」
「あんたはいつも地味すぎるんだよ。こっちの方が華やかでいいじゃないか」
「遥にはそういう色は似合わねえんだよ」
「知ったような口をききなさんな」
また始まった。遥は溜息をつき、とりあえず元の服に着替えた。横で控えていた店員は、二人の様子を眺めながら苦笑を浮かべて遥に
声をかけてきた。
「堂島様のああいう姿、初めて見ました……すごいですね」
「……なんかすみません」
自分が謝る事ではないのだろうが、謝っておいた方がいい気がした。遥は浮かない顔で二人に歩み寄った。
「あの、私やっぱり今日は買わない……」
恐る恐る告げようとする遥に、弥生は疲れたように声を上げた。
「しょうがないね、それなら二着買ったげる!好きな方を着なさい!」
「ええ、だ、駄目ですよ!二着もいただけません!」
慌てて首を振る彼女に、弥生は首を振った。
「どっちを選んでも角が立つだろうし、今日くらいしか買ってあげられそうにないからね。そのかわり、入学式には私の選んだやつを
着なさい!いいね!」
「横暴だろ、それ!好きにさせたらいいじゃねえか」
「お黙り!いいから、その二着を包んでおくれ」
店員は、弥生の勢いに気圧されたように、戸惑いながら商品を持って去っていく。遥はそれをぽかんと眺めた。
「ああ、買っちゃった……」
「放っとけよ。買ってくれるってんだから、甘えとけ」
機嫌が悪そうに大吾は呟く。遥はがっくりと肩を落とし、頭を抱えた。
「それじゃ、私は先に帰るから」
店を出た弥生は、唐突に切り出す。遥は驚いたように弥生を見つめた。
「え、でも……」
「いくら私でも、一日中あんたたちの邪魔をするほど野暮じゃないさ」
弥生はくすりと笑う。どうやら、最初からそのつもりだったらしい。遥は戸惑っていたようだったが、やがて深々と頭を下げた。
「合格祝いをありがとうございました。大切に着ます」
「そうしておくれ。それじゃ、大吾。遥ちゃんを頼んだよ」
「わかったから、早く行けって」
追い払う仕草をする大吾に肩を竦め、弥生は待たせていた車に乗り込もうとする。しかし、彼女はふいに顔を上げ、遥を見た。
「遥ちゃん、門限は?」
「あ、はい!7時です!」
姿勢を正して答える遥に、彼女は大きく頷いた。
「よろしい。遅くならないようにね」
そのまま車に乗り込んで去っていく弥生を見送り、遥は安堵したように大吾を見上げた。
「弥生さん、行っちゃったね」
「ったく、それならそうと、先に言やいいんだ」
肩を竦め、大吾は通りに足を踏み出す。遥はそれを慌てて追いかけ、彼の隣に寄り添った。
その後、二人は近くの喫茶店に入って他愛ない話を楽しんでいた。会えなかった間の出来事や、出掛けにあった桐生と薫のバトル。
はしゃいで話す遥を、大吾は穏やかに眺めている。遥がふと視線を動かすと、少し後方で護衛が立っているのが見えた。こういう人々が
常にそばにいるのを感じるたび、大吾は普通の男とは違うのだと思う。遥の視線に気付いたのか、大吾は声をかけた。
「あいつらのことは、気にすんな」
「……うん」
彼女が複雑な表情で頷くと、大吾は話を変えるように笑みを浮かべた。
「さて、何か欲しいもんあるか?」
「ううん。もう、スーツも買ってもらっちゃったし、十分だよ」
首を振る遥に、彼は不満げな顔で告げる。
「あれは、お袋が勝手に買ったやつだろ。他にないのかよ」
遥は小さく笑い、テーブルに頬杖をついた。
「こうやって、大吾が自分の時間を私に使ってくれるだけで嬉しいから」
大吾は困ったように頭をかく。遥は本当に欲のない女だと思う。普通だったら、遠慮しつつ一つや二つ欲しいものを言うものだ。しかし
彼女は遠慮ではなく、本心から何もいらないと言う。物欲が強いのも困りものだが、全くないのも問題だな。彼は予想できた答えに
苦笑を浮かべつつ彼女の頭を小突いた。
「しょうがねえ奴だな。少しは俺の顔も立てろ」
「もう、痛いよ~」
遥がそう言って頭を押さえようとしたとき、彼の手とは違う何か硬い物が手に当たる。これで小突かれたのか。驚いてそれを手にとると
綺麗に包装された箱がそこにあった。
「これ……」
思わず見上げる彼女に、大吾は肩を竦めた。
「お前がそう言うと思って、用意しといた」
「……いいの?」
「嫌なら返せ」
手を突き出され、遥は慌てて首を振った。
「やだやだ!ねえ、開けていい?」
「もう、お前のもんだからな。勝手にしろ」
彼女は嬉しそうに早速包みを開けていく。現れた白い箱の中には、シルバーのクロスをデザインした繊細なネックレスが入っていた。
「わあ、綺麗!ありがとう、すごく嬉しい!」
満面の笑顔ではしゃいでいる遥を、大吾は優しく微笑んで眺めた。
「気に入ったか」
「うん!そうだ、入学式の時にこれつけるね。スーツは弥生さんが選んでくれたのを着て……なんか、楽しみになってきちゃった」
ああ、と大吾は思い出したように声をあげ、不満げに考え込んだ。
「俺は最初に着たやつがいいと思うけどな」
まだ言ってる。遥はくすくす笑って彼を見つめた。
「でも、折角弥生さんが選んで買ってくれたんだもん。入学式にはそっちを着るよ」
「でないと、うるせえもんな。あのババア」
「もう、そんなこと言ったらだめだよ」
遥は咎めるように睨む。大吾はそれを気にする事もなく彼女を指差した。
「それじゃあ、今度俺と会う時にもう一つの着て来いよ」
「えー、普段着ていい服じゃないよ。緊張しちゃう」
服の入った袋を覗きこむ遥に、大吾は問いかける。
「特別な時ならいいのか?」
「……特別?」
遥は首を傾げる。ああ、と大吾は頷き、幾分声を低めた。
「そうだな……二人で朝まで過ごすってのは、特別か?」
「え?え?」
にわかに戸惑いを見せる遥を、彼は上目遣いに見つめた。
「もちろん、そん時はうちの家じゃねえぞ。文句の付けられねえほどいい部屋を取ってやる。お前はその服を着てお前の言う
心の準備とやらをしてろ。あとは、俺に全部任せればいい」
「ぜ、全部……?」
呟いた瞬間、遥の顔がみるみるうちに真赤になって固まってしまう。その様子を見ていた大吾は、急に声を上げて笑い出した。
「お前、今からそんなことでどうすんだよ!ばーか!」
遥はぽかんとして笑う彼を見つめる。やがて、彼女は怒ったように声を上げた。
「だだだだって、大吾が急にそんな冗談言うんだもん!びっくりするよ!」
大吾はふと笑うのを止め、彼女の方に身を乗り出した。
「冗談?俺は本気だぞ」
それを聞くなり、彼女はわずかに身を引いてひどくうろたえた。
「そ……そんなこと急に言われても」
消え入るような声で呟き、遥は赤い顔で俯く。これが大学生にもなろうという女だろうか。大吾は呆れたように溜息をつき、肩を竦めた。
「ま、それはおいおいな。それとは別に、今度俺に休みが取れた時はそれ着て来い。いいもの食いに連れて行ってやる」
「あ、う、うん!」
頷いた遥の顔は幾分ほっとしたようだった。これは何かと時間がかかりそうだ。大吾は小さく笑い、彼女を見つめた。
「実際、短いよなあ……休みってやつは。お前ともそんなにゆっくりしてやれねえし」
組の車で遥を家に送る道すがら、大吾はぼやいた。遥はそっと微笑み、彼を覗き込んだ。
「でも、本部でも会えるから」
「まあ、な」
大吾は苦笑を浮かべる。本部で会えるとはいえ、昔よりずっと大吾は忙しくなった。折角遥がそばにいても、顔を合わせるだけで言葉も
交わせないことも多い。口には出さないが、寂しい思いをしているのではないだろうか。我慢強い彼女を知っているだけに、彼はいつも
心配していた。
やがて、遥の住むマンションの前に車が停まる。組員に扉を開けてもらい、彼女が車から降りると、大吾もそれに続いた。
「今日は本当にありがとう。これ、大切にするね」
遥は大切そうに大吾のあげたプレゼントを手に取る。彼はああ、と頷いた。
「そんなもんでよければ、いくらでも買ってやる」
「ううん、ひとつだけでいい。いっぱいあったら、どれをずっとつけてたらいいかわかんなくなるもん」
微笑む彼女に、大吾は目を細める。こんなに喜んでもらえるのなら、どんなものだって手に入れてやろうと思ってしまう。だが、彼女は
決してそんなことを求めたりはしない。ただ大吾が傍にいたらいい。望むのはそれだけ。だからこそ、彼は無理をしてでも時間を作って
傍にいてやるのだ。
「それじゃ、明日、本部でね」
寂しそうに小さく手を振る遥を見ると、ふいに引き止めたくなる。彼女が困るのは、よくわかっているのに。
「遥……」
大吾が手を伸ばそうとした瞬間、彼の腕が誰かに掴まれる。そんなことをするのは、誰だかすぐにわかった。その人物はひどく不機嫌
そうに声を上げた。
「見送りはもういい。とっとと本部に帰れ」
「……桐生さん、野暮な真似すんじゃねえか。ええ?」
見上げると、桐生は大吾の腕を掴んだまま遥を自分の背に隠している。遥は慌てたように桐生の後ろから覗き込んだ。
「おじさん!大吾にひどいことしないでよ~」
「遥、お前は家に帰ってろ」
桐生は彼女に視線を送り、家ヘと促す。遥は困ったように溜息をついた。
「もうちょっと話したかったのに~」
大吾は桐生の手を振り払い、彼を睨みつける。
「遥だってそういってんだろ、少しは空気読めよオッサン!」
「お断りだ。まったく、隙があれば遥に出を出そうとしやがって、発情期の犬かお前は」
吐き捨てるように呟く桐生に、大吾は腕を組んで声を上げた。
「てめえが言うな。知ってるぞ、あんた昔ヒルズの事件の時、公衆の面前でラブシーンかましたそうじゃねえか。遥も見てたのによ!
どさくさにまぎれてどれだけサカってんだ、てめえは」
「だ、大吾!なんでそんなこと知ってんだ!」
「蛇の道は蛇だぜ、桐生さん」
大吾は勝ち誇ったように笑みを浮かべる。桐生は舌打ちをして追い払う仕草をした。
「もういい。帰れ」
「言われなくても、そのつもりだ」
大吾は踵を返し、車に乗り込む。遥はそれを見て残念そうに視線を落とした。ふと、車の窓が開き、大吾が声を上げた。
「遥、また明日な」
「あ、うん!」
遥は嬉しそうに手を振る。車が去っていくのを見送り、桐生は大きく溜息をついた。
「おい、明日も本部に行くのか?」
「行くよ。だって学校始まったらあんまり会えなくなっちゃうもん」
けろっとした顔で答えられ、彼は疲れたように部屋に帰る彼女の後に続いた。桐生の気苦労は当分続く事だろう。
その夜、遥は鏡の前で大吾からの贈り物を身に付けてみた。彼女の首もとで揺れるクロスは、いつも大吾がつけているネックレスと
ある意味おそろいといえる。遥は嬉しそうに微笑み、それを大切そうに机の引き出しにしまった。
次会うときは、きっと、これをつけて行こう。
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