「くちづけてよいか」
王は静かな声で耳元に問うた。
正寝の一室、王にかき抱かれたまま、李斎はただ呆然としていた。たった今、王后を
受けた後、辞去しようとした李斎は、左手をとられると、そのまま皮甲(よろい)の上
から広い胸に抱かれたのだった。
王に抱かれるのは初めてではなかった。垂州で、泰麒とともに、肩を抱きしめられた。
あのときは、ただ将として、王への崇敬と思慕の念で一杯であった。
今は違う。はじめて男である王を意識した。
李斎の意志とは無関係に、皮甲を通しても感じられるほど、胸がひたすら激しく打っ
ている。耳にはどくどくと、血の音がきこえるかのようで息が苦しい。
王が、くちづけるために腕をわずかに緩めたとき、李斎はもはや王の顔を見られずに、
目を固くつむった。すぐ間近に呼吸を感じた。それから、それがふと遠のき、それで李
斎は、目を開いた。
少し離した目の前に、驍宗の顔があった。こころなしか苦笑している。
「やめておこう。…これ以上触れたら、今宵そなたを官邸に帰してやれなくなりそうだ」
李斎はきょとんとした。せっかくの覚悟が行き場を失ってしまったのだ。
「ここまで辛抱したのだ。華燭の日まで、待つこととする」
行け、と驍宗は言い、李斎はそのまま送り出されて、門殿へと続く庭院に下りた。
「まぁ…。主上もご辛抱のおよろしいこと。でもきちんと、華燭の典はあげてくださる
おつもりでいらっしゃいますのね。ああ李斎、本当に良かった事…」
客庁(きゃくま)の大卓の上で、美しい指先で、それが癖のように酒盃のふちを撫で、
花影は友に微笑んだ。
神籍にあるものは、もはや新たに婚姻はできない。当然里木に願っても、子は授から
ない。だがそれでも主上は、承知の上で、伴侶となる李斎のために、正式の婚儀の形を
とってくれる心づもりなのだ。
「どう良いのだ?」
李斎は盃に口もつけず、すがるように親友の面を見た。
「どう…って。それだけ李斎を大切になさるお心がおありなのでしょう。違うの?」
言ってから、花影はまた微笑んだ。李斎は憮然とし、それから重く口を開いた。
「そうじゃない。私を、王后にだなどと、主上はどうかしておられる。花影は、そうは
思わないのか?」
花影は、驚いたように黙って李斎を見つめた。
「つい返事をした私も私だ。自己嫌悪でどうにかなりそうだ!」
李斎は己の額を抱えた。
そして最初は申し出を批難し、次に同情などいらぬといい、後宮に入れだなどと自分
を分かってないと恨み言まで言ったことを語った。侮辱という言葉も使った気がする。
「まぁ」
「そうしたら、後宮は使わぬ、部屋も正寝だと言われ…、分かるだろう?常の調子で、
激しくたたみかけられた。それで、…つい、是、…と…」
沈黙が、贅沢ではないが品良く設(しつら)えられた、花影の客庁に降りた。
花影はなにごとか考えるふうであったが、彼女の一番の友の、最初からのらしからぬ
この訪問に首を傾けた。
花影の官邸に、約束も案内もなく、突然現れた隻腕の将軍は、花影が、客庁に入って
きたとき、まるでよるべない子のように小さく縮こまって、椅子の上でうなだれていた。
理知的な明るさとそれを凌ぐ勇猛さ、女の身で、常の男の何倍もの働きをしてのける。
なにより今回の玉座奪還の立て役者となった、誇るべき親友の姿はどこにもなく、ただ、
小さな女の子が途方に暮れて座っている風情であったことを、花影は思い返した。
「あの、お怒りにならないでね、李斎」
花影はゆっくり言葉を選んだ。
「あなたひょっとして、ご自分が主上をお好きなことも、主上が李斎をお好きなことも、
まったくご存知ではなかったの…?」
「何だって?」
李斎は目を見開いた。それを見て、花影はもっと驚いた。
「呆れた…。あなた一体、男の方とどういう付き合いをなすっていらしたの」
「男と?幼い頃の打ち合いの相手を除けば、常に部下か上司か、同僚だ。鎬を削って得
た友人なら大勢いた。皆気持ちの良い相手だった」
「それ以外は?いえ、その方たちの中で、お付き合いしようという方はいらっしゃらな
かったの?あなたのご友人ならお言葉通りに、さぞかし、心栄えのよい方ばかりでした
でしょうに」
「付き合いって…そういう意味のか。いなかった。師帥までは夢中だった。なにしろ早
く師帥になりたくて、あの当時、それは私の願いの全てだったから。そのあと将軍職を
賜った。一軍の兵は七千五百。彼らの命をわたしが握っている。相手だの、結婚だのと、
考えている暇(いとま)など、なかった」
「信じられないわ…よく周囲が放っておいたこと。あなたはお綺麗だし、お若いし、有
能でいらっしゃる…ああ、だから、主上くらいの格でないと釣り合わなかったというこ
となのかしら…」
李斎は花影の言葉を強くさえぎった。
「釣り合ってなどいない!あの方は、名君であらせられる。わたしなどとは器が違う。
花影もよく分かっているはずだ」
「それでもそのお方が、唯一の妻にと、おのぞみになったのは、あなただったのだわ」
「ばかな」
「あのね、李斎」
花影は子供を諭すように、居住まいを正すと、李斎の目を見て言った。
「いくら崇敬申し上げている国王といえど、女が髪ふりみだして、行方を探すというの
は、その男の人を心から愛しているということなの。それに、将軍だからこそ手が出な
いでおいでなのだろう、というのは、私たちの間では有名な話よ。なにしろ、あなたと
主上が並んでらして、そこに台輔のお姿があれば、いつも立派に家族だったわ」
「……考えもしなかった」
花影はため息をついた。
「台輔は大きくなってしまわれた。主上はね、お隣の延王のようには生きられない方よ。
必ず伴侶を、ご家族を必要となさるだろうと、ずっと思っていたわ。ご自身はきっと、
もっとお思いだったでしょうよ。李斎が右腕を失ったのは辛いけれど、結局そのことが、
主上のご決意に結びついたのね。確約してもよろしいわ。誰も、否やは言わないことよ」
花影は官邸付きの胥(げかん)に、酒肴の膳を下げさせると、立ち上がった。もう夜
更けである。
さ、と花影は李斎を促した。
「今日はきっと戻っても眠れないでしょう。せめてうちに、お泊りなさいな。あなたの
お部屋を用意させるわね。…いつものように、わたくしの部屋にご一緒、と言うのでは
余りに畏れ多いことだから」
「…。いつも通りがいい」
「そういうわけには…。じきに、というより、王がお申し出あそばしてあなたがお受け
になった以上は、すでに后妃でいらっしゃるも同然ですもの。分かってらっしゃるでし
ょう?」
「…。花影」
「なあに?」
「花影だけは、李斎と呼んでくれないだろうか?たとえこの先どうなったとしても」
花影は李斎のすがるような目を見返して、しばし黙っていたが、頷いた。
「そうね、…分かったわ。武将としてお仕えするとは、全く違うお暮らしになるのです
ものね。せめて、わたくしにはこれからも甘えて頂戴。わたくしも散々あなたに甘えて
きたのですから」
「ありがとう、花影」
ようやく李斎はほっとした顔になった。王后を受けて以来、というより、最前、驍宗
に抱きしめられてから、ずっと身体中を苛んだ感触が、花影の優しさに包まれ、わずか
ながらも落ち着いたのを感じた。
実際、王宮から官邸への帰り道、どこでどう考えて花影のところへの道を辿ったもの
か、記憶にないほどであったのだ。
花影は笑んで言った。
「李斎、あなたも今夜は寝つけないでしょうけれど、主上はもっとそうでいらっしゃる
わよ。きっと朝まで、乙夜之覧(いつやのらん=政務を終えてからの天子の読書)を、
なさっておいででしょうね。華燭の宴の前に、疲労困憊してしまわれないと良いけれど」
花影は小さく笑い声を立て、李斎は再びきょとんとした。
華燭。それは自分とあまりに遠い言葉のように聞こえ、まるで実感が湧かない。まし
て、なにゆえ王が眠れないというのか。
だがその頃、驍宗は寝もやらず、書に読みふけっていた。夏の終りの夜半、虫の音は
庭院に満ち、星は、またたく。
「兄さん」
突然呼ばれて、王付きの大僕は、雲海をのぞむ園林の、座っていた階段から飛びあが
った。
「夕暉!」
弟の名を呼び、信じかねるように首を振りながら立ち上がる。
「お前、なんだってこんなところに…、少学はどうしたんだ?」
「二三日、お休みを貰ったんだ。浩瀚さまから急なお手紙を頂いて、ね」
「冢宰からぁ?」
うん、と笑いながら弟は兄の座っていたひとつ上の段に腰掛ける。
「学校長がね、青くなって、授業中の教室にご自分で届けにいらしたよ。中を見たら、
きっともっと驚いただろうね。なにしろ、陽子からだったんだもの」
「陽子が?なんだってお前に…。でも休みだなんて、いいのか?学校はあってるんだろ
うが」
「平気。三日くらい、首位を明渡してもどうってことないよ。戻ったら、すぐまた巻き
返すさ」
「首位って、じゃあお前」
「そう、首席なんだ、僕」
それをきくと虎嘯は、目を丸くし、それから顔をくしゃくしゃにして笑った。弟の頭
を小突くように撫でる。
「そうか、おまえ少学で一番なのか!うん、きっとやると思ってた!そうか」
「まあね。…ところで、兄さんがここのところ、元気がないんで、景王は心配なさって
おいでなんだよ」
思い当たったのか、虎嘯は、背中を丸めた。
「元気がないほどじゃねぇんだけどな。そうか、陽子にまで心配させちまってたか…」
夕暉は黙って、兄の言葉を待った。
「実はその…、本当に行かせちまってよかったのか、どうにもすっきりしねぇって言う
か、落ち着かなくてな…」
「戴の…将軍様?」
ああ、と虎嘯は指を組み、大きく伸びをした。
「それと、麒麟でなくなった泰台輔だ…お前よく知ってるな」
夕暉はにこりと笑んだ。
「陽子が手紙の中で、あらまし説明してくれたからね」
「ふうん、じゃ、利き腕がないってことも知ってるんだな」
「うん…怪我が元で、なくされたって」
「すごい胆力だった。単身禁門を突破して、乗り込んできたのもそうだが、瀕死の重傷
だったのに、陽子に会うまで頑として座ろうとしなかった。利き腕をなくしたと知った
ときさえ、びくともしちゃあ、いなかった。だいぶ良くなってから、そのことを話題に
したことがあった。そのときは、王を守れなかった将軍に利き腕などあってもなくても
同じだと思ったんだとさ」
「それは…もの凄いね」
「ああ、それほど国の…戴の国のために必死だった」
虎嘯の眼差しが、雲海を見つめながら、眩しげに細められた。
「なんていうかな、自分のためってえもんがないんだ。あのひとを見ているとよ、あの
ひと自身が王じゃないかと思えてくる。それほど、国のため、王と台輔のためしか頭に
ない…。あれほどの女がよ、必死になって何年も国中探したというんだ。相手が尊敬し
ている王だろうとなかろうと、男としても好いているに決まってる。ところが当の本人
には、その自覚がまるでねぇときてんだよなぁ…」
「そうなんだ…」
「ああ。戴の王ってひとはすごい人物だといわれている。それが本当なら、玉座を取り
戻したときには、きっとあのひとを王后に迎えるだろうさ。そうでなくちゃあ嘘だ」
確信に満ちた声はどこか寂しげだった。
「仮にも将軍様だ、俺なんかがついて行ってやっても、何の役に立つわけでもなかった
かもしらねぇ。妖魔相手に戦ったことはねぇからな」
虎嘯は大きな溜息をついた。
「それに俺はもう、宮仕えってやつだしな。ここに、陽子の大僕っていう仕事がある。
それをうっちゃって行くことはできないから勘弁してくれと、そう言った。…あっさり
納得してくれたよ」
「それでもついて行きたかったんだね」
「ああ。うん…。そうだな。確かについて行きたかったな。そうだ」
それきり虎嘯は黙った。
虎嘯は黙って雲海を見た。北の、戴国の方角である。西日が、虎嘯と夕暉の左の横顔
に当たっていた。
『それほど、兄さんはその将軍様を好きだったんだね…』
その言葉を夕暉は胸にしまい、並んで雲海を見ていた。
光は一条のみだ。
巌の狭間から漏れて来る。
それでやっと昼夜が分かる。だが、幾日幾月幾歳過ぎたものか、もう定かではない。
口にするのは、岩をつたう僅かな水と苔だけだ。常人ならば死んでいる。常人ならば
狂うことも出来るだろう。だが神籍にある身ではそれもかなわない。かなわないことを
口惜しいとは思わない。自分は王なのだから。
だが自分が王である故に、こうして無為の時を過すうち、自分が統べるべきこの国が、
どうなっているのか、それを考えるとたまらない焦燥が、全身を苛む。
彼は考える。彼のこの国、戴と、戴の民のことを。
夢は悪夢が多い。いや悪夢ではなく現実だろう。焦土と化す国土。凍える民草の嘆き。
たまさか優しい夢が訪れることもあった。それは必ず夜の夢だ。彼の王宮で夜、彼は
彼の麒麟と共にいる。そこは必ず正寝で、床にはいつも書面が散らばる。
あどけない笑顔をした稚い宰輔は、信頼に満ちた瞳で彼を見つめ、彼はその瞳の中に、
民たちの希望を再確認するのが常だった。泰麒が王の側にいるのが無条件に嬉しいよう
に、自分もあの麒麟を愛しんでいた。
夢には必ず、もうひとりの姿がある。皮甲をつけ、赤褐色の長い髪をした女だ。手も
との書類は昨年と一昨年の軍事費の決算書、その兵站の欄から、今しがた論議に出た、
数項目を一心に見比べているのだ。つややかな髪が白い顔に落ちかかり、それを無意識
に首元まで手で押さえているのが、常になく女びていて目を奪われる。
女は六将軍のひとりだった。だから、強いて思いを通そうとは思わなかった。自分が
どんなに彼女を望んでいたか、こうなっても夢に見るほどだと知るまでは、分かってい
なかった。
泰麒の無事は分かる。こうして彼がまだ生きていることが、麒麟が存命である証左だ。
どのような目に遭っているのかは分からない、が、とにかく生きてはいてくれている。
だが彼女は。
無事だろうか。おそらく彼の敵は彼女を見落としはしないだろう。それでも生き延び
ていてくれようか…。
その夢はいつも明け方に訪れた。だから、いまも、明け方に同じ夢をみる。正確には、
同じ夢を見ている、自分を夢見る。そして、牀榻に射し込む曙の薄い光のなかで、彼は
自分のすぐ傍らに赤褐色の髪を見る。
「…いかがなされました」
うすく開かれた目が、彼に向けられる。
「大事ない…」
不安げに夫を見る彼女に笑んで繰り返す。
「大事ない、いつもの夢だ」
彼女は片袖で彼の背をそっと抱きしめる。彼女が夢の中で髪を押さえた右手はもはや
ない。だが、彼女は生きており、彼の腕の中にいる。
国は安定し、民は豊かになりつつあった。
王は静かな声で耳元に問うた。
正寝の一室、王にかき抱かれたまま、李斎はただ呆然としていた。たった今、王后を
受けた後、辞去しようとした李斎は、左手をとられると、そのまま皮甲(よろい)の上
から広い胸に抱かれたのだった。
王に抱かれるのは初めてではなかった。垂州で、泰麒とともに、肩を抱きしめられた。
あのときは、ただ将として、王への崇敬と思慕の念で一杯であった。
今は違う。はじめて男である王を意識した。
李斎の意志とは無関係に、皮甲を通しても感じられるほど、胸がひたすら激しく打っ
ている。耳にはどくどくと、血の音がきこえるかのようで息が苦しい。
王が、くちづけるために腕をわずかに緩めたとき、李斎はもはや王の顔を見られずに、
目を固くつむった。すぐ間近に呼吸を感じた。それから、それがふと遠のき、それで李
斎は、目を開いた。
少し離した目の前に、驍宗の顔があった。こころなしか苦笑している。
「やめておこう。…これ以上触れたら、今宵そなたを官邸に帰してやれなくなりそうだ」
李斎はきょとんとした。せっかくの覚悟が行き場を失ってしまったのだ。
「ここまで辛抱したのだ。華燭の日まで、待つこととする」
行け、と驍宗は言い、李斎はそのまま送り出されて、門殿へと続く庭院に下りた。
「まぁ…。主上もご辛抱のおよろしいこと。でもきちんと、華燭の典はあげてくださる
おつもりでいらっしゃいますのね。ああ李斎、本当に良かった事…」
客庁(きゃくま)の大卓の上で、美しい指先で、それが癖のように酒盃のふちを撫で、
花影は友に微笑んだ。
神籍にあるものは、もはや新たに婚姻はできない。当然里木に願っても、子は授から
ない。だがそれでも主上は、承知の上で、伴侶となる李斎のために、正式の婚儀の形を
とってくれる心づもりなのだ。
「どう良いのだ?」
李斎は盃に口もつけず、すがるように親友の面を見た。
「どう…って。それだけ李斎を大切になさるお心がおありなのでしょう。違うの?」
言ってから、花影はまた微笑んだ。李斎は憮然とし、それから重く口を開いた。
「そうじゃない。私を、王后にだなどと、主上はどうかしておられる。花影は、そうは
思わないのか?」
花影は、驚いたように黙って李斎を見つめた。
「つい返事をした私も私だ。自己嫌悪でどうにかなりそうだ!」
李斎は己の額を抱えた。
そして最初は申し出を批難し、次に同情などいらぬといい、後宮に入れだなどと自分
を分かってないと恨み言まで言ったことを語った。侮辱という言葉も使った気がする。
「まぁ」
「そうしたら、後宮は使わぬ、部屋も正寝だと言われ…、分かるだろう?常の調子で、
激しくたたみかけられた。それで、…つい、是、…と…」
沈黙が、贅沢ではないが品良く設(しつら)えられた、花影の客庁に降りた。
花影はなにごとか考えるふうであったが、彼女の一番の友の、最初からのらしからぬ
この訪問に首を傾けた。
花影の官邸に、約束も案内もなく、突然現れた隻腕の将軍は、花影が、客庁に入って
きたとき、まるでよるべない子のように小さく縮こまって、椅子の上でうなだれていた。
理知的な明るさとそれを凌ぐ勇猛さ、女の身で、常の男の何倍もの働きをしてのける。
なにより今回の玉座奪還の立て役者となった、誇るべき親友の姿はどこにもなく、ただ、
小さな女の子が途方に暮れて座っている風情であったことを、花影は思い返した。
「あの、お怒りにならないでね、李斎」
花影はゆっくり言葉を選んだ。
「あなたひょっとして、ご自分が主上をお好きなことも、主上が李斎をお好きなことも、
まったくご存知ではなかったの…?」
「何だって?」
李斎は目を見開いた。それを見て、花影はもっと驚いた。
「呆れた…。あなた一体、男の方とどういう付き合いをなすっていらしたの」
「男と?幼い頃の打ち合いの相手を除けば、常に部下か上司か、同僚だ。鎬を削って得
た友人なら大勢いた。皆気持ちの良い相手だった」
「それ以外は?いえ、その方たちの中で、お付き合いしようという方はいらっしゃらな
かったの?あなたのご友人ならお言葉通りに、さぞかし、心栄えのよい方ばかりでした
でしょうに」
「付き合いって…そういう意味のか。いなかった。師帥までは夢中だった。なにしろ早
く師帥になりたくて、あの当時、それは私の願いの全てだったから。そのあと将軍職を
賜った。一軍の兵は七千五百。彼らの命をわたしが握っている。相手だの、結婚だのと、
考えている暇(いとま)など、なかった」
「信じられないわ…よく周囲が放っておいたこと。あなたはお綺麗だし、お若いし、有
能でいらっしゃる…ああ、だから、主上くらいの格でないと釣り合わなかったというこ
となのかしら…」
李斎は花影の言葉を強くさえぎった。
「釣り合ってなどいない!あの方は、名君であらせられる。わたしなどとは器が違う。
花影もよく分かっているはずだ」
「それでもそのお方が、唯一の妻にと、おのぞみになったのは、あなただったのだわ」
「ばかな」
「あのね、李斎」
花影は子供を諭すように、居住まいを正すと、李斎の目を見て言った。
「いくら崇敬申し上げている国王といえど、女が髪ふりみだして、行方を探すというの
は、その男の人を心から愛しているということなの。それに、将軍だからこそ手が出な
いでおいでなのだろう、というのは、私たちの間では有名な話よ。なにしろ、あなたと
主上が並んでらして、そこに台輔のお姿があれば、いつも立派に家族だったわ」
「……考えもしなかった」
花影はため息をついた。
「台輔は大きくなってしまわれた。主上はね、お隣の延王のようには生きられない方よ。
必ず伴侶を、ご家族を必要となさるだろうと、ずっと思っていたわ。ご自身はきっと、
もっとお思いだったでしょうよ。李斎が右腕を失ったのは辛いけれど、結局そのことが、
主上のご決意に結びついたのね。確約してもよろしいわ。誰も、否やは言わないことよ」
花影は官邸付きの胥(げかん)に、酒肴の膳を下げさせると、立ち上がった。もう夜
更けである。
さ、と花影は李斎を促した。
「今日はきっと戻っても眠れないでしょう。せめてうちに、お泊りなさいな。あなたの
お部屋を用意させるわね。…いつものように、わたくしの部屋にご一緒、と言うのでは
余りに畏れ多いことだから」
「…。いつも通りがいい」
「そういうわけには…。じきに、というより、王がお申し出あそばしてあなたがお受け
になった以上は、すでに后妃でいらっしゃるも同然ですもの。分かってらっしゃるでし
ょう?」
「…。花影」
「なあに?」
「花影だけは、李斎と呼んでくれないだろうか?たとえこの先どうなったとしても」
花影は李斎のすがるような目を見返して、しばし黙っていたが、頷いた。
「そうね、…分かったわ。武将としてお仕えするとは、全く違うお暮らしになるのです
ものね。せめて、わたくしにはこれからも甘えて頂戴。わたくしも散々あなたに甘えて
きたのですから」
「ありがとう、花影」
ようやく李斎はほっとした顔になった。王后を受けて以来、というより、最前、驍宗
に抱きしめられてから、ずっと身体中を苛んだ感触が、花影の優しさに包まれ、わずか
ながらも落ち着いたのを感じた。
実際、王宮から官邸への帰り道、どこでどう考えて花影のところへの道を辿ったもの
か、記憶にないほどであったのだ。
花影は笑んで言った。
「李斎、あなたも今夜は寝つけないでしょうけれど、主上はもっとそうでいらっしゃる
わよ。きっと朝まで、乙夜之覧(いつやのらん=政務を終えてからの天子の読書)を、
なさっておいででしょうね。華燭の宴の前に、疲労困憊してしまわれないと良いけれど」
花影は小さく笑い声を立て、李斎は再びきょとんとした。
華燭。それは自分とあまりに遠い言葉のように聞こえ、まるで実感が湧かない。まし
て、なにゆえ王が眠れないというのか。
だがその頃、驍宗は寝もやらず、書に読みふけっていた。夏の終りの夜半、虫の音は
庭院に満ち、星は、またたく。
「兄さん」
突然呼ばれて、王付きの大僕は、雲海をのぞむ園林の、座っていた階段から飛びあが
った。
「夕暉!」
弟の名を呼び、信じかねるように首を振りながら立ち上がる。
「お前、なんだってこんなところに…、少学はどうしたんだ?」
「二三日、お休みを貰ったんだ。浩瀚さまから急なお手紙を頂いて、ね」
「冢宰からぁ?」
うん、と笑いながら弟は兄の座っていたひとつ上の段に腰掛ける。
「学校長がね、青くなって、授業中の教室にご自分で届けにいらしたよ。中を見たら、
きっともっと驚いただろうね。なにしろ、陽子からだったんだもの」
「陽子が?なんだってお前に…。でも休みだなんて、いいのか?学校はあってるんだろ
うが」
「平気。三日くらい、首位を明渡してもどうってことないよ。戻ったら、すぐまた巻き
返すさ」
「首位って、じゃあお前」
「そう、首席なんだ、僕」
それをきくと虎嘯は、目を丸くし、それから顔をくしゃくしゃにして笑った。弟の頭
を小突くように撫でる。
「そうか、おまえ少学で一番なのか!うん、きっとやると思ってた!そうか」
「まあね。…ところで、兄さんがここのところ、元気がないんで、景王は心配なさって
おいでなんだよ」
思い当たったのか、虎嘯は、背中を丸めた。
「元気がないほどじゃねぇんだけどな。そうか、陽子にまで心配させちまってたか…」
夕暉は黙って、兄の言葉を待った。
「実はその…、本当に行かせちまってよかったのか、どうにもすっきりしねぇって言う
か、落ち着かなくてな…」
「戴の…将軍様?」
ああ、と虎嘯は指を組み、大きく伸びをした。
「それと、麒麟でなくなった泰台輔だ…お前よく知ってるな」
夕暉はにこりと笑んだ。
「陽子が手紙の中で、あらまし説明してくれたからね」
「ふうん、じゃ、利き腕がないってことも知ってるんだな」
「うん…怪我が元で、なくされたって」
「すごい胆力だった。単身禁門を突破して、乗り込んできたのもそうだが、瀕死の重傷
だったのに、陽子に会うまで頑として座ろうとしなかった。利き腕をなくしたと知った
ときさえ、びくともしちゃあ、いなかった。だいぶ良くなってから、そのことを話題に
したことがあった。そのときは、王を守れなかった将軍に利き腕などあってもなくても
同じだと思ったんだとさ」
「それは…もの凄いね」
「ああ、それほど国の…戴の国のために必死だった」
虎嘯の眼差しが、雲海を見つめながら、眩しげに細められた。
「なんていうかな、自分のためってえもんがないんだ。あのひとを見ているとよ、あの
ひと自身が王じゃないかと思えてくる。それほど、国のため、王と台輔のためしか頭に
ない…。あれほどの女がよ、必死になって何年も国中探したというんだ。相手が尊敬し
ている王だろうとなかろうと、男としても好いているに決まってる。ところが当の本人
には、その自覚がまるでねぇときてんだよなぁ…」
「そうなんだ…」
「ああ。戴の王ってひとはすごい人物だといわれている。それが本当なら、玉座を取り
戻したときには、きっとあのひとを王后に迎えるだろうさ。そうでなくちゃあ嘘だ」
確信に満ちた声はどこか寂しげだった。
「仮にも将軍様だ、俺なんかがついて行ってやっても、何の役に立つわけでもなかった
かもしらねぇ。妖魔相手に戦ったことはねぇからな」
虎嘯は大きな溜息をついた。
「それに俺はもう、宮仕えってやつだしな。ここに、陽子の大僕っていう仕事がある。
それをうっちゃって行くことはできないから勘弁してくれと、そう言った。…あっさり
納得してくれたよ」
「それでもついて行きたかったんだね」
「ああ。うん…。そうだな。確かについて行きたかったな。そうだ」
それきり虎嘯は黙った。
虎嘯は黙って雲海を見た。北の、戴国の方角である。西日が、虎嘯と夕暉の左の横顔
に当たっていた。
『それほど、兄さんはその将軍様を好きだったんだね…』
その言葉を夕暉は胸にしまい、並んで雲海を見ていた。
光は一条のみだ。
巌の狭間から漏れて来る。
それでやっと昼夜が分かる。だが、幾日幾月幾歳過ぎたものか、もう定かではない。
口にするのは、岩をつたう僅かな水と苔だけだ。常人ならば死んでいる。常人ならば
狂うことも出来るだろう。だが神籍にある身ではそれもかなわない。かなわないことを
口惜しいとは思わない。自分は王なのだから。
だが自分が王である故に、こうして無為の時を過すうち、自分が統べるべきこの国が、
どうなっているのか、それを考えるとたまらない焦燥が、全身を苛む。
彼は考える。彼のこの国、戴と、戴の民のことを。
夢は悪夢が多い。いや悪夢ではなく現実だろう。焦土と化す国土。凍える民草の嘆き。
たまさか優しい夢が訪れることもあった。それは必ず夜の夢だ。彼の王宮で夜、彼は
彼の麒麟と共にいる。そこは必ず正寝で、床にはいつも書面が散らばる。
あどけない笑顔をした稚い宰輔は、信頼に満ちた瞳で彼を見つめ、彼はその瞳の中に、
民たちの希望を再確認するのが常だった。泰麒が王の側にいるのが無条件に嬉しいよう
に、自分もあの麒麟を愛しんでいた。
夢には必ず、もうひとりの姿がある。皮甲をつけ、赤褐色の長い髪をした女だ。手も
との書類は昨年と一昨年の軍事費の決算書、その兵站の欄から、今しがた論議に出た、
数項目を一心に見比べているのだ。つややかな髪が白い顔に落ちかかり、それを無意識
に首元まで手で押さえているのが、常になく女びていて目を奪われる。
女は六将軍のひとりだった。だから、強いて思いを通そうとは思わなかった。自分が
どんなに彼女を望んでいたか、こうなっても夢に見るほどだと知るまでは、分かってい
なかった。
泰麒の無事は分かる。こうして彼がまだ生きていることが、麒麟が存命である証左だ。
どのような目に遭っているのかは分からない、が、とにかく生きてはいてくれている。
だが彼女は。
無事だろうか。おそらく彼の敵は彼女を見落としはしないだろう。それでも生き延び
ていてくれようか…。
その夢はいつも明け方に訪れた。だから、いまも、明け方に同じ夢をみる。正確には、
同じ夢を見ている、自分を夢見る。そして、牀榻に射し込む曙の薄い光のなかで、彼は
自分のすぐ傍らに赤褐色の髪を見る。
「…いかがなされました」
うすく開かれた目が、彼に向けられる。
「大事ない…」
不安げに夫を見る彼女に笑んで繰り返す。
「大事ない、いつもの夢だ」
彼女は片袖で彼の背をそっと抱きしめる。彼女が夢の中で髪を押さえた右手はもはや
ない。だが、彼女は生きており、彼の腕の中にいる。
国は安定し、民は豊かになりつつあった。
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「いかがなされました」
李斎は思わず王に訊いた。
珍しいことに、この王が掛け値なしの笑みをこぼしながら、園林(ていえん)に面し
た黒檀の卓と椅子で待っている、二人のもとへと戻ってきたところだ。
「いま宿館(やど)の者に言われたのだ、利発そうなお子ですね、だと。どうだ、蒿里、
おまえは賢くみえるらしいぞ」
「あの…僕、でも学校の成績はあまり良くはなかったんですけれど」
「関係ない。成績と頭の良さは必ずしも同じではない。私は期待していてよいのだろう
な?」
「がんばります」
健気にも、泰麒は頭をしゃんと立てると答えた。即位式を一目見ようと集まった首都
鴻基に溢れ返っている人込みに、すっかり酔ったのだったが、この大きな宿館に昼餉を
とるために入り、園林からの涼風にあたっていると、ずっと気分が良くなっていた。
「よろしい。さて行こうか」
驍宗は二人を促した。
「どちらへ」
李斎が、目を見開いて聞く。飯庁(しょくどう)はすぐそこにある。驍宗が示したの
は、だが逆の方であった。
「一階の、一番良い房室が、まだひとつ空いていたゆえ、取った。飯庁で食べるよりは、
くつろげてよかろう。耳目を気にせずに済む。それに交渉はしてみたが、厩(うまや)
を使う以上は、昼餉だけといっても、一応房室をとらねばならぬそうだ。三人だから、
丸々ひと室(へや)がとれた」
この、首都でも随一の高級宿館の厩では、堂々の体躯をした吉量と、優しげな天馬が、
すでに繋がれており、厩係から早速に与えられた飼葉で、強行軍の疲れと空腹を癒して
いるところだった。
三人がここへ来た理由の筆頭は、予想以上に、彼らが目立ったためである。
新王の特徴として、いまや知る人ぞ知る、珍しい銀白色の髪と紅玉の目だとしても、
それだけでは、雑踏を供もなく歩く男を、王だなどとは誰も思わない。またそれゆえ、
大僕(ごえい)を連れなかったのだ。
だが、驍宗の思惑にひとつおおきく誤算が生じていた。
彼の考えでは、李斎を連れることで、より目立たなくなるはずであった。新王が独身
であることは、よく知られている。子連れの家族と見えれば、と思ったのだ。
実際里木に、夫婦の願いを込めた帯を結ぶことで、卵果として子供を授かるこの世界
では、親子の髪の色が全く違っていて、何の不思議もない。親と子は、似ていなくて当
たり前なのだ。
だがまず、人々は高価な騎獣を二頭も連れている彼らに目をやった。すう虞ほどでは
ないにせよ、普通の人々が家族ごとに持っていることは稀だから、金持ちの夫婦ものと
してまず関心を引き、その上、李斎の美しさが目立った。
目立ちすぎた、と言っていい。
女たちは、必ず彼女を振り返り、値踏みする。高価な専用の乗騎を夫から与えられて
いる女。さりげなく騎乗用の絹服を身につけ、これも夫から与えられたであろう、見事
な細工の銀釵を刺している、まだ若い女…。
男たちの方は、李斎を見たあと、羨望の眼差しで驍宗を見る。美しい妻を持ち、――
もちろん全くの誤解なのだが――その妻にまで、騎獣を買い与える財力を持ち、そして、
子を天から授かる、と言う徳も兼ね備えた男…。
李斎の方は全く女たちの視線に気付いてはいなかった。この人込みで万が一のことが
あってはならない、女将軍の頭はそのことでいっぱいであった.。何度も泰麒の小さな手
を握り締めなおし、王に異変がないか、不審人物を常に警戒している。
職業病だな、と思うと同時に彼女の余りの自意識のなさには少々呆れる。自分の美貌
に無自覚なのだ。
ともかく驍宗は、大人二人の間で、空行用に着せられてそのままだった厚い綿入れの
錦のため、額に玉の汗を浮かべて、息を上げている泰麒に気付き、決心をした。
騎獣を預けなければならない。
それで、今の戴の民では、まず利用しそうにない、一番上等の宿館で昼餉をとること
にしたのだ。実際は、そこでさえも一杯だったが、かろうじて法外に高値の最上級房室
だけは空いていた。そこへ食事を運んでもらうことにしたのだった。
「お客さまも即位式においでですか」
案内の係が驍宗に問う。おいでもなにも、彼の後ろに立つのは即位する本人である。
「しかし、本当にお可愛らしいお子ですね」
何度言われても相好を崩す驍宗に、李斎は笑いをこらえて俯いた。
あの吉量に、最高の房室である。たとえどんな子供でも、宿の者なら必ず誉めそやす
であろうのに、驍宗はいっかな、『お世辞』という言葉には頭が行かないらしい。完全
無欠の人物と思っていただけに、李斎にとってはなおさら、こそばゆいほどの可笑し味
があった。
つい先程も、汗をかいている泰麒に気付くと、手ずから上着を脱がせてやり、そして
恥ずかしげもなく、その子供地味た柄と色合いの服を腕にかけて、平然と歩いていた。
…まるで、親子のようでいらっしゃる。
李斎は、ほほえましく二人を見た。これほど結びつきの強い二人が、わが戴国の王と
麒麟であるのだ。
戴はよくなる。李斎は希望とともに、園林を望む明るい部屋に案内されて入った。
「蒿里」
呼ばれて、夢中で粽(ちまき)と格闘していた泰麒は、斜め向かいの椅子についた、
彼の王を振り仰ぐ。李斎も皿から目を上げた。
注文どおりに、油の多いものと、肉料理は避けられているものの、さすがに鴻基随一
の宿館(やど)の用意した料理だけのことはあり、それは豪華な食卓であった。
「ついているぞ」
言いながら、泰麒のやわらかな頬についた、もち米の粒をとってやる。とって、皿に
でも置くのかと思ったら、何の躊躇もなく、それを自分の口に放り込んだ。
李斎は目を丸くし、思わず自分の箸を止めた。
「なんだ、李斎」
口を動かしながら、驍宗が問う。
「いえ、その…」
李斎はくちごもった。
「主じょ…驍宗さまにおかれては、お小さい子のお世話によほど慣れておいでなのか
と…。その、すこし意外に感じましたので」
これを聞いて、驍宗は破顔した。
「弟妹の多い家に育った。それでだろう。私の母親が再婚したとき、すでに父は三人、
子があったし、それからも増えたからな」
この世界では、子連れの再婚はごく普通のことであった。
「李斎には、兄弟があるのか」
「はい。実の姉が二人おります」
「ほぉう?」
驍宗は興味深く訊いた、
「皆、夏官(ぐんじん)とは言うまいな」
「とんでもございません」
李斎は笑った。
「姉たちは普通に結婚しております。下の姉夫婦はともに、州城に勤める役人ですが、
姉も姉の夫も州師ではありません。上の姉は、裕福な商家に嫁ぎましたので、家内の事
以外には特に携わってはおりません。甥や姪たちもずいぶんと大きくなりました。じき、
私は追い越されてしまいますでしょう」
李斎は、むしろ楽しげにそれを語った。州師で将軍職を賜ったおり、李斎は仙籍に入
った。仙人になれば、歳をとらない。それは、言うなれば、歳ごとに、知己に追い越さ
れる人生だ。親と配偶者、子までは同時に仙籍に入れるのだが、これをあえて断る例も
多い。李斎の両親も、上の娘たちやその子供たちとともに、普通に歳を重ねる方を選び、
仙にはならなかった。
「親御どのは息災か」
李斎は幽かに笑んだ。
「父が先年亡くなりました」
「そうか」
「急なことでしたが丁度、私が家に帰っているときでしたので、死に目にあうことが、
かないました」
それを聞くと、驍宗は意外な顔をした。
「仙になってからも、家族とは懇意だったのか」
はい、と、李斎は笑んで答えた。
「父は軍務で片足をなくすまで、承州師の師帥でございました。本当は三人目は自分の
跡を継ぐ男子が欲しかったようでございます。男児のための吉祥紋を帯に刺して、里木
に願ったのですが、生まれたのがわたくしで…」
「それで願いは半分ながら、見事、かなったわけだな」
「さようでございます」
と、男児以上の出世栄達を果たした末娘は笑った。
「小さな頃から、父は、私が活発なのを喜び、よく仕込んでくれました。私が将軍職を
賜ったときも誰よりも喜んでくれ、親戚にも周囲にも、特に私が昇仙したことを隠しも
せず、拘りもせず、いつ戻っても変らず迎えてくれましたので、ずっと、実家とは誼が
あるのです」
ほう、と驍宗は感慨深げに、頷いた。
「私とは丁度逆だな。故郷牙嶺は田舎の寒村でな。都で将軍をしているというだけでも、
何やら隔てがあるようで、その上、年々小さかった弟妹に歳を越されて行く私を見るの
も、無理があったらしい。たまに戻っても違和感ばかりがつきまとい、自然、故郷とは
縁が遠くなった。もう何年帰っていないか知れぬ。…李斎は、よい家族をもったな」
「恐れ入ります」
李斎は頭を下げた。自分のほうが特例なのだと分かっていた。家族の一人が仙となる
違和感とは、誰にでもすんなりと受け止められるものではない。これで別れる夫婦さえ
ある。一方が昇仙を拒むのだ。
そもそも任じられた当人でさえ、本来の寿命がつきる年齢になると、一度は仙籍返上
を考えると言う。実際それで辞職する官吏もいるときく。
自分から辞めることなど考えもしないのは、まだ若く、永久に衰えない身体が誇らし
く、ひたすら走っているときなのだ。だがそれはたかだか数十年だ。その先には、家族
の全て、幼い頃からの友人の全ての死に、若いままの姿で立ち会う日々が必ず来る。
泰麒は、大人二人の会話を、黙って興味深く聞いていた。驍宗が、故郷で気詰まりな
思いをした、というのは、彼には何となく理解できる感覚であった。
家庭の中、本来、もっとも安心し、落ちついていられるはずの場所で、自分の場所を
得るのに、毎日汲々として生きていた。
祖母との軋轢、誰よりも笑っていてほしい母親の涙、二人に挟まれ、いつも不機嫌な
視線を彼にむける父、心身ともに健康で、自分の居場所をちゃんと持っている弟…。
それもこれも、自分がいるべきところでない場所にいたせいなのだ、そう、知った時
泰麒の腑に落ちたものがあった。蓬山に連れてこられたとき、捨身木の下で、自分が木
の実から生まれた、――あの家の子ではなかった――と知った時の、涙と諦め。
すぐ蓬山に親しんだのは、そのためではなかったか。
そして、今、泰麒はたしかに、自分のいるべき場所にいた。自分の選んだ王の側だ。
王は泰麒に優しい。直裁苛烈、凄まじい覇気をもつ人物だが、彼の麒麟に対しての愛
情と優しさは本物であった。
そして李斎だ。いま彼女が大事に育った話を聞いて、泰麒は自分が、この王ではない
人物に無条件に惹かれた理由が分かった気がした。李斎は女怪でも女仙でも王でもない。
だから、直接に泰麒との利害関係はないのだ。それでも、この女将軍は、掛け値のない
愛情を、蓬山以来、ずっと降り注いでくれた。それこそいわれも報酬もない愛を、注ぐ
術(すべ)を彼女は知っているのだ。
それはきっと李斎がそのようにして、片足のない実の父から、降り注がれたものなの
だ。だからこそ彼女の側にいるのが、こんなにも落ち着くのだ、と。
愛情とそれに対する信頼と。泰麒は、いまはじめて「家庭」と呼ぶに最も近いものを
身体いっぱいに感じていた。
次の粽(ちまき)に手がのびた。驍宗が笑う。
「常の倍は食欲があるな。いつもそのようであれば、さぞ早く成獣してくれようよ、な、
蒿里?」
「はいっ」
答えた勢いでまた、もち米が飛んだ。さっさとそれを拾った驍宗は、またなんの躊躇
もなく自分の口に放り込んだ。今度は李斎は笑いながらそれを見ている。
二人を見比べ、泰麒は再び、粽を嬉しげに頬張った。秋の陽光は目の前の園林から、
三人の食卓の上まで、斜めに射し込み、暖かく膨らんで溢れていた。
「眠っているのか」
驍宗は声を低めて、天馬に跨ったままでいる李斎に言った。
「まだなんとか…お起こしすればお目覚めでしょうが、…いかがいたしましょう」
「下ろしてくれ」
驍宗は腕を広げ、天馬の鞍から、子供を抱き取った。
禁門の門卒は、何か一幅の絵でも見るような気持ちで、その光景を眺めた。
ひらりと飛燕の背から、李斎が降り立つ。
「蒿里。起きるか?」
驍宗の問いにすぐの返事はない。ややあって、眠たげな子供の声が上がった。
「もうお家に、着いたの?」
驍宗と李斎は一瞬顔を見合わせ、それから微笑んだ。
「夢でもご覧でしょうか」
「大層なはしゃぎ様だったからな。李斎、今日は手間をかけたな。礼を言う」
「とんでもございません」
李斎は小さく笑って、驍宗の腕の中の子供を見やった。
「大層楽しゅうございました。これほど、ゆっくりと台輔と過ごさせていただけるなど、
夢にも思っておりませんでしたので…。お礼申し上げたいのは、私の方でございます」
全く朝から夢のような一日だった。厩舎に師帥が呼びに来て、女の格好をさせられ、
禁門を出発点に瑞州中を駆け回り、大きな宿館で遅い昼餉を王と台輔とともに囲んで、
日暮れまで雑踏の中を見物して歩いた。
「釵(かんざし)は、いつお返し申し上げればよいのでしょうか」
李斎は訊ねた。王と台輔で選んだからには御物(ぎょぶつ)である。このままという
わけにはいかない。だが、驍宗はこだわりもなく言った。
「下賜する。ささやかだが、今日の礼だ」
「そんな、もったいない」
「下賜する」
驍宗はうむを言わせない調子で繰り返した。李斎は、諦め、拱手した。
「では有り難く頂戴いたします」
門卒が李斎の剣を手に近付いた。
「将軍」
「ああ。ありがとう」
李斎は受け取り、佩刀した。
「それではこれにて失礼仕ります」
飛燕の向きを変えさせ、辞去しようとしたとき、李斎、と驍宗が声をかけた。
「はい?」
鞍に登ろうとしていた李斎は、再び下りた。
「いつぞや言っていた、空席の禁軍将軍の件だが」
李斎は無言で王を見つめた。
「そなたの忠言をいれて、決めた。諸将の功績と徳を比べ、情けを用いず抜擢せよ、と。
覚えているか?」
「はい」
それは蓬山で別れ際、李斎が問われて新王に答えた言葉だった。
「今回、李斎には禁軍を諦めてもらう」
李斎は、幽かに自嘲し、目を伏せた。
「はい。王のお考え通りでよろしいかと」
「瑞州師の中将軍だが、それでこらえてくれようか?」
「は?」
思いがけない言葉に、李斎は飛燕の手綱を握り締めて突っ立った。
「わたくしが…王師に…、」
後の言葉は続かなかった。
瑞州師将軍といえば、王師六将軍である。禁軍の将となるには実力に加え運が必要だ。
だから、全ての将軍職にある者たちの究極の目標は、王師に召されることなのであった。
左軍、右軍、中軍などは、どうでもいい。とにかく州師と王師といえばさほどに差は大
きい。後者は、言うなれば、国王の重臣となるのであるから。
「受けてくれるか?」
「は。一命にかえまして、つとめさせて頂きます!」
「頼むぞ」
「はいっ」
その声で泰麒は目をさました。
「驍宗…さま」
やっと自分が王の腕の中にいるのに気がついた。
「目がさめたな」
驍宗は笑って、泰麒を抱えなおした。
「このまま仁重殿まで、連れようか」
「大丈夫です。僕、歩けます」
驍宗は子供を下に下ろすと、意味ありげに李斎を見て、言う。
「承州侯には今日出かけている間に知らせが届いている。あくまで内示だ。それゆえ、
いまのはまだ内密だ。台輔には特にな」
「はい」
李斎は泰麒と目が合い、慌てて逸らした。
「どうしたのですか?」
きょとんとして泰麒は驍宗に訊く。
「だから内緒だ。正式に決まったら教えてやる」
「はい…」
「それではお暇(いとま)申し上げます」
李斎は飛燕に騎乗した。王と台輔は、禁門に並んで、天駆けて行く騎獣を見送った。
見送る空に三連の冬星が輝いていた。
李斎は思わず王に訊いた。
珍しいことに、この王が掛け値なしの笑みをこぼしながら、園林(ていえん)に面し
た黒檀の卓と椅子で待っている、二人のもとへと戻ってきたところだ。
「いま宿館(やど)の者に言われたのだ、利発そうなお子ですね、だと。どうだ、蒿里、
おまえは賢くみえるらしいぞ」
「あの…僕、でも学校の成績はあまり良くはなかったんですけれど」
「関係ない。成績と頭の良さは必ずしも同じではない。私は期待していてよいのだろう
な?」
「がんばります」
健気にも、泰麒は頭をしゃんと立てると答えた。即位式を一目見ようと集まった首都
鴻基に溢れ返っている人込みに、すっかり酔ったのだったが、この大きな宿館に昼餉を
とるために入り、園林からの涼風にあたっていると、ずっと気分が良くなっていた。
「よろしい。さて行こうか」
驍宗は二人を促した。
「どちらへ」
李斎が、目を見開いて聞く。飯庁(しょくどう)はすぐそこにある。驍宗が示したの
は、だが逆の方であった。
「一階の、一番良い房室が、まだひとつ空いていたゆえ、取った。飯庁で食べるよりは、
くつろげてよかろう。耳目を気にせずに済む。それに交渉はしてみたが、厩(うまや)
を使う以上は、昼餉だけといっても、一応房室をとらねばならぬそうだ。三人だから、
丸々ひと室(へや)がとれた」
この、首都でも随一の高級宿館の厩では、堂々の体躯をした吉量と、優しげな天馬が、
すでに繋がれており、厩係から早速に与えられた飼葉で、強行軍の疲れと空腹を癒して
いるところだった。
三人がここへ来た理由の筆頭は、予想以上に、彼らが目立ったためである。
新王の特徴として、いまや知る人ぞ知る、珍しい銀白色の髪と紅玉の目だとしても、
それだけでは、雑踏を供もなく歩く男を、王だなどとは誰も思わない。またそれゆえ、
大僕(ごえい)を連れなかったのだ。
だが、驍宗の思惑にひとつおおきく誤算が生じていた。
彼の考えでは、李斎を連れることで、より目立たなくなるはずであった。新王が独身
であることは、よく知られている。子連れの家族と見えれば、と思ったのだ。
実際里木に、夫婦の願いを込めた帯を結ぶことで、卵果として子供を授かるこの世界
では、親子の髪の色が全く違っていて、何の不思議もない。親と子は、似ていなくて当
たり前なのだ。
だがまず、人々は高価な騎獣を二頭も連れている彼らに目をやった。すう虞ほどでは
ないにせよ、普通の人々が家族ごとに持っていることは稀だから、金持ちの夫婦ものと
してまず関心を引き、その上、李斎の美しさが目立った。
目立ちすぎた、と言っていい。
女たちは、必ず彼女を振り返り、値踏みする。高価な専用の乗騎を夫から与えられて
いる女。さりげなく騎乗用の絹服を身につけ、これも夫から与えられたであろう、見事
な細工の銀釵を刺している、まだ若い女…。
男たちの方は、李斎を見たあと、羨望の眼差しで驍宗を見る。美しい妻を持ち、――
もちろん全くの誤解なのだが――その妻にまで、騎獣を買い与える財力を持ち、そして、
子を天から授かる、と言う徳も兼ね備えた男…。
李斎の方は全く女たちの視線に気付いてはいなかった。この人込みで万が一のことが
あってはならない、女将軍の頭はそのことでいっぱいであった.。何度も泰麒の小さな手
を握り締めなおし、王に異変がないか、不審人物を常に警戒している。
職業病だな、と思うと同時に彼女の余りの自意識のなさには少々呆れる。自分の美貌
に無自覚なのだ。
ともかく驍宗は、大人二人の間で、空行用に着せられてそのままだった厚い綿入れの
錦のため、額に玉の汗を浮かべて、息を上げている泰麒に気付き、決心をした。
騎獣を預けなければならない。
それで、今の戴の民では、まず利用しそうにない、一番上等の宿館で昼餉をとること
にしたのだ。実際は、そこでさえも一杯だったが、かろうじて法外に高値の最上級房室
だけは空いていた。そこへ食事を運んでもらうことにしたのだった。
「お客さまも即位式においでですか」
案内の係が驍宗に問う。おいでもなにも、彼の後ろに立つのは即位する本人である。
「しかし、本当にお可愛らしいお子ですね」
何度言われても相好を崩す驍宗に、李斎は笑いをこらえて俯いた。
あの吉量に、最高の房室である。たとえどんな子供でも、宿の者なら必ず誉めそやす
であろうのに、驍宗はいっかな、『お世辞』という言葉には頭が行かないらしい。完全
無欠の人物と思っていただけに、李斎にとってはなおさら、こそばゆいほどの可笑し味
があった。
つい先程も、汗をかいている泰麒に気付くと、手ずから上着を脱がせてやり、そして
恥ずかしげもなく、その子供地味た柄と色合いの服を腕にかけて、平然と歩いていた。
…まるで、親子のようでいらっしゃる。
李斎は、ほほえましく二人を見た。これほど結びつきの強い二人が、わが戴国の王と
麒麟であるのだ。
戴はよくなる。李斎は希望とともに、園林を望む明るい部屋に案内されて入った。
「蒿里」
呼ばれて、夢中で粽(ちまき)と格闘していた泰麒は、斜め向かいの椅子についた、
彼の王を振り仰ぐ。李斎も皿から目を上げた。
注文どおりに、油の多いものと、肉料理は避けられているものの、さすがに鴻基随一
の宿館(やど)の用意した料理だけのことはあり、それは豪華な食卓であった。
「ついているぞ」
言いながら、泰麒のやわらかな頬についた、もち米の粒をとってやる。とって、皿に
でも置くのかと思ったら、何の躊躇もなく、それを自分の口に放り込んだ。
李斎は目を丸くし、思わず自分の箸を止めた。
「なんだ、李斎」
口を動かしながら、驍宗が問う。
「いえ、その…」
李斎はくちごもった。
「主じょ…驍宗さまにおかれては、お小さい子のお世話によほど慣れておいでなのか
と…。その、すこし意外に感じましたので」
これを聞いて、驍宗は破顔した。
「弟妹の多い家に育った。それでだろう。私の母親が再婚したとき、すでに父は三人、
子があったし、それからも増えたからな」
この世界では、子連れの再婚はごく普通のことであった。
「李斎には、兄弟があるのか」
「はい。実の姉が二人おります」
「ほぉう?」
驍宗は興味深く訊いた、
「皆、夏官(ぐんじん)とは言うまいな」
「とんでもございません」
李斎は笑った。
「姉たちは普通に結婚しております。下の姉夫婦はともに、州城に勤める役人ですが、
姉も姉の夫も州師ではありません。上の姉は、裕福な商家に嫁ぎましたので、家内の事
以外には特に携わってはおりません。甥や姪たちもずいぶんと大きくなりました。じき、
私は追い越されてしまいますでしょう」
李斎は、むしろ楽しげにそれを語った。州師で将軍職を賜ったおり、李斎は仙籍に入
った。仙人になれば、歳をとらない。それは、言うなれば、歳ごとに、知己に追い越さ
れる人生だ。親と配偶者、子までは同時に仙籍に入れるのだが、これをあえて断る例も
多い。李斎の両親も、上の娘たちやその子供たちとともに、普通に歳を重ねる方を選び、
仙にはならなかった。
「親御どのは息災か」
李斎は幽かに笑んだ。
「父が先年亡くなりました」
「そうか」
「急なことでしたが丁度、私が家に帰っているときでしたので、死に目にあうことが、
かないました」
それを聞くと、驍宗は意外な顔をした。
「仙になってからも、家族とは懇意だったのか」
はい、と、李斎は笑んで答えた。
「父は軍務で片足をなくすまで、承州師の師帥でございました。本当は三人目は自分の
跡を継ぐ男子が欲しかったようでございます。男児のための吉祥紋を帯に刺して、里木
に願ったのですが、生まれたのがわたくしで…」
「それで願いは半分ながら、見事、かなったわけだな」
「さようでございます」
と、男児以上の出世栄達を果たした末娘は笑った。
「小さな頃から、父は、私が活発なのを喜び、よく仕込んでくれました。私が将軍職を
賜ったときも誰よりも喜んでくれ、親戚にも周囲にも、特に私が昇仙したことを隠しも
せず、拘りもせず、いつ戻っても変らず迎えてくれましたので、ずっと、実家とは誼が
あるのです」
ほう、と驍宗は感慨深げに、頷いた。
「私とは丁度逆だな。故郷牙嶺は田舎の寒村でな。都で将軍をしているというだけでも、
何やら隔てがあるようで、その上、年々小さかった弟妹に歳を越されて行く私を見るの
も、無理があったらしい。たまに戻っても違和感ばかりがつきまとい、自然、故郷とは
縁が遠くなった。もう何年帰っていないか知れぬ。…李斎は、よい家族をもったな」
「恐れ入ります」
李斎は頭を下げた。自分のほうが特例なのだと分かっていた。家族の一人が仙となる
違和感とは、誰にでもすんなりと受け止められるものではない。これで別れる夫婦さえ
ある。一方が昇仙を拒むのだ。
そもそも任じられた当人でさえ、本来の寿命がつきる年齢になると、一度は仙籍返上
を考えると言う。実際それで辞職する官吏もいるときく。
自分から辞めることなど考えもしないのは、まだ若く、永久に衰えない身体が誇らし
く、ひたすら走っているときなのだ。だがそれはたかだか数十年だ。その先には、家族
の全て、幼い頃からの友人の全ての死に、若いままの姿で立ち会う日々が必ず来る。
泰麒は、大人二人の会話を、黙って興味深く聞いていた。驍宗が、故郷で気詰まりな
思いをした、というのは、彼には何となく理解できる感覚であった。
家庭の中、本来、もっとも安心し、落ちついていられるはずの場所で、自分の場所を
得るのに、毎日汲々として生きていた。
祖母との軋轢、誰よりも笑っていてほしい母親の涙、二人に挟まれ、いつも不機嫌な
視線を彼にむける父、心身ともに健康で、自分の居場所をちゃんと持っている弟…。
それもこれも、自分がいるべきところでない場所にいたせいなのだ、そう、知った時
泰麒の腑に落ちたものがあった。蓬山に連れてこられたとき、捨身木の下で、自分が木
の実から生まれた、――あの家の子ではなかった――と知った時の、涙と諦め。
すぐ蓬山に親しんだのは、そのためではなかったか。
そして、今、泰麒はたしかに、自分のいるべき場所にいた。自分の選んだ王の側だ。
王は泰麒に優しい。直裁苛烈、凄まじい覇気をもつ人物だが、彼の麒麟に対しての愛
情と優しさは本物であった。
そして李斎だ。いま彼女が大事に育った話を聞いて、泰麒は自分が、この王ではない
人物に無条件に惹かれた理由が分かった気がした。李斎は女怪でも女仙でも王でもない。
だから、直接に泰麒との利害関係はないのだ。それでも、この女将軍は、掛け値のない
愛情を、蓬山以来、ずっと降り注いでくれた。それこそいわれも報酬もない愛を、注ぐ
術(すべ)を彼女は知っているのだ。
それはきっと李斎がそのようにして、片足のない実の父から、降り注がれたものなの
だ。だからこそ彼女の側にいるのが、こんなにも落ち着くのだ、と。
愛情とそれに対する信頼と。泰麒は、いまはじめて「家庭」と呼ぶに最も近いものを
身体いっぱいに感じていた。
次の粽(ちまき)に手がのびた。驍宗が笑う。
「常の倍は食欲があるな。いつもそのようであれば、さぞ早く成獣してくれようよ、な、
蒿里?」
「はいっ」
答えた勢いでまた、もち米が飛んだ。さっさとそれを拾った驍宗は、またなんの躊躇
もなく自分の口に放り込んだ。今度は李斎は笑いながらそれを見ている。
二人を見比べ、泰麒は再び、粽を嬉しげに頬張った。秋の陽光は目の前の園林から、
三人の食卓の上まで、斜めに射し込み、暖かく膨らんで溢れていた。
「眠っているのか」
驍宗は声を低めて、天馬に跨ったままでいる李斎に言った。
「まだなんとか…お起こしすればお目覚めでしょうが、…いかがいたしましょう」
「下ろしてくれ」
驍宗は腕を広げ、天馬の鞍から、子供を抱き取った。
禁門の門卒は、何か一幅の絵でも見るような気持ちで、その光景を眺めた。
ひらりと飛燕の背から、李斎が降り立つ。
「蒿里。起きるか?」
驍宗の問いにすぐの返事はない。ややあって、眠たげな子供の声が上がった。
「もうお家に、着いたの?」
驍宗と李斎は一瞬顔を見合わせ、それから微笑んだ。
「夢でもご覧でしょうか」
「大層なはしゃぎ様だったからな。李斎、今日は手間をかけたな。礼を言う」
「とんでもございません」
李斎は小さく笑って、驍宗の腕の中の子供を見やった。
「大層楽しゅうございました。これほど、ゆっくりと台輔と過ごさせていただけるなど、
夢にも思っておりませんでしたので…。お礼申し上げたいのは、私の方でございます」
全く朝から夢のような一日だった。厩舎に師帥が呼びに来て、女の格好をさせられ、
禁門を出発点に瑞州中を駆け回り、大きな宿館で遅い昼餉を王と台輔とともに囲んで、
日暮れまで雑踏の中を見物して歩いた。
「釵(かんざし)は、いつお返し申し上げればよいのでしょうか」
李斎は訊ねた。王と台輔で選んだからには御物(ぎょぶつ)である。このままという
わけにはいかない。だが、驍宗はこだわりもなく言った。
「下賜する。ささやかだが、今日の礼だ」
「そんな、もったいない」
「下賜する」
驍宗はうむを言わせない調子で繰り返した。李斎は、諦め、拱手した。
「では有り難く頂戴いたします」
門卒が李斎の剣を手に近付いた。
「将軍」
「ああ。ありがとう」
李斎は受け取り、佩刀した。
「それではこれにて失礼仕ります」
飛燕の向きを変えさせ、辞去しようとしたとき、李斎、と驍宗が声をかけた。
「はい?」
鞍に登ろうとしていた李斎は、再び下りた。
「いつぞや言っていた、空席の禁軍将軍の件だが」
李斎は無言で王を見つめた。
「そなたの忠言をいれて、決めた。諸将の功績と徳を比べ、情けを用いず抜擢せよ、と。
覚えているか?」
「はい」
それは蓬山で別れ際、李斎が問われて新王に答えた言葉だった。
「今回、李斎には禁軍を諦めてもらう」
李斎は、幽かに自嘲し、目を伏せた。
「はい。王のお考え通りでよろしいかと」
「瑞州師の中将軍だが、それでこらえてくれようか?」
「は?」
思いがけない言葉に、李斎は飛燕の手綱を握り締めて突っ立った。
「わたくしが…王師に…、」
後の言葉は続かなかった。
瑞州師将軍といえば、王師六将軍である。禁軍の将となるには実力に加え運が必要だ。
だから、全ての将軍職にある者たちの究極の目標は、王師に召されることなのであった。
左軍、右軍、中軍などは、どうでもいい。とにかく州師と王師といえばさほどに差は大
きい。後者は、言うなれば、国王の重臣となるのであるから。
「受けてくれるか?」
「は。一命にかえまして、つとめさせて頂きます!」
「頼むぞ」
「はいっ」
その声で泰麒は目をさました。
「驍宗…さま」
やっと自分が王の腕の中にいるのに気がついた。
「目がさめたな」
驍宗は笑って、泰麒を抱えなおした。
「このまま仁重殿まで、連れようか」
「大丈夫です。僕、歩けます」
驍宗は子供を下に下ろすと、意味ありげに李斎を見て、言う。
「承州侯には今日出かけている間に知らせが届いている。あくまで内示だ。それゆえ、
いまのはまだ内密だ。台輔には特にな」
「はい」
李斎は泰麒と目が合い、慌てて逸らした。
「どうしたのですか?」
きょとんとして泰麒は驍宗に訊く。
「だから内緒だ。正式に決まったら教えてやる」
「はい…」
「それではお暇(いとま)申し上げます」
李斎は飛燕に騎乗した。王と台輔は、禁門に並んで、天駆けて行く騎獣を見送った。
見送る空に三連の冬星が輝いていた。
「承侯、王宮から御使者がみえてますが」
聞き慣れた州師将軍の野太い声に、戴国承州の州侯は、割り当てられた宿舎の園林に
面した椅子から振り返った。秋の朝、首都鴻基はもう肌寒いくらいだが、窓は開け放し
てある。
「はて。明日の即位式の打ち合わせなら、昨日までで全て済んでおるはずだが」
「それが、なんでも冢宰から劉将軍に御用とかで」
「劉に?劉なら、この時間は厩舎におろう。…呼んできなさい」
は、と主に目線で促され、壁際に立った師帥は、扉で一礼すると駆けて行った。
将軍には使者を通すように告げておいて、州侯は首を傾けた。
一国の冢宰が、州侯の随従のひとりに、日もあろうにこの、国をあげての大礼祭前日
の朝早くから、一体、何用があるというのだろう。
「劉将軍、参りました」
扉口から明朗な女の声がした。
渋い色合いの男物の服を着け、長い赤茶の髪を後ろへと無造作に垂らした人影が、き
びきびと入室してきたのは、王宮からの使いの下官が入ってくるのと丁度前後していた。
「来たか。…御使者どの、こちらが、うちの劉将軍です。して、冢宰から劉に御用とは」
たった今まで厩舎にいたはずだが、衣服にも髪にも藁屑ひとつ付けてはいない服装端
整な女性は、冢宰から、と聞いて目を丸くした。
「はい。将軍にはご多忙とは存知ますが、州侯のお許しを願い、ただいまから御乗騎の
飛燕をともなって、禁門前へとお越し願いたいとの、口上でございます」
「いまから、禁門へ…ですか」
思わず、劉李斎は、繰り返した。そして困ったように主である、承侯を振り返った。
承侯も驚いている。
禁門とは、凌雲山中腹、王宮へと直結する、特別な者にしかその通行を許さない門だ。
勿論、たかだか州師将軍の李斎の身分で、騎獣を乗りつけてよい場所ではない。
そのまえに、と下官は恭しく手にした包みを、李斎に差し出した。
「失礼ながら、こちらにお召し替えいただきたく」
包みの上には小箱がのっている。
李斎が返答に窮しているのを見て、承侯が口を挟んだ。
「とにかく、仰るとおりに。飛燕の世話は済んでおるのだろう?なに、今日は格別用も
ない。外出を許可する。行ってきなさい」
「はい」
答えて、まだ釈然としないまま、下官から包みを受け取り、李斎は部屋に下がった。
使者も自分が難しい用を申し付けられたことは承知していたらしく、ほっと安堵した
顔になり、州侯に礼を述べると、退出した。
「ほう、これは驚いた」
着替えてきた李斎は、困ったような顔で、承州侯を見た。
「どうやら、女でなくては務まらない御用のようだな、劉よ」
いかにも愉快そうに笑んだ主を、女将軍は、どちらかといえば、恨めし気に見返した。
先刻、厩舎に呼びに来た師帥は脇で目を剥いている。
彼は、いまだかつて自分の上司が騎馬用とはいえ女物の服を着ているのを目にしたこ
とはなかったし、騎乗時に括る――これは男でもすることだ――以外、髪を結っている
様も見たことはない。
それが今は小さくながら髷を結い、銀の釵(かんざし)を差している。あの箱の中身
がこれであったのだろう。
服は決して派手ではないが、刺繍が施してあり、いつもに比べれば、格段に女らしい
色合わせだった。
「それを寄越した方は、そなたが荷に男物しか持ち合わせのないのを、ご承知だったと
みえるな」
「台輔です」
「なに」
「御用がおありなのは、きっと、台輔でいらっしゃるのでしょう。でなければ、飛燕の
名をご存知のはずがない。畏れ多いことながら、わたくしは昇山のおり、飛燕ともども
親しくしていただきましたので、おそらくお忍びのお供を仰せつかるのかと」
「なるほど。劉のような美人が、男のなりで佩刀して従ったのでは、目立ちすぎて、お
忍びにはならぬからな」
言って、承州侯は声を上げて笑った。
李斎の方は、この姿で厩舎へ行き、慶賀の品を運んできた兵たちの前を歩いて、宿舎
の門を出るのだと思うと、笑うどころではなかった。
だが、台輔のお名指しではそれも我慢せねばなるまい。李斎とて、一刻も早く、泰麒
には会いたかった。あの尊くも愛らしい小さな子供に。ただし、できたら常の服装で。
使者を送って戻ってきた将軍は、すれ違った李斎を、口を開けて見た。
李斎は、同僚を無視して口を引き結び、飛燕のところへと向かう。
「何事ですか、あれ」
件(くだん)の将軍は、入室するや、州侯に質問した。
「さてなぁ」
州侯は鬚をしごくと、複雑な笑いを洩らした。
「台輔のお供らしい。どうやら、私は、虎の子の将軍をひとり、失うことになるようだ。
覚悟をしておかねばな」
「ああ、禁軍将軍の座がひとつ空きましたからね。おそらく瑞州師将軍の誰かが抜擢さ
れるだろうとの噂です。当然、瑞州師に空席ができる。李斎殿なら、ふさわしい。でも、
お決めになるのは王でしょう?何といっても台輔はまだ、お小さいとのお話ですから」
「もちろんだ。だが、御用がおありなのは、本当に台輔だけだったのかな」
「はぁ?」
意を測りかねて将軍が聞く。それには答えず、承州侯はふふん、と笑った。
「あの釵(かんざし)、台輔のお見立てにしては、似合いすぎておらなんだか」
「釵までは見ておりません。正直、あれほどの美女だったかと驚いたもので」
「お前たちがそのようなぼんくらだから、横合いから掠め取られるんだ」
将軍は憮然と黙った。
「しかし、劉がいなくなると、うちの州師も侘しくなるな…」
風が冷たくなり、自ら窓を閉めると李斎の長年の主君は、溜息ともつかない小さな息
をもらした。
明日、元号は弘始と改まる。新しい泰王の即位式である。
禁門は、雲を貫く鴻基山の、その中腹あたりに巨大な洞窟として穿たれていた。
「李斎、李斎、李斎!」
乗騎の天馬、飛燕が、その白い翼で舞い降りるや、小さな影が、門からまろぶように
駆け出てきた。降り立った李斎は、礼をとろうとする前に、その走ってきて勢い余った
小さな身体を両手で受け止めなくてはならなかった。
「公!…いえ、台輔」
「あ、ごめんなさい」
抱きついた格好になってしまい、着膨れした子供は、ちょっと顔を赤らめて見上げた。
「ご健勝そうでなによりでございます」
李斎は微笑んだ。
腕の中の子供は、蓬山で親しんだ頃そのままに、真っ直ぐな瞳と、眩しいほどの笑顔
をしている。李斎はほっとした。別れた折りのあの表情の暗さや、怯えたような様子は
もうどこにも見られなかった。
この上なく幸せそうな泰麒は、やはり常のようにすぐに言う、
「あの、飛燕を撫でてもいいですか?」
李斎もいつものように笑んで頷いた、
「もちろんでございますとも」
飛燕、と声をかけながら、泰麒の小さな手が、天馬の黒い鼻筋や首を撫でる。飛燕は
甘えたような声を上げ、目を細めて、旧知の子供との再会を喜んだ。
「来たか」
背後から突然声をかけられ、李斎は心底仰天して、振り返った。
ただちに叩頭しようとすると、それを制する声が続けて降った、
「ああ、よい。立て。そんなところで平伏しては、せっかくの服が汚れる」
「主上」
李斎は驚きの色を隠せず、厩舎の影から突然現れた泰王を見た。とりあえず跪き拱手
する。
「傷はもうすっかりよいか」
「はい。おかげさまで。もう何ともございません」
再び立つよう促され、李斎は恐縮しながら、王を見た。昇山の折りに普段着ていたの
と、大差のない服装である。少なくとも見た目に王らしいところはどこにもない。冠も
つけておらず、以前のように、髪を後ろへ括っている。
「なんだ、佩刀してきたのか」
驍宗は笑った。女物の衣服を着けても、なお、刀を帯びていた。
李斎は困惑して、申し開いた。
「武人が、丸腰で出てくるわけには参りませんので」
驍宗は、今度は声を上げて笑った。
「なるほどな。しかし、今日は刀は無用だ。門卒(もんばん)に預けてゆけ」
言いながら、李斎に断る暇も与えず、自ら彼女の刀を取り上げた。相手が王であるの
で、反射的に拒絶しようとした動きをどうにか自分に押しとどめて、李斎は反論した。
「ですが、主上」
「その、主上、は一日禁句だぞ。三人で瑞州を巡った後、鴻基の街へ出るのだからな」
「三人?」
李斎は目を見開いた。そんなことがあってよいものだろうか。即位式を明日に控えた
一国の王と台輔が、無手の将軍と三人きりで城を出る…?
「あの、畏れながら、大僕(ごえい)の方はおられないのですか」
「おらぬ」
はぁ、と李斎は驍宗のにべもない返事に途方にくれて答えた。その袖を、小さな手が
引っ張った。
「あのね、驍宗さまは僕たちが三人だけで黄海へ、すう虞狩りへ行ったお話をなさった
の。そして黄海へさえ、三人で行ったのだから、街に三人で行くのは何でもないって、
皆を説得しておしまいになったの」
李斎は黙った。それは驍宗がまだ禁軍将軍だったときの話である。王となった今とは
状況がまるで違う。
「大丈夫なんですって。僕はあの頃と違って、危険があったら、転変して麒麟になって
逃げればいいでしょう?主上は、僕の使令が守るし、そして李斎が危ないときは、主上
が刀を持っているから、って」
それではまるで話があべこべではないか、と、李斎はせめて自分の刀を返してもらお
うとしたが、無駄であった。門卒は、よほど言い含められたとみえ、お帰りのときには
お渡しします、の一点張りであった。
「何をしている。時間がなくなってしまうぞ」
言いながら厩舎から出てきた驍宗は、計都ではなく、吉量を一騎、曳いている。
鞍を置いた馬形の騎獣の手綱をとって、驍宗は泰麒に笑んで問いかけた。
「蒿里、今日は計都ではないから、乗せてやれるぞ。飛燕とどちらがいい?」
「計都はどうしたのですか?」
「あれは気性が荒いゆえ、混雑している街中に連れるには不向きだ。第一、すう虞では
人目を引きすぎる。どうだ、私の鞍に乗るか?それとも、李斎の方がやはりいいかな」
泰麒は困ったように、二頭の騎獣を見比べた。驍宗と一緒に飛べるのは、たまらなく
嬉しい。だが、やっぱり、李斎と一緒に飛燕に乗りたい気もする。
「あのう、かわりばんこではだめですか…?」
驍宗は声を上げて笑った。
天馬の上で飛翔しながら、泰麒は、李斎に語った。
「僕、今日はじめて禁門まで降りたんです。王宮からはずいぶんと降りたし、門、って
いうから、てっきり、一番下にあるものだと思ったの。そうしたら、鴻基の街は、目が
眩んでしまうほど、ずうっと下にあるんだもんで、びっくりしてしまいました。鴻基山
が、こんなに高い山だなんて、知らなかった」
「凌雲山は、どの国の王宮、どの州の州城でもそのようでございますよ。ですから、雲
を凌ぐ山と申すのです。文字通り、王宮は、雲海の上に突き出てございますでしょう」
「はい」
「もっとも、わたくしは、他の国の王宮など存じませんし、州城も故郷の承州城以外、
知りはしないのですが」
「承州は、この瑞州よりも、北ですよね。やはり、寒いのですか」
「そうでございますね。もうじきに、初雪が降りますでしょう。出て参りましたときは、
農地はすっかり刈入れが済んでおりましたし、家畜の影ももう空からは見当たりません」
言われて、小さな瑞州侯は、自分の統べる土地を足下に見下ろす。麒麟である泰麒は、
戴国の宰輔、王の補佐役であると同時に、首都のある瑞州の州侯なのであった。
そうか、と李斎は思った。泰麒から、即位式の準備はすっかり済んでしまって、口上
もきちんと覚えてしまったから、今日は一日瑞州中を遊んで回りに連れて行って頂ける
のだそうです、と聞いたときは額面通りに受け取った。
だが、おそらく驍宗には、幼い州侯に、自分の責任ある土地を実地に見せてやりたい、
という深慮があったのだろう。
全く、と李斎は内心自分を笑う。玉座につくべく麒麟の天啓の有無――天意をはかり
に蓬山へ行った昇山者同士、禁軍と州師という歴とした身分差がありながら、まるで、
同輩か何かのように心安くして頂いた。だが、実際に王となった驍宗に比べて、自分の
器量は何と小さなことだろうか。
瑞州は首都州であるが、面積は、九つの州の中でもっとも狭い。狭いと言っても、通
常の感覚では、一日で巡れる広さではない。騎獣の中でもずば抜けて足の速い、吉量と
天馬だからこそ、まがりなりにも一周できるのだ。
「見よ、蒿里。あの峰々の向うが文州だ。これほど高い山脈で首都州と隔てられている
のは、あそこだけだ。それだけ、交流は限られ、それゆえ、目が届かず統治も難しい」
「はい」
吉量の鞍の上で、泰麒が答える。まだ傅相をつけられていない、州侯としての泰麒の
公務には、驍宗が午後の時間を割いて、側について見てくれている。
その仕事というよりは、勉強の時間を通して知ることの何倍も、こうして上空から、
実際に見て回るものは、泰麒の心にしっかりと食い込む。
麒麟の直轄領、黄領だけは、乗騎を降りて、間近にした。里盧には祝いの幡が立ち、
祝賀の雰囲気に満ちているものの、収穫半ばの麦畑は、いかにも貧相で、痩せた家畜が
閑地で草を食む。
その後、州境にそって、二騎と三人は天を駆けていた。
「蒿里。李斎は、釵(かんざし)をしておらぬな」
山脈が尽き、承州との州境が見えてきた頃、驍宗は突然訊いた。
ええ、と泰麒は答えた。
「僕も李斎に訊いてみたんです。どうしてしていないの、って」
「それで」
「李斎はちゃんと差して宿舎を出てきたんですって。でも李斎は釵をもう何年もしてい
ないから、飛燕に騎乗していると、落してしまいそうで怖くて、それで、外して懐に入
れたんだそうです。驍宗様と僕とで選んだんだって言ったら、とっても驚いて、鴻基の
街に下りたら、必ずしますから、って言ってました」
「そうか」
と、驍宗は微笑した。
女官に李斎の身長と髪の色を説明し、幾通りかの組み合せの衣服を見立てさせ、その
中から驍宗が、一番適当と思われたものを包ませた。が、最後に泰麒と相談して選んだ
釵だけは、李斎の髪には見あたらなかった。
「蒿里、それでは楽しみは鴻基まで、お預けだな」
「はい。でもきっと驍宗さまの勝ちだと思います。僕は、本当言うと、女のひとには、
誰にでもピンクが似合うんだって、ただそう思ってただけですから」
「何…が、似合うのだと?」
「ああ、ええっと…、薄桃色のこと、です」
泰麒はどうしても、ときどきこうやって、こちらの世界のひとには、耳慣れない言葉
を使ってしまうのだった。
驍宗の選んだのは白だった。銀できざみの入った葉までが細工され、その上に、三つ
小さく、五弁の花びらの白玉がついている。
すももの花だ、と驍宗は言い、李斎の字(あざな)の李というのが、すもものことを
言うのだと聞いて、泰麒は納得したのだった。
鴻基は予想以上の人出であった。おそらく、常の人口の何倍かがつめかけているので
あろう。それほど、新王の即位は待ち望まれてきたのだ。
彼らは、その人込みを見下ろしながら下降し、鴻基の午門の外に騎獣を下ろした。
飛燕の手綱をとって門に向かう前に、李斎は、驍宗に詫びた。
「わざわざお見立て下さいましたとは存知上げず、失礼を致しました」
言って、懐から袱紗(ふくさ)に挟んだ銀の釵を取り出す。
驍宗は、にこりと笑んで、手を伸ばした。
「貸しなさい。鏡がなくては差しにくかろう」
断ろうとしたが、李斎としても、鏡なしで、きちんと差せる自信はなかった。それで、
身の縮む思いで、驍宗に任せた。
驍宗は首を伸ばすようにして、李斎の小さく結った髷に、その清楚な一枝を飾った。
「やっぱり、驍宗さまの勝ちでした」
泰麒が嬉しそうに李斎と驍宗を見上げる。
「そうだな」
なんのことやら分からず、ただ恐縮している李斎を促し、驍宗は吉量の手綱をとった。
大人二人がそれぞれの騎獣の手綱をとるその狭間で、人込みで迷子にならぬように、
めいめいにしっかりと手を引かれ、泰麒は午門をくぐった。
これから、首都の観光である。
聞き慣れた州師将軍の野太い声に、戴国承州の州侯は、割り当てられた宿舎の園林に
面した椅子から振り返った。秋の朝、首都鴻基はもう肌寒いくらいだが、窓は開け放し
てある。
「はて。明日の即位式の打ち合わせなら、昨日までで全て済んでおるはずだが」
「それが、なんでも冢宰から劉将軍に御用とかで」
「劉に?劉なら、この時間は厩舎におろう。…呼んできなさい」
は、と主に目線で促され、壁際に立った師帥は、扉で一礼すると駆けて行った。
将軍には使者を通すように告げておいて、州侯は首を傾けた。
一国の冢宰が、州侯の随従のひとりに、日もあろうにこの、国をあげての大礼祭前日
の朝早くから、一体、何用があるというのだろう。
「劉将軍、参りました」
扉口から明朗な女の声がした。
渋い色合いの男物の服を着け、長い赤茶の髪を後ろへと無造作に垂らした人影が、き
びきびと入室してきたのは、王宮からの使いの下官が入ってくるのと丁度前後していた。
「来たか。…御使者どの、こちらが、うちの劉将軍です。して、冢宰から劉に御用とは」
たった今まで厩舎にいたはずだが、衣服にも髪にも藁屑ひとつ付けてはいない服装端
整な女性は、冢宰から、と聞いて目を丸くした。
「はい。将軍にはご多忙とは存知ますが、州侯のお許しを願い、ただいまから御乗騎の
飛燕をともなって、禁門前へとお越し願いたいとの、口上でございます」
「いまから、禁門へ…ですか」
思わず、劉李斎は、繰り返した。そして困ったように主である、承侯を振り返った。
承侯も驚いている。
禁門とは、凌雲山中腹、王宮へと直結する、特別な者にしかその通行を許さない門だ。
勿論、たかだか州師将軍の李斎の身分で、騎獣を乗りつけてよい場所ではない。
そのまえに、と下官は恭しく手にした包みを、李斎に差し出した。
「失礼ながら、こちらにお召し替えいただきたく」
包みの上には小箱がのっている。
李斎が返答に窮しているのを見て、承侯が口を挟んだ。
「とにかく、仰るとおりに。飛燕の世話は済んでおるのだろう?なに、今日は格別用も
ない。外出を許可する。行ってきなさい」
「はい」
答えて、まだ釈然としないまま、下官から包みを受け取り、李斎は部屋に下がった。
使者も自分が難しい用を申し付けられたことは承知していたらしく、ほっと安堵した
顔になり、州侯に礼を述べると、退出した。
「ほう、これは驚いた」
着替えてきた李斎は、困ったような顔で、承州侯を見た。
「どうやら、女でなくては務まらない御用のようだな、劉よ」
いかにも愉快そうに笑んだ主を、女将軍は、どちらかといえば、恨めし気に見返した。
先刻、厩舎に呼びに来た師帥は脇で目を剥いている。
彼は、いまだかつて自分の上司が騎馬用とはいえ女物の服を着ているのを目にしたこ
とはなかったし、騎乗時に括る――これは男でもすることだ――以外、髪を結っている
様も見たことはない。
それが今は小さくながら髷を結い、銀の釵(かんざし)を差している。あの箱の中身
がこれであったのだろう。
服は決して派手ではないが、刺繍が施してあり、いつもに比べれば、格段に女らしい
色合わせだった。
「それを寄越した方は、そなたが荷に男物しか持ち合わせのないのを、ご承知だったと
みえるな」
「台輔です」
「なに」
「御用がおありなのは、きっと、台輔でいらっしゃるのでしょう。でなければ、飛燕の
名をご存知のはずがない。畏れ多いことながら、わたくしは昇山のおり、飛燕ともども
親しくしていただきましたので、おそらくお忍びのお供を仰せつかるのかと」
「なるほど。劉のような美人が、男のなりで佩刀して従ったのでは、目立ちすぎて、お
忍びにはならぬからな」
言って、承州侯は声を上げて笑った。
李斎の方は、この姿で厩舎へ行き、慶賀の品を運んできた兵たちの前を歩いて、宿舎
の門を出るのだと思うと、笑うどころではなかった。
だが、台輔のお名指しではそれも我慢せねばなるまい。李斎とて、一刻も早く、泰麒
には会いたかった。あの尊くも愛らしい小さな子供に。ただし、できたら常の服装で。
使者を送って戻ってきた将軍は、すれ違った李斎を、口を開けて見た。
李斎は、同僚を無視して口を引き結び、飛燕のところへと向かう。
「何事ですか、あれ」
件(くだん)の将軍は、入室するや、州侯に質問した。
「さてなぁ」
州侯は鬚をしごくと、複雑な笑いを洩らした。
「台輔のお供らしい。どうやら、私は、虎の子の将軍をひとり、失うことになるようだ。
覚悟をしておかねばな」
「ああ、禁軍将軍の座がひとつ空きましたからね。おそらく瑞州師将軍の誰かが抜擢さ
れるだろうとの噂です。当然、瑞州師に空席ができる。李斎殿なら、ふさわしい。でも、
お決めになるのは王でしょう?何といっても台輔はまだ、お小さいとのお話ですから」
「もちろんだ。だが、御用がおありなのは、本当に台輔だけだったのかな」
「はぁ?」
意を測りかねて将軍が聞く。それには答えず、承州侯はふふん、と笑った。
「あの釵(かんざし)、台輔のお見立てにしては、似合いすぎておらなんだか」
「釵までは見ておりません。正直、あれほどの美女だったかと驚いたもので」
「お前たちがそのようなぼんくらだから、横合いから掠め取られるんだ」
将軍は憮然と黙った。
「しかし、劉がいなくなると、うちの州師も侘しくなるな…」
風が冷たくなり、自ら窓を閉めると李斎の長年の主君は、溜息ともつかない小さな息
をもらした。
明日、元号は弘始と改まる。新しい泰王の即位式である。
禁門は、雲を貫く鴻基山の、その中腹あたりに巨大な洞窟として穿たれていた。
「李斎、李斎、李斎!」
乗騎の天馬、飛燕が、その白い翼で舞い降りるや、小さな影が、門からまろぶように
駆け出てきた。降り立った李斎は、礼をとろうとする前に、その走ってきて勢い余った
小さな身体を両手で受け止めなくてはならなかった。
「公!…いえ、台輔」
「あ、ごめんなさい」
抱きついた格好になってしまい、着膨れした子供は、ちょっと顔を赤らめて見上げた。
「ご健勝そうでなによりでございます」
李斎は微笑んだ。
腕の中の子供は、蓬山で親しんだ頃そのままに、真っ直ぐな瞳と、眩しいほどの笑顔
をしている。李斎はほっとした。別れた折りのあの表情の暗さや、怯えたような様子は
もうどこにも見られなかった。
この上なく幸せそうな泰麒は、やはり常のようにすぐに言う、
「あの、飛燕を撫でてもいいですか?」
李斎もいつものように笑んで頷いた、
「もちろんでございますとも」
飛燕、と声をかけながら、泰麒の小さな手が、天馬の黒い鼻筋や首を撫でる。飛燕は
甘えたような声を上げ、目を細めて、旧知の子供との再会を喜んだ。
「来たか」
背後から突然声をかけられ、李斎は心底仰天して、振り返った。
ただちに叩頭しようとすると、それを制する声が続けて降った、
「ああ、よい。立て。そんなところで平伏しては、せっかくの服が汚れる」
「主上」
李斎は驚きの色を隠せず、厩舎の影から突然現れた泰王を見た。とりあえず跪き拱手
する。
「傷はもうすっかりよいか」
「はい。おかげさまで。もう何ともございません」
再び立つよう促され、李斎は恐縮しながら、王を見た。昇山の折りに普段着ていたの
と、大差のない服装である。少なくとも見た目に王らしいところはどこにもない。冠も
つけておらず、以前のように、髪を後ろへ括っている。
「なんだ、佩刀してきたのか」
驍宗は笑った。女物の衣服を着けても、なお、刀を帯びていた。
李斎は困惑して、申し開いた。
「武人が、丸腰で出てくるわけには参りませんので」
驍宗は、今度は声を上げて笑った。
「なるほどな。しかし、今日は刀は無用だ。門卒(もんばん)に預けてゆけ」
言いながら、李斎に断る暇も与えず、自ら彼女の刀を取り上げた。相手が王であるの
で、反射的に拒絶しようとした動きをどうにか自分に押しとどめて、李斎は反論した。
「ですが、主上」
「その、主上、は一日禁句だぞ。三人で瑞州を巡った後、鴻基の街へ出るのだからな」
「三人?」
李斎は目を見開いた。そんなことがあってよいものだろうか。即位式を明日に控えた
一国の王と台輔が、無手の将軍と三人きりで城を出る…?
「あの、畏れながら、大僕(ごえい)の方はおられないのですか」
「おらぬ」
はぁ、と李斎は驍宗のにべもない返事に途方にくれて答えた。その袖を、小さな手が
引っ張った。
「あのね、驍宗さまは僕たちが三人だけで黄海へ、すう虞狩りへ行ったお話をなさった
の。そして黄海へさえ、三人で行ったのだから、街に三人で行くのは何でもないって、
皆を説得しておしまいになったの」
李斎は黙った。それは驍宗がまだ禁軍将軍だったときの話である。王となった今とは
状況がまるで違う。
「大丈夫なんですって。僕はあの頃と違って、危険があったら、転変して麒麟になって
逃げればいいでしょう?主上は、僕の使令が守るし、そして李斎が危ないときは、主上
が刀を持っているから、って」
それではまるで話があべこべではないか、と、李斎はせめて自分の刀を返してもらお
うとしたが、無駄であった。門卒は、よほど言い含められたとみえ、お帰りのときには
お渡しします、の一点張りであった。
「何をしている。時間がなくなってしまうぞ」
言いながら厩舎から出てきた驍宗は、計都ではなく、吉量を一騎、曳いている。
鞍を置いた馬形の騎獣の手綱をとって、驍宗は泰麒に笑んで問いかけた。
「蒿里、今日は計都ではないから、乗せてやれるぞ。飛燕とどちらがいい?」
「計都はどうしたのですか?」
「あれは気性が荒いゆえ、混雑している街中に連れるには不向きだ。第一、すう虞では
人目を引きすぎる。どうだ、私の鞍に乗るか?それとも、李斎の方がやはりいいかな」
泰麒は困ったように、二頭の騎獣を見比べた。驍宗と一緒に飛べるのは、たまらなく
嬉しい。だが、やっぱり、李斎と一緒に飛燕に乗りたい気もする。
「あのう、かわりばんこではだめですか…?」
驍宗は声を上げて笑った。
天馬の上で飛翔しながら、泰麒は、李斎に語った。
「僕、今日はじめて禁門まで降りたんです。王宮からはずいぶんと降りたし、門、って
いうから、てっきり、一番下にあるものだと思ったの。そうしたら、鴻基の街は、目が
眩んでしまうほど、ずうっと下にあるんだもんで、びっくりしてしまいました。鴻基山
が、こんなに高い山だなんて、知らなかった」
「凌雲山は、どの国の王宮、どの州の州城でもそのようでございますよ。ですから、雲
を凌ぐ山と申すのです。文字通り、王宮は、雲海の上に突き出てございますでしょう」
「はい」
「もっとも、わたくしは、他の国の王宮など存じませんし、州城も故郷の承州城以外、
知りはしないのですが」
「承州は、この瑞州よりも、北ですよね。やはり、寒いのですか」
「そうでございますね。もうじきに、初雪が降りますでしょう。出て参りましたときは、
農地はすっかり刈入れが済んでおりましたし、家畜の影ももう空からは見当たりません」
言われて、小さな瑞州侯は、自分の統べる土地を足下に見下ろす。麒麟である泰麒は、
戴国の宰輔、王の補佐役であると同時に、首都のある瑞州の州侯なのであった。
そうか、と李斎は思った。泰麒から、即位式の準備はすっかり済んでしまって、口上
もきちんと覚えてしまったから、今日は一日瑞州中を遊んで回りに連れて行って頂ける
のだそうです、と聞いたときは額面通りに受け取った。
だが、おそらく驍宗には、幼い州侯に、自分の責任ある土地を実地に見せてやりたい、
という深慮があったのだろう。
全く、と李斎は内心自分を笑う。玉座につくべく麒麟の天啓の有無――天意をはかり
に蓬山へ行った昇山者同士、禁軍と州師という歴とした身分差がありながら、まるで、
同輩か何かのように心安くして頂いた。だが、実際に王となった驍宗に比べて、自分の
器量は何と小さなことだろうか。
瑞州は首都州であるが、面積は、九つの州の中でもっとも狭い。狭いと言っても、通
常の感覚では、一日で巡れる広さではない。騎獣の中でもずば抜けて足の速い、吉量と
天馬だからこそ、まがりなりにも一周できるのだ。
「見よ、蒿里。あの峰々の向うが文州だ。これほど高い山脈で首都州と隔てられている
のは、あそこだけだ。それだけ、交流は限られ、それゆえ、目が届かず統治も難しい」
「はい」
吉量の鞍の上で、泰麒が答える。まだ傅相をつけられていない、州侯としての泰麒の
公務には、驍宗が午後の時間を割いて、側について見てくれている。
その仕事というよりは、勉強の時間を通して知ることの何倍も、こうして上空から、
実際に見て回るものは、泰麒の心にしっかりと食い込む。
麒麟の直轄領、黄領だけは、乗騎を降りて、間近にした。里盧には祝いの幡が立ち、
祝賀の雰囲気に満ちているものの、収穫半ばの麦畑は、いかにも貧相で、痩せた家畜が
閑地で草を食む。
その後、州境にそって、二騎と三人は天を駆けていた。
「蒿里。李斎は、釵(かんざし)をしておらぬな」
山脈が尽き、承州との州境が見えてきた頃、驍宗は突然訊いた。
ええ、と泰麒は答えた。
「僕も李斎に訊いてみたんです。どうしてしていないの、って」
「それで」
「李斎はちゃんと差して宿舎を出てきたんですって。でも李斎は釵をもう何年もしてい
ないから、飛燕に騎乗していると、落してしまいそうで怖くて、それで、外して懐に入
れたんだそうです。驍宗様と僕とで選んだんだって言ったら、とっても驚いて、鴻基の
街に下りたら、必ずしますから、って言ってました」
「そうか」
と、驍宗は微笑した。
女官に李斎の身長と髪の色を説明し、幾通りかの組み合せの衣服を見立てさせ、その
中から驍宗が、一番適当と思われたものを包ませた。が、最後に泰麒と相談して選んだ
釵だけは、李斎の髪には見あたらなかった。
「蒿里、それでは楽しみは鴻基まで、お預けだな」
「はい。でもきっと驍宗さまの勝ちだと思います。僕は、本当言うと、女のひとには、
誰にでもピンクが似合うんだって、ただそう思ってただけですから」
「何…が、似合うのだと?」
「ああ、ええっと…、薄桃色のこと、です」
泰麒はどうしても、ときどきこうやって、こちらの世界のひとには、耳慣れない言葉
を使ってしまうのだった。
驍宗の選んだのは白だった。銀できざみの入った葉までが細工され、その上に、三つ
小さく、五弁の花びらの白玉がついている。
すももの花だ、と驍宗は言い、李斎の字(あざな)の李というのが、すもものことを
言うのだと聞いて、泰麒は納得したのだった。
鴻基は予想以上の人出であった。おそらく、常の人口の何倍かがつめかけているので
あろう。それほど、新王の即位は待ち望まれてきたのだ。
彼らは、その人込みを見下ろしながら下降し、鴻基の午門の外に騎獣を下ろした。
飛燕の手綱をとって門に向かう前に、李斎は、驍宗に詫びた。
「わざわざお見立て下さいましたとは存知上げず、失礼を致しました」
言って、懐から袱紗(ふくさ)に挟んだ銀の釵を取り出す。
驍宗は、にこりと笑んで、手を伸ばした。
「貸しなさい。鏡がなくては差しにくかろう」
断ろうとしたが、李斎としても、鏡なしで、きちんと差せる自信はなかった。それで、
身の縮む思いで、驍宗に任せた。
驍宗は首を伸ばすようにして、李斎の小さく結った髷に、その清楚な一枝を飾った。
「やっぱり、驍宗さまの勝ちでした」
泰麒が嬉しそうに李斎と驍宗を見上げる。
「そうだな」
なんのことやら分からず、ただ恐縮している李斎を促し、驍宗は吉量の手綱をとった。
大人二人がそれぞれの騎獣の手綱をとるその狭間で、人込みで迷子にならぬように、
めいめいにしっかりと手を引かれ、泰麒は午門をくぐった。
これから、首都の観光である。
「延王が、近々また、お相手をして下さるそうだ」
驍宗がそう言ったのは、正寝でいつものように夕餉をとっているときだった。戴国の
王朝はようやく落ち着き、国は確実に年毎に富んでいく。民の顔が皆、明るくなった頃
のことである。
「雁に、お出かけになるのですか」
李斎は訊いた。相手は五百年の大王朝、国王同士、武人の誼で打ち合いをするとなれ
ば、新王朝の泰王が訪ねるのが筋というものだろう。
うむ、と驍宗は頷いた。
「そう長くは国を空けられぬが、あまり短くても失礼に過ぎよう、まぁ行き帰りを入れ
て八日ほどになるかな…行くか」
「わたくしが、ですか」
李斎はすこし驚いて目を見開いた。
「留守は宰輔がしっかりしているから心配はない」
「でも…」
てっきりその宰輔、泰麒を同行すると思ったのだ。驍宗は少し意地の悪い顔をしてみ
せた。
「暴君の夫に、他国への旅行にまで付き合わされるのは嫌かな」
「そのようなことを」
言って、李斎も軽く、王を睨んだ。
驍宗が鴻基を離れるたび、いまだに悪夢が襲う。大丈夫ですよ、そう言って幼い麒麟
の肩を抱き、文州鎮圧に赴く王を見送り、そしてそれきり見失った長い歳月…。それは
その数倍の時間が過ぎたいまでも、まだ李斎の中で、遠い過去の幻影ではない。ひとり
白圭宮に残されるたび、夜の閨室(けいしつ)は冷たく、心は寒寒とし、帰りを待ち侘
びる。そして、驍宗はそのことを誰よりよく知っている。
「延王には、治世五百十有余年、いまだに王后をお持ちではない」
唐突な言葉に、李斎が首を傾けると、驍宗は涼しい顔で言った。
「だから、后を同行してみせびらかしてやる」
李斎は呆気にとられ、それから苦笑した。
「お忘れですか。私は延王とは面識があります。それも、一番病み衰えたおりにお会い
しているのですよ。今更私などお連れになっても、なんだ、というお顔をなさいますよ。
到底、みせびらかすなどということには、なりませんでしょう」
驍宗はいっかな意に介さぬ風であった。
「いや。妻を持つことがどんなによいものか、見せつけてやるのだ」
この方は…と、李斎は心底呆れた。どうしてときどき、これほどまでに、子供じみて
いらっしゃるのだろう。
名君である。賢帝である。他国にまで聞こえる並びなき武人である。そしてかつて、
日々思い知らされた人間の器というものの決定的な違い…。
だが、伴侶になってみれば、見えない欠点も見えてくる。本当に、時折呆れるほどに
驍宗は李斎に対しては、子供に見えるところを隠さない。近頃ではむしろ泰麒の方が、
余程分別くさくて大人らしい、と思うことさえあるくらいだ。
李斎は、ひとつ溜息をついて答えた。
「謹んでお供いたします」
「そうか」
驍宗は満足そうに、杯を上げた。
一端言い出したら、後に引く夫ではない。それももう、とっくに分かっている。
玄英宮の前庭に、勝負の席が設けられた。貴賓席には、李斎と、延麒六太が見守る。
尚隆が、まず一本とった。彼は得たりと笑みを浮かべた。
ところが二本目は、造作もなく驍宗がとってのけた。
油断した、そう尚隆が思ったのは確かである。驍宗は肩で息をしていたが、顔には明
らかに余裕があった。
「もう一本!」
「望むところ」
「参る!」
気迫の声が上がり、剣が打ち込まれる。火花が散り、刃が薙ぎ払われ、再び合う。
すさまじい打ち合いになった。
いささかの休みもなく刃が交わされる。一方が詰めるかと思えば、他方が詰め寄り返
す。果てしがなかった。
長い長い時間が経過した。二人とも目は血走り、息は聞こえるほどに上がっているが、
それでも足元は揺るがない。
「やあぁぁあつ!」
気合を込めて尚隆が剣を振り下ろした。
がっきとその刃がとめられる。
唸るような声を発しながら、二人が刃を合わせたまま睨み合う。
「ちょっと、やばくねぇか」
六太が、つぶやいた。
二人とも完全に頭に血が上っているのが、距離があってもはっきり分かる。
実力は明らかに拮抗していた。
す、と六太の隣りの李斎が立った。六太は不思議そうに李斎を見上げた。
日頃から兵の訓練試合に使われているこの前庭には、幾種類もの武器が置いてある。
李斎は席を立つと、側の壁にあった、一振りの剣の柄を握った。
そのまま真っ直ぐ二人に歩み寄る。
「おい!危ねえよっ」
六太や小官たちの止める間もあらばこそ、李斎は二人に駆け寄った。そして、四五間
手前で立ち止まると、右腕の残肢にその鞘を払うや、何の躊躇もなく、それを、二人め
がけて投げつけたのだ。
ひっ、と周囲の叫びが上がった。
剣は打ち合う両王の足元、二人のちょうど真中に突き立った。
とっさに、刃を合わせていた両名が、一歩同時に飛び退(すさ)る。
「いい加減になさいませ!」
李斎は声高に言い放ち、二人をねめつけた。
全身汗みずく、息を切らした両王は、やっと正気に戻って李斎を見た。
「李斎…」
かすれた声に呟いたのは驍宗、口をぽかんと開けて見やったのは尚隆。
「お二人とも、ご自身を何とお心得か。真剣にて、ご勝負なされるは、ご勝手。なれど、
共に国には並びなき御身、民にとってかけがえのない君主であらせられることをお忘れ
ですか!これ以上の打ち合いにて、お怪我でもなされて何とされます。この勝負、引き
分けということで、わたくしにお預けくださいませ!」
李斎を見つめていた二人は、互いを見た。
「まいったな…」
苦笑いに、剣を引いたのは尚隆である。それを見て驍宗も笑みを浮かべ、剣を鞘にお
さめると頭を下げた。
「いささか、夢中になりすぎました。ご無礼を」
「なんの、お互い様だ。奥方が止めてくれなければ、血をみるまでやっていた」
そして、李斎に向かい朗らかな声で笑いながら言った。
「お礼申し上げる!見事な裁きだった」
李斎は頭を垂れ、跪いた。
「出すぎたことを致しました。どうかご容赦下さりませ」
尚隆はまた笑い声を立て、驍宗を見やった。
「この続きは、酒で決めぬか。それならば奥方もお許し下さろう」
驍宗は笑んで頷いた、
「望むところでございます」
黙って尚隆を追い越し、跪いている李斎が立つ手助けをしてやり、何の言葉を交わす
でもなく、一緒に幕屋の方に去って行く二人を見ながら、尚隆は首を振った。
「ああいう細君なら、俺も欲しいものだな」
「ま、尚隆には無理だね」
と、いつのまに側に来ていたものか、六太が言った。
「なんでだ」
「だって尚隆、女に甲斐性ねぇもん」
「こいつ」
「いてっ」
延麒の頭をひとつ張って、再び、驍宗と李斎に目をやった尚隆は、ひとりごちた。
「しかし、いい女だな」
なぜこんなに寒いのだろう…。
北東の極国、戴国はけっして気候に恵まれた国ではない。冬には全土が氷雪に閉ざさ
れる。だが今は、その戴の短い夏であった。比較的天候に恵まれた首都鴻基の、しかも
雲海によって下界と隔てられた、ここ白圭宮が、それほど寒いはずはないのだった。
李斎は起き上がって、薄物を纏うと、広い部屋の中を見渡した。そこは正寝と呼ばれ
る王の私室に使われる建物のひとつにあり、慣例どおりに後宮を使うことを、断固拒否
した王が、李斎を迎える際、官の反対を押し切って用意させた部屋々々のひとつだった。
泰王が日頃住まう建物と同棟で、しかも近接しており、そのため互いの生活を人を介
さなくても把握できる。そのことは、通常の夫婦と余り変りのない、つましくも安らか
な暮らしを二人に与えていた。
その夫が出かけて半月になる。
――なんなら花影のところにでも、泊りに行くといい。
そう、言われていた。言われたときは、内心、その言葉に反発したものだ。それほど
心弱い自分だとは思わなかった。留守を守れないほど気弱だと思われるのは、いまだに
武人としての矜持の消えぬ李斎には不本意だった。
だが今になって、李斎は、自分の心を持て余していた。驍宗に心根を看破されていた
ことを認めないわけにいかなくなった。
本当に、花影の官邸にでも行けばよかった。今日は特にそう思う。賢くもの柔らかな
年上の親友。彼女と語り合い、笑い合っていれば、少しはこの寒々しい心が紛れたろう
か。
――主上は、大丈夫ですよ。
驍宗を見送る李斎にそう言ったのは、泰麒だった。すらりと背の伸びた麒麟はやはり、
李斎の心を見透かしたかのように、言ったものだ。
李斎は思い出して苦笑した。同じ言葉をかつての泰麒にかけたのは、自分であったの
に。
それに、と、李斎は思う。今回驍宗は何も、内乱鎮圧に赴いたわけではない。たかが、
地方の視察に出ただけだ。それも青鳥は昨日、あと五日もすれば戻ると知らせてきたで
はないか。
分かってはいても、心が冷えるのを止められない。自分はこんなにも驍宗を見失うこ
とに恐れを感じるのだと、今更の様に、あの悪夢の六年余りが甦るのだった。
ふと、李斎は身体を硬くした。
絹張りの牀の下に左腕をもぐり込ませ剣を取り出す。右脇に鞘を挟み、静かに払う。
払った鞘は音を立てぬよう、臥牀の上に置いた。
王后の部屋とはいえ、警護は薄い。永らく阿選の恣にされていた宮中には、まだそれ
ほどに信の置ける者が少ないのだ。李斎につけられているのは、わずかに二人の小臣。
いずれも腕は立ったが、信が優先するので、如何せん、左腕を鍛えた李斎とさほどの差
はない。
いま屏風(へいふう)の影に立った侵入者の腕次第では、彼らに一声も洩らさせず、
討ち取っていないとは断言できなかった。
「…誰かっ?」
剣を構え、誰何の声を上げると、意に反し、屏風はゆっくりとたたまれた。
月明かりに逆光の影は、両手を上げた。
目を細めてその人影を見た李斎は、次に耳を疑う声を聞いた。
「勇ましい出迎え、いたみいる」
李斎は呆然と剣を落とした。それは、あと五日経たねば聞かれぬはずの声ではなかっ
たか。
「だが、いま少し大僕たちを信じてやれ。私がいないので、一層緊張して警護をしてい
たぞ」
「主上…」
李斎の声がかすれた。これは夢だろうか。
「…お戻りなさいませ」
ようやく李斎は言った。うむ、と驍宗は答える。
「台輔の使令を借りて、五日の道程を駆け戻ってきた。供は置いてきた。ゆるゆる帰っ
て来いと言い置いてな。――半月は長い!用が済んだら、もう待てなくなった」
驍宗は朗らかな笑い声を立てた。
「どうした、李斎。そなたの顔見たさに戻ったのだ。明かりをつけてよく顔を見せてく
れ」
「…かしこまりまして」
李斎は震え声に言うと背を向け、明かりの用意をした。
深夜の正寝の一隅に、幸福で暖かな明かりがそっと灯った。
「かわりはないか」
驍宗は李斎の頬に手を当ててきいた。
「…はい」
驍宗は、その赤褐色の髪を手で梳いた。
「心配をかけたか」
「…」
李斎は言葉にならなかった。ただ広い胸に顔を俯けた。驍宗は大きな手でその背を抱
いた。
「会いたかったぞ」
「…はい」
李斎は顔を上げた。涙がこぼれた。
「李斎は泣き虫になったな」
李斎は泣き笑いにそれを認めた。
「…はい」
驍宗は再び李斎を抱きしめた。
「すまぬ」
李斎は無言でかぶりを振った。どれほど心配で不安だったか、それを他ならぬ驍宗が
分かってくれている。それで、十分であった。
驍宗は、この半月の出来事を事細かに話してきかせた。李斎は嬉しく耳を傾けた。
正寝に灯された明かりは、この夜、中々消えなかった。
驍宗がそう言ったのは、正寝でいつものように夕餉をとっているときだった。戴国の
王朝はようやく落ち着き、国は確実に年毎に富んでいく。民の顔が皆、明るくなった頃
のことである。
「雁に、お出かけになるのですか」
李斎は訊いた。相手は五百年の大王朝、国王同士、武人の誼で打ち合いをするとなれ
ば、新王朝の泰王が訪ねるのが筋というものだろう。
うむ、と驍宗は頷いた。
「そう長くは国を空けられぬが、あまり短くても失礼に過ぎよう、まぁ行き帰りを入れ
て八日ほどになるかな…行くか」
「わたくしが、ですか」
李斎はすこし驚いて目を見開いた。
「留守は宰輔がしっかりしているから心配はない」
「でも…」
てっきりその宰輔、泰麒を同行すると思ったのだ。驍宗は少し意地の悪い顔をしてみ
せた。
「暴君の夫に、他国への旅行にまで付き合わされるのは嫌かな」
「そのようなことを」
言って、李斎も軽く、王を睨んだ。
驍宗が鴻基を離れるたび、いまだに悪夢が襲う。大丈夫ですよ、そう言って幼い麒麟
の肩を抱き、文州鎮圧に赴く王を見送り、そしてそれきり見失った長い歳月…。それは
その数倍の時間が過ぎたいまでも、まだ李斎の中で、遠い過去の幻影ではない。ひとり
白圭宮に残されるたび、夜の閨室(けいしつ)は冷たく、心は寒寒とし、帰りを待ち侘
びる。そして、驍宗はそのことを誰よりよく知っている。
「延王には、治世五百十有余年、いまだに王后をお持ちではない」
唐突な言葉に、李斎が首を傾けると、驍宗は涼しい顔で言った。
「だから、后を同行してみせびらかしてやる」
李斎は呆気にとられ、それから苦笑した。
「お忘れですか。私は延王とは面識があります。それも、一番病み衰えたおりにお会い
しているのですよ。今更私などお連れになっても、なんだ、というお顔をなさいますよ。
到底、みせびらかすなどということには、なりませんでしょう」
驍宗はいっかな意に介さぬ風であった。
「いや。妻を持つことがどんなによいものか、見せつけてやるのだ」
この方は…と、李斎は心底呆れた。どうしてときどき、これほどまでに、子供じみて
いらっしゃるのだろう。
名君である。賢帝である。他国にまで聞こえる並びなき武人である。そしてかつて、
日々思い知らされた人間の器というものの決定的な違い…。
だが、伴侶になってみれば、見えない欠点も見えてくる。本当に、時折呆れるほどに
驍宗は李斎に対しては、子供に見えるところを隠さない。近頃ではむしろ泰麒の方が、
余程分別くさくて大人らしい、と思うことさえあるくらいだ。
李斎は、ひとつ溜息をついて答えた。
「謹んでお供いたします」
「そうか」
驍宗は満足そうに、杯を上げた。
一端言い出したら、後に引く夫ではない。それももう、とっくに分かっている。
玄英宮の前庭に、勝負の席が設けられた。貴賓席には、李斎と、延麒六太が見守る。
尚隆が、まず一本とった。彼は得たりと笑みを浮かべた。
ところが二本目は、造作もなく驍宗がとってのけた。
油断した、そう尚隆が思ったのは確かである。驍宗は肩で息をしていたが、顔には明
らかに余裕があった。
「もう一本!」
「望むところ」
「参る!」
気迫の声が上がり、剣が打ち込まれる。火花が散り、刃が薙ぎ払われ、再び合う。
すさまじい打ち合いになった。
いささかの休みもなく刃が交わされる。一方が詰めるかと思えば、他方が詰め寄り返
す。果てしがなかった。
長い長い時間が経過した。二人とも目は血走り、息は聞こえるほどに上がっているが、
それでも足元は揺るがない。
「やあぁぁあつ!」
気合を込めて尚隆が剣を振り下ろした。
がっきとその刃がとめられる。
唸るような声を発しながら、二人が刃を合わせたまま睨み合う。
「ちょっと、やばくねぇか」
六太が、つぶやいた。
二人とも完全に頭に血が上っているのが、距離があってもはっきり分かる。
実力は明らかに拮抗していた。
す、と六太の隣りの李斎が立った。六太は不思議そうに李斎を見上げた。
日頃から兵の訓練試合に使われているこの前庭には、幾種類もの武器が置いてある。
李斎は席を立つと、側の壁にあった、一振りの剣の柄を握った。
そのまま真っ直ぐ二人に歩み寄る。
「おい!危ねえよっ」
六太や小官たちの止める間もあらばこそ、李斎は二人に駆け寄った。そして、四五間
手前で立ち止まると、右腕の残肢にその鞘を払うや、何の躊躇もなく、それを、二人め
がけて投げつけたのだ。
ひっ、と周囲の叫びが上がった。
剣は打ち合う両王の足元、二人のちょうど真中に突き立った。
とっさに、刃を合わせていた両名が、一歩同時に飛び退(すさ)る。
「いい加減になさいませ!」
李斎は声高に言い放ち、二人をねめつけた。
全身汗みずく、息を切らした両王は、やっと正気に戻って李斎を見た。
「李斎…」
かすれた声に呟いたのは驍宗、口をぽかんと開けて見やったのは尚隆。
「お二人とも、ご自身を何とお心得か。真剣にて、ご勝負なされるは、ご勝手。なれど、
共に国には並びなき御身、民にとってかけがえのない君主であらせられることをお忘れ
ですか!これ以上の打ち合いにて、お怪我でもなされて何とされます。この勝負、引き
分けということで、わたくしにお預けくださいませ!」
李斎を見つめていた二人は、互いを見た。
「まいったな…」
苦笑いに、剣を引いたのは尚隆である。それを見て驍宗も笑みを浮かべ、剣を鞘にお
さめると頭を下げた。
「いささか、夢中になりすぎました。ご無礼を」
「なんの、お互い様だ。奥方が止めてくれなければ、血をみるまでやっていた」
そして、李斎に向かい朗らかな声で笑いながら言った。
「お礼申し上げる!見事な裁きだった」
李斎は頭を垂れ、跪いた。
「出すぎたことを致しました。どうかご容赦下さりませ」
尚隆はまた笑い声を立て、驍宗を見やった。
「この続きは、酒で決めぬか。それならば奥方もお許し下さろう」
驍宗は笑んで頷いた、
「望むところでございます」
黙って尚隆を追い越し、跪いている李斎が立つ手助けをしてやり、何の言葉を交わす
でもなく、一緒に幕屋の方に去って行く二人を見ながら、尚隆は首を振った。
「ああいう細君なら、俺も欲しいものだな」
「ま、尚隆には無理だね」
と、いつのまに側に来ていたものか、六太が言った。
「なんでだ」
「だって尚隆、女に甲斐性ねぇもん」
「こいつ」
「いてっ」
延麒の頭をひとつ張って、再び、驍宗と李斎に目をやった尚隆は、ひとりごちた。
「しかし、いい女だな」
なぜこんなに寒いのだろう…。
北東の極国、戴国はけっして気候に恵まれた国ではない。冬には全土が氷雪に閉ざさ
れる。だが今は、その戴の短い夏であった。比較的天候に恵まれた首都鴻基の、しかも
雲海によって下界と隔てられた、ここ白圭宮が、それほど寒いはずはないのだった。
李斎は起き上がって、薄物を纏うと、広い部屋の中を見渡した。そこは正寝と呼ばれ
る王の私室に使われる建物のひとつにあり、慣例どおりに後宮を使うことを、断固拒否
した王が、李斎を迎える際、官の反対を押し切って用意させた部屋々々のひとつだった。
泰王が日頃住まう建物と同棟で、しかも近接しており、そのため互いの生活を人を介
さなくても把握できる。そのことは、通常の夫婦と余り変りのない、つましくも安らか
な暮らしを二人に与えていた。
その夫が出かけて半月になる。
――なんなら花影のところにでも、泊りに行くといい。
そう、言われていた。言われたときは、内心、その言葉に反発したものだ。それほど
心弱い自分だとは思わなかった。留守を守れないほど気弱だと思われるのは、いまだに
武人としての矜持の消えぬ李斎には不本意だった。
だが今になって、李斎は、自分の心を持て余していた。驍宗に心根を看破されていた
ことを認めないわけにいかなくなった。
本当に、花影の官邸にでも行けばよかった。今日は特にそう思う。賢くもの柔らかな
年上の親友。彼女と語り合い、笑い合っていれば、少しはこの寒々しい心が紛れたろう
か。
――主上は、大丈夫ですよ。
驍宗を見送る李斎にそう言ったのは、泰麒だった。すらりと背の伸びた麒麟はやはり、
李斎の心を見透かしたかのように、言ったものだ。
李斎は思い出して苦笑した。同じ言葉をかつての泰麒にかけたのは、自分であったの
に。
それに、と、李斎は思う。今回驍宗は何も、内乱鎮圧に赴いたわけではない。たかが、
地方の視察に出ただけだ。それも青鳥は昨日、あと五日もすれば戻ると知らせてきたで
はないか。
分かってはいても、心が冷えるのを止められない。自分はこんなにも驍宗を見失うこ
とに恐れを感じるのだと、今更の様に、あの悪夢の六年余りが甦るのだった。
ふと、李斎は身体を硬くした。
絹張りの牀の下に左腕をもぐり込ませ剣を取り出す。右脇に鞘を挟み、静かに払う。
払った鞘は音を立てぬよう、臥牀の上に置いた。
王后の部屋とはいえ、警護は薄い。永らく阿選の恣にされていた宮中には、まだそれ
ほどに信の置ける者が少ないのだ。李斎につけられているのは、わずかに二人の小臣。
いずれも腕は立ったが、信が優先するので、如何せん、左腕を鍛えた李斎とさほどの差
はない。
いま屏風(へいふう)の影に立った侵入者の腕次第では、彼らに一声も洩らさせず、
討ち取っていないとは断言できなかった。
「…誰かっ?」
剣を構え、誰何の声を上げると、意に反し、屏風はゆっくりとたたまれた。
月明かりに逆光の影は、両手を上げた。
目を細めてその人影を見た李斎は、次に耳を疑う声を聞いた。
「勇ましい出迎え、いたみいる」
李斎は呆然と剣を落とした。それは、あと五日経たねば聞かれぬはずの声ではなかっ
たか。
「だが、いま少し大僕たちを信じてやれ。私がいないので、一層緊張して警護をしてい
たぞ」
「主上…」
李斎の声がかすれた。これは夢だろうか。
「…お戻りなさいませ」
ようやく李斎は言った。うむ、と驍宗は答える。
「台輔の使令を借りて、五日の道程を駆け戻ってきた。供は置いてきた。ゆるゆる帰っ
て来いと言い置いてな。――半月は長い!用が済んだら、もう待てなくなった」
驍宗は朗らかな笑い声を立てた。
「どうした、李斎。そなたの顔見たさに戻ったのだ。明かりをつけてよく顔を見せてく
れ」
「…かしこまりまして」
李斎は震え声に言うと背を向け、明かりの用意をした。
深夜の正寝の一隅に、幸福で暖かな明かりがそっと灯った。
「かわりはないか」
驍宗は李斎の頬に手を当ててきいた。
「…はい」
驍宗は、その赤褐色の髪を手で梳いた。
「心配をかけたか」
「…」
李斎は言葉にならなかった。ただ広い胸に顔を俯けた。驍宗は大きな手でその背を抱
いた。
「会いたかったぞ」
「…はい」
李斎は顔を上げた。涙がこぼれた。
「李斎は泣き虫になったな」
李斎は泣き笑いにそれを認めた。
「…はい」
驍宗は再び李斎を抱きしめた。
「すまぬ」
李斎は無言でかぶりを振った。どれほど心配で不安だったか、それを他ならぬ驍宗が
分かってくれている。それで、十分であった。
驍宗は、この半月の出来事を事細かに話してきかせた。李斎は嬉しく耳を傾けた。
正寝に灯された明かりは、この夜、中々消えなかった。
王は二人を立たせると、雪の残る垂州の土を踏みしめ、そのまま強い腕に抱き取った。
「苦労を…かけた…!」
いまや右腕のない王師六将軍のひとりと、すっかり背の伸びた細い麒麟の肩を抱いて、
真実の泰王は、喉をつまらせてつぶやいた。
八州の師と民をもって瑞州に攻め込み首都鴻基を奪還、白圭宮に逆賊阿選の首があげ
られたのは、それから三月後のことである。
弘始七年九月、戴国に黒麒生還す。翌四月、上、垂州に跡を復す。百官、兵、全土
の民、これを喜び、その麾下に加わること夥し。同七月、上、一軍をもって瑞州に攻め
入る。禁軍、これを止むること能わず、自ら上の軍に下りて鴻基を降伏せしめ、謀反の
罪により、丈阿選、宮城に於いて梟首さる。上、宰輔をともない、玉座を奪還、以って
国土を安寧せしむ。 『戴史乍書』
鴻基に戻って間もなく、李斎は、驍宗に、故郷の承州に戻り、もとの州師にて、望ま
れれば新兵卒の訓練の補助でもしようと考えている旨、そのため仙籍を返上したい旨を、
官を通して正式に願い出た。
すると、非公式に王から直截に面会を求められ、久々に正寝に出向くこととなった。
驍宗は開口一番、李斎の申し出を却下した。
「仙籍を返上することは許さぬ。そなたには以後もこの白圭宮にとどまって貰いたい」
「それは台輔の為ですか?しかし台輔はもう大人です。私がお側にいる必要はもう…」
「いや。私の為だ」
「主上の…?しかし私は…」
「王后を引き受けてはもらえまいか」
オウコウ…そんな官職名があっただろうか。李斎が真っ先に考えたのはそれだった。
それが「王后」だと理解したとき、李斎の目に厳しい光が浮かんだ。
「主上におかれては、この右腕をお憐れみですか?これは私ひとりの存念の結果、主上
がお気にかけられる問題ではございません。おそれながら、ただいまのお言葉は、この
李斎への侮辱です。公の役に立たなくなったからといって、憐憫をもって后(きさい)
にして頂くことをどうして望みましょうか」
「憐憫でも同情でもないと言ったらどうする」
驍宗は柔らかな眼差しで、静かに見返した。
「以前から女としても欲しいと思っていたのだが。…気がつかなかったのか」
「まさか」
は、と驍宗は笑った。
「李斎の字(あざな)は伊達ではないとみえる。姿、李花にして、男に洌なること斎人
の如し」
「私の字は、女にあらずというほどの意でつけられたものです。形(なり)は女でも武
勇にすぎて、誰も私を女としては見ない、だから男とは無縁だと」
「そうではない、男達が思いをよせても、おまえが無意識に撥ね返すからだ」
「そのようなことは」
「現に私は以前、正寝での深夜に及ぶ執務のおり、蒿里が下がった後、幾度その髪に触
れてみたいと思ったか分からぬ」
「ご冗談でございましょう」
「冗談なものか」
驍宗は真摯な顔になった。
「だが、当時そなたは六将軍のひとりだった。そなたを女として望めば、数少ない信に
足る有能な重臣を失わねばならぬ。それは出来なかった」
「今なら出来るとおっしゃるのですか。利き腕を失い、将として役立たなくなった。主
上はもっと李斎をお分かりだと思っておりました。隻腕でもわたくしは武人でございま
す。後宮に入り、多くの女人方と主上の寵を争うなど、向いていようはずもありません」
「早とちりも甚だしいぞ、李斎。私がいつ後宮を使うと言った、あんなところは私には
必要ないものだ。早々に閉めて、必要なら官庫にでも使ってやる。私が欲しいのは妻だ。
妻(さい)はひとりでいい。部屋も、官たちがどう言おうと、この正寝の内に用意する。
どうだ、私は男として不足か。待たされるのは好まぬ。王后を受けるは否か応か、この
場で答えてみよ」
その覇気の苛烈さに気圧されて、李斎は思わず答えていた。
「…是!(はい)」
「よし」
驍宗は破顔した。彼はその昔、彼の小さな麒麟を抱き上げて言ったと同じ言葉を朗ら
かに口にした、
「礼を言う、李斎!お前は武人なのに、男を見る目がある」
そしてその自信に満ちた笑い声を、正寝中に響かせた。
宰輔である泰麒を呼び、驍宗が李斎を王后として迎えることになった、と報告したの
は、話の決まった翌日の午後のことであった。
「ああ、やっぱりそうですか。よかった」
泰麒は別段驚くふうもなく、二人を見比べて微笑んだ。驍宗は訝しく泰麒を見た。
「やはり、とはなんだ蒿里」
「ぼく、もうずうっとそうなればいいなって思ってたんです」
頬をこころもち紅潮させて、泰麒がそう言うので、驍宗と李斎は顔を見合わせた。
「だって、李斎はぜんぜん気付いていなかったふうだったけど、驍宗さまはずっと李斎
のこと、気にかけておられたし…。ああ、ずっとっていうのは少し違うかな、多分王に
なられて白圭宮にお入りになった頃から…。最初は、李斎をいつも呼んで下さるのは、
僕のためかな、って思ってたんですけど。だって李斎と僕が一緒にいると、驍宗さまは
いつだって満足そうにしてらしたから」
「蒿里、おまえ…」
驍宗は、自分でも覚えのなかったことを指摘され、やや困惑したふうだった。
「とくに李斎が王師の将軍になって、鴻基に来たときは、それはもう嬉しそうでいらっ
しゃいました。僕も有頂天になるほど嬉しかったから、そのときは気付かなかったんだ
けれど、後になってみると、主上もはしゃいでいらしたなって思えたし…なにより」
と、泰麒は淡々と続けた。
「夜の執務のとき、李斎が側にいると、ときどき僕ごしに李斎のこと、ちらちらご覧に
なられるんですよね。それで、僕、ああ主上は李斎のことが、お好きなんだなぁ…って」
「もう、いい」
驍宗は顔をしかめ手を振った。麒麟である宰輔が、どんなにその姿が幼くとも只者で
はないことはよく理解していたつもりの驍宗だったが、当時まだ稚かった、あの小さな
子に完全に看破されていたとは思いもよらなかったのだ。横で李斎はただぽかんとして
いる。
泰麒はにっこりして、跪くと拱手した。
「泰王、ならびに泰后妃、このたびは誠に慶賀に存知上げます」
「苦労を…かけた…!」
いまや右腕のない王師六将軍のひとりと、すっかり背の伸びた細い麒麟の肩を抱いて、
真実の泰王は、喉をつまらせてつぶやいた。
八州の師と民をもって瑞州に攻め込み首都鴻基を奪還、白圭宮に逆賊阿選の首があげ
られたのは、それから三月後のことである。
弘始七年九月、戴国に黒麒生還す。翌四月、上、垂州に跡を復す。百官、兵、全土
の民、これを喜び、その麾下に加わること夥し。同七月、上、一軍をもって瑞州に攻め
入る。禁軍、これを止むること能わず、自ら上の軍に下りて鴻基を降伏せしめ、謀反の
罪により、丈阿選、宮城に於いて梟首さる。上、宰輔をともない、玉座を奪還、以って
国土を安寧せしむ。 『戴史乍書』
鴻基に戻って間もなく、李斎は、驍宗に、故郷の承州に戻り、もとの州師にて、望ま
れれば新兵卒の訓練の補助でもしようと考えている旨、そのため仙籍を返上したい旨を、
官を通して正式に願い出た。
すると、非公式に王から直截に面会を求められ、久々に正寝に出向くこととなった。
驍宗は開口一番、李斎の申し出を却下した。
「仙籍を返上することは許さぬ。そなたには以後もこの白圭宮にとどまって貰いたい」
「それは台輔の為ですか?しかし台輔はもう大人です。私がお側にいる必要はもう…」
「いや。私の為だ」
「主上の…?しかし私は…」
「王后を引き受けてはもらえまいか」
オウコウ…そんな官職名があっただろうか。李斎が真っ先に考えたのはそれだった。
それが「王后」だと理解したとき、李斎の目に厳しい光が浮かんだ。
「主上におかれては、この右腕をお憐れみですか?これは私ひとりの存念の結果、主上
がお気にかけられる問題ではございません。おそれながら、ただいまのお言葉は、この
李斎への侮辱です。公の役に立たなくなったからといって、憐憫をもって后(きさい)
にして頂くことをどうして望みましょうか」
「憐憫でも同情でもないと言ったらどうする」
驍宗は柔らかな眼差しで、静かに見返した。
「以前から女としても欲しいと思っていたのだが。…気がつかなかったのか」
「まさか」
は、と驍宗は笑った。
「李斎の字(あざな)は伊達ではないとみえる。姿、李花にして、男に洌なること斎人
の如し」
「私の字は、女にあらずというほどの意でつけられたものです。形(なり)は女でも武
勇にすぎて、誰も私を女としては見ない、だから男とは無縁だと」
「そうではない、男達が思いをよせても、おまえが無意識に撥ね返すからだ」
「そのようなことは」
「現に私は以前、正寝での深夜に及ぶ執務のおり、蒿里が下がった後、幾度その髪に触
れてみたいと思ったか分からぬ」
「ご冗談でございましょう」
「冗談なものか」
驍宗は真摯な顔になった。
「だが、当時そなたは六将軍のひとりだった。そなたを女として望めば、数少ない信に
足る有能な重臣を失わねばならぬ。それは出来なかった」
「今なら出来るとおっしゃるのですか。利き腕を失い、将として役立たなくなった。主
上はもっと李斎をお分かりだと思っておりました。隻腕でもわたくしは武人でございま
す。後宮に入り、多くの女人方と主上の寵を争うなど、向いていようはずもありません」
「早とちりも甚だしいぞ、李斎。私がいつ後宮を使うと言った、あんなところは私には
必要ないものだ。早々に閉めて、必要なら官庫にでも使ってやる。私が欲しいのは妻だ。
妻(さい)はひとりでいい。部屋も、官たちがどう言おうと、この正寝の内に用意する。
どうだ、私は男として不足か。待たされるのは好まぬ。王后を受けるは否か応か、この
場で答えてみよ」
その覇気の苛烈さに気圧されて、李斎は思わず答えていた。
「…是!(はい)」
「よし」
驍宗は破顔した。彼はその昔、彼の小さな麒麟を抱き上げて言ったと同じ言葉を朗ら
かに口にした、
「礼を言う、李斎!お前は武人なのに、男を見る目がある」
そしてその自信に満ちた笑い声を、正寝中に響かせた。
宰輔である泰麒を呼び、驍宗が李斎を王后として迎えることになった、と報告したの
は、話の決まった翌日の午後のことであった。
「ああ、やっぱりそうですか。よかった」
泰麒は別段驚くふうもなく、二人を見比べて微笑んだ。驍宗は訝しく泰麒を見た。
「やはり、とはなんだ蒿里」
「ぼく、もうずうっとそうなればいいなって思ってたんです」
頬をこころもち紅潮させて、泰麒がそう言うので、驍宗と李斎は顔を見合わせた。
「だって、李斎はぜんぜん気付いていなかったふうだったけど、驍宗さまはずっと李斎
のこと、気にかけておられたし…。ああ、ずっとっていうのは少し違うかな、多分王に
なられて白圭宮にお入りになった頃から…。最初は、李斎をいつも呼んで下さるのは、
僕のためかな、って思ってたんですけど。だって李斎と僕が一緒にいると、驍宗さまは
いつだって満足そうにしてらしたから」
「蒿里、おまえ…」
驍宗は、自分でも覚えのなかったことを指摘され、やや困惑したふうだった。
「とくに李斎が王師の将軍になって、鴻基に来たときは、それはもう嬉しそうでいらっ
しゃいました。僕も有頂天になるほど嬉しかったから、そのときは気付かなかったんだ
けれど、後になってみると、主上もはしゃいでいらしたなって思えたし…なにより」
と、泰麒は淡々と続けた。
「夜の執務のとき、李斎が側にいると、ときどき僕ごしに李斎のこと、ちらちらご覧に
なられるんですよね。それで、僕、ああ主上は李斎のことが、お好きなんだなぁ…って」
「もう、いい」
驍宗は顔をしかめ手を振った。麒麟である宰輔が、どんなにその姿が幼くとも只者で
はないことはよく理解していたつもりの驍宗だったが、当時まだ稚かった、あの小さな
子に完全に看破されていたとは思いもよらなかったのだ。横で李斎はただぽかんとして
いる。
泰麒はにっこりして、跪くと拱手した。
「泰王、ならびに泰后妃、このたびは誠に慶賀に存知上げます」