日出から一刻、ようやく気温が少し上がり始めた頃、朝議を終えた驍宗が、外殿の議
堂から戻ってきて、朝の食卓につく。
主食は大麦の黒いパンで、よもぎが入っている。いまどきの戴としては、牛の乳が椀
に注がれて毎朝出されているのが、唯一、王の朝餉らしいといえるかもしれない。
驍宗は、健啖である。硬い黒パンをちぎっては、うまそうに口へ運び、よくかみ締め
てしっかり食べる。李斎も食欲旺盛な方である。起きて既に一刻半、双方お腹は空いて
いる。
二人はいつものように楽しげに話しながら、嬉しそうに食べた。彼らはこの食卓を乏
しいとも質素だとも思ってはいない。
以前は、外殿もしくは内殿のどこかで、たいていは執務の合間に朝昼すませ、夜もど
うかすると仕事をしながら摂ることさえあった驍宗が、李斎を迎えて以来、毎日三度、
ほぼ同じ時刻に、正寝に戻って食事をしている。
主上の膳は現在、正寝の厨房一箇所で作られている。驍宗が、兵営で出される以上の
食材を入れさせないので、献立は全体に、王の膳と呼ぶには簡素であった。
独身時代から驍宗は、朝議の後に朝食を摂っていた。起きて、外殿に出るために着替
える折、そこに湯冷ましを一杯と兵士の携行食である氷砂糖を一二個用意させ、それだ
けで朝食まで仕事をした。いまはそれを知った李斎が、かわりになにかしらの甘味のも
のを用意させるようになっている。大抵は、彼女自身がこしらえたものである。
王殿には、菓子の類がほとんどなかった。もっとも数週前の立后の折は、祝いに献上
されたり、他国から返書に添えて届いたりして、かなり上等の菓子がいくつもあった。
いまの戴で立派な菓子などは手に入りにくいから、その後もときどき献上がある。が、
驍宗はどれも礼議上一度食すと、懐紙に包んで、臣に与えるのだった。とりわけ妻のあ
る者にはいつも、奥方と食べるよう言い添え、二人分渡した。
一度の茶うけで消えるものだが、皆これをとても喜んだ。重責と激務の見返りとして
本来、国官が享受するはずの富裕な生活もなく、それどころか主にならって家内をきり
つめ辛抱している臣下へのねぎらいとして、主の心も菓子の甘さも、両方が嬉しかった。
そんなふうに高価な菓子はひとにやってしまうので、主上の分はいつもないが、当人
は、それでかまわぬと言う。だから、正寝の誰もが、主上は甘いものがお好きではない
のだと、思い込んでいた。李斎も、当初は気づかなかった。
驍宗が甘いものをむしろ好むのだ、とは、蓬山で干杏が好物だという話から知ったは
ずだったが、李斎はそのことを、もうすっかり忘れていた。
后妃の部屋には、来客にそなえ、粗末でない程度の菓子が少しは準備されることにな
っていた。だが、李斎が正寝に上がって以来、日中驍宗がたびたび茶を飲みに来るので、
すぐに用意などはなくなってしまい、困っている女官に、思いつきで、官邸から持参し
たものを出してよいかと、尋ねたのだった。
「それが、桃の砂糖漬けであったな」
驍宗が思い出し、笑んで言う。
「さようでございます。延台輔の桃でございました」
李斎もパンをちぎりながら、思い出して、微笑んだ。
夏に、延王の援軍が到着したおり、血を避けねばならぬ泰麒を守って、李斎ははるか
後方にいた。そこに、見事な桃が一籠、届けられてきた。
戴の気候では桃は作物として成り立つほどは出来ない。丹精すれば生らぬでもないが、
実はごく小さく、味も大して良くはない。大きな桃は一目で異国の産と分かる。籠は、
雁国の麒麟からであった。
延王が直接、驍宗に手渡したのだという。雁国精鋭の空行師の先頭に、堂々の長身に
見事な皮甲をつけ、翠緑の黒髪をなびかせた永遠の青年王は立ち、片腕に提げた桃の籠
を持ち上げた。そして、軽く鼻を鳴らした。
――せっかくの再会の光景が、間の抜けた図になるから嫌だ、と言ったのだがな。
目を見張った驍宗に、延は愉快そうに笑った。
――うちのガキが、どうあっても持っていけときかぬのでな。貴公の、あの見事な女将
軍にだ。お渡し願いたい。
驍宗は驚いて延を見つめたのち、わずか眼を伏せて笑み、籠を受け取った。
――ありがたく、存ずる。
夏場のこととて、果実の足は速い。恐縮してこれを頂戴した李斎は、可能な限り泰麒
に食べさせると、隣国の麒麟の心遣いを無駄にせぬよう、残りを丁寧に加工して、保存
した。
それが、秋に、食べ頃のまま封をした壺に入って、李斎と一緒に宮中に上がったわけ
である。
「あれは旨かった。もうないのだろう」
とっくに自分が食べてしまっておきながら、分かっていて驍宗はまた聞くから、李斎
は可笑しがる。
「桃は無理でございますが…、なにか果実が手に入りましたときは、お砂糖煮でもお作
りしますか」
「うむ。頼む」
本来ならば、いくらでも上等なものを召し上がってよいお立場なのに、と、驍宗の喜
色に李斎は少しばかり気が引ける。どんな高級な外国の菓子よりも、妻が煮てくれるか
らよほど嬉しく、楽しみなのだとは、分かっていない李斎である。
堂から戻ってきて、朝の食卓につく。
主食は大麦の黒いパンで、よもぎが入っている。いまどきの戴としては、牛の乳が椀
に注がれて毎朝出されているのが、唯一、王の朝餉らしいといえるかもしれない。
驍宗は、健啖である。硬い黒パンをちぎっては、うまそうに口へ運び、よくかみ締め
てしっかり食べる。李斎も食欲旺盛な方である。起きて既に一刻半、双方お腹は空いて
いる。
二人はいつものように楽しげに話しながら、嬉しそうに食べた。彼らはこの食卓を乏
しいとも質素だとも思ってはいない。
以前は、外殿もしくは内殿のどこかで、たいていは執務の合間に朝昼すませ、夜もど
うかすると仕事をしながら摂ることさえあった驍宗が、李斎を迎えて以来、毎日三度、
ほぼ同じ時刻に、正寝に戻って食事をしている。
主上の膳は現在、正寝の厨房一箇所で作られている。驍宗が、兵営で出される以上の
食材を入れさせないので、献立は全体に、王の膳と呼ぶには簡素であった。
独身時代から驍宗は、朝議の後に朝食を摂っていた。起きて、外殿に出るために着替
える折、そこに湯冷ましを一杯と兵士の携行食である氷砂糖を一二個用意させ、それだ
けで朝食まで仕事をした。いまはそれを知った李斎が、かわりになにかしらの甘味のも
のを用意させるようになっている。大抵は、彼女自身がこしらえたものである。
王殿には、菓子の類がほとんどなかった。もっとも数週前の立后の折は、祝いに献上
されたり、他国から返書に添えて届いたりして、かなり上等の菓子がいくつもあった。
いまの戴で立派な菓子などは手に入りにくいから、その後もときどき献上がある。が、
驍宗はどれも礼議上一度食すと、懐紙に包んで、臣に与えるのだった。とりわけ妻のあ
る者にはいつも、奥方と食べるよう言い添え、二人分渡した。
一度の茶うけで消えるものだが、皆これをとても喜んだ。重責と激務の見返りとして
本来、国官が享受するはずの富裕な生活もなく、それどころか主にならって家内をきり
つめ辛抱している臣下へのねぎらいとして、主の心も菓子の甘さも、両方が嬉しかった。
そんなふうに高価な菓子はひとにやってしまうので、主上の分はいつもないが、当人
は、それでかまわぬと言う。だから、正寝の誰もが、主上は甘いものがお好きではない
のだと、思い込んでいた。李斎も、当初は気づかなかった。
驍宗が甘いものをむしろ好むのだ、とは、蓬山で干杏が好物だという話から知ったは
ずだったが、李斎はそのことを、もうすっかり忘れていた。
后妃の部屋には、来客にそなえ、粗末でない程度の菓子が少しは準備されることにな
っていた。だが、李斎が正寝に上がって以来、日中驍宗がたびたび茶を飲みに来るので、
すぐに用意などはなくなってしまい、困っている女官に、思いつきで、官邸から持参し
たものを出してよいかと、尋ねたのだった。
「それが、桃の砂糖漬けであったな」
驍宗が思い出し、笑んで言う。
「さようでございます。延台輔の桃でございました」
李斎もパンをちぎりながら、思い出して、微笑んだ。
夏に、延王の援軍が到着したおり、血を避けねばならぬ泰麒を守って、李斎ははるか
後方にいた。そこに、見事な桃が一籠、届けられてきた。
戴の気候では桃は作物として成り立つほどは出来ない。丹精すれば生らぬでもないが、
実はごく小さく、味も大して良くはない。大きな桃は一目で異国の産と分かる。籠は、
雁国の麒麟からであった。
延王が直接、驍宗に手渡したのだという。雁国精鋭の空行師の先頭に、堂々の長身に
見事な皮甲をつけ、翠緑の黒髪をなびかせた永遠の青年王は立ち、片腕に提げた桃の籠
を持ち上げた。そして、軽く鼻を鳴らした。
――せっかくの再会の光景が、間の抜けた図になるから嫌だ、と言ったのだがな。
目を見張った驍宗に、延は愉快そうに笑った。
――うちのガキが、どうあっても持っていけときかぬのでな。貴公の、あの見事な女将
軍にだ。お渡し願いたい。
驍宗は驚いて延を見つめたのち、わずか眼を伏せて笑み、籠を受け取った。
――ありがたく、存ずる。
夏場のこととて、果実の足は速い。恐縮してこれを頂戴した李斎は、可能な限り泰麒
に食べさせると、隣国の麒麟の心遣いを無駄にせぬよう、残りを丁寧に加工して、保存
した。
それが、秋に、食べ頃のまま封をした壺に入って、李斎と一緒に宮中に上がったわけ
である。
「あれは旨かった。もうないのだろう」
とっくに自分が食べてしまっておきながら、分かっていて驍宗はまた聞くから、李斎
は可笑しがる。
「桃は無理でございますが…、なにか果実が手に入りましたときは、お砂糖煮でもお作
りしますか」
「うむ。頼む」
本来ならば、いくらでも上等なものを召し上がってよいお立場なのに、と、驍宗の喜
色に李斎は少しばかり気が引ける。どんな高級な外国の菓子よりも、妻が煮てくれるか
らよほど嬉しく、楽しみなのだとは、分かっていない李斎である。
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牀榻の広い天井と太い柱は、はっきり言ってしまえば、寝室の意匠としては重苦しい
ほどの彫刻で埋め尽くされている。特に、真上に配された四神(しじん)などは、慣れ
るまで目が合うたびにぎょっとするほどの、精巧な出来である。
いま、天井に彫られた、見事な芙蓉の花を挟んで互いに向き合う東西神の輪郭は、帳
の中で、薄く白んだかすかな朝の光線に、ぼんやりと浮かび上がっている。
ほんの少し前に、それらがいまだ闇に沈んだままであることを確かめて、安心して息
をつき、瞼をまた閉じたばかり――の、つもり――であった李斎は、青龍と白虎の姿が
目に入ると、途端に顔を引きつらせて息をのみ、弾かれたように跳ね起きた。
そのまま気色ばんで振り返り、隣の枕を確かめる。
そこには、可笑しそうにした良人(おっと)の顔が、あった。
聞こうとした李斎に、先に言う、
「…大丈夫だ。まだ早い」
ちょっと落ち着いた李斎だが、すぐまた不安げに外をうかがった。
確かに薄暗く、人の立ち働く気配も感じないが……。
「たったいま一番鶏が鳴いたところだ。官たちも、やっと起き出した時分だろう」
のんびりと枕に頭をつけたまま、驍宗が言う。
ようやく、李斎はほっと息をついた。
朝議は、夜明けに始まる。とはいえ、北東の極国は日出がたいへんに早い。そのうえ、
極寒の冬がある。いわゆる「一番鶏で参集、日の出前開始」を遵守しては、官の眠る時
間などはなくなるし、冬は、最も冷え込む時間帯にあたるので、暖房がまだ効いていな
い広い議堂では、報告にも質問にも、しゃべるだけで苦労する事になる。
先代の王は、それでもその時刻に固執して官を集めていたが、早い時間から入れられ
る暖房の燃料は毎冬、莫大なものについたし、それも温まるまで質疑はしばしばおざな
りになった。
能率を尊び、臣として前王の朝議にも長年出席した驍宗は、登極してすぐに、朝議の
開始時間を、いまの時刻に改めさせていた。
夏場は夜明けに始めたが、冬は官の集合を、夜が明けてから、とした。これによって
官の負担は軽減して、朝議自体の時間も短くなった。暖房費は以前よりも削られたが、
睡眠が十分な上、簡単な朝餉をとって参内するもの、軽い運動で温まってから来るもの
などが増え、ために、議事の進行はいつも円滑であった。
驍宗は枕の上で可笑しそうに笑う。
「毎日、大層な勢いの寝覚めだな」
李斎は顔を赤らめた。
「申し訳ございません。お起こししましたか…?」
驍宗はいや、と首を小さく振った。
「先に鶏一声で目が覚めた。そなたもそれで起きたのだろう。ああ鳴いたかと思ったら、
跳び上がったからな」
驍宗はまた思い出し、くっくっと笑いを漏らした。
李斎は、笑えない。
確かに滑稽なほどの慌てぶりだったかもしれないが、それには、十分な理由があるの
だ。
この一週間ばかり前の朝、二人は揃って、見事に寝過ごした。
華燭から、かれこれ四週間がすぎ、新たな生活にもようやく少し慣れてきたところで
あった。さしものこの二人にも、気の緩みが出たのだろう、としか言いようがない。
もっとも李斎は当初、驍宗も寝過ごしたとは、知らずにいた。
日がすっかり顔を出し、明るくなった牀榻の中で目を覚ました李斎は、交代直前の夜
番の女官たちから、主上がもうだいぶ前にお出ましになったことをきいた。彼女らは驍
宗に『お疲れゆえ、かまえてお起し申し上げぬよう』命じられ、李斎を起さなかったの
だ。女官たちはそれ以外、なにも耳に入れなかったし、李斎も、聞かなかった。
だから、その日まもなく日勤で参内してきた、この国の新しい形態の後宮――あえて
この名称を使うならば、ここは正寝の中の後宮、ということになる――の主席監理官た
る、かの女官長も、その朝は后妃がいつもよりは遅くお起きになられたのだ、としか知
っていなかった。
女官長が、――そして李斎が――知ったのは、二日過ぎてからだった。
「気にするな。私はもう忘れた。日常のささいな失敗などいちいち覚えていては、身が
もたぬ」
「はぁ」
驍宗は、気持ちの切り替えが素晴らしく早い。武人としての優れた気質であろう。李
斎だって、立ち直りは早い。これも素質と長年培った有能な武将としての素養だった。
――けれど。
口をつぐんだ李斎の顔を、驍宗は柔らかな表情でのぞきこむ。
「女官長あたりが、厳しい事を言ったのだろうが、それがあれの仕事だ。あまり神経質
にならず、迷惑をかけてやってよいのだから」
「はい」
「うん…」
微笑んで驍宗は、慰めるように妻の髪を撫でた。
李斎は、発覚後に女官長から諄々と説かれた后妃の心得と責務を、心の中にちらと浮
かべ、夫君の思いやりをありがたく受け取ると同時に、この場合、王としては確かにさ
さいなしくじりであったが、后妃には大事であったのだ、という言葉を後ろにうまく引
っ込めた。そして、撫でている腕が楽になるように、そっと驍宗のすぐ傍らに、寄り添
うようにまた横になった。
驍宗は嬉しそうに笑んだ。
肩についた妻の頭に頬をよせ、なおも軽く撫でつけながら、巨大な牀榻の内をひとわ
たり眺めて、満足げに、こう言った。
「――李斎と寝むと、朝が暖かいな」
李斎は変な顔をし、それから、ちょっと瞬いた。自分も広い天井を見上げ、帳を見回
し、そして、
「……さようでございますね」
と、答える。
――だって、二人なんだから。
同じ牀榻を使うと、夜中二人分の体温で温められ、部屋がしんと冷えても牀榻の中は
ほっこりと温もっている。いくら牀榻が、規格外に大きいとはいえ、帳の内で二人で寝
めば、暖かくて当然なのだが…。
昨日の朝も、驍宗は同じ言葉を口にした。
主上のことだから、なにか意味があって仰っているのだろうか…。
首を傾けたところへ、固い頬がぞり、とこすり付けられ、我に返った。
「そろそろ参る」
間近に薄目で言うその顔の睫毛は、光る白色をしている。それを見ながら、
「はい」
と答えた。
驍宗の髭は、見た目より濃い。白いから目立たぬだけなのだと、嫁いでから知った。
こうして朝の頬を寄せられて、そのことを認めるたび、李斎はつい笑いをかみしめる。
頬ずりの痛さに亡父を連想した自分を思い出しては可笑しくなるし、夫の髭を、触れる
まで失念していたこと自体も可笑しくて、なにか面映い。
驍宗が、背を起こした。
ううんむ、とうなるように声を発しながら伸びをして、腕を巡らせ、ついでに、力い
っぱい大きな欠伸をする。
李斎ははっとして、驍宗が伸びをし始める前に、それとなく視線を逸らした。
驍宗だとて、当然、牀榻の内では伸びもするし盛大な欠伸もするのだ。もっと言えば、
尻のあたりもわき腹も痒ければ掻くし、結う前の髪の中を必ず一度、ごしごしと片手で
やってから、着替えに向かう癖がある。
あって当然なのであるが、ただし、驍宗はそれを、牀榻を一歩出たが最後、絶対にし
なかった。彼のわずかなりとだらしなく緊張を解いている様子というものは、寝室の外
では、けっして見られることがないのだった。
かくて李斎は、彼女だけが目撃することになったこの稀少な光景に、毎朝、するまい
と思っても、異常緊張するのであった。
ゆうゆうと欠伸をおさめると、例によって、こめかみの上辺りの髪の中を無造作に掻
いた後、驍宗は笑顔で振り返り、首を伸ばして、愛妻に最後の挨拶のために顔を近づけ
た。
「行って参る」
軽く頬を寄せて言うと、牀から降り、夜着に一枚衣を引き掛ける。李斎も、大きな枕
机の前の床に降りると、その屈むに十分な広さで足台を避けて礼をとり、帳の外へ主を
送り出した。
「行っていらっしゃいませ」
初日は間違えて、牀榻を出てお見送りしてしまった李斎だが、夫人は王を、牀榻の外
まで送ってはいけないのだった。化粧し衣服を整える前の姿を、牀榻の外の光で夫君に
見せるのは、つつしみに欠け無礼というものだと、後刻、官からやんわりと、叱られた。
(一)
「主上はどちら?」
麒麟は、溌刺とした美声に、これを尋ねた。
範の王宮の正寝正殿、滑らかに光る石の廊下に、透ける領巾をさばいて、顔なじみの
女官が伏礼する。この王宮では女官たちは、ひとりとして同じ服をつけることがない。
「さきほどまでは、西の書院においでであったと存じ上げますが」
「たったいまお伺いしてみたのだけれど、いらっしゃらなかったんだもの」
「さようですの…」
「ね、心当たりないかしら」
この台輔も、あまり麒麟らしい服装ではない。服装以前に、後ろに手を組んで顎を上
げ、首を傾げているしぐさは、見た目の歳よりもさらに稚い。はるか昔には、口やかま
しい官も一人ならずいたものだが、このはしこい麒麟の良く回る頭と舌、そして無敵の
愛敬に全面降伏して、もうかなり久しい。
「お急ぎでいらっしゃいますの、台輔?」
女官の口さえ、どこかうちとけて気張らないのも、この国流である。
「さっき、六太から手紙がきたの。戴の方たちのことが書いてあって、早く主上にお聞
かせしたいのよ」
相手はうなずいた。畏れ多くも当代二番目の大国の宰輔の字が、目下の少年のように
気安げに登場しようとも、いちいち驚く女官は、ここにはいない。
「では、お庭を探してごらんなさいまし。昨日やっと、お気に入りの灯篭が修繕されて
ございますから、おいでかもしれませんよ」
「まぁそうなの。ありがと!それじゃ、またね」
友達にするようにひらひら手をふって駆け出した後ろ姿に、女官は再び、しとやかな
身振りで一礼した。
「眠っていらっしゃる…?」
「いいや」
主は石案に頭をのせたまま、目だけをうっすら開き、のぞきこんでいる可愛い顔を見
ると、微笑んだ。
氾麟は、案(つくえ)の様子を見た。
「書き物をしてらっしゃいましたの?」
「うん…」
書院から、墨斗と紙だけをもって、そぞろ歩きに庭園に下りたらしい。主は、秋の立
ち初めた庭で、金紗の刺繍の上衣を着流して、座っている。小さな四阿で石の案によっ
ているその姿は、絵のように見える、と、氾麟は感嘆と満足の吐息をもらした。
「うん?」
「まだ、お疲れがとれてらっしゃらないのだから、あまり御無理なさらないでね」
「していないよ。心配をおしでない」
「それ。お仕事ではないの?」
「ああ、これかえ…」
のぞきかけて、やめた麒麟に、氾は愛情深く微笑んだ。
「別に読んでもかまやしない。思い出したことを、ただの手すさびに書いてみただけ。
昔のことをね…」
「昔…」
「そう。金波宮でお前と李斎と、戴の話をしただろう。庭を眺めていたら、ふとそんな
気になったのだよ」
氾麟は、はたと体を起こした。
「――李斎。彼女、戴へ帰ったの!」
戴へ…と、王は口の中でつぶやき、整えられた眉をわずかに寄せた。
延麒から届いた手紙によれば、その数日前、角を失った若い麒麟にともなわれ、隻腕
の女将軍は慶を発ち、帰国の途についたのだ。氾麟はそこまでを、急いで彼に告げた。
「そうかえ。帰ったか…」
「ええ、そうよ。ほんとに二人っきりで帰ったのよ。二人で今帰ってどうなるの。あん
まりだと思うわ。どうして、引き止められなかったのかしら、六太たちってば」
半泣き声で、早口になる麒麟に、主はそっと筆筒に筆を戻すと静かに言った。
「興奮おしでないよ。誰にも、彼らを止めることなどは出来ないのだから」
「無事でいてほしいの…」
幼顔の麒麟は、口をとがらせ、拗ねるように俯いた。
「そうかえ…」
とだけ、氾は言った。
帰国するとき、あの二人がいまだ弱小の慶国にあまり長く逗留するのは、両国にとっ
て望ましくないだろうとは、想像がついた。延が、慶との利害と景王へのお節介と、幾
分か義侠心とやらを起こして、二人を早い時期に雁国に連れてくれればよいが、と考え
た。早晩、そうなるだろうと踏んで、慶国を後にした。
だが、その一方で、そうはならぬかもしれないと、どこかで思っていた。
あの悲惨の国に、あまりに非力な今の彼らを返したくはない。十分すぎるほど傷つき
弱った一国の柱の半分たる麒麟、そして国と王と麒麟と民とを、一介の将の身に背負っ
て奮闘し、これも十分傷を負った、雄雄しい婦人。どちらも、なんとしても無事でいて
ほしい。
主が同じ思いなのを、短い声の色に感じて、麒麟は面をあげ、主を見た。主の静かな
視線は、石案の上にあった。
「――書いてはみたけれど…、」
王は、つと紙を引き寄せて、指ではじいた。
「あまりに固過ぎるねぇ、これは。なんだか私らしくなくて、いけない」
麒麟は気をとりなおして、座りながら自分ものぞきこんだ。
「あら。――どう、主上らしくなくていらっしゃるの?」
氾は目にひそかな愛敬を含ませて、微笑んでみせた、
「だって…私が真面目な人間だっていうのは、今じゃあ、あまり知られていないことだ
からねぇ」
氾麟は目をくるりとさせると、しかつめらしく頷いた。
「わたくしは知っているわ。だって、わたくしの主上ですもの」
「そうかえ。それじゃあこれは、嬌娘だけに聞かせるとしよう」
氾は静かに読んだ。麒麟も、静かに聞いた。
秋はひそやかに庭園に下りていて、黄葉をまつ葉ずれはどこかものさびしく、枝を漏
れ来る陽射しが、二人のいる四阿に注いでいた。
(二)
その極国を最後に訪れたのは、秋の終りであった。しんと澄んで冴え渡る空気は、ま
なしにこの国に到来する、厳しい冬の匂いがした。雪はまだだったが、雲海の上にも始
終、刺すような風が吹いていたものである。
あてがわれた客舎は、掌客殿の北東の外れにあり、それまでに五回以上はあった過去
の逗留で、一度も案内されたことのない場所だった。
外観の、濃紺と純白の対比の清冽な美しさとは異なり、内部は全体に装飾重く、華美
に過ぎるこの王宮の中にあって、そこは、珍しいほど飾りのない庭園であった。
ひしめく奇岩も玉の柱もなにもなく、ただ植えられた数本の樹木が、黄色に染まった
葉をどっさり落としているだけの、静かな庭を囲んで、広い客殿があった。しかも、寝
室として案内されたのはその客殿の建物ではなく、院子に建つ離れのような小さな書院
だった。
そこに二日半、滞在した。賓客の中では、私がもっとも遠来であった。
部屋には鉄製の、足つき煖爐が置かれていた。聞けば戴ではごく一般的な、庶民にな
じみの道具であるらしい。だがそれも、初めて目にする客にとっては、その膨みのある
胴から煙突がのび、壁の穴から外へと突き出ている様も珍しく、大いに野趣あるしつら
えだった。
暖房はその薪煖爐だけだった。客の世話は二名の、空気のように静かな女官が受け持
っていた。彼女たちはこのひっそりした客舎そっくりで、まるで邪魔にならず、それで
いて申し分なく働くのだった。
食事は毎回、かん [註※温突(オンドル)]の通った客殿の堂室に用意されたが、庭園
の落ち葉を眺めながら、暖かい汁物や菜をいただくと、どこかひなびた宿館にでも滞在
しているような心もちになった。食器が平凡であったので、余計そうした気分に浸れた
ものかもしれない。どの膳もじつにうまかった。必ず一品、乳酪がついた。さほど好き
ではないのだが、これが美味で、珍しく全部食べてしまった。
戻ると薪箱がいっぱいにしてあり、空気が入れ換えられているのが、分かった。小さ
な室は、目の積んだ北国独特の分厚く硬い毛織布を、何枚も壁の下貼りにし、外気を遮
断してあった。そのため昼間の時間であれば、一斉に窓を開けて換気しても、件の薪煖
爐ひとつですぐに部屋は暖まるのだった。
この室は、よい匂いがした。最初は薪を燃やす匂いをそう感じるのかと思った。
香は焚かれていなかった。部屋にある香といえば、窓の近くの黒檀の卓に、文房四宝
(筆と硯と墨と紙)――これらばかりは世に二つとないだろう逸品だった――がのって
いたが、その脇の、豆のような黄色い玉製の香立てに、伽羅のごくごく細い線香が一本
置いてあるきりであった。これは、手紙を書くとき、嗅いで楽しむくらいで、最後まで
燻らさずにおいた。
部屋へ戻るたび、私の感じたそのよい匂いが、何の匂いか、とうとう出立まで、はっ
きりとは分からなかった。女官にきいても、分からぬという。敷布を山いちはつの根で
煮ているので、その匂いではないのだろうか、との答えだった。なるほど寝台に使う布
からは、どこの高級舎館と王宮でもお定まりの、あのしつこく焚きしめた白檀のかわり
に、うっすらと甘い柔らかな香りがしていた。
牀榻はなかった。そもそも書院自体がまるごと牀榻のようなものだから、道具も少な
かった。例の卓の前に、やはり黒檀の椅子があり、あとは衝立と弊風がひとつ、足台が
二つで全てという簡素さだった。部屋の真中に、四隅に細い柱の立った黒檀の、さほど
広くない寝台があった。
この寝台は昼間、寝椅子のかわりになった。夜は寝台の四隅の柱に刺し子の天蓋をか
けて、牀榻の入り口のように白布を垂らすのだった。この牀にも一番下には毛織が敷か
れ、その上に薄い絹蒲団が何枚も重ねられ、すっかり敷布で覆ってあった。上掛けは水
鳥の羽毛を入れた白の緞子が二枚で、同色の糸で一面に手の込んだ刺繍がしてあったが、
これはとにかく暖かかった。
これらの贅沢な蒲団の上、寝台の幅の足元四半分ばかりに、毛糸で織った無骨な布が、
無造作に広げられてあった。布は黄土色と黒と白の、単調な太い縞模様に織られたもの
で、冬官の織工が手がけたものなどでないことは、織を見れば明白だった。だが、私は、
一目で気に入った。
狭いため、花台や壷など余計なものは一切なく、寝台の両脇の壁に、画と書の軸が一
幅ずつ掛かっているのを除いて、装飾のない部屋だった。
書は詩であったが、誰の作か覚えていない。悪くない書風であったように思う。画は
蘭竹図。これも外させるほど目に障りはしなかった。
ここに私を招いた主は、名だたる将軍を経て登極した男である。今回、私はその即位
式に臨むために、はるばる参じた。しかし一見して、武人の趣味を感じさせるものは、
この部屋には何一つなかった。もし新王の君主としての人となりを、いくらかでも表し
ていたとすれば、部屋の片隅にあった小さな書架の中身であったろう。
二日と少しの滞在で、大行人に即位礼の式次第と当日の予定を伝えられたほか、先方
からの使いは、一回きり――滞在一日目の夕刻、内殿の官が、主君である新王の口上を
添えて国宝とおぼしき笛を届けにきた、そのときだけであった。
私は、大礼を前にした王宮の狂騒から切り離されて、この晩秋の庭の風情をたんのう
しながら、かなりの時間を書見に費やした。
帰る間際、短い歓談をもった折、私は客舎のよろしかったことに、礼を述べた。今回
のもてなしの一切は、この男が自ら指図したものに違いなかった。この私を満足させた
ことに、いくらかでも得意の色をするかと思ったが、戴の新しい王は、無表情のまま、
それはよろしゅうござった、とだけ応じた。
彼はその後、何もおかまい出来なかったと詫び、更に、部屋内でお気に召したものが
あれば、なんなりと差し上げたく存ずるが、と申し出たので、私はそれには及ばないと
丁重に断った。
あの見事な文房具は、そのために用意されたものだったろうが、私はすでに名笛を贈
られていたし、これは一国として十分に、慶賀の品の返礼に足るものだった。
ただ私は、又の滞在にはあの部屋を希望したい、と申し添えた。真実私は、あの書院
を好んでおり、正直なところいささか別れ難い思いだったのだ。
彼は初めて微笑し、では、そのままにお残ししよう、と言うと少し目を和ませた。
質素すぎるほどの礼服と簡素な式は、この男の堂々の風格をかえって引き立たせ、稀
に見る、よい即位の式典であった。即位したばかりの新王は、客の前でも率直すぎるほ
ど率直であった。土産をお渡ししたいのだが、範の方がお喜び下さるようなものが、今
の戴国にあるだろうか、と彼は問うた。
固辞するつもりだったが、その率直さが気に入ったので、私は土産を望む気になった。
あの書院にあったと同じ書物が御入手かなうなら、うち数冊を御用意頂ければ、有り
難く、と。
泰王は、その場で書名を聞くと頷き、今度はこちらの顔を見て、太く、はっきりと笑
んだ。彼と我との友情のはじまりは、おそらくあのときであったと思う。
帰国から半月もせぬうち、書物は届けられた。彼は、私が頼んだものだけを、全て二
冊ずつ揃えて送って寄越した。いずれも初刷りである。
書名を以下に控える。『戴国鉱業技術史』全巻。『承州酪農の技術と発展』。『乳酪
の保存と輸送に関する研究』。このうち鉱業技術史の上数巻と、承州酪農は、すでに半
分以上を滞在中に読んでいた。もとより戴は玉の産地としてわが国とのかかわりが深い
のだが、ごく小規模ながらすぐれた酪農製品の生産を行っていることが、この度の訪問
で判った。これらは手元に置きたく、また、彼の炯眼の通り、うちの冬官ないし地官に
読ませんがために所望した。
他は、絵草子が三。子供向けの戴の民話などで、挿画が実に見事なものであった。氾
麟に与え、彼女はやがてそれらを州府の文庫に贈ることに決めた。うち一編は数年後、
小学で使う読本に採られている。
頼んだ本だけが入っていた包みで、思いがけず私を喜ばせたのが、二重に油紙にくる
んだ書籍を、さらに包んでいた一枚の布であった。無論、私が一番気に入っていたこと
など、彼が知っていたはずはない。あの部屋にあったものよりも、それは幅広く、正方
形であった。
黄土色と黒と白が太い縦縞に織出されたその無骨な布は今、私の冬の離宮にある。窓
辺の小さな寝椅子の上に、半分に折って置かれている。
(三)
「さ、おしまい」
氾は、立ち上がり、麒麟の小さな手をとった。
「やれやれ。冷えてしまったね。戻ってお茶にするとしようよ」
氾麟は頷いて、立ち上がった。石の四阿に静寂が戻った。
たったいま読まれなかった最後の一行は、彼女の主の心だった。あえてそれを読まな
かった彼を、彼女は誰より理解せねばならない。だから、少女の姿をした賢く愛らしい
麒麟は、敷石の上を飛び跳ねながら、流れるような歩調の主の後ろについて、正殿へと
戻って行った。
『――その無骨な布は今、私の冬の離宮にある。窓辺の小さな寝椅子の上に、半分に折
って置かれている。
布を送った男の生死は、いまだ分からない。』
(了)
「主上はどちら?」
麒麟は、溌刺とした美声に、これを尋ねた。
範の王宮の正寝正殿、滑らかに光る石の廊下に、透ける領巾をさばいて、顔なじみの
女官が伏礼する。この王宮では女官たちは、ひとりとして同じ服をつけることがない。
「さきほどまでは、西の書院においでであったと存じ上げますが」
「たったいまお伺いしてみたのだけれど、いらっしゃらなかったんだもの」
「さようですの…」
「ね、心当たりないかしら」
この台輔も、あまり麒麟らしい服装ではない。服装以前に、後ろに手を組んで顎を上
げ、首を傾げているしぐさは、見た目の歳よりもさらに稚い。はるか昔には、口やかま
しい官も一人ならずいたものだが、このはしこい麒麟の良く回る頭と舌、そして無敵の
愛敬に全面降伏して、もうかなり久しい。
「お急ぎでいらっしゃいますの、台輔?」
女官の口さえ、どこかうちとけて気張らないのも、この国流である。
「さっき、六太から手紙がきたの。戴の方たちのことが書いてあって、早く主上にお聞
かせしたいのよ」
相手はうなずいた。畏れ多くも当代二番目の大国の宰輔の字が、目下の少年のように
気安げに登場しようとも、いちいち驚く女官は、ここにはいない。
「では、お庭を探してごらんなさいまし。昨日やっと、お気に入りの灯篭が修繕されて
ございますから、おいでかもしれませんよ」
「まぁそうなの。ありがと!それじゃ、またね」
友達にするようにひらひら手をふって駆け出した後ろ姿に、女官は再び、しとやかな
身振りで一礼した。
「眠っていらっしゃる…?」
「いいや」
主は石案に頭をのせたまま、目だけをうっすら開き、のぞきこんでいる可愛い顔を見
ると、微笑んだ。
氾麟は、案(つくえ)の様子を見た。
「書き物をしてらっしゃいましたの?」
「うん…」
書院から、墨斗と紙だけをもって、そぞろ歩きに庭園に下りたらしい。主は、秋の立
ち初めた庭で、金紗の刺繍の上衣を着流して、座っている。小さな四阿で石の案によっ
ているその姿は、絵のように見える、と、氾麟は感嘆と満足の吐息をもらした。
「うん?」
「まだ、お疲れがとれてらっしゃらないのだから、あまり御無理なさらないでね」
「していないよ。心配をおしでない」
「それ。お仕事ではないの?」
「ああ、これかえ…」
のぞきかけて、やめた麒麟に、氾は愛情深く微笑んだ。
「別に読んでもかまやしない。思い出したことを、ただの手すさびに書いてみただけ。
昔のことをね…」
「昔…」
「そう。金波宮でお前と李斎と、戴の話をしただろう。庭を眺めていたら、ふとそんな
気になったのだよ」
氾麟は、はたと体を起こした。
「――李斎。彼女、戴へ帰ったの!」
戴へ…と、王は口の中でつぶやき、整えられた眉をわずかに寄せた。
延麒から届いた手紙によれば、その数日前、角を失った若い麒麟にともなわれ、隻腕
の女将軍は慶を発ち、帰国の途についたのだ。氾麟はそこまでを、急いで彼に告げた。
「そうかえ。帰ったか…」
「ええ、そうよ。ほんとに二人っきりで帰ったのよ。二人で今帰ってどうなるの。あん
まりだと思うわ。どうして、引き止められなかったのかしら、六太たちってば」
半泣き声で、早口になる麒麟に、主はそっと筆筒に筆を戻すと静かに言った。
「興奮おしでないよ。誰にも、彼らを止めることなどは出来ないのだから」
「無事でいてほしいの…」
幼顔の麒麟は、口をとがらせ、拗ねるように俯いた。
「そうかえ…」
とだけ、氾は言った。
帰国するとき、あの二人がいまだ弱小の慶国にあまり長く逗留するのは、両国にとっ
て望ましくないだろうとは、想像がついた。延が、慶との利害と景王へのお節介と、幾
分か義侠心とやらを起こして、二人を早い時期に雁国に連れてくれればよいが、と考え
た。早晩、そうなるだろうと踏んで、慶国を後にした。
だが、その一方で、そうはならぬかもしれないと、どこかで思っていた。
あの悲惨の国に、あまりに非力な今の彼らを返したくはない。十分すぎるほど傷つき
弱った一国の柱の半分たる麒麟、そして国と王と麒麟と民とを、一介の将の身に背負っ
て奮闘し、これも十分傷を負った、雄雄しい婦人。どちらも、なんとしても無事でいて
ほしい。
主が同じ思いなのを、短い声の色に感じて、麒麟は面をあげ、主を見た。主の静かな
視線は、石案の上にあった。
「――書いてはみたけれど…、」
王は、つと紙を引き寄せて、指ではじいた。
「あまりに固過ぎるねぇ、これは。なんだか私らしくなくて、いけない」
麒麟は気をとりなおして、座りながら自分ものぞきこんだ。
「あら。――どう、主上らしくなくていらっしゃるの?」
氾は目にひそかな愛敬を含ませて、微笑んでみせた、
「だって…私が真面目な人間だっていうのは、今じゃあ、あまり知られていないことだ
からねぇ」
氾麟は目をくるりとさせると、しかつめらしく頷いた。
「わたくしは知っているわ。だって、わたくしの主上ですもの」
「そうかえ。それじゃあこれは、嬌娘だけに聞かせるとしよう」
氾は静かに読んだ。麒麟も、静かに聞いた。
秋はひそやかに庭園に下りていて、黄葉をまつ葉ずれはどこかものさびしく、枝を漏
れ来る陽射しが、二人のいる四阿に注いでいた。
(二)
その極国を最後に訪れたのは、秋の終りであった。しんと澄んで冴え渡る空気は、ま
なしにこの国に到来する、厳しい冬の匂いがした。雪はまだだったが、雲海の上にも始
終、刺すような風が吹いていたものである。
あてがわれた客舎は、掌客殿の北東の外れにあり、それまでに五回以上はあった過去
の逗留で、一度も案内されたことのない場所だった。
外観の、濃紺と純白の対比の清冽な美しさとは異なり、内部は全体に装飾重く、華美
に過ぎるこの王宮の中にあって、そこは、珍しいほど飾りのない庭園であった。
ひしめく奇岩も玉の柱もなにもなく、ただ植えられた数本の樹木が、黄色に染まった
葉をどっさり落としているだけの、静かな庭を囲んで、広い客殿があった。しかも、寝
室として案内されたのはその客殿の建物ではなく、院子に建つ離れのような小さな書院
だった。
そこに二日半、滞在した。賓客の中では、私がもっとも遠来であった。
部屋には鉄製の、足つき煖爐が置かれていた。聞けば戴ではごく一般的な、庶民にな
じみの道具であるらしい。だがそれも、初めて目にする客にとっては、その膨みのある
胴から煙突がのび、壁の穴から外へと突き出ている様も珍しく、大いに野趣あるしつら
えだった。
暖房はその薪煖爐だけだった。客の世話は二名の、空気のように静かな女官が受け持
っていた。彼女たちはこのひっそりした客舎そっくりで、まるで邪魔にならず、それで
いて申し分なく働くのだった。
食事は毎回、かん [註※温突(オンドル)]の通った客殿の堂室に用意されたが、庭園
の落ち葉を眺めながら、暖かい汁物や菜をいただくと、どこかひなびた宿館にでも滞在
しているような心もちになった。食器が平凡であったので、余計そうした気分に浸れた
ものかもしれない。どの膳もじつにうまかった。必ず一品、乳酪がついた。さほど好き
ではないのだが、これが美味で、珍しく全部食べてしまった。
戻ると薪箱がいっぱいにしてあり、空気が入れ換えられているのが、分かった。小さ
な室は、目の積んだ北国独特の分厚く硬い毛織布を、何枚も壁の下貼りにし、外気を遮
断してあった。そのため昼間の時間であれば、一斉に窓を開けて換気しても、件の薪煖
爐ひとつですぐに部屋は暖まるのだった。
この室は、よい匂いがした。最初は薪を燃やす匂いをそう感じるのかと思った。
香は焚かれていなかった。部屋にある香といえば、窓の近くの黒檀の卓に、文房四宝
(筆と硯と墨と紙)――これらばかりは世に二つとないだろう逸品だった――がのって
いたが、その脇の、豆のような黄色い玉製の香立てに、伽羅のごくごく細い線香が一本
置いてあるきりであった。これは、手紙を書くとき、嗅いで楽しむくらいで、最後まで
燻らさずにおいた。
部屋へ戻るたび、私の感じたそのよい匂いが、何の匂いか、とうとう出立まで、はっ
きりとは分からなかった。女官にきいても、分からぬという。敷布を山いちはつの根で
煮ているので、その匂いではないのだろうか、との答えだった。なるほど寝台に使う布
からは、どこの高級舎館と王宮でもお定まりの、あのしつこく焚きしめた白檀のかわり
に、うっすらと甘い柔らかな香りがしていた。
牀榻はなかった。そもそも書院自体がまるごと牀榻のようなものだから、道具も少な
かった。例の卓の前に、やはり黒檀の椅子があり、あとは衝立と弊風がひとつ、足台が
二つで全てという簡素さだった。部屋の真中に、四隅に細い柱の立った黒檀の、さほど
広くない寝台があった。
この寝台は昼間、寝椅子のかわりになった。夜は寝台の四隅の柱に刺し子の天蓋をか
けて、牀榻の入り口のように白布を垂らすのだった。この牀にも一番下には毛織が敷か
れ、その上に薄い絹蒲団が何枚も重ねられ、すっかり敷布で覆ってあった。上掛けは水
鳥の羽毛を入れた白の緞子が二枚で、同色の糸で一面に手の込んだ刺繍がしてあったが、
これはとにかく暖かかった。
これらの贅沢な蒲団の上、寝台の幅の足元四半分ばかりに、毛糸で織った無骨な布が、
無造作に広げられてあった。布は黄土色と黒と白の、単調な太い縞模様に織られたもの
で、冬官の織工が手がけたものなどでないことは、織を見れば明白だった。だが、私は、
一目で気に入った。
狭いため、花台や壷など余計なものは一切なく、寝台の両脇の壁に、画と書の軸が一
幅ずつ掛かっているのを除いて、装飾のない部屋だった。
書は詩であったが、誰の作か覚えていない。悪くない書風であったように思う。画は
蘭竹図。これも外させるほど目に障りはしなかった。
ここに私を招いた主は、名だたる将軍を経て登極した男である。今回、私はその即位
式に臨むために、はるばる参じた。しかし一見して、武人の趣味を感じさせるものは、
この部屋には何一つなかった。もし新王の君主としての人となりを、いくらかでも表し
ていたとすれば、部屋の片隅にあった小さな書架の中身であったろう。
二日と少しの滞在で、大行人に即位礼の式次第と当日の予定を伝えられたほか、先方
からの使いは、一回きり――滞在一日目の夕刻、内殿の官が、主君である新王の口上を
添えて国宝とおぼしき笛を届けにきた、そのときだけであった。
私は、大礼を前にした王宮の狂騒から切り離されて、この晩秋の庭の風情をたんのう
しながら、かなりの時間を書見に費やした。
帰る間際、短い歓談をもった折、私は客舎のよろしかったことに、礼を述べた。今回
のもてなしの一切は、この男が自ら指図したものに違いなかった。この私を満足させた
ことに、いくらかでも得意の色をするかと思ったが、戴の新しい王は、無表情のまま、
それはよろしゅうござった、とだけ応じた。
彼はその後、何もおかまい出来なかったと詫び、更に、部屋内でお気に召したものが
あれば、なんなりと差し上げたく存ずるが、と申し出たので、私はそれには及ばないと
丁重に断った。
あの見事な文房具は、そのために用意されたものだったろうが、私はすでに名笛を贈
られていたし、これは一国として十分に、慶賀の品の返礼に足るものだった。
ただ私は、又の滞在にはあの部屋を希望したい、と申し添えた。真実私は、あの書院
を好んでおり、正直なところいささか別れ難い思いだったのだ。
彼は初めて微笑し、では、そのままにお残ししよう、と言うと少し目を和ませた。
質素すぎるほどの礼服と簡素な式は、この男の堂々の風格をかえって引き立たせ、稀
に見る、よい即位の式典であった。即位したばかりの新王は、客の前でも率直すぎるほ
ど率直であった。土産をお渡ししたいのだが、範の方がお喜び下さるようなものが、今
の戴国にあるだろうか、と彼は問うた。
固辞するつもりだったが、その率直さが気に入ったので、私は土産を望む気になった。
あの書院にあったと同じ書物が御入手かなうなら、うち数冊を御用意頂ければ、有り
難く、と。
泰王は、その場で書名を聞くと頷き、今度はこちらの顔を見て、太く、はっきりと笑
んだ。彼と我との友情のはじまりは、おそらくあのときであったと思う。
帰国から半月もせぬうち、書物は届けられた。彼は、私が頼んだものだけを、全て二
冊ずつ揃えて送って寄越した。いずれも初刷りである。
書名を以下に控える。『戴国鉱業技術史』全巻。『承州酪農の技術と発展』。『乳酪
の保存と輸送に関する研究』。このうち鉱業技術史の上数巻と、承州酪農は、すでに半
分以上を滞在中に読んでいた。もとより戴は玉の産地としてわが国とのかかわりが深い
のだが、ごく小規模ながらすぐれた酪農製品の生産を行っていることが、この度の訪問
で判った。これらは手元に置きたく、また、彼の炯眼の通り、うちの冬官ないし地官に
読ませんがために所望した。
他は、絵草子が三。子供向けの戴の民話などで、挿画が実に見事なものであった。氾
麟に与え、彼女はやがてそれらを州府の文庫に贈ることに決めた。うち一編は数年後、
小学で使う読本に採られている。
頼んだ本だけが入っていた包みで、思いがけず私を喜ばせたのが、二重に油紙にくる
んだ書籍を、さらに包んでいた一枚の布であった。無論、私が一番気に入っていたこと
など、彼が知っていたはずはない。あの部屋にあったものよりも、それは幅広く、正方
形であった。
黄土色と黒と白が太い縦縞に織出されたその無骨な布は今、私の冬の離宮にある。窓
辺の小さな寝椅子の上に、半分に折って置かれている。
(三)
「さ、おしまい」
氾は、立ち上がり、麒麟の小さな手をとった。
「やれやれ。冷えてしまったね。戻ってお茶にするとしようよ」
氾麟は頷いて、立ち上がった。石の四阿に静寂が戻った。
たったいま読まれなかった最後の一行は、彼女の主の心だった。あえてそれを読まな
かった彼を、彼女は誰より理解せねばならない。だから、少女の姿をした賢く愛らしい
麒麟は、敷石の上を飛び跳ねながら、流れるような歩調の主の後ろについて、正殿へと
戻って行った。
『――その無骨な布は今、私の冬の離宮にある。窓辺の小さな寝椅子の上に、半分に折
って置かれている。
布を送った男の生死は、いまだ分からない。』
(了)
「いいのですか」
「どうぞ」
李斎は一瞬ためらった後、出された腕につかまってそれを支えに身軽く鞍に登り、前
から右足を渡して姿勢を整えた。鐙(あぶみ)がないのでやや不安定だが、驍宗が手綱
を離さない。
日は中天に高高と、夏の蓬山を照らしていた。
「鞍に掴まられよ。手綱をとらせて差し上げたいが、計都に私ごと振り落とされる」
頷くと、驍宗は右手にとっていた手綱を、李斎の背後から両の手に持ち替えた。
「――ハイっ」
驍宗が低く声をかけて鐙を蹴ると、計都は不承不承歩みはじめた。背に乗ってみれば、
すう虞はやはり大きい。天馬としても小柄な飛燕を乗騎にしていることもあり、戸惑う
ほどに肩は広くその首は太い。だが歩みは、虎に似る獣らしく、なんと軽快でしなやか
なことだろうか。
「いかがか」
「素晴らしいですね。でも…」
くすりと李斎は笑った。
「少し変な気分です」
背後で首を傾げたであろう驍宗に答える。
「背で手綱をとっていただいて鞍に掴まっていると、子供に戻った気がする。なんだか
初めて乗馬を教わった日のようで」
驍宗が小さく笑ったようだった。
「馬をお持ちだったか」
「父の軍馬です」
「なるほど」
穏やかな声が、背に暖かく感じられる。李斎はわずか首を傾けた。
「…少し駆けさせよう。ハっ」
獣は指示に従い、緩やかに速歩から駆け足へと移る。黄海と蓬山を隔てる牌門までは
下りの岩場がつづれ折りになって続く。門を出るまで騎獣は飛行できないが、それでも
すう虞は飛ぶように走る。妖魔が襲ってこないので、この門までの往復は騎獣の運動に
は恰好だ。
「お小さいころから、お転婆でいらしたか」
「はい、それはもう」
おどけて答えると、驍宗の楽しげな笑い声が返ってきた。
「驍宗殿は?いつから馬に乗られました」
「…馬は後だった。私は先に騎獣に乗ったので」
「騎獣、ですか?」
李斎は瞬いた。騎獣は高価で、成獣ばかりだから概して大きいし、気性も荒い。少な
くとも子供の教育には向いていない。李斎の疑問に驍宗が答えた。
「序学に通っていた頃、将軍の乗騎に乗ってみた。厩番の兵と顔なじみになって、休み
のたびにその男が遊びに出かける間、代わりに騎獣の世話をして、ついでに少々拝借し
た」
李斎は少し呆れながら聞いた。
「乗せてくれましたか」
「振り落とされた」
「お怪我は」
「あばらを二本折り申した」
李斎は目を丸くした。
「仙に、なられる前のことでしょう」
「いかにも」
「それで、どうなされた」
驍宗は悪びれず答えた。
「次の休みにまた乗った」
二人の笑い声が奇岩を行く風に乗って、たなびいた。
「…そんなこともあったか」
「ございました」
すう虞の背で二人は笑み交わした。
あのときと同じように、驍宗が背後から手綱を取っている。違うのは二人とも鎧をつ
けてはいないことだ。驍宗は冠に上げた髪をおさめ、李斎は臙脂色の絹の裳裾を風にな
びかせている。もっと違うのは、横乗りの李斎が驍宗にゆったりとその背を預けている
ことだろう。
風は黄海を行く夏の風ではない。北東の極国の丘に吹きつける、秋の風だ。
「寒くはないか」
「大丈夫です」
「手綱をとってみるか」
「いいのですか」
驍宗は笑んで、左手を替わらせた。そっと上から手を添える。
李斎は嬉しげに背を伸ばすと、短く声を掛けて、手綱をしならせた。賢く勇猛な獣は、
ゆるゆると速度を増す。
「…少し押さえよ。振り落とされても知らぬぞ」
「そのときは主上にいっしょに落ちていただきます」
「お転婆は一生治らぬか」
「はい、それはもう」
あの日乗った計都は、もういない。
「どうぞ」
李斎は一瞬ためらった後、出された腕につかまってそれを支えに身軽く鞍に登り、前
から右足を渡して姿勢を整えた。鐙(あぶみ)がないのでやや不安定だが、驍宗が手綱
を離さない。
日は中天に高高と、夏の蓬山を照らしていた。
「鞍に掴まられよ。手綱をとらせて差し上げたいが、計都に私ごと振り落とされる」
頷くと、驍宗は右手にとっていた手綱を、李斎の背後から両の手に持ち替えた。
「――ハイっ」
驍宗が低く声をかけて鐙を蹴ると、計都は不承不承歩みはじめた。背に乗ってみれば、
すう虞はやはり大きい。天馬としても小柄な飛燕を乗騎にしていることもあり、戸惑う
ほどに肩は広くその首は太い。だが歩みは、虎に似る獣らしく、なんと軽快でしなやか
なことだろうか。
「いかがか」
「素晴らしいですね。でも…」
くすりと李斎は笑った。
「少し変な気分です」
背後で首を傾げたであろう驍宗に答える。
「背で手綱をとっていただいて鞍に掴まっていると、子供に戻った気がする。なんだか
初めて乗馬を教わった日のようで」
驍宗が小さく笑ったようだった。
「馬をお持ちだったか」
「父の軍馬です」
「なるほど」
穏やかな声が、背に暖かく感じられる。李斎はわずか首を傾けた。
「…少し駆けさせよう。ハっ」
獣は指示に従い、緩やかに速歩から駆け足へと移る。黄海と蓬山を隔てる牌門までは
下りの岩場がつづれ折りになって続く。門を出るまで騎獣は飛行できないが、それでも
すう虞は飛ぶように走る。妖魔が襲ってこないので、この門までの往復は騎獣の運動に
は恰好だ。
「お小さいころから、お転婆でいらしたか」
「はい、それはもう」
おどけて答えると、驍宗の楽しげな笑い声が返ってきた。
「驍宗殿は?いつから馬に乗られました」
「…馬は後だった。私は先に騎獣に乗ったので」
「騎獣、ですか?」
李斎は瞬いた。騎獣は高価で、成獣ばかりだから概して大きいし、気性も荒い。少な
くとも子供の教育には向いていない。李斎の疑問に驍宗が答えた。
「序学に通っていた頃、将軍の乗騎に乗ってみた。厩番の兵と顔なじみになって、休み
のたびにその男が遊びに出かける間、代わりに騎獣の世話をして、ついでに少々拝借し
た」
李斎は少し呆れながら聞いた。
「乗せてくれましたか」
「振り落とされた」
「お怪我は」
「あばらを二本折り申した」
李斎は目を丸くした。
「仙に、なられる前のことでしょう」
「いかにも」
「それで、どうなされた」
驍宗は悪びれず答えた。
「次の休みにまた乗った」
二人の笑い声が奇岩を行く風に乗って、たなびいた。
「…そんなこともあったか」
「ございました」
すう虞の背で二人は笑み交わした。
あのときと同じように、驍宗が背後から手綱を取っている。違うのは二人とも鎧をつ
けてはいないことだ。驍宗は冠に上げた髪をおさめ、李斎は臙脂色の絹の裳裾を風にな
びかせている。もっと違うのは、横乗りの李斎が驍宗にゆったりとその背を預けている
ことだろう。
風は黄海を行く夏の風ではない。北東の極国の丘に吹きつける、秋の風だ。
「寒くはないか」
「大丈夫です」
「手綱をとってみるか」
「いいのですか」
驍宗は笑んで、左手を替わらせた。そっと上から手を添える。
李斎は嬉しげに背を伸ばすと、短く声を掛けて、手綱をしならせた。賢く勇猛な獣は、
ゆるゆると速度を増す。
「…少し押さえよ。振り落とされても知らぬぞ」
「そのときは主上にいっしょに落ちていただきます」
「お転婆は一生治らぬか」
「はい、それはもう」
あの日乗った計都は、もういない。
「撤回はきかぬぞ」
顔を見るなり、驍宗は言った。李斎は言葉をなくして、立ち止まった。李斎にとって
は青天の霹靂であった立后要請とその承諾から、一夜が明けて、翌日の午後だった。
正寝正殿の南に四容園という庭がある。下官の案内で、枯れた小さな滝壷を横切り、
奇岩の重なる上に建てられた広い路亭に近づけば、扁額には八覧亭と見えた。だが、現
在の庭はその名にふさわしいほどの景観は、とてもあるとは言いがたい。
そこで驍宗はひとり、茶を淹れているところであった。下官とともに、亭に上る石の
階(きざはし)の下で伏礼した後、立ち上がり、顔が合ったと思った瞬間に言われたの
が、「撤回はきかぬ」の一言である。
座るよう促された。李斎は、無言のまま、驍宗の向かいに腰掛けた。
驍宗は、見かけは無骨な手で、丁寧に茶を淹れ終ると、李斎にすすめた。
正式の来客の扱いである。
昨日と異なり、李斎は夏の官服であった。使いの者が、服装を改むるに及ばずと伝え
たからだ。此度、鴻基に戻って一度だけ閲兵して後は、朝議の席を除けば、王から召さ
れでもしない限り、李斎がもはや皮甲を着けないことを、驍宗は知っていた。
自分の托子を引き寄せると、驍宗がちらと視線を投げて笑みかける。
「昨日は、大儀」
言葉をかけられた瞬間、李斎はあやうくむせかけた。
どぎまぎと視線がふらつき、落ち着こうとするが、いっかなうまくいかない。
「あれから、戻ったのか」
「いえ。花影のところへ参りました」
李斎は正直に答えた。
「…寝ておらぬのか」
一睡もしていない。
「…わたしもだ」
苦笑気味の優しい声音に、李斎は不思議そうに顔を上げた。
「はい、…」
すぐに俯き、李斎は手のひらを官服のひざの上で開き、それをまた握った。
覚悟だけは固めてきた。ではいま少し、平常心を保てないものだろうか。
「今朝の、議堂での顔はなんだ。やはり断りたい、とでも言い出しかねぬ様子だったぞ」
どうやらその心配のないことを見て取ると、驍宗は、李斎をからかってみせた。
「そのようなことは…」
驍宗を恨めしげに見かけて、李斎はまた顔を急いで伏せた。さきほどから、そうなる
理由に自分で気がついており、余計に頬に血がのぼる。
頭でした決意には含まれなかった事が、えてして、現実には大きく場所を占める。
驍宗を前にして昨晩の抱擁が思い出される。一度は触れる覚悟をしたかと思えば、口
元は見るのさえはばかられた。
「それにしても、ひどい女だ」
「はい、…は?」
女、と言われることに李斎は馴れない。
「あれほどの大事を約させて、言い逃げする気であったのか」
――二度と民の目に何も隠さぬ、と、それを驍宗は李斎に誓った。
李斎は困ったように俯いた。李斎に約束を違える気はなかった。どこにあっても生き
ている限り、鴻基の高みにあるこの王を、そして彼の治政を見ているつもりだった。
「……死ぬる気でなければ、申しておりません」
李斎は小さな声で答えた。驍宗は眉を緩めた。
「うむ」
誰もしなかった諌言だった。どれほどの覚悟であったか、想像に難くない。だがその
わずか二日後に、彼女の辞表を読む羽目になった驍宗としては、安心した今、恨み言の
ひとつも言いたい。
「…あの日は、主上に心が通じたかのように思えたことが嬉しく、あのお約束を形見に
去るつもりでした」
「誰が去らせてなどやるか」
驍宗は顔をしかめて微笑んだ。
「七年待った。ようやく言い交わした。そなたもひとかどの武人であれば、己の判断に
は自信があろう。いかな即決でも、一度した決定には責任を持て」
数日前の安心ゆえにこみ上げた失望と怒り、そして誤解は、驍宗によって昨日その場
で速やかに払拭された。男として不足に思うかどうかの一点を判ぜよ、いまここで返答
せよとの、畳み掛けるような弁に、とっさに李斎は諾(うべな)った。
いかにも重く大きな即断ではあったが、一晩かけて冷静になったいま、李斎にそれを
覆す気持ちはもう、なかった。
「お気持ちはお変わりではないのでしょうか」
驍宗はぎらりと目を返した。
「今更か。――ない」
李斎は静かに背を伸ばすと頭を垂れた。
「では。改めてお受け致します」
驍宗は一瞬口をつぐんだ。目を細め、頬の筋肉が引き締まり、それから、頷いた。
「うむ」
彼は目を閉じ、開いたとき、穏やかな顔になっていた。
それから驍宗はてきぱきと実務的な話に移った。
「…先刻、朝議の後で冢宰と話した。花影がもう知っているのなら手間が省ける。秋官
と調整して、復位に助力いただいた各国に、相手がそなたであることを知らせた方が、
よかろうということになった。財政が財政ゆえ、臨席願うほどの儀式や祝宴は無理だろ
うが、正式な使者を立てる。それゆえ式はおよそ二月は先になる。秋だな。今日これか
ら、蒿里の後に冢宰も呼んである。そなたも同席するように。…どうした」
驍宗が顔をのぞきこむ。李斎は急いで首を引きながら、答えた。
「いえ…やはりずいぶんと大変なことになるのだと」
「極力、控えるようにする」
驍宗はやや苦い顔になる。
「だが、天官ははりきるだろう。王后が立つのは、連中には一大事だからな」
「…、」
覚悟し、想像はしていたのだが、その想像が及ばない。
「大して何もしてやれぬが、部屋が準備出来たら、移ってくれ」
王后は通常、北宮に住まう。だが、驍宗は後宮自体を閉め、李斎の住居は正寝に用意
すると言っていた。
「正寝の、どちらになるのでしょう」
一口に正寝といっても広い。だが驍宗は怪訝そうにした。
「長楽殿だ。私の部屋の続きに急いで手を入れさせよう。…それは、おいおい独立した
宮に、二人で移ることも考えぬではないが」
李斎は驚いた顔になった。それではまるで、当たり前の夫婦の住まい様と思える。
「…ともに、暮らすのでございますか」
「夫と妻はともに暮らすものだ。私は、李斎と暮らしたいのだ」
その言葉には実があった。
「不服か?」
ぼんやりしている李斎に、驍宗は聞いた。李斎は、かぶりを振った。
「毎日お会いできるのか、と」
やっと答えると驍宗は笑った。
「無論だ。嫁いでくればそうなる」
「……」
相手が王では、妻とか嫁などと言われても、どこかそぐわぬ気がしていたのが、どう
も、かなり現実味を帯びてきてしまった。
相手の住まいに移って生活を始めれば、仮に成人前で親の戸籍にあっても、それが娘
なら、嫁に行った、という言い方をする。夫と言い、妻とも普通に言う。里木に帯を結
ぼうとせぬ限りにおいて、婚姻であるか否かを、外部がもっとも厳密に評価するのは、
税の徴収時なのであり、それは社会通念と常には合致していない。そのため、例えば法
令に精通した者が法律用語として「野合」と言うときと、世間的な意味での「結婚して
いない」には、範囲に若干ずれがあった。
嫁に行く、というのは婚姻だけに限らず、生活を一にする事実婚や親の許可を得て婚
礼を行ったときにも別なく使われている表現の、代表的なものだった。
王がただひとりの伴侶を冊立する。それを立后という。王とはすでに戸籍を持たない
ものであるため、戸籍の統一を意味する婚姻という語を、用いない。それゆえか、通常
はあまり、嫁すとも言わないようだ。だが、いわゆる寵妃が後宮内に住居を賜った場合
は、宮城内に常住する職員らと同様に、国府にある里祠にその戸籍を移すのに異なって、
王后だけは、西宮に戸籍を移動させられる。西宮には王の里木(路木)がある、という
のが、その根拠であるらしい。
驍宗は、これから行われる李斎の戸籍の移動を、簡単に説明した。
李斎の戸籍は立后の儀式を待たず、瑞州内の所領から西宮へ移される。移動にあたっ
ては必ず理由が記載されるものだが、「立后」は本来、戸籍と無関係な用語のため使わ
れずに、――驍宗も初めて知ったことであったが――「神籍取得により除籍せらる者の
配偶者と成るに依り」と記された上、空欄である配偶者の欄に、王の本姓本名が入れら
れる。
地官でも知る者の少ない、戸籍法上の不思議のひとつであろう。即位後の立后とは、
手続きの上では死者との婚姻に限りなく近い。だが李斎はその、取り方によっては不吉
とも思える扱いを、むしろ、なにかふさわしいもののように感じ、厳粛な気持ちで受け
止めた。
このひとに、嫁ぐのだ。
李斎は、いまだ実感はないまま、そのことだけを確信してしまった自分をぼんやりと
思った。
誰かに嫁す日が来ようなど、思っていなかった。幼い時分は、母親の小言に辟易しつ
つも子供らしく不安になり、できることなら姉たちのようになれはすまいかと、どこか
にその願望があったようだが、大きくなるにつれ、忘れてしまった。
まして驍宗に嫁ぐなどとは…。
「いつから、李斎をご覧であったのでしょうか」
李斎の問いに、驍宗はこともなげに即答した。
「最初からだ」
「はぁ」
最初といえば、蓬山。一月以上も黄海を旅した後で、普段よりずっと日焼けしていた。
化粧せぬ顔に垂らした髪をかいやって、男物の普段着を着ていた自分しか思い出せない。
どうも納得がいかぬ顔の李斎に、驍宗は意地悪く尋ねる。
「李斎はどうだ」
「はい?」
「いつ私がそなたにとって男になったか、当ててみせようか」
「……え」
「どうせ、昨日だろう」
驍宗は愉快そうに言い、李斎は否定もできず、困って視線を外すと、わずかに肩口を
すぼめた。そのしぐさ自体は以前と変わらぬものなのに、どこかしとやかに女びている。
驍宗はそのような様子を、楽しく眺めた。
申し込んで一夜で、李斎は驍宗に恥じらいを見せるようになった。それがどうやら意
識もせず、そうなってしまうらしい。時おり多少は自覚するのか、とまどっているのも
いじらしく、驍宗の笑みは深まる。
昨日までの将軍が、己の伴侶となる婦人となって、そこに座っている。
「なにか?」
「いや、」
微笑んだまま首を振った。
驍宗は立ち上がり、路亭の欄干(てすり)に歩むと、
「来たようだぞ」
と、李斎を差し招いた。李斎が席を立つ。
二人で明るい庭園を見やれば、下官に導かれて、泰麒の細い姿が、滝壷の向こう側を
回ってくるのが見えた。
「あれが、どのような顔をするかな」
「それは…驚かれましょう」
報告するのが、少しばかり気恥ずかしく思われた。
「そうだな。さぞ驚くだろう」
驚いて、そしてきっと喜ぶだろう。驍宗は頷き、まぶしい光を受けて少し目を細めた。
李斎は、その驍宗の片頬と首筋のおくれ毛を見ている自分に気づくと、急いで視線を
庭に戻したが、瞬き、誰にも知られぬようそっと、上げた手で胸を押さえてみた。
内輪の慶事を明日に控えて、すっかりさびれていたこの戴の国の王宮は、控えめな喜
びをそこここに溢れさせ、祝意の暖かな空気の中で夜を迎えていた。
当直の官たちは、いつもは控えている府第の雪洞(ぼんぼり)を申し合わせたように
今日は全て灯した。燕朝を行く官吏たちは皆どこか楽しげで、顔見知りに出会えば「お
めでとうございます」と小さな声を掛け合って、笑顔を交わす。
明日は、夜番の者にだけ祝い酒が出され、仙籍にない王宮の下働きの者たちには、夕
餉の膳に一品多く付くことになっている。白圭宮の職員へのふるまいはそれで全部であ
った。他はいつも通りで、何の変化もない。
それでも皆がこの喜びを分け合った。明日、戴に王后が立つ。
唯一の賓客は、全く酒を嗜まないため、会食が済むと早々と掌客殿に――荒れ放題の
庭を抱えた本来の掌客殿ではなく、代りに用意された正寝の園林に臨む一角に――引き
取って行った。
夜半にこの主を追って到着するという景台輔への挨拶と宿舎への案内は、台輔の蒿里
と大司寇の花影に任せて、驍宗も自分の居室に引き取った。
夜着に着替え、しばらく書を見た後、驍宗は手もとの灯りを吹き消した。露台に出る
玻璃窓から月光が射し入り、床に長く窓枠の影を伸ばす。それを見やっていた驍宗は、
一度横になった臥台から滑り下りた。
露台には先客があった。驍宗の気配に振り返り、目を見開いた後、叩頭しようとして
思いとどまる。
「眠れぬのか」
聞くと、はい、と李斎は答えた。
「よい月でございます」
うむ、と驍宗は頷いた。外に出るとまるで昼間のように明るい。
「私もこの月に誘われた」
李斎を見つめて、驍宗はふと笑んだ。化粧をせぬ方がやはり李斎らしい、と思ったが
口にはしなかった。かわりに、少しは慣れたか、と聞く。李斎は困ったように首を傾け
た。
「中々、后妃らしくとは難しゅうございます。何しろ根が無骨者でございますから」
李斎はつとめて快活に笑み、肩を竦めた。后妃としての振る舞いを要求されることに
もまして、后妃として自分に何が出来るだろうかという悩みは、驍宗に相談する事では
ないような気がする。王から望まれることを王后が果たすのは、いわば当然の事、后妃
独自の果たすべき責とは、それとはどうも別なように思われる…。
「女官長は、口やかましかろう」
突然言われて、一心に考え込んでいた李斎はとっさに本音を出してしまった。
「はい。…あ、いえ」
急いで首を振る李斎に、驍宗は可笑しそうに言う。
「あの小言婆、よくぞ生き残っていてくれたものだ。融通のきかなさは天下一品、宮中
礼法の生き字引だ」
李斎は意外な言に、目を丸くした。
「ご存知の官だったのですか」
「無論だ。蓬山から帰って即位礼までに、何度口論したか覚えぬ。一挙手一投足注意さ
れるので頭にきて、つい怒鳴り上げたこともある」
「主上が、でございますか」
驍宗は頷いた。
「私が凄んで平気な者など、夏官でもそうはおらぬのに、あの女官長ときては眉ひとつ
動かさぬ。あまりに口うるさいゆえ、あるとき剣にちらと目をやったら、私を斬っても
礼式はなくならぬ、ときた。天晴れな女だぞ」
「そうでしたか…」
煙たいが清廉で、天官に珍しく裏表のない性格の官だとは、多くの部下を見てきた李
斎にもこの数日で分っていた。驍宗が、自身の経験で彼女をつけてくれたのだと知り、
李斎は嬉しかった。
「少し辛抱しろ。あれに教われば、そなたならば驚くほど短期で、ひととおりは后妃と
しての素養がつこう」
李斎ははい、と笑んで頷いた。私心のない教育係とはああいうものだろう。憎まれる
ほどに厳しくやかましく締め付けでもせねば、一通り育ち上がった大人など、そうそう
変わるものではないのだ…。
潮を含んだ緩やかな風に、白い夜着の袖がふくらんだ。右袖が翻りそうになるのを押
さえようとした左腕より早く、驍宗の腕が右袖を掴んでいた。
李斎は目を見開いた。
短いくちづけだった。驍宗は李斎を抱き寄せた腕をゆるめて、笑顔を向ける。
「我慢が過ぎて、もう限界だぞ。よくもここまで辛抱させたな。さすがは李斎だ」
李斎は状況を忘れ、ぽかんと驍宗を見上げた。
「…我慢しておられたのですか?」
驍宗は顔をしかめた。
「せぬ訳があるまい。承知してくれた女が目の前にいるのだぞ」
はぁ、と李斎はこの数日来、もう何度目になるか知れない、やや間伸びした声を出し
た。
「李斎の胸は大きいな」
唐突に言われ、李斎は瞬いた。そして頷く、
「それは、女でございますから」
それから驍宗の右手をしげしげと見る。
「なんだ?」
「いえ…主上でも女の胸など触られるのですね」
驍宗は置いた手をそのままに眉をわずか上げると、首を傾け、それから頷く。
「…男だからな」
はぁ、とまた李斎は呟いた。驍宗は楽しげな笑い声を上げた。
「好きな女の胸は勿論、触りたいとも」
おおらかに言うと、左胸に置いた手を放し、両の腕を回した。
「抵抗せぬのか」
李斎がしません、と答えると、驍宗は少しばかり人の悪げな顔をした。
「それは、大した進歩だ。求婚した日は、哀れをもよおすほどの怯え様だったが」
李斎は驍宗の胸に頭を凭せたままで言った。
「それで帰して下さったのですか」
「ついうかうかとな」
驍宗は思い出して苦笑した。警戒されるのが嫌で、もの慣れない花嫁が不憫で、つい
華燭まで待つなどと大見得きった。あげくこのざまである。
「何度も、あのとき帰して下さらなければ良かったのになどと思いました」
驍宗は眉を開いた。
「本当か」
李斎は小さく頷いた。主上は平気なのだと思っていた。正寝に上がって、驍宗が側へ
来るたび緊張する自分が馬鹿げて愚かに思えて、最後は悲しかった。
驍宗は幸福に溢れて微笑し、李斎を見た。
「部屋へ、行くか」
もう答えは分っている。
まさに頷こうとしたその瞬間、李斎の動きが止った。
あ、と小さく声を上げる。
「どうした」
驍宗が怪訝な表情で聞く。李斎は思いつめた顔を上げた。
「女官に言ってしまいました」
「何」
「明日まで主上のお渡りはない、と」
驍宗は目を瞬いた。そして口を開けると、息を吐いた。
「それは…まずいな」
「はい…」
李斎はほとんど泣きそうな顔をした。
驍宗は手を放した。
「どうでも、明日までは縁がないらしい」
驍宗は笑った。もう笑うよりない。李斎は恐縮し、ただ身を縮めるばかりであった。
露台は雲海に張り出ており、透き通った夜の水面に縮緬の波がよせる。今宵の月は清
かであった。
「――片腕貰うてまだ足りぬ、か…」
驍宗はぽつりと呟いた。え、と李斎が聞き返す。
「先ほどの会見で、そなたが来る前に、景女王が申されたことがある」
「景王が、何を」
「李斎は大事な友人ゆえ、必ず幸福にすると約束してくれ、と」
李斎は驚いて目を見開いた。驍宗は続けた。
「――できぬ、とお答え申し上げた」
驍宗は李斎を見ていた。彼女は驍宗の顔をしばし見つめた後、ゆっくり瞬くとやや目
を伏せて微笑した。小さく頷き、それから目を上げる。驍宗はそんな李斎に幽かな笑み
を返した。
彼は雲海を振り返った。月の影がその汀まで、白白と銀の道を示す。
ややあって驍宗は言った。
「天命尽きるまで、供を命じる…」
許せ、とは驍宗は言葉にしなかった。
「はい」
と、静かに李斎は答えた。
顔を見るなり、驍宗は言った。李斎は言葉をなくして、立ち止まった。李斎にとって
は青天の霹靂であった立后要請とその承諾から、一夜が明けて、翌日の午後だった。
正寝正殿の南に四容園という庭がある。下官の案内で、枯れた小さな滝壷を横切り、
奇岩の重なる上に建てられた広い路亭に近づけば、扁額には八覧亭と見えた。だが、現
在の庭はその名にふさわしいほどの景観は、とてもあるとは言いがたい。
そこで驍宗はひとり、茶を淹れているところであった。下官とともに、亭に上る石の
階(きざはし)の下で伏礼した後、立ち上がり、顔が合ったと思った瞬間に言われたの
が、「撤回はきかぬ」の一言である。
座るよう促された。李斎は、無言のまま、驍宗の向かいに腰掛けた。
驍宗は、見かけは無骨な手で、丁寧に茶を淹れ終ると、李斎にすすめた。
正式の来客の扱いである。
昨日と異なり、李斎は夏の官服であった。使いの者が、服装を改むるに及ばずと伝え
たからだ。此度、鴻基に戻って一度だけ閲兵して後は、朝議の席を除けば、王から召さ
れでもしない限り、李斎がもはや皮甲を着けないことを、驍宗は知っていた。
自分の托子を引き寄せると、驍宗がちらと視線を投げて笑みかける。
「昨日は、大儀」
言葉をかけられた瞬間、李斎はあやうくむせかけた。
どぎまぎと視線がふらつき、落ち着こうとするが、いっかなうまくいかない。
「あれから、戻ったのか」
「いえ。花影のところへ参りました」
李斎は正直に答えた。
「…寝ておらぬのか」
一睡もしていない。
「…わたしもだ」
苦笑気味の優しい声音に、李斎は不思議そうに顔を上げた。
「はい、…」
すぐに俯き、李斎は手のひらを官服のひざの上で開き、それをまた握った。
覚悟だけは固めてきた。ではいま少し、平常心を保てないものだろうか。
「今朝の、議堂での顔はなんだ。やはり断りたい、とでも言い出しかねぬ様子だったぞ」
どうやらその心配のないことを見て取ると、驍宗は、李斎をからかってみせた。
「そのようなことは…」
驍宗を恨めしげに見かけて、李斎はまた顔を急いで伏せた。さきほどから、そうなる
理由に自分で気がついており、余計に頬に血がのぼる。
頭でした決意には含まれなかった事が、えてして、現実には大きく場所を占める。
驍宗を前にして昨晩の抱擁が思い出される。一度は触れる覚悟をしたかと思えば、口
元は見るのさえはばかられた。
「それにしても、ひどい女だ」
「はい、…は?」
女、と言われることに李斎は馴れない。
「あれほどの大事を約させて、言い逃げする気であったのか」
――二度と民の目に何も隠さぬ、と、それを驍宗は李斎に誓った。
李斎は困ったように俯いた。李斎に約束を違える気はなかった。どこにあっても生き
ている限り、鴻基の高みにあるこの王を、そして彼の治政を見ているつもりだった。
「……死ぬる気でなければ、申しておりません」
李斎は小さな声で答えた。驍宗は眉を緩めた。
「うむ」
誰もしなかった諌言だった。どれほどの覚悟であったか、想像に難くない。だがその
わずか二日後に、彼女の辞表を読む羽目になった驍宗としては、安心した今、恨み言の
ひとつも言いたい。
「…あの日は、主上に心が通じたかのように思えたことが嬉しく、あのお約束を形見に
去るつもりでした」
「誰が去らせてなどやるか」
驍宗は顔をしかめて微笑んだ。
「七年待った。ようやく言い交わした。そなたもひとかどの武人であれば、己の判断に
は自信があろう。いかな即決でも、一度した決定には責任を持て」
数日前の安心ゆえにこみ上げた失望と怒り、そして誤解は、驍宗によって昨日その場
で速やかに払拭された。男として不足に思うかどうかの一点を判ぜよ、いまここで返答
せよとの、畳み掛けるような弁に、とっさに李斎は諾(うべな)った。
いかにも重く大きな即断ではあったが、一晩かけて冷静になったいま、李斎にそれを
覆す気持ちはもう、なかった。
「お気持ちはお変わりではないのでしょうか」
驍宗はぎらりと目を返した。
「今更か。――ない」
李斎は静かに背を伸ばすと頭を垂れた。
「では。改めてお受け致します」
驍宗は一瞬口をつぐんだ。目を細め、頬の筋肉が引き締まり、それから、頷いた。
「うむ」
彼は目を閉じ、開いたとき、穏やかな顔になっていた。
それから驍宗はてきぱきと実務的な話に移った。
「…先刻、朝議の後で冢宰と話した。花影がもう知っているのなら手間が省ける。秋官
と調整して、復位に助力いただいた各国に、相手がそなたであることを知らせた方が、
よかろうということになった。財政が財政ゆえ、臨席願うほどの儀式や祝宴は無理だろ
うが、正式な使者を立てる。それゆえ式はおよそ二月は先になる。秋だな。今日これか
ら、蒿里の後に冢宰も呼んである。そなたも同席するように。…どうした」
驍宗が顔をのぞきこむ。李斎は急いで首を引きながら、答えた。
「いえ…やはりずいぶんと大変なことになるのだと」
「極力、控えるようにする」
驍宗はやや苦い顔になる。
「だが、天官ははりきるだろう。王后が立つのは、連中には一大事だからな」
「…、」
覚悟し、想像はしていたのだが、その想像が及ばない。
「大して何もしてやれぬが、部屋が準備出来たら、移ってくれ」
王后は通常、北宮に住まう。だが、驍宗は後宮自体を閉め、李斎の住居は正寝に用意
すると言っていた。
「正寝の、どちらになるのでしょう」
一口に正寝といっても広い。だが驍宗は怪訝そうにした。
「長楽殿だ。私の部屋の続きに急いで手を入れさせよう。…それは、おいおい独立した
宮に、二人で移ることも考えぬではないが」
李斎は驚いた顔になった。それではまるで、当たり前の夫婦の住まい様と思える。
「…ともに、暮らすのでございますか」
「夫と妻はともに暮らすものだ。私は、李斎と暮らしたいのだ」
その言葉には実があった。
「不服か?」
ぼんやりしている李斎に、驍宗は聞いた。李斎は、かぶりを振った。
「毎日お会いできるのか、と」
やっと答えると驍宗は笑った。
「無論だ。嫁いでくればそうなる」
「……」
相手が王では、妻とか嫁などと言われても、どこかそぐわぬ気がしていたのが、どう
も、かなり現実味を帯びてきてしまった。
相手の住まいに移って生活を始めれば、仮に成人前で親の戸籍にあっても、それが娘
なら、嫁に行った、という言い方をする。夫と言い、妻とも普通に言う。里木に帯を結
ぼうとせぬ限りにおいて、婚姻であるか否かを、外部がもっとも厳密に評価するのは、
税の徴収時なのであり、それは社会通念と常には合致していない。そのため、例えば法
令に精通した者が法律用語として「野合」と言うときと、世間的な意味での「結婚して
いない」には、範囲に若干ずれがあった。
嫁に行く、というのは婚姻だけに限らず、生活を一にする事実婚や親の許可を得て婚
礼を行ったときにも別なく使われている表現の、代表的なものだった。
王がただひとりの伴侶を冊立する。それを立后という。王とはすでに戸籍を持たない
ものであるため、戸籍の統一を意味する婚姻という語を、用いない。それゆえか、通常
はあまり、嫁すとも言わないようだ。だが、いわゆる寵妃が後宮内に住居を賜った場合
は、宮城内に常住する職員らと同様に、国府にある里祠にその戸籍を移すのに異なって、
王后だけは、西宮に戸籍を移動させられる。西宮には王の里木(路木)がある、という
のが、その根拠であるらしい。
驍宗は、これから行われる李斎の戸籍の移動を、簡単に説明した。
李斎の戸籍は立后の儀式を待たず、瑞州内の所領から西宮へ移される。移動にあたっ
ては必ず理由が記載されるものだが、「立后」は本来、戸籍と無関係な用語のため使わ
れずに、――驍宗も初めて知ったことであったが――「神籍取得により除籍せらる者の
配偶者と成るに依り」と記された上、空欄である配偶者の欄に、王の本姓本名が入れら
れる。
地官でも知る者の少ない、戸籍法上の不思議のひとつであろう。即位後の立后とは、
手続きの上では死者との婚姻に限りなく近い。だが李斎はその、取り方によっては不吉
とも思える扱いを、むしろ、なにかふさわしいもののように感じ、厳粛な気持ちで受け
止めた。
このひとに、嫁ぐのだ。
李斎は、いまだ実感はないまま、そのことだけを確信してしまった自分をぼんやりと
思った。
誰かに嫁す日が来ようなど、思っていなかった。幼い時分は、母親の小言に辟易しつ
つも子供らしく不安になり、できることなら姉たちのようになれはすまいかと、どこか
にその願望があったようだが、大きくなるにつれ、忘れてしまった。
まして驍宗に嫁ぐなどとは…。
「いつから、李斎をご覧であったのでしょうか」
李斎の問いに、驍宗はこともなげに即答した。
「最初からだ」
「はぁ」
最初といえば、蓬山。一月以上も黄海を旅した後で、普段よりずっと日焼けしていた。
化粧せぬ顔に垂らした髪をかいやって、男物の普段着を着ていた自分しか思い出せない。
どうも納得がいかぬ顔の李斎に、驍宗は意地悪く尋ねる。
「李斎はどうだ」
「はい?」
「いつ私がそなたにとって男になったか、当ててみせようか」
「……え」
「どうせ、昨日だろう」
驍宗は愉快そうに言い、李斎は否定もできず、困って視線を外すと、わずかに肩口を
すぼめた。そのしぐさ自体は以前と変わらぬものなのに、どこかしとやかに女びている。
驍宗はそのような様子を、楽しく眺めた。
申し込んで一夜で、李斎は驍宗に恥じらいを見せるようになった。それがどうやら意
識もせず、そうなってしまうらしい。時おり多少は自覚するのか、とまどっているのも
いじらしく、驍宗の笑みは深まる。
昨日までの将軍が、己の伴侶となる婦人となって、そこに座っている。
「なにか?」
「いや、」
微笑んだまま首を振った。
驍宗は立ち上がり、路亭の欄干(てすり)に歩むと、
「来たようだぞ」
と、李斎を差し招いた。李斎が席を立つ。
二人で明るい庭園を見やれば、下官に導かれて、泰麒の細い姿が、滝壷の向こう側を
回ってくるのが見えた。
「あれが、どのような顔をするかな」
「それは…驚かれましょう」
報告するのが、少しばかり気恥ずかしく思われた。
「そうだな。さぞ驚くだろう」
驚いて、そしてきっと喜ぶだろう。驍宗は頷き、まぶしい光を受けて少し目を細めた。
李斎は、その驍宗の片頬と首筋のおくれ毛を見ている自分に気づくと、急いで視線を
庭に戻したが、瞬き、誰にも知られぬようそっと、上げた手で胸を押さえてみた。
内輪の慶事を明日に控えて、すっかりさびれていたこの戴の国の王宮は、控えめな喜
びをそこここに溢れさせ、祝意の暖かな空気の中で夜を迎えていた。
当直の官たちは、いつもは控えている府第の雪洞(ぼんぼり)を申し合わせたように
今日は全て灯した。燕朝を行く官吏たちは皆どこか楽しげで、顔見知りに出会えば「お
めでとうございます」と小さな声を掛け合って、笑顔を交わす。
明日は、夜番の者にだけ祝い酒が出され、仙籍にない王宮の下働きの者たちには、夕
餉の膳に一品多く付くことになっている。白圭宮の職員へのふるまいはそれで全部であ
った。他はいつも通りで、何の変化もない。
それでも皆がこの喜びを分け合った。明日、戴に王后が立つ。
唯一の賓客は、全く酒を嗜まないため、会食が済むと早々と掌客殿に――荒れ放題の
庭を抱えた本来の掌客殿ではなく、代りに用意された正寝の園林に臨む一角に――引き
取って行った。
夜半にこの主を追って到着するという景台輔への挨拶と宿舎への案内は、台輔の蒿里
と大司寇の花影に任せて、驍宗も自分の居室に引き取った。
夜着に着替え、しばらく書を見た後、驍宗は手もとの灯りを吹き消した。露台に出る
玻璃窓から月光が射し入り、床に長く窓枠の影を伸ばす。それを見やっていた驍宗は、
一度横になった臥台から滑り下りた。
露台には先客があった。驍宗の気配に振り返り、目を見開いた後、叩頭しようとして
思いとどまる。
「眠れぬのか」
聞くと、はい、と李斎は答えた。
「よい月でございます」
うむ、と驍宗は頷いた。外に出るとまるで昼間のように明るい。
「私もこの月に誘われた」
李斎を見つめて、驍宗はふと笑んだ。化粧をせぬ方がやはり李斎らしい、と思ったが
口にはしなかった。かわりに、少しは慣れたか、と聞く。李斎は困ったように首を傾け
た。
「中々、后妃らしくとは難しゅうございます。何しろ根が無骨者でございますから」
李斎はつとめて快活に笑み、肩を竦めた。后妃としての振る舞いを要求されることに
もまして、后妃として自分に何が出来るだろうかという悩みは、驍宗に相談する事では
ないような気がする。王から望まれることを王后が果たすのは、いわば当然の事、后妃
独自の果たすべき責とは、それとはどうも別なように思われる…。
「女官長は、口やかましかろう」
突然言われて、一心に考え込んでいた李斎はとっさに本音を出してしまった。
「はい。…あ、いえ」
急いで首を振る李斎に、驍宗は可笑しそうに言う。
「あの小言婆、よくぞ生き残っていてくれたものだ。融通のきかなさは天下一品、宮中
礼法の生き字引だ」
李斎は意外な言に、目を丸くした。
「ご存知の官だったのですか」
「無論だ。蓬山から帰って即位礼までに、何度口論したか覚えぬ。一挙手一投足注意さ
れるので頭にきて、つい怒鳴り上げたこともある」
「主上が、でございますか」
驍宗は頷いた。
「私が凄んで平気な者など、夏官でもそうはおらぬのに、あの女官長ときては眉ひとつ
動かさぬ。あまりに口うるさいゆえ、あるとき剣にちらと目をやったら、私を斬っても
礼式はなくならぬ、ときた。天晴れな女だぞ」
「そうでしたか…」
煙たいが清廉で、天官に珍しく裏表のない性格の官だとは、多くの部下を見てきた李
斎にもこの数日で分っていた。驍宗が、自身の経験で彼女をつけてくれたのだと知り、
李斎は嬉しかった。
「少し辛抱しろ。あれに教われば、そなたならば驚くほど短期で、ひととおりは后妃と
しての素養がつこう」
李斎ははい、と笑んで頷いた。私心のない教育係とはああいうものだろう。憎まれる
ほどに厳しくやかましく締め付けでもせねば、一通り育ち上がった大人など、そうそう
変わるものではないのだ…。
潮を含んだ緩やかな風に、白い夜着の袖がふくらんだ。右袖が翻りそうになるのを押
さえようとした左腕より早く、驍宗の腕が右袖を掴んでいた。
李斎は目を見開いた。
短いくちづけだった。驍宗は李斎を抱き寄せた腕をゆるめて、笑顔を向ける。
「我慢が過ぎて、もう限界だぞ。よくもここまで辛抱させたな。さすがは李斎だ」
李斎は状況を忘れ、ぽかんと驍宗を見上げた。
「…我慢しておられたのですか?」
驍宗は顔をしかめた。
「せぬ訳があるまい。承知してくれた女が目の前にいるのだぞ」
はぁ、と李斎はこの数日来、もう何度目になるか知れない、やや間伸びした声を出し
た。
「李斎の胸は大きいな」
唐突に言われ、李斎は瞬いた。そして頷く、
「それは、女でございますから」
それから驍宗の右手をしげしげと見る。
「なんだ?」
「いえ…主上でも女の胸など触られるのですね」
驍宗は置いた手をそのままに眉をわずか上げると、首を傾け、それから頷く。
「…男だからな」
はぁ、とまた李斎は呟いた。驍宗は楽しげな笑い声を上げた。
「好きな女の胸は勿論、触りたいとも」
おおらかに言うと、左胸に置いた手を放し、両の腕を回した。
「抵抗せぬのか」
李斎がしません、と答えると、驍宗は少しばかり人の悪げな顔をした。
「それは、大した進歩だ。求婚した日は、哀れをもよおすほどの怯え様だったが」
李斎は驍宗の胸に頭を凭せたままで言った。
「それで帰して下さったのですか」
「ついうかうかとな」
驍宗は思い出して苦笑した。警戒されるのが嫌で、もの慣れない花嫁が不憫で、つい
華燭まで待つなどと大見得きった。あげくこのざまである。
「何度も、あのとき帰して下さらなければ良かったのになどと思いました」
驍宗は眉を開いた。
「本当か」
李斎は小さく頷いた。主上は平気なのだと思っていた。正寝に上がって、驍宗が側へ
来るたび緊張する自分が馬鹿げて愚かに思えて、最後は悲しかった。
驍宗は幸福に溢れて微笑し、李斎を見た。
「部屋へ、行くか」
もう答えは分っている。
まさに頷こうとしたその瞬間、李斎の動きが止った。
あ、と小さく声を上げる。
「どうした」
驍宗が怪訝な表情で聞く。李斎は思いつめた顔を上げた。
「女官に言ってしまいました」
「何」
「明日まで主上のお渡りはない、と」
驍宗は目を瞬いた。そして口を開けると、息を吐いた。
「それは…まずいな」
「はい…」
李斎はほとんど泣きそうな顔をした。
驍宗は手を放した。
「どうでも、明日までは縁がないらしい」
驍宗は笑った。もう笑うよりない。李斎は恐縮し、ただ身を縮めるばかりであった。
露台は雲海に張り出ており、透き通った夜の水面に縮緬の波がよせる。今宵の月は清
かであった。
「――片腕貰うてまだ足りぬ、か…」
驍宗はぽつりと呟いた。え、と李斎が聞き返す。
「先ほどの会見で、そなたが来る前に、景女王が申されたことがある」
「景王が、何を」
「李斎は大事な友人ゆえ、必ず幸福にすると約束してくれ、と」
李斎は驚いて目を見開いた。驍宗は続けた。
「――できぬ、とお答え申し上げた」
驍宗は李斎を見ていた。彼女は驍宗の顔をしばし見つめた後、ゆっくり瞬くとやや目
を伏せて微笑した。小さく頷き、それから目を上げる。驍宗はそんな李斎に幽かな笑み
を返した。
彼は雲海を振り返った。月の影がその汀まで、白白と銀の道を示す。
ややあって驍宗は言った。
「天命尽きるまで、供を命じる…」
許せ、とは驍宗は言葉にしなかった。
「はい」
と、静かに李斎は答えた。