官府の紙に、小学の生徒のような文字が踊る。明朝の六朝議では、三将が自軍の現状
を報告するのである。苦闘の筆墨に微笑んだ驍宗に、李斎がそっと尋ねてみる。
「お読みになれますか」
「ああ。読める…」
顔を上げぬままの即答に、李斎の表情にはちらと一瞬、控えめながら得意の色がさす。
彼女は姿勢を正した。
「明日には浄書を提出します」
「うむ。よく間に合わせた。かなり苦労だった様子だが」
「はい。ですが、左手が遅いせいばかりとは申せません。元からこうした机仕事は大変
に苦手で、正直なところ、嫌々やっておりましたので」
しかめ気味の顔でそう答えると、快活に笑んだ。それは、昔と同じ顔である。
李斎は、別段、無理をしているわけではない。
彼女はとうに、自分の身体の現実から、寸毫目をそらしてはいない。そのうえで、残
された左手が、身体と周囲に折り合いをつける様を、日々楽しもうと決めていた。不器
用な左手に落胆せぬように努め、さげすむことを思わずに、その進歩を評価することに
していた。
生来の性質(たち)と、子供のように物事を楽しめる傾向を、今回の喪失にあっても
彼女は手放さなかった。このごろでは実際、楽しんでいることさえある。
この強さだ。と、驍宗は目を細めて、彼女を見る。
かつて驍宗は彼女を、夏の光の中で、彼女が人生における輝かしさの殆ど全てを持っ
ているときに、見初めた。
この女だ、と思った。
優れた才能と健康な体、それらをいかせる仕事がそろい、しかも仙であるかぎり老い
ることのない者が、自信に溢れ、強く朗らかでいられるのは、むしろ当然であるのかも
しれない。
だが人生は、本来が、失うものだ。
彼女は失い、驍宗も失った。彼らの戴は、それよりも、まだもっと多くを失った。そ
れは、けっしてあがなわれることのない損失だった。
死んでいった数十万の民の命。彼はその全てを背負い、ここまで衰えきった国と民を、
この先、命の果てまで背負う。
いま、覚束ない手蹟をもって淡々と、書面の作成を――おそらくは、彼女が将軍とし
て果たす、最後から幾番目かの仕事になるだろうそれを――、苦手だなどと笑いながら
こなしている姿に、驍宗は改めて、感慨と確信をもって、視線をそそいだ。
この女なのだ。と。
七年前は、いつかはと思った。いまは違う。どうでもすぐに、側に来てもらう必要が
ある。
しかしながら、まだ驍宗はそこに立っている。驍宗のなかで、既に当然のこととして
決定しているそれを現実にするには、まず李斎にとってはいまだ当然のことではないと
いう事実を、なんとかしなくてはならない。
驍宗は、彼にしては珍しく、逡巡して言葉を探し、そして切り出した。
「今日は、話をしたいと思って訪ねた」
「はい」
すでに聞く態勢で、緊張感を漲らせてこちらを見る李斎に、驍宗は眉を寄せ、傍らの
椅子に目をやって、掛けるよう、促した。
李斎は、驍宗の眼光に背を押されて、先に腰掛ける。驍宗が向かいの上座に袖を捌い
て座る。
「なんでございましょうか」
真正面から尋ねる李斎の顔には、仕事の文字しか見えぬ。驍宗は内心嘆息する。これ
では、七年前となにも変わらない。
「李斎は…」
「はい」
「――私に言いたいことは、ないか?」
誰か第三者が内実を承知で聞いたなら、頭を抱えたに違いない台詞を、大真面目に言
った後、驍宗は李斎を鋭い目つきで見据えた。
李斎は目を丸くして、驍宗を見返した。
「――申し上げたいこと、…で、ございますか」
李斎は瞬いた。あきらかに、当惑しているのだった。
「個人的に、なにか…いや、どんなことでもよいのだ、――私に言っておきたいことが
あるならば、この機会に聞きたいと思う。何なりと、言ってもらいたい」
李斎はまた目を瞬いた。そして、もう一度驍宗の顔を窺うように、見返す。
――このような、一対一の御下問をなさるために、主上御ん自ら、各府第をまわって
おられるというのだろうか…?それで、瑞州府へもお運びになられたのだろうか。
余人は知らず、それが驍宗であってみれば、忌憚のない意見を直に聴取するためなら
ば、ありえそうな気もする。
ふと、見つめ返していた李斎が、どこか、遠い表情のうちに、口を動かした。
「…どんなことでも…、」
うむ、と驍宗が頷く。
「どんなことでも、よい」
李斎は、驍宗を見た。その目に、甘やかな思いなど、微塵も映ってはいない。どちら
かといえば、悲壮な顔であった。
落ち着いてはいるが、表情は固く、幾分か血の気が引いている。向けられた射抜くよ
うな目の色に、驍宗はわずかに息を飲んだ後、やはりまともに、見返した。
「それでは、ひとつだけ、どうしても主上にお聞き頂きたいことがございます。…よろ
しいでしょうか」
驍宗は真顔で頷き、
「聞こう」
と低く言った。
李斎は背筋が震えたと思った。
浅くつばを飲み込み、一瞬だけ目を閉じてから、居住まいを正した。
彼女は、穏やかな口調で話し始めた。言葉は殆ど選ばなかった。時間が、ほかには物
音のない広い部屋に、さらさらと流れた。
驍宗は黙って、李斎の顔から目をそらすことなく、耳を傾けた。彼は相槌のかわりに、
目を据えたままごく浅く頷くよりほかは、身じろぎもしなかった。そして李斎も、ただ
の一度も、驍宗の厳しい眼差しに臆さずに、語り続けた。
それは、今日この日まで誰一人として、驍宗の前で行うことのなかった、――報告な
どではなく――主観的で率直な、意見の表明であった。
驍宗が王として、麒麟である台輔の様子に民意をはかっていた事実を、まず李斎は確
認した。そして、七年前のある日、驍宗自らが李斎に対して、その考えを明かしたこと
を覚えておられるだろうか、と問うた。
驍宗は短く、覚えている、と答えた。
李斎の目もとが、かすかだが、自分でも意識せずに和んだ。
寒い霜夜であった。夜更けてひとり、内殿の庭園内で途方に暮れていた李斎は、思い
がけず驍宗から声をかけられ、路亭に同席して、しばらくの間、話をしたのだ。
李斎の表情がまた固くなった。
「――あの日、主上は、台輔に見せない方がよいと思われることは、民にも見せるべき
でないと思う、と仰せになりました。私はそれに同意しました」
驍宗は再び無言で頷いた。李斎は続けた。
「ですが、それは間違いだったと、いまでは思っております」
せつな、目がまともに合う。どちらもそらさない。
李斎は声が震えないようにと努めながら、そのまま続けた。
「民の目からは、何も隠してはいけなかったのです…」
隠すこと自体が過ちだったのだ…。玉座を奪われたのは、驍宗の罪咎でないとしても、
あれだけは覆うべくもない非であった。しばらく前から、李斎は、そう考えるに到って
いた。
元来、疑問あらば声をあげるにやぶさかではない李斎であったが、それでも驍宗の過
ちを認めるのは、少なからず恐ろしかった。現に、鴻基を離れて幾年もの間、一度も考
えようとはしなかった。当時、偽王と戦う李斎にとって、それは考えてはいけないこと
だったのである。
正当な泰王から、阿選は玉座を奪い、民を虐げている。あまつさえこの非道に、天の
救済がない。驍宗に完全な正義と道があること、彼がいかなる落ち度もない立派な王で
あったことが、あの数年、李斎らの唯一の支えだったのだ。
李斎が、驍宗にもまた幾ばくかの落ち度はあり得たはずだ、という、言ってみれば当
然のことを口にしたのは、六年もが過ぎてからであった。泰麒の救出を巡り、蓬山へ向
かったときが、最初である。
ただ、相手への譲歩として口にしたそれは、まだ論戦の上の技術にすぎなかった。
そうして去年の夏の終り、蓬莱から戻った台輔の口から回想を聞き、その当時の心情
をうちあけられて、李斎は自分の考えから、もはや逃れられなくなった。
王は、ひとである。天さえ過つものを、ひとが過たぬはずもない。
彼女の王、驍宗もまた、過ったのだ。彼女は、それを認めた。
七年前の粛清に、李斎は参加していた。彼女が自分の目で見、秋官の長が親友であっ
たことから、その専門家としての法的見解をも聞いていた。だから李斎は、驍宗のした
ことが、規模が大で――処分された人数が非常に多く――、しかもきわめて短期間で行
われたため凄惨な様相を呈しはしたが、ひとつひとつは徹頭徹尾、合法であったことを
よく知っていた。
確かに、処刑が公開されなかったことだけは、どの国の通例とも異なっていた。だが
それ自体は、天綱のどこにも禁じられてはいない。地綱は改正してあった。つまり天に
も地にも、いかなる法の文言(もんごん)にも抵触してはいなかった。――それでも、
間違っていた。
先ほど驍宗に問われて李斎は、それを言う、生涯にもう二度とはない機会を得たのだ
と思った。
不興を買うのは覚悟の上であった。彼女が将軍であるのは、あとわずかな時間だった。
官として臣として、戴国と王のためにできることは、もう大して残されてはいない。
官を退くその前に、申し述べておきたいことが、確かに李斎にはあったのである。
泰麒から、恐ろしいことを耳に入れてくれたからこそ、阿選を信じたのだと告白され
たとき、自分がどう感じ、なにを考えたかを、李斎は淡々と語った。
そして最後に、驍宗に対して、どうか二度と、台輔の目から何も隠してはくれるな。
麒麟の目に映るのが民の恐怖だとの主上のお考えには、いまも心から敬服しており、正
しいものと信じる。ただ、あの目は、それを見せるかどうかではなく、麒麟を恐怖させ
てもなお、今すぐに為さねばならぬかどうかの基準とすべきだったのだ――。そう熱心
に、李斎は説いた。
ひよっとしたら驍宗はとうに悟り、得心していることであったかもしれない。だが、
それでも臣の誰かが言う必要がある、と李斎は思っていた。
李斎が話すのを終えたとき、驍宗はしばらくなにも語らなかった。
ややあって、彼は静かに口を開いた。
あのとき、と驍宗は言った。霜の夜の路亭でのことだ。
「考え深いそなたが、よくよくの思いで訴えただろうものを、私は説き伏せ、納得させ
てしまったのだったな」
「主上…」
向けられる目は常のように苛烈ではあったが、気配はけっして波立ってはおらず、む
しろ穏やかに凪いでいた。
李斎はその凪を見ていた。なぜだか、目を離せずに見ていた。
このまま、一生でも見続けたい光景だと、そんなことを思い、瞬きもしなかった。
よく分かった、と驍宗が低くかみ締めるように告げたとき、李斎は緊張が解けた勢い
で、自分が泣き出すのではないかと思った。ぐっとこらえて、俯いた。
「――二度と、民に隠すことだけはせぬ。そのことを、」
驍宗は言葉を切った。
「そなたに誓う」
李斎は顔を上げ、首を傾けて、驍宗を見た。
「……」
驍宗はしごく真面目な顔をしていた。
李斎はなにか言いかけて唇を動かしたが、声にはならなかった。
「きっと、約束する。……分かったか?」
驍宗の目を見たままで、李斎は思わず、黙って頷いていた。
驍宗はそれを見、自分も頷いた。頷いた後、はっきりと笑んだ。
この日驍宗は、まもなく李斎の仕事部屋を辞した。
李斎は驍宗を送って、机に戻らず、先ほどの椅子にまた掛けた。彼女はしばらく何も
せず、そこに座っていた。
それから李斎は、大机の上の、もうあらかた出来てしまった報告書の草案を脇へ押し
やって、官紙の反故を取り出し、考え考え別の下書きを始めた。わずか数行でそれを書
き終えると、今度は奏書に用いられる紙を引き出してきて、静かに墨をすった。
厚手の白い上質の紙には、丸い大きな子供ぶりの文字で、注意深く丁寧に、挂綬の允
許を請う、と、まず記された。
挂綬(けいじゅ)とは綬を解いてかけおく――すなわち、辞職の意である。
を報告するのである。苦闘の筆墨に微笑んだ驍宗に、李斎がそっと尋ねてみる。
「お読みになれますか」
「ああ。読める…」
顔を上げぬままの即答に、李斎の表情にはちらと一瞬、控えめながら得意の色がさす。
彼女は姿勢を正した。
「明日には浄書を提出します」
「うむ。よく間に合わせた。かなり苦労だった様子だが」
「はい。ですが、左手が遅いせいばかりとは申せません。元からこうした机仕事は大変
に苦手で、正直なところ、嫌々やっておりましたので」
しかめ気味の顔でそう答えると、快活に笑んだ。それは、昔と同じ顔である。
李斎は、別段、無理をしているわけではない。
彼女はとうに、自分の身体の現実から、寸毫目をそらしてはいない。そのうえで、残
された左手が、身体と周囲に折り合いをつける様を、日々楽しもうと決めていた。不器
用な左手に落胆せぬように努め、さげすむことを思わずに、その進歩を評価することに
していた。
生来の性質(たち)と、子供のように物事を楽しめる傾向を、今回の喪失にあっても
彼女は手放さなかった。このごろでは実際、楽しんでいることさえある。
この強さだ。と、驍宗は目を細めて、彼女を見る。
かつて驍宗は彼女を、夏の光の中で、彼女が人生における輝かしさの殆ど全てを持っ
ているときに、見初めた。
この女だ、と思った。
優れた才能と健康な体、それらをいかせる仕事がそろい、しかも仙であるかぎり老い
ることのない者が、自信に溢れ、強く朗らかでいられるのは、むしろ当然であるのかも
しれない。
だが人生は、本来が、失うものだ。
彼女は失い、驍宗も失った。彼らの戴は、それよりも、まだもっと多くを失った。そ
れは、けっしてあがなわれることのない損失だった。
死んでいった数十万の民の命。彼はその全てを背負い、ここまで衰えきった国と民を、
この先、命の果てまで背負う。
いま、覚束ない手蹟をもって淡々と、書面の作成を――おそらくは、彼女が将軍とし
て果たす、最後から幾番目かの仕事になるだろうそれを――、苦手だなどと笑いながら
こなしている姿に、驍宗は改めて、感慨と確信をもって、視線をそそいだ。
この女なのだ。と。
七年前は、いつかはと思った。いまは違う。どうでもすぐに、側に来てもらう必要が
ある。
しかしながら、まだ驍宗はそこに立っている。驍宗のなかで、既に当然のこととして
決定しているそれを現実にするには、まず李斎にとってはいまだ当然のことではないと
いう事実を、なんとかしなくてはならない。
驍宗は、彼にしては珍しく、逡巡して言葉を探し、そして切り出した。
「今日は、話をしたいと思って訪ねた」
「はい」
すでに聞く態勢で、緊張感を漲らせてこちらを見る李斎に、驍宗は眉を寄せ、傍らの
椅子に目をやって、掛けるよう、促した。
李斎は、驍宗の眼光に背を押されて、先に腰掛ける。驍宗が向かいの上座に袖を捌い
て座る。
「なんでございましょうか」
真正面から尋ねる李斎の顔には、仕事の文字しか見えぬ。驍宗は内心嘆息する。これ
では、七年前となにも変わらない。
「李斎は…」
「はい」
「――私に言いたいことは、ないか?」
誰か第三者が内実を承知で聞いたなら、頭を抱えたに違いない台詞を、大真面目に言
った後、驍宗は李斎を鋭い目つきで見据えた。
李斎は目を丸くして、驍宗を見返した。
「――申し上げたいこと、…で、ございますか」
李斎は瞬いた。あきらかに、当惑しているのだった。
「個人的に、なにか…いや、どんなことでもよいのだ、――私に言っておきたいことが
あるならば、この機会に聞きたいと思う。何なりと、言ってもらいたい」
李斎はまた目を瞬いた。そして、もう一度驍宗の顔を窺うように、見返す。
――このような、一対一の御下問をなさるために、主上御ん自ら、各府第をまわって
おられるというのだろうか…?それで、瑞州府へもお運びになられたのだろうか。
余人は知らず、それが驍宗であってみれば、忌憚のない意見を直に聴取するためなら
ば、ありえそうな気もする。
ふと、見つめ返していた李斎が、どこか、遠い表情のうちに、口を動かした。
「…どんなことでも…、」
うむ、と驍宗が頷く。
「どんなことでも、よい」
李斎は、驍宗を見た。その目に、甘やかな思いなど、微塵も映ってはいない。どちら
かといえば、悲壮な顔であった。
落ち着いてはいるが、表情は固く、幾分か血の気が引いている。向けられた射抜くよ
うな目の色に、驍宗はわずかに息を飲んだ後、やはりまともに、見返した。
「それでは、ひとつだけ、どうしても主上にお聞き頂きたいことがございます。…よろ
しいでしょうか」
驍宗は真顔で頷き、
「聞こう」
と低く言った。
李斎は背筋が震えたと思った。
浅くつばを飲み込み、一瞬だけ目を閉じてから、居住まいを正した。
彼女は、穏やかな口調で話し始めた。言葉は殆ど選ばなかった。時間が、ほかには物
音のない広い部屋に、さらさらと流れた。
驍宗は黙って、李斎の顔から目をそらすことなく、耳を傾けた。彼は相槌のかわりに、
目を据えたままごく浅く頷くよりほかは、身じろぎもしなかった。そして李斎も、ただ
の一度も、驍宗の厳しい眼差しに臆さずに、語り続けた。
それは、今日この日まで誰一人として、驍宗の前で行うことのなかった、――報告な
どではなく――主観的で率直な、意見の表明であった。
驍宗が王として、麒麟である台輔の様子に民意をはかっていた事実を、まず李斎は確
認した。そして、七年前のある日、驍宗自らが李斎に対して、その考えを明かしたこと
を覚えておられるだろうか、と問うた。
驍宗は短く、覚えている、と答えた。
李斎の目もとが、かすかだが、自分でも意識せずに和んだ。
寒い霜夜であった。夜更けてひとり、内殿の庭園内で途方に暮れていた李斎は、思い
がけず驍宗から声をかけられ、路亭に同席して、しばらくの間、話をしたのだ。
李斎の表情がまた固くなった。
「――あの日、主上は、台輔に見せない方がよいと思われることは、民にも見せるべき
でないと思う、と仰せになりました。私はそれに同意しました」
驍宗は再び無言で頷いた。李斎は続けた。
「ですが、それは間違いだったと、いまでは思っております」
せつな、目がまともに合う。どちらもそらさない。
李斎は声が震えないようにと努めながら、そのまま続けた。
「民の目からは、何も隠してはいけなかったのです…」
隠すこと自体が過ちだったのだ…。玉座を奪われたのは、驍宗の罪咎でないとしても、
あれだけは覆うべくもない非であった。しばらく前から、李斎は、そう考えるに到って
いた。
元来、疑問あらば声をあげるにやぶさかではない李斎であったが、それでも驍宗の過
ちを認めるのは、少なからず恐ろしかった。現に、鴻基を離れて幾年もの間、一度も考
えようとはしなかった。当時、偽王と戦う李斎にとって、それは考えてはいけないこと
だったのである。
正当な泰王から、阿選は玉座を奪い、民を虐げている。あまつさえこの非道に、天の
救済がない。驍宗に完全な正義と道があること、彼がいかなる落ち度もない立派な王で
あったことが、あの数年、李斎らの唯一の支えだったのだ。
李斎が、驍宗にもまた幾ばくかの落ち度はあり得たはずだ、という、言ってみれば当
然のことを口にしたのは、六年もが過ぎてからであった。泰麒の救出を巡り、蓬山へ向
かったときが、最初である。
ただ、相手への譲歩として口にしたそれは、まだ論戦の上の技術にすぎなかった。
そうして去年の夏の終り、蓬莱から戻った台輔の口から回想を聞き、その当時の心情
をうちあけられて、李斎は自分の考えから、もはや逃れられなくなった。
王は、ひとである。天さえ過つものを、ひとが過たぬはずもない。
彼女の王、驍宗もまた、過ったのだ。彼女は、それを認めた。
七年前の粛清に、李斎は参加していた。彼女が自分の目で見、秋官の長が親友であっ
たことから、その専門家としての法的見解をも聞いていた。だから李斎は、驍宗のした
ことが、規模が大で――処分された人数が非常に多く――、しかもきわめて短期間で行
われたため凄惨な様相を呈しはしたが、ひとつひとつは徹頭徹尾、合法であったことを
よく知っていた。
確かに、処刑が公開されなかったことだけは、どの国の通例とも異なっていた。だが
それ自体は、天綱のどこにも禁じられてはいない。地綱は改正してあった。つまり天に
も地にも、いかなる法の文言(もんごん)にも抵触してはいなかった。――それでも、
間違っていた。
先ほど驍宗に問われて李斎は、それを言う、生涯にもう二度とはない機会を得たのだ
と思った。
不興を買うのは覚悟の上であった。彼女が将軍であるのは、あとわずかな時間だった。
官として臣として、戴国と王のためにできることは、もう大して残されてはいない。
官を退くその前に、申し述べておきたいことが、確かに李斎にはあったのである。
泰麒から、恐ろしいことを耳に入れてくれたからこそ、阿選を信じたのだと告白され
たとき、自分がどう感じ、なにを考えたかを、李斎は淡々と語った。
そして最後に、驍宗に対して、どうか二度と、台輔の目から何も隠してはくれるな。
麒麟の目に映るのが民の恐怖だとの主上のお考えには、いまも心から敬服しており、正
しいものと信じる。ただ、あの目は、それを見せるかどうかではなく、麒麟を恐怖させ
てもなお、今すぐに為さねばならぬかどうかの基準とすべきだったのだ――。そう熱心
に、李斎は説いた。
ひよっとしたら驍宗はとうに悟り、得心していることであったかもしれない。だが、
それでも臣の誰かが言う必要がある、と李斎は思っていた。
李斎が話すのを終えたとき、驍宗はしばらくなにも語らなかった。
ややあって、彼は静かに口を開いた。
あのとき、と驍宗は言った。霜の夜の路亭でのことだ。
「考え深いそなたが、よくよくの思いで訴えただろうものを、私は説き伏せ、納得させ
てしまったのだったな」
「主上…」
向けられる目は常のように苛烈ではあったが、気配はけっして波立ってはおらず、む
しろ穏やかに凪いでいた。
李斎はその凪を見ていた。なぜだか、目を離せずに見ていた。
このまま、一生でも見続けたい光景だと、そんなことを思い、瞬きもしなかった。
よく分かった、と驍宗が低くかみ締めるように告げたとき、李斎は緊張が解けた勢い
で、自分が泣き出すのではないかと思った。ぐっとこらえて、俯いた。
「――二度と、民に隠すことだけはせぬ。そのことを、」
驍宗は言葉を切った。
「そなたに誓う」
李斎は顔を上げ、首を傾けて、驍宗を見た。
「……」
驍宗はしごく真面目な顔をしていた。
李斎はなにか言いかけて唇を動かしたが、声にはならなかった。
「きっと、約束する。……分かったか?」
驍宗の目を見たままで、李斎は思わず、黙って頷いていた。
驍宗はそれを見、自分も頷いた。頷いた後、はっきりと笑んだ。
この日驍宗は、まもなく李斎の仕事部屋を辞した。
李斎は驍宗を送って、机に戻らず、先ほどの椅子にまた掛けた。彼女はしばらく何も
せず、そこに座っていた。
それから李斎は、大机の上の、もうあらかた出来てしまった報告書の草案を脇へ押し
やって、官紙の反故を取り出し、考え考え別の下書きを始めた。わずか数行でそれを書
き終えると、今度は奏書に用いられる紙を引き出してきて、静かに墨をすった。
厚手の白い上質の紙には、丸い大きな子供ぶりの文字で、注意深く丁寧に、挂綬の允
許を請う、と、まず記された。
挂綬(けいじゅ)とは綬を解いてかけおく――すなわち、辞職の意である。
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「そうだねぇ。たとえば、足湯をふるもうて頂いた」
「足湯(あしゆ)、でございますか?」
李斎は瞬いた。それはなに、と、氾麟が足をぶらぶらさせながら、向こうの椅子から
聞いてくる。どこかで蝉が鳴き始める。
午後の蘭雪堂には、午睡を終えた氾王が現れて、そのまま、六年前の思い出語りなど
している。
李斎は少女に、寒さの厳しい戴での冬の習慣だと簡単に説明した。氾王は頷く、
「夜、寝所に、こればかりの陶器の盤を…」
と、王は白い扇子の動きで、大きさを示した、
「なかなかにしゃれたものだったよ。くすみのある地色に釉薬が効いていて、白のまだ
らの浮き出た…きっとあれは、水盤などではなかったのだろうねぇ。それを深夜あまり
に寒くて眠れないでいると、心のきいた――あれも女史か何かだろうよ、――四十前の
口数の少ない女官に運ばせて。その者が焼いた石をいくつか放り込んで、その場で黙っ
て熱い湯をつくってくれたのだけれど、足を浸していると、すっかり汗が出るほども温
まってね。そうしたらすぐに、よく乾いた寝間着の替えが出されてきて、おかげで朝ま
で、ぐっすりと眠れたのだよ…」
氾は、実際にそのときの心地よさを思い返すように、うっとりと小さく息をつき、満
足げに微笑んだ。
「……」
氾のいう「よいもてなし」が、贅を凝らし、ただ費用をかければ出来る、という水準
とは、どうも相当にかけ離れた贅沢さを要求している、ということが李斎にも、なんと
なく理解できてきた。
実際、氾王が語ったことは、どれも、どちらかといえば、李斎が育ったようなごく一
般の家で泊り客をもてなすときにでも通じる、いわゆる心配りが中心で、決して特別な
ことでもなければ、大して費(つい)えのかかることでもなかった。ただ、それを、こ
の十二国きっての趣味人の目に適うように演出する工夫を、驍宗はどうやら心得ていた
ものらしい。
対するに、先の王は、平凡といえばそれまでだが、工夫のない人間であったようで、
しかも、なまじある財力が、それを一層悪いほうに昂じさせてしまう類の人物だった。
驍宗があの六年前、氾王の滞在した部屋に、名笛一管を届けさせ、それには、音曲が
お好きな王を十分におもてなしできず誠に申し訳ないが、戴の夜は風が強いゆえ、お部
屋内のつれづれには風と奏していただければ幸い至極、との、いささかぶっきらぼうな
口上が添えられていた、という話をした後、氾王は、驕王を引き合いに出した。
「私が楽を好む、という話を予め手にしても、これほどに出方が違うのだからねぇ」
氾王が回想する。
「もうずいぶんと昔の夏、あの王宮に泊まったおり、開け放した窓に、夜中園林の奥か
ら、琴の音がした。宮中の楽士のひとりが、客がいるとは知らず竹林で練習していたの
だけれど、なまじ完成されたものでなく、繰り返し弾くのが、かえって風雅でね。なん
ともいい音だった。翌朝、あれは誰か、と当時の泰王に問うてみたのだが、あのばか者、
調べて即刻、その男を免職にしてしまったそうな」
「ああ。いまの楽士長ね」
氾麟が口をはさんだ。李斎が、え、と振り返る。
「所属は正式には冬官で、いまじゃ範国一の六弦琴を造るわ。そのときに主上が、城下
に人を残して探させて、範に連れてって楽士に召したのよ。ね」
氾の方を見ると、すました顔をしている。
「それをどうやら後に、耳に入れたものがあったらしい。それから十何年もして、次に
戴に行けば、朝から晩まであらゆる部屋が、楽でうるさいばかりじゃ。しかも、宴席で
は庭に面した扉を全部開けて、庭先で楽士たちに演奏させたのだよ。冬の初めだもの、
いくら部屋を暖められても、雪の上で演奏させられる楽士らを、見ているだけで食事を
する気などは失せて、途中で立って、そのまま範へ帰ったよ」
一事が万事、というが、これでおよそ、先の王のもてなしの姿勢が知れようというも
のである。よかれと思って、おおはしゃぎで思いつく限りのことをやった王は、この徹
底した趣味人の前に、むしろ哀れを誘うが、それでも、その為人は、余りに貧しい。
飾りや服装の趣味については、天分ということがある。自身、装いにさほど執着しな
い李斎は、氾王の手厳しい驕王評に、幾分かは同情的だったのだが、この冬の宴席の話
には、少し考えさせられた。
彼女はついに一度も、彼女が生まれたときから玉座にあった、この前王を見なかった。
李斎が成長したころ、国はまだ平穏に思われた。ごくたまに起こる内乱は、常に他州の
ことであり、税は話題に上るほどには重くなく、総じて戴は平和であった。
だが、彼女が州城の高みで生活しはじめた頃から、じわじわとしかし確実に国は傾い
ていった。それは二度と持ちなおすことはなかった。誰の目にも狂いが見えていても、
ただの一度も上向かずに、そのまま、和元二十二年までを、静かに落ちきっていったの
だ。
当時の民は、どんな王朝の終末でもそうであるように、道を失った王を憎んだ。李斎
も勿論、憤った。その失い方が、過度の浪費という見えやすいものであったために一層、
遠からず沈む王に対して、ひたすらやりきれない怒りと苛立ちを皆が向けた。
だが李斎は、当時それからの驕王後の戴を、一度も考えてみなかったように、自分が
長く戴いた前王を、一度も人間として考えてみたことがなかったと、いま、気がついた。
そうだ、王はひとなのだ。神の籍に入っても、心が神になるわけではない。
もとは只のひとでしかない。
彼はおそらく、無邪気なほどに無神経なところがあり、権威に対して卑屈であり、し
かもそれらに対する羞恥心を、長い在位で次第に鈍磨させていったのだろう。
ある日突然玉座についた小人物は、小人物ゆえの生真面目さで、自分に与えられた仕
事を間違うまいとした。彼は、前例を徹底的に重視し、前例にないことを嫌った。
法に従い、礼に(これは儀礼にといったほうが正しいかもしれないが)厳格だった。
過誤と変革を極端に嫌い、細心の注意を払って、国の政を行った。
そして。それほどまでに立派に王の職分を朝において果たす代価として、燕寝におけ
る、王なればこその贅沢を極めた私生活を要求した。要求はかなえられた。だがひとの
欲望には限りがない。所詮ひとは人間である己の内に起こる欲求を制しなければ、生き
られない。それにしくじれば、必ず滅びる。それはなにも、王には限らない。
だが、神の位に上ったために、彼は己を制するものを、もはや己自身しか持たなかっ
た。心弱い、小人物の己より、他にはなにも持たなかった。麒麟の病は、多くの場合、
遅い警告もしくは告知としての役しか果たさないものである。
驍宗は。と、とっさに思いはそこへ行った。
主上は、どうだったのだろうか。極みに登る前から、見知っていた。それは短い時間
だったが、噂通りのいや、それ以上の優れた人物だったのは確かである。人間の器の出
来の違いというなら、確かに彼は只者ではなかった。
王になって、一層それは顕著に見えた。彼は強い人物だった。
それでも、彼はひとだったのだ……。
「疲れたのではないかえ」
優しい声音に、李斎ははっと我に返った。いえ、とそれが最近は癖にでもなったかの
ように、軽く左手で胸を押さえる。
藤棚の緑は陽光を透かしている。その影はもう幾分か奥へと伸びていた。金波宮の夏
の一日は、いま最も暑い時間を迎えている。
「無理はせぬことだ。もうしばらくすれば、小猿も戻ってまいろ。見つかったときには、
必ずとんで知らせにやるゆえ、一度、戻って休みなさい」
素直に李斎が立つのを、氾は軽く頷いて見やりながら、自分も立つと先に扉に歩んだ。
そうすることで、まだ動きの覚束ない病み上がりの李斎に、伏礼の労をとらせることを
避ける。その心遣いがもったいなく、李斎はただ、小さく黙礼する。
黒のほうが似合うね、と氾が微笑んだ。李斎が目を上げ首を傾けると、氾王はその視
線を受けて、李斎の背後へ流した。
ああ、と李斎が笑む。氾王は、たった一度戴であったおり、李斎がその赤茶の髪につ
けていた、漆黒の飾りのことを言ったのだ。
「あれは、借り物です」
「そうだったのかえ」
趣味人の王は、ただはんなりと笑った。
李斎の姿が回廊を曲がって行き、庭柯の向こうに消えるのを、ひらひらと手をふって
見送ると、黄金色の少女は、肩を落としてため息をついた。
「どうしたね」
「――すでに泰王が目をお留めの御品であったゆえ、あきらめた。そう、おっしゃって
ましたわよね」
見上げる麒麟の目に、ちらと視線を下した氾は口元に扇子を当てた。
「さて。覚えておらぬが。なんのことかえ」
「さぁ。なんのことでございましょう」
麒麟もにっこりととぼける。
風が渡った。氾は袖を捌き、ふうわり、と白いその扇子を下す。
「いかが巡ろうと、余人の手に収まることはあるまいよ。磨き手は、とうに決まってお
るのだもの…」
声が、静かに庭に落ちた。
部屋のすぐ外で、ぼそぼそと話す声がする。
それはあの背の高い、若い方の下官だろう。先刻頼んでおいた資料が、もう揃ったと
みえる。現在李斎の周りにいる軍吏たちは、どの官も無愛想なくらい口数が少なくて、
仕事が速い。
三軍しか存在しない王師で、瑞州師中軍は事実上の第三軍に昇格している。その中軍
の運用を軌道にのせるため、瑞州府の一室で書類業務に忙殺される隻腕の将軍を、みな
よく補佐してくれていた。
背後で扉が開いたが、李斎は振り返らない。
入るなり、思わず立ち止まってしまったらしい気配に、彼女は、背を向けたまま小さ
く苦笑した。
この二日李斎は、明日の朝議が期限の、中軍の現状に関する報告書の作成に追われて
いる。
なのに大机は、書類が一面に広がり筆が置かれたままで、空席。部屋の主の李斎はと
いえば、扉から正面の窓に向いて仁王立ちになり、盛んに体を曲げては、体側を引き伸
ばしているところなのだった。
――いきなり見れば、驚くだろうな。
「御苦労。――その脇の卓(つくえ)に置いてくれ」
無言で紙の束を下す音がする。李斎はこの際、恥のかきついでとばかり、声をかけた。
「すまないが。こちらへ来て、ちょっと手を貸して貰えると、有り難いんだが」
官服の衣擦れが、割合素直に、李斎の背に歩み寄る。
李斎は背後の彼に、右腕の残された部分を袖の上から示すと、後ろから持ってくれる
ようにと、頼んだ。
「もっと、しっかりと掴んでくれていい。そうだ。そのまま引き気味に、呼吸に合わせ
て五拍で曲げ、元の位置まで四拍で戻す――やってみてくれないか。まず、左から…、
一、…二、…――五、ゆっくり戻して――四、そう。――…次は上に。一、…」
ひとりでもやれないことはないが、どうしても右腕の長さと重量が欠けている分、左
右均等には負荷をかけられない。こうして誰かの手を借りれば、肩回りも上腕も、十分
に伸ばすことが出来る。
李斎はこの運動を、官邸で毎晩欠かさず行っており、昨日今日は、仕事場でも数回、
自分でやっていた。
「さすがに、慣れない左手の書きものがこうも続くと、背中がひどく固くなってしまっ
て…」
言訳すると、李斎は気分よさげに大きく息を吐いた。
こうした身体各部の引き伸ばしは、鍛錬の補助として大抵の武人が日々している。し
かしこの文官は、武芸などよく嗜むのでもあろうか、思いがけず要領良く的確に李斎の
短い方の腕を、筋の方向にそって、上手に曲げ伸ばす。身長もちょうど良かった。
一周がすむと、もう二周りを頼んでおいて、李斎は軽く目を閉じた。
本当に気持ちが良い。
「…どうやら、明朝に間に合いそうだ。泊りの官を三人、手配しておいてくれ。私の悪
筆をあれだけ浄書するのは、徹夜仕事になるだろうから…」
返事がすぐに返らないので、やや訝ったのもつかの間、太い声が落ちた。
「うむ。それは後で、下官に言え」
李斎は瞬間、目を見開き、そこで固まった。思考も一旦、止まる。
「……」
事態を飲み込むや、冷や汗が一気に噴出している李斎をよそに、背後の人間は悠々と
言葉を続けた。
「止まるな。まだ終っておらぬ。それ、四…五、戻すぞ、…一、…」
李斎は深呼吸するどころではない。蚊の鳴くような声で、あえぎあえぎ、頼んだ。
「お願いで…ございますから、主上…、」
「なんだ。――もっと力を抜かぬと、効果がなかろう。次は上だな」
お離し下さい、の声が出せずに、あちら向きで半べそ顔の李斎は、驍宗にしっかり左
肩を固定されたまま、右腕を今度は上にと引き伸ばされる。
「こんなことをいつも下官にさせておるのか」
頭のすぐ後ろで驍宗の声が、やや不満気に響く。
李斎の耳には、その声の裏にある本音などは、まるで聞こえていない。
こともあろうに、主君を下官と間違えた上、本来役所の人間にさせてもどうかという、
運動の補助など、やらせてしまった。否、たった今も、させているのだ。畏れ多い、な
どいうやさしいものではなかった。
「申し訳もございません……」
声は、消え入りそうに細る。実際、消えたい気分の李斎である。
「なにがだ」
「主上に、このような…」
「私ならば一向かまわぬ」
「はぁ…あの、ですが」
主上だからこそ、大いに困っている李斎は口篭もる。驍宗は舌打ちして、李斎の腕を
握りなおし、肩をたたく。
「力を抜かぬか。せっかくほぐれたものが、固まるぞ」
返事に困り答えない李斎を、今度は、少し優しげな声が促す。
「あと一周だ。よいから。黙って力を抜いていろ」
「………」
李斎は、観念した。
苦労しながら息を整えると、雑念を――これほどの無礼を雑念、としてよいかはとも
かく――、一時頭から締め出した。そして、再び背中をまっすぐ伸ばし、背後の男に腕
を預けて、大きく息を吐く。
驍宗は黙って笑んだ。そして、静かに、腕の曲げ伸ばしをまた始めた。
部屋にはしばらく、二人の呼吸だけが聞こえる静寂が降りた。
実際のところ、李斎との会話を欲して、口実を設けてまで非公式に瑞州府に足を運ん
だ驍宗であった。泰麒がちょうど席を外していた州侯官房(執務室)の控の間に、連れ
てきた供を置くと、先触れも連絡もなしにこの部屋の前まで来て、書類を抱えた下官と
行き会った。
扉を開けたのは、件の下官から李斎に渡す資料を取り上げた、驍宗本人である。
入ってみれば、李斎はなにやら体操の真っ最中で、振り返りもしない。そのまま成り
行きで、これほどの接近となった。この彼としてはいたずら気を起こした結果は、少な
からず楽しくさえあっても、不愉快であるはずがない。
たとえ色気とはまるで無縁の単なる体操の手助けであろうと、ほとんど彼女の背につ
く位置に立ち、顔の前に赤絹の髪が香っており、両手で彼女に触れて、その深い息遣い
を耳にしている。
そうした希いも当然あったはずだが、不思議と、このまま抱き締めたい、などという
思いが涌かなかった。ただ、二人きりの部屋でこの距離で、このように穏やかな時間を
持ち得ている現実が、彼を静かな幸福で満たした。
李斎も李斎で、奇妙に落ち着いてしまった。
彼女は、自分が右の残肢を最前から、ずっと驍宗に触れさせていたのだということに
気がつくと、そのことに大いに驚いた後で、唐突に、一種の安心とでも言うべきものを
覚えたのだ。
驍宗は一度も、彼女の腕に言及したことが、ない。
そもそも、腕を失ったことなどは、見れば知れる。見(まみ)えたとき、彼は李斎に
それを一語も聞かず、彼女も言わなかった。ただ驍宗は、背の伸びた己の麒麟と片腕と
なっている女将軍に向き合ったとき、ひたとその姿を見つめ、黙って彼らを強く抱き寄
せると、たった一言、「苦労をかけた」とつぶやいた。
短いその言葉に、王は彼らの苦難の歳月を、万感こめてねぎらった。そして、その後
いかなるときも、驍宗は一切、過去に関わる所感を口にしていない。不在の間のあらゆ
る報告に際しては常に、そうか、とだけ述べた。
李斎は、それで十分に納得していた。それ以上は、考えもしなかった。だが彼女以外
の人々はそうではなかった。
彼女はいまや、救国の英雄だった。
側にあり、その為人をよく知る者らこそ声を控えたが、李斎本人から遠去かるほどに、
彼女が右腕を、ひいては武人としての生命を、戴と驍宗にささげたのだ、という、好意
に満ちた賞賛の嵐は、李斎の内実を無視して大に過ぎ、さしもの彼女を憂鬱にすること
があった。
まして、それが当然であるかのように、驍宗は彼女に報いるだろう、勿論報いねばな
らぬという声の起きるにいたっては、困惑せざるを得なかった。
こうした雑音は、気にすまいと思いながらも彼女を過敏にした。今日まで李斎はどこ
かで、驍宗から彼女の右腕を気にかけられるのを、恐れていたのだ。
驍宗は、まったく動じなかった。いまもそこに手を添えて呼吸に合わせて数を数え、
同じくそっと滑らせるように支えては、もとの位置へと持ってくる。呼吸の乱れも、緊
張もない。
布越しに感じる大きな手の温もりに、恐縮しながらも、李斎は安堵した。すると非常
に嬉しくなってきた。我知らず笑みさえ浮かび、そしてつぶやく。
「――やはり、小そうございます」
「いや。そんなことは…、―――何がだ?」
肩越しに見下ろしていた驍宗が、気づいて問いなおした。李斎はちょっと首を傾けた
が、答えた。
「人間の器量、です。分かっていたつもりですが、李斎などは到底、主上の足元にも及
びません…」
「そうか…」
首を傾け眉を寄せて答え、驍宗は咳払いした。
最後に腕を回し終えた四拍めで息を大きく吐くと、李斎は驍宗を振り返った。真直ぐ
に王を見て、礼を述べる。
朝議の席でこそ、毎日会っていたのだが、そのすっきりとした屈託のない表情をこれ
ほど近くで見るのを、驍宗はずいぶんと久しぶりだと感じた。
驍宗は、満ち足りた気分になり、大層素直な微笑を、その顔に返した。
そうすると、なにかひどく面映くなってきたので互いにおかしくて、ふたりともくす
くすと笑った。李斎は言葉を省略し、とうとう無礼を謝らなかった。また、驍宗も誤解
をそのままにした詫びは省いた。右腕に触れたことも、触れられたことも、やはりどち
らも言わなかった。
「足湯(あしゆ)、でございますか?」
李斎は瞬いた。それはなに、と、氾麟が足をぶらぶらさせながら、向こうの椅子から
聞いてくる。どこかで蝉が鳴き始める。
午後の蘭雪堂には、午睡を終えた氾王が現れて、そのまま、六年前の思い出語りなど
している。
李斎は少女に、寒さの厳しい戴での冬の習慣だと簡単に説明した。氾王は頷く、
「夜、寝所に、こればかりの陶器の盤を…」
と、王は白い扇子の動きで、大きさを示した、
「なかなかにしゃれたものだったよ。くすみのある地色に釉薬が効いていて、白のまだ
らの浮き出た…きっとあれは、水盤などではなかったのだろうねぇ。それを深夜あまり
に寒くて眠れないでいると、心のきいた――あれも女史か何かだろうよ、――四十前の
口数の少ない女官に運ばせて。その者が焼いた石をいくつか放り込んで、その場で黙っ
て熱い湯をつくってくれたのだけれど、足を浸していると、すっかり汗が出るほども温
まってね。そうしたらすぐに、よく乾いた寝間着の替えが出されてきて、おかげで朝ま
で、ぐっすりと眠れたのだよ…」
氾は、実際にそのときの心地よさを思い返すように、うっとりと小さく息をつき、満
足げに微笑んだ。
「……」
氾のいう「よいもてなし」が、贅を凝らし、ただ費用をかければ出来る、という水準
とは、どうも相当にかけ離れた贅沢さを要求している、ということが李斎にも、なんと
なく理解できてきた。
実際、氾王が語ったことは、どれも、どちらかといえば、李斎が育ったようなごく一
般の家で泊り客をもてなすときにでも通じる、いわゆる心配りが中心で、決して特別な
ことでもなければ、大して費(つい)えのかかることでもなかった。ただ、それを、こ
の十二国きっての趣味人の目に適うように演出する工夫を、驍宗はどうやら心得ていた
ものらしい。
対するに、先の王は、平凡といえばそれまでだが、工夫のない人間であったようで、
しかも、なまじある財力が、それを一層悪いほうに昂じさせてしまう類の人物だった。
驍宗があの六年前、氾王の滞在した部屋に、名笛一管を届けさせ、それには、音曲が
お好きな王を十分におもてなしできず誠に申し訳ないが、戴の夜は風が強いゆえ、お部
屋内のつれづれには風と奏していただければ幸い至極、との、いささかぶっきらぼうな
口上が添えられていた、という話をした後、氾王は、驕王を引き合いに出した。
「私が楽を好む、という話を予め手にしても、これほどに出方が違うのだからねぇ」
氾王が回想する。
「もうずいぶんと昔の夏、あの王宮に泊まったおり、開け放した窓に、夜中園林の奥か
ら、琴の音がした。宮中の楽士のひとりが、客がいるとは知らず竹林で練習していたの
だけれど、なまじ完成されたものでなく、繰り返し弾くのが、かえって風雅でね。なん
ともいい音だった。翌朝、あれは誰か、と当時の泰王に問うてみたのだが、あのばか者、
調べて即刻、その男を免職にしてしまったそうな」
「ああ。いまの楽士長ね」
氾麟が口をはさんだ。李斎が、え、と振り返る。
「所属は正式には冬官で、いまじゃ範国一の六弦琴を造るわ。そのときに主上が、城下
に人を残して探させて、範に連れてって楽士に召したのよ。ね」
氾の方を見ると、すました顔をしている。
「それをどうやら後に、耳に入れたものがあったらしい。それから十何年もして、次に
戴に行けば、朝から晩まであらゆる部屋が、楽でうるさいばかりじゃ。しかも、宴席で
は庭に面した扉を全部開けて、庭先で楽士たちに演奏させたのだよ。冬の初めだもの、
いくら部屋を暖められても、雪の上で演奏させられる楽士らを、見ているだけで食事を
する気などは失せて、途中で立って、そのまま範へ帰ったよ」
一事が万事、というが、これでおよそ、先の王のもてなしの姿勢が知れようというも
のである。よかれと思って、おおはしゃぎで思いつく限りのことをやった王は、この徹
底した趣味人の前に、むしろ哀れを誘うが、それでも、その為人は、余りに貧しい。
飾りや服装の趣味については、天分ということがある。自身、装いにさほど執着しな
い李斎は、氾王の手厳しい驕王評に、幾分かは同情的だったのだが、この冬の宴席の話
には、少し考えさせられた。
彼女はついに一度も、彼女が生まれたときから玉座にあった、この前王を見なかった。
李斎が成長したころ、国はまだ平穏に思われた。ごくたまに起こる内乱は、常に他州の
ことであり、税は話題に上るほどには重くなく、総じて戴は平和であった。
だが、彼女が州城の高みで生活しはじめた頃から、じわじわとしかし確実に国は傾い
ていった。それは二度と持ちなおすことはなかった。誰の目にも狂いが見えていても、
ただの一度も上向かずに、そのまま、和元二十二年までを、静かに落ちきっていったの
だ。
当時の民は、どんな王朝の終末でもそうであるように、道を失った王を憎んだ。李斎
も勿論、憤った。その失い方が、過度の浪費という見えやすいものであったために一層、
遠からず沈む王に対して、ひたすらやりきれない怒りと苛立ちを皆が向けた。
だが李斎は、当時それからの驕王後の戴を、一度も考えてみなかったように、自分が
長く戴いた前王を、一度も人間として考えてみたことがなかったと、いま、気がついた。
そうだ、王はひとなのだ。神の籍に入っても、心が神になるわけではない。
もとは只のひとでしかない。
彼はおそらく、無邪気なほどに無神経なところがあり、権威に対して卑屈であり、し
かもそれらに対する羞恥心を、長い在位で次第に鈍磨させていったのだろう。
ある日突然玉座についた小人物は、小人物ゆえの生真面目さで、自分に与えられた仕
事を間違うまいとした。彼は、前例を徹底的に重視し、前例にないことを嫌った。
法に従い、礼に(これは儀礼にといったほうが正しいかもしれないが)厳格だった。
過誤と変革を極端に嫌い、細心の注意を払って、国の政を行った。
そして。それほどまでに立派に王の職分を朝において果たす代価として、燕寝におけ
る、王なればこその贅沢を極めた私生活を要求した。要求はかなえられた。だがひとの
欲望には限りがない。所詮ひとは人間である己の内に起こる欲求を制しなければ、生き
られない。それにしくじれば、必ず滅びる。それはなにも、王には限らない。
だが、神の位に上ったために、彼は己を制するものを、もはや己自身しか持たなかっ
た。心弱い、小人物の己より、他にはなにも持たなかった。麒麟の病は、多くの場合、
遅い警告もしくは告知としての役しか果たさないものである。
驍宗は。と、とっさに思いはそこへ行った。
主上は、どうだったのだろうか。極みに登る前から、見知っていた。それは短い時間
だったが、噂通りのいや、それ以上の優れた人物だったのは確かである。人間の器の出
来の違いというなら、確かに彼は只者ではなかった。
王になって、一層それは顕著に見えた。彼は強い人物だった。
それでも、彼はひとだったのだ……。
「疲れたのではないかえ」
優しい声音に、李斎ははっと我に返った。いえ、とそれが最近は癖にでもなったかの
ように、軽く左手で胸を押さえる。
藤棚の緑は陽光を透かしている。その影はもう幾分か奥へと伸びていた。金波宮の夏
の一日は、いま最も暑い時間を迎えている。
「無理はせぬことだ。もうしばらくすれば、小猿も戻ってまいろ。見つかったときには、
必ずとんで知らせにやるゆえ、一度、戻って休みなさい」
素直に李斎が立つのを、氾は軽く頷いて見やりながら、自分も立つと先に扉に歩んだ。
そうすることで、まだ動きの覚束ない病み上がりの李斎に、伏礼の労をとらせることを
避ける。その心遣いがもったいなく、李斎はただ、小さく黙礼する。
黒のほうが似合うね、と氾が微笑んだ。李斎が目を上げ首を傾けると、氾王はその視
線を受けて、李斎の背後へ流した。
ああ、と李斎が笑む。氾王は、たった一度戴であったおり、李斎がその赤茶の髪につ
けていた、漆黒の飾りのことを言ったのだ。
「あれは、借り物です」
「そうだったのかえ」
趣味人の王は、ただはんなりと笑った。
李斎の姿が回廊を曲がって行き、庭柯の向こうに消えるのを、ひらひらと手をふって
見送ると、黄金色の少女は、肩を落としてため息をついた。
「どうしたね」
「――すでに泰王が目をお留めの御品であったゆえ、あきらめた。そう、おっしゃって
ましたわよね」
見上げる麒麟の目に、ちらと視線を下した氾は口元に扇子を当てた。
「さて。覚えておらぬが。なんのことかえ」
「さぁ。なんのことでございましょう」
麒麟もにっこりととぼける。
風が渡った。氾は袖を捌き、ふうわり、と白いその扇子を下す。
「いかが巡ろうと、余人の手に収まることはあるまいよ。磨き手は、とうに決まってお
るのだもの…」
声が、静かに庭に落ちた。
部屋のすぐ外で、ぼそぼそと話す声がする。
それはあの背の高い、若い方の下官だろう。先刻頼んでおいた資料が、もう揃ったと
みえる。現在李斎の周りにいる軍吏たちは、どの官も無愛想なくらい口数が少なくて、
仕事が速い。
三軍しか存在しない王師で、瑞州師中軍は事実上の第三軍に昇格している。その中軍
の運用を軌道にのせるため、瑞州府の一室で書類業務に忙殺される隻腕の将軍を、みな
よく補佐してくれていた。
背後で扉が開いたが、李斎は振り返らない。
入るなり、思わず立ち止まってしまったらしい気配に、彼女は、背を向けたまま小さ
く苦笑した。
この二日李斎は、明日の朝議が期限の、中軍の現状に関する報告書の作成に追われて
いる。
なのに大机は、書類が一面に広がり筆が置かれたままで、空席。部屋の主の李斎はと
いえば、扉から正面の窓に向いて仁王立ちになり、盛んに体を曲げては、体側を引き伸
ばしているところなのだった。
――いきなり見れば、驚くだろうな。
「御苦労。――その脇の卓(つくえ)に置いてくれ」
無言で紙の束を下す音がする。李斎はこの際、恥のかきついでとばかり、声をかけた。
「すまないが。こちらへ来て、ちょっと手を貸して貰えると、有り難いんだが」
官服の衣擦れが、割合素直に、李斎の背に歩み寄る。
李斎は背後の彼に、右腕の残された部分を袖の上から示すと、後ろから持ってくれる
ようにと、頼んだ。
「もっと、しっかりと掴んでくれていい。そうだ。そのまま引き気味に、呼吸に合わせ
て五拍で曲げ、元の位置まで四拍で戻す――やってみてくれないか。まず、左から…、
一、…二、…――五、ゆっくり戻して――四、そう。――…次は上に。一、…」
ひとりでもやれないことはないが、どうしても右腕の長さと重量が欠けている分、左
右均等には負荷をかけられない。こうして誰かの手を借りれば、肩回りも上腕も、十分
に伸ばすことが出来る。
李斎はこの運動を、官邸で毎晩欠かさず行っており、昨日今日は、仕事場でも数回、
自分でやっていた。
「さすがに、慣れない左手の書きものがこうも続くと、背中がひどく固くなってしまっ
て…」
言訳すると、李斎は気分よさげに大きく息を吐いた。
こうした身体各部の引き伸ばしは、鍛錬の補助として大抵の武人が日々している。し
かしこの文官は、武芸などよく嗜むのでもあろうか、思いがけず要領良く的確に李斎の
短い方の腕を、筋の方向にそって、上手に曲げ伸ばす。身長もちょうど良かった。
一周がすむと、もう二周りを頼んでおいて、李斎は軽く目を閉じた。
本当に気持ちが良い。
「…どうやら、明朝に間に合いそうだ。泊りの官を三人、手配しておいてくれ。私の悪
筆をあれだけ浄書するのは、徹夜仕事になるだろうから…」
返事がすぐに返らないので、やや訝ったのもつかの間、太い声が落ちた。
「うむ。それは後で、下官に言え」
李斎は瞬間、目を見開き、そこで固まった。思考も一旦、止まる。
「……」
事態を飲み込むや、冷や汗が一気に噴出している李斎をよそに、背後の人間は悠々と
言葉を続けた。
「止まるな。まだ終っておらぬ。それ、四…五、戻すぞ、…一、…」
李斎は深呼吸するどころではない。蚊の鳴くような声で、あえぎあえぎ、頼んだ。
「お願いで…ございますから、主上…、」
「なんだ。――もっと力を抜かぬと、効果がなかろう。次は上だな」
お離し下さい、の声が出せずに、あちら向きで半べそ顔の李斎は、驍宗にしっかり左
肩を固定されたまま、右腕を今度は上にと引き伸ばされる。
「こんなことをいつも下官にさせておるのか」
頭のすぐ後ろで驍宗の声が、やや不満気に響く。
李斎の耳には、その声の裏にある本音などは、まるで聞こえていない。
こともあろうに、主君を下官と間違えた上、本来役所の人間にさせてもどうかという、
運動の補助など、やらせてしまった。否、たった今も、させているのだ。畏れ多い、な
どいうやさしいものではなかった。
「申し訳もございません……」
声は、消え入りそうに細る。実際、消えたい気分の李斎である。
「なにがだ」
「主上に、このような…」
「私ならば一向かまわぬ」
「はぁ…あの、ですが」
主上だからこそ、大いに困っている李斎は口篭もる。驍宗は舌打ちして、李斎の腕を
握りなおし、肩をたたく。
「力を抜かぬか。せっかくほぐれたものが、固まるぞ」
返事に困り答えない李斎を、今度は、少し優しげな声が促す。
「あと一周だ。よいから。黙って力を抜いていろ」
「………」
李斎は、観念した。
苦労しながら息を整えると、雑念を――これほどの無礼を雑念、としてよいかはとも
かく――、一時頭から締め出した。そして、再び背中をまっすぐ伸ばし、背後の男に腕
を預けて、大きく息を吐く。
驍宗は黙って笑んだ。そして、静かに、腕の曲げ伸ばしをまた始めた。
部屋にはしばらく、二人の呼吸だけが聞こえる静寂が降りた。
実際のところ、李斎との会話を欲して、口実を設けてまで非公式に瑞州府に足を運ん
だ驍宗であった。泰麒がちょうど席を外していた州侯官房(執務室)の控の間に、連れ
てきた供を置くと、先触れも連絡もなしにこの部屋の前まで来て、書類を抱えた下官と
行き会った。
扉を開けたのは、件の下官から李斎に渡す資料を取り上げた、驍宗本人である。
入ってみれば、李斎はなにやら体操の真っ最中で、振り返りもしない。そのまま成り
行きで、これほどの接近となった。この彼としてはいたずら気を起こした結果は、少な
からず楽しくさえあっても、不愉快であるはずがない。
たとえ色気とはまるで無縁の単なる体操の手助けであろうと、ほとんど彼女の背につ
く位置に立ち、顔の前に赤絹の髪が香っており、両手で彼女に触れて、その深い息遣い
を耳にしている。
そうした希いも当然あったはずだが、不思議と、このまま抱き締めたい、などという
思いが涌かなかった。ただ、二人きりの部屋でこの距離で、このように穏やかな時間を
持ち得ている現実が、彼を静かな幸福で満たした。
李斎も李斎で、奇妙に落ち着いてしまった。
彼女は、自分が右の残肢を最前から、ずっと驍宗に触れさせていたのだということに
気がつくと、そのことに大いに驚いた後で、唐突に、一種の安心とでも言うべきものを
覚えたのだ。
驍宗は一度も、彼女の腕に言及したことが、ない。
そもそも、腕を失ったことなどは、見れば知れる。見(まみ)えたとき、彼は李斎に
それを一語も聞かず、彼女も言わなかった。ただ驍宗は、背の伸びた己の麒麟と片腕と
なっている女将軍に向き合ったとき、ひたとその姿を見つめ、黙って彼らを強く抱き寄
せると、たった一言、「苦労をかけた」とつぶやいた。
短いその言葉に、王は彼らの苦難の歳月を、万感こめてねぎらった。そして、その後
いかなるときも、驍宗は一切、過去に関わる所感を口にしていない。不在の間のあらゆ
る報告に際しては常に、そうか、とだけ述べた。
李斎は、それで十分に納得していた。それ以上は、考えもしなかった。だが彼女以外
の人々はそうではなかった。
彼女はいまや、救国の英雄だった。
側にあり、その為人をよく知る者らこそ声を控えたが、李斎本人から遠去かるほどに、
彼女が右腕を、ひいては武人としての生命を、戴と驍宗にささげたのだ、という、好意
に満ちた賞賛の嵐は、李斎の内実を無視して大に過ぎ、さしもの彼女を憂鬱にすること
があった。
まして、それが当然であるかのように、驍宗は彼女に報いるだろう、勿論報いねばな
らぬという声の起きるにいたっては、困惑せざるを得なかった。
こうした雑音は、気にすまいと思いながらも彼女を過敏にした。今日まで李斎はどこ
かで、驍宗から彼女の右腕を気にかけられるのを、恐れていたのだ。
驍宗は、まったく動じなかった。いまもそこに手を添えて呼吸に合わせて数を数え、
同じくそっと滑らせるように支えては、もとの位置へと持ってくる。呼吸の乱れも、緊
張もない。
布越しに感じる大きな手の温もりに、恐縮しながらも、李斎は安堵した。すると非常
に嬉しくなってきた。我知らず笑みさえ浮かび、そしてつぶやく。
「――やはり、小そうございます」
「いや。そんなことは…、―――何がだ?」
肩越しに見下ろしていた驍宗が、気づいて問いなおした。李斎はちょっと首を傾けた
が、答えた。
「人間の器量、です。分かっていたつもりですが、李斎などは到底、主上の足元にも及
びません…」
「そうか…」
首を傾け眉を寄せて答え、驍宗は咳払いした。
最後に腕を回し終えた四拍めで息を大きく吐くと、李斎は驍宗を振り返った。真直ぐ
に王を見て、礼を述べる。
朝議の席でこそ、毎日会っていたのだが、そのすっきりとした屈託のない表情をこれ
ほど近くで見るのを、驍宗はずいぶんと久しぶりだと感じた。
驍宗は、満ち足りた気分になり、大層素直な微笑を、その顔に返した。
そうすると、なにかひどく面映くなってきたので互いにおかしくて、ふたりともくす
くすと笑った。李斎は言葉を省略し、とうとう無礼を謝らなかった。また、驍宗も誤解
をそのままにした詫びは省いた。右腕に触れたことも、触れられたことも、やはりどち
らも言わなかった。
「氾台輔。お風邪を召されますよ」
左手でそっと揺すると、寝入っていた幼なさの残る小さな顔が、金色の髪をふるん、
と振ってまぶたを持ち上げた。
「あら、李斎…」
当たり前のように両の腕が伸べられる。李斎は微笑んで、首につかまらせてやった。
少女がふわりと身を起こす。それを助けるのは苦にならない。十五六歳の外見をしてい
ても、麒麟は軽い。
台輔も、と小さな子供の姿が浮かぶ。少年の外見でも、幼子のように軽かった…。
稚く目をこする仕草が、李斎の中で遠い麒麟に重なったのを、聡く察知した少女は、
その手を下し、李斎を見た。
「まだ、六太帰ってきてない?」
「まだでいらっしゃるようです。わたくしも今来たところでございますが」
言いながら、向こうへ歩んだ背の高い女性は、すいと左手を上げ、棚の上の小さな火
炉をとった。
「あら李斎。座っていてよ。私がやるわ」
飛んで起きた少女を振りかえって、李斎は驚いたように首を振った。
「とんでもない。氾台輔に淹れて頂いたお茶など、李斎は畏れ多くて飲んだりできませ
んよ」
少女は口をとがらせた。
「梨、雪。――ほんとに手伝わなくていいの?」
李斎は微笑んだ。
「梨雪さま。――はい。大丈夫でございます」
成る程、隻腕になったばかりの彼女は、もう十年もそうしてでもいたように、あめ色
の方形の案(つくえ)の上で、片手だけを器用に往復させて、無駄のない動きで茶を淹
れてゆく。氾台輔梨雪は、どこか不思議な気持ちで、その立ち姿と所作とにみとれた。
「李斎は…」
「はい?」
花の香りの湯気が差し出された。ありがとう、と細い可憐な指先で茶器を受け取り、
少女は一口すすると、おいしさににっこりした。立ったままの李斎に自分の隣に座るよ
うに促す。ためらった李斎だが、この麒麟の天下無敵の笑顔の威力に、おとなしく長椅
子に並んだ。
夏の日差しは中天からもう幾分か傾いて、奥まったこの書院にも、午後の太陽がさし
入り初めている。
藤棚の緑色が、光に透けて床に影を落とし、窓ごしにとりどりの夏の花が咲き乱れる
のが見える。金波宮の主はまだ、午後の政務の最中だろう。そしてその閣僚たちも、州
侯を兼ねる台輔も、日常の仕事に忙殺されている時刻であった。
この時間にのんびりとお茶を飲んでいられるのは、客分たち、なかでもその主たちだ
けである。
麒麟たちは、夜を日についで、蓬莱との往復に忙しい。
そして、行き方知れずの麒麟がみつかった、との知らせは、まだ来ない。
太師邸から、今日もう何度目かの蘭雪堂もうでをした李斎は、書院の長椅子の中に、
くたびれ果てて眠っている、範国の麒麟の姿を見つけたのだった。
「…李斎は、うちの主上に以前、お会いしたことがあるんだったわね」
もうひとすすりして、少女が聞いた。
「はい。主上…泰王驍宗様の即位式の日に。一度だけ、お目にかかっております」
「泰王の即位式ね。よく覚えているわよ。六年前の秋でしょう?いつも戴旅行の後は、
ひとしきり文句を言って、ぶりぶり怒ってそれは大変だったのに、あのときは、皆が吃
驚するくらい、御機嫌でお帰りになられたんだから」
「そうなのでございますか?」
「そうよ。特に…、ええと、玉、だったかしら?ああ、いえ違う――磨く前の璞玉(は
くぎょく)だわ!お国の宝に、ものすごく価値のある璞玉があるんでしょう?それのお
話をなさって…なんでも磨けば、戴一国に匹敵する値打ちだとか」
李斎は首を傾け、そして振った。
「さぁ…。そのようなお品があるのでございますか?」
「あら。見たことないの?泰王が、とても大切にしておられたそうよ」
李斎は困ったように笑った。
「いいえ。王の御物など、普通、一介の将軍に見られるものではございませんので」
氾麟は目をくるりとさせた。
「うちの主上から、泰王と会われたとき李斎もずっと一緒だった、とうかがったわ」
李斎は微笑み、頷いた。
「さようでございます。でも、あのときわたくしは、大僕としてお二人の歓談に、少し
後を歩いて付き従っただけです。お二人は王宮内を散策なさりながら、いろいろとお話
であったと記憶しておりますが、もとより、お話の内容までは聴いてはおりません」
「王師の将軍が、大僕を?」
李斎は、少しばつが悪そうに笑んだ。
「臨時のことで。それも、実を申し上げれば、王師の将軍ではありません」
「どういうこと?李斎は瑞州の将軍なんでしょ」
「わたくしは、あの即位式に、主である承州侯の随従として参ったのです。当時の身分
は、州師は州師でも、承州師の左将軍。本来、お顔を記憶させて頂けるほど、他国の王
を間近にお見上げ出来るような立場では、ございませんでした……」
まだ、廉麟に伴われた六太は戻ってこなかった。延も氾も姿を見せない。小さな書院
で、手のひらの淡紅色の茶杯の中で、花の香りがしている。
「お待ちを…!困ります、どなたであろうと、この先は…っ」
礼服を、常の服に改める途中にあった部屋の老主人が、何事かと、顔を上げたときに
は、既に彼の優秀な武官が二名ばかり、刀の柄に手をかけて、部屋から外へ走り出てい
た。
「御心配なく。あの者たちなら大丈夫でございましょう」
彼をかばうように扉に向かって側に立ち、小声で告げた彼の将軍に、老州侯は愛娘に
するように、小さく微笑み頷いた。
「なに、劉がいるのだから、心配なぞしておらぬよ」
手を止めた小官を促して、佩玉を結ばせた主だったが、廊下遠くのその騒ぎは次第に
近くなり、そのまま、扉の前まで来てしまった。
勢い良く放たれた扉から、後向きに部屋に戻って来た武官たちを見ると、将軍が険し
く叱咤した、
「何をしている貴公ら。侯の御前を、むざむざ騒がせるとは」
ですが、とやや情けない声音を発して口篭もった武官のその肩を、押しのけるように
現れた人物を見て、左将軍は言葉を失った。
後ろに立つ主も目を丸くして、口をあけた後、その口を閉じた。
整えられたばかりの長衣の袖を捌くと、下座に下りた。しかるのち、静かに平伏する。
「主上」
はっと我に返り、一同が叩頭した。抜き身の刀を下げたまま、唖然としていた官たち
も一斉に刃を背後に回して、頭を垂れる。
「案内(あない)も乞わず、非礼を許されよ。顔を上げて頂きたい、承州侯」
入り口に突っ立った男が太い声音で言い放ち、主はいささか面白そうにすくめた首を
持ち上げた。確かに非礼であった。ひともあろうに最前、一国の王になったばかりの男
が、たったひとりで、州侯の控え室に乗り込むとは。
それを自分で分かっているところが、おかしい。
「して、主上におかれましては、この年寄にいかような御用がおありでしょう…」
みなまで聞かず、王は手を振る。
「時間がないゆえ、手短に申す。一刻ばかりこちらの左将軍を、私にお貸し願えるか」
承侯は驚いて横を見た、そこには承侯以上に驚きに目を見張った将軍本人がいた。
「はぁ」
「よろしいか」
州侯は、驚いたままで頷いた、
「はい。それはよろしゅうございますが」
「うむ、かたじけない」
言うなり、いつも以上に気の急いているらしい、この国の新しい王は、呆然となって
いる将軍を、その主より先に急かした。
「主の許可はとった。行くぞ」
声に気圧され、跳ねるように立ち上がりはしたものの、将軍はまだ目を白黒とさせて、
その場で逡巡していた。幾度か王と、長年の主を見比べる。
苛だった気配を身近に察知し、彼女がはっと主から振りかえったとき、そこに王はい
なかった。
「――ついて参れ。急げ!」
州侯から小さく、しかし鋭く顎でうながされ、今度こそ、李斎は飛び上がり、そのま
ま足早に、王の後を追いかけた。
将軍の後ろ姿の向こう側から、お邪魔致した、との大きな一声が、承侯には返された。
「…――吃驚致しました」
右将軍のため息に近い声に、承州侯は苦笑した。
「…あぁ。そうだな」
そしてくつくつと笑い出した。
「大層な剣幕だ。少なくとも性急なお方というのだけは、本当らしい」
名の知れた驍将であった新王は、噂話にことかかなかった。右将軍もくすっと笑った。
「全くです。彼女の腕でもとって、引きずっていくのかと思いましたよ」
「お前もそう思ったか。だが、――しなかったな」
承侯はどこか満足そうに、微笑んだ。
「そうですね。いくら王といえど、恋人でもない御婦人に、そうそう気安くお手を触れ
たりはなさらないでしょう」
「ふむ」
「やはり、ただの憶測でしたね」
肩をすくめた将軍に、承州侯は首を傾ける。
「ほら、王師に招かれたのは、お二人が蓬山で特別の誼を結ばれたからだという」
「あのような卑しい噺を、信じたのか、お前」
将軍は慌てて首を振った。
「まさか。私は、――いえ、彼女を直接知ってる者ならば、誰も信じたりなどしません
よ。それに、ただいまご覧になられたでしょう、あの他人行儀な王のそぶり。あれで二
人に何かあるなんて思うやつがいたら、お目にかかりたいです。そもそも、仙女だらけ
の蓬山で、乍将軍が劉将軍を見初めるってところが、ちょっとあり得ない話でしたから
ね」
承州侯は沈黙した後で、嘆息した。
「…それが、先ほどの王の御様子を見た感想か。どうやら、お前が嫁をもらうのを見る
のは、まだまだ先のことらしい」
「なんですか、一体」
将軍は話題が思いがけず、一身のことに及んだので、口を曲げた。彼は独身である。
高級官吏に独身者が多い。と、いうのは、他国の常識である。だが少なくとも、この
承州においては、高官で妻帯しないもしくは夫を持たない者は、逆に稀であった。
それは、この州侯個人のありようと深くかかわっていた。彼は、仏教者であった。彼
はその宗教を政治に反映することはけっしてしなかったが、彼の生活には、反映させて
いた。
彼は仏教徒の比較的多いこの承州の出身であり、戴の大学で宗教学をもっぱらに修め
た後、国府に入った。春官府の高官から州侯に抜擢されたとき、一州の統地という大き
な仕事と、長く延ばされる寿命を前にして、学生時代から幾分か信奉してきていたこの
教えの戒律を、自らに課したのだった。
蓬莱からもたらされた仏教は、その性質上、こちらではともすれば単に、徳の範疇に
入るべきことを重くとらえ、戒とする。そのひとつが婚姻重視であり、すべからく婚姻
の契約に対して、男女は忠実たれ、というものである。
彼は歴史上数多くの王が、また彼の周囲の高位の官が、この問題を軽んずることに端
を発し、道を失うのを見てきたこともあって、この戒めを大変有用なものととらえ、厳
格に守った。
州城にも後宮があるが、彼はこれをただひとりの妻に与えた。彼には元々子が二人あ
り、就任してからも幾人かに恵まれたが、みな徳操を以って育て上げ、結婚させて、下
界に出した。
真摯な教育者であり一個の父である、このひとりの男の生き方は、州城のもっとも高
いところから年月かけて徐々に、広く州内に好ましい影響として浸透していき、結果と
して、承州の官のきわめて高い結婚率と、民のきわめて低い離婚率という形であらわれ
ているのだった。
一方彼は、州師に関しては一貫して、特別の干渉、もしくは要求をしてきていた。
それは、兵の質を高めることであった。彼の州師には長年にわたり、強い兵士である
と同時に、教育を受けた善き人であることが要求された。このため、彼の軍は精鋭だっ
たが、無慈悲ではなかった。
指揮官には徳が要求された。州師の戦いの目的は、そもそも州内の内乱と暴動の鎮圧
である。兵を戦わせるに巧みであると同じ位、兵の消費――すなわち戦死――を最少に
おさえて勝利することに長けた指揮官、制圧地域の被害を最小にとどめる才を持つ指揮
官が、淘汰されて残った。
そんななかで、彼が妻と二人で最も愛し、重く用いてきたのが、李斎であった。
彼女は、少学しか出ていなかったが、その軍功は目覚しかった。彼女が師帥になった
とき、彼は可能な限り早くに、このまだ年若い娘に将軍の席を用意しよう、と決意した。
そしてわずか三年で、佐軍将軍(=州において左右中につぐ第四軍の将)に任じた。
彼の思惑は当った。
李斎が将軍を拝命して以来、――破格の大抜擢を受けた若い女性に対する、応分の抵
抗の生じた時期を過ぎた後――、佐軍の雰囲気はがらりと変わり、兵の質は格段に向上
した。それは、やがて他軍の将や兵にも及び、時を経て彼女が左将軍に据えられる頃に
は、承州師は、八州一の練度と、戴随一の教育の高さを謳われるようになっていた。
李斎は、頼りになる将軍であると同時に、実子を育て終わり、すでに外見内実ともに、
老齢である州侯夫妻にとって、娘に等しかった。
そんな彼女を、どんな男に娶(めあ)わせるかは、彼らの長年の楽しみでもあり、嬉
しい心配事でもあった。ところが、彼女は彼らの目に適った男たちのことごとくを、親
しく腹を割って付き合い、何時間でも語り合うことのできる友人にしてしまったのであ
る。
それが…。
州侯は、閉じた扉の方を見るともなく見やると、ふん、と小さく笑った。
昨日内示を頂いたときには、とんでもない御方から見込まれたものだ、と彼女の行く
末を案じたが、どうやら、心配はいらぬらしい。
最前、覇気に満ち、天下に何も恐れるものはないかのごとき自信に溢れた新王は、李
斎に負けぬほど色恋に疎い彼女の同僚でさえそれと気づいたように、一瞬、承州侯の方
を見ていた李斎の腕をとりかけた。だが、その手を半ばで引いて宙を握り、急いで下し
た。下したときにはもう扉口へと向かっていた。
あそこまでとは、思わなかった。
承侯の口元に笑みが浮かんだ。
きっと…と、呟きかけてから、彼は首を振る。いや。もう愛しい娘は、彼の手を離れ
たのだ。
彼は、積年の思案の終る寂しさを、ちらと自覚した。ふと、すずりを引き寄せると、
故郷(くに)で待つ妻にあてて、手紙をしたため始めた。
――新しい王は、なかなかの御仁とお見上げした……。
小走りになりながら、李斎は何度も前を行く背中に目をやっては目を落とす。
即位式が終り、承州侯と控えの部屋に戻るなりの、いきなりの王の来訪である。その
うえ自分が連れ出された理由など、李斎には皆目、見当がつかない。
呪をかけた隧道を網の目をたどるように伝いながら、既にだいぶ走った。ある建物の
外階段に出たところで、ちらと視線を投げやれば、先ほど駆け出てきた外殿端の建物群
は、秋空の下、はるかに遠い。
もし、この距離をこの日に、通常の手続きを踏んで官が動いていたなら、今頃はまだ、
侯の御前にも達してはいまい。…だが。
「どちらへ参るのか、伺ってもよろしゅうございますか」
李斎はようやく質問したが、またそこで景色は途切れ、次の隧道に入ったと知れた。
「いま、説明する。――ああ。ここだ」
隧道を数本たて続けに抜けたので、李斎の問いにはろくに返答がなされないままに、
二人は、磨きこまれた長い廊下のひとつの端で、扉の前に立っていた。
入れ、と急き立てられ中に進むと、かなり大きな部屋だった。
「こちらへどうぞ」
待ち構えた女官が言うなり、引き立てるように李斎をさらに奥の間へと連れて行く。
暗い廊下側から入ると、まぶしいほどに明るいその部屋は、露台に向けて丈高い玻璃
窓が連なり、窓の向こうは、海ではなく庭園のようだ。
部屋の突き当たりに引き回された屏風をかわると、待機していた三人の中でもっとも
年配のひとりが、無言で李斎の着衣に手をかけた。
将軍ともなると、通常着替えは下官に手伝わせるものだが、三人がかりということは、
まずない。まして、一国の王城の天官府の女官たちにというのは、あり得ない。
彼らの態度が、到底質問など許さない急ぎ様だったので、腹を決めて李斎が従ってい
ると、仕切り扉の閉じていない隣室から、驍宗の声がした。
「現に、こうして戻って参った。これで刻限には、十分に間に合おう…」
それはなにやら、言い訳めいて聞こえた。小声で静かに話すらしい相手が、なにを言
っているかは知れない。だが、驍宗の声はいつになく大きい。
「…あいわかった、そのとおりだ。よく用意してくれた。下がってよい」
あきらかに苛立ちながらも折れた調子の強い声音で、李斎は思わず、そちらを見やっ
た。
考えてみれば、即位式をすませた主上が、どういう理由でどんな指示を出した末に、
こういう準備がなされたのにせよ、少なくともその間に、単独で王宮の端まで行って戻
ったことに変わりはない。天官は立場上、相当に気を揉んだことだろう。
ただ、驍宗は穏やかな気性ではないが、格別癇癪もちではない。その驍宗にこう言わ
せるまで食い下がる天官がいるのだ、と李斎はなにやら感心していた。
李斎はちらと、彼女の皮甲の革紐を結ぶ女官の顔を見おろした。その職業的な無表情
はいささかも、動かない。
「出来たな」
隣室で驍宗は、立ったままで待っていた。この方は、と李斎は少しおかしくそれを見
る。側に椅子があっても掛けようとはしない驍宗に、武人出の王と周囲の、日常の苦労
がのぞいていた。
驍宗は李斎を見た。その表情は、もう全く急いてはいない。
首を傾け、ゆっくりと李斎の支度を眺める。うむ、と頷き、ちらと笑んだ。黒色の皮
甲にいぶし銀の篭手に鈍(にび)色の絹織物。確認の時間はなく、驍宗自身がいま初め
て目にしたものだ。
それは先ほどまで着ていた暗紅色の着物に比べると色目でははるかに地味だが、先ほ
どとは比較にならない位、洗練された装いだった。
皮甲は、武具に限っては職業柄、造詣の深い李斎が、差し出されて思わず見惚れた逸
品であったが、けっして凝りすぎず、派手ではない。白い顔と後ろへ括った赤い髪が、
これ以上はないほどに、すっきりと上品に見えるのを確かめて、驍宗は満足の息を吐く
と、これならばよかろう、と呟いた。
控えめに怪訝な顔をした李斎に、微笑んでみせる。
「時間が厳しかったゆえ、大層急がせたな。どうやら間に合った」
「はい」
――何にどう間に合ったのか、聞いてもいいだろうか。考えたところへ、驍宗が先を
取った。
「これから、範の王に会う」
範、と李斎は口の中で繰り返す。
その大国は、玉の産地である戴にとっては、昔から付き合いの深い、殆ど唯一の他国
だ。
「先ほど、式の後の言祝ぎの席で、急遽決まった。今日お帰りになられる前に、個人的
な面談をもつ。あくまで私的なものゆえ、あちらもお一人で見えられる…」
言葉を切った驍宗は、ここでなぜかちょっと苦笑気味の眉を寄せ、続けた。
「いつも私が不在の折の来戴であったゆえ、直には存じ上げないのだが、なにやら難し
い御仁のようでな。そなたに歓談の護衛を頼みたい」
李斎は驚いた。当然ながら他国の賓客の前になど、彼女は出たこともない。
「すぐに首をすげかえる将軍たちを今更引き合わせても、益など何もない。王師の将軍
として、よい経験になろう」
「まだ拝命しておりません」
「それは言わなくてよろしい。余州の州師の将だと紹介するわけにもいくまい。範の方
には、瑞州侯師の将軍と言っておく。そなたもそのつもりでいるように」
それでしたら他の方でも、と口篭もった李斎に、驍宗は遠慮深いやつだと笑ってみせ
る。
「拝命の決まっているものは皆、現役の禁軍左軍の師帥だ。今日は全員城下の警備に出
払っていて、誰もおらぬ。それに何より、そなたが適任だと思うのだ…、――ああ」
見ると、驍宗の視線の先で、扉を開けて入室したひとりの官が平伏した。
あちらがお部屋を出られたようだな、と驍宗が李斎に言う。
「さて。先に出て待つとしようか」
その言葉に近付いた女官に、黙って冠を直させると、驍宗はさっさと庭に下りて行く。
李斎は追いかけて部屋を横切り、庭園に向かって大きくせりだした露台に出ると、石
造りの広い階段を、自分も足早に降りた。
「その皮甲(よろい)は、先の王后の大僕が用いたものだそうだ」
黙って数歩後ろを歩く李斎に、驍宗が言葉を掛けた。
先ほど掌客殿を出たという客人の姿は、白く広がる石畳のどこにも、まだ見えない。
雲海の上とはいいながら冬の降雪のある白圭宮の庭は、ごく一部をのぞいて、多くが
このような石の庭園である。視界をさえぎらない空間が、どこまでも幾何学的に組まれ、
それを寒さに強い樹木がその濃い緑色でわずかに彩る。
「それで、女物なのでございますね」
李斎は歩きながら答えた。
つけている皮甲は、かつての持ち主の性別と体格を語っている。驍宗は頷いた、
「腕の立つ、よい武官であったようだ。后妃はたいそう可愛がっておいでだったらしい」
「お会いになられたことは」
ないな、と驍宗が答える。后妃が先王の元を去り、王城から出たのは、彼が将軍にな
るより前のことだった。大僕もそのとき職を辞して、后妃に従ったのだと驍宗は語った。
その后妃のことを、民は覚えていないだろう。それほどに、もはや昔であった。
「どちらにおいでなのでございますか」
「いや。仙籍をお返しになられた。おそらくもう、この世にはおられまい」
振り返った驍宗は、李斎の装いに目をやり、少し笑んだ、
「夫君とは違って、趣味のよい方であったようだな。后妃と別れてから、主上の悪趣味
な浪費に、いよいよ拍車がかかった、ということらしい。まこと、男は細君で決まる…」
「…」
これは、驍宗の言としていささか意外なような気もし、己の鈍(にび)色の上衣を見
るともなく見下ろして、李斎は首を傾げた。
その頭の動きに、即位礼のためにこの朝、下官が丹念に櫛削った赤茶色の髪が、重た
い弧を描いて肩に滑った。だが、背中で括られそれ以上は動かぬその髪を、伏せたまつ
げが頬に落とした影を、驍宗がその瞬間、どんな思いの表れた顔で見たものか、俯いた
李斎が知るはずもない。
顔を上げた李斎は、王の沈黙に、瞬いた。それに気づくと、彼はほんのわずか目を細
め、それから視線を外した。
「お見えのようだ」
驍宗が静かに言った。
庭園の向こうを、黒い長袍の、予想に反しほっそりとした影が、緩やかな足取りで歩
んでくるのが見え、李斎は更に二歩下がると、護衛の武官の作法にならい、片膝をつい
て深く頭を垂れた。
それは、六年前の、晴れた秋の日のことであった。
左手でそっと揺すると、寝入っていた幼なさの残る小さな顔が、金色の髪をふるん、
と振ってまぶたを持ち上げた。
「あら、李斎…」
当たり前のように両の腕が伸べられる。李斎は微笑んで、首につかまらせてやった。
少女がふわりと身を起こす。それを助けるのは苦にならない。十五六歳の外見をしてい
ても、麒麟は軽い。
台輔も、と小さな子供の姿が浮かぶ。少年の外見でも、幼子のように軽かった…。
稚く目をこする仕草が、李斎の中で遠い麒麟に重なったのを、聡く察知した少女は、
その手を下し、李斎を見た。
「まだ、六太帰ってきてない?」
「まだでいらっしゃるようです。わたくしも今来たところでございますが」
言いながら、向こうへ歩んだ背の高い女性は、すいと左手を上げ、棚の上の小さな火
炉をとった。
「あら李斎。座っていてよ。私がやるわ」
飛んで起きた少女を振りかえって、李斎は驚いたように首を振った。
「とんでもない。氾台輔に淹れて頂いたお茶など、李斎は畏れ多くて飲んだりできませ
んよ」
少女は口をとがらせた。
「梨、雪。――ほんとに手伝わなくていいの?」
李斎は微笑んだ。
「梨雪さま。――はい。大丈夫でございます」
成る程、隻腕になったばかりの彼女は、もう十年もそうしてでもいたように、あめ色
の方形の案(つくえ)の上で、片手だけを器用に往復させて、無駄のない動きで茶を淹
れてゆく。氾台輔梨雪は、どこか不思議な気持ちで、その立ち姿と所作とにみとれた。
「李斎は…」
「はい?」
花の香りの湯気が差し出された。ありがとう、と細い可憐な指先で茶器を受け取り、
少女は一口すすると、おいしさににっこりした。立ったままの李斎に自分の隣に座るよ
うに促す。ためらった李斎だが、この麒麟の天下無敵の笑顔の威力に、おとなしく長椅
子に並んだ。
夏の日差しは中天からもう幾分か傾いて、奥まったこの書院にも、午後の太陽がさし
入り初めている。
藤棚の緑色が、光に透けて床に影を落とし、窓ごしにとりどりの夏の花が咲き乱れる
のが見える。金波宮の主はまだ、午後の政務の最中だろう。そしてその閣僚たちも、州
侯を兼ねる台輔も、日常の仕事に忙殺されている時刻であった。
この時間にのんびりとお茶を飲んでいられるのは、客分たち、なかでもその主たちだ
けである。
麒麟たちは、夜を日についで、蓬莱との往復に忙しい。
そして、行き方知れずの麒麟がみつかった、との知らせは、まだ来ない。
太師邸から、今日もう何度目かの蘭雪堂もうでをした李斎は、書院の長椅子の中に、
くたびれ果てて眠っている、範国の麒麟の姿を見つけたのだった。
「…李斎は、うちの主上に以前、お会いしたことがあるんだったわね」
もうひとすすりして、少女が聞いた。
「はい。主上…泰王驍宗様の即位式の日に。一度だけ、お目にかかっております」
「泰王の即位式ね。よく覚えているわよ。六年前の秋でしょう?いつも戴旅行の後は、
ひとしきり文句を言って、ぶりぶり怒ってそれは大変だったのに、あのときは、皆が吃
驚するくらい、御機嫌でお帰りになられたんだから」
「そうなのでございますか?」
「そうよ。特に…、ええと、玉、だったかしら?ああ、いえ違う――磨く前の璞玉(は
くぎょく)だわ!お国の宝に、ものすごく価値のある璞玉があるんでしょう?それのお
話をなさって…なんでも磨けば、戴一国に匹敵する値打ちだとか」
李斎は首を傾け、そして振った。
「さぁ…。そのようなお品があるのでございますか?」
「あら。見たことないの?泰王が、とても大切にしておられたそうよ」
李斎は困ったように笑った。
「いいえ。王の御物など、普通、一介の将軍に見られるものではございませんので」
氾麟は目をくるりとさせた。
「うちの主上から、泰王と会われたとき李斎もずっと一緒だった、とうかがったわ」
李斎は微笑み、頷いた。
「さようでございます。でも、あのときわたくしは、大僕としてお二人の歓談に、少し
後を歩いて付き従っただけです。お二人は王宮内を散策なさりながら、いろいろとお話
であったと記憶しておりますが、もとより、お話の内容までは聴いてはおりません」
「王師の将軍が、大僕を?」
李斎は、少しばつが悪そうに笑んだ。
「臨時のことで。それも、実を申し上げれば、王師の将軍ではありません」
「どういうこと?李斎は瑞州の将軍なんでしょ」
「わたくしは、あの即位式に、主である承州侯の随従として参ったのです。当時の身分
は、州師は州師でも、承州師の左将軍。本来、お顔を記憶させて頂けるほど、他国の王
を間近にお見上げ出来るような立場では、ございませんでした……」
まだ、廉麟に伴われた六太は戻ってこなかった。延も氾も姿を見せない。小さな書院
で、手のひらの淡紅色の茶杯の中で、花の香りがしている。
「お待ちを…!困ります、どなたであろうと、この先は…っ」
礼服を、常の服に改める途中にあった部屋の老主人が、何事かと、顔を上げたときに
は、既に彼の優秀な武官が二名ばかり、刀の柄に手をかけて、部屋から外へ走り出てい
た。
「御心配なく。あの者たちなら大丈夫でございましょう」
彼をかばうように扉に向かって側に立ち、小声で告げた彼の将軍に、老州侯は愛娘に
するように、小さく微笑み頷いた。
「なに、劉がいるのだから、心配なぞしておらぬよ」
手を止めた小官を促して、佩玉を結ばせた主だったが、廊下遠くのその騒ぎは次第に
近くなり、そのまま、扉の前まで来てしまった。
勢い良く放たれた扉から、後向きに部屋に戻って来た武官たちを見ると、将軍が険し
く叱咤した、
「何をしている貴公ら。侯の御前を、むざむざ騒がせるとは」
ですが、とやや情けない声音を発して口篭もった武官のその肩を、押しのけるように
現れた人物を見て、左将軍は言葉を失った。
後ろに立つ主も目を丸くして、口をあけた後、その口を閉じた。
整えられたばかりの長衣の袖を捌くと、下座に下りた。しかるのち、静かに平伏する。
「主上」
はっと我に返り、一同が叩頭した。抜き身の刀を下げたまま、唖然としていた官たち
も一斉に刃を背後に回して、頭を垂れる。
「案内(あない)も乞わず、非礼を許されよ。顔を上げて頂きたい、承州侯」
入り口に突っ立った男が太い声音で言い放ち、主はいささか面白そうにすくめた首を
持ち上げた。確かに非礼であった。ひともあろうに最前、一国の王になったばかりの男
が、たったひとりで、州侯の控え室に乗り込むとは。
それを自分で分かっているところが、おかしい。
「して、主上におかれましては、この年寄にいかような御用がおありでしょう…」
みなまで聞かず、王は手を振る。
「時間がないゆえ、手短に申す。一刻ばかりこちらの左将軍を、私にお貸し願えるか」
承侯は驚いて横を見た、そこには承侯以上に驚きに目を見張った将軍本人がいた。
「はぁ」
「よろしいか」
州侯は、驚いたままで頷いた、
「はい。それはよろしゅうございますが」
「うむ、かたじけない」
言うなり、いつも以上に気の急いているらしい、この国の新しい王は、呆然となって
いる将軍を、その主より先に急かした。
「主の許可はとった。行くぞ」
声に気圧され、跳ねるように立ち上がりはしたものの、将軍はまだ目を白黒とさせて、
その場で逡巡していた。幾度か王と、長年の主を見比べる。
苛だった気配を身近に察知し、彼女がはっと主から振りかえったとき、そこに王はい
なかった。
「――ついて参れ。急げ!」
州侯から小さく、しかし鋭く顎でうながされ、今度こそ、李斎は飛び上がり、そのま
ま足早に、王の後を追いかけた。
将軍の後ろ姿の向こう側から、お邪魔致した、との大きな一声が、承侯には返された。
「…――吃驚致しました」
右将軍のため息に近い声に、承州侯は苦笑した。
「…あぁ。そうだな」
そしてくつくつと笑い出した。
「大層な剣幕だ。少なくとも性急なお方というのだけは、本当らしい」
名の知れた驍将であった新王は、噂話にことかかなかった。右将軍もくすっと笑った。
「全くです。彼女の腕でもとって、引きずっていくのかと思いましたよ」
「お前もそう思ったか。だが、――しなかったな」
承侯はどこか満足そうに、微笑んだ。
「そうですね。いくら王といえど、恋人でもない御婦人に、そうそう気安くお手を触れ
たりはなさらないでしょう」
「ふむ」
「やはり、ただの憶測でしたね」
肩をすくめた将軍に、承州侯は首を傾ける。
「ほら、王師に招かれたのは、お二人が蓬山で特別の誼を結ばれたからだという」
「あのような卑しい噺を、信じたのか、お前」
将軍は慌てて首を振った。
「まさか。私は、――いえ、彼女を直接知ってる者ならば、誰も信じたりなどしません
よ。それに、ただいまご覧になられたでしょう、あの他人行儀な王のそぶり。あれで二
人に何かあるなんて思うやつがいたら、お目にかかりたいです。そもそも、仙女だらけ
の蓬山で、乍将軍が劉将軍を見初めるってところが、ちょっとあり得ない話でしたから
ね」
承州侯は沈黙した後で、嘆息した。
「…それが、先ほどの王の御様子を見た感想か。どうやら、お前が嫁をもらうのを見る
のは、まだまだ先のことらしい」
「なんですか、一体」
将軍は話題が思いがけず、一身のことに及んだので、口を曲げた。彼は独身である。
高級官吏に独身者が多い。と、いうのは、他国の常識である。だが少なくとも、この
承州においては、高官で妻帯しないもしくは夫を持たない者は、逆に稀であった。
それは、この州侯個人のありようと深くかかわっていた。彼は、仏教者であった。彼
はその宗教を政治に反映することはけっしてしなかったが、彼の生活には、反映させて
いた。
彼は仏教徒の比較的多いこの承州の出身であり、戴の大学で宗教学をもっぱらに修め
た後、国府に入った。春官府の高官から州侯に抜擢されたとき、一州の統地という大き
な仕事と、長く延ばされる寿命を前にして、学生時代から幾分か信奉してきていたこの
教えの戒律を、自らに課したのだった。
蓬莱からもたらされた仏教は、その性質上、こちらではともすれば単に、徳の範疇に
入るべきことを重くとらえ、戒とする。そのひとつが婚姻重視であり、すべからく婚姻
の契約に対して、男女は忠実たれ、というものである。
彼は歴史上数多くの王が、また彼の周囲の高位の官が、この問題を軽んずることに端
を発し、道を失うのを見てきたこともあって、この戒めを大変有用なものととらえ、厳
格に守った。
州城にも後宮があるが、彼はこれをただひとりの妻に与えた。彼には元々子が二人あ
り、就任してからも幾人かに恵まれたが、みな徳操を以って育て上げ、結婚させて、下
界に出した。
真摯な教育者であり一個の父である、このひとりの男の生き方は、州城のもっとも高
いところから年月かけて徐々に、広く州内に好ましい影響として浸透していき、結果と
して、承州の官のきわめて高い結婚率と、民のきわめて低い離婚率という形であらわれ
ているのだった。
一方彼は、州師に関しては一貫して、特別の干渉、もしくは要求をしてきていた。
それは、兵の質を高めることであった。彼の州師には長年にわたり、強い兵士である
と同時に、教育を受けた善き人であることが要求された。このため、彼の軍は精鋭だっ
たが、無慈悲ではなかった。
指揮官には徳が要求された。州師の戦いの目的は、そもそも州内の内乱と暴動の鎮圧
である。兵を戦わせるに巧みであると同じ位、兵の消費――すなわち戦死――を最少に
おさえて勝利することに長けた指揮官、制圧地域の被害を最小にとどめる才を持つ指揮
官が、淘汰されて残った。
そんななかで、彼が妻と二人で最も愛し、重く用いてきたのが、李斎であった。
彼女は、少学しか出ていなかったが、その軍功は目覚しかった。彼女が師帥になった
とき、彼は可能な限り早くに、このまだ年若い娘に将軍の席を用意しよう、と決意した。
そしてわずか三年で、佐軍将軍(=州において左右中につぐ第四軍の将)に任じた。
彼の思惑は当った。
李斎が将軍を拝命して以来、――破格の大抜擢を受けた若い女性に対する、応分の抵
抗の生じた時期を過ぎた後――、佐軍の雰囲気はがらりと変わり、兵の質は格段に向上
した。それは、やがて他軍の将や兵にも及び、時を経て彼女が左将軍に据えられる頃に
は、承州師は、八州一の練度と、戴随一の教育の高さを謳われるようになっていた。
李斎は、頼りになる将軍であると同時に、実子を育て終わり、すでに外見内実ともに、
老齢である州侯夫妻にとって、娘に等しかった。
そんな彼女を、どんな男に娶(めあ)わせるかは、彼らの長年の楽しみでもあり、嬉
しい心配事でもあった。ところが、彼女は彼らの目に適った男たちのことごとくを、親
しく腹を割って付き合い、何時間でも語り合うことのできる友人にしてしまったのであ
る。
それが…。
州侯は、閉じた扉の方を見るともなく見やると、ふん、と小さく笑った。
昨日内示を頂いたときには、とんでもない御方から見込まれたものだ、と彼女の行く
末を案じたが、どうやら、心配はいらぬらしい。
最前、覇気に満ち、天下に何も恐れるものはないかのごとき自信に溢れた新王は、李
斎に負けぬほど色恋に疎い彼女の同僚でさえそれと気づいたように、一瞬、承州侯の方
を見ていた李斎の腕をとりかけた。だが、その手を半ばで引いて宙を握り、急いで下し
た。下したときにはもう扉口へと向かっていた。
あそこまでとは、思わなかった。
承侯の口元に笑みが浮かんだ。
きっと…と、呟きかけてから、彼は首を振る。いや。もう愛しい娘は、彼の手を離れ
たのだ。
彼は、積年の思案の終る寂しさを、ちらと自覚した。ふと、すずりを引き寄せると、
故郷(くに)で待つ妻にあてて、手紙をしたため始めた。
――新しい王は、なかなかの御仁とお見上げした……。
小走りになりながら、李斎は何度も前を行く背中に目をやっては目を落とす。
即位式が終り、承州侯と控えの部屋に戻るなりの、いきなりの王の来訪である。その
うえ自分が連れ出された理由など、李斎には皆目、見当がつかない。
呪をかけた隧道を網の目をたどるように伝いながら、既にだいぶ走った。ある建物の
外階段に出たところで、ちらと視線を投げやれば、先ほど駆け出てきた外殿端の建物群
は、秋空の下、はるかに遠い。
もし、この距離をこの日に、通常の手続きを踏んで官が動いていたなら、今頃はまだ、
侯の御前にも達してはいまい。…だが。
「どちらへ参るのか、伺ってもよろしゅうございますか」
李斎はようやく質問したが、またそこで景色は途切れ、次の隧道に入ったと知れた。
「いま、説明する。――ああ。ここだ」
隧道を数本たて続けに抜けたので、李斎の問いにはろくに返答がなされないままに、
二人は、磨きこまれた長い廊下のひとつの端で、扉の前に立っていた。
入れ、と急き立てられ中に進むと、かなり大きな部屋だった。
「こちらへどうぞ」
待ち構えた女官が言うなり、引き立てるように李斎をさらに奥の間へと連れて行く。
暗い廊下側から入ると、まぶしいほどに明るいその部屋は、露台に向けて丈高い玻璃
窓が連なり、窓の向こうは、海ではなく庭園のようだ。
部屋の突き当たりに引き回された屏風をかわると、待機していた三人の中でもっとも
年配のひとりが、無言で李斎の着衣に手をかけた。
将軍ともなると、通常着替えは下官に手伝わせるものだが、三人がかりということは、
まずない。まして、一国の王城の天官府の女官たちにというのは、あり得ない。
彼らの態度が、到底質問など許さない急ぎ様だったので、腹を決めて李斎が従ってい
ると、仕切り扉の閉じていない隣室から、驍宗の声がした。
「現に、こうして戻って参った。これで刻限には、十分に間に合おう…」
それはなにやら、言い訳めいて聞こえた。小声で静かに話すらしい相手が、なにを言
っているかは知れない。だが、驍宗の声はいつになく大きい。
「…あいわかった、そのとおりだ。よく用意してくれた。下がってよい」
あきらかに苛立ちながらも折れた調子の強い声音で、李斎は思わず、そちらを見やっ
た。
考えてみれば、即位式をすませた主上が、どういう理由でどんな指示を出した末に、
こういう準備がなされたのにせよ、少なくともその間に、単独で王宮の端まで行って戻
ったことに変わりはない。天官は立場上、相当に気を揉んだことだろう。
ただ、驍宗は穏やかな気性ではないが、格別癇癪もちではない。その驍宗にこう言わ
せるまで食い下がる天官がいるのだ、と李斎はなにやら感心していた。
李斎はちらと、彼女の皮甲の革紐を結ぶ女官の顔を見おろした。その職業的な無表情
はいささかも、動かない。
「出来たな」
隣室で驍宗は、立ったままで待っていた。この方は、と李斎は少しおかしくそれを見
る。側に椅子があっても掛けようとはしない驍宗に、武人出の王と周囲の、日常の苦労
がのぞいていた。
驍宗は李斎を見た。その表情は、もう全く急いてはいない。
首を傾け、ゆっくりと李斎の支度を眺める。うむ、と頷き、ちらと笑んだ。黒色の皮
甲にいぶし銀の篭手に鈍(にび)色の絹織物。確認の時間はなく、驍宗自身がいま初め
て目にしたものだ。
それは先ほどまで着ていた暗紅色の着物に比べると色目でははるかに地味だが、先ほ
どとは比較にならない位、洗練された装いだった。
皮甲は、武具に限っては職業柄、造詣の深い李斎が、差し出されて思わず見惚れた逸
品であったが、けっして凝りすぎず、派手ではない。白い顔と後ろへ括った赤い髪が、
これ以上はないほどに、すっきりと上品に見えるのを確かめて、驍宗は満足の息を吐く
と、これならばよかろう、と呟いた。
控えめに怪訝な顔をした李斎に、微笑んでみせる。
「時間が厳しかったゆえ、大層急がせたな。どうやら間に合った」
「はい」
――何にどう間に合ったのか、聞いてもいいだろうか。考えたところへ、驍宗が先を
取った。
「これから、範の王に会う」
範、と李斎は口の中で繰り返す。
その大国は、玉の産地である戴にとっては、昔から付き合いの深い、殆ど唯一の他国
だ。
「先ほど、式の後の言祝ぎの席で、急遽決まった。今日お帰りになられる前に、個人的
な面談をもつ。あくまで私的なものゆえ、あちらもお一人で見えられる…」
言葉を切った驍宗は、ここでなぜかちょっと苦笑気味の眉を寄せ、続けた。
「いつも私が不在の折の来戴であったゆえ、直には存じ上げないのだが、なにやら難し
い御仁のようでな。そなたに歓談の護衛を頼みたい」
李斎は驚いた。当然ながら他国の賓客の前になど、彼女は出たこともない。
「すぐに首をすげかえる将軍たちを今更引き合わせても、益など何もない。王師の将軍
として、よい経験になろう」
「まだ拝命しておりません」
「それは言わなくてよろしい。余州の州師の将だと紹介するわけにもいくまい。範の方
には、瑞州侯師の将軍と言っておく。そなたもそのつもりでいるように」
それでしたら他の方でも、と口篭もった李斎に、驍宗は遠慮深いやつだと笑ってみせ
る。
「拝命の決まっているものは皆、現役の禁軍左軍の師帥だ。今日は全員城下の警備に出
払っていて、誰もおらぬ。それに何より、そなたが適任だと思うのだ…、――ああ」
見ると、驍宗の視線の先で、扉を開けて入室したひとりの官が平伏した。
あちらがお部屋を出られたようだな、と驍宗が李斎に言う。
「さて。先に出て待つとしようか」
その言葉に近付いた女官に、黙って冠を直させると、驍宗はさっさと庭に下りて行く。
李斎は追いかけて部屋を横切り、庭園に向かって大きくせりだした露台に出ると、石
造りの広い階段を、自分も足早に降りた。
「その皮甲(よろい)は、先の王后の大僕が用いたものだそうだ」
黙って数歩後ろを歩く李斎に、驍宗が言葉を掛けた。
先ほど掌客殿を出たという客人の姿は、白く広がる石畳のどこにも、まだ見えない。
雲海の上とはいいながら冬の降雪のある白圭宮の庭は、ごく一部をのぞいて、多くが
このような石の庭園である。視界をさえぎらない空間が、どこまでも幾何学的に組まれ、
それを寒さに強い樹木がその濃い緑色でわずかに彩る。
「それで、女物なのでございますね」
李斎は歩きながら答えた。
つけている皮甲は、かつての持ち主の性別と体格を語っている。驍宗は頷いた、
「腕の立つ、よい武官であったようだ。后妃はたいそう可愛がっておいでだったらしい」
「お会いになられたことは」
ないな、と驍宗が答える。后妃が先王の元を去り、王城から出たのは、彼が将軍にな
るより前のことだった。大僕もそのとき職を辞して、后妃に従ったのだと驍宗は語った。
その后妃のことを、民は覚えていないだろう。それほどに、もはや昔であった。
「どちらにおいでなのでございますか」
「いや。仙籍をお返しになられた。おそらくもう、この世にはおられまい」
振り返った驍宗は、李斎の装いに目をやり、少し笑んだ、
「夫君とは違って、趣味のよい方であったようだな。后妃と別れてから、主上の悪趣味
な浪費に、いよいよ拍車がかかった、ということらしい。まこと、男は細君で決まる…」
「…」
これは、驍宗の言としていささか意外なような気もし、己の鈍(にび)色の上衣を見
るともなく見下ろして、李斎は首を傾げた。
その頭の動きに、即位礼のためにこの朝、下官が丹念に櫛削った赤茶色の髪が、重た
い弧を描いて肩に滑った。だが、背中で括られそれ以上は動かぬその髪を、伏せたまつ
げが頬に落とした影を、驍宗がその瞬間、どんな思いの表れた顔で見たものか、俯いた
李斎が知るはずもない。
顔を上げた李斎は、王の沈黙に、瞬いた。それに気づくと、彼はほんのわずか目を細
め、それから視線を外した。
「お見えのようだ」
驍宗が静かに言った。
庭園の向こうを、黒い長袍の、予想に反しほっそりとした影が、緩やかな足取りで歩
んでくるのが見え、李斎は更に二歩下がると、護衛の武官の作法にならい、片膝をつい
て深く頭を垂れた。
それは、六年前の、晴れた秋の日のことであった。
先刻から、この子供はなにをしているのだろう…?
日暮れであった。古い城壁に囲まれた北東のありふれた町は、穏やかな春の一日を終
えようとしている。
子供は、立ち上がった。数歩歩いて門の方を見すえ、顎をそびやかす。それから急に
くるりとまた回れ右をすると、心持ちうな垂れて、元の位置、つまりいま男が座ってい
る城門外の大きな橡(とち)の木の下へと戻ってくるのだ。
男がそれに気づいてからでも、すでに五回以上、同じことを繰り返している。特にす
ることもないので、彼は、最前から子供の様子をもうずっと眺めるともなく眺めていた。
七八歳の少女であった。
「おじさん。さっきからここでなにをしてるの?」
少女は突然、聞いた。男は少し目を開いた。よく通る声で、はっきりとしたもの言い
だった。
「…ひとを待っている」
「ふぅん。もうすぐ門が閉まるのに?いまからじゃ次の町へは行けないわよ」
男の旅装から土地の人間ではないことを見て取ったらしい子供が、ませた口をきく。
「お前こそ、一体何をしているのだ。町の子供だろう。家に帰る時間ではないのか」
子供はちょっと口を曲げた。
「ほうっといてよ」
その拗ねた顔に愛敬があったので、この男として珍しいことに、少し微笑んだ。
強面の男が突然見せた、意外なほど優しげな顔に、少女のやや灰味がかった青色の目
が、ちょっと見開かれた。
「なんぞ、帰りたくない理由でもあるのか」
子供は男のすぐ脇に座った。ひざを抱え、俯くと、低い声で答えた。
「帰ったら、母さんにお尻ぶたれる…」
「何をした」
「しなかったのよ。今日は二胡の先生の日だったの」
「稽古をすっぽかしたか」
「…。うん…」
子供は男の反応を見るように、上目にちらと見上げた。男は黙って、そうか、とでも
いうように軽く頷いただけだった。
子供はやや拍子抜けして、ほっと息を吐いた。するとこの、彼女のよくない行いにな
んら説教しようとしなかった大人に、何事か打ち明けたい気持ちにかられた。
彼女は黙っている男にぽつぽつと話を始めた。
「……お料理やお裁縫は仕方ないと思うの。誰だって大きくなったら、土地をもらって
ひとりで暮らさなきゃいけないでしょ。でも楽器とか刺繍とかは、出来なくても大して
困らないわ。なのに母さんは、女の子だからたしなみとして覚えなさいって…たしなみ
っていうのは、どれも私の苦手なことばっかりで、嫌になる」
「母親とは、子供の先行きを考えると口やかましくなるものだ」
「さきゆきって?」
「将来。大人になってからだ」
「それだったら、自分のことさえ出来るようになればいいわ。わたし結婚しないんだし」
「ほぅ…なぜだ」
「知らないの?わたしみたいに器量が良くなくて、男の子のように乱暴な娘は、お嫁に
は行かないのよ。行きたくないから別にいいけど、行きたくたって行けないって」
男はこれを聞くと瞬いた。
「なにを見ているの」
「いや…」
男は子供の顔をのぞきこんだままで、首を傾けた。
「よい顔立ちだと思うが。きっとかなり、美人になるぞ」
子供はあからさまに顔をしかめると、きっぱりと首を振った。
「そんなはずないわ」
男は苦笑した、
「己の顔をきちんと見たことがあるのか」
少し詰まったので、ないようだ。だが子供は言い張った。
「一度もきれいだなんて言われたことないもの。姉さんはきれいよ。いつもそう言われ
てるわ」
それでか、と男は得心した。男の目には、子供はどうみても並よりかなりの器量良し
である。それが誉められたことがないとすれば、おそらくこの子の姉は、衆目認めると
ころの優れた美貌であるのだろう。
「小さい姉さんは賢くて大人しいの。いつもご本ばかり読んでる。私も勉強は嫌いじゃ
ないわよ。ただ、走ったり跳んだり、馬に乗ったり、打ち合いをするのがもっとずっと
好きなのよ」
「ひとにはそれぞれ、向いていることがあるものだ」
「そうなのよ。…でも、私は女で、男じゃない。それはもう、どうしたって変らないの」
子供は小さな手で頬を支え、憂えた溜息をつく。
「そうか…」
男は黙ったが、ふと足もとの枯れ枝を拾うと、それで地面に簡単な線を引いた。子供
が目で追う。
「……それ、何?」
「陣形だ。味方はここ。敵はこれ。数はおおよそ…」
子供は男の説明に聞き入る。
「強い敵と少ない人数で戦わねばならないときは、どうすると思う?」
「簡単よ」
ほぅ?と男は促した。
「逃げる」
男は笑った、
「正解だ。では、それでも戦わねばならぬときは」
子供は少し考えた。
「…武器とひとを、半分に分ける」
ふむ、と男。
「どう分ける」
「弱いひとと強いひと。動けないひとと元気なひとよ」
子供は男が地面に引いた図を指差した。
「これ、丘?」
「そうだ」
「ここをとるわ」
「なぜ」
「高いから。そして弱いひとをここに置く」
棒で引いた線がぐるりと陣営を迂回した。
「半分で、丘の裏側から下りて、敵の後ろから襲う。自分を強いと思ってる相手は、ふ
いを突かれると弱いの。あっという間に崩れるわ。それをこっちとこっちからいっしょ
に攻めて…、」
男は舌を巻いた。子供の説明は兵法の理にかなっている。
「驚いたな。どこで習った」
子供は肩を竦めた。
「陣取り遊びでいつも総大将なの。毎日やってれば、こんなの自然に覚えるわよ」
男は改めて子供の顔を見た。
「名前は?」
「少紫(しょうし)。おじさんは」
「…宗伯(そうはく)だ」
それが彼の字(あざな)であり、今回の旅では、すべての宿帳にそう記していたし、
彼の場合、別字の方が今では通りがよいことなど、見知らぬ子供に告げる必要がなかっ
た。子供は字をきき、くるりと目を動かした。
「一番、兄さん?」
伯、は長男の字が普通である。
「ああ。一番兄さんだ」
言って、男は笑った。
「兄はあるのか」
「いない。姉さんだけ」
「そうか」
男は手についた土を払うと立ち上がり、両腕で、しゃがんでいた少女を肩の上に抱え
上げた。
「少紫はきっと美人になる。そしてうんと強くなるぞ」
「強くていいの」
丸い目が真摯に見下ろしてくる。
「ああ。強い女はよいものだ。腕も心も強くなれ」
あのね、と、頭の早そうな子供は彼を見た、
「お嫁さん、いるの」
男は苦笑した。
「いや。おらぬ」
子供はにこりと笑む。そして聞いた。
「ほんとに美人になって、強くなったら、私をお嫁にする?」
男は殆ど笑いそうになったが、堪えた。そして抱えなおすと答えた。
「なって、下さるのか?」
「いいわよ。でも、私が二十歳になるころは、あなた今よりずぅっとずぅっとお爺さん
になってしまうわね」
男は、今度こそ声を上げて笑った。
他愛もない馬鹿げた会話だったが、このお嬢さんはなんとも愉快で、心地良い。
「私は、さほど歳をとらぬかもしれぬぞ」
「どうして」
「さぁな」
「おじさんは、将軍なの?」
男は目を見張った。そしてかぶりを振る。
「違う。なぜだ」
「違うのか…。――だって、将軍だと仙人なのよ。州侯さまみたいに歳をとらなくなる
んだって、父さんが言ってらしたもの」
「お父上は州師のひとか」
「そうよ。今にきっと将軍になるわ」
子供は胸を張った。男は微笑んだ。
「お父上を好きか」
「大好き!だって父さんだけだもの」
「?何がだ」
子供はちょっと言いよどみ、母さんに内緒だけど、と急いで付け足した。
「…男の子に勝っても、喜んでくれるのよ」
子供は小さな手を大きく振って、日暮れの路を城壁の方へと駆けて行く。
小さくなるその影を見送っている彼に、屈強な男が声をかけた。
「師帥、お待たせしました」
「うむ。行くか」
「はい。…ああ、可愛いお嬢さんですね」
振りかえってまた手を振る少女を、上司の視線の先にみとめた男が、目を細めてつぶ
やいた。
「うむ。私のいいなずけだ」
「はっ?」
「冗談だ」
目を白黒させた部下を声を上げて笑うと、戴国史上最も少(わか)い禁軍師帥は首を
ふり、いつになく和やかな目線で、行くぞ、と促した。
「茶器の場所を教えてもらえるだろうか」
「お茶は、女官がお淹れいたします」
微笑とともに穏やかにそう答えた女官長に、李斎も負けずに、にっこりした。
「自分で淹れて飲みたいのだが」
「さようでございますか」
女官長は、静かに微笑した。そして女官に、茶を淹れるよう命じた。
女官が、浮き彫刻の施された大きな黒檀の棚から、瀟洒な陶製の火炉を下ろして火を
入れ、鉄瓶に湯を沸かすのを、李斎は手持ち無沙汰に眺めた。
まさか、何もさせてもらえないわけではないのだろうが、昨日この長楽殿の一隅に部
屋を賜って以来、自分でしたことといえば、この片手の指だけで足りそうだと、李斎は、
心で数えてみる。
前日、官邸を引き払い、昼すぎて王宮に伺侯したので、食事はこれまでに昨晩と今朝
の二度。いずれも驍宗に相伴した。
かつて小さな泰麒にせがまれ、よく驍宗は彼女を食事に招いてくれたものだ。だから
王に相伴するのは、さほど不慣れなことではなかった。違うのは、昔のように、興奮し
てしゃべりまくる小さな子供が側におらず、その子が、離れた仁重殿で仕事の合間にひ
とりで食べる方を好む、大人になってしまっていることであった。
今日の朝、彼女が自室で起きてから聞きにやらせると、王はすでに、夜明けに始まる
六朝議にお出ましになられた後だった。
本来、表の公務は夫人の住まう後宮とは無関係であるから、これに遅れて起きても、
別に問題ない。だが李斎は、ほんの数日前まで、自分も王が外殿に出るよりずっと早く
に参内し、朝堂で待ったことを思うと、恐縮して顔が赤らんだ。
もとより李斎は禁軍の将ではなかったのだが、辞職するまで、連日朝議に出ることを
よぎなくされていた。瑞州師中軍は、王師としてかろうじて残った黄備三軍の一であっ
たからだ。
それが、寝坊した。
そもそも寝つきが悪かった。女官たちは李斎が、お渡りなどはない、と言ったにもか
かわらず、化粧をして休ませた。真新しい豪奢な寝具は、顔などこすりつけては汚れそ
うで、なかなか寝つけず、やっと眠ったと思ったときには朝だった。
「后妃」
呼ばれて、李斎は重くそちらへ頷いた。数刻前、寝床から起きあがった李斎が、最初
に聞かされた言葉がこの、「后妃」であった。
「……もし差し支えなければ、后妃、というのは…」
李斎が口を開きかけたとき、女官長がはっと頭を立て、すばやく膝を折った。
その動作がなにを意味するかを直ちに了解した李斎は、背後を確かめるより早く椅子
から飛び上がり、向き直りながら、膝をつく。その段になって、伏礼は特免、というよ
り、禁止されたことを思い出し、そのまま左手を上げて頭を垂れた。
「茶をもらいにきた」
微笑んで、驍宗が言う。
李斎と朝餉をとるために外殿から一度戻り、再び政務に出ていった驍宗だが、内殿に
移る途中に――この正寝は内殿より奥だから途中、とはいえないのだが――、また戻っ
てきたものらしい。
李斎がただいま御用意を、と答え、用意半ばの茶器の側へ行こうとしたのを、女官長
がすぐにとどめて、女官に急ぐよう命じた。李斎は立ち止まって振りかえり、すでに掛
けている主上と同じ円卓についてもよいものかどうか、頭の中で宮中礼式を検索した。
そのとき驍宗が機嫌良く、女官長の方に、声をかけた。
「李斎に任せよ。私が、これの淹れた茶を喫したいのだ」
「さようでございますか」
驍宗に首と目線で促され、李斎は軽く頭を下げると、茶道具に近付いた。
茶器は李斎も官邸から、一式、持って来ていた。焼きも彩色もかなり良い品だったの
だが、広げられた道具を一目見て、それらの出番が永久にないことを悟った。
間違っても阻喪せぬよう、細心の注意を払いながら、繊細な花文様を打ち出した鉄瓶
から湯を注いで道具を暖め、茶壷に葉を入れて蒸らす。最後に聞茶杯と茶杯を揃えると、
茶海から丁寧につぎ分けた。
「よい香りだ」
驍宗が言い、茶杯に口をつける。
「うむ。うまいな」
「…恐れ入ります」
李斎は深く頭を下げた。
結局この日は、朝から合計して五度、驍宗は李斎の部屋で茶を飲んで行った。
李斎がいよいよひとりになったのは、二人だけの夕餉が終り、驍宗が夜の仕事のため
に、自室に数人の彼の官を呼び寄せて引きこもってからのことであった。
今日は気温が低かった。暖房が入って、室内が暖められ、李斎は昨晩同様、三人の女
官の手で、寝間に着替えさせられたうえ、おとなしく羽毛の入った絹の上着を羽織らせ
られている。
女官長は無表情に控えている。李斎は彼女に言った。
「…官邸からの荷物の中に朱色の塗りの箱があったはずだ。それをここへ。それから、
私の剣を持って来てほしい。三振りあるが、一番古くて使い込んであるものをだ」
「かしこまりました」
そう言って彼女が命じたのは、箱についてだけである。李斎はついに嘆息した。
「剣も、だ。頼む」
李斎から声をかけられた女官は女官長を見、そのまま無言で隣室に消えた。
「后妃」
李斎は眉を上げた。
「…私はまだ、后妃ではないのだけれど?」
女官長は続けた。
「畏れながら后妃におかせられましては、いま少し柔らかなお言葉遣いが、よりふさわ
しいかと存じ上げますが」
李斎はぽかんとした。それから、ああ、と苦笑する。
「すまないな。つい癖で。ご存知だろうけれど私はずっと夏官できたから。…正直天官
のことはさっぱり分らない。ぞんざいに感じられたならば、失礼した」
それが不満だったのかと納得し、あっさりと頭を下げた李斎に対し、女官長は静かな
笑みを崩さない。
李斎は息をついた。
「女官長」
「…なんでございましょう」
「申し訳ないが、私は婉曲なもの言いに、疎い」
「さようでございますか」
李斎は女官長の目を逸らさなかった。
「率直に、言っていただけまいか。直せるところは努力する」
女官長は静かに微笑んだ。
「畏れながら、小官は極めて率直に申し上げておりますが」
「…」
会話にならないと諦めて李斎が引き下がった。その背へ声がかけられた。
「后妃」
「だから、私はまだ后妃ではないと…、」
息を吐きながら振り返った李斎を、女官長が見据えていた。その顔に微笑はない。
「先ほど后妃は小官が率直に申し上げたことに対して、お謝りになられました。しかし
ながらいささかも、改めようとはなさっておられませぬ。これはどういうことでござい
ましょうか」
李斎は目を丸くした、
「それは…、」
李斎は詰まった。
「小官には、畏れ多くも后妃から謝って頂くいわれなどございません。そもそも相手が
どんな身分の者であれ、いやしくも后妃が頭を下げるのは、この戴国が頭を下げること
と、お心得あそばされますように。あなた様が頭を下げられてよろしいのは、主上ただ
おひとりでございます。位の上では台輔がおられますが御夫君の臣、ゆえに、通常は稀
なことながら、同席の場合には慣例として、しばしば同位とみなされるのです。これは、
ご存知でいらっしゃいましたか?」
「あ、ああ!――いえ、…“はい”」
「さようでございますか」
女官長はちらりと、卓子の上の茶器を見た。
「お茶をお飲みになりたいときにご自分でお淹れになるのは、確かに気楽でよろしゅう
ございましょうが、そのために控えている女官は仕事の機会を逸します。お客様へのお
もてなしで差し上げること、主上のお求めに従ってお淹れ申し上げること等は、お立場
にかなっておりますが、ご自分のお茶は、お命じになることをまずは習慣となされませ。
それから、剣でございますが、正寝より奥で帯刀してよいのは、主上御一人でございま
す。そして後宮にお渡りの際は、その主上にすら許されないことを、仮にも后妃がなさ
っては、示しなどつきません。もしもここが正寝でなく、後宮最奥の殿舎内でありまし
たなら、いま少しゆるゆるとお教えもいたしましょうが、あいにく、主上があなた様を
どうあっても正寝に住まわせると仰って、お譲りになりませんでした。このように官の
目が近く、主上がお渡りあそばされるのに、前もっての御連絡どころか、先触れすらも
ございません。これは全て、主上の我侭から出たこと。よって、当のあなた様にご努力
頂き、可及的速やかに、后妃として最小限の体裁を整えていただくより他にない、とい
うのが天官の総意でございます。ゆえに当分の間は、刀を握るお暇などはないように、
学んでいただきます」
「……はい」
女官長は息を継いだようであった。
「后妃には后妃として知らねばならぬこと、そして、お立場にふさわしい在り様という
ものがございます。それらをお教え申し上げ、あなた様に一刻も早くわが戴国の后妃ら
しくなっていただくことが、小官のつとめにございます。お分りいただけましたでしょ
うか」
李斎は神妙に頷いた、
「…分りました」
「さようでございますか」
女官長は静かな微笑で頷いた。
「最後に」
まだあるのか、と李斎がややげんなりした顔をすると、女官長はなおも静かに微笑ん
だ。
「武将であったがゆえ天官のことは分らぬだの、婉曲なもの言いには疎いだのと、御身
に甘い言い訳をなされるようでは、それこそ、知略勇猛を謳われた武人の名折れでござ
いましょう」
呆気にとられた李斎に優雅に、――それは、仮に李斎がいま真似しようとしたとして
も、到底及ばぬほど優雅に――、一礼すると、宮中礼式が服を着ているような完璧な女
官吏は、退出した。
「まいったな…」
長椅子にどさりと腰を下ろして、李斎は高く白い天井を仰いだ。
遠く正寝門殿からは、夜気を伝って、立直兵士の当番交代の鐘の音が聞こえてくる。
王宮とは、通うのと暮らすのとでは、これほどにも、違う。
今朝の李斎は機嫌が良い。昨晩、一度は化粧されたのだが、夜中に不寝番の若い女御
を説得して、全部落としてもらい、ぐっすりと眠れたからである。
女官長の言い分はもっともだし、自分はあせらず頑張ればよいのだ、と思いなおした
李斎は、とりあえず、女官たちへの言葉遣いを改めることにした。
寝が足りて食欲さえあれば、立ち直りも早い、この后妃、元来そうした性分である。
であるから、驍宗から、三人がかりの着替えにも威儀といわれればまず従えの、あと数
日なのだから今から呼称にも慣れおけのと言われても、もはや大して気に病みはしなか
った。
驍宗は李斎の元気な様子に、満足げに笑んでいたが、ふと首を傾けた。
「領巾(ひれ)は、…それだったか?」
「は?」
李斎は聞き返した。今朝の彼女は朱鷺色に白の暈(ぼか)しの入った襦裾、そして白
い領巾である。驍宗は首を傾げる。
「緑の、ごく薄い色目のものを合わせておいたはずなのだが」
李斎は慌てた。今朝着替えの際、またそっくり新しく揃えられたことに、なにか気が
引けて、女官に無理を言って昨日と同じ領巾を纏った。返したものは確かに、淡い緑だ
った気がする。
しかし、どうしてそれを驍宗が知っているのだろう…。
李斎は目を見開いた。
「まさか。女官が用意してくれる服は、全部主上がお選びになったのですか?」
驍宗は事もなげに頷いた、
「そうだが」
「こちらに上がるために着た襦裾も、でございましょうか」
「うむ」
「そういえば、…ずっと以前、台輔と御一緒に御供仕りましたときも、服と飾りなど、
ご用意頂きましたが…」
「そうだったかな」
李斎は殆ど呆れてしまった。
「主上は、衣服などお見立てになるのがお好きでいらっしゃるのですか」
こう聞かれると驍宗は、首をわずか傾けた。
「言われてみれば、そうかもしれぬ…。いや、かなり好きだろうな」
「はぁ」
「そうだな。李斎の着る物を選ぶのは、確かに楽しみだぞ」
言うと驍宗は、実際楽しそうに笑んだ。
「ご自分のものは、お選びにならないのですか」
李斎の印象として、驍宗は決して着道楽ではない。よいものを着けているし、身だし
なみもよい方かもしれないが、並外れて洒落るのが好きだとは、思えない。
「私が飾ってどうする。男なぞ、何を着ていてもそう大差などない。必要に応じて、悪
趣味でないものを数枚着回せば、それで事足りる」
「はぁ」
唐突に、ある国の国主の顔が浮かんだ。そして彼から譲られた、ほんの数日間滞在し
た園林の中の宮――『淹久閣』。
「あの…、お聞きいたしますが、このお部屋の品々も、主上が…?」
驍宗は頷き、見まわした。
「どれも御庫のもので間に合わせだ。もっとも、新調したとてこんな品は、とても用意
できぬのだが…」
驕王の遺した品々は、良くも悪くも、いまの戴国が注文できるような代物ではない。
驍宗は、ここしばらく、わずかの暇を見つけては迎える后妃のために、御庫に眠る贅を
凝らした道具の中から、華美に過ぎていない落ち着いた意匠のものを選って、手ずから
準備したのだった。
「どうした?」
「いえ…」
と、李斎は額を抱えたが、じきにくすくすと笑い出した。驍宗は首を傾け、李斎に弁
明を促す。
「氾王が、言っておられたのです」
氾、と驍宗は繰り返した。李斎は頷く。
「――主上は無骨だが、趣味は悪くないようだった、と」
「なんだそれは」
李斎は微笑んだ、
「あの氾王にそのように言わせるのは紛れもなく、すこぶる趣味のよい方なのですよ?」
「ふむ」
驍宗は気のない返事をした。
彼の記憶の中で、即位礼で会った呉藍滌は、公式の慶事に列席する国主にふさわしい
身なりを整えた男である。
現にそのときの氾王をも知っている李斎は、また笑った。驍宗はやや不機嫌に話題を
変えた。せっかくの二人でとる朝餉に、余所の男の話では、面白くない。
「先程の朝議のおりに、蒿里と話した。今夕は三人で食事できるぞ」
「台輔が、こちらへ?」
李斎が思わず顔を輝かせる。
「あれも最近は忙しがって、ろくに正寝へは来ぬ。そなたを餌に、ようやく釣った。よ
かったか?」
「台輔とお話し出来ますのに、わたくしに異存などありましょうか。楽しみでございま
す」
意気込んだ李斎の満面の笑みに、驍宗は笑った。
「李斎は私などより余程、蒿里の方が大事だからな」
「主上…」
李斎は小さく王を睨んだ。驍宗と泰麒と、彼女にとってこの二人は、比較のしような
どありはしない。
「蒿里にしても私など、所詮は王ゆえ慕うのだ、あれが真実手放しで好いておるのは、
そなたのことだぞ」
「畏れながら主上、台輔は戴国の麒麟でいらっしゃいます。台輔にとって、主上に勝る
存在など、この世にあろうはずがございません」
真面目に反論する李斎に、驍宗は笑って答えてやる。
「なんの。麒麟は民意の具現――なれば、民こそが、あれにとっての至上の存在だ。そ
なたは后妃、いわば民の母になるのだから、監視せねばならぬ王より、よほど安らげて
も不思議などはあるまい」
李斎は瞬いた。
「――民の母…、でございますか…」
驍宗はひとつ頷く。ふと真顔になった。
「そのようなものだと思うのだ。王となって選ぶ伴侶とは、通常の婚姻ではない。既に
神籍にある身に、民の中からひとりを与えられるのだから、民から与えられると、私は
解釈している。蒿里は天が私に与えたが、李斎を私にくれたのは、民だ」
李斎は真摯な言葉に息を呑み、少し姿勢を改めて、驍宗を見た。驍宗は静かに続けた。
「独身の王が王后乃至大公を迎えることを天綱が認めているのは、それなりに故あって
のことだろう。少なくとも、それまでの家族関係の継続だけが目的ならば、既婚の王の
ためだけの制度のはずだ。前例に多いように、気に入りの寵妃に、北宮と后位をくれて
やるためのものであるはずもない…、」
実際のところ、私利を度外視して王を補佐するような愛妾は概ね賢婦であるから、妬
み恨みをかわぬためにも実をとって、名をとらぬことが多い。他国の例まで眺めてみて
も、王の死後まで飛仙の扱いで功労されたような者でさえ、立后はしていないほどだ。
即位と時を隔てた立后で圧倒的に多いのは、王に讒言して王后を排し、己が後宮で一
の位を手に入れるという悪婦の例で、これを立后させるような王は無論、長くはない。
現在、十二国中、王后の位にあることが確実なのは、奏南国の宗后妃ただお一方で、
彼女は宗王櫨先新の、登極前からの配偶者である。四年前に誅殺された前峯王の后妃も
同様だった。劉王には即位時に妻があったと考えられるが、その後の伝聞がない。
独身で即位した王といえば、古い順に、延、氾、廉の三王、特に延と氾の治世はそれ
ぞれ五百年と三百年の長きに及ぶのだが、いずれも伴侶は持っていない。即位から八年
足らずで泰王が后妃を迎えるのは、むしろ異例のことと言えた。
「…王の家族とは、官位の有無に拘らず、王に準じた義務を持つ、と解するのが妥当だ
ろうな。畢竟、民に資するを旨として、王后大公、太子公主という地位は存在している
ものなのだ」
「――わたくしに、その義務を果たせましょうか」
李斎は厳しい顔で王に問うた。驍宗はあっさり答えた、
「そう思わねば、王后に望んでおらぬ」
李斎は曖昧に頷いた。
驍宗はふと笑んだ。
「何ぞ嫌なことが耳に入るか」
李斎は、返事に窮した。いかにもつまらぬことであった。いちいちお耳に入れたくも
ない陰口の類ならば、掃いて捨てるほどに、ある。
李斎は驚くほど多くの人々から歓迎され、しごく好意的に王宮へ迎えられたが、それ
でも、臣から王の唯一の伴侶となった者への、ある種の羨望から裏返った、意地の悪い
憶測や、好意的関心を装った、好奇の噂話からは逃れられない。
「口さがない者は好きに言う。言わせておけばよい。夫婦のことなど、他人に分るか。
私が断じてそなたへの恩賞などで立后させるのではないと、私とそなたが知っておれば
よいのだ、違うか」
李斎は見開いた目で驍宗を見つめたが、ほっと息をついて首を振った。当の驍宗から
こう言われると、肩に重かったものが外れ、胸のつかえが下りた気がする。
「案ぜずとも、この私の后妃だ。李斎にはじき、気の毒がられるほど働いてもらうこと
になるぞ」
この言葉に、李斎は眩しい笑顔で答えた。
「ご期待に添えるよう、努力致します」
そうしてくれ、と驍宗は明るく笑った。
日暮れであった。古い城壁に囲まれた北東のありふれた町は、穏やかな春の一日を終
えようとしている。
子供は、立ち上がった。数歩歩いて門の方を見すえ、顎をそびやかす。それから急に
くるりとまた回れ右をすると、心持ちうな垂れて、元の位置、つまりいま男が座ってい
る城門外の大きな橡(とち)の木の下へと戻ってくるのだ。
男がそれに気づいてからでも、すでに五回以上、同じことを繰り返している。特にす
ることもないので、彼は、最前から子供の様子をもうずっと眺めるともなく眺めていた。
七八歳の少女であった。
「おじさん。さっきからここでなにをしてるの?」
少女は突然、聞いた。男は少し目を開いた。よく通る声で、はっきりとしたもの言い
だった。
「…ひとを待っている」
「ふぅん。もうすぐ門が閉まるのに?いまからじゃ次の町へは行けないわよ」
男の旅装から土地の人間ではないことを見て取ったらしい子供が、ませた口をきく。
「お前こそ、一体何をしているのだ。町の子供だろう。家に帰る時間ではないのか」
子供はちょっと口を曲げた。
「ほうっといてよ」
その拗ねた顔に愛敬があったので、この男として珍しいことに、少し微笑んだ。
強面の男が突然見せた、意外なほど優しげな顔に、少女のやや灰味がかった青色の目
が、ちょっと見開かれた。
「なんぞ、帰りたくない理由でもあるのか」
子供は男のすぐ脇に座った。ひざを抱え、俯くと、低い声で答えた。
「帰ったら、母さんにお尻ぶたれる…」
「何をした」
「しなかったのよ。今日は二胡の先生の日だったの」
「稽古をすっぽかしたか」
「…。うん…」
子供は男の反応を見るように、上目にちらと見上げた。男は黙って、そうか、とでも
いうように軽く頷いただけだった。
子供はやや拍子抜けして、ほっと息を吐いた。するとこの、彼女のよくない行いにな
んら説教しようとしなかった大人に、何事か打ち明けたい気持ちにかられた。
彼女は黙っている男にぽつぽつと話を始めた。
「……お料理やお裁縫は仕方ないと思うの。誰だって大きくなったら、土地をもらって
ひとりで暮らさなきゃいけないでしょ。でも楽器とか刺繍とかは、出来なくても大して
困らないわ。なのに母さんは、女の子だからたしなみとして覚えなさいって…たしなみ
っていうのは、どれも私の苦手なことばっかりで、嫌になる」
「母親とは、子供の先行きを考えると口やかましくなるものだ」
「さきゆきって?」
「将来。大人になってからだ」
「それだったら、自分のことさえ出来るようになればいいわ。わたし結婚しないんだし」
「ほぅ…なぜだ」
「知らないの?わたしみたいに器量が良くなくて、男の子のように乱暴な娘は、お嫁に
は行かないのよ。行きたくないから別にいいけど、行きたくたって行けないって」
男はこれを聞くと瞬いた。
「なにを見ているの」
「いや…」
男は子供の顔をのぞきこんだままで、首を傾けた。
「よい顔立ちだと思うが。きっとかなり、美人になるぞ」
子供はあからさまに顔をしかめると、きっぱりと首を振った。
「そんなはずないわ」
男は苦笑した、
「己の顔をきちんと見たことがあるのか」
少し詰まったので、ないようだ。だが子供は言い張った。
「一度もきれいだなんて言われたことないもの。姉さんはきれいよ。いつもそう言われ
てるわ」
それでか、と男は得心した。男の目には、子供はどうみても並よりかなりの器量良し
である。それが誉められたことがないとすれば、おそらくこの子の姉は、衆目認めると
ころの優れた美貌であるのだろう。
「小さい姉さんは賢くて大人しいの。いつもご本ばかり読んでる。私も勉強は嫌いじゃ
ないわよ。ただ、走ったり跳んだり、馬に乗ったり、打ち合いをするのがもっとずっと
好きなのよ」
「ひとにはそれぞれ、向いていることがあるものだ」
「そうなのよ。…でも、私は女で、男じゃない。それはもう、どうしたって変らないの」
子供は小さな手で頬を支え、憂えた溜息をつく。
「そうか…」
男は黙ったが、ふと足もとの枯れ枝を拾うと、それで地面に簡単な線を引いた。子供
が目で追う。
「……それ、何?」
「陣形だ。味方はここ。敵はこれ。数はおおよそ…」
子供は男の説明に聞き入る。
「強い敵と少ない人数で戦わねばならないときは、どうすると思う?」
「簡単よ」
ほぅ?と男は促した。
「逃げる」
男は笑った、
「正解だ。では、それでも戦わねばならぬときは」
子供は少し考えた。
「…武器とひとを、半分に分ける」
ふむ、と男。
「どう分ける」
「弱いひとと強いひと。動けないひとと元気なひとよ」
子供は男が地面に引いた図を指差した。
「これ、丘?」
「そうだ」
「ここをとるわ」
「なぜ」
「高いから。そして弱いひとをここに置く」
棒で引いた線がぐるりと陣営を迂回した。
「半分で、丘の裏側から下りて、敵の後ろから襲う。自分を強いと思ってる相手は、ふ
いを突かれると弱いの。あっという間に崩れるわ。それをこっちとこっちからいっしょ
に攻めて…、」
男は舌を巻いた。子供の説明は兵法の理にかなっている。
「驚いたな。どこで習った」
子供は肩を竦めた。
「陣取り遊びでいつも総大将なの。毎日やってれば、こんなの自然に覚えるわよ」
男は改めて子供の顔を見た。
「名前は?」
「少紫(しょうし)。おじさんは」
「…宗伯(そうはく)だ」
それが彼の字(あざな)であり、今回の旅では、すべての宿帳にそう記していたし、
彼の場合、別字の方が今では通りがよいことなど、見知らぬ子供に告げる必要がなかっ
た。子供は字をきき、くるりと目を動かした。
「一番、兄さん?」
伯、は長男の字が普通である。
「ああ。一番兄さんだ」
言って、男は笑った。
「兄はあるのか」
「いない。姉さんだけ」
「そうか」
男は手についた土を払うと立ち上がり、両腕で、しゃがんでいた少女を肩の上に抱え
上げた。
「少紫はきっと美人になる。そしてうんと強くなるぞ」
「強くていいの」
丸い目が真摯に見下ろしてくる。
「ああ。強い女はよいものだ。腕も心も強くなれ」
あのね、と、頭の早そうな子供は彼を見た、
「お嫁さん、いるの」
男は苦笑した。
「いや。おらぬ」
子供はにこりと笑む。そして聞いた。
「ほんとに美人になって、強くなったら、私をお嫁にする?」
男は殆ど笑いそうになったが、堪えた。そして抱えなおすと答えた。
「なって、下さるのか?」
「いいわよ。でも、私が二十歳になるころは、あなた今よりずぅっとずぅっとお爺さん
になってしまうわね」
男は、今度こそ声を上げて笑った。
他愛もない馬鹿げた会話だったが、このお嬢さんはなんとも愉快で、心地良い。
「私は、さほど歳をとらぬかもしれぬぞ」
「どうして」
「さぁな」
「おじさんは、将軍なの?」
男は目を見張った。そしてかぶりを振る。
「違う。なぜだ」
「違うのか…。――だって、将軍だと仙人なのよ。州侯さまみたいに歳をとらなくなる
んだって、父さんが言ってらしたもの」
「お父上は州師のひとか」
「そうよ。今にきっと将軍になるわ」
子供は胸を張った。男は微笑んだ。
「お父上を好きか」
「大好き!だって父さんだけだもの」
「?何がだ」
子供はちょっと言いよどみ、母さんに内緒だけど、と急いで付け足した。
「…男の子に勝っても、喜んでくれるのよ」
子供は小さな手を大きく振って、日暮れの路を城壁の方へと駆けて行く。
小さくなるその影を見送っている彼に、屈強な男が声をかけた。
「師帥、お待たせしました」
「うむ。行くか」
「はい。…ああ、可愛いお嬢さんですね」
振りかえってまた手を振る少女を、上司の視線の先にみとめた男が、目を細めてつぶ
やいた。
「うむ。私のいいなずけだ」
「はっ?」
「冗談だ」
目を白黒させた部下を声を上げて笑うと、戴国史上最も少(わか)い禁軍師帥は首を
ふり、いつになく和やかな目線で、行くぞ、と促した。
「茶器の場所を教えてもらえるだろうか」
「お茶は、女官がお淹れいたします」
微笑とともに穏やかにそう答えた女官長に、李斎も負けずに、にっこりした。
「自分で淹れて飲みたいのだが」
「さようでございますか」
女官長は、静かに微笑した。そして女官に、茶を淹れるよう命じた。
女官が、浮き彫刻の施された大きな黒檀の棚から、瀟洒な陶製の火炉を下ろして火を
入れ、鉄瓶に湯を沸かすのを、李斎は手持ち無沙汰に眺めた。
まさか、何もさせてもらえないわけではないのだろうが、昨日この長楽殿の一隅に部
屋を賜って以来、自分でしたことといえば、この片手の指だけで足りそうだと、李斎は、
心で数えてみる。
前日、官邸を引き払い、昼すぎて王宮に伺侯したので、食事はこれまでに昨晩と今朝
の二度。いずれも驍宗に相伴した。
かつて小さな泰麒にせがまれ、よく驍宗は彼女を食事に招いてくれたものだ。だから
王に相伴するのは、さほど不慣れなことではなかった。違うのは、昔のように、興奮し
てしゃべりまくる小さな子供が側におらず、その子が、離れた仁重殿で仕事の合間にひ
とりで食べる方を好む、大人になってしまっていることであった。
今日の朝、彼女が自室で起きてから聞きにやらせると、王はすでに、夜明けに始まる
六朝議にお出ましになられた後だった。
本来、表の公務は夫人の住まう後宮とは無関係であるから、これに遅れて起きても、
別に問題ない。だが李斎は、ほんの数日前まで、自分も王が外殿に出るよりずっと早く
に参内し、朝堂で待ったことを思うと、恐縮して顔が赤らんだ。
もとより李斎は禁軍の将ではなかったのだが、辞職するまで、連日朝議に出ることを
よぎなくされていた。瑞州師中軍は、王師としてかろうじて残った黄備三軍の一であっ
たからだ。
それが、寝坊した。
そもそも寝つきが悪かった。女官たちは李斎が、お渡りなどはない、と言ったにもか
かわらず、化粧をして休ませた。真新しい豪奢な寝具は、顔などこすりつけては汚れそ
うで、なかなか寝つけず、やっと眠ったと思ったときには朝だった。
「后妃」
呼ばれて、李斎は重くそちらへ頷いた。数刻前、寝床から起きあがった李斎が、最初
に聞かされた言葉がこの、「后妃」であった。
「……もし差し支えなければ、后妃、というのは…」
李斎が口を開きかけたとき、女官長がはっと頭を立て、すばやく膝を折った。
その動作がなにを意味するかを直ちに了解した李斎は、背後を確かめるより早く椅子
から飛び上がり、向き直りながら、膝をつく。その段になって、伏礼は特免、というよ
り、禁止されたことを思い出し、そのまま左手を上げて頭を垂れた。
「茶をもらいにきた」
微笑んで、驍宗が言う。
李斎と朝餉をとるために外殿から一度戻り、再び政務に出ていった驍宗だが、内殿に
移る途中に――この正寝は内殿より奥だから途中、とはいえないのだが――、また戻っ
てきたものらしい。
李斎がただいま御用意を、と答え、用意半ばの茶器の側へ行こうとしたのを、女官長
がすぐにとどめて、女官に急ぐよう命じた。李斎は立ち止まって振りかえり、すでに掛
けている主上と同じ円卓についてもよいものかどうか、頭の中で宮中礼式を検索した。
そのとき驍宗が機嫌良く、女官長の方に、声をかけた。
「李斎に任せよ。私が、これの淹れた茶を喫したいのだ」
「さようでございますか」
驍宗に首と目線で促され、李斎は軽く頭を下げると、茶道具に近付いた。
茶器は李斎も官邸から、一式、持って来ていた。焼きも彩色もかなり良い品だったの
だが、広げられた道具を一目見て、それらの出番が永久にないことを悟った。
間違っても阻喪せぬよう、細心の注意を払いながら、繊細な花文様を打ち出した鉄瓶
から湯を注いで道具を暖め、茶壷に葉を入れて蒸らす。最後に聞茶杯と茶杯を揃えると、
茶海から丁寧につぎ分けた。
「よい香りだ」
驍宗が言い、茶杯に口をつける。
「うむ。うまいな」
「…恐れ入ります」
李斎は深く頭を下げた。
結局この日は、朝から合計して五度、驍宗は李斎の部屋で茶を飲んで行った。
李斎がいよいよひとりになったのは、二人だけの夕餉が終り、驍宗が夜の仕事のため
に、自室に数人の彼の官を呼び寄せて引きこもってからのことであった。
今日は気温が低かった。暖房が入って、室内が暖められ、李斎は昨晩同様、三人の女
官の手で、寝間に着替えさせられたうえ、おとなしく羽毛の入った絹の上着を羽織らせ
られている。
女官長は無表情に控えている。李斎は彼女に言った。
「…官邸からの荷物の中に朱色の塗りの箱があったはずだ。それをここへ。それから、
私の剣を持って来てほしい。三振りあるが、一番古くて使い込んであるものをだ」
「かしこまりました」
そう言って彼女が命じたのは、箱についてだけである。李斎はついに嘆息した。
「剣も、だ。頼む」
李斎から声をかけられた女官は女官長を見、そのまま無言で隣室に消えた。
「后妃」
李斎は眉を上げた。
「…私はまだ、后妃ではないのだけれど?」
女官長は続けた。
「畏れながら后妃におかせられましては、いま少し柔らかなお言葉遣いが、よりふさわ
しいかと存じ上げますが」
李斎はぽかんとした。それから、ああ、と苦笑する。
「すまないな。つい癖で。ご存知だろうけれど私はずっと夏官できたから。…正直天官
のことはさっぱり分らない。ぞんざいに感じられたならば、失礼した」
それが不満だったのかと納得し、あっさりと頭を下げた李斎に対し、女官長は静かな
笑みを崩さない。
李斎は息をついた。
「女官長」
「…なんでございましょう」
「申し訳ないが、私は婉曲なもの言いに、疎い」
「さようでございますか」
李斎は女官長の目を逸らさなかった。
「率直に、言っていただけまいか。直せるところは努力する」
女官長は静かに微笑んだ。
「畏れながら、小官は極めて率直に申し上げておりますが」
「…」
会話にならないと諦めて李斎が引き下がった。その背へ声がかけられた。
「后妃」
「だから、私はまだ后妃ではないと…、」
息を吐きながら振り返った李斎を、女官長が見据えていた。その顔に微笑はない。
「先ほど后妃は小官が率直に申し上げたことに対して、お謝りになられました。しかし
ながらいささかも、改めようとはなさっておられませぬ。これはどういうことでござい
ましょうか」
李斎は目を丸くした、
「それは…、」
李斎は詰まった。
「小官には、畏れ多くも后妃から謝って頂くいわれなどございません。そもそも相手が
どんな身分の者であれ、いやしくも后妃が頭を下げるのは、この戴国が頭を下げること
と、お心得あそばされますように。あなた様が頭を下げられてよろしいのは、主上ただ
おひとりでございます。位の上では台輔がおられますが御夫君の臣、ゆえに、通常は稀
なことながら、同席の場合には慣例として、しばしば同位とみなされるのです。これは、
ご存知でいらっしゃいましたか?」
「あ、ああ!――いえ、…“はい”」
「さようでございますか」
女官長はちらりと、卓子の上の茶器を見た。
「お茶をお飲みになりたいときにご自分でお淹れになるのは、確かに気楽でよろしゅう
ございましょうが、そのために控えている女官は仕事の機会を逸します。お客様へのお
もてなしで差し上げること、主上のお求めに従ってお淹れ申し上げること等は、お立場
にかなっておりますが、ご自分のお茶は、お命じになることをまずは習慣となされませ。
それから、剣でございますが、正寝より奥で帯刀してよいのは、主上御一人でございま
す。そして後宮にお渡りの際は、その主上にすら許されないことを、仮にも后妃がなさ
っては、示しなどつきません。もしもここが正寝でなく、後宮最奥の殿舎内でありまし
たなら、いま少しゆるゆるとお教えもいたしましょうが、あいにく、主上があなた様を
どうあっても正寝に住まわせると仰って、お譲りになりませんでした。このように官の
目が近く、主上がお渡りあそばされるのに、前もっての御連絡どころか、先触れすらも
ございません。これは全て、主上の我侭から出たこと。よって、当のあなた様にご努力
頂き、可及的速やかに、后妃として最小限の体裁を整えていただくより他にない、とい
うのが天官の総意でございます。ゆえに当分の間は、刀を握るお暇などはないように、
学んでいただきます」
「……はい」
女官長は息を継いだようであった。
「后妃には后妃として知らねばならぬこと、そして、お立場にふさわしい在り様という
ものがございます。それらをお教え申し上げ、あなた様に一刻も早くわが戴国の后妃ら
しくなっていただくことが、小官のつとめにございます。お分りいただけましたでしょ
うか」
李斎は神妙に頷いた、
「…分りました」
「さようでございますか」
女官長は静かな微笑で頷いた。
「最後に」
まだあるのか、と李斎がややげんなりした顔をすると、女官長はなおも静かに微笑ん
だ。
「武将であったがゆえ天官のことは分らぬだの、婉曲なもの言いには疎いだのと、御身
に甘い言い訳をなされるようでは、それこそ、知略勇猛を謳われた武人の名折れでござ
いましょう」
呆気にとられた李斎に優雅に、――それは、仮に李斎がいま真似しようとしたとして
も、到底及ばぬほど優雅に――、一礼すると、宮中礼式が服を着ているような完璧な女
官吏は、退出した。
「まいったな…」
長椅子にどさりと腰を下ろして、李斎は高く白い天井を仰いだ。
遠く正寝門殿からは、夜気を伝って、立直兵士の当番交代の鐘の音が聞こえてくる。
王宮とは、通うのと暮らすのとでは、これほどにも、違う。
今朝の李斎は機嫌が良い。昨晩、一度は化粧されたのだが、夜中に不寝番の若い女御
を説得して、全部落としてもらい、ぐっすりと眠れたからである。
女官長の言い分はもっともだし、自分はあせらず頑張ればよいのだ、と思いなおした
李斎は、とりあえず、女官たちへの言葉遣いを改めることにした。
寝が足りて食欲さえあれば、立ち直りも早い、この后妃、元来そうした性分である。
であるから、驍宗から、三人がかりの着替えにも威儀といわれればまず従えの、あと数
日なのだから今から呼称にも慣れおけのと言われても、もはや大して気に病みはしなか
った。
驍宗は李斎の元気な様子に、満足げに笑んでいたが、ふと首を傾けた。
「領巾(ひれ)は、…それだったか?」
「は?」
李斎は聞き返した。今朝の彼女は朱鷺色に白の暈(ぼか)しの入った襦裾、そして白
い領巾である。驍宗は首を傾げる。
「緑の、ごく薄い色目のものを合わせておいたはずなのだが」
李斎は慌てた。今朝着替えの際、またそっくり新しく揃えられたことに、なにか気が
引けて、女官に無理を言って昨日と同じ領巾を纏った。返したものは確かに、淡い緑だ
った気がする。
しかし、どうしてそれを驍宗が知っているのだろう…。
李斎は目を見開いた。
「まさか。女官が用意してくれる服は、全部主上がお選びになったのですか?」
驍宗は事もなげに頷いた、
「そうだが」
「こちらに上がるために着た襦裾も、でございましょうか」
「うむ」
「そういえば、…ずっと以前、台輔と御一緒に御供仕りましたときも、服と飾りなど、
ご用意頂きましたが…」
「そうだったかな」
李斎は殆ど呆れてしまった。
「主上は、衣服などお見立てになるのがお好きでいらっしゃるのですか」
こう聞かれると驍宗は、首をわずか傾けた。
「言われてみれば、そうかもしれぬ…。いや、かなり好きだろうな」
「はぁ」
「そうだな。李斎の着る物を選ぶのは、確かに楽しみだぞ」
言うと驍宗は、実際楽しそうに笑んだ。
「ご自分のものは、お選びにならないのですか」
李斎の印象として、驍宗は決して着道楽ではない。よいものを着けているし、身だし
なみもよい方かもしれないが、並外れて洒落るのが好きだとは、思えない。
「私が飾ってどうする。男なぞ、何を着ていてもそう大差などない。必要に応じて、悪
趣味でないものを数枚着回せば、それで事足りる」
「はぁ」
唐突に、ある国の国主の顔が浮かんだ。そして彼から譲られた、ほんの数日間滞在し
た園林の中の宮――『淹久閣』。
「あの…、お聞きいたしますが、このお部屋の品々も、主上が…?」
驍宗は頷き、見まわした。
「どれも御庫のもので間に合わせだ。もっとも、新調したとてこんな品は、とても用意
できぬのだが…」
驕王の遺した品々は、良くも悪くも、いまの戴国が注文できるような代物ではない。
驍宗は、ここしばらく、わずかの暇を見つけては迎える后妃のために、御庫に眠る贅を
凝らした道具の中から、華美に過ぎていない落ち着いた意匠のものを選って、手ずから
準備したのだった。
「どうした?」
「いえ…」
と、李斎は額を抱えたが、じきにくすくすと笑い出した。驍宗は首を傾け、李斎に弁
明を促す。
「氾王が、言っておられたのです」
氾、と驍宗は繰り返した。李斎は頷く。
「――主上は無骨だが、趣味は悪くないようだった、と」
「なんだそれは」
李斎は微笑んだ、
「あの氾王にそのように言わせるのは紛れもなく、すこぶる趣味のよい方なのですよ?」
「ふむ」
驍宗は気のない返事をした。
彼の記憶の中で、即位礼で会った呉藍滌は、公式の慶事に列席する国主にふさわしい
身なりを整えた男である。
現にそのときの氾王をも知っている李斎は、また笑った。驍宗はやや不機嫌に話題を
変えた。せっかくの二人でとる朝餉に、余所の男の話では、面白くない。
「先程の朝議のおりに、蒿里と話した。今夕は三人で食事できるぞ」
「台輔が、こちらへ?」
李斎が思わず顔を輝かせる。
「あれも最近は忙しがって、ろくに正寝へは来ぬ。そなたを餌に、ようやく釣った。よ
かったか?」
「台輔とお話し出来ますのに、わたくしに異存などありましょうか。楽しみでございま
す」
意気込んだ李斎の満面の笑みに、驍宗は笑った。
「李斎は私などより余程、蒿里の方が大事だからな」
「主上…」
李斎は小さく王を睨んだ。驍宗と泰麒と、彼女にとってこの二人は、比較のしような
どありはしない。
「蒿里にしても私など、所詮は王ゆえ慕うのだ、あれが真実手放しで好いておるのは、
そなたのことだぞ」
「畏れながら主上、台輔は戴国の麒麟でいらっしゃいます。台輔にとって、主上に勝る
存在など、この世にあろうはずがございません」
真面目に反論する李斎に、驍宗は笑って答えてやる。
「なんの。麒麟は民意の具現――なれば、民こそが、あれにとっての至上の存在だ。そ
なたは后妃、いわば民の母になるのだから、監視せねばならぬ王より、よほど安らげて
も不思議などはあるまい」
李斎は瞬いた。
「――民の母…、でございますか…」
驍宗はひとつ頷く。ふと真顔になった。
「そのようなものだと思うのだ。王となって選ぶ伴侶とは、通常の婚姻ではない。既に
神籍にある身に、民の中からひとりを与えられるのだから、民から与えられると、私は
解釈している。蒿里は天が私に与えたが、李斎を私にくれたのは、民だ」
李斎は真摯な言葉に息を呑み、少し姿勢を改めて、驍宗を見た。驍宗は静かに続けた。
「独身の王が王后乃至大公を迎えることを天綱が認めているのは、それなりに故あって
のことだろう。少なくとも、それまでの家族関係の継続だけが目的ならば、既婚の王の
ためだけの制度のはずだ。前例に多いように、気に入りの寵妃に、北宮と后位をくれて
やるためのものであるはずもない…、」
実際のところ、私利を度外視して王を補佐するような愛妾は概ね賢婦であるから、妬
み恨みをかわぬためにも実をとって、名をとらぬことが多い。他国の例まで眺めてみて
も、王の死後まで飛仙の扱いで功労されたような者でさえ、立后はしていないほどだ。
即位と時を隔てた立后で圧倒的に多いのは、王に讒言して王后を排し、己が後宮で一
の位を手に入れるという悪婦の例で、これを立后させるような王は無論、長くはない。
現在、十二国中、王后の位にあることが確実なのは、奏南国の宗后妃ただお一方で、
彼女は宗王櫨先新の、登極前からの配偶者である。四年前に誅殺された前峯王の后妃も
同様だった。劉王には即位時に妻があったと考えられるが、その後の伝聞がない。
独身で即位した王といえば、古い順に、延、氾、廉の三王、特に延と氾の治世はそれ
ぞれ五百年と三百年の長きに及ぶのだが、いずれも伴侶は持っていない。即位から八年
足らずで泰王が后妃を迎えるのは、むしろ異例のことと言えた。
「…王の家族とは、官位の有無に拘らず、王に準じた義務を持つ、と解するのが妥当だ
ろうな。畢竟、民に資するを旨として、王后大公、太子公主という地位は存在している
ものなのだ」
「――わたくしに、その義務を果たせましょうか」
李斎は厳しい顔で王に問うた。驍宗はあっさり答えた、
「そう思わねば、王后に望んでおらぬ」
李斎は曖昧に頷いた。
驍宗はふと笑んだ。
「何ぞ嫌なことが耳に入るか」
李斎は、返事に窮した。いかにもつまらぬことであった。いちいちお耳に入れたくも
ない陰口の類ならば、掃いて捨てるほどに、ある。
李斎は驚くほど多くの人々から歓迎され、しごく好意的に王宮へ迎えられたが、それ
でも、臣から王の唯一の伴侶となった者への、ある種の羨望から裏返った、意地の悪い
憶測や、好意的関心を装った、好奇の噂話からは逃れられない。
「口さがない者は好きに言う。言わせておけばよい。夫婦のことなど、他人に分るか。
私が断じてそなたへの恩賞などで立后させるのではないと、私とそなたが知っておれば
よいのだ、違うか」
李斎は見開いた目で驍宗を見つめたが、ほっと息をついて首を振った。当の驍宗から
こう言われると、肩に重かったものが外れ、胸のつかえが下りた気がする。
「案ぜずとも、この私の后妃だ。李斎にはじき、気の毒がられるほど働いてもらうこと
になるぞ」
この言葉に、李斎は眩しい笑顔で答えた。
「ご期待に添えるよう、努力致します」
そうしてくれ、と驍宗は明るく笑った。
輿は路門を通り抜けて、路寝へと向かう。
そびえる門殿にかつての壮麗さはない。それでもこの辺りは、瓦礫がすっかり片付け
られており、通行の多いところだけに、瓦はすべてが葺き替えられ修理されている。
白く滑らかな石の床だけがいまも昔と変わらない。門外からの陽光を受けて、輿の影
が粛々と滑る。李斎は日に光る床石と、その影とを見ていた。
あの日、小さな麒麟が姿を消したあの真昼、この同じ床の上に両の手をついて顔を上
げた彼女は、生まれて初めて蝕の空をこの門越しに見た。禍禍しい赤色の空。周囲に夥
しく重なる割れた瓦。たちこめる土煙。隣にいた若い地官長の、埃にまみれた青い顔…。
――あの宣角は、阿選によって処刑された。
輿が止り、李斎は我に帰る。
正寝の門殿で、新任の天官長が叩頭で出迎えた。李斎の輿は下ろされず、彼女は輿の
上からやや緊張してその口上を聞く。
その後、天官長自らの先導で門殿を抜け、彼女の居宮に向かった。李斎の居宮、と言
っても、建物を与えられるわけではない。彼女が住まうのは、まさに現在王の住まう殿
舎内であり、使われていなかったその数室に急いで手が入れられたに過ぎなかった。
面積だけを言えば、後にしてきた将軍官邸の方が広いことになる。
これは本来、後宮の最奥に位置する広大な北宮の建物とその園林全てを与えられるの
が通例の王后としては、考えられない待遇であった。当然ながら、天官はこぞって猛反
対した。
天官は王宮内諸事を管轄する。即位と時を隔てての立后は、天綱にはあるものの例は
さして多くない。戴国では、国氏がまだ代であったとき以来であり、ほんの数例である。
とはいえ天官としては、立后は即位と崩御に次ぐ一大事、疎かにできようはずもない。
ところが、前例の全ては、後宮に予め侍っていた寵妃が立后して北宮に移ったもので
あり、李斎の場合の参考にはなり得ず厄介なところへ、驍宗が彼女を後宮ではなく正寝
に住まわせるのだ、と言い張った。
驍宗は後宮を嫌っており、即位後も即座に閉めたし、今回玉座を奪還した後も、後宮
の荒れた個所を基本的には放置していた。なんとか旧態に戻っているのは祭祀に関わる
西宮の建物群のみである。
妻――驍宗は伴侶のことを必ずそう呼んだ――はひとりしかいらぬので正寝でよい、
と言う王と、ひとりといえども後宮に迎えてもらわねば困る、と主張する天官側とで、
激しく対立した挙句、驍宗が「経費削減」という伝家の宝刀を抜いて、収まった。
削減どころか使おうにもない、というのが、新生戴国の偽らざる実情であったのだ。
天官は折れた。
そして後宮に一度も入らずに立后するという事実から、李斎は、既婚の王が即位した
際と同じ扱いで王宮に迎えられる、ということで決着したのだ。
即位前に王と婚姻していた者は、最初から王の配偶者として王宮に上がる。そのとき
の慣例に従い、李斎は今日、天官長自らの出迎えを受けたのである。
ほんの五六日前まで閣議の席で顔を合わせていた同じ天官長から、平伏して言祝(こ
とほ)ぎを述べられても、公式の場ではもはや直接に言葉を交わせない。輿に従う女官
に、白絹を張った優美な團扇の陰で、小さな声で返事を伝えるのだが、これが全て、予
めこう言えと教えられた内容である。
「大宰に御言葉で御座います…」
その都度、歌う様に女官が前置いて、李斎の言葉が天官長へ伝えられる。
ようやっと輿は長楽殿に辿りついた。現在、正寝の中で殆ど唯一、昔日の白圭宮の面
影を偲ぶことのできる宮殿である。
建物のほぼ中央を南北に貫く御影石の大廊下を下り、東に折れて、以前は花殿と互い
の園林を隔てて向き合っていた一画の、庭院に面した廻廊に入ったところで、天官長は
再び膝をついた。
「これより先がお住まいでございますれば、私どもはこちらで失礼申し上げます。幾久
しく御健勝であらせられますよう」
本来、後宮門殿前での口上であるそれを述べ、これも定型の口上を女官伝えに聞いた
後、天官長は辞去するために、中腰のまま、後ろへ下がった。
廊下に出迎えた女官長が案内を引き継いで、李斎に挨拶を述べるのが聞こえる。
これで今日の、公の行事は終了したのだ。
そのとき、女官長に返事を返した李斎が、やおら向き直った。
「大宰」
天官長ははっと顔を上げた。こちらを向いている李斎とまともに目があった。
「今日は、ありがとう。今度ぜひ、奥様とお茶でも飲みに来てください」
はっきりと伸びやかな声が告げて、にこりと笑いかけた。
周囲の天官はほぼ一斉に目を剥いたが、当の天官長だけが、この日初めて、なんとも
愉快そうな光を目に宿して李斎を見た後、実に素早い微笑を一瞬浮かべ、折り目正しい
拱手をした。
李斎は足を止めた。
庭院に向かって大きく開口した室内は、既にすっかり調えられていた。
李斎は首を傾げて、入れられている家具や掛け物、装飾品を見回した。もちろん見覚
えのあるものなど、そこにあろうはずもない。だが奇妙な馴染みのよさがあった。
贅沢なものばかりなのに、いささかも押し付けがましさがない。このように迎えてく
れる部屋に微かに覚えがある。あれはどこだったか…。
「お召し替えあそばされますか」
女官長の声に、李斎は振り返った。
「いや、いいです。輿だったから、裾さえ汚れていない。…私の荷物はどこだろう?」
女官長は僅かの沈黙の後、静かに微笑んだ。
「こちらにありますものは、すべてあなた様のものでございます」
李斎はちょっと瞬いた。
「官邸より届いたお品でございましたら、後ほど女官が片付けます」
「…有り難いが、それではどこに何が仕舞われているか、分らない」
「その必要はございません。女官がお取りいたします」
李斎は答えに詰まったが、気を取り直して、とりあえず掛けようと傍らの椅子に手を
かけた。その瞬間、声が飛んだ。
「后妃!」
ほぼ同時に控えていた女官のひとりが素早く椅子に飛びついた。
「お座りになられるときは、そう仰られて下さいまし」
李斎は呆気にとられて、言った女官長と椅子を引いた女官とを見比べた。
「…ありがとう」
声をかけると若い女御は驚いたように一瞬目を上げたが、すぐに伏せ、無言で元の位
置に戻った。
李斎はそろそろと椅子に座った。
「来たな」
扉口で太い声が放たれた。
居合わせた全員が即座に叩頭する。李斎もただちに椅子を滑り降り、伏礼をとった。
「立ってよい、李斎」
は、と答えた李斎はいつものように敏捷な動きで立ち上がろうとして、いつもは纏わ
ぬ領巾(ひれ)を踏み、椅子を掴んで危うく転倒を免れた。
とっさに腕を伸べかけた驍宗は、苦笑した。
「この部屋で伏礼はしなくてよいぞ、李斎」
李斎は真赤になった。
「失礼致しました。その…慣れますので、大丈夫でございます」
驍宗は眉を上げた。
「そうではない。ここはそなたの部屋だ。私が来たからといって、いちいちに叩頭せず
ともよい」
李斎がそれに答えるより前に、女官長が進み出た。
「畏れながら、主上」
「なんだ」
「主上が後宮にお渡りあそばされれば、伏礼でお迎えするのが慣例でございます」
「そうか。だがここは正寝で、私の住まいでもあるゆえ、これより王后におかれては、
私の入室の際、伏礼あそばされぬ。よろしいな、女官長」
「さようでございますか」
女官長は静かに微笑した。
うむ、と答え王は李斎に向き直った。彼女の立姿を眺めてちらりと笑む。
「部屋は気に入ったか」
李斎は即座に頷いた、
「はい。とても」
驍宗は機嫌よく言った、
「ほかはもう見たのか」
いいえ、と答えると、驍宗は李斎の方へ、つと手を伸ばした。李斎は一瞬体を固くし
たが、引き寄せるかに見えた腕は宙を巡って、次の間へと示された。
李斎は頷き、驍宗に案内されて自分に用意された部屋部屋を見て回った。
居間の奥には小奇麗な牀榻があり、そこが李斎のための臥室であった。その脇の扉か
らすぐが、異様に大きな部屋で、がらりと雰囲気が違う。どちらかと言えば重厚な壮麗
さは、いかにもこの王宮らしかった。
「大層な部屋だろう」
驍宗が苦笑するところをみると、王自身、さして気に入ってはいないらしい。
「ここの牀榻だけは北宮から移すと言って、天官が譲らなかったのだ。牀榻が浮かぬよ
うにすると、どうしてもこうなるな」
驍宗が軽く首を振った訳は、掛けられた房飾りも重々しい帳ごしに、そのどっしりと
巨大な牀榻をちらと眺め、さらに次の部屋をのぞいたときに、よく分った。
そこが驍宗の臥室だった。
仕事一途の独身男が眠るだけの部屋、と言えばそれまでだが、よく評して簡素、およ
そ王の自室とは思えぬほど見事に飾りがない。そればかりか牀榻と呼べるものすらない。
ほとんど陣中の幕屋のようだった。
阿選が、驍宗も含めた歴代の王が自室として使った部屋を血で汚したため、驍宗はそ
の部屋には戻らなかったという。どうやらそれを幸いに、この数月来、武将出身の生活
の好みを通したものらしい。
再び李斎の居室へと戻り、反対へ抜けると、今度は結構な広さの化粧部屋、入ってす
ぐに衣桁にかけられたものが目に飛び込んできた。李斎は思わず立ち止まる。
「ほぅ…仕立てると一層豪華だな。だが品はよい。どうだ、李斎」
李斎は瞬いた。
「見事なものでございますね…」
「なんだ、他人事のように。そなたが着るのだぞ」
「はぁ」
言われても実感はない。大体、自分が花嫁衣装に袖を通す日など、ついぞ想像したこ
とがなかった。まして数日の後、これを着て太廟の祭壇に進香し、王の伴侶として天に
誓約するのが、ここにいる自分だとはとても思えない。
思えないことに、李斎は当惑した。その戸惑いを隠し、王に笑んで会釈した。
驍宗は次の部屋に案内した。
客庁、といっても別棟ではなく隣接しているだけのそこが、后妃が自身の客を迎える
ための部屋であった。この部屋にもやはり行き届いた装飾がなされ、居心地よく道具が
設えられている。
雲海の上はまだまだ時候がよく、今日はよく晴れ気温も高かったこともあり、庭院を
囲む石の廊下に面した八枚の扉は、全て開け放ってあった。
日は西に傾き、北国の短い秋の一日は終ろうとしている。
「夕餉を共に出来ようか」
驍宗が聞く。
「喜んで」
うむ、と頷き、もう一度部屋とその中に立つ李斎を眺めて、驍宗は笑んだ。
そびえる門殿にかつての壮麗さはない。それでもこの辺りは、瓦礫がすっかり片付け
られており、通行の多いところだけに、瓦はすべてが葺き替えられ修理されている。
白く滑らかな石の床だけがいまも昔と変わらない。門外からの陽光を受けて、輿の影
が粛々と滑る。李斎は日に光る床石と、その影とを見ていた。
あの日、小さな麒麟が姿を消したあの真昼、この同じ床の上に両の手をついて顔を上
げた彼女は、生まれて初めて蝕の空をこの門越しに見た。禍禍しい赤色の空。周囲に夥
しく重なる割れた瓦。たちこめる土煙。隣にいた若い地官長の、埃にまみれた青い顔…。
――あの宣角は、阿選によって処刑された。
輿が止り、李斎は我に帰る。
正寝の門殿で、新任の天官長が叩頭で出迎えた。李斎の輿は下ろされず、彼女は輿の
上からやや緊張してその口上を聞く。
その後、天官長自らの先導で門殿を抜け、彼女の居宮に向かった。李斎の居宮、と言
っても、建物を与えられるわけではない。彼女が住まうのは、まさに現在王の住まう殿
舎内であり、使われていなかったその数室に急いで手が入れられたに過ぎなかった。
面積だけを言えば、後にしてきた将軍官邸の方が広いことになる。
これは本来、後宮の最奥に位置する広大な北宮の建物とその園林全てを与えられるの
が通例の王后としては、考えられない待遇であった。当然ながら、天官はこぞって猛反
対した。
天官は王宮内諸事を管轄する。即位と時を隔てての立后は、天綱にはあるものの例は
さして多くない。戴国では、国氏がまだ代であったとき以来であり、ほんの数例である。
とはいえ天官としては、立后は即位と崩御に次ぐ一大事、疎かにできようはずもない。
ところが、前例の全ては、後宮に予め侍っていた寵妃が立后して北宮に移ったもので
あり、李斎の場合の参考にはなり得ず厄介なところへ、驍宗が彼女を後宮ではなく正寝
に住まわせるのだ、と言い張った。
驍宗は後宮を嫌っており、即位後も即座に閉めたし、今回玉座を奪還した後も、後宮
の荒れた個所を基本的には放置していた。なんとか旧態に戻っているのは祭祀に関わる
西宮の建物群のみである。
妻――驍宗は伴侶のことを必ずそう呼んだ――はひとりしかいらぬので正寝でよい、
と言う王と、ひとりといえども後宮に迎えてもらわねば困る、と主張する天官側とで、
激しく対立した挙句、驍宗が「経費削減」という伝家の宝刀を抜いて、収まった。
削減どころか使おうにもない、というのが、新生戴国の偽らざる実情であったのだ。
天官は折れた。
そして後宮に一度も入らずに立后するという事実から、李斎は、既婚の王が即位した
際と同じ扱いで王宮に迎えられる、ということで決着したのだ。
即位前に王と婚姻していた者は、最初から王の配偶者として王宮に上がる。そのとき
の慣例に従い、李斎は今日、天官長自らの出迎えを受けたのである。
ほんの五六日前まで閣議の席で顔を合わせていた同じ天官長から、平伏して言祝(こ
とほ)ぎを述べられても、公式の場ではもはや直接に言葉を交わせない。輿に従う女官
に、白絹を張った優美な團扇の陰で、小さな声で返事を伝えるのだが、これが全て、予
めこう言えと教えられた内容である。
「大宰に御言葉で御座います…」
その都度、歌う様に女官が前置いて、李斎の言葉が天官長へ伝えられる。
ようやっと輿は長楽殿に辿りついた。現在、正寝の中で殆ど唯一、昔日の白圭宮の面
影を偲ぶことのできる宮殿である。
建物のほぼ中央を南北に貫く御影石の大廊下を下り、東に折れて、以前は花殿と互い
の園林を隔てて向き合っていた一画の、庭院に面した廻廊に入ったところで、天官長は
再び膝をついた。
「これより先がお住まいでございますれば、私どもはこちらで失礼申し上げます。幾久
しく御健勝であらせられますよう」
本来、後宮門殿前での口上であるそれを述べ、これも定型の口上を女官伝えに聞いた
後、天官長は辞去するために、中腰のまま、後ろへ下がった。
廊下に出迎えた女官長が案内を引き継いで、李斎に挨拶を述べるのが聞こえる。
これで今日の、公の行事は終了したのだ。
そのとき、女官長に返事を返した李斎が、やおら向き直った。
「大宰」
天官長ははっと顔を上げた。こちらを向いている李斎とまともに目があった。
「今日は、ありがとう。今度ぜひ、奥様とお茶でも飲みに来てください」
はっきりと伸びやかな声が告げて、にこりと笑いかけた。
周囲の天官はほぼ一斉に目を剥いたが、当の天官長だけが、この日初めて、なんとも
愉快そうな光を目に宿して李斎を見た後、実に素早い微笑を一瞬浮かべ、折り目正しい
拱手をした。
李斎は足を止めた。
庭院に向かって大きく開口した室内は、既にすっかり調えられていた。
李斎は首を傾げて、入れられている家具や掛け物、装飾品を見回した。もちろん見覚
えのあるものなど、そこにあろうはずもない。だが奇妙な馴染みのよさがあった。
贅沢なものばかりなのに、いささかも押し付けがましさがない。このように迎えてく
れる部屋に微かに覚えがある。あれはどこだったか…。
「お召し替えあそばされますか」
女官長の声に、李斎は振り返った。
「いや、いいです。輿だったから、裾さえ汚れていない。…私の荷物はどこだろう?」
女官長は僅かの沈黙の後、静かに微笑んだ。
「こちらにありますものは、すべてあなた様のものでございます」
李斎はちょっと瞬いた。
「官邸より届いたお品でございましたら、後ほど女官が片付けます」
「…有り難いが、それではどこに何が仕舞われているか、分らない」
「その必要はございません。女官がお取りいたします」
李斎は答えに詰まったが、気を取り直して、とりあえず掛けようと傍らの椅子に手を
かけた。その瞬間、声が飛んだ。
「后妃!」
ほぼ同時に控えていた女官のひとりが素早く椅子に飛びついた。
「お座りになられるときは、そう仰られて下さいまし」
李斎は呆気にとられて、言った女官長と椅子を引いた女官とを見比べた。
「…ありがとう」
声をかけると若い女御は驚いたように一瞬目を上げたが、すぐに伏せ、無言で元の位
置に戻った。
李斎はそろそろと椅子に座った。
「来たな」
扉口で太い声が放たれた。
居合わせた全員が即座に叩頭する。李斎もただちに椅子を滑り降り、伏礼をとった。
「立ってよい、李斎」
は、と答えた李斎はいつものように敏捷な動きで立ち上がろうとして、いつもは纏わ
ぬ領巾(ひれ)を踏み、椅子を掴んで危うく転倒を免れた。
とっさに腕を伸べかけた驍宗は、苦笑した。
「この部屋で伏礼はしなくてよいぞ、李斎」
李斎は真赤になった。
「失礼致しました。その…慣れますので、大丈夫でございます」
驍宗は眉を上げた。
「そうではない。ここはそなたの部屋だ。私が来たからといって、いちいちに叩頭せず
ともよい」
李斎がそれに答えるより前に、女官長が進み出た。
「畏れながら、主上」
「なんだ」
「主上が後宮にお渡りあそばされれば、伏礼でお迎えするのが慣例でございます」
「そうか。だがここは正寝で、私の住まいでもあるゆえ、これより王后におかれては、
私の入室の際、伏礼あそばされぬ。よろしいな、女官長」
「さようでございますか」
女官長は静かに微笑した。
うむ、と答え王は李斎に向き直った。彼女の立姿を眺めてちらりと笑む。
「部屋は気に入ったか」
李斎は即座に頷いた、
「はい。とても」
驍宗は機嫌よく言った、
「ほかはもう見たのか」
いいえ、と答えると、驍宗は李斎の方へ、つと手を伸ばした。李斎は一瞬体を固くし
たが、引き寄せるかに見えた腕は宙を巡って、次の間へと示された。
李斎は頷き、驍宗に案内されて自分に用意された部屋部屋を見て回った。
居間の奥には小奇麗な牀榻があり、そこが李斎のための臥室であった。その脇の扉か
らすぐが、異様に大きな部屋で、がらりと雰囲気が違う。どちらかと言えば重厚な壮麗
さは、いかにもこの王宮らしかった。
「大層な部屋だろう」
驍宗が苦笑するところをみると、王自身、さして気に入ってはいないらしい。
「ここの牀榻だけは北宮から移すと言って、天官が譲らなかったのだ。牀榻が浮かぬよ
うにすると、どうしてもこうなるな」
驍宗が軽く首を振った訳は、掛けられた房飾りも重々しい帳ごしに、そのどっしりと
巨大な牀榻をちらと眺め、さらに次の部屋をのぞいたときに、よく分った。
そこが驍宗の臥室だった。
仕事一途の独身男が眠るだけの部屋、と言えばそれまでだが、よく評して簡素、およ
そ王の自室とは思えぬほど見事に飾りがない。そればかりか牀榻と呼べるものすらない。
ほとんど陣中の幕屋のようだった。
阿選が、驍宗も含めた歴代の王が自室として使った部屋を血で汚したため、驍宗はそ
の部屋には戻らなかったという。どうやらそれを幸いに、この数月来、武将出身の生活
の好みを通したものらしい。
再び李斎の居室へと戻り、反対へ抜けると、今度は結構な広さの化粧部屋、入ってす
ぐに衣桁にかけられたものが目に飛び込んできた。李斎は思わず立ち止まる。
「ほぅ…仕立てると一層豪華だな。だが品はよい。どうだ、李斎」
李斎は瞬いた。
「見事なものでございますね…」
「なんだ、他人事のように。そなたが着るのだぞ」
「はぁ」
言われても実感はない。大体、自分が花嫁衣装に袖を通す日など、ついぞ想像したこ
とがなかった。まして数日の後、これを着て太廟の祭壇に進香し、王の伴侶として天に
誓約するのが、ここにいる自分だとはとても思えない。
思えないことに、李斎は当惑した。その戸惑いを隠し、王に笑んで会釈した。
驍宗は次の部屋に案内した。
客庁、といっても別棟ではなく隣接しているだけのそこが、后妃が自身の客を迎える
ための部屋であった。この部屋にもやはり行き届いた装飾がなされ、居心地よく道具が
設えられている。
雲海の上はまだまだ時候がよく、今日はよく晴れ気温も高かったこともあり、庭院を
囲む石の廊下に面した八枚の扉は、全て開け放ってあった。
日は西に傾き、北国の短い秋の一日は終ろうとしている。
「夕餉を共に出来ようか」
驍宗が聞く。
「喜んで」
うむ、と頷き、もう一度部屋とその中に立つ李斎を眺めて、驍宗は笑んだ。