Philippe-Ⅰ
「殿下、お客人の御着きです」
「ああ、通してくれ。それと人払いも頼む」
「畏まりました」
パリのはずれの簡素な館、上品な家具に囲まれた一室で時の王と同じ顔をした男は飲み慣れぬ酒を手に、
一人の女を待っていた。
やがて侍従に通された豊かな金髪の女もまた、慣れぬドレスと化粧を施し、緊張した面持ちで男の前に立った。
「ルネ、と呼んで良いのかな?」
「はい殿下。この姿ですので」
「ではルネ、そこに掛けたまえ」
「はい」
示された椅子に腰を掛ける。その正面に男も腰を落とした。
「まずはベルイールでの事、礼を言う。・・・いや、それは"アラミス殿"への礼かな」
「はい、"彼"は国家に忠誠を誓った銃士ですから」
「・・・国のために働いたということか」
「そうです。我がフランスの為に鉄仮面を逮捕し、貴方を救い出す必要があった」
「・・・」
「ご無事で本当に良かったと思っています」
「話を6年前に戻そうか、ルネ」
なぜか苛立ちを覚え、普段は柔和な男には似合わぬ乱暴な口調となる。
銃士の面影を残していた女の顔からその気配は消え、長い睫毛を伏せ静かに頷いた。
美しい女であった。白い肌を際立たせる蒼い目と紅に彩られた唇は、6年前と何も変わっておらず、
ただ無垢だった瞳は何かに支配された苦しみの影を背負っていた。
その瞳を見続けることに息苦しさを覚え、男は視線を外した。
「6年前までノワジー・ル・セックに私が住んでいたことは知っているね」
「はい、当時は判りませんでしたが」
「フランソワのことは・・・」
「.....はい。存じ上げております」
"Francois"という言葉に男の口は震え、女の瞳の影が揺れる。
二人の心を支配し続けるその存在が濃い霧のように辺りを圧し包む。
「彼は、私にとって全てだった、私に全てを教えてくれた。父であり兄であり掛け替えの無い友であった。
私とフランソワ、そして心優しい乳母や使用人達は6年前まで静かに、平和にあの館で過ごしていたのだ」
幻に取り付かれた男は知らず微笑みを浮かべ、遠くを見つめる。
かつての幸せな時間を、その記憶の糸をゆっくりと手繰り寄せる。
だがその虹色の糸が途切れた時、男の瞳が深く翳る。
「しかしある春の日、フランソワを誘惑した女がいた。あの日から彼はその女の虜となってしまった。
我々の存在を秘密にするように、彼は女に念押しをしたが、愚かにもその女は身内の者に話してしまった。
やがて我々の存在は周囲の人間の知る所となり、そしてついにあの嵐の夜・・・」
虹色の途切れた先で紡いでいた呪いの糸を吐き出し、闇色を宿した男の目が女の姿を捕らえる。
一度解かれた呪いの糸は留まることもできず、ただ女の身を縛めていく。
「・・・私は愛するフランソワや乳母達を殺され、それから6年もの間幽閉の身となったのだ。
我々は何も望んでいなかった。ただ、あの館で静かに過ごせればそれで良かった。それをその女が滅茶苦茶にした。
フランソワが愛した女だ。許そうとも思った。だが、許せないのだよ・・・」
そこまで言うと男は息をつき、外していた視線をはっきりと女に向ける。
「私はお前が憎いのだ・・・」
最後は搾り出すように、男は全てを吐き出した。
後はただ、沈黙が部屋を支配する。
その時、神の怒りを思わせるような雷雨が降り出し、身を震わす音に二人は窓の外を見やる。
「あの日と同じ雨だな・・・」
「.....はい」
「そなたも私が憎い...か?」
心を見透かされた女は目を逸らさず、ただ瞳に住まう影を揺らす。
「私が居なければ、フランソワと幸せになれた。そう、思うのだろう?」
「.....はい」
その言葉に、男と女は共に目を伏せて闇が、影が自分から去るのを待ち続ける。
しかしそれは、二人を支配する男への想いの強さから振り切れる訳もなく、ただ時間だけが過ぎていく。
やがて大きな稲妻が地を割いた音を合図に男が口を開いた。
「やはり相容れない...か」
向き直り、頭りを振る。
「時間を取らせた。下がってよい」
その言葉に女は無言で屋敷を後にした。
*****
ルネが去った後の部屋に黒髪の婦人が入れ替わり、フィリップの傍に寄る。
彼は自分の吐いた言葉の醜さに身を震わせていた。
「私はなぜあのような言葉を・・・」
「殿下...」
「だがこれで判った。私には彼女を愛することなどできない。・・・例えそれがフランソワの意思だとしても」
「わかっております」
「美しいと思う。しかしそれ以上に憎しみが私を支配する」
「何も心の傷を抉り合う相手をお傍に置く必要はありませんわ」
「ああ、何もかも忘れてしまいたい・・・」
そう言って、彼は残っていた酒を一気に飲み干した。頬を伝うこの涙と共に全てを流してしまいたかった。
*****
殴りつけるような雨の中、ルネは屋敷を後にした。
天からの身を叩くような痛みより、心を縛り千切られたような疼きに吐き気すら覚えていた。
フィリップ様はあのような言葉を吐かれる方ではない。
短い間ではあったが銃士隊長としてお側に居た時も、常に相手への気遣いを感じさせる優しいお方だった。
そのような方に呪いの言葉を吐かせたのは私だ。
私があの方を地獄に落としてしまった。
・・・仇を倒すことで自分は許されたと思っていたのだろうか。
気が付くと大きな濁流となって荒れ狂うセーヌが目の前にあった。
いっそこのまま、身を投げて肉体を千切られてしまったほうが楽になるのだろうか。
よろよろと岸に近づこうとした時、強い力を腕に感じ振り向くと、よく知る黒い瞳があった。
「どうしたのだ?そのような姿で」
「アトス...」
その後は声にならず、ただ友の胸で声を殺して泣き続けた。
-------------
Aramis-Ⅰ
風を冷たく感じ窓を閉めようとすると、空には月が浮かんでいた。
知らず夜が訪れたことに気が付く。
ノワジーは静寂に包まれ、この館で動く者の気配は自分以外には無い。
私は眠るあの人の元に向かう。
閉じられたままの瞳。
動かない体。
けれど浅く繰り返す呼吸。
唇に触れると冷たくも僅かに感じる温もり。
ずっと欲しくて仕方なかった温もり。
その温もりが全てで、彼の存在が全てで、ただ幸せだった頃の記憶が流れ込んでくる。
「フランソワ・・・?」
愛しい言葉をそっと紡ぐ。
けれど沈黙の帳が落ちたまま、彼の唇が私の名を紡ぐことはない。
沈黙の闇が心をぎりぎりと絞め付ける。
その闇は心を巣食い始め、自分の中の何かが狂いだす。
意地悪な悪魔が囁く。
彼を目覚めさせる方法をお前は知っているだろう?・・・と
振り払おうとしても、否定しようとしても、纏わり付いてくるそれには
同時に一縷の望みが混じる。
目覚めた時、彼は微笑んでくれるかもしれない。
優しく私の頬を包み、そっと抱きしめてくれるかもしれない。
幻に捕らわた私は傍らの小瓶に手を伸ばす。
そっと乾いた唇に液体を流し込む。
2滴、3滴・・・
やがて身動ぎ、瞳を開けるのはただの獣。
人間であることを放棄した肉体は、本能のままに私を蹂躙する。
体をバラバラにされそうになり、同時に自分の愚かさに涙する。
やがて欲望を吐き出した彼は意識を失い崩れ落ち、私はその体の下から這い出し声を殺して嗚咽を上げる。
冷たい夜気が頬を包む。
何度も何度も、その繰り返しだった。
絶望に抱かれたままの朝を何度も迎えたある日。
アトスが訪ねてきた。
彼に自分の行為を見透かされ、声を枯らす私をアトスは繭で包むように抱きしめてくれた。
アトスとはいつもこの距離だった。
手を差し伸べてくれても、引いてくれることは無い。
抱きとめてはくれても、強く息が止まるほど抱き締めてはくれなかった。
アトスが去った後、彼の部屋に入り眠る姿を見下ろす。
生気を失った頬に手を沿わせ、僅かな温もりを確かめる。
その刹那、瞳が開かれ手首が掴まれる。
「・・・男・・の匂いがする」
「!」
「・・あの・・・銃士か?」
掠れる声は私の心臓を鷲掴みにし、ぎらぎらと睨みつける眼光は心を凍らせる。
今までもふいに彼の意識が戻ることはあった。
だがそこに意思は無く、しばらく視線が宙を彷徨うだけだった。
けれど、はっきりと憎悪の色を瞳に宿し、あらん限りの力で私を掴んだまま離さない。
ぜいぜいと荒い呼吸の中で、アトスとの事を問いただそうとする。
「違うわ。アトスとは何もないわ・・」
「・・嘘を・・つくな・・・」
「嘘じゃない・・・」
愛しているのは貴方だけだと伝える方法。教えてくれたのも彼だった。
彼の体に埋まり、舌を這わす。自分のなかで彼が躍動する。
背徳の行為。それに悦び震える自分。
堕ちていく闇はどこまでも優しく私を包み込む。
ある日、王弟が一人の婦人を連れて訪れた。
殿下はフランソワの変わり果てた姿を目にし涙を流す。
私は無表情にその姿を見つめていた。
「そなたに世話を任せるのは本意ではないが、致し方ない・・・」
殿下は私と目を合わせること無く、早々に去っていった。
あの頃、彼はその身分でフランソワを縛っていた。
何もできず、待つだけだった自分が悔しくて仕方なかった。
だが、この王弟から彼を奪い取ったことを感じると、歪んだ喜びが胸に広がる。
残った黒髪の婦人は、私を見やると静かに口開いた
「貴方、彼に薬を盛っているでしょう?」
「・・・!」
「その体、男の匂い染み付いているわよ」
「それは・・・」
「人間としての理性を無くして、動物としての本能だけで生きているのね、この人は・・・」
優美な仕草で、そっと視線を落とす。
だが婦人が見つめる先にフランソワは無かった。
誰を想っているのだろうか?
この人にも激しく愛した人が居たのだろうか?
「心配しなくても、私は傍観者よ。誰に何を言う気はないわ」
「・・・」
「この人は・・貴方のものよ。好きにすればいいわ」
返す言葉を失い、黙り込む私を見て婦人は静かに微笑みを浮かべた。
「少し、昔話をしていいかしら?」
「・・・?・・・はい」
婦人はかつてフランソワが考えていた事を教えてくれた。
16歳だった私には思いもしなかった事ばかりだった。
「貴方ももう、何も知らない少女では無いからと思って話したのだけれど・・・」
「・・・はい」
「落胆された?」
「・・・いいえ」
「そう」
「・・・私は彼の事何も知らなかったけれど、多くの嘘があったかもしれないけれど・・・
彼の・・・私が愛した部分は信じたいから・・・」
「・・・そうね、何も知らなくても、愛することはできるわよね」
婦人は心を魅了する微笑を残して、ノワジーを去っていった。
「ルネ」と優しく呼んで微笑んでくれる彼を愛していた。
あの時、それだけでよかった。
例え彼が誰であろうとも、よかった。
その微笑みだけで、満たされていた。
もう一度・・・もう一度だけでいいから彼が微笑んでくれたら私は救われるのに。
彼が逝ったのは満月の夜だった。
月が満ちている夜は、あの日の彼を思い出す。
確かにそこに在った彼の微笑み。
だから、いつもより少し多く、液体を流し込む。
4滴、5滴・・・
彼の体が小さく痙攣する。
薄く開かれる瞳は私を見た後、綺麗に微笑み、す、と閉じられた。
力の抜けていく体を抱き締めると、私も微笑み返す。
月の光の下、私はゆっくりと幸福感で満たされていくのを感じていた。
「殿下、お客人の御着きです」
「ああ、通してくれ。それと人払いも頼む」
「畏まりました」
パリのはずれの簡素な館、上品な家具に囲まれた一室で時の王と同じ顔をした男は飲み慣れぬ酒を手に、
一人の女を待っていた。
やがて侍従に通された豊かな金髪の女もまた、慣れぬドレスと化粧を施し、緊張した面持ちで男の前に立った。
「ルネ、と呼んで良いのかな?」
「はい殿下。この姿ですので」
「ではルネ、そこに掛けたまえ」
「はい」
示された椅子に腰を掛ける。その正面に男も腰を落とした。
「まずはベルイールでの事、礼を言う。・・・いや、それは"アラミス殿"への礼かな」
「はい、"彼"は国家に忠誠を誓った銃士ですから」
「・・・国のために働いたということか」
「そうです。我がフランスの為に鉄仮面を逮捕し、貴方を救い出す必要があった」
「・・・」
「ご無事で本当に良かったと思っています」
「話を6年前に戻そうか、ルネ」
なぜか苛立ちを覚え、普段は柔和な男には似合わぬ乱暴な口調となる。
銃士の面影を残していた女の顔からその気配は消え、長い睫毛を伏せ静かに頷いた。
美しい女であった。白い肌を際立たせる蒼い目と紅に彩られた唇は、6年前と何も変わっておらず、
ただ無垢だった瞳は何かに支配された苦しみの影を背負っていた。
その瞳を見続けることに息苦しさを覚え、男は視線を外した。
「6年前までノワジー・ル・セックに私が住んでいたことは知っているね」
「はい、当時は判りませんでしたが」
「フランソワのことは・・・」
「.....はい。存じ上げております」
"Francois"という言葉に男の口は震え、女の瞳の影が揺れる。
二人の心を支配し続けるその存在が濃い霧のように辺りを圧し包む。
「彼は、私にとって全てだった、私に全てを教えてくれた。父であり兄であり掛け替えの無い友であった。
私とフランソワ、そして心優しい乳母や使用人達は6年前まで静かに、平和にあの館で過ごしていたのだ」
幻に取り付かれた男は知らず微笑みを浮かべ、遠くを見つめる。
かつての幸せな時間を、その記憶の糸をゆっくりと手繰り寄せる。
だがその虹色の糸が途切れた時、男の瞳が深く翳る。
「しかしある春の日、フランソワを誘惑した女がいた。あの日から彼はその女の虜となってしまった。
我々の存在を秘密にするように、彼は女に念押しをしたが、愚かにもその女は身内の者に話してしまった。
やがて我々の存在は周囲の人間の知る所となり、そしてついにあの嵐の夜・・・」
虹色の途切れた先で紡いでいた呪いの糸を吐き出し、闇色を宿した男の目が女の姿を捕らえる。
一度解かれた呪いの糸は留まることもできず、ただ女の身を縛めていく。
「・・・私は愛するフランソワや乳母達を殺され、それから6年もの間幽閉の身となったのだ。
我々は何も望んでいなかった。ただ、あの館で静かに過ごせればそれで良かった。それをその女が滅茶苦茶にした。
フランソワが愛した女だ。許そうとも思った。だが、許せないのだよ・・・」
そこまで言うと男は息をつき、外していた視線をはっきりと女に向ける。
「私はお前が憎いのだ・・・」
最後は搾り出すように、男は全てを吐き出した。
後はただ、沈黙が部屋を支配する。
その時、神の怒りを思わせるような雷雨が降り出し、身を震わす音に二人は窓の外を見やる。
「あの日と同じ雨だな・・・」
「.....はい」
「そなたも私が憎い...か?」
心を見透かされた女は目を逸らさず、ただ瞳に住まう影を揺らす。
「私が居なければ、フランソワと幸せになれた。そう、思うのだろう?」
「.....はい」
その言葉に、男と女は共に目を伏せて闇が、影が自分から去るのを待ち続ける。
しかしそれは、二人を支配する男への想いの強さから振り切れる訳もなく、ただ時間だけが過ぎていく。
やがて大きな稲妻が地を割いた音を合図に男が口を開いた。
「やはり相容れない...か」
向き直り、頭りを振る。
「時間を取らせた。下がってよい」
その言葉に女は無言で屋敷を後にした。
*****
ルネが去った後の部屋に黒髪の婦人が入れ替わり、フィリップの傍に寄る。
彼は自分の吐いた言葉の醜さに身を震わせていた。
「私はなぜあのような言葉を・・・」
「殿下...」
「だがこれで判った。私には彼女を愛することなどできない。・・・例えそれがフランソワの意思だとしても」
「わかっております」
「美しいと思う。しかしそれ以上に憎しみが私を支配する」
「何も心の傷を抉り合う相手をお傍に置く必要はありませんわ」
「ああ、何もかも忘れてしまいたい・・・」
そう言って、彼は残っていた酒を一気に飲み干した。頬を伝うこの涙と共に全てを流してしまいたかった。
*****
殴りつけるような雨の中、ルネは屋敷を後にした。
天からの身を叩くような痛みより、心を縛り千切られたような疼きに吐き気すら覚えていた。
フィリップ様はあのような言葉を吐かれる方ではない。
短い間ではあったが銃士隊長としてお側に居た時も、常に相手への気遣いを感じさせる優しいお方だった。
そのような方に呪いの言葉を吐かせたのは私だ。
私があの方を地獄に落としてしまった。
・・・仇を倒すことで自分は許されたと思っていたのだろうか。
気が付くと大きな濁流となって荒れ狂うセーヌが目の前にあった。
いっそこのまま、身を投げて肉体を千切られてしまったほうが楽になるのだろうか。
よろよろと岸に近づこうとした時、強い力を腕に感じ振り向くと、よく知る黒い瞳があった。
「どうしたのだ?そのような姿で」
「アトス...」
その後は声にならず、ただ友の胸で声を殺して泣き続けた。
-------------
Aramis-Ⅰ
風を冷たく感じ窓を閉めようとすると、空には月が浮かんでいた。
知らず夜が訪れたことに気が付く。
ノワジーは静寂に包まれ、この館で動く者の気配は自分以外には無い。
私は眠るあの人の元に向かう。
閉じられたままの瞳。
動かない体。
けれど浅く繰り返す呼吸。
唇に触れると冷たくも僅かに感じる温もり。
ずっと欲しくて仕方なかった温もり。
その温もりが全てで、彼の存在が全てで、ただ幸せだった頃の記憶が流れ込んでくる。
「フランソワ・・・?」
愛しい言葉をそっと紡ぐ。
けれど沈黙の帳が落ちたまま、彼の唇が私の名を紡ぐことはない。
沈黙の闇が心をぎりぎりと絞め付ける。
その闇は心を巣食い始め、自分の中の何かが狂いだす。
意地悪な悪魔が囁く。
彼を目覚めさせる方法をお前は知っているだろう?・・・と
振り払おうとしても、否定しようとしても、纏わり付いてくるそれには
同時に一縷の望みが混じる。
目覚めた時、彼は微笑んでくれるかもしれない。
優しく私の頬を包み、そっと抱きしめてくれるかもしれない。
幻に捕らわた私は傍らの小瓶に手を伸ばす。
そっと乾いた唇に液体を流し込む。
2滴、3滴・・・
やがて身動ぎ、瞳を開けるのはただの獣。
人間であることを放棄した肉体は、本能のままに私を蹂躙する。
体をバラバラにされそうになり、同時に自分の愚かさに涙する。
やがて欲望を吐き出した彼は意識を失い崩れ落ち、私はその体の下から這い出し声を殺して嗚咽を上げる。
冷たい夜気が頬を包む。
何度も何度も、その繰り返しだった。
絶望に抱かれたままの朝を何度も迎えたある日。
アトスが訪ねてきた。
彼に自分の行為を見透かされ、声を枯らす私をアトスは繭で包むように抱きしめてくれた。
アトスとはいつもこの距離だった。
手を差し伸べてくれても、引いてくれることは無い。
抱きとめてはくれても、強く息が止まるほど抱き締めてはくれなかった。
アトスが去った後、彼の部屋に入り眠る姿を見下ろす。
生気を失った頬に手を沿わせ、僅かな温もりを確かめる。
その刹那、瞳が開かれ手首が掴まれる。
「・・・男・・の匂いがする」
「!」
「・・あの・・・銃士か?」
掠れる声は私の心臓を鷲掴みにし、ぎらぎらと睨みつける眼光は心を凍らせる。
今までもふいに彼の意識が戻ることはあった。
だがそこに意思は無く、しばらく視線が宙を彷徨うだけだった。
けれど、はっきりと憎悪の色を瞳に宿し、あらん限りの力で私を掴んだまま離さない。
ぜいぜいと荒い呼吸の中で、アトスとの事を問いただそうとする。
「違うわ。アトスとは何もないわ・・」
「・・嘘を・・つくな・・・」
「嘘じゃない・・・」
愛しているのは貴方だけだと伝える方法。教えてくれたのも彼だった。
彼の体に埋まり、舌を這わす。自分のなかで彼が躍動する。
背徳の行為。それに悦び震える自分。
堕ちていく闇はどこまでも優しく私を包み込む。
ある日、王弟が一人の婦人を連れて訪れた。
殿下はフランソワの変わり果てた姿を目にし涙を流す。
私は無表情にその姿を見つめていた。
「そなたに世話を任せるのは本意ではないが、致し方ない・・・」
殿下は私と目を合わせること無く、早々に去っていった。
あの頃、彼はその身分でフランソワを縛っていた。
何もできず、待つだけだった自分が悔しくて仕方なかった。
だが、この王弟から彼を奪い取ったことを感じると、歪んだ喜びが胸に広がる。
残った黒髪の婦人は、私を見やると静かに口開いた
「貴方、彼に薬を盛っているでしょう?」
「・・・!」
「その体、男の匂い染み付いているわよ」
「それは・・・」
「人間としての理性を無くして、動物としての本能だけで生きているのね、この人は・・・」
優美な仕草で、そっと視線を落とす。
だが婦人が見つめる先にフランソワは無かった。
誰を想っているのだろうか?
この人にも激しく愛した人が居たのだろうか?
「心配しなくても、私は傍観者よ。誰に何を言う気はないわ」
「・・・」
「この人は・・貴方のものよ。好きにすればいいわ」
返す言葉を失い、黙り込む私を見て婦人は静かに微笑みを浮かべた。
「少し、昔話をしていいかしら?」
「・・・?・・・はい」
婦人はかつてフランソワが考えていた事を教えてくれた。
16歳だった私には思いもしなかった事ばかりだった。
「貴方ももう、何も知らない少女では無いからと思って話したのだけれど・・・」
「・・・はい」
「落胆された?」
「・・・いいえ」
「そう」
「・・・私は彼の事何も知らなかったけれど、多くの嘘があったかもしれないけれど・・・
彼の・・・私が愛した部分は信じたいから・・・」
「・・・そうね、何も知らなくても、愛することはできるわよね」
婦人は心を魅了する微笑を残して、ノワジーを去っていった。
「ルネ」と優しく呼んで微笑んでくれる彼を愛していた。
あの時、それだけでよかった。
例え彼が誰であろうとも、よかった。
その微笑みだけで、満たされていた。
もう一度・・・もう一度だけでいいから彼が微笑んでくれたら私は救われるのに。
彼が逝ったのは満月の夜だった。
月が満ちている夜は、あの日の彼を思い出す。
確かにそこに在った彼の微笑み。
だから、いつもより少し多く、液体を流し込む。
4滴、5滴・・・
彼の体が小さく痙攣する。
薄く開かれる瞳は私を見た後、綺麗に微笑み、す、と閉じられた。
力の抜けていく体を抱き締めると、私も微笑み返す。
月の光の下、私はゆっくりと幸福感で満たされていくのを感じていた。
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