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「姿を見られなかったか」
 素早く扉を閉めて、銀の混じる鬚の男は振り返った。夜半にかかり月は隠れて、戸外
は肌を刺し通す冷たい風が吹いていた。
 外套の裾の雪を落としてそれを脱いだ若い方は、冠をつけていない。彼は青ざめた顔
で息を整え、かぶりを振った。
「わかりません」
 それを聞いて、鬚の方――芭墨は、使用人らしい男を呼ぶと耳打ちした。どこといっ
て特徴のない男は、ぼうっとした表情のまま小さく頷き、外に滑り出て行った。
「地官府の誰かに行き先を言ったか」
「いいえ」
「家の者には」
「今日も遅いとだけ。ひとりで帰ることになっています。府第に迎えは来ません」
「供は」
「先に帰しました」
「よろしい。…お寒かっただろう、どうぞ杯を」
 いいえ、と客――地官長の宣角は、酒を辞した。
 そこへ先ほどの男が戻ってきた。芭墨は男の報告を受けると、ご苦労と呟き、目で下
がらせた。このとき初めて宣角は、奄(げなん)の動きに無駄がないことに気付いた。
「尾(つ)けられてはいないそうです」
「…彼は」
「私の子飼いの部下です。官ではない。以後ご連絡は彼だけに。他の者が私の使いだと
言っても、お信じなさいますな」
 その言の示す事態の深刻さに、宣角は改めて息を呑み込んだ。
 今、とてつもなく恐ろしいことが自分の周囲で起こっていることはわかる。しかし、
主に戸籍と農政を扱う文官一筋に歩んできた彼は、数多の修羅場を驍宗軍の軍吏として
かいくぐってきた夏官長の芭墨と違い、きな臭い事柄とは一切無縁であった。
 彼は震え声に切り出した。
「阿選殿が、昼間仰ったことは嘘ですか」
「偽りだと思う」
 と、芭墨は静かに答えた、
「…宣角殿は、なにゆえ嘘だと思われたのだ」
 こう聞かれて宣角は、力無く首を振った。
「だって、…だってあの李斎が、主上を…。そんなこと、あるはずがない…!そりゃあ、
主上は李斎を好いておられた。それは誰もが知っていた。でも李斎は知りませんでした」
 芭墨は弱く微笑んだ。この純朴な地官長にさえ見えるほど、彼の主の恋は分りよかっ
た。
 驍宗は己の思いをひた隠しにしようとはしなかった。むしろ堂々と示していた。彼は
いつも誰の目があっても、彼女に食事を申し込んだし、彼女が受けると憚らずに笑んだ。
視線が彼女を追うことに気付かれても、別段悪びれなかった。
 それはやましいところの全くない恋だった。

 実は芭墨は、李斎の方が王をじらしているのかと、勘繰ったことがある。主上の恋が
週に一二度の、台輔を同席した食事における会話と、せいぜいそのときの彼女の微笑で
しか報われていないことは明らかだった。
 あるとき芭墨が、よくお食事を御一緒されますね、と水を向けると、思いがけず李斎
は真赤になった。そして、心配そうにこう訊いたのだ。
 ――実は、遠慮を知らぬ奴よと呆れられているだろうと案じておりました。かように
私ばかり、お招きにあずかってよいものでしょうか。まだ鴻基に慣れない私へのご配慮
かと思えば有り難いが、いつまでも甘えているのもいかがかと。しかし台輔のお喜びに
なるお顔を拝すると、ついお断りしそびれて……。 
 真面目なことこの上もない顔で真剣に相談され、芭墨は柄にもなく慌ててしまったも
のである。誰の目にも分る好意を示す無敵の王と、それを全く艶めいたものとは考えず
に控えめに応じる将軍。傍目にはおかしいやら、微笑ましいやらの二人であった。
 それでも、誰ひとりとして、主上はあなたを好いておられるのだ、などと李斎に言う
はおろか、仄めかしさえもしなかったところが、双方の人徳であったのだろう。
 
「大司馬は、なにゆえあの場で直ちに、阿選殿の謀反と判じられたのですか」 
 寒さというより、今や恐怖のため震えている宣角の声に、芭墨は我に返った。
 李斎こそが謀反人だったと伝えられた。主上を謀殺し、台輔に危害を加えてあの鳴蝕
を引き起こし、王宮内の大混乱に乗じて、かねて通じていた二声氏のひとりの手引きで
宮に押し入って白雉を落し、目撃した二声氏全員を手にかけた――と。 
 宣角が手をかざす火炉の炭火に目を当てて、芭墨はしばし沈黙した。
「…大司馬?」
 突然立ち上がった芭墨は、宣角を残して部屋を出て行った。そして戻って来たとき、
手には一通の書状があった。その表の手蹟に宣角は覚えがあった。伸びやかで飾り気の
ない、生真面目に整った文字…。見上げた芭墨の顔は、恐ろしいほどに厳しかった。
「これは、十日前に李斎が、派兵に関する相談の体裁をとって夏官長の私宛に、内内に
寄越したもの。五日前に届き、以来、誰の目にも触れさせておらぬ。阿選が今日言った
ことは、ほぼ全てが、この書状に書かれている内容と同じであった。違うのは、それを
行ったのは阿選だと書いてある点だ」
 紙を解き、目を走らせる宣角の顔にみるみる驚愕が走っていく。
「お分りになるか。私はあえて誰にも一言もこれを漏らしていない。なのに阿選は既に
空行師を動かしており、我らに今日、謀反人の名を告げた」
 宣角は喘ぐようにして芭墨の顔を振り仰いだ。口を開いたが言葉は出なかった。
「阿選が二声宮を襲ったという李斎の書状は、内容が重大にすぎて、鵜呑みにする訳に
いかなかった。だが、李斎が二声宮を襲ったとする阿選の言があれば、話は別だ。あの
日、雉の足を持って我らのところへ姿を現したのは、阿選だったのだから」
「……なぜ阿選は、李斎が事実を掴んだと知ったのです」
 李斎が阿選謀反を知り得たのは、書状によれば二声宮のたったひとりの生き残りが、
逃げ延びて派兵途中の瑞州師中軍の陣へ駆け込んだからだ。阿選に二声氏の居所を知る
術などなかったはずだ。
「我らの中に裏切り者がいる。私はそれを確かめたかった。李斎の鴻基への知らせは私
が留め置いた。使いの者は、先程のあの男に命じて無事に鴻基から出した。空行師への
命令は、その発令日時からみても、私への書状とは無関係だ。だが李斎の書状が真実で
あり彼女が潔白ならば、必ず、文州にも知らせたろう。その相手は李斎の意を汲んで、
合議を持ったやも知れぬ。…いずれにせよ、裏切り者の少なくともひとりが文州にいる。
誰かは分らぬ。だが、主上を害せるほど身近にその者はあったのだ」
 宣角ははっとした。
「ですが、李斎の手紙が真実ならば…!」
 芭墨は、しかと頷いた、
「そうだ。白雉は落とされなかったのだ。主上は少なくとも、我らがそう信じ込まされ
た時点ではご存命であられた」
「信じ込まされた…確かにそうです。なぜああも易々と、私たちは信じたのでしょうか。
いいえ、あの日ばかりではない。今日だって…皆呆然とはしましたが、結局異論は唱え
なかった…。それにあの正寝の下官達の調書、あれは一体なんです、偽証ですか?二声
宮に踏み込んで官を惨殺したのだってひとりで出来るわけじゃない。阿選の非道を目の
当りにしながら手を貸し、口をつぐんでいる右軍の兵たちがいるんでしょう。でも阿選
軍ばかりか、王のお側の天官までがなぜ、あの男の思い通りになるのです」
「…心して聞かれよ」
 芭墨は重く口を開いた。
「あの阿選という男に魅入られると、空恐ろしいほど操られるのだ、という話を聞いた
ことがある。驍宗様がひとを惹き付けるのは御自身の力と徳とでだが、阿選のそれは幻
術に近い…そのような中傷が、かなり以前からあるのだ」
 宣角は瞬いた。芭墨はその目に頷いた。
「私とて、よくある中傷にすぎないと思っていた。だが李斎からの書状を読んだとき、
それを思い出した」
「…自分の意志でなくとも、裏切らせることができる、と?」
「宣角殿御自身、どうであった」
「私は…、」
 宣角は記憶を手繰った。昼間、閣議の席で、彼は愕然と阿選の言葉を聞いていた。
「一瞬、…そうです。一瞬、衝撃で目の前がこう…判然としなくなったような感じがし
ました。内容を呑み込むのに精一杯で、真偽など考えもしなかった。念頭からまったく
外れてしまって…けれど」
 宣角は眉を苦く寄せた。
「阿選がその、大司空の言葉を受けて、李斎と主上のことをあんなふうに…あのとき、
ふいに李斎の顔を思い出しました。私の知っている彼女の顔をです。嘘だと思いました。
そうしたら徐々に頭がすっきりしてきて、次々にあの日の事も思い出した…。あの鳴蝕
のとき、私は路門で彼女の隣にいたんです。台輔に直接手を下したのは彼女ではあり得
ません。彼女は仁重殿に駆けて行った。臥信殿が彼女とすぐに行き合って、そのまま夜
通し台輔の捜索、その最中に文州からの青鳥が着き、すぐさま私達と合流しての合議、
いつも必ず誰かが、李斎の側にいたんです。…それを言うために立ち上がろうとして、
あなたに止められた…芭墨殿、なぜあのとき私を?」
 ――『そんな』。
 蒼白の顔で叫ぼうとしたその一瞬、隣にいた芭墨が帯を引っつかみ、殆ど引き落とす
ようにして、宣角の浮きかけた腰を椅子に戻したのだ。
「あなた、李斎とお親しかった。あの場で弁護すれば、確実に共犯です」
「共犯?どんな利益が私にあるのです、私は主上にこの位を賜ったのですよ」
 瑞州府の地道な一官僚であった彼は、六官第二の席である地官府の長を命じる辞令に、
呆然としたものだ。
「あなたも彼女と関係があった、とされるでしょうかな」
 宣角は絶句した。
「何ということを…」
「あなたが青ざめた顔で反論しようとなさったので、私はあなたを信用できると思った。
だからお助けしたのです。命を大事にして下さい。怒りに任せて本音を吐けば、あの謀
反人の思う壺だ」
 芭墨は声を低めた。
「これから長い冬が始まります。だが、主上が生きておられるという望みができました。
私は可能な限りあの男の側にとどまり、支持を装って、道を正す機会を窺がおうと思う。
だが、あなたはまだお若い。逃亡なされてもあの白雉の足が偽物である以上、奴に仙籍
を抜くことはおろか、地官長の地位を奪うことも出来ません。私はそう容易く殺されて
やるつもりなどないが、阿選のやり方を見れば、留まるのは死と隣り合わせだ。逃げの
びて、正義が戻った後、優秀な官吏としての能力を戴国のために役立てるのも道です。
あなたがどちらの道を選ばれようと、私は恨む筋ではないし、まして咎めなど致しませ
ん」
「同じ道をお供致します。――お連れ下さい」
 宣角は即答し、それから立ち上がると、芭墨に向かって深く拱手した。
 凍てつく風が夜通し吹いて、玻璃窓を叩いていた。
 地官長宣角、夏官長芭墨。この日密約を交わした二人は長く白圭宮に留まり、運命を
共にする。
 そして二人とも阿選の命で刑死した。それぞれ、二年と四年の後のことである。




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w9
「さあ、台輔。今日は一日、付き合って頂きますぞ」
 扉を押し開けながら、後ろに言えば、小さな影が神妙に頷く。
「本当にいいのかしら」
「主上がよいと仰いましたでしょう。宜しいんです」
 幼い麒麟は困った様に見上げる。
「正頼殿に…」
「殿はいりません、台輔」
「正頼…に、お花だけではだめだと言われたと、お話しただけなんですよ、僕」
 正頼は眉を上げた。
 ――いくらなんでも、花だけ、とはいくまいよ。お前からそう教えてくれ。
「広いんですね…」
 その声に成り立ての傅相は、人の良さげな笑みを向けた。驍宗軍切っての有能な軍吏
であった彼は、突然将の欠けた禁軍左軍の残務処理に継いで、今や王となった元将軍の
封土、乍県の県城整理のため、即位式にも立ち会わずに忙殺されていて、先頃ようやく
王宮で馴染みの朋輩たちと合流したばかりである。
「まだ同じようなお部屋が、他にいくつもございます」
「そんなに」
 はぁ、と溜息が漏れる。
「僕、ちゃんと選べるでしょうか」
 首を傾ける小さな肩を、励ますように叩いた。
「そのために、この正頼がおりますよ。ご一緒に選びましょうね」
 ――お前と蒿里が親しくなる機会をつくってやる。
「はいっ」
 見上げる目が期待に満ちている。
 
「ではまず、台輔の分から始めましょうか。劉将軍は何がお好きですか」
「ええっと…すう虞です」
 ――計都はやれぬゆえ、うまく誘導しろよ。
「台輔。正頼の知る限り、戴にすう虞は、主上の御乗騎だけでございます。いかな台輔
のお頼みでも、御購入はちょっと御無理でしょうなぁ」
「そうですか…」
 高価なものだとは知っている。いないのならしかたない。泰麒は素直に頷いた。
「でも、騎獣がお好きなら、将軍は御乗騎をさぞ大事になさっておいででしょうね」
 子供はぱっと顔を輝かせた。
「はい。飛燕っていうんです。とっても可愛いんです。天馬なんですよ」
 正頼はにこにこと笑った。
「それでは馬具一式はいかがでしょうか。そうですね、天馬なら…」
 ――鞍は黒、革は濃い色目、金具は白金がよかろう。
「いかがです」
「ええ。これ、飛燕にとてもよく似合うと思います。正頼ってすごいですね」
 正頼は目を細める。
「次は主上の分ですが、何にされますか」 
 ――剣だ。
「そっちから回って、よいものがあったら、正頼にお知らせ下さい」
「うん。正頼は、右の方ですね」
「お任せを」
 ――刃は冬官に仕立て直させる。柄と鞘の拵(こしら)えのよいのを選んでおけ。
「大きな方ですか」
「うーん。主上と並ぶと、そうね、ここんとこくらい…かしら」
 自分の背丈を主に見立て、手で示してみせた子供に、正頼はちょっと瞬いた。
「お並びになると、ですか」
「そうだよ」
 二人して選んだ馬具と剣を眺め下ろす。
「なにやら、台輔のに比べて、主上の分が寂しいですね…」
「そう、思う…?正頼も」
「ついでです。鎧をお選びなされては」
「鎧…」
「はい。同じ州師と申しましても、瑞州師は王師、規模も格も違います。王師の将軍に
ふさわしい立派な鎧を」
 ――用意してあればよし、しておらねば早速、伺候の折りに困るだろう。六将のうち
四人までが初の将軍職拝命とはいえ、ずっと禁軍にいて、もの慣れた者たちばかりだ。
現に初の伺候から、揃って、新調した大層な武具をつけてきた。
「これはどう」
「派手すぎませんか」
「そう…かなぁ。でも女のひとだし。とてもお綺麗なんですよ?」
「…さようですか。ではこちらではどうでしょう」
 ――本人に花がある。多少地味かもしれぬが、押さえたが映えような。
「お聞きしますが台輔。そんなにお綺麗な方ですか」
「うん。それにとっても優しいの」
 言って、柘榴石の象嵌された篭手(こて)を手に、顔を赤らめて俯く。
 ――蒿里と親しくなりたければ、李斎と親しくなるのだな。
「正頼からも、お祝いを差し上げましょうね」
 本当に、と驚いた小さな顔が見上げる。
「はい。実は正頼もおねだり致しましたのです」
「正頼がですか?」
 立派な大人と、おねだりの言葉の不似合いに、くすくすと笑う。
「台輔のお選びになるのをお手伝いしますので、正頼の分も選ばせて頂けないか、と」
 ――そういうことにしておけ。
「ありがとう正頼。僕、嬉しいです」 
 台輔のこの傅相への信頼は、いまや確かなものとなった。
「なにを贈るんですか、正頼」
「内緒でございますよ」
 えぇ、と残念そうな声を出す子供に、正頼は顔をしかめ突き出してみせた。
「実際にお姿を拝見してから、ゆっくりひとりで選びます」
 ――州侯は、娘のように可愛がっていた様子だが、飾ることにかけては本人に譲りす
ぎていた。改まった席では、それなりの官服もいるだろう。私から贈ってもよいが、お
前からとした方が無難だろうし、それでお前も誼が得られる。

 正頼はその日のうちに、もう一度御庫を訪れた。
 今度は懐から書き付けを取り出し、それと見比べて、すべての品物を揃えなおす。
 一体全体、あの忙しさで、いつ御庫中を漁ったものか、わが主ながら信じられないと
いうのが正直な気持ちだ。台輔が懐いているとはいえ、たかが将軍にここまでするか…。
 ふと彼はたちどまる。薄暗い御庫の中で、その一画と、手元の紙を比べること三度。
「なるほど」
 紙片を片手に、正頼はつぶやいた。
「極まったな……」
 見事な地紋の紫紺の長衣を取り出して、そこを閉めた。先代王后愛用の品を収めた抽
斗であった。
 そのなりたての禁軍筆頭の将は、正頼が呼びとめると、気軽に立話に応じてくれた。
「李斎…、ああ李斎殿な。よっく知っておるぞ」
「瑞州師の将軍として王師に召される」
「へぇ。そうか。いや李斎殿なら問題ない。うん、こりゃあ目出度い」
「どんな人物だ」
「人物か。うん…実に、いい人間だな。いい将だ」
「どんな女性だ」
「ああ。いい女だ。…なんだ、正頼。どうしてお前がそんなこと」
 いや、と正頼は言いよどんだ。
「ひょっとして、そのお方は…内嬖(ないへい)、であられるのだろうか」
「内…」
 巌趙は目を丸くし、それから口をあんぐりと開けた。
「それは、ないな」
 何がおかしかったのか、巌趙は、腹を抱えて笑いはじめた。
「ないない。絶対ないぞ。こりゃあ傑作だ」
 笑いながら行ってしまった。

「ああ。李斎殿ですか。ええ知ってますよ」
 なったばかりの瑞州師右将軍は、寒稽古で流した汗を拭いながら、心安げに頷いた。
「どんな方だ」
「どんなって…そうですねぇ。優れた方で、優れた将軍です」
「どんな女性だ」
「はぁ。ええっと」
 臥信はちょっと虚空を見た、
「…優れた女性ですね」
 正頼は溜息をついた。
「巌趙と似たようなことを言うな」
「巌趙?そりゃ、蓬山でご一緒でしたから。巌趙にもお聞きになったんですか」
「内嬖であられるか、と聞いたら、大笑いされてしまった」
「内…嬖」
 一瞬ののち、臥信は噴き出した。正頼が睨むので笑いをこらえるのだが、成功してい
ない。
「いや失礼。でもこれは。いやなんとも…」
 涙を払い、正頼の両肩に手を置く。
「正頼。はっきり言って、誤解ですよ」
「主上の御志に並々ならぬものがあると思ったればこそ、聞くのだが」
「そりゃあ、そうでしょうとも」
 臥信は真面目に頷いた。
「美女ときいたぞ。それもそこらの美女ではない、あの主上の目に見よいほどの」
「いかにも」
「ではなぜそこまで笑う」
 これを聞くと、臥信は再び笑いそうになった。
「臥信」
「ま、まあ正頼。本人に会われるんですね。そうすりゃあ分ります」


「台輔の傅相を仰せつかっております、正頼と申します」
「ああ。あなたが正頼殿ですか」
 笑顔を半ば唖然とした思いで見れば、相手は背を正し、その場に跪礼した。
「初におめもじ仕る。この度瑞州州侯師中軍に将を拝命しました、李斎でございます」
 凛とした様子、毅然とした眼差し、確かに尋常の女のものではない。
 そして確かに美しい。――だがこれは…。
「存じ上げないのに、過分のお祝いまで頂戴致しました。かたじけなく存知ます」
 言ってにこりと笑む。眩しいほどの笑顔はいささかの衒いもない。一瞬の後、穏やか
な瞳が生真面目に向けられ、正頼はわずか息を呑む。
「馬具も武具も有り難かったのですが、お選び頂きました官服は、思いもつかなかった
ものだけに、本当に助かりました。皮甲で済まない席など、州師では考えられませんで
したので」
 そんなことを正直に言って、肩を竦める。対していると、女性特有の優しげな風貌が
念頭になくなるほど、その態度はさっぱりと気持ちがよいばかりだ。
 これは難物だ。正頼は内心で唸った。
 なるほどあの主が手をやくはずだ。なるほど、巌趙や臥信が笑いたくもなるわけだ。
内嬖どころか、下手をすると、まだ手さえ握ってないかもしれない。いや絶対そうだ。

  
「私の顔になにかついているか」
 驍宗は目も上げず聞いた。
「いえ別に」
 正頼も何食わぬ顔のまま返す。
「おかしな奴だ」
「後宮をお閉めになる件ですが」
「ああ。早い方がいい」
「…本当に宜しいのですか」
「使う気はない。構わぬ」
「北宮も、でございましょうか」
 驍宗は怪訝な顔を書面から上げた。
「妻がおらぬのに、なぜ北宮がいる」
「ご予定がおありでは」
 は、と驍宗は笑って、見ていた文書を机に放った。そして正頼の顔を眺める。
「正頼。なにが言いたい」
 正頼も筆を置くと向き直った。
「近くに置いて眺めたければ、植え替えよりもいっそ摘まれるが宜しゅうございましょ
う」
 驍宗は眉を上げた。
「…言いたいのはそれだけか」
「軽軽しく摘むような花ではないとお見受けしました」
「承知している」
 正頼が目を上げると、驍宗は薄く笑った。
「お前には言っておこう。…そのつもりがある」
 口数の多い正頼は、実は、その絶対的な口の固さによって誰にも劣らぬ信をこの主か
ら得ている男である。それでも正頼はこの告白に瞬いた。そして思わず訊いた、
「あちらにも、おありでしょうか」
「なかろうな」
 あっさり答えたその一言に、自信のほどが窺がえた。
 だが、と驍宗は鋭い目を上げた。
「一切の禍根を断つまで、弱みはいらぬ」
 低く言い放った後、ふいにその目が言いようもなく和んだ。驍宗は自分でそれに気付
いたようで、わずかに首を傾け、静かに筆をとる。
 正頼はまじまじと主を見つめた。これほど柔和な目をした驍宗を、彼はかつて見たこ
とがない。正頼は心で唸ると、自分も再び筆を持った。――あの女性がやがてはこの、
およそ『弱み』などとは無縁の方の、最大の弱みになると自ら思っておられるのか…。
「正頼。お前、私が好いた女恋しさで、王師の人選をしたとでも?」
「そう思われても仕方ありませんでしょうな。ですが、」
 と、正頼はもういつもの、曲者の笑みで返した。
「あの方は禁軍がつとまります。むしろなぜ州師にとお聞きしたい」
 この言葉に、驍宗は嬉しげに笑んだ。
「経験の差だ。今はな。いずれ禁軍に席が空くこともあろう。そのおりには、改めて任
じる」
 正頼は首を傾げた。禁軍に空席の出来ることなど当面考え難い。そんな正頼の様子に
は構わず、驍宗は冬日の射している窓を見やってひとりごちた。
「将軍職より北宮住まいを喜ぶような女ならば、たやすいことだがな…」
 だが、もう誰にも譲る気などないし、先のことにもせよ、必ずというつもりらしい。
しかし。
 禍根とは、なにを指しておられるのだろう…。
 このときの胸に湧いた小さな疑問を、その後長い間、正頼は忘れていた。


 ――劉将軍、謀反発覚。

「…やってくれるわねぇ」
 衝撃的な報告に水を打った堂内の静寂を、最初に破ったのは、若い女の冷ややかな声
だった。
「大司空」
「じゃあなに?あの可愛い清潔なお顔やら、いかにも恋に疎い男勝りぶりやらは、全部
芝居で、私たちはいいように騙されてたってわけだ」
 花影は、瞑目し俯いて身を震わせた。…これはあんまりだ。 
「どうも、そのようだ。残念ながら」
 花影は俯いたまま、目を開いた。その男の寒寒しい声が胃の腑を突き上げてくる。
「主上は、迷われたのだ。王師に召されたのも、最初から故ないことではなかったと見
るのが妥当だろう」
 ――阿選。
 花影は顔を上げそうになるのを必死に耐えた。見られてはならない。この疑惑の確定
と憎悪に満ちた目を、けっして見られてはならないのだ。
「…信じられん」
 皆がそちらを向いた。禁軍左将軍が腕組みをし、宙を見据えている。
「阿選殿を疑うわけじゃない。ただ、信じられんのだ。俺には」
「巌趙殿。貴殿は、蓬山に同行されたはず。そもそも主上が劉将軍と出会われたのは、
昇山のおりのこと。お二人のご関係をもっともよくご存知だったのでは」
「関係って、関係もなにも…。ありゃあ主上の、その申し上げにくいが、いわゆる片思
いで、李斎の方はなんというか」
「なんとも思っていなかった。そうだろう、劉将軍は主上の思いを報復に利用したのだ」
 左将軍、巌趙は唸った。
「…証拠があるのか」
「無論。主上の不名誉ゆえ申し上げるのは憚られたが、あの女が、正寝への出入り自由
の免許をどう使っていたか…ここに正寝の下官たちの調書がある。ご覧になられるか」
 巌趙はその何枚かに目を走らせた後、なんともいやな顔でそれを押しやった。
「…ああ、もういい」


「何の御用でしょうか。大司空」
 花影は人払いしてから、彼女にしては冷淡な口調で訊ねた。夜も更けている。
 取り次いだ下官は春官府からの使いだと告げたのに、姿を見せたのは不似合いなほど
地味な官服をつけた冬官の長である。すすめられてもいない椅子に、頓着せずに腰を下
ろすと、ちろりと部屋の主の顔をうかがう。
「怖い顔だねぇ…。昼間、私が議堂で言った事、恨んでるんだ。ま、当然か。あなたの
大切なご親友だものね」
「いえ」
 花影は硬い表情で答えた。
「謝るわ。でも、私だって命は惜しいんだよ」
 琅燦はにやりと笑んだ。
「あれほどのお方から、あれほどに思い寄せられて、それを『身に余る君恩』、で片付
けてたようなお嬢ちゃんが、女を武器に使ったっての。笑わせてくれる」
 苦々しいその微笑を、花影ははっと見つめた。
「琅燦殿。あなた…」
「そうだねぇ。せめて花影、あなただと言われれば信じたかもね。でもよりにもよって
李斎ですってさ。――私の目はね、節穴じゃないんだよ。首謀者は阿選だ。主上はなん
とかしてあいつの足元を掬おうとして――掬われた」
 琅燦は立ち上がり、大司寇府の高い窓越しに、冷たい月を見た。
「明日から病欠するよ。大して時間は稼げないだろうけれどね、とりあえず今日の茶番
が功を奏しているあいだが勝負だ。――私は、今夜中に出奔する」
 低く言うと琅燦は、花影を振り返った。彼女は息を呑んで琅燦を見ている。
「あなたも逃げた方がいい」
「わたくしは…」
 視線が激しく揺れた。琅燦は低くぽそりと言った。
「待ってても帰ってこないよ」
 花影の見開いた目が、一際大きく開かれ、琅燦を見る。その眉根が歪んだ。かぶりを
振ろうとしたようだが、それは幽かな身じろぎに終った。瞬きすらできないでいる様子
を、琅燦は顔を変えずに見つめた。
「気の毒だけど、多分もう生きてる彼女には、会えない。分るでしょ」
 阿選は禁軍の空行師に命令書を持たせ、州境からまだ近いところを行軍中であろう瑞
州師中軍へ、将の身柄を拘束しに向かわせた。連行されればより確かなことが判明する
はずだ、と阿選は皆に閣議の席で語った。だが。
 花影は目を閉じた。おそらく琅燦の言うとおりなのだ。あの阿選がこの期に及んで、
李斎に潔白を主張する機会を、与えようはずもない。
「それでも、待ちます」
 青い顔で言う花影の決意は固かった。琅燦は息を吐いた。
「じゃ好きにすれば」
 その声には言葉とうらはらに優しさが滲む。花影は不思議な思いで、わざわざ自分に
逃亡を勧めにきた、さして親しくないこの閣僚仲間を見やった。
「…なぜ、ここへおいで下さったのですか」 
 これを聞くと、琅燦は俄かにばつの悪そうな顔をした。彼女はちょっと首を振って笑
った。
「あのお嬢ちゃんをね、割と好きだったんだよ」
「……」
「それだけ」
 琅燦は踵を返した。その背に花影は声をかけた、 
「ご無事で」
「それ言いたいのはこっち」
「どちらへ、…」
 言いかけて、花影は口を噤んだ。琅燦は振り返り、いつもの顔でただ笑んだ。
 彼女は今日、全てを捨てることをあの議場の席で決めた。李斎の罪状として語られた、
阿選自身の謀反の内容は、彼女に阿選という男の底知れない暗い決意を示した。驍宗の
寵臣として身を立てた彼女に、待ち受けるのは死だけだと直感した。
 惜しいものはいくらもある。だが、財より蔵書より名誉より彼女にとって惜しいのは、
己の頭脳であった。逃げよう。そう思った瞬間に、彼女は静まりかえった議場に椅子の
音を立てて、声を放ったのだ。――『やってくれるわねぇ』……。
「阿選を甘く見ないほうがいい。あの主上を弑してのけた男だ」
 それだけを花影に言うと琅燦は、来たときと同じくひそやかに、大司寇府を去ってい
った。花影は官府の坂を供も連れず下りていく小さな影を、窓辺から見送り、深深と一
礼した。


 琅燦は、驍宗軍時代からの腹心の下官にすら告げずに、その夜から完全に消息を絶っ
た。――具合が悪いので寝む、起きてこぬときは朝議欠席を届けよ、と彼女は家の者に
言って自室に引き取ったのだという。それが鴻基で彼女の姿が確認された最後となった。
 下官が主の不在に気付いたのは、翌日の夕刻遅くなってからであり、大司空の行方不
明が届け出られたのは、翌々日の午後だった。府第の執務室の机には未決の書類が積ま
れたままで、官邸から身の回りのものは何ひとつなくなってはおらず、旌券も残ってい
た。
 封土、故郷と手を回した阿選のもとへ、大司空官邸で働く奚(げじょ)のひとりの旌
券が紛失したとの報告が上がったとき、彼女は既に他国の空の下に逃れていた。




w 8

 李斎は臥床に肱をつき、上半身を注意深く引き起こした。
 傷はまだ少し痛む。だが、昨日よりはずっと楽に起き上がることが出来る。
「また。なにをしておられるんですか」
 師帥が入ってきて、見咎めた。将軍はかすかに嘆息した。
「少しくらい動かないと」
「将軍。私はもう少しで女仙方に殺されるところでした。仮に女仙に殺されなくても、
国に戻ったら、承侯に殺されておりました。…いいから寝てらして下さい。下山すると
なれば嫌でも動いて頂きます」
「上着をとってくれないか」
 息を吐いた部下を促す。
「昨日と同じならそろそろお見えだ。頼む」
 師帥が眉を解いた、
「驍宗殿ですか。…今日もおいでに?」
 李斎が衣を受けとりながらああ、と頷く。
「昨日帰るときそう仰っていたから」
「髪も梳かれますか」
 李斎はきょとんと目を上げた。
「そんなに見苦しいか」
「いえ、そういうわけでは。ちゃんとしておられます」
 李斎は怪訝な顔で師帥を見たが、何も言わなかった。


「横になっていなくてよろしいのか」
 やはり昨日と変らない時刻に姿を見せた驍宗は、起きている李斎に少し目を見開く。
李斎は上着を引き寄せて苦笑した。ちらと部下の方を見やる。
「やかましく言われておりますが、寝込むなど子供の時に怪我して以来のこと。さして
痛まなくなると、じっとしている方が苦痛です」
「師帥殿が正しいな。私に気遣いは無用。辛抱して横になられよ」
 師帥はちょっと肩をすくめて笑い、表に出て行った。李斎は不承不承上着をとると、
枕に頭を落した。
 それを見て驍宗は頷く。かけようとして、懐に手をやった。
「見舞いの品、というほどではないが、召し上がるか」
 小さな袋を出し、口を解いてみせた。李斎がのぞくと、干し杏(あんず)が二十粒ほ
ども入っている。
「これは…」
「欲しいと言っておられた」
「ひょっとして、お気を遣わせたでしょうか」
「なに、大したものではなし。なにしろ何もないところゆえ」
 李斎は笑った。
「何よりのものです。実を申せば、剛氏の作ってくれた荷で一番好きなのですが、自分
の分はとうになくなりました」
「私も黄海に持参する食べ物ではこれが好物だな」
「驍宗殿が、ですか?」
 李斎は瞬いた。たっぷりの砂糖で煮含めて干したものである。激しく疲労したときに
は役立つので軍でも使うが、とにかく甘い。李斎の父も大抵は娘らへの土産にしていた
し、成長につれて、姉たちは自分の分まで彼女に寄越すようになった。こうした加工品
は始終口に出来るものではないので、子供なら無条件に喜ぶが、大人が好物というのは
余り聞かない。ましてや禁軍きっての驍将が。
「ええ、好きです。おかしいか」
 李斎は驚きを隠さず、快活に頷く。驍宗は笑む、
「私もひとつもらおう」
 驍宗はひと粒とると袋ごと寄越し、すすめられた椅子の背をつかんで、向きを臥台の
足元の方へと変える。折り畳みのその肘掛椅子は陣の将のためのものだ。それに深くか
けると身をもたせた。
 ああ、と驍宗は思い出した様に軽く言った。
「明日下山します」
 明日、と李斎は目を見開き、繰り返した。
「出発の前にはご挨拶に寄らせて頂く。…思いのほか、長く蓬山に滞在してしまった」
 苦笑まじりに驍宗が言う。李斎は微笑んだ。
「残念です」
 天幕を見上げてそう言った李斎を、驍宗が見る。李斎は続けた、
「国へ戻ったら、もうお会いする機会はないと存じます」
 承州と鴻基、それは近いようで遠い。
「いかにも」
 驍宗はそれ以上言わなかった。
 話は途切れた。陣の奥まった一画に設けられたこの天幕には、広場の喧騒よりも、背
後の奇岩を渡る鳥の声の方が、よく響く。
 驍宗はその椅子にもたれた姿勢のまま、肘を預けた手を静かに組むと、自分の膝の先
を見るともなく見た。
「しばらく…、ここにいてもよろしいか?」
 視線をこちらまで向けず、わずか左へ投げて問うた男を、李斎は臥床の中から見やっ
た。ちょっと首を傾け、そして笑む。
「どうぞ」
 驍宗は少し笑ったようだった。小さく頷き、それから深く呼吸すると再び椅子に深深
ともたれた。それきり何も言わない。
 李斎も床の中で深呼吸した。それがとても安らいだ息であったことに、自分ながら少
し驚いていた。
「眠ってしまうかもしれません」
「かまわぬ。お休みになられよ。…そのときは黙って失礼する」
 驍宗はふと笑った。
「私がいて、お眠りになれそうか?」
「ええ。なぜです」
 驍宗はいや、と首を傾けた。
 鳥が鳴く。
 蓬山の夏は終ろうとしていた。



 この日、瑞州師から官邸に寄越された軍吏は、手渡された数通の書類の署名と印章を
その場で手際良くあらためると、再び重ねて揃え、一礼した。
「結構です。以上で全部でございます」
「ご苦労だった」
 答えた相手は、すでになにもない書斎の机に、片手をかけて立ち上がる。
 軍吏は、あまり感情を表に出さぬそつのない男だったが、それでもその姿をある種感
慨をもって見た。
 女性にしては長身でしっかりとした体つきの彼女が、皮甲をつけて屈強の兵士たちの
中を、きびきびと動き回っていた様を、彼はいまでも思い出せる。
 思えば、それはもうかなり長くなった彼の官吏人生の中で、ほんの数月でしかなかっ
たが、十年の空位の後に訪れたそのひとときは、新王と王の選りすぐった重臣たちとの
眩しいほどの笑顔に彩られ、燦と輝いた一時代だった。
 その後の、明日の知れない闇に閉ざされた七年が、あまりに過酷で凄惨であった分、
切ないほどの懐かしさがある。
 王は再び玉座に戻り、台輔は回復し、朝は再編の端緒についた。
 だが、国土は荒れてやせ細り、生き残った民は疲弊しきっている。王師にしても現在、
合わせて黄備三軍に満たないありさまだ。王宮も随所でいまだ荒れたままで、白圭宮が
その名にふさわしい玉のような姿に戻る目処は、全くつかないと聞いている。
 王と国政を預かる官たちのこれからの苦難は、かつての当極当時の比ではない。誰も
が、それを重く受けとめ、それでも確かな前途を見据えて、日々の務めをこなしていた。
 
 いま、目の前の彼女は、もう皮甲をつけていない。今日もあの頃と同じように、これ
から王宮へ参内するのだが、官服ですらない。平服だ。
 そして、彼女は今日伺候すれば、二度とこの官邸には戻ってこない。
 将軍官邸はこの午後に、瑞州師から一旦、大司馬府に返還され、彼はそれに立ち会う
ことになるだろう。
「将軍、…いえ」
 彼は言いよどんだ。既に彼女は将軍ではなかった。
「…后妃、」
 相手は目を丸くし、それから苦笑した、
「ちょっと早いな」
 軍吏もわずか笑い、首を振った。帳が除かれて剥き出しの玻璃窓からは、晩秋の陽光
が降り注ぐ。
「――はじめて拝見しましたが、よく、お似合いです」
 元将軍は昔の様に、軽く肩を竦めて、快活な目を巡らせた。臙脂(えんじ)と白の襦
裙を自分で見やる。
「昨日届いた。…参内するまでは無官の臣だし、官服でいいと思っていたのだが、そう
言ったら内宰に叱られてしまった」
 困った様に笑うのがこのひとらしい。きっと、と彼は思う。よい后妃におなりだろう。
「輿がこちらまで来られるのですか」
 溜息が答えて頷く。
「歩いていくと断ったが、どうでも格式ばらないといけないらしい。なんでも天官の立
場がないのだそうだ」
「お国の威儀は大事です」
「その通りだ」
 将軍ではなくなった、そしてまだ后妃ではない女性は微笑む。晴れやかな微笑であっ
た。
「僭越ながら、瑞州州侯師中軍の全兵士になりかわり、ご多幸をお祈り申し上げます、
――李斎様」
「ありがとう」
 李斎は姿勢を正し、将軍印章を入れた螺鈿の箱を、一度拝して、彼に渡した。
「確かに引き継いでくれ。…新しい中将軍に、よしなに」
「かしこまりまして」
 軍吏は恭しく受け取ると、捧げ持ったままその場に伏礼した。
 彼が立ち上がったとき、書斎の入り口から、使いの天官の到着が告げられた。



w7
「聞きましたかな、将軍」
 巨躯の師帥の太い声に、焚き火の前の男が顔を上げた。慣れないものなら、その目を
向けられただけでも萎縮するのだが、なにしろ師帥はもと同僚、長い付き合いなので、
この程度では気にもとめない。
 なにを、と紅い目が問い返し、隣を示す。
 眼光は鋭いがこれはいわば地で、仲間うちで狩りをしながらの旅の楽しさゆえか、む
しろ柔らいだ気配だった。師帥は笑顔のまま腰を下ろした。
「さっき、剛氏のところに行ったものが帰ってきましてね。やはりいらっしゃるそうで
すよ」
 意味含みの部下の言に、将軍は首を傾ける。
「…誰がだ」
 得たり、と師帥が乗り出した、
「承州師のお方で」
 ふぅん、と将軍が頷いた。師帥は太い眉を上げ、将軍を見やる。
「気になりませんか」
「なんだ、心外そうに。巌趙は気になるのか」
 字を呼ばれて、師帥はその巨躯をゆすって笑った。
「そりゃあ、こんな色気のない旅ですからな。皆まだ、戻ってきた臥信のやつをとっつ
かまえて根ほり葉ほり聞き出してますよ」
 言いながら後ろを示す。自分もそちらを振り返って後、将軍は師帥に目を戻す。
「実を言うと、私は大して信じてなかったんですがね。せいぜい話半分くらいにしか。
ところが聞いたところでは、どうも噂どおりの方らしいですな」
「李斎殿は優れた将軍だろう。私もそう思っている」
 巌趙は手を振った。
「違う、違う。いや、優れているってのは違わないようですが。なにしろ全面的に剛氏
に協力して旅をすすめていて、第一、黄海に入る前に荷を作りなおさせて、それ、私ら
と同じような荷を全員に持たせたとか」
「ほぉう?」
 初めて将軍は、興味深げに身を乗り出した。
「まるきり、統率のとれた剛氏――なんてもんはいないらしいが――そういう一団が混
ざっているような按配だそうですよ。その上、煮炊きも小人数に分けて、寝るときも…」
 ここで真剣に聞き入っている主と、話のそれた自身に、禁軍師帥は苦笑した。
「まったく。そうじゃあないんだ。私の言いたかったのは」
 師帥は親しいこの将軍の顔をのぞきこんだ、
「承州師の李斎殿、と言えば?」
「…知略勇猛の将、だろう。知っているとも」
「その続きは」
 将軍は黙る。
「こうです。流れる髪は腰につき、肌膚(きふ)は白璧、しん首蛾眉、と」
 は、と黙って聞いていた将軍は笑った。
「さらに小さく続きましてな。身の丈は並の女に勝れ、そして胸と腰はさらに」
 みなまで言わず、したり顔で結んだこの年長の部下に、将軍は笑いながら言った。
「巌趙。臥信はともかく、お前までがのるか」
「はい。なにしろ殺伐としたところですからな、ここは」
 辺りを見まわし師帥はとぼける。将軍は無邪気な顔で笑った。それを見て師帥も笑う。
「巌趙」
「はい」
「私が王に選ばれなかったら、お前どうする」
 師帥は笑みを引き、将軍をひたと見た。
「王はあなただ」
 それを聞き、将軍は笑む。自信に満ちたその笑みを見つめ、師帥は突如、大笑した。
「まぁ、万が一のときはどこへなりとお供しますがね」
「それは、有り難い」
 珍しく将軍は頭を下げた。よしてください、と師帥は手を上げた。
 万が一にも、と彼は思う。万に一つもそれはない。だが、あっても苦にはならない。
この方のない戴国や禁軍に、なにほどの未練が残ろうか。どこまででも供をするのだ。
国を出るとき、その腹は括っていた。
「――ああ、臥信がやっと戻った」
 将軍も見やる。使いに出したもうひとりの師帥が歩んできた。
「驍宗さま」
 明るい声が近付く、
「聞きましたか」
「聞いたぞ」
 将軍の即答に、戻ってきた若い師帥は目をまるくした。
「悪いな、臥信」
 と、大きな手が乱暴に背を叩く。
 焚き火の側にひとしきり笑いが起こった。


「話がはずんでおられましたな」
 声をかけるや、巌趙はどかりと脇に座った。驍宗はそちらに目をやり、それからまた
騎獣の首を撫でる。日暮れである。
 蓬山は甫渡宮前の広場に設けられた禁軍の陣にも、紫の夕闇が迫っていた。
 今しがた、蓬山公が帰って行かれたその方角を、字のとおり巌(いわお)のような師
帥は見やった。
「毎日のようにいらっしゃってるのに、どうにもならんのですか」
「蓬山公か。未練を言うな」
 彼は軽く返した。
 ――中日までご無事で。
その一言で、彼の大望は潰えたのだ。巌趙は太い眉根を寄せ、主と恃(たの)むこの
男の、決して見せない落胆を痛ましく思ったが、すぐにつとめて明るい声を出した。
「いやぁ、劉将軍ですよ。お好きでしょう」
 驍宗はまた巌趙を見、そして憮然と乗騎に目を戻した。
「なぜだ」
 巌趙は当然だとばかり、大きく笑った。
「もっとも、あの人柄に惚れん武人はおらんでしょうな。我ら一同、すでに完全に落と
されました。臥信なぞ当初は美人だ美人だと騒いでいたのが、近頃はなんとか剣の相手
をしてもらおうと躍起になっとる。ま、我らも似たようなものですが」
「そうか」
 答える声はやはり静かだ。昔なじみのこの師帥は、弟に向けるような慈愛のこもった
目になった。ことさらに明るく続ける。
「それで?もう口説かれたか」
 口説くもなにも、と彼は騎獣を撫でながら、つい笑む。
「あれがそう簡単に口説かれてくれる女か」
 巌趙はその笑顔に眉を上げ、そして鼻を掻いた。確かに件の女将軍は、武人としては
実にさっぱりと誰にも気安いが、女性として口説くには、余りに疎すぎて難しいようだ。
決して女らしくないわけではないのだが。
 だがまぁ、と言いつのる。
 女から追われはしても追うことはまずない主が、珍しくも関心を示している相手であ
った。この際、主の元気が少しでも出るならば、世話焼きな口をきくことくらい何でも
ない。
「あちらもどこかまんざらでもないから、毎日ああして蓬山公連れて会いにおいでなん
じゃ」
「それは違う」
「えっ?」
「蓬山公の方が、李斎殿を連れていらしてるのだ。計都をエサに」
 言って将軍は乗騎、計都の首を叩いた。巌趙はきょとんとした。
「私はまたてっきり、李斎殿が計都エサに公をお連れになってるものと」
 驍宗は軽く笑って立ち上がった、
「それは将軍に失礼だぞ」
 ああそうだ、と彼は巌趙を振り返る。
「明日、留守にする。陣を頼む」
「結構ですが。…狩りですか」
「すう虞の狩り場に、李斎殿を案内する約束だ。蓬山公も将軍がお誘い申し上げたが、
さて女仙方の許しが出るかな。まぁ無理だろう」
「お二人だけで、一晩」
「そうだ。騎獣の足でなくてはそう短時間では行って来られない。もっとも公が一緒な
ら夜中とはいかぬ、未明から昼にかけてになるがな…どうした?」
 巌趙は歯を剥いて、己の太い首を叩いた。
「なあんだ。しっかり口説かれているんじゃないか。それにしても黄海で逢引とは、な
んともお二人らしい!」
 声を上げて笑い出した部下に、驍宗は呆れ顔をした。
「計都をお見せしたらすう虞を捕らえたいと言われた。だから、お連れしようと言った。
それだけのことだ」
「充分じゃあないですか」
 巌趙はなおも笑っている。驍宗は眉をひそめた。その苦い顔に、いよいよ楽しく笑い
かける。
「気づいておられぬようだから言っときますが驍宗さま。もしか相手が男の将軍でも、
狩り場まで案内なさるか!」
 はっはと身体を大きく揺らし、驍宗の肩を二三度嬉しげに叩くと、首を振りながら巌
趙はそこを去った。
 残されて、驍宗はふと舌打ちすると、まいったな、と口の中で呟いた。


 天幕の前の声は先ほどから繰り返している。
「お通しはできかねます」
「…頼み申す」
「ですからできないと申し上げている」
 長すぎた一日は終り、日はようやく落ちたところだ。
 李斎の師帥は、疲れた顔を声のしている表の方へと物憂く向けた。警衛に立つ兵卒が
まだ誰かと話している。立ち上がり、薄い戸を開けて、すぐそれを後ろ手に閉める。
「なにごとだ」
 助かったという様に、兵卒が振り返った、
「ああ師帥」
「師帥どのか。劉将軍に会わせて頂きたい」
 そう言った押し問答の相手を、宵闇の中、かがり火の光に見やった師帥は、細めた目
を大きく見開いた。
 ついで自分の顔に険しさが浮かぶのを自覚した。が、この男を責めるべきでないとは
承知している。一呼吸置いて、静かに告げる。
「驍宗どの。せっかくだが、劉将軍は意識がおありにならないのです」
「伺った」
「ではお引き取り下さい」
「それでもお見舞い申したい」
 師帥は収めかけた怒りが立ち昇るのを感じた。さらに冷静に告げる。
「今日は無理です。また日を改めてお越し下さい」
「お顔を拝見するだけでよい」
 彼は息を吐いた。はっきり言わねば分からぬか。
「主は重態です。このような場所で、しかも女仙方の恨みをかったため、間に合わせの
手当てしか施されず、まだ一度も意識が戻らず臥しています。かようなところに、他軍
の将をお通しできると思うか。まして主は、…お忘れのようだが女性です」
 相手は黙った。視線を足元へと落す。師帥は憤然と踵を返しかけ、ふと立ち止まった。
「飛燕を連れ帰って頂き、ありがとう存じます」
 相手が誰であれ礼を失しては、仕える将の名折れとなる。そう思って謝辞だけは述べ
た。そのとき相手の鎧に目が行った。
 胸にななめの痕跡がある。少し歪んでさえいた。
 …打たれたのか。
 饕餮だったと聞いた。最大最強、伝説の妖魔。すう虞狩りに蓬山公を誘って出かけた
二人の将軍は、公が饕餮を使令に下したことで救われた。主の命もよくもあったものだ
が、それは目の前の男とて同じなのだ。…無傷で戻ったことを恨んでは酷だ。
 李斎の師帥は初めて表情を少し緩めた。
「将軍。お戻りになって休まれたがよろしいでしょう。気がつかれたら、お見えになら
れたことは、お伝え申します」
 瞬間、男が顔を上げた。師帥はたじろぎ、あやうく後退(じさ)るところであったの
を、かろうじて踏みとどまったが、全身に震えが走った。
 低い声が静かに漏れ出る。
「お会いせぬうちは、休めぬ」
 その眼光に射すくめられ、師帥はわれ知らず唾を呑みこんだ。冷や汗が、背を流れた。
「すぐ、お暇(いとま)致す。何卒」
 なぜ頷いたのか、自分でも分らない。

 狭い天幕の中は簡素な臥台でほぼ一杯だった。
 師帥は将軍の後ろから入っていき、戸を閉めた。
 振り返ると、大きな背中が黒々と突っ立っている。その背から、息を呑む音が微かに
聞こえた。
 それからおもむろに影は、床の敷物に跪き、意識のない相手に丁寧に拱手した。
 腕を下ろした後も、ただ黙って臥台を見やっている。微かに震えているのが、足のせ
いなのだと師帥は気が付いた。
 跪いている両脚が、疲労に耐えかねて痙攣しているのだ。どれほど消耗しているのか
知れない体を引きずって、この男は蓬山まで戻ってきたのだ、と思った。
 師帥は自分もその隣に立った。主の様子を見、将軍の横顔を見る。予想したようない
かなる表情も、そこにはなかった。ゆるぎない目がひたと見据える先に、主の白い顔が
ある。
 彼はなおも動かない。
「あなたの責ではない。それはよくご承知のはず。先ほど女性だと申し上げたのは、あ
くまで許可なくお通しすることについてで、お怪我についてではありません」
「そんなことは思っておらぬ」
 言葉に、師帥が振り向くと、将軍は仄かに微笑した。
「噂にたがわぬ、立派な将であられる。…お怪我させ申したなどと、そのようなこと思
っては非礼に過ぎよう」
 師帥はその顔を見、ええ、と小さく頷いた。
 そのとき、失礼します、と声がかかった。
 振り返ると随従のひとりだった。手にしたものを師帥に見せる。
「蓬山の女仙が見えられ、劉将軍にこれを、と」
「なんだ」
 気をつけて下さいよ、と渡されたのは銀の盆、片手にすっぽり納まるほどの小さな蓋
つきの容器が載っていた。
「お傷と痛みに効くそうです。一刻も早く差し上げてくれ、との口上でした」
 それを聞くと師帥は複雑な笑みを浮かべた。
「なるほど。蓬山公がご無事に戻ったので、ようやく手当てする気になられたか」
 実際、酷い一日だった。
 彼はじれて殺気立った女仙から、公に変事あれば主も彼らも生かしておかぬ、とまで
言われたのだ。
 蓬山公の女怪とかいうあの人妖が、血まみれの主を抱えて夜明けの黄海から駆け戻っ
てきて、そして何も言わぬまま、再びどこかへと消えた。
 駆け付けたとき横たわる主のまわりでは、すでに土が赤黒くなっていた。天幕に運び、
手当てをしようと皮甲をとれば、無数の深手に目を覆いたくなるありさま、傷を拭って
止血はしたものの、手持ちの薬は、妖魔の毒には効かなかった。
 蓬山公を抱えた驍宗が、乗騎の背後に飛燕を曳いて戻って来たのは、夕暮れ近く。
 今の今まで、主は意識のないまま放置され、苦しみ通した。
「ともかく、すぐにお飲ませしよう」
「でも…先ほども」
「そうか」
 師帥は眉を寄せた。先刻、何とか水を飲ませようと試みたのだが、飲んでもらえなか
った。結局、水に浸した布で、かろうじて水分を摂らせた。同じ方法をとるしかあるま
い。
 ですが、とその随従は水差しを見やる。
「こんなちょっぴりですよ。布になぞ沁ませてたら、ほとんど無駄になりませんか」
 もっともな言に、師帥は嘆息した。
「致し方ないだろう。なにか清潔な小布を探してきてくれ。急げよ」
 師帥は枕上の台に、その盆を一度置く。そして、彼らの遣り取りを黙って聞いていた
見舞い客に声をかけた。
「失礼致しました。取り込んでおりますので、そろそろお引き取りを…」
 師帥は自分の言葉を最後まで言えなかった。
 立ち上がった男は、盆の上と、師帥の顔を瞬時に見やり、そして盆に目を戻した。
 師帥は驚愕の目を開いた。止める暇がなかった。
 目の前を、長い腕が伸び、水差しを掴むや、中身を一息にあおったのだ。
 なにをなさるか、と気色ばんだ彼を、大きな手が無言で止めた。その苛烈な眼差しに
気圧されて師帥が黙ると、男は臥台に向き直った。そして、熱に浮かされ浅い呼吸を繰
り返す主の首を、下から支えたようだった。黒い鎧の大きな背中が臥床に面伏せて、し
ばらくののち、背は再び起きると、深い息をついた。
 呆然と立つ師帥を男は振り返り、安堵したように微笑んだ。
「全部、お飲みになられた」
 なおも呆然としている師帥に丁寧に頭を下げ、客は出て行く。
「あの」
 言いかけて、師帥は瞬いた。言葉が見つからない。礼を言うべきなのか、それすら分
からなかった。
 呼びとめられた男の方が静かに言った。
「今日私がお訪ねしたことは、申し上げないで頂けるか」
 言った将軍の顔を見つめた。噂にたがわぬ将、それは目の前のこの男もそうである。
やはり立派な男なのだ、と思っていた。師帥は頷き、主を見た。
 土気色だった顔に微かに生気が戻り、呼吸がずっと楽になっている。
「他言致しません」
「かたじけない」
 さらりと言い置いて、禁軍の将は幕屋を出て行った。


w6
「李斎」
「存知ません!」
 今日の李斎は、ちょっと趣きが違っていた。
 居宮の李斎の客庁で、先程から王にくってかかっている。
 それを驍宗はむしろ楽しんでいる様子であった。李斎にしてみれば、ますます腹が立
つ。
「李斎のふくれ面は珍しいな。ふくれても可愛いぞ、まぁ、そううろつかず、酒を注げ」
 李斎はそれでも卓子に近付き、差出された酒盃に丁寧に酒を注いだ。しかるのち隣の
椅子にかけた。
「いったい、ご存知でしたら、なぜ早くお教え下さらなかったのですか!わたくし以外
の者は皆知っているだなんて、…あんまりです!」
「別にわざわざ耳に入れることでもなかろう」
「主上はなんともないのですか」
「大した事ではあるまい」
「大した事ではない。確かにさようでございますか?主上はわたくしのお尻に敷かれて
いると噂されているのですよ。事実無根とは、このことでございます。一体いつ、この
李斎があなた様をお尻に敷くような真似をいたしました」
「ひざに抱いたことは幾度かあるな」
 王は李斎を見、笑んでみせた。李斎は剣呑に目を逸らした。誰が返事をしてやるもの
か。
「わたくしがこれまでに、あなた様の命に従わなかったり、逆らったりしたことが一度
でもございますか?勝手に何かを許可もなく取り仕切ったことがございましたとでも
…?」
「いいや。そなたは実に従順で賢い、自慢の妻だ」
「そして下世話な言い様をお許し願えれば、主上は亭主関白の範でいらせられる」
「そうか?わたしは愛妻家を自負しているのだがな」
 李斎は、すっとぼける夫君をねめつけた。
「恐妻家だと言われておいでなのです。一体どこをどう見たら、主上が恐妻家でいらっ
しゃいますか、お心あたりがございますかっ?」
「ある」
「何とおっしゃられた」
「ある、と言った。あの噂の出元は、わたしだからな」
「主上…」
 李斎は口を開けた。驍宗は平然と杯を上げた。
「視察に出ると州城を訪ねる」
「それがなにか?」
「まぁ、聞け。すると必ず、随従とわたしには接待役があてがわれる」
 李斎は黙った。いくら自分のことには疎い李斎でも、世間の常識は良く分かっている。
「随従にはうるさいことは言わぬ。だが、わたしはそなた以外と閨を共にする気はない。
歌と踊りと酌だけで、引取ってもらうには、嘘も方便だ。向うも州侯に命じられた一番
の美姫だ、そう簡単に引き下がってはくれぬからな。愛妻家だなどと知れたら、一層、
むきにさせるだけのことだ。恐妻家の腑抜けで、魅力のない男だと思わせるのが一番だ、
違うか」
「…違うか、と…申されましても」
 李斎は完全に毒気を抜かれてしまった。浮気をせぬために、嘘をついたと言われては、
責め様がない。
「主上は、おずるいです」
「ずるいか?」
「はい。それではわたくしは恐妻の汚名を雪ぐことができません」
 驍宗は高く笑った。
「許せ。ささやかな嘘だ。ひとが何と噂しようと、李斎は見事な妻で、わたしの自慢だ」
 李斎は例によって小さな溜息をひとつついた。夫が噂の出元で、こうまで言われては、
尻に敷いていると言われようが、恐妻と言われようが、耐えねばならない。
「主上は本当におずるいです」
 そう言って、むくれ顔のまま、酒を注ぎ足した李斎の左頬を、驍宗はつまんだ。
「うむ。そして李斎はふくれ面でも可愛い」 
 驍宗は手を離すと破顔し、杯を上げた。


「暑いですねぇ、将軍」
 師帥は、彼の上司に声をかける。天馬を歩ませる上司は、そうだなと頷いた。
 同じく皮甲をつけていても、風に長い髪をそよがせたその顔を見ると、一瞬暑さを忘
れられる。それでつい声をかけるのだが、やはり一瞬である。
 暑い。砂漠と樹影のその海は、果てしもないように思われ、日の暮れが近いというの
に、空はまだきっぱりと青かった。とにかく北国育ちにはこの暑さがこたえる。彼は溜
息をついた。故郷承州は、北の極国、戴のなかでも北だ。
「剛氏は何と言っていた」
「ああ、ええっと…」
 促され、師帥はこの先の状況とその対策について、聞いてきたところを語る。しばし
熱心に耳を傾けて、将軍は目を見開く。
「そんなことまで教えてくれたのか」
 黄朱の民は余人を受け入れない。それが常識だった。まして、彼らは州師の一行、剛
氏を雇っての黄海路ではない。だから、一応教えは請いに行かせるものの、必要最小限、
剛氏の雇い主たちの甚だしい妨げにならぬだけの情報しか、期待すべきではない。
 ところが、黄海に入って旅程も半ばにさしかかったころから、剛氏たちは一様にこの
一団に対し、格別、としか考えられない配慮を示すようになっていた。
「礼を言ってこよう。後を頼む」
 あっさり言うと天馬の首を巡らせる。
 師帥は、見なれた赤茶の髪が、後ろの集団を目指して戻っていくのをしばし目で追っ
た。
「まったく、うちの将軍は腰が低いですよねぇ」
 卒長が笑う。師帥もちょっと振り返って一緒に笑った。
「確かに」
 黄朱に対して礼節をつくす将軍なぞ、ちょっといないだろう。師帥自身、最初は抵抗
があったものが、あまりに自然に接する上司の隣で、いつまでも自分ひとり肩をいから
せてもおれず、気付いたら、それなりに敬意さえ払っている。兵も同じだ。
「剛氏たちが言ってましたよ。軍人の昇山者は多いが、門前で持参した糧食を売っ払い、
剛氏に荷をつくらせたなんぞ、前代未聞だと」
「だろうなぁ」
 師帥は鞍につけた自分の荷物を見やった。声をかけた卒長の馬にも、歩きの兵卒たち
の背にも、各々ひとり分の荷と水とがくくり付けられている。
 戴とは正反対にある令坤門に、夏至直前ようやく辿りつき、情報を集めた。それまで
は一行のなかに、「剛氏」の存在を知っているものさえいなかった。
 彼らの主の決断は鮮やかだった。
 承州師として蓬山で、最低限の威儀と体面を整えるための機材を残し、速やかに全て
の物品が換金された。糧食で一杯だった荷車が、あっさり人数分の背負える小さな荷に
化け、残りの金は、驚くべき短時間でそれらを手配した剛氏あがりの商人への謝礼と、
彼の知り合いの現役剛氏からの情報代に消えた。
 兵卒たちは荷車を押すかわりに、教えられたとおり、焚き木にする落ち枝を拾いなが
ら歩き、水場を見つけては師帥までが馬を下り、こまめに自分の皮袋に補給した。
 障害物が道を塞ぐと、剛氏が集る。そこへほぼ同時に駆け付け、枝を打ち、岩を除く
のも、常に彼らだった。
 州師からの昇山者は、なにも彼らだけではない。他州師からも皮甲をつけた一団は来
ていた。通常の行軍のように、水と糧食で一杯の荷車を従え、営地では大人数分の食事
を煮炊きしている。
 当初はその小麦や米の匂いを嗅ぐと、百稼、とかいう雑穀を挽いたものばかり連日食
わされる彼らは、羨ましげにその大鍋を見やり、ついで恨めしそうに、班編成にされた
自分たちの小さな焚き火にかかる小鍋の粥を見つめたものだ。
 しかし、やがて黄海をとりまく金剛山がはるか遠くにその威容を没し、妖魔の襲撃が
頻発しだすと、この不満はあとかたもなく消え去った。
 彼らは他州師に比べて、もともと数が少なかった。にもかかわらず、生存率がずば抜
けて高かったのだ。
 一瞬で荷を負い、野営地から遁走する。妖魔の夜襲を逃れるにはこれしかない。軽い
荷、充分な栄養、そして簡素な調理は短時間ですみ、早々に火の始末をつけ余分に寝る。
黄朱の智恵を侮らず、彼らのやり方を限度一杯に取り入れたことが、どれほど黄海で確
実に彼らの安全を確保するか。
 自分たちの生命をなにより重んじてくれた将軍の温情を、全員が理解した。

「どうした」
 声に焚き火から顔を上げると、将軍が髪をかいやり、にこりと笑んだ。暗青色の目が
涼しい笑みをたたえている。
「いえね、剛氏の噂話です。我らは鵬翼に乗っているんだそうです」
「鵬翼?」
「鵬雛…、昇山者の中で王に立つ者のことを彼ら、そう言うんですけれどね。その鵬雛
がいると。王のいる昇山の旅は格段に楽なのだそうですよ」
「そうか」
 ため息まじりの声に、笑顔で話していた師帥はちょっと首を傾けた。
「どうしました」
「なるほどと思っただけだ…。少し離れて進んではいても、紛れもなく、今回の昇山の
一行には違いない」
 師帥は瞬いた。その様子に、茶目っ気のある眼差しを上げ将軍は淡々と言う。
「乍将軍だろう、鵬雛は」
 師帥は大仰に顔をしかめた。
「何を言っておられるんですか。あなたに決まっているでしょう」
 これを聞くと将軍は、女にしてはしっかりとした肩をすくめた。
「あちらがどのような御方か、知らないお前ではないだろうに」
 令坤門で聞いたその禁軍将軍の名は、戴国のみならず、他国にも通っていた。
 それは、と師帥は息を吐く。
「立派な方だと思いますよ。噂どおりならば、ですが。でも噂です。そりゃあ将軍とし
ては名の通ったお方だし、狩りをしながら小人数で黄海に入るなんて、只者じゃないと
は思います。でも王であるかどうかは別の話です。それに、あなただって余州に名高い
将軍でいらっしゃる。承州師の李斎殿といえば、戴国の夏官で知らないものはいません
よ。為人ときてはまず、どこかの禁軍の将に勝りこそすれ、劣るものではありません。
とにかく私たちはそう信じるからこそ、承州からはるばるお供仕ったんです」
 非難を浮かべた言と顔に、将軍は素直に頷いた。
「分かった。ありがとう」
「お分かり下さいましたか」
 ああ、と笑んで、それから眉を上げる。承州師の李斎、知略に優れた勇猛の将、その
噂の後に続けて、白璧(へき)の肌と柳の眉、と謳われるその眉だ。
「でも駄目だったら、帰りはこちらもすう虞狩りだな」
「将軍!」
 気持ちの良い声で高らかに笑いながら、兵の様子を見まわりに行く背中に、師帥は溜
息をついた。

 野営地には今日は月がある。葉の生い茂る名前も知れない樹木の枝ごしに、将軍李斎
は月を仰いだ。
 李斎とて己のことを、天命あれば王たらんと思えばこそ、故郷を後にした。だが、伝
え聞くかぎりにおいて、自分が彼に勝るとは到底信じかねるのも事実だった。
 彼女は息を吐いた。
 蓬山公にお会いしよう。それからのことはまた考える。とりあえず、と彼女は自分の
鞍につけた荷を思って笑む。その中の皮袋には、用意してきた瑪瑙があった。すう虞の
好物である。狩りのことを考えると、俄かに元気の出てくる自分の単純さにひとり苦笑
した。
 蓬山に着けば、彼にも会えるだろう。ふと笑みが引いた。その軍才と人望、剣客で聞
こえた戴国禁軍左将軍の氏字を、乍驍宗という。どんな男であろうか。これは考えても
無駄だった。禁軍の将としては異例の若さで拝命したという以外、外見に関しては、お
よそ聞くことがない。大柄か小柄かさえ伝わらぬところを見ると、そう極端な体格では
ないらしいと想像するばかりだ。
 狩りは夜する。とすればこの月影の下、かの将軍は騎獣を駆っているのだろうか。た
った数名の手勢を連れて。
 ご無事で参られよ。李斎は、ふたたび月に視線を投げ上げると、小さく心に呟いた。


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