驍宗は今回、李斎を後宮ではなく正寝に迎えたことで、官にどれほど負担をかけたか
を、よく承知している。それでも、彼にとって譲れない一事であれば、あえて通した。
それでここしばらく、極力天官への改革の手も控えておとなしくしていた。いずれは、
天官府も大きく整理し、さまざまに改革せねば立ち行かぬだろう、と驍宗は考えている。
少なくとも、王の私的生活に関わる官は、どう考えても多すぎるのだ。それに、信の問
題もあった。信で選ぶなら、ほとんどの官を残せない実情を、驍宗は分かっている。
――阿選と折り合いをつけて生き延びた官の全てが、あの女官長のように生きたわけ
ではない…。
――――――――――――――――
女官長が処刑されなかったのは、ひとえに、彼女があの阿選に対してさえも、一貫し
た天官の立場を徹(とお)したがためだった。
内殿に居座り、やがて臆面もなく正寝に乗り込み、王の部屋で寝起きするようになっ
た阿選に、当時正寝の官としてとどまっていた彼女は、直ちに宮中作法の遵守を説いた
という。
王でないゆえ軽んじてかくも無礼な口をきくかと、気色ばんだ阿選に対し、彼女は言
い放った。
あなたが誰であろうと関係はない。ここは正寝である。小官のただいまの役目は、正
寝の主の教育である。正寝で主として起居される以上は、相応のことを申すし、相応の
ふるまいをしていただく。それは誰であろうと、絶対に変わらない。と。
阿選は怒りを和らげた。
驍宗にも、そのような口をきいたと言うか。
問う阿選に、女官長は毅然と答えた。
先王にも、先々王にも。あなた様がここに住まうと仰るならば、あなた様にも。
命は惜しくないか。
成敗を恐れては、小官の職は勤(つと)まりませぬ。
実はこのとき、女官長は死んでいいと思っていた。阿選は驍宗を慕うものを決して許
さなかった。もっとも、彼女の考える天官とは、王に個人的な感情をもつべきではなか
った。実際のところ彼女は、たった数月余ではあったが、たいそう手を焼かせた、あの
禁軍上がりのやんちゃな主君を、嫌いではなかった。が、そもそも好き嫌いを思うこと
自体、天官の資質に欠けるものだともいえる。仕える対象の人格がどうであろうと感情
にかられず態度を変えぬことこそが、天官の本分である。そして彼女は、筋金入りの天
官であった。
それゆえ、天官として死のうと思ったに過ぎなかった。それが、己自身の負い目と引
け目で、卑屈なほどに疑心暗鬼にかられる当時の阿選の気に障らず、以後彼女の指導に
従わせることになったのは、あくまでも結果でしかない。
阿選は身の安全に必要な数以上は、天官に彼の幻術を施すことをしなかった。大多数
をあえて洗脳せずにおき、息のかかった者に監視させた。そうしておいて自分にわずか
でも叛意ある者、逃亡しようとする者を、抹殺していったのだ。
言葉にも態度にも、驍宗を懐かしみ阿選を厭う様子など毛ほどもみせなかった彼女を、
阿選は、信用したわけではなかった。殺す機会が、たまたまなかった。
驍宗が彼の王宮に戻ったとき、天官の多くが泣いて出迎えた。その涙には残念ながら、
阿選に仕えたことへの温情を乞う保身が含まれていた。阿選の疑いから身を守り、助か
った者たちは、今度は驍宗の追及に怯えていた。驍宗は、その処分を現在に至るまで保
留している。彼にしても、七年恐怖の中で永らえた彼らを不憫とは思え、もはや手放し
で信に足ると考えるわけにはいかなかった。
そんな中、昔と変わらぬ顔で伺候した女官長が、昔と変わらぬ態度で、最初の苦言を
呈したときに、驍宗は問うている。
阿選も教育してやったか。
女官長は答えた。
もちろんでございます。
そうか、と答えが返った。それきり、驍宗は女官長が部屋を去るまで何も言わなかっ
た。
女官長は、このときもやはり、目の前の男から死を賜る覚悟で上殿したのだった。
彼女は退室の際、伏礼した後、立とうとしなかった。
どうした、行ってよいぞ、と声がかかると、畏れながら、と口を開いた。
偽王に仕えたこの身へのご処分、如何ようにも受ける覚悟は出来てございます。なに
とぞお命じ下さいますよう。
驍宗は答えた。
お前は、仕事をしただけだ。
はっと女官長は顔を上げた。
違うのか。
言葉のない女官長に、驍宗はいま思い出したような調子で告げた。
なにかしてくれるというなら、ひとつ、貴官に命じたい仕事があった。
驍宗は穏やかに続けた。
近々、后妃を迎える。その教育を頼みたい。
黙っている女官長に重ねて言った。
引き受けてくれような。
このとき、女官長の変わる事のない表情が歪んだ。
つつしみまして。
その声は少しかすれていた。すぐに下げた面(おもて)から床に、はたと雫が落ちた
のを、驍宗が見る事ができたかどうかは分からない。
この女官吏が、宮中で泣いたのは、生涯にこれ一度であった。
(了)
を、よく承知している。それでも、彼にとって譲れない一事であれば、あえて通した。
それでここしばらく、極力天官への改革の手も控えておとなしくしていた。いずれは、
天官府も大きく整理し、さまざまに改革せねば立ち行かぬだろう、と驍宗は考えている。
少なくとも、王の私的生活に関わる官は、どう考えても多すぎるのだ。それに、信の問
題もあった。信で選ぶなら、ほとんどの官を残せない実情を、驍宗は分かっている。
――阿選と折り合いをつけて生き延びた官の全てが、あの女官長のように生きたわけ
ではない…。
――――――――――――――――
女官長が処刑されなかったのは、ひとえに、彼女があの阿選に対してさえも、一貫し
た天官の立場を徹(とお)したがためだった。
内殿に居座り、やがて臆面もなく正寝に乗り込み、王の部屋で寝起きするようになっ
た阿選に、当時正寝の官としてとどまっていた彼女は、直ちに宮中作法の遵守を説いた
という。
王でないゆえ軽んじてかくも無礼な口をきくかと、気色ばんだ阿選に対し、彼女は言
い放った。
あなたが誰であろうと関係はない。ここは正寝である。小官のただいまの役目は、正
寝の主の教育である。正寝で主として起居される以上は、相応のことを申すし、相応の
ふるまいをしていただく。それは誰であろうと、絶対に変わらない。と。
阿選は怒りを和らげた。
驍宗にも、そのような口をきいたと言うか。
問う阿選に、女官長は毅然と答えた。
先王にも、先々王にも。あなた様がここに住まうと仰るならば、あなた様にも。
命は惜しくないか。
成敗を恐れては、小官の職は勤(つと)まりませぬ。
実はこのとき、女官長は死んでいいと思っていた。阿選は驍宗を慕うものを決して許
さなかった。もっとも、彼女の考える天官とは、王に個人的な感情をもつべきではなか
った。実際のところ彼女は、たった数月余ではあったが、たいそう手を焼かせた、あの
禁軍上がりのやんちゃな主君を、嫌いではなかった。が、そもそも好き嫌いを思うこと
自体、天官の資質に欠けるものだともいえる。仕える対象の人格がどうであろうと感情
にかられず態度を変えぬことこそが、天官の本分である。そして彼女は、筋金入りの天
官であった。
それゆえ、天官として死のうと思ったに過ぎなかった。それが、己自身の負い目と引
け目で、卑屈なほどに疑心暗鬼にかられる当時の阿選の気に障らず、以後彼女の指導に
従わせることになったのは、あくまでも結果でしかない。
阿選は身の安全に必要な数以上は、天官に彼の幻術を施すことをしなかった。大多数
をあえて洗脳せずにおき、息のかかった者に監視させた。そうしておいて自分にわずか
でも叛意ある者、逃亡しようとする者を、抹殺していったのだ。
言葉にも態度にも、驍宗を懐かしみ阿選を厭う様子など毛ほどもみせなかった彼女を、
阿選は、信用したわけではなかった。殺す機会が、たまたまなかった。
驍宗が彼の王宮に戻ったとき、天官の多くが泣いて出迎えた。その涙には残念ながら、
阿選に仕えたことへの温情を乞う保身が含まれていた。阿選の疑いから身を守り、助か
った者たちは、今度は驍宗の追及に怯えていた。驍宗は、その処分を現在に至るまで保
留している。彼にしても、七年恐怖の中で永らえた彼らを不憫とは思え、もはや手放し
で信に足ると考えるわけにはいかなかった。
そんな中、昔と変わらぬ顔で伺候した女官長が、昔と変わらぬ態度で、最初の苦言を
呈したときに、驍宗は問うている。
阿選も教育してやったか。
女官長は答えた。
もちろんでございます。
そうか、と答えが返った。それきり、驍宗は女官長が部屋を去るまで何も言わなかっ
た。
女官長は、このときもやはり、目の前の男から死を賜る覚悟で上殿したのだった。
彼女は退室の際、伏礼した後、立とうとしなかった。
どうした、行ってよいぞ、と声がかかると、畏れながら、と口を開いた。
偽王に仕えたこの身へのご処分、如何ようにも受ける覚悟は出来てございます。なに
とぞお命じ下さいますよう。
驍宗は答えた。
お前は、仕事をしただけだ。
はっと女官長は顔を上げた。
違うのか。
言葉のない女官長に、驍宗はいま思い出したような調子で告げた。
なにかしてくれるというなら、ひとつ、貴官に命じたい仕事があった。
驍宗は穏やかに続けた。
近々、后妃を迎える。その教育を頼みたい。
黙っている女官長に重ねて言った。
引き受けてくれような。
このとき、女官長の変わる事のない表情が歪んだ。
つつしみまして。
その声は少しかすれていた。すぐに下げた面(おもて)から床に、はたと雫が落ちた
のを、驍宗が見る事ができたかどうかは分からない。
この女官吏が、宮中で泣いたのは、生涯にこれ一度であった。
(了)
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驍宗が寝息を立てはじめると、暗い中で李斎はそろりと目を開いた。
実は、妻の顔をのぞきこむためについていた腕を、あきらめて驍宗が外したときに、
その反動で目が覚めていた。
そのままじっとしていたら、明かりが消された。いつものようにいらっしゃるかとも
思ったけれど、驍宗はそのまま横になった。一度、かすかに息を吐いたような音が聞こ
えてきたが、すぐに眠ってしまった。
「……」
よかった、と李斎は心でつぶやいた。別に御用をさぼりたかったのではない。今日は
驍宗を少しでも長く休ませたかった。
この一日を、驍宗がどんなに精力的に歩いて回ったか、李斎には想像ができた。冬を
迎え、これから春まで、民の暮らしは文字通り、生死をかけた正念場を迎えるのだ。
休憩もろくにとらず、食事もそこそこに、係官を急かしては足を伸ばし問うて回るお
姿が見えるようだ、と、先ほど指をお揉みしながら思ったものだ。
どれほどお辛いことだろうか。と思う。
七年前とて豊かだったわけではなかった。それでも当時に比べて、この冬、国が民に
施せることは、あまりに少なかった。あまりに土地は痩せ、あまりに民は痩せている。
だが驍宗は愚痴を言わない。無論、振り返ったりなどはしない。そして、現実を受け
止め、それに耐える。昔のようには、表情も変えぬし、言葉も少ない。変わらないのは
覇気だった。その覇気で驍宗は、なによりも己と戦っているのだと、李斎には思われる。
たったひとりで全てを背負う。王であるとはそういうことだ。その現実が、いかに計
り知れないものなのか、玉座にある者の生活を、他人に見えない背後から眺める立場に
なった李斎は、日増しに実感していた。
そしてそれを負っているのは、怪物でもなければ、超人でもない、まして無感覚な神
ではない。
寒い中を一日歩けば、足の指先が固くなる。ほぐしてやると気持ちよさそうに寝てし
まう。いまもすぐ後ろに感じる、規則正しい呼吸。そして血の通った温かい体。
彼女の夫は、ひとであった。
耳を澄まして聞いているうち、その安らかな呼吸が嬉しく思え、李斎はかすかな息を
つき、闇をすかして、見えぬ牀榻の天井を眺めた。
こうして、いっしょに休んでいるって、いいものだ…。
小さな頃から、冬は姉たちとくっついて眠っていた李斎である。例の冬には、二三度
ではあったが、親友と互いの官邸を行き来した折に、おしゃべりしながら眠ったことも
ある。だが、どれとも違う。夫の側にこうして眠るというのは、何かとても…、
――李斎と寝むと、朝が暖かいな。
ふいに、驍宗の言葉を思い出し、李斎は声を聞いたように驚いて、瞬いた。
「………」
どうして当たり前のことを、と思った。しみじみと、何度も言うほどの事とは思えな
かった。
あれはこういうことを仰っておられたのだろうか。主上も私とお休みになられて、こ
のような気持ちに、なられたりするのだろうか。
李斎は胸を押さえた。自分の考えに、なんだかぼぅっとしてきた。
無性に、背後の夫の顔が見たくなった。寒いようなら、足を温めて差し上げたかった。
だが振り返ってのぞきこんだりすれば、お起こししてしまうかもしれない。今日はやっ
ぱり、このまま朝まで寝かせたい。
李斎は、がまんして、目を閉じた。
ふっと、冷えが緩んだような気がした。まだ二人の体温が牀榻を温めるには、だいぶ
間がある。だが確かに空気が、いま変わった。李斎は枕をそばだてた。いつのまにか風
の音も少し弱まっている。
―――雪だ。李斎は胸のうちでひとりごちた。
雪が、降り出すのだ。
間違いない。雪の匂いがしていたもの。それは、しかとは言えないが、子供の時分か
ら知っている、なにか感覚的な空気の変化だ。
きっと、積もる。夜の初雪は、一晩で、庭を染めるものだから。
…明日の朝、あの林の樹々もすっかり白くなっていようか。園林の奥を李斎は思った。
夜が明けたら、主上をお誘いして、庭に降りてみようか。意外と寒がりでいらっしゃ
るから、いやだとおっしゃるかもしれない。もしも、――二人で見に行けば暖かろう、
などと、申し上げてみたなら、いったい、どんなお顔をなさるのだろう……
李斎は心楽しく瞼を閉じた。閉じながら、唇に笑みが浮かんだ。
眠りがふわりと落ちてくる。聞こえてくる夫の寝息、雪の気配、手を伸ばすところに
ある、確かな体温。
夢の中で、庭柯(にわのじゅもく)は、銀色に輝いていた。
(了)
実は、妻の顔をのぞきこむためについていた腕を、あきらめて驍宗が外したときに、
その反動で目が覚めていた。
そのままじっとしていたら、明かりが消された。いつものようにいらっしゃるかとも
思ったけれど、驍宗はそのまま横になった。一度、かすかに息を吐いたような音が聞こ
えてきたが、すぐに眠ってしまった。
「……」
よかった、と李斎は心でつぶやいた。別に御用をさぼりたかったのではない。今日は
驍宗を少しでも長く休ませたかった。
この一日を、驍宗がどんなに精力的に歩いて回ったか、李斎には想像ができた。冬を
迎え、これから春まで、民の暮らしは文字通り、生死をかけた正念場を迎えるのだ。
休憩もろくにとらず、食事もそこそこに、係官を急かしては足を伸ばし問うて回るお
姿が見えるようだ、と、先ほど指をお揉みしながら思ったものだ。
どれほどお辛いことだろうか。と思う。
七年前とて豊かだったわけではなかった。それでも当時に比べて、この冬、国が民に
施せることは、あまりに少なかった。あまりに土地は痩せ、あまりに民は痩せている。
だが驍宗は愚痴を言わない。無論、振り返ったりなどはしない。そして、現実を受け
止め、それに耐える。昔のようには、表情も変えぬし、言葉も少ない。変わらないのは
覇気だった。その覇気で驍宗は、なによりも己と戦っているのだと、李斎には思われる。
たったひとりで全てを背負う。王であるとはそういうことだ。その現実が、いかに計
り知れないものなのか、玉座にある者の生活を、他人に見えない背後から眺める立場に
なった李斎は、日増しに実感していた。
そしてそれを負っているのは、怪物でもなければ、超人でもない、まして無感覚な神
ではない。
寒い中を一日歩けば、足の指先が固くなる。ほぐしてやると気持ちよさそうに寝てし
まう。いまもすぐ後ろに感じる、規則正しい呼吸。そして血の通った温かい体。
彼女の夫は、ひとであった。
耳を澄まして聞いているうち、その安らかな呼吸が嬉しく思え、李斎はかすかな息を
つき、闇をすかして、見えぬ牀榻の天井を眺めた。
こうして、いっしょに休んでいるって、いいものだ…。
小さな頃から、冬は姉たちとくっついて眠っていた李斎である。例の冬には、二三度
ではあったが、親友と互いの官邸を行き来した折に、おしゃべりしながら眠ったことも
ある。だが、どれとも違う。夫の側にこうして眠るというのは、何かとても…、
――李斎と寝むと、朝が暖かいな。
ふいに、驍宗の言葉を思い出し、李斎は声を聞いたように驚いて、瞬いた。
「………」
どうして当たり前のことを、と思った。しみじみと、何度も言うほどの事とは思えな
かった。
あれはこういうことを仰っておられたのだろうか。主上も私とお休みになられて、こ
のような気持ちに、なられたりするのだろうか。
李斎は胸を押さえた。自分の考えに、なんだかぼぅっとしてきた。
無性に、背後の夫の顔が見たくなった。寒いようなら、足を温めて差し上げたかった。
だが振り返ってのぞきこんだりすれば、お起こししてしまうかもしれない。今日はやっ
ぱり、このまま朝まで寝かせたい。
李斎は、がまんして、目を閉じた。
ふっと、冷えが緩んだような気がした。まだ二人の体温が牀榻を温めるには、だいぶ
間がある。だが確かに空気が、いま変わった。李斎は枕をそばだてた。いつのまにか風
の音も少し弱まっている。
―――雪だ。李斎は胸のうちでひとりごちた。
雪が、降り出すのだ。
間違いない。雪の匂いがしていたもの。それは、しかとは言えないが、子供の時分か
ら知っている、なにか感覚的な空気の変化だ。
きっと、積もる。夜の初雪は、一晩で、庭を染めるものだから。
…明日の朝、あの林の樹々もすっかり白くなっていようか。園林の奥を李斎は思った。
夜が明けたら、主上をお誘いして、庭に降りてみようか。意外と寒がりでいらっしゃ
るから、いやだとおっしゃるかもしれない。もしも、――二人で見に行けば暖かろう、
などと、申し上げてみたなら、いったい、どんなお顔をなさるのだろう……
李斎は心楽しく瞼を閉じた。閉じながら、唇に笑みが浮かんだ。
眠りがふわりと落ちてくる。聞こえてくる夫の寝息、雪の気配、手を伸ばすところに
ある、確かな体温。
夢の中で、庭柯(にわのじゅもく)は、銀色に輝いていた。
(了)
風が、鳴っていた。すでに夜も遅い。
李斎はちらと夫の様子を見、それから、見ていた冊子を閉じた。
どうも、なかなかお起きになるふうではない。
こういうことは初めてなので、どうしたものか、と思案してみる。李斎は首を傾けた。
本人は意識していないが、驍宗が起きて見ていたなら、頬がゆるんだに違いないほど、
可愛らしい傾げ方になった。
このままお休みになるということでよいのだろうか。私が灯りを消してもよいだろう
か。
李斎はまた首を傾けた。夜着の肩を、艶のある重い髪が滑った。
お目覚めになるのをお待ち申し上げるにしても、この時間だし、寒いから、蒲団を着
て温もっていたら、眠ってしまうかもしれない。眠るだろう…。
――いいや。御用がおありなら、お起こしになられるだろうから。
このようにあれこれ忙しく考えをめぐらせた後、書を帙に片付け、主上のお蒲団の具
合をもう一度見てから、后妃は自分の蒲団を肩までひっぱり上げると、しっかりと着込
んだ。
今夜は、本当に冷える。
驍宗は目を開いた。牀榻の灯りはついたままであった。
足指を揉んでもらううち、いつしか眠気がさしたようだ。驍宗は周囲を見た。十分に
広いとはいえ、驍宗が牀の丁度真ん中を占めていたので、いつもよりは少しばかり端近
に、李斎の背があった。
驍宗が寝入ったので、灯りをそのままにして、李斎も体を横にしたのだろう。様子か
らすると、眠っている。一瞬まどろんだくらいの気でいたが、それよりは長かったらし
い。揉ませるために出していた足が、蒲団に包まれて温もっていた。
驍宗は妻の様子を見るために、そっと体を起こし側に寄った。そのときに、視線が李
斎の向こうの、枕机の上に落ちた。小型の帙はきちんと閉じて置かれていたが、それを
李斎は自分が眠った後で、また読んでいたのだ、と驍宗は思った。
驍宗はかすかな寝息を立てている横顔を、見下ろした。掌が、その傍らに上を向いて
いる。
ゆっくりと、その手の近くに驍宗は己の腕をつき、そして軽く指先に触れた。
ぴく、とわずか手が動き、ほんの少し握るように閉じたが、また緩んだ。
驍宗は小さく笑んで、その軽く指を曲げた手を眺め、そしてまた顔に目をやった。
起こそうと思ったのだが、結局やめた。かわりにしばらく、寝顔を見ていた。
灯りの下で、これほどとくと妻の寝顔を見るなどは、初めてだった。
その顔は化粧していない。
昼間は、襦裾に不似合いでないほどの化粧を施されている李斎だが、華燭から数日は、
夜には更に艶やかに、眉や紅を引かれていた。驚くほどの美女ぶりだったが、李斎には
これが、大変に苦痛であるらしいと、すぐに驍宗は気がついた。驍宗にしても、確かに
美しいのではあるが、李斎を月並みの美人顔に拵えられることを、あまり嬉しく思えな
かった。なにより、夜具に紅を着けてしまうのを気にして、肩を出して寝むので、風邪
を引かせそうで案じられた。
とうとう三日目にして、素顔が好みであるゆえ夜は無用、と、驍宗から直接申し付け
たので、以後はもう、就寝前の化粧がなしになったのだった。
李斎は、頬を、掛蒲団の縁(へり)に、心置きなく埋めて眠っている。
元気さと、どこか往年のお転婆ぶりを伺わせる気質が多少、見受けられはしても、女
としては、容貌にも雰囲気にも、大人らしい柔らかな落ち着きを持っている李斎だが、
光の加減か、その寝顔は、むしろあどけない。
ふと見覚えがあることに気づいた。初めてではないのだ。ずっと昔に、この寝顔を自
分は見ている。
――私がいて、お眠りになれそうか?
ええ。――なぜです。
いや、と答えた。それきり黙った。蓬山の夏の午後。
よもや本当に眠るとは思わなかったのだが、しばらくすると驍宗がすぐ側にいるのに、
怪我人はいとも安らかに寝息を立て始めたのだった。
常に他人を緊張させる己であることを、驍宗は経験上知っている。去るために立ち上
がり、寝顔を顧みたときに、かつて覚えない心持ちがした。
明日下山という日、帰国後どうするかは、既に決めてあった。
翌日には永久に見失う相手であるのに、それがまるで他人でないかのように、思えた。
驍宗は首を傾け、静かに幕屋を後にした。様々な思いにある胸の内が、その寝顔ひと
つに暖められたように、ひどく穏やかになっていた。
その女が、いまは妻としてここにいる。
連日天官にしごかれて、不平を言うでもなく、熱心に勉強している。もともと男勝り
の性分である上に、武将としての動きが身についているのだが、いつのまにやら、ずい
ぶんとしとやかに振舞えるようにさえなっている…。
仕事を終えて、己は、この場所に帰ってくる。
終わりのない長い明日を、また迎えることを、かように喜ばしいと思える。
驍宗の顔に、穏やかな微笑があらわれた。
見飽きぬ寝顔から驍宗はようやく身を起こした。灯りを消して、自分の蒲団にもぐり
こむ。
ふぅっと息が漏れた。――やはり少し、つまらぬかな…。
だが、ほぐしてもらった指先から、眠りが気持ちよく這い登ってきた。驍宗は間もな
く、眠りに落ちた。
李斎はちらと夫の様子を見、それから、見ていた冊子を閉じた。
どうも、なかなかお起きになるふうではない。
こういうことは初めてなので、どうしたものか、と思案してみる。李斎は首を傾けた。
本人は意識していないが、驍宗が起きて見ていたなら、頬がゆるんだに違いないほど、
可愛らしい傾げ方になった。
このままお休みになるということでよいのだろうか。私が灯りを消してもよいだろう
か。
李斎はまた首を傾けた。夜着の肩を、艶のある重い髪が滑った。
お目覚めになるのをお待ち申し上げるにしても、この時間だし、寒いから、蒲団を着
て温もっていたら、眠ってしまうかもしれない。眠るだろう…。
――いいや。御用がおありなら、お起こしになられるだろうから。
このようにあれこれ忙しく考えをめぐらせた後、書を帙に片付け、主上のお蒲団の具
合をもう一度見てから、后妃は自分の蒲団を肩までひっぱり上げると、しっかりと着込
んだ。
今夜は、本当に冷える。
驍宗は目を開いた。牀榻の灯りはついたままであった。
足指を揉んでもらううち、いつしか眠気がさしたようだ。驍宗は周囲を見た。十分に
広いとはいえ、驍宗が牀の丁度真ん中を占めていたので、いつもよりは少しばかり端近
に、李斎の背があった。
驍宗が寝入ったので、灯りをそのままにして、李斎も体を横にしたのだろう。様子か
らすると、眠っている。一瞬まどろんだくらいの気でいたが、それよりは長かったらし
い。揉ませるために出していた足が、蒲団に包まれて温もっていた。
驍宗は妻の様子を見るために、そっと体を起こし側に寄った。そのときに、視線が李
斎の向こうの、枕机の上に落ちた。小型の帙はきちんと閉じて置かれていたが、それを
李斎は自分が眠った後で、また読んでいたのだ、と驍宗は思った。
驍宗はかすかな寝息を立てている横顔を、見下ろした。掌が、その傍らに上を向いて
いる。
ゆっくりと、その手の近くに驍宗は己の腕をつき、そして軽く指先に触れた。
ぴく、とわずか手が動き、ほんの少し握るように閉じたが、また緩んだ。
驍宗は小さく笑んで、その軽く指を曲げた手を眺め、そしてまた顔に目をやった。
起こそうと思ったのだが、結局やめた。かわりにしばらく、寝顔を見ていた。
灯りの下で、これほどとくと妻の寝顔を見るなどは、初めてだった。
その顔は化粧していない。
昼間は、襦裾に不似合いでないほどの化粧を施されている李斎だが、華燭から数日は、
夜には更に艶やかに、眉や紅を引かれていた。驚くほどの美女ぶりだったが、李斎には
これが、大変に苦痛であるらしいと、すぐに驍宗は気がついた。驍宗にしても、確かに
美しいのではあるが、李斎を月並みの美人顔に拵えられることを、あまり嬉しく思えな
かった。なにより、夜具に紅を着けてしまうのを気にして、肩を出して寝むので、風邪
を引かせそうで案じられた。
とうとう三日目にして、素顔が好みであるゆえ夜は無用、と、驍宗から直接申し付け
たので、以後はもう、就寝前の化粧がなしになったのだった。
李斎は、頬を、掛蒲団の縁(へり)に、心置きなく埋めて眠っている。
元気さと、どこか往年のお転婆ぶりを伺わせる気質が多少、見受けられはしても、女
としては、容貌にも雰囲気にも、大人らしい柔らかな落ち着きを持っている李斎だが、
光の加減か、その寝顔は、むしろあどけない。
ふと見覚えがあることに気づいた。初めてではないのだ。ずっと昔に、この寝顔を自
分は見ている。
――私がいて、お眠りになれそうか?
ええ。――なぜです。
いや、と答えた。それきり黙った。蓬山の夏の午後。
よもや本当に眠るとは思わなかったのだが、しばらくすると驍宗がすぐ側にいるのに、
怪我人はいとも安らかに寝息を立て始めたのだった。
常に他人を緊張させる己であることを、驍宗は経験上知っている。去るために立ち上
がり、寝顔を顧みたときに、かつて覚えない心持ちがした。
明日下山という日、帰国後どうするかは、既に決めてあった。
翌日には永久に見失う相手であるのに、それがまるで他人でないかのように、思えた。
驍宗は首を傾け、静かに幕屋を後にした。様々な思いにある胸の内が、その寝顔ひと
つに暖められたように、ひどく穏やかになっていた。
その女が、いまは妻としてここにいる。
連日天官にしごかれて、不平を言うでもなく、熱心に勉強している。もともと男勝り
の性分である上に、武将としての動きが身についているのだが、いつのまにやら、ずい
ぶんとしとやかに振舞えるようにさえなっている…。
仕事を終えて、己は、この場所に帰ってくる。
終わりのない長い明日を、また迎えることを、かように喜ばしいと思える。
驍宗の顔に、穏やかな微笑があらわれた。
見飽きぬ寝顔から驍宗はようやく身を起こした。灯りを消して、自分の蒲団にもぐり
こむ。
ふぅっと息が漏れた。――やはり少し、つまらぬかな…。
だが、ほぐしてもらった指先から、眠りが気持ちよく這い登ってきた。驍宗は間もな
く、眠りに落ちた。
雲海の底を、分厚い雪雲が覆っている。夜半にかかると、白圭宮でも、いよいよ天候
が荒れ始めた。雲が吹き寄せられ、星を隠した。風がひどくなり、窓がずっと鳴ってい
る。この冬一番の寒波が到来したようである。
下はとうとう、本格的に降り出したぞ――そう言いながら、外套と髪に雪の名残をつ
けて、寒そうに夫が戻ってきたのは、もう夜もだいぶ更けてからだった。
「珍しいな。条文ではないのか」
声をかけられるまで、気づかないくらい夢中で読んでいて、李斎は慌てて、くるまっ
ていた蒲団から起き上がり、座りなおした。湯殿から戻ってきた驍宗は、牀に腰掛ける
と、彼女がいま置いた冊子を手に取り、捲ってみた。
「――これは…」
「お勉強の、参考書です」
李斎がしかつめらしく答えた。そのわざとらしく真面目に言ったあとの顔つきが、と
ても愛嬌があり、なんとも可愛らしかったので、驍宗は笑って、李斎の方へ首を伸ばし
た。
李斎はちょっと瞬くが、逃げることはしない。
牀榻の中でなら、前触れなしにこういうことをしても、もう大丈夫になったのだ。も
っとも、同じことは部屋ではしてはならないと、驍宗は学んでいた。
一度、どのような話をしていたときだったか、そういう心持になったので、顔を寄せ
たことがあった。そのとき――驍宗にとってはあまり詳しく思い出したくないことだが、
――驍宗が迫るにつれて李斎は目を見開いたまま後ろに引いていき、そのままひっくり
返った。時ならぬ物音に女官長が部屋に駆け込んできたとき、部屋の真ん中でしりもち
を搗いた后妃と、呆然としながら助け起こす主上が、目撃されたのだった。
李斎にしてみれば、主上の行動として、意外すぎて恐慌しただけだったが、驍宗は以
後、女官の離席時であろうと室内では李斎に手出ししないように気をつけた。
このように多少、笑えるようなこともやってはいるが、それでも概ね夫婦の仲は順調
に進んでいる。
当初は、字を呼ばれるたび臣下の顔に立ち戻る李斎に、驍宗は考えた末、李斎殿、と
呼ぶようにしたものだ。もちろん睦言でだけだが、蓬山時代の呼び方をすることで、か
ろうじて同等の立場が二人の間に築かれるのか、李斎は不思議なほどすぐに柔らかな気
持ちになれた。
無論李斎の方にも驍宗殿、と呼ばせていたのだが、ある日李斎の方から、やはりあま
りにも不敬だと異議が出された。そうして、彼女が自分で考えて「あなた様」がこれに
かわることとなった。そうこうするうち、いつのまにか「李斎殿」からも卒業している。
また、華燭の夜もその次の夜も、王より先に褥を乱しては申し訳ないという考えから、
牀榻の床で待った李斎に、温まった寝床で温かい妻に待ってもらう方がよいと驍宗は説
き、それからはいつも、李斎は遠慮することなく堂々と先に蒲団を温めている。
ひとつひとつそうやって、小さな調整を重ねながら、二人は夫婦になりつつあった。
「さて」
と驍宗は李斎の方を見、座りなおして姿勢を正した。李斎は、本日は結構です、と遠
慮した。
「女官にさせたのか」
いいえ、と李斎は答える。
「では、来なさい。さぼると戻るぞ」
驍宗は機嫌よく、李斎を招いた。
「お疲れですのに…申し訳ありません」
「なんの」
驍宗は位置をとり、李斎の姿勢の安定を確かめてから、腕を支えた。
「はじめるぞ。右からだ」
「はい」
「一、二、三、……」
毎晩、驍宗はこうして、李斎の柔軟と筋力を高める体操を手伝っている。
本当を言えば李斎は、今日は女官に頼もうと思ったのだ。だが、いつぞや官との夜の
仕事が長引いた折、女官にかわりをさせたら、それを聞いて驍宗が、大層不機嫌な顔を
したのを思い出したので、やめておいた。驍宗はどんなに遅くなっても、自分でやりた
がる。楽しみなのだ、と言っていた。実際楽しそうにして下さるので、勿体ないことだ
とは思いつつ、李斎も嬉しい。
ひとしきり、筋を伸縮させる運動を両肩の周りにした後、瞬発力を高める運動に移る。
「よし…、――いま少し、力が入らぬか」
「…――、」
「あと五拍っ。辛抱せい」
一、二…と驍宗が等間隔に数をとる間、その支える驍宗の掌に向けて、李斎は背筋を
伸ばしたまま、全力で右肩の力をかける。これは支え手の方にかなりの力が必要なため、
腕力の勝る驍宗でなければ、十分にはさせられなかった。湯殿ではいつも、女官に両腕
を使ってしてもらうが、それでも、このように揺るがず支えるということは、女の力で
は無理である。
「…五!」
はぁつ、と、李斎が、大きく息を吐き出す。額には薄く汗が浮いている。
驍宗も力を抜いて、笑顔になった。
「ずいぶんと、強くなったな」
「はいっ。おかげさまで」
李斎もにこにこする。
神経と骨が断裂した部位を維持させるのは、たとえ仙であっても難しい。わずかずつ
だがそれが回復し、こうして評価してもらえると、意欲も増すし、なにより嬉しくてた
まらない。
筋肉を緩めるための終わりの体操を行いながら、李斎は驍宗に、思いがけず馬に乗ら
れるようになったことを報告した。ほう、と驍宗も驚く。
「姿勢がよくなったと褒めてもらいまして、とても嬉しゅうございました」
これを聞き、驍宗がちょっと表情を止めた。女官長はもともと、登極時に、新王驍宗
の教育にあたっていた官である。
「私は褒めてもろうたことなぞ、ないぞ」
「まぁ…」
と、李斎は夫の顔を見つめた。別に、女官長が驍宗を褒めたことがない、という事実
に驚いたわけではない。
「あやつめ。李斎のことは褒めて、そのように褒美まで出すとは」
「……」
けしからぬ、とぶつぶつ言う驍宗に李斎は瞬いた。まさかと思ったが、驍宗は拗ねた
のだ。
「なんだ」
「いえ…」
李斎は笑いをかみ殺した。こんな子供っぽいところがおありなんて。驍宗は首を傾け
た。自覚はないのだ。
「…あ。でも、体操のことは、ばれておりましたよ」
「ほう。そうか」
李斎は頷いた。
「湯殿はそのうち知れると思っておりましたが、朝の散歩で、ひとりでやっていたのも、
言い当てられてしまいました。もう内緒なのは、この夜の分だけです」
「それはどうかな」
多分知っておるだろう、と驍宗が笑う。李斎はそうでしょうか、と首を傾けた。
「牀榻の内のことだから、言わなかっただけだろう。小言先生一流の、お目こぼしだ」
李斎も、そうかもしれない、と思った。
今朝の出掛けるときのやりとりも、女官長は叱らなかった。挨拶詞として不適当であ
ったのだが、その自覚は李斎にあったし、今日の場合は驍宗が同じほどの音声で返し、
単なる「夫婦間の会話」にしてしまったから、注意する要がなくなったのである。
小言婆、などと驍宗が綽名(あだな)している女官長だが、しかし彼女は必要なく叱
ることは決してなかった。
よい官を、つけて下さった。李斎は心の中で、夫に改めて感謝する。
「足を、お出しあそばされませ」
李斎が言い出し、驍宗は首を傾けた。
「なに」
「――足の指を、お揉みいたしましょう」
「…よい気持だ」
ううむ、と驍宗は深い息を吐いた。
妻の申し出に、笑ってさせてみた驍宗だが、これがなかなかに、具合が良い。
「うまいものだな。どこで覚えたのだ」
膝の上にのせた右の足指を丁寧に揉みながら、李斎はちょっと笑んだ。
「実家でございます」
「お父上に、して差し上げたか」
「はい…」
そうかと答え、驍宗は目を閉じた。李斎はそれ以上を言わなかった。もともとは母が
していたことである。小さい姉妹が順にそれを見覚え、争って父の周囲に群がっていた。
やがて子らは大きくなり、最後の李斎も家を出た。そうして、母がまた父の足の指を揉
んだだろう……
嫁いで以来、毎日のように彼らを思い出している。とっさに出てくるのがいつも、忘
れたと思っていた、昔の父と母の姿であった。どこかに「夫婦」のありようとして、自
分の両親が存在していたことに、李斎ははじめて気づいている。
が荒れ始めた。雲が吹き寄せられ、星を隠した。風がひどくなり、窓がずっと鳴ってい
る。この冬一番の寒波が到来したようである。
下はとうとう、本格的に降り出したぞ――そう言いながら、外套と髪に雪の名残をつ
けて、寒そうに夫が戻ってきたのは、もう夜もだいぶ更けてからだった。
「珍しいな。条文ではないのか」
声をかけられるまで、気づかないくらい夢中で読んでいて、李斎は慌てて、くるまっ
ていた蒲団から起き上がり、座りなおした。湯殿から戻ってきた驍宗は、牀に腰掛ける
と、彼女がいま置いた冊子を手に取り、捲ってみた。
「――これは…」
「お勉強の、参考書です」
李斎がしかつめらしく答えた。そのわざとらしく真面目に言ったあとの顔つきが、と
ても愛嬌があり、なんとも可愛らしかったので、驍宗は笑って、李斎の方へ首を伸ばし
た。
李斎はちょっと瞬くが、逃げることはしない。
牀榻の中でなら、前触れなしにこういうことをしても、もう大丈夫になったのだ。も
っとも、同じことは部屋ではしてはならないと、驍宗は学んでいた。
一度、どのような話をしていたときだったか、そういう心持になったので、顔を寄せ
たことがあった。そのとき――驍宗にとってはあまり詳しく思い出したくないことだが、
――驍宗が迫るにつれて李斎は目を見開いたまま後ろに引いていき、そのままひっくり
返った。時ならぬ物音に女官長が部屋に駆け込んできたとき、部屋の真ん中でしりもち
を搗いた后妃と、呆然としながら助け起こす主上が、目撃されたのだった。
李斎にしてみれば、主上の行動として、意外すぎて恐慌しただけだったが、驍宗は以
後、女官の離席時であろうと室内では李斎に手出ししないように気をつけた。
このように多少、笑えるようなこともやってはいるが、それでも概ね夫婦の仲は順調
に進んでいる。
当初は、字を呼ばれるたび臣下の顔に立ち戻る李斎に、驍宗は考えた末、李斎殿、と
呼ぶようにしたものだ。もちろん睦言でだけだが、蓬山時代の呼び方をすることで、か
ろうじて同等の立場が二人の間に築かれるのか、李斎は不思議なほどすぐに柔らかな気
持ちになれた。
無論李斎の方にも驍宗殿、と呼ばせていたのだが、ある日李斎の方から、やはりあま
りにも不敬だと異議が出された。そうして、彼女が自分で考えて「あなた様」がこれに
かわることとなった。そうこうするうち、いつのまにか「李斎殿」からも卒業している。
また、華燭の夜もその次の夜も、王より先に褥を乱しては申し訳ないという考えから、
牀榻の床で待った李斎に、温まった寝床で温かい妻に待ってもらう方がよいと驍宗は説
き、それからはいつも、李斎は遠慮することなく堂々と先に蒲団を温めている。
ひとつひとつそうやって、小さな調整を重ねながら、二人は夫婦になりつつあった。
「さて」
と驍宗は李斎の方を見、座りなおして姿勢を正した。李斎は、本日は結構です、と遠
慮した。
「女官にさせたのか」
いいえ、と李斎は答える。
「では、来なさい。さぼると戻るぞ」
驍宗は機嫌よく、李斎を招いた。
「お疲れですのに…申し訳ありません」
「なんの」
驍宗は位置をとり、李斎の姿勢の安定を確かめてから、腕を支えた。
「はじめるぞ。右からだ」
「はい」
「一、二、三、……」
毎晩、驍宗はこうして、李斎の柔軟と筋力を高める体操を手伝っている。
本当を言えば李斎は、今日は女官に頼もうと思ったのだ。だが、いつぞや官との夜の
仕事が長引いた折、女官にかわりをさせたら、それを聞いて驍宗が、大層不機嫌な顔を
したのを思い出したので、やめておいた。驍宗はどんなに遅くなっても、自分でやりた
がる。楽しみなのだ、と言っていた。実際楽しそうにして下さるので、勿体ないことだ
とは思いつつ、李斎も嬉しい。
ひとしきり、筋を伸縮させる運動を両肩の周りにした後、瞬発力を高める運動に移る。
「よし…、――いま少し、力が入らぬか」
「…――、」
「あと五拍っ。辛抱せい」
一、二…と驍宗が等間隔に数をとる間、その支える驍宗の掌に向けて、李斎は背筋を
伸ばしたまま、全力で右肩の力をかける。これは支え手の方にかなりの力が必要なため、
腕力の勝る驍宗でなければ、十分にはさせられなかった。湯殿ではいつも、女官に両腕
を使ってしてもらうが、それでも、このように揺るがず支えるということは、女の力で
は無理である。
「…五!」
はぁつ、と、李斎が、大きく息を吐き出す。額には薄く汗が浮いている。
驍宗も力を抜いて、笑顔になった。
「ずいぶんと、強くなったな」
「はいっ。おかげさまで」
李斎もにこにこする。
神経と骨が断裂した部位を維持させるのは、たとえ仙であっても難しい。わずかずつ
だがそれが回復し、こうして評価してもらえると、意欲も増すし、なにより嬉しくてた
まらない。
筋肉を緩めるための終わりの体操を行いながら、李斎は驍宗に、思いがけず馬に乗ら
れるようになったことを報告した。ほう、と驍宗も驚く。
「姿勢がよくなったと褒めてもらいまして、とても嬉しゅうございました」
これを聞き、驍宗がちょっと表情を止めた。女官長はもともと、登極時に、新王驍宗
の教育にあたっていた官である。
「私は褒めてもろうたことなぞ、ないぞ」
「まぁ…」
と、李斎は夫の顔を見つめた。別に、女官長が驍宗を褒めたことがない、という事実
に驚いたわけではない。
「あやつめ。李斎のことは褒めて、そのように褒美まで出すとは」
「……」
けしからぬ、とぶつぶつ言う驍宗に李斎は瞬いた。まさかと思ったが、驍宗は拗ねた
のだ。
「なんだ」
「いえ…」
李斎は笑いをかみ殺した。こんな子供っぽいところがおありなんて。驍宗は首を傾け
た。自覚はないのだ。
「…あ。でも、体操のことは、ばれておりましたよ」
「ほう。そうか」
李斎は頷いた。
「湯殿はそのうち知れると思っておりましたが、朝の散歩で、ひとりでやっていたのも、
言い当てられてしまいました。もう内緒なのは、この夜の分だけです」
「それはどうかな」
多分知っておるだろう、と驍宗が笑う。李斎はそうでしょうか、と首を傾けた。
「牀榻の内のことだから、言わなかっただけだろう。小言先生一流の、お目こぼしだ」
李斎も、そうかもしれない、と思った。
今朝の出掛けるときのやりとりも、女官長は叱らなかった。挨拶詞として不適当であ
ったのだが、その自覚は李斎にあったし、今日の場合は驍宗が同じほどの音声で返し、
単なる「夫婦間の会話」にしてしまったから、注意する要がなくなったのである。
小言婆、などと驍宗が綽名(あだな)している女官長だが、しかし彼女は必要なく叱
ることは決してなかった。
よい官を、つけて下さった。李斎は心の中で、夫に改めて感謝する。
「足を、お出しあそばされませ」
李斎が言い出し、驍宗は首を傾けた。
「なに」
「――足の指を、お揉みいたしましょう」
「…よい気持だ」
ううむ、と驍宗は深い息を吐いた。
妻の申し出に、笑ってさせてみた驍宗だが、これがなかなかに、具合が良い。
「うまいものだな。どこで覚えたのだ」
膝の上にのせた右の足指を丁寧に揉みながら、李斎はちょっと笑んだ。
「実家でございます」
「お父上に、して差し上げたか」
「はい…」
そうかと答え、驍宗は目を閉じた。李斎はそれ以上を言わなかった。もともとは母が
していたことである。小さい姉妹が順にそれを見覚え、争って父の周囲に群がっていた。
やがて子らは大きくなり、最後の李斎も家を出た。そうして、母がまた父の足の指を揉
んだだろう……
嫁いで以来、毎日のように彼らを思い出している。とっさに出てくるのがいつも、忘
れたと思っていた、昔の父と母の姿であった。どこかに「夫婦」のありようとして、自
分の両親が存在していたことに、李斎ははじめて気づいている。
短い日はとうに落ち、いつものように長楽殿の長い廊下の角にもささやかな灯りが点
されていた。暖房(かん)の入った明るい室内では、たったいま食事が始まったところ
である。仁重殿から台輔泰麒が訪れ、李斎と二人で、食膳を囲んでいるのだ。
「…広徳殿で報告を聞いてる最中に、突然汕子が戻ってきたものだから、何事かと仰天
しちゃいましたけれどね」
すみません、と恐縮して李斎は、夫の使いで騒がせたことを詫びた。泰麒は、ちっと
もと、朗らかに答える。
驍宗は、結局、食事に間に合うようには戻られなかった。
県城で、陳情にやって来ていた地方の官から、是非にと乞われ、予定にはなかった郷
の視察が加わったのだという。
「遅れても夕食はご一緒なさると、仰ったんですって?主上、ただでお約束を破るなん
て、お出来にならなかったんだな。おかげで僕は、こうして后妃にお相伴させて頂けて、
すごく嬉しいですよ」
どうかその呼び方は…、と給仕する女官に聞こえないくらいに小さい声で李斎が言う。
泰麒は笑い、李斎だって台輔って呼ぶじゃないの、と、こちらも小声に返した。
李斎は、主上が彼に下された字(あざな)の「蒿里」を使うのが、苦手である。せい
ぜい「泰麒」がやっとだ。だが泰麒にしても、后妃になった李斎から敬称を使われると、
どうも落ち着かない。王の家族とは、確かに身分では麒麟より下位だが、礼儀としては
同等で、心象的にはしばしば、上なのだ。
「…それはそうと、汕子は、気を悪くしなかったでしょうか」
「汕子が?どうしてです」
「台輔のもとへのお使いというのならば、使令も納得しましょう。ですが、わたくしの
ところにまで…それも夕餉のことなどで」
ふたりに伝言を伝えて、汕子は、再び驍宗のところへ戻っていた。
クク、と、少し悪意を感じさせる低い笑いが、どこからともなく――さしずめ足元の
床の中から――起こる。控えている女官らには聞こえず、二人だけに聞かせた声だ。
――主上の御命令です。我等へのお気遣いは、何卒御無用に。
床の中から、傲濫の重低音の声が李斎に告げると、それきり沈黙した。
王后にはかように、使令ですら、麒麟の意を汲んで相応の敬意を払うのだ。ただ、女
怪となるとやや事情は異なる。それが、先の笑いの意味なのだ。泰麒は考えながら、自
分の大事な乳母について説明した。
「女怪って、ひととは違いますし、あまりこう思われようとかっていうのが、ないみた
いなんです。汕子の場合、主上にも、愛想よいとはいえないくらいだし…。でも、汕子
は李斎のことを、認めていますよ。僕を蓬莱から助けてくれて、自分たちのことも助け
てくれたのが李斎だってこと、よく、分かっているんです」
「まぁ。そのような」
李斎はすっかり恐縮した。実際に救出したのは他国の王と麒麟たちなのに…。
泰麒は微笑む。
「それに、彼らが蓬山預かりになっている間、誰が僕の側にいて、守ってくれたのかっ
ていうことも」
慕わしい笑顔で言われ、李斎も懐かしい思いで笑みを返した。
さほど長い期間ではなかったが、たった二人で、旅をした。この地上に、恃(たの)
みといえば、ただお互いだけしかいない日々を、支えあった。
辛い旅であったのだが、とても懐かしく思い返される。
泰麒はちょっとはにかんで下を向き、それから指先で鼻をこすると、笑った。
運ばれてきたあんかけの蒸し物が、二人の間で、おいしそうに湯気を立てた。
楽しい夕べは瞬く間に過ぎ、泰麒が自分の宮殿に戻る時間が来た。
李斎は名残惜しそうに立って行き、仁重殿までその上衣では寒くないだろうか、と案
じた。途中、隧道も抜けるし、たいして時間はかからないと答えたが、結局は外套を持
たされた。
「本当に今夜は冷えますから、お気をつけ下さいね」
はい、と素直に礼を言う。いよいよ暇(いとま)を告げようとしたときに、李斎が台
輔、と呼びかけ、ためらうように口を開いた。
「わたくしからお願いするのは、出過ぎたことかも知れませんが…」
泰麒には、李斎の言おうとすることの見当がついた。李斎は心を決めたように、まっ
すぐ頭を上げると、泰麒を見つめた。
「やはり、また昔のように、こちらにお住まいになられませんか」
「李斎。主上にも申し上げたように僕は…」
「主上は、家族がほしくていらっしゃるのです」
「…」
「昔、お小さかった泰麒に、この正殿からすぐの、あの宮を御用意なさったのも、本当
は御自分のためでいらしたのではないかと」
泰麒は笑んだ。それは、ありそうなことに思えた。いまの泰麒はあの頃よりも、驍宗
の愛情を、よく分かっている。
「泰麒。主上は泰麒に、側にいらしてほしいのですよ。それは、わたくしもです。こち
らにお越し下されば、どれほど嬉しいことでしょう。正寝にお住まい下さり、このよう
にたまにではなく、三人で毎日、食卓を囲んで暮らすのは、よいことだとは、思われま
せんか」
泰麒は困った顔をした。驍宗の勧めよりも、李斎の方が、断りにくい。
だが、泰麒は知っている。主上と彼女は、彼が同席すると、二人とも泰麒の方ばかり
向いてしゃべるのだ。どうしてもそうなる。せめて新婚の間だけでも、その事態はご遠
慮申し上げたい。それに、いまの一人暮らしも、割と気楽で捨てがたいから、しばらく
は続けたいのも本音。それと。こっちは、説明しといたほうがいいかな。
「…ええと。知ってるでしょう。主上は昔から、僕の扱いが李斎ほどは上手じゃありま
せん。ずいぶんがんばって見習って下さいました。でも時々子供扱いしすぎて、僕を不
満がらせもしてた。いまだって、そうなんです。扱いに困ると、すぐ昔のように接しよ
うとなさる。で、僕はいま、当時よりもっと幼くないですから、まいっちゃうんですよ」
無言の李斎の顔に、泰麒は笑みかけた。
「そんな顔しないで。心配かけてるみたいですが、主上と僕は、上手くいってないって
わけじゃないから。そりゃちょっと意見が食い違うこともあるけど、僕が大きくなった
んだから、当然です。小さいときは、意見なんて持ってなかったんだもの」
李斎はちょっと笑んで、頷いた。彼女の漠然とした気がかりが、泰麒の口からあっさ
り語られて、安堵したのだ。
「子供の頃、主上のことを怖がってたけれど、それでもとても好きでした。今だって同
じです。ただ、あの頃は、僕らはちょっとした父子家庭みたいなもんだったし、それを
僕がいきなりこんなに大きくなったとこから、また始めるんだから、慣れるまで、少し
距離とって時間をかけるのは、お互いのためにいいんですよ。ほら、普通の家でも、大
きくなった男の子なんて、男親とそんなに、仲良しこよしじゃあないもんでしょう」
李斎は、自分は姉妹しか知らないので、よく分からないが、ともぐもぐ言った。
「では…、いつかは、いらして頂けますか」
泰麒はちょっと口をつぐんだ。
「驍宗様のご家族は李斎ですよ」
「……」
にべもない言ではぐらかされ、李斎は返事に窮した。泰麒はまずかった、と反省し、
慌てたので、つい本音ののぞく言い訳をした。
「だって。そもそも僕は、主上と親子ではないんですよ。僕は、…驍宗様の麒麟にすぎ
ません」
李斎は驚いたように瞬き、意外な言葉をもらした。
「ずいぶんと可笑しなふうにお考えになるのですね。親と子とは、やがて別れ行かざる
をえないもの、別れることのない驍宗様と泰麒の方が、はるかに深い縁(えにし)で、
結ばれておられるのではありませんか」
「……」
泰麒は黙った。
確かに、親子間に遺伝上の繋がりがない、水よりも濃い血の縁というもののないこの
世界の観念ならば、李斎の言うように、子であるよりも麒麟であることは、縁(えん)
の上では勝るということになるのかも。――そうなのか…。
思いがけず腑に落ちた泰麒を、李斎は重ねて説いた。
「家庭には、やはり子のあったほうがよろしいものでございましょう。不遜は承知でお
願い申します。畏れながら、この李斎に、台輔のお母様の役まわりを、させていただく
というわけには、参りませんか」
あ、やばい。泰麒は、我に返った。このままいくと、説得されてしまう。
「僕では、お二人のお子様役には、ちょっともう大きすぎない?どうせなら、お二人が
――、」
李斎は首を傾け、泰麒は口を引き結んだ。
「?…台輔」
ややあって、泰麒はわかりました、と呟いた。
「すぐは無理だと思いますけど、いや、無理だけど――でも、そのうちに、考えてみま
すから」
李斎の顔が輝いた。お約束ですよ、と朗らかな声が送り出す。
―――本当に、二人にお子があるのが、一番いいんだろうにな――。
雲の合間から、冬の凍った星がまたたき、仁重殿への帰り道を照らす。
泰麒は足を止めて夜空を仰ぎ、外套の襟を立てた。
彼らに子が生(な)らない以上、いずれおさまるところにおさまり、自分はあの二人
の間で、なさぬ仲の息子役をやってることになるんだろうか…。近くに住んで、三人で、
朝晩一緒に食事をして、二人からちょっとうるさく世話を焼かれたり、親ぶって多少の
小言をくらったりも、しながら。……。
――しょうがないかなぁ…。
泰麒は肩を竦めて白い息を吐き出し、また歩き始めた。
してみた態度とは裏腹にその足取りは結構軽く、元気がよかった。やがて、陰伏して
従う傲濫の耳には、主の鼻歌が聞こえてきた。
明るく速い蓬莱の旋律は、星明りの道を、仁重殿の方へと下っていった。
されていた。暖房(かん)の入った明るい室内では、たったいま食事が始まったところ
である。仁重殿から台輔泰麒が訪れ、李斎と二人で、食膳を囲んでいるのだ。
「…広徳殿で報告を聞いてる最中に、突然汕子が戻ってきたものだから、何事かと仰天
しちゃいましたけれどね」
すみません、と恐縮して李斎は、夫の使いで騒がせたことを詫びた。泰麒は、ちっと
もと、朗らかに答える。
驍宗は、結局、食事に間に合うようには戻られなかった。
県城で、陳情にやって来ていた地方の官から、是非にと乞われ、予定にはなかった郷
の視察が加わったのだという。
「遅れても夕食はご一緒なさると、仰ったんですって?主上、ただでお約束を破るなん
て、お出来にならなかったんだな。おかげで僕は、こうして后妃にお相伴させて頂けて、
すごく嬉しいですよ」
どうかその呼び方は…、と給仕する女官に聞こえないくらいに小さい声で李斎が言う。
泰麒は笑い、李斎だって台輔って呼ぶじゃないの、と、こちらも小声に返した。
李斎は、主上が彼に下された字(あざな)の「蒿里」を使うのが、苦手である。せい
ぜい「泰麒」がやっとだ。だが泰麒にしても、后妃になった李斎から敬称を使われると、
どうも落ち着かない。王の家族とは、確かに身分では麒麟より下位だが、礼儀としては
同等で、心象的にはしばしば、上なのだ。
「…それはそうと、汕子は、気を悪くしなかったでしょうか」
「汕子が?どうしてです」
「台輔のもとへのお使いというのならば、使令も納得しましょう。ですが、わたくしの
ところにまで…それも夕餉のことなどで」
ふたりに伝言を伝えて、汕子は、再び驍宗のところへ戻っていた。
クク、と、少し悪意を感じさせる低い笑いが、どこからともなく――さしずめ足元の
床の中から――起こる。控えている女官らには聞こえず、二人だけに聞かせた声だ。
――主上の御命令です。我等へのお気遣いは、何卒御無用に。
床の中から、傲濫の重低音の声が李斎に告げると、それきり沈黙した。
王后にはかように、使令ですら、麒麟の意を汲んで相応の敬意を払うのだ。ただ、女
怪となるとやや事情は異なる。それが、先の笑いの意味なのだ。泰麒は考えながら、自
分の大事な乳母について説明した。
「女怪って、ひととは違いますし、あまりこう思われようとかっていうのが、ないみた
いなんです。汕子の場合、主上にも、愛想よいとはいえないくらいだし…。でも、汕子
は李斎のことを、認めていますよ。僕を蓬莱から助けてくれて、自分たちのことも助け
てくれたのが李斎だってこと、よく、分かっているんです」
「まぁ。そのような」
李斎はすっかり恐縮した。実際に救出したのは他国の王と麒麟たちなのに…。
泰麒は微笑む。
「それに、彼らが蓬山預かりになっている間、誰が僕の側にいて、守ってくれたのかっ
ていうことも」
慕わしい笑顔で言われ、李斎も懐かしい思いで笑みを返した。
さほど長い期間ではなかったが、たった二人で、旅をした。この地上に、恃(たの)
みといえば、ただお互いだけしかいない日々を、支えあった。
辛い旅であったのだが、とても懐かしく思い返される。
泰麒はちょっとはにかんで下を向き、それから指先で鼻をこすると、笑った。
運ばれてきたあんかけの蒸し物が、二人の間で、おいしそうに湯気を立てた。
楽しい夕べは瞬く間に過ぎ、泰麒が自分の宮殿に戻る時間が来た。
李斎は名残惜しそうに立って行き、仁重殿までその上衣では寒くないだろうか、と案
じた。途中、隧道も抜けるし、たいして時間はかからないと答えたが、結局は外套を持
たされた。
「本当に今夜は冷えますから、お気をつけ下さいね」
はい、と素直に礼を言う。いよいよ暇(いとま)を告げようとしたときに、李斎が台
輔、と呼びかけ、ためらうように口を開いた。
「わたくしからお願いするのは、出過ぎたことかも知れませんが…」
泰麒には、李斎の言おうとすることの見当がついた。李斎は心を決めたように、まっ
すぐ頭を上げると、泰麒を見つめた。
「やはり、また昔のように、こちらにお住まいになられませんか」
「李斎。主上にも申し上げたように僕は…」
「主上は、家族がほしくていらっしゃるのです」
「…」
「昔、お小さかった泰麒に、この正殿からすぐの、あの宮を御用意なさったのも、本当
は御自分のためでいらしたのではないかと」
泰麒は笑んだ。それは、ありそうなことに思えた。いまの泰麒はあの頃よりも、驍宗
の愛情を、よく分かっている。
「泰麒。主上は泰麒に、側にいらしてほしいのですよ。それは、わたくしもです。こち
らにお越し下されば、どれほど嬉しいことでしょう。正寝にお住まい下さり、このよう
にたまにではなく、三人で毎日、食卓を囲んで暮らすのは、よいことだとは、思われま
せんか」
泰麒は困った顔をした。驍宗の勧めよりも、李斎の方が、断りにくい。
だが、泰麒は知っている。主上と彼女は、彼が同席すると、二人とも泰麒の方ばかり
向いてしゃべるのだ。どうしてもそうなる。せめて新婚の間だけでも、その事態はご遠
慮申し上げたい。それに、いまの一人暮らしも、割と気楽で捨てがたいから、しばらく
は続けたいのも本音。それと。こっちは、説明しといたほうがいいかな。
「…ええと。知ってるでしょう。主上は昔から、僕の扱いが李斎ほどは上手じゃありま
せん。ずいぶんがんばって見習って下さいました。でも時々子供扱いしすぎて、僕を不
満がらせもしてた。いまだって、そうなんです。扱いに困ると、すぐ昔のように接しよ
うとなさる。で、僕はいま、当時よりもっと幼くないですから、まいっちゃうんですよ」
無言の李斎の顔に、泰麒は笑みかけた。
「そんな顔しないで。心配かけてるみたいですが、主上と僕は、上手くいってないって
わけじゃないから。そりゃちょっと意見が食い違うこともあるけど、僕が大きくなった
んだから、当然です。小さいときは、意見なんて持ってなかったんだもの」
李斎はちょっと笑んで、頷いた。彼女の漠然とした気がかりが、泰麒の口からあっさ
り語られて、安堵したのだ。
「子供の頃、主上のことを怖がってたけれど、それでもとても好きでした。今だって同
じです。ただ、あの頃は、僕らはちょっとした父子家庭みたいなもんだったし、それを
僕がいきなりこんなに大きくなったとこから、また始めるんだから、慣れるまで、少し
距離とって時間をかけるのは、お互いのためにいいんですよ。ほら、普通の家でも、大
きくなった男の子なんて、男親とそんなに、仲良しこよしじゃあないもんでしょう」
李斎は、自分は姉妹しか知らないので、よく分からないが、ともぐもぐ言った。
「では…、いつかは、いらして頂けますか」
泰麒はちょっと口をつぐんだ。
「驍宗様のご家族は李斎ですよ」
「……」
にべもない言ではぐらかされ、李斎は返事に窮した。泰麒はまずかった、と反省し、
慌てたので、つい本音ののぞく言い訳をした。
「だって。そもそも僕は、主上と親子ではないんですよ。僕は、…驍宗様の麒麟にすぎ
ません」
李斎は驚いたように瞬き、意外な言葉をもらした。
「ずいぶんと可笑しなふうにお考えになるのですね。親と子とは、やがて別れ行かざる
をえないもの、別れることのない驍宗様と泰麒の方が、はるかに深い縁(えにし)で、
結ばれておられるのではありませんか」
「……」
泰麒は黙った。
確かに、親子間に遺伝上の繋がりがない、水よりも濃い血の縁というもののないこの
世界の観念ならば、李斎の言うように、子であるよりも麒麟であることは、縁(えん)
の上では勝るということになるのかも。――そうなのか…。
思いがけず腑に落ちた泰麒を、李斎は重ねて説いた。
「家庭には、やはり子のあったほうがよろしいものでございましょう。不遜は承知でお
願い申します。畏れながら、この李斎に、台輔のお母様の役まわりを、させていただく
というわけには、参りませんか」
あ、やばい。泰麒は、我に返った。このままいくと、説得されてしまう。
「僕では、お二人のお子様役には、ちょっともう大きすぎない?どうせなら、お二人が
――、」
李斎は首を傾け、泰麒は口を引き結んだ。
「?…台輔」
ややあって、泰麒はわかりました、と呟いた。
「すぐは無理だと思いますけど、いや、無理だけど――でも、そのうちに、考えてみま
すから」
李斎の顔が輝いた。お約束ですよ、と朗らかな声が送り出す。
―――本当に、二人にお子があるのが、一番いいんだろうにな――。
雲の合間から、冬の凍った星がまたたき、仁重殿への帰り道を照らす。
泰麒は足を止めて夜空を仰ぎ、外套の襟を立てた。
彼らに子が生(な)らない以上、いずれおさまるところにおさまり、自分はあの二人
の間で、なさぬ仲の息子役をやってることになるんだろうか…。近くに住んで、三人で、
朝晩一緒に食事をして、二人からちょっとうるさく世話を焼かれたり、親ぶって多少の
小言をくらったりも、しながら。……。
――しょうがないかなぁ…。
泰麒は肩を竦めて白い息を吐き出し、また歩き始めた。
してみた態度とは裏腹にその足取りは結構軽く、元気がよかった。やがて、陰伏して
従う傲濫の耳には、主の鼻歌が聞こえてきた。
明るく速い蓬莱の旋律は、星明りの道を、仁重殿の方へと下っていった。