「成る程成る程、あれじゃあ、主上の顔も緩みがちになるわけだよねぇ」
「…そうですか。よかったですね」
相手の反応はいまひとつだが、そんなことには気にしていない琅燦である。
既に夕刻だった。正寝正殿の東側の、大廊下から少し入ったばかりの内回廊の端で、
予想外に琅燦と行き会ってしまい、捕まっているのは、特徴的な光沢のある暗色の髪―
―実際は鬣(たてがみ)――をした、当国の若い麒麟であった。
十二国で現在生国に宰輔としてある麒麟は十、うち黄金色でない鬣を持つ唯一の麒麟
だ。事情あって、唯一短髪をした麒麟でもある。当年とって十七歳、外見はせいぜい十
四五というところ。ひょろりと丈だけ伸びて肉のない体型も、どこか子供の特徴を残す
面立ちも少年のそれであるが、これで既に成獣している。
「お忙しい大司空が、そんなことをお確かめになるために、わざわざお越しになられた
んですか」
愛想よい微笑と、柔らかな声だが、言にはやや含みがある。
「ふふん。当然じゃないか。なんたってあの驍宗様が、きちんきちんと食事に戻ってく
れて、休憩とってくれて、定時に内殿から引き上げるようになったんだよ。あまつさえ
仕事でなくて奥方の着物のことなんか考えてる時間まで、一日のうちにあるわけよ。結
構なことじゃない。とにかく、主上にはいい重石だよ。おかげでこっちも、どれほど体
力的にも精神的にも助かってるか、知れやしない」
「……」
結局ポイントはそっちかよ。と、泰麒はお腹で蓬莱語をつぶやいた。
「おまけに、主上が朝議に遅刻するとこまで、この目で見せてもらえたんだからねぇ。
夢みたい。李斎に感謝するわ。私らの職場環境の今後は、李斎にかかってるんだから、
是非、これからもこの調子でどんどん頑張ってもらわなきゃ」
泰麒は息を吐いた、
「それ、后妃にはおっしゃっていないでしょうね」
「言わない、言わない。真面目だから気にする、ってんでしょ。よく分かってるわよ」
ほんとかよ。
「…。醒めてんじゃないわよ。可愛くないね。昔からお行儀のよさと好印象が売りの泰
台輔でしょうが」
よく言う。
「琅燦殿は、昔から、僕のことを可愛いなんて、思っておられなかったでしょ」
「うん、全然。愛敬振り撒くけど、大人の顔色はきっちり見てるし、あざといちびだっ
て思ったな。李斎は一貫して愛しくてたまらなかったらしいけど、正直気が知れなかっ
たわね。だけど、いまは嫌いじゃないよ。すっかりくわせ者になったけど、少なくとも、
自覚あるみたいだし」
「それはどうも」
泰麒は涼しい顔で答えた。いまでは、琅燦より少しばかり上背のあることの主張が、
その下ろした目線には含まれている。さすがにこれはいささか愉快でなかった琅燦が、
にっこりと反撃した。
「そういう態度でいいの。あんたの打ち出してる例の、官吏の同時休業制度、ってのを
支持する気でいる閣僚だよ、私は」
「…見返りはなんです」
「法案つくって、きっちり通すとこまでやってちょうだい。休みがほしいんだよ。私に
は、いろいろやりたいこともあんの。無論、瑞州府だけじゃなく国府全体よ。でなきゃ
こっちは意味ないんだから」
「ほんとに、賛成なんですか」
泰麒は少し真顔に改まった。
定期的に丸一日、全府第を休みにする、というのは、泰麒にとっては、しごく当然な
就労者の保護に思えるが、そういう習慣のないこの世界のひと達には、その価値自体を
納得させることからして、難しい。それでも彼はいま本気で、週休を導入したいと考え
ていた。
「さすがに蓬莱のお育ちだと、言うことが奇抜で驚かされるわ。でも奇抜だけど、悪く
ない。天綱のどこにも、官を休ませるな、とは書いてないんだ。…それに、――戴の現
情には、実にあってると思う」
泰麒は琅燦の顔を見た。さきほどまでのからかい調子とは別の表情を、琅燦は浮かべ
た。
「どんなに主上ががんばったって、七年前のようには全員の仕事が無尽蔵じゃないんだ
から」
「………」
官をあげて国の再建に取り組む。それはいまも、そしてあの頃も同じだ。ただし。し
ゃかりきに仕事をしまくって、急げば急ぐほど、その分、国が早く立ち直る…。あの頃
はそうだったが、いまは違う。おそろしくゆっくり、時間をかけて、そしてほんのわず
かずつしか前には進まない。下官の書記までが寝る暇のなかった昔とは、一緒ではない。
「――で。台輔も、主上の留守狙って、李斎に会いに来たってわけ」
泰麒は憮然と答えた。
「あなたと違って、別にお留守なんて狙ってません。僕は主上に言われて、帰りが遅く
なるのでお食事をご一緒にと…」
「まーた、大人ぶっちゃって。いくらあんたでも、大きな形(なり)して、新婚の李斎
には甘えにくいんだろうけどさ。でも。分かってるだろうけど、家庭内に不要の波風立
てないようにね泰麒坊や。お母様のおっぱいは、父親と仲良くきっちり、折半してちょ
うだい」
泰麒がかっと赤くなった。
「馬鹿なこと言わないで下さいっ。僕は昔だって一度も、李斎の胸なんて触ったことあ
りませんよ!」
琅燦はきょとんと泰麒を見つめた、
「…単なる、ものの例えじゃないか。何むきになってるのよ。嫌ぁね」
「…っ、」
「まぁまぁ。いろいろあるね。青少年?」
琅燦から、なぐさめるように背を優しくたたかれ、泰麒は目を閉じた。そもそも李斎
は母じゃありません、を言うのも、忘れた。
さしもの泰麒でも、この女性に口で敵うには、まだもう少し、修行が必要だ。
「…そうですか。よかったですね」
相手の反応はいまひとつだが、そんなことには気にしていない琅燦である。
既に夕刻だった。正寝正殿の東側の、大廊下から少し入ったばかりの内回廊の端で、
予想外に琅燦と行き会ってしまい、捕まっているのは、特徴的な光沢のある暗色の髪―
―実際は鬣(たてがみ)――をした、当国の若い麒麟であった。
十二国で現在生国に宰輔としてある麒麟は十、うち黄金色でない鬣を持つ唯一の麒麟
だ。事情あって、唯一短髪をした麒麟でもある。当年とって十七歳、外見はせいぜい十
四五というところ。ひょろりと丈だけ伸びて肉のない体型も、どこか子供の特徴を残す
面立ちも少年のそれであるが、これで既に成獣している。
「お忙しい大司空が、そんなことをお確かめになるために、わざわざお越しになられた
んですか」
愛想よい微笑と、柔らかな声だが、言にはやや含みがある。
「ふふん。当然じゃないか。なんたってあの驍宗様が、きちんきちんと食事に戻ってく
れて、休憩とってくれて、定時に内殿から引き上げるようになったんだよ。あまつさえ
仕事でなくて奥方の着物のことなんか考えてる時間まで、一日のうちにあるわけよ。結
構なことじゃない。とにかく、主上にはいい重石だよ。おかげでこっちも、どれほど体
力的にも精神的にも助かってるか、知れやしない」
「……」
結局ポイントはそっちかよ。と、泰麒はお腹で蓬莱語をつぶやいた。
「おまけに、主上が朝議に遅刻するとこまで、この目で見せてもらえたんだからねぇ。
夢みたい。李斎に感謝するわ。私らの職場環境の今後は、李斎にかかってるんだから、
是非、これからもこの調子でどんどん頑張ってもらわなきゃ」
泰麒は息を吐いた、
「それ、后妃にはおっしゃっていないでしょうね」
「言わない、言わない。真面目だから気にする、ってんでしょ。よく分かってるわよ」
ほんとかよ。
「…。醒めてんじゃないわよ。可愛くないね。昔からお行儀のよさと好印象が売りの泰
台輔でしょうが」
よく言う。
「琅燦殿は、昔から、僕のことを可愛いなんて、思っておられなかったでしょ」
「うん、全然。愛敬振り撒くけど、大人の顔色はきっちり見てるし、あざといちびだっ
て思ったな。李斎は一貫して愛しくてたまらなかったらしいけど、正直気が知れなかっ
たわね。だけど、いまは嫌いじゃないよ。すっかりくわせ者になったけど、少なくとも、
自覚あるみたいだし」
「それはどうも」
泰麒は涼しい顔で答えた。いまでは、琅燦より少しばかり上背のあることの主張が、
その下ろした目線には含まれている。さすがにこれはいささか愉快でなかった琅燦が、
にっこりと反撃した。
「そういう態度でいいの。あんたの打ち出してる例の、官吏の同時休業制度、ってのを
支持する気でいる閣僚だよ、私は」
「…見返りはなんです」
「法案つくって、きっちり通すとこまでやってちょうだい。休みがほしいんだよ。私に
は、いろいろやりたいこともあんの。無論、瑞州府だけじゃなく国府全体よ。でなきゃ
こっちは意味ないんだから」
「ほんとに、賛成なんですか」
泰麒は少し真顔に改まった。
定期的に丸一日、全府第を休みにする、というのは、泰麒にとっては、しごく当然な
就労者の保護に思えるが、そういう習慣のないこの世界のひと達には、その価値自体を
納得させることからして、難しい。それでも彼はいま本気で、週休を導入したいと考え
ていた。
「さすがに蓬莱のお育ちだと、言うことが奇抜で驚かされるわ。でも奇抜だけど、悪く
ない。天綱のどこにも、官を休ませるな、とは書いてないんだ。…それに、――戴の現
情には、実にあってると思う」
泰麒は琅燦の顔を見た。さきほどまでのからかい調子とは別の表情を、琅燦は浮かべ
た。
「どんなに主上ががんばったって、七年前のようには全員の仕事が無尽蔵じゃないんだ
から」
「………」
官をあげて国の再建に取り組む。それはいまも、そしてあの頃も同じだ。ただし。し
ゃかりきに仕事をしまくって、急げば急ぐほど、その分、国が早く立ち直る…。あの頃
はそうだったが、いまは違う。おそろしくゆっくり、時間をかけて、そしてほんのわず
かずつしか前には進まない。下官の書記までが寝る暇のなかった昔とは、一緒ではない。
「――で。台輔も、主上の留守狙って、李斎に会いに来たってわけ」
泰麒は憮然と答えた。
「あなたと違って、別にお留守なんて狙ってません。僕は主上に言われて、帰りが遅く
なるのでお食事をご一緒にと…」
「まーた、大人ぶっちゃって。いくらあんたでも、大きな形(なり)して、新婚の李斎
には甘えにくいんだろうけどさ。でも。分かってるだろうけど、家庭内に不要の波風立
てないようにね泰麒坊や。お母様のおっぱいは、父親と仲良くきっちり、折半してちょ
うだい」
泰麒がかっと赤くなった。
「馬鹿なこと言わないで下さいっ。僕は昔だって一度も、李斎の胸なんて触ったことあ
りませんよ!」
琅燦はきょとんと泰麒を見つめた、
「…単なる、ものの例えじゃないか。何むきになってるのよ。嫌ぁね」
「…っ、」
「まぁまぁ。いろいろあるね。青少年?」
琅燦から、なぐさめるように背を優しくたたかれ、泰麒は目を閉じた。そもそも李斎
は母じゃありません、を言うのも、忘れた。
さしもの泰麒でも、この女性に口で敵うには、まだもう少し、修行が必要だ。
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「…これなに?おいしいけど」
丈のある磁器で出されたその琥珀色の飲み物は、琅燦の知らない味だった。李斎は火
炉にかけた鉄瓶の様子を見ながら、微笑んで答えた。
「松葉酒です。たしか、熱いお茶はお好きでなかったと存じまして。いま、ぬるめのお
茶もご用意しますので」
「ああいいよ、これだけで」
李斎の記憶どおり、実は琅燦は、相当な猫舌である。公の席などで湯茶を供されても、
冬場ですら、冷めるまで手をつけないほどだった。
「でも酒なの、これ」
もう一度、匂いを嗅いでみる。
「いえ名前だけです。体に良いので、郷(くに)では大人も子供もよく飲みます。承州
ハイマツ(這松)で作るのですが、ないので鴻基の松で試してみたら、ちゃんと出来ま
した」
「李斎が作ったの?」
――では、これが噂の『后妃のお手作り』か。琅燦は改めて器の中を眺めた。
「作るといっても、葉を氷砂糖といっしょに瓶子に入れて、水をそそいで醗酵させるだ
けですから。三月もすれば飲めます」
「氷砂糖か。よくあったね」
青竹の筒で固められた、透き通った玉のような砂糖の加工品は、もともと戴では高価
で菓子の扱いであった。現在の戴では、さらに珍しい。
「ええ。でも琅燦殿が思われるような上等なものではありません。茶色の、兵糧にも使
われるような品なんです。それなら割と手に入りますし、こういうものには十分です」
「主上も飲むの」
李斎はうなずいたが、ちょっと笑った。
「つんとした風味を、あまりお好きでないようですが。体にはとても良いので、少し削
り砂糖を足して、召し上がっていただいてます」
「私はこのままで好き。作り方をあとで書いて、官邸の方に届けさせて。うちの者にも
作らせよう」
よほど気に入ったと見えそう言うと、すすめられるままに、おかわりを頼んだ。
待つ間に、器に盛られた小さな飴菓子をひとつ、口に放り込む。
「ねぇひょっとして、こっちの糖蜜の飴も、お手作り?」
「はい。あの、粗末なものばかりお出ししまして。お口に合わないようなら…」
恐縮した李斎に、琅燦は手を振った。
「とーんでもない。おいしい、おいしい。これ、まだあるんでしょ。だったら、少し持
って帰らせてよ」
「はい。――喜んで」
世辞など決して言わぬ客から、こうまで喜ばれれば、もてなす女主も本懐というもの
である。李斎は、喜色満面で料紙をとりだすと、いそいそと残りの菓子をその上にあけ
た。
「なんだか、意外だねぇ。あんたって、こういうことしそうにない女に見えたけど。昔
から男どもと野っぱら駆け回ってばっかりだったのかと」
野っぱら駆け続けてきた李斎は、肩を竦めた。
「もちろん忙しいときは、何年でも全部、ひとまかせでしたよ。こちらに上がる前から
さほど仕事もなくなって、つい暇にあかせて、思い出すままにあれこれと。…実を申せ
ば、自分が食べたくて、熱心になっただけなんですが」
「私なんか、作ろうたってできないよ。やったことないもん。ふぅん、ちゃんと小さい
時からいろいろやってきてたわけだ」
「やってきた、と言うより…、やらされた、が正しいかもしれません。本当に、男の子
と暴れる方がよほど好きな子供で、母親からは叱られてばかりでした」
へぇ、と感心し、厳しかったのと聞いた琅燦に、李斎は笑った。
「ええ。それはもう。姉たちと比べると特に不出来でしたから、いつも、こんなでは嫁
げない、と母を嘆かせ、よく罰に甲豆を剥かされたものです。内心、嫁になど行かぬか
らいいと、反発しながら、いやいややっておりました。……こうなってみて、母の言う
ことをもっとよくきいておけば良かった、などと、後悔しております」
李斎はちょっと首を竦めながらも、懐かしそうに笑んだ。その表情に悲しみはない。
李斎にいま思い出せるのは、彼女を叱りまわした、まだ若い時の母だけなのだろう。
口やかましい母親と、むくれながら豆を剥くお転婆娘を思い描いて、琅燦も笑った。
「いい育ち方したんだな、李斎は」
「恐れ入ります。でもいたって普通の、退役兵士の家でしたよ。琅燦殿の方が、よほど
ご立派なお家だったのではありませんか」
琅燦はちょっと吃驚した顔をしたが、あっさり頷いて、認めた。
「うん。親は確かに二人とも国官だったけど、自分のことに忙しいひとたちだったから。
勉強してりゃなんの文句も言われなかったなぁ…」
と、李斎よりまだ遠い昔を振り返って、首をひねる。
貧しくはないが豊かでもない平均的な庶民のそれだった李斎の実家に比べ、琅燦の育
った家は、非常に裕福だった。それこそ家事を学ばなくとも不自由などないほどに。
夫の出世に大いに関心のあった琅燦の母は、しかし自身の官吏としての経歴には殆ど
執着がなかった。順当に上の官職を狙っていくならば、夫の転勤先になど、まず役目は
得られない。だが、それまでよりも低い役職でも平気で受けて赴任したから、ずっと夫
婦で勤められた。彼女が官を退かなかった理由は、主に収入にあった。
夫婦はどちらも若くして官吏になっており、自分の外見に拘りを持っていた。また大
変な体裁屋で、利にさとく、そのために子を願った。本当は子と徳に立証できる因果な
どないと知っている国官たちの間にあっても、実際には、配偶者のある官吏に子がない
と、徳のない人物と評されかねない。――他人の評価は、巡って人事につながるものだ、
と琅燦の母は、むしろ得意げに言っていた。娘も、ふぅん、そうかと納得しただけだっ
た。
だけどねぇ、と、琅燦は眉を顰めて息を吐いた。
「普通は子供もったら、子育ての間だけは仙籍抜いて齢重ねるもんじゃない。それを十
年ちょっとで復帰して、そのとき私も仙に入れたわけ。大きな子供がいるのが嫌だから。
おかげで私は、そのままで大学行く羽目になったんだけど、まいったわ。弓が引けない
んだよ、体が足りなくて。卒業まで八年仙籍離れて、どうにか成長したけど、でなきゃ
あんなとこ、二年で終わってやったのに。子の迷惑も考えろってのよ。自分勝手な親の
お陰で苦労した。とっくに死んだけどね」
父親の、ささいな(とは本人の弁であった)収賄が露見し、ために官職を解かれたの
は、琅燦が官になって既に数年が経った頃であった。
家族の昇仙が許されるのは、本人の新たな婚姻か、独立前の子が成長後に加わる場合
を除いては、本人が初めて昇仙をともなう任官辞令を受けたときの、一度だけである。
琅燦の両親はこのときの事件がもとで離婚し、まもなく父親は亡くなった。母親は自
らも辞職するや、別の国官と再婚して相手の仙籍に入り直した。以後疎遠となり、会う
機会はなかった。数十年以上も昔のことである。内乱の最中に、妖魔に襲われて死亡し
ていたと知ったが、それさえ、既に五年が経っていた。
「まぁ、親のことは言えないか。私もいざとなると自分の事しか考えない性質(たち)
だから」
口を尖らせて言う琅燦に、李斎は微笑んだ、
「ご自身のことしか考えないお方が、この戴に戻って来られる道理もありますまい」
「…、」
琅燦はじろんと李斎を睨んだ。
琅燦は、範西国にいた。名を変え、範の冬官に能力を売り、それを元に起こした事業
がかなり大きくなっていた。半年前、驍宗帰還の報が伝わるや、彼女はその一切をひと
に譲り、驍宗の元に馳せつけたのだった。
その前に雁で、彼女が私財を擲(なげう)って購った兵糧と武器とが、延王の援軍を
迎えたときの驍宗軍に、かろうじて一国の王の軍と呼べるだけの面目を施したのだとは、
皆が知っている。
本人はそれを言われるたびに、ああでもしないことには、形悪くてのこのこ帰れなか
っただけだ、と面倒そうに言う。だが、西の技術超大国で収めた成功、見込めた莫大な
収益と安穏な生活、範国冬官からの熱心な仕官の誘い。彼女がそれらと引き換えたのは、
弱りきって貧しい極国の冬官長職だった。しかも帰参したからといって、現職復帰でき
る保証などは全くなかった……。
黙っている李斎に、琅燦はふんと鼻を鳴らした。
「なによ。無理やり私を、いいひとに仕立てないでくれる。そういうのって、すっごく
気色悪くて、むかむかするんだよ」
李斎は神妙にうなずいた。
「分かりました」
「忘れてもらっちゃ困る。私はあんたと違って、主上のことだってあっさり見捨てて逃
げた人間なんだからね」
うそぶく琅燦だが、それこそ事実でないことは、誰より本人が承知しているだろう。
琅燦が国外逃亡を決意したのは、まだ驍宗が死亡したと信じられていたときだ。もし
主が生きている事を知っていたなら、彼女は出奔していまい。そしておそらく、いま生
きてここにはいないことだろう。
それを思うたび、琅燦が知らずに国を出られた事を、李斎は心から天に感謝した。
あの鳴蝕の翌日、主上が死んだと聞かされた日に、その報告を受けた議堂から出たと
ころで、李斎は琅燦と会っている。日頃の琅燦からは想像もつかない様子であったこと
を、李斎はけっして口にはしないが、覚えていた。
いつも李斎のことを――実際にうんと年下とはいえ――子供のようにあしらっては
ばからない彼女が、細い体を震わせて子供のように頼りなげだった。
彼女の落胆と絶望ぶりは痛ましいほどで、実際誰よりも長かった。表面は皮肉に包ん
で顎をいつもどおりそびやかし、徹夜仕事の常であると言い訳していたが、赤く腫れ上
がった目は毎日隠しようもなく、ついには、巌趙が言ったものである。
『本当言うと、琅燦のやつをうらやましいとさえ思っていた。男はそういつまでも泣け
んから。だが、もう見ておれん。親をなくした子供のようで見てる方がたまらん。俺が、
話してくる』……
見た目に似合わず、優しいところのある左将軍は、頭脳明晰で弁の立つ朋輩をどちら
かといえば煙たがっていたにもかかわらず、その日、酒を抱えて大司空官邸を訪問した
らしい。
自分こそが、主に死なれたというより、実の弟を失ったかのように悲しんでいた彼の
訪問を受けてからのち、琅燦は少しずつだが、立ち直っていった。
その巌趙も、いまはいない。
二人の話は、ふたたび食べものに戻っていた。仕事を抜けてきた冬官長と新米の后妃
は、冬日の射す正寝の一室で、時折笑い声を立てて、朗らかにしゃべり続けた。
当時をふりかえり、思い出を語らうには、時が必要だということを李斎も琅燦も分か
っている。彼らを懐かしく思い起こすには、傷はまだ、あまりに生々しかった。
丈のある磁器で出されたその琥珀色の飲み物は、琅燦の知らない味だった。李斎は火
炉にかけた鉄瓶の様子を見ながら、微笑んで答えた。
「松葉酒です。たしか、熱いお茶はお好きでなかったと存じまして。いま、ぬるめのお
茶もご用意しますので」
「ああいいよ、これだけで」
李斎の記憶どおり、実は琅燦は、相当な猫舌である。公の席などで湯茶を供されても、
冬場ですら、冷めるまで手をつけないほどだった。
「でも酒なの、これ」
もう一度、匂いを嗅いでみる。
「いえ名前だけです。体に良いので、郷(くに)では大人も子供もよく飲みます。承州
ハイマツ(這松)で作るのですが、ないので鴻基の松で試してみたら、ちゃんと出来ま
した」
「李斎が作ったの?」
――では、これが噂の『后妃のお手作り』か。琅燦は改めて器の中を眺めた。
「作るといっても、葉を氷砂糖といっしょに瓶子に入れて、水をそそいで醗酵させるだ
けですから。三月もすれば飲めます」
「氷砂糖か。よくあったね」
青竹の筒で固められた、透き通った玉のような砂糖の加工品は、もともと戴では高価
で菓子の扱いであった。現在の戴では、さらに珍しい。
「ええ。でも琅燦殿が思われるような上等なものではありません。茶色の、兵糧にも使
われるような品なんです。それなら割と手に入りますし、こういうものには十分です」
「主上も飲むの」
李斎はうなずいたが、ちょっと笑った。
「つんとした風味を、あまりお好きでないようですが。体にはとても良いので、少し削
り砂糖を足して、召し上がっていただいてます」
「私はこのままで好き。作り方をあとで書いて、官邸の方に届けさせて。うちの者にも
作らせよう」
よほど気に入ったと見えそう言うと、すすめられるままに、おかわりを頼んだ。
待つ間に、器に盛られた小さな飴菓子をひとつ、口に放り込む。
「ねぇひょっとして、こっちの糖蜜の飴も、お手作り?」
「はい。あの、粗末なものばかりお出ししまして。お口に合わないようなら…」
恐縮した李斎に、琅燦は手を振った。
「とーんでもない。おいしい、おいしい。これ、まだあるんでしょ。だったら、少し持
って帰らせてよ」
「はい。――喜んで」
世辞など決して言わぬ客から、こうまで喜ばれれば、もてなす女主も本懐というもの
である。李斎は、喜色満面で料紙をとりだすと、いそいそと残りの菓子をその上にあけ
た。
「なんだか、意外だねぇ。あんたって、こういうことしそうにない女に見えたけど。昔
から男どもと野っぱら駆け回ってばっかりだったのかと」
野っぱら駆け続けてきた李斎は、肩を竦めた。
「もちろん忙しいときは、何年でも全部、ひとまかせでしたよ。こちらに上がる前から
さほど仕事もなくなって、つい暇にあかせて、思い出すままにあれこれと。…実を申せ
ば、自分が食べたくて、熱心になっただけなんですが」
「私なんか、作ろうたってできないよ。やったことないもん。ふぅん、ちゃんと小さい
時からいろいろやってきてたわけだ」
「やってきた、と言うより…、やらされた、が正しいかもしれません。本当に、男の子
と暴れる方がよほど好きな子供で、母親からは叱られてばかりでした」
へぇ、と感心し、厳しかったのと聞いた琅燦に、李斎は笑った。
「ええ。それはもう。姉たちと比べると特に不出来でしたから、いつも、こんなでは嫁
げない、と母を嘆かせ、よく罰に甲豆を剥かされたものです。内心、嫁になど行かぬか
らいいと、反発しながら、いやいややっておりました。……こうなってみて、母の言う
ことをもっとよくきいておけば良かった、などと、後悔しております」
李斎はちょっと首を竦めながらも、懐かしそうに笑んだ。その表情に悲しみはない。
李斎にいま思い出せるのは、彼女を叱りまわした、まだ若い時の母だけなのだろう。
口やかましい母親と、むくれながら豆を剥くお転婆娘を思い描いて、琅燦も笑った。
「いい育ち方したんだな、李斎は」
「恐れ入ります。でもいたって普通の、退役兵士の家でしたよ。琅燦殿の方が、よほど
ご立派なお家だったのではありませんか」
琅燦はちょっと吃驚した顔をしたが、あっさり頷いて、認めた。
「うん。親は確かに二人とも国官だったけど、自分のことに忙しいひとたちだったから。
勉強してりゃなんの文句も言われなかったなぁ…」
と、李斎よりまだ遠い昔を振り返って、首をひねる。
貧しくはないが豊かでもない平均的な庶民のそれだった李斎の実家に比べ、琅燦の育
った家は、非常に裕福だった。それこそ家事を学ばなくとも不自由などないほどに。
夫の出世に大いに関心のあった琅燦の母は、しかし自身の官吏としての経歴には殆ど
執着がなかった。順当に上の官職を狙っていくならば、夫の転勤先になど、まず役目は
得られない。だが、それまでよりも低い役職でも平気で受けて赴任したから、ずっと夫
婦で勤められた。彼女が官を退かなかった理由は、主に収入にあった。
夫婦はどちらも若くして官吏になっており、自分の外見に拘りを持っていた。また大
変な体裁屋で、利にさとく、そのために子を願った。本当は子と徳に立証できる因果な
どないと知っている国官たちの間にあっても、実際には、配偶者のある官吏に子がない
と、徳のない人物と評されかねない。――他人の評価は、巡って人事につながるものだ、
と琅燦の母は、むしろ得意げに言っていた。娘も、ふぅん、そうかと納得しただけだっ
た。
だけどねぇ、と、琅燦は眉を顰めて息を吐いた。
「普通は子供もったら、子育ての間だけは仙籍抜いて齢重ねるもんじゃない。それを十
年ちょっとで復帰して、そのとき私も仙に入れたわけ。大きな子供がいるのが嫌だから。
おかげで私は、そのままで大学行く羽目になったんだけど、まいったわ。弓が引けない
んだよ、体が足りなくて。卒業まで八年仙籍離れて、どうにか成長したけど、でなきゃ
あんなとこ、二年で終わってやったのに。子の迷惑も考えろってのよ。自分勝手な親の
お陰で苦労した。とっくに死んだけどね」
父親の、ささいな(とは本人の弁であった)収賄が露見し、ために官職を解かれたの
は、琅燦が官になって既に数年が経った頃であった。
家族の昇仙が許されるのは、本人の新たな婚姻か、独立前の子が成長後に加わる場合
を除いては、本人が初めて昇仙をともなう任官辞令を受けたときの、一度だけである。
琅燦の両親はこのときの事件がもとで離婚し、まもなく父親は亡くなった。母親は自
らも辞職するや、別の国官と再婚して相手の仙籍に入り直した。以後疎遠となり、会う
機会はなかった。数十年以上も昔のことである。内乱の最中に、妖魔に襲われて死亡し
ていたと知ったが、それさえ、既に五年が経っていた。
「まぁ、親のことは言えないか。私もいざとなると自分の事しか考えない性質(たち)
だから」
口を尖らせて言う琅燦に、李斎は微笑んだ、
「ご自身のことしか考えないお方が、この戴に戻って来られる道理もありますまい」
「…、」
琅燦はじろんと李斎を睨んだ。
琅燦は、範西国にいた。名を変え、範の冬官に能力を売り、それを元に起こした事業
がかなり大きくなっていた。半年前、驍宗帰還の報が伝わるや、彼女はその一切をひと
に譲り、驍宗の元に馳せつけたのだった。
その前に雁で、彼女が私財を擲(なげう)って購った兵糧と武器とが、延王の援軍を
迎えたときの驍宗軍に、かろうじて一国の王の軍と呼べるだけの面目を施したのだとは、
皆が知っている。
本人はそれを言われるたびに、ああでもしないことには、形悪くてのこのこ帰れなか
っただけだ、と面倒そうに言う。だが、西の技術超大国で収めた成功、見込めた莫大な
収益と安穏な生活、範国冬官からの熱心な仕官の誘い。彼女がそれらと引き換えたのは、
弱りきって貧しい極国の冬官長職だった。しかも帰参したからといって、現職復帰でき
る保証などは全くなかった……。
黙っている李斎に、琅燦はふんと鼻を鳴らした。
「なによ。無理やり私を、いいひとに仕立てないでくれる。そういうのって、すっごく
気色悪くて、むかむかするんだよ」
李斎は神妙にうなずいた。
「分かりました」
「忘れてもらっちゃ困る。私はあんたと違って、主上のことだってあっさり見捨てて逃
げた人間なんだからね」
うそぶく琅燦だが、それこそ事実でないことは、誰より本人が承知しているだろう。
琅燦が国外逃亡を決意したのは、まだ驍宗が死亡したと信じられていたときだ。もし
主が生きている事を知っていたなら、彼女は出奔していまい。そしておそらく、いま生
きてここにはいないことだろう。
それを思うたび、琅燦が知らずに国を出られた事を、李斎は心から天に感謝した。
あの鳴蝕の翌日、主上が死んだと聞かされた日に、その報告を受けた議堂から出たと
ころで、李斎は琅燦と会っている。日頃の琅燦からは想像もつかない様子であったこと
を、李斎はけっして口にはしないが、覚えていた。
いつも李斎のことを――実際にうんと年下とはいえ――子供のようにあしらっては
ばからない彼女が、細い体を震わせて子供のように頼りなげだった。
彼女の落胆と絶望ぶりは痛ましいほどで、実際誰よりも長かった。表面は皮肉に包ん
で顎をいつもどおりそびやかし、徹夜仕事の常であると言い訳していたが、赤く腫れ上
がった目は毎日隠しようもなく、ついには、巌趙が言ったものである。
『本当言うと、琅燦のやつをうらやましいとさえ思っていた。男はそういつまでも泣け
んから。だが、もう見ておれん。親をなくした子供のようで見てる方がたまらん。俺が、
話してくる』……
見た目に似合わず、優しいところのある左将軍は、頭脳明晰で弁の立つ朋輩をどちら
かといえば煙たがっていたにもかかわらず、その日、酒を抱えて大司空官邸を訪問した
らしい。
自分こそが、主に死なれたというより、実の弟を失ったかのように悲しんでいた彼の
訪問を受けてからのち、琅燦は少しずつだが、立ち直っていった。
その巌趙も、いまはいない。
二人の話は、ふたたび食べものに戻っていた。仕事を抜けてきた冬官長と新米の后妃
は、冬日の射す正寝の一室で、時折笑い声を立てて、朗らかにしゃべり続けた。
当時をふりかえり、思い出を語らうには、時が必要だということを李斎も琅燦も分か
っている。彼らを懐かしく思い起こすには、傷はまだ、あまりに生々しかった。
案内された琅燦が、女官の後ろから膝低く屈み、両袖を顔前に高く捧げ、いとも静々
と現れたのを見て、李斎は瞬いた。
驚いている暇もなく、部屋の入り口で、細い小柄な体が深々と叩頭した。聞き覚えた
声が、凛と響く。
「お久しぶりでございます。雑事多忙にまぎれ、心ならずも御無沙汰申し上げました」
李斎はきょとんとした。
「后妃におかれましては、益々ご健勝のご様子、恐悦至極に存じ上げます」
さらに恭しい平伏と口上が続き、李斎は我に帰り、つとめて顔に出さないように注意
しながら、お腹に力を入れた。
「大司空も、お元気そうでなによりです」
そして女官長を振り返る。
「大司空と二人だけでお話をしたい。わたくしが、直接おもてなしします」
女官長は、そこにいた女官たちを皆下がらせた。そして客と主に礼をしたのち、自分
も退室していった。庭に面した玻璃の回廊へ出る二重の扉が、順にきちんと閉められて、
沓音と衣擦れが遠ざかる。
その間ずっと頭を下げたままだった琅燦は、音の消えた方に顔を向けて、しばし見や
った。そして、やおら立ち上がった。
「あーあ、肩凝った。これだから正寝って、嫌んなる」
あっけにとられた李斎をよそに、いつもの琅燦は、ばさばさと官服の裾をさばき、長
い袖を乱暴に払うと、勝手に円卓に近づき、手近の椅子を大きく引っぱって、断らずに
座った。
両肘かけて座る姿は、控えめに言ってもふんぞりかえっている。
「いまのが例の、歩く宮廷礼式だろ。李斎よく一日顔見てて平気だね。あー恐ろし」
李斎はついに噴出した。なんだか可笑しくてたまらない。
「あれで、さっぱりした良いひとです。琅燦殿も、話してみられれば、お気が合われる
かも」
「冗談じゃないよ。あの驍宗様を、平気で躾けっちまえるような怪物なんかと、私は関
わりたかぁない」
言って琅燦は、目の前の李斎をしげしげと観察しなおした。ふぅん…、と鼻声を漏ら
す。
「あんまり変わっていないな。噂できくと、すごく綺麗におなりだとか、色っぽくなら
れたとかいうから、多少期待したけど。あんた顔立ちいいのはもともとだし、化粧して
襦裾着ているだけよね。色気も…、たいして増えた風じゃないし」
遠慮なく眺められた李斎は、当惑して反論した。
「そんなに人間、急には変われませんよ」
「ま。安心した。元気そうで。天官のいじめにもめげてないみたいだし」
いじめられているわけではないのだが。
それでも李斎は気を取り直し、あらためて挨拶をやりなおした。
「今日は突然のお越しで驚きました。でも、お会いできて本当に嬉しいです。もっと早
くにおでかけ下さればよかったのに…」
半年前、真夏の驍宗の陣で再会して以来、なぜか以前よりも、二人は親しい。
琅燦は、こともなげに答えた。
「主上が、でかけたろう。鬼のいぬ間を狙ったんだよ」
「はぁ」
「一日に何十遍でも茶を飲みに突然戻られるっていうじゃない」
「まさか。そんなにおいでにはなりません」
李斎は驚いて否定した。噂のヒレは、思ったより大きい。ちなみに実際には、最高記
録が、李斎が正寝に入った翌日の五回であった。ここしばらく、おおむね二回か三回に
落ち着いて来ている。
ふふん、と琅燦は意味ありげな顔で笑った。
「どう?なかなか大変な男だろう?」
「は?」
「ご亭主だよ。そろそろ、早まった、とか後悔してるんじゃないの」
李斎が頭の中で『ご亭主』を『主上』に慌てて結び付けている間にも、言葉は続く。
「一緒に暮らせば、所詮は男、いくら傑物でも、家では傑物なりの地金も出るでしょう
が。毎日、驚くわ呆れるわで、へとへとになってるんじゃないの?」
李斎は吃驚して琅燦を見つめた。
「琅燦殿。ご結婚の経験がおありでしたか」
琅燦があからさまに顔を顰めた。
「あるもんか。何言ってる。まぁ、主上とはつきあい長かったから、およそ見当はつく
んだよ。ね、単純なようで結構気難しいだろ」
「そうですね…。そうかも」
思い当たらぬでもない。
「なにしろ人並外れているから、思考の早さも内容も、追いつきようがないし。なのに、
結構、話好きときてる」
「はい…」
「普通の人間とは気にかける対象やら角度がまるで違うから、相槌うつのも慣れるまで
難しいし…」
「確かに」
「大事から瑣末事まで、決めたら最後、絶対に譲らない。でも本人は我を通してる自覚
はない。あれも、日常、となるとちょっとねぇ」
「……、」
「…なにその顔。別に当て推量で言ってるんじゃないよ」
「はぁ。あの、琅燦殿はとてもよく…主上のことをご存知でいらっしゃるのですね…」
――新婚の旦那のことをこうも次々言い当てられちゃ、この李斎お嬢ちゃんでも少し
は妬ける気になったか。琅燦は得たり、と笑った。
「まぁねぇ。私の場合、私的にまで存じ上げたいとは、さらさら『思わなくなる』、の
には、十分すぎる長さだよ」
ここで瞬いた李斎の顔を見る。
「いくら最高の上司でも、仕事場だけで限度いっぱい。まあどんな官でも、半年以上い
っしょに仕事すりゃ、あのお仕事人間の私的な部分まで知りたいなんて、酔狂な気は起
きないだろねぇ。…あんた、蓬山で会って別れるまで半年だから、分からなかっただけ
よ」
「…は」
ばっさり斬って捨てられたようだが、李斎はよく分かっていない。
「あっはっは!安心しな、李斎。つまり、これまで仕事で関わった女で、驍宗様とそう
いう仲だった人間はひとりもいないから。私が保証したげるよ。もちろん、私も含めて
だね」
得意げに付け加えて、琅燦はひとりで満足し締めくくった。
「はぁ。そうなのですねぇ…」
もとより妬いたのかさえ、自覚に至らないうちにおさめられてしまった李斎は、なん
だか間の抜けた返事をした。
琅燦のひとの悪いにやにやの方は、まだ消えていない。なんといってもあの驍宗様の
新婚家庭に初訪問である。せっかくだから、旨味のある情報はできるだけ貰っていきた
いのだ。花影はせいぜい当たり障りのないことしか言わないし、男たちは表面しか見て
こない。人に教えてやる気などはさらになくとも、自分の好奇心だけはちゃんと満たし
ておきたい琅燦である。
「ねえ。何ひとつ困ってないってことはないんでしょ」
食い下がられて李斎は、真面目に考える。
「ええっと、…まぁ確かに、お考えには追いつけず、困ると言えばそうですが…。でも、
待っては下さいますので。おっしゃられたように、意外とお話なさる方ですから、分か
らないことは、その都度聞けます。教え方も丁寧でいらっしゃるし、格別不自由はない
ように思いますが……、」
「あんたの服、毎日選んでるって聞いたよ」
「はい。そのとおりです」
琅燦は目を剥いた。
「えっやっぱり本当なの」
「お忙しいのに、お忘れにならず女官たちに書付をお渡し下さり、それはもう助かって
おります」
嬉しげにそう答えた李斎が、大抵の女同様、衣装選びを楽しみとしている琅燦には、
信じられない。
「うっとうしくないわけ、そういうの」
「…どうしてです?」
李斎は聞き返した。琅燦はその吃驚した顔を見直して、呆れたような感心したような
息を吐いた。
「さすがに、驍宗様に嫁ごうって気になっただけのことはあるよ。やっぱり変わってる
わ。こういうのを夫婦の奇縁とでもいうのかねぇ…」
そのとき、首を傾けていた李斎がはたと顔を上げ、意気込んだ。
「ありました。ひどく困っていることが、ひとつだけ」
「え、なになに」
琅燦が大きく身を乗り出す。顔が近付いたのにつられ、李斎も真剣な面持ちで、声を
ぐっと低めた。だってこれは内緒なのだ。
「牀榻の中だけなのですが」
「…牀榻の、中」
「主上が必ず」
琅燦が口元を小さくひきつらせた。
「あのさ李斎。そういう話はそりゃおいしいけど、でもあんたの性格と違う…」
「欠伸をなさいまして」
「――あく?」
「欠伸を、なさるのです。それは大きな」
「もう、なに言い出すかと思った。欠伸がいったい何だよ、驍宗様だって……。あれ」
琅燦は眉をひそめたまま、視線だけを上向けて、彼女の長い記憶をたぐってみる。言
われて見れば…。
「一度も見て……ない、かな。…へぇ、そうか。欠伸、ねぇ…」
琅燦は、今度はむやみと感心し、一方李斎は情けない顔で頷いた。
「はじめて見たときは、ものすごくうろたえました。頭では普通のことだと思うのです
が。でもどうしても、見るたびに動揺して。どうしたらよいでしょうか?」
琅燦殿、と期待をこめて促され、琅燦は真剣に考え込んだ。そしてようやく自信を持
てる結論に達した。
「そのうちに、慣れると思う」
自信に溢れた御意見に、はぁ、ありがとうございます、と、李斎は少し落胆しながら、
礼を述べた。
と現れたのを見て、李斎は瞬いた。
驚いている暇もなく、部屋の入り口で、細い小柄な体が深々と叩頭した。聞き覚えた
声が、凛と響く。
「お久しぶりでございます。雑事多忙にまぎれ、心ならずも御無沙汰申し上げました」
李斎はきょとんとした。
「后妃におかれましては、益々ご健勝のご様子、恐悦至極に存じ上げます」
さらに恭しい平伏と口上が続き、李斎は我に帰り、つとめて顔に出さないように注意
しながら、お腹に力を入れた。
「大司空も、お元気そうでなによりです」
そして女官長を振り返る。
「大司空と二人だけでお話をしたい。わたくしが、直接おもてなしします」
女官長は、そこにいた女官たちを皆下がらせた。そして客と主に礼をしたのち、自分
も退室していった。庭に面した玻璃の回廊へ出る二重の扉が、順にきちんと閉められて、
沓音と衣擦れが遠ざかる。
その間ずっと頭を下げたままだった琅燦は、音の消えた方に顔を向けて、しばし見や
った。そして、やおら立ち上がった。
「あーあ、肩凝った。これだから正寝って、嫌んなる」
あっけにとられた李斎をよそに、いつもの琅燦は、ばさばさと官服の裾をさばき、長
い袖を乱暴に払うと、勝手に円卓に近づき、手近の椅子を大きく引っぱって、断らずに
座った。
両肘かけて座る姿は、控えめに言ってもふんぞりかえっている。
「いまのが例の、歩く宮廷礼式だろ。李斎よく一日顔見てて平気だね。あー恐ろし」
李斎はついに噴出した。なんだか可笑しくてたまらない。
「あれで、さっぱりした良いひとです。琅燦殿も、話してみられれば、お気が合われる
かも」
「冗談じゃないよ。あの驍宗様を、平気で躾けっちまえるような怪物なんかと、私は関
わりたかぁない」
言って琅燦は、目の前の李斎をしげしげと観察しなおした。ふぅん…、と鼻声を漏ら
す。
「あんまり変わっていないな。噂できくと、すごく綺麗におなりだとか、色っぽくなら
れたとかいうから、多少期待したけど。あんた顔立ちいいのはもともとだし、化粧して
襦裾着ているだけよね。色気も…、たいして増えた風じゃないし」
遠慮なく眺められた李斎は、当惑して反論した。
「そんなに人間、急には変われませんよ」
「ま。安心した。元気そうで。天官のいじめにもめげてないみたいだし」
いじめられているわけではないのだが。
それでも李斎は気を取り直し、あらためて挨拶をやりなおした。
「今日は突然のお越しで驚きました。でも、お会いできて本当に嬉しいです。もっと早
くにおでかけ下さればよかったのに…」
半年前、真夏の驍宗の陣で再会して以来、なぜか以前よりも、二人は親しい。
琅燦は、こともなげに答えた。
「主上が、でかけたろう。鬼のいぬ間を狙ったんだよ」
「はぁ」
「一日に何十遍でも茶を飲みに突然戻られるっていうじゃない」
「まさか。そんなにおいでにはなりません」
李斎は驚いて否定した。噂のヒレは、思ったより大きい。ちなみに実際には、最高記
録が、李斎が正寝に入った翌日の五回であった。ここしばらく、おおむね二回か三回に
落ち着いて来ている。
ふふん、と琅燦は意味ありげな顔で笑った。
「どう?なかなか大変な男だろう?」
「は?」
「ご亭主だよ。そろそろ、早まった、とか後悔してるんじゃないの」
李斎が頭の中で『ご亭主』を『主上』に慌てて結び付けている間にも、言葉は続く。
「一緒に暮らせば、所詮は男、いくら傑物でも、家では傑物なりの地金も出るでしょう
が。毎日、驚くわ呆れるわで、へとへとになってるんじゃないの?」
李斎は吃驚して琅燦を見つめた。
「琅燦殿。ご結婚の経験がおありでしたか」
琅燦があからさまに顔を顰めた。
「あるもんか。何言ってる。まぁ、主上とはつきあい長かったから、およそ見当はつく
んだよ。ね、単純なようで結構気難しいだろ」
「そうですね…。そうかも」
思い当たらぬでもない。
「なにしろ人並外れているから、思考の早さも内容も、追いつきようがないし。なのに、
結構、話好きときてる」
「はい…」
「普通の人間とは気にかける対象やら角度がまるで違うから、相槌うつのも慣れるまで
難しいし…」
「確かに」
「大事から瑣末事まで、決めたら最後、絶対に譲らない。でも本人は我を通してる自覚
はない。あれも、日常、となるとちょっとねぇ」
「……、」
「…なにその顔。別に当て推量で言ってるんじゃないよ」
「はぁ。あの、琅燦殿はとてもよく…主上のことをご存知でいらっしゃるのですね…」
――新婚の旦那のことをこうも次々言い当てられちゃ、この李斎お嬢ちゃんでも少し
は妬ける気になったか。琅燦は得たり、と笑った。
「まぁねぇ。私の場合、私的にまで存じ上げたいとは、さらさら『思わなくなる』、の
には、十分すぎる長さだよ」
ここで瞬いた李斎の顔を見る。
「いくら最高の上司でも、仕事場だけで限度いっぱい。まあどんな官でも、半年以上い
っしょに仕事すりゃ、あのお仕事人間の私的な部分まで知りたいなんて、酔狂な気は起
きないだろねぇ。…あんた、蓬山で会って別れるまで半年だから、分からなかっただけ
よ」
「…は」
ばっさり斬って捨てられたようだが、李斎はよく分かっていない。
「あっはっは!安心しな、李斎。つまり、これまで仕事で関わった女で、驍宗様とそう
いう仲だった人間はひとりもいないから。私が保証したげるよ。もちろん、私も含めて
だね」
得意げに付け加えて、琅燦はひとりで満足し締めくくった。
「はぁ。そうなのですねぇ…」
もとより妬いたのかさえ、自覚に至らないうちにおさめられてしまった李斎は、なん
だか間の抜けた返事をした。
琅燦のひとの悪いにやにやの方は、まだ消えていない。なんといってもあの驍宗様の
新婚家庭に初訪問である。せっかくだから、旨味のある情報はできるだけ貰っていきた
いのだ。花影はせいぜい当たり障りのないことしか言わないし、男たちは表面しか見て
こない。人に教えてやる気などはさらになくとも、自分の好奇心だけはちゃんと満たし
ておきたい琅燦である。
「ねえ。何ひとつ困ってないってことはないんでしょ」
食い下がられて李斎は、真面目に考える。
「ええっと、…まぁ確かに、お考えには追いつけず、困ると言えばそうですが…。でも、
待っては下さいますので。おっしゃられたように、意外とお話なさる方ですから、分か
らないことは、その都度聞けます。教え方も丁寧でいらっしゃるし、格別不自由はない
ように思いますが……、」
「あんたの服、毎日選んでるって聞いたよ」
「はい。そのとおりです」
琅燦は目を剥いた。
「えっやっぱり本当なの」
「お忙しいのに、お忘れにならず女官たちに書付をお渡し下さり、それはもう助かって
おります」
嬉しげにそう答えた李斎が、大抵の女同様、衣装選びを楽しみとしている琅燦には、
信じられない。
「うっとうしくないわけ、そういうの」
「…どうしてです?」
李斎は聞き返した。琅燦はその吃驚した顔を見直して、呆れたような感心したような
息を吐いた。
「さすがに、驍宗様に嫁ごうって気になっただけのことはあるよ。やっぱり変わってる
わ。こういうのを夫婦の奇縁とでもいうのかねぇ…」
そのとき、首を傾けていた李斎がはたと顔を上げ、意気込んだ。
「ありました。ひどく困っていることが、ひとつだけ」
「え、なになに」
琅燦が大きく身を乗り出す。顔が近付いたのにつられ、李斎も真剣な面持ちで、声を
ぐっと低めた。だってこれは内緒なのだ。
「牀榻の中だけなのですが」
「…牀榻の、中」
「主上が必ず」
琅燦が口元を小さくひきつらせた。
「あのさ李斎。そういう話はそりゃおいしいけど、でもあんたの性格と違う…」
「欠伸をなさいまして」
「――あく?」
「欠伸を、なさるのです。それは大きな」
「もう、なに言い出すかと思った。欠伸がいったい何だよ、驍宗様だって……。あれ」
琅燦は眉をひそめたまま、視線だけを上向けて、彼女の長い記憶をたぐってみる。言
われて見れば…。
「一度も見て……ない、かな。…へぇ、そうか。欠伸、ねぇ…」
琅燦は、今度はむやみと感心し、一方李斎は情けない顔で頷いた。
「はじめて見たときは、ものすごくうろたえました。頭では普通のことだと思うのです
が。でもどうしても、見るたびに動揺して。どうしたらよいでしょうか?」
琅燦殿、と期待をこめて促され、琅燦は真剣に考え込んだ。そしてようやく自信を持
てる結論に達した。
「そのうちに、慣れると思う」
自信に溢れた御意見に、はぁ、ありがとうございます、と、李斎は少し落胆しながら、
礼を述べた。
「……こちらが、年中行事に関わりますもので、こちらの分は使節の御接待など、外交
に関わるもの、…大礼に関わる記録は、また別にございます。いずれも、先の王の登極
から約三十年間のものでございます」
女官長の説明を、李斎は頷いて聞いている。
朝餉の後で、いつものように書見していた李斎のもとへ、かなり重そうな帙が二と、
幾つかの巻物が運ばれてきて、脇の小卓に載せられたところである。
ずっと法令集を読んできたのだが、これは、その天綱地綱に定められた事柄の、実際
の運用記録だった。驕王末期にはあらゆる行事が派手となり、法外な費用が使われてい
る。それで、和元年間よりずっと遡って、もっとも常識的でお手本となる時代を、女官
長は選んだらしい。
「それは…?」
李斎は、巻物の下のごく小さな帙に目を留めた。絹が張られているが、題字がない。
「先の后妃のおつけになっておられた覚書でございます」
李斎は手元に引き寄せた。おそらくは他の記録と同時代のもので、説明しなかったと
ころをみると、参考として持ってきたのだろう。
白瑪瑙の爪を外すと、薄青の表紙の冊子が五。一冊を下ろし、幾頁か見ていた李斎は、
女官長に聞いた。
「…これ、他にどのくらいありますか」
「同様の帙で、六ございます」
李斎がちょっと首を傾けた。女官長がそれに答えた。
「ほぼ毎日おつけであったようですが、私的な記録であるため、ご本人がお持ちになら
れるなどして、一部しか残ってはおりません。ただいま御文書庫に保管されております
のは、およそ、二十年分弱かと」
李斎は捲っていた一冊を閉じると、出しておいてくれるよう頼んだ。全てかと確かめ
た女官長に頷き、ちょっと笑った。李斎の方からこうしたことを頼んだのは、初めてで
ある。
「黒巻も、やっと、あと三巻で読み終えるから、行事記録と並行して読めば、無理には
ならないと思います」
女官長はわずかに目を開いた。
「……三巻、でございますか」
李斎は肩を竦め、苦笑した。
「思ったより時間がかかりました…。昔から、法令を読むのは遅くていけない」
頭を振り、先代王后の日記をもとどおり帙に収めると、李斎はまた、先ほどまでの続
きを、目で追い始めた。
「…」
背後の女官長は、珍しく少し瞬いてその姿を眺め直した。李斎は、宮中典令綜覧を、
読んでいる。
宮中典令綜覧というのは、膨大な量の法令集だ。略して綜典、別称を「黒巻(こっか
ん)」という。巻物が黒い亜麻布で装丁されているためだ。天綱に定められた、王宮に
かかわる数条を頂点として、その下に地綱、これに細則に附則がつき、各々の時代に加
えられる天官府規則、天官長令、次官通達(内宰令)…と、王宮諸事についての現行法
規の全てとなると、恐ろしい量に膨れ上がる。
李斎はこれを与えられ、端から学ばせられた。
いやしくも后妃たるもの、最低限、後宮に関わることだけでも、一通りは知っておか
なくてはならない。いま現在、運営されていない物理的な後宮の諸事が、学習から外さ
れたものの、李斎にはその分、正寝について学ぶ必要があり、どちらかと言えばそちら
方が厄介であった。
李斎は華燭から今日まで、日中の大半を、これらの学習に費やしている。
夕餉の後も、驍宗は大抵、なんらかの仕事と書見を、正寝でもする。ひとりで過ごす
その間、李斎はひたすら条文を読んでいた。
女官長は、胸の中で頷いた。
黒巻は、大学を出たばかりの官吏を泣かせる量だ。そもそも彼女の生徒は、机仕事が
苦手である。黒巻を積み上げられたときには明らかに、弱った、という様子さえ見せて
いた。
ただ、苦手だからと言って、この后妃は手を抜かない。一度始めれば没頭し、大変な
集中力を示す。
一刻ほど書見した頃に、いつもならば驍宗が一度戻ってくる。だが今日は、主上はお
留守である。女官長は頃合いを判断し、茶を淹れて休憩をすすめた。一息入れた後は、
李斎の希望で、字の練習を四半時ばかり、というのが大体のいつもの日程だった。
慶へ向かう途上で妖魔に襲われ、命を拾った代わりに利き腕を失って、一年半が経つ。
もともと運動能力の秀でている李斎は、日常生活の支障をかなり克服していたが、文字
となるとまだ、子供の域を出ていない。
実は過日、公式の祝詞とは別に、奏南国宗后妃から、李斎宛に便りが届いた。后妃明
嬉の直筆で、内容は、嫁いだばかりの李斎を気遣う、温かな、心こもったものであった。
本文を官に浄書させた上で自署をし、返書した李斎だったが、前にもまして、いずれ
は自筆の書簡をしたためられるようにならなくては、との思いが強くなっていた。
机上に、玻璃窓から冬の陽光が射し入る。火炉には花文様の鉄瓶がかけられたままで、
ちりんちりんと小さく鳴っていた。
墨を磨り始めた李斎に、傍らに控える女官長が言った。
「今日は、陽の照ります割に大層冷え込んでおります。午後から、暖房(かん)をお入
れ致しましょうか」
「そうして下さい。主上は、今日は下ですから、さぞ冷えて帰られるでしょう。上でさ
え朝は、霜柱がかなりあったくらいだから…」
「今朝はどちらまで」
李斎は毎朝、園林の奥の方まで歩いてくる。
「いつもの、北園(ほくえん)です。葉の落ちた枝の間から見ると、すっかり冬の空に
なっていますね…」
ゆったりと話す李斎に、女官長はさようでございますか、と答えて、再度、李斎の背
中を眺めた。しゃんと背を立て、墨を磨(す)っている姿には、非の打ち所がなく、ど
うやら彼女の基準を満たしている。
「――后妃におかれては、このところ、姿勢がよろしくおなりあそばされました」
女官長の言に、李斎は途端に嬉しそうに、ちょっと背を反らしてみせた。
「だいぶ筋の力がもどって、肩に肉もついたからか、真直ぐにしていて苦にならなくな
ったみたいです。やはり負荷をかけたのが、よかったようですね」
さらに強く両肩を引いてみせ、李斎は笑んだ。
右袖も左と対象にわずかに広がる。このところ日中、曲げた腕の形に重りを入れた布
製の義手を付けている李斎である。その仮の腕ごと袖を少し上げられるほどに、李斎の
右肩の周囲の肉は、戻りつつあった。
「それに、あの体操の効果でいらっしゃいましょう」
李斎の袖の動きが止まった。
「あ。いや。それは……ですね、その」
「湯殿でも、お湯におつかりの時間よりも、体操なさっておられる時間の方が長いご様
子でございますし、…ことによると朝なども園林の奥でなさっておいでなのではござい
ますまいか」
李斎の沈黙は、それが事実だと語っている。
李斎は紙を見つめ、女官長が暴露するであろうその続きを待った。実際、あらゆる人
目のない時間をとらえては、筋力をつけるための鍛錬をしていた。
「拝見いたしますに、」
――あれ。もうひとつはばれてないのか。李斎が心で首を傾けたとき、
「后妃のご健康とお体の姿勢には、運動は必要で、効果的であると存じ上げます」
「……そぅ?」
ちょっと吃驚した李斎に女官長は、耳を疑うようなことを、いつもの顔と声で言った、
「つきましては、今後、朝餉までのお時間は、後宮で運動あそばされてはいかがでござ
いましょう」
「……」
女官長はちらと一瞬后妃の顔に目を滑らせた。まともに目を見開き、女官長をぽかん
と椅子から見上げている。
「…。なんでございましょうか」
「本当に、いいの?」
聞き方がまるきり子供である。女官長は内心たじろいだが、表には出さなかった。
「そのように申し上げました。お住まいがどちらであろうと、あなた様は本来が後宮の
主、およそ二声宮以外の場所へのお立ち入に、差し支えはございません。東宮には馬場
がございますし、今日中に草を刈らせておきます。馬を数頭お入れしますので、ご自分
でお選びになられるとよろしいでしょう。それから小官は詳しく存じませんが、」
女官長は一層の無表情で付け加えた。
「鍛錬には、木でこしらえた剣や槍などがあるのだとか。あちらでならば、そういった
ものを、多少振り回したりなされようとも、誰の目にもふれることはないと存じます」
「ありがとう女官長。とても、嬉しい」
李斎は真直ぐに女官長を見、心からそう言うと、破顔した。
女官長はわずかに眉を動かした。
衒いのまったくない、この后妃のこういうところが、女官長は苦手である。李斎の言
動が心に触れ、どうかすると気持ちの遣り取りをしてしまいそうになるのを、非常に警
戒していた。それでもこうした不意打ちには、多少の動揺を禁じえない。
そのため、后妃というものは感情をあまり顔に出すものではないと、諭すべきところ
を、必要なことを手配したまでで謝意を表して頂く立場ではない、とせいぜい無表情で
言っただけになった。
公私の隔てに厳しく、教育係の天官たる職務上の立場を貫かんとする女官長は、苦手
な理由についてはそれ以上、考えないようにしていた。
だが、いくら考えずとも、彼女はこの出来の悪い生徒を、好いている。
「失礼いたします」
声に振り返ると、黒い官服を着けた正寝の官が、書状を手に、扉口で平伏していた。
正寝の官、といっても、この一角は事実上の後宮だから、必ず女性の官が来る。
女官長が立って行き、書状を受け取る。
「冬官府から使者が参っております。大司空琅燦殿、本日、ご機嫌伺いに罷り越したし
との口上と、お手紙でございます」
「琅燦殿が?」
型どおりの訪問伺いの短い書面だが、李斎の顔が輝く。琅燦とは、華燭の宴席以来、
もう一月以上会っていなかった。
李斎は早速、会う旨を伝えて使いを返した。
ひとりの昼食をすませてしばらくしたその午後に、正寝付の女官が扉口にあらわれ、
平伏の後立ち上がると、立礼したまま、独特の歌うような節回しで、来訪者を告げた。
「大司空が、参りました……」
に関わるもの、…大礼に関わる記録は、また別にございます。いずれも、先の王の登極
から約三十年間のものでございます」
女官長の説明を、李斎は頷いて聞いている。
朝餉の後で、いつものように書見していた李斎のもとへ、かなり重そうな帙が二と、
幾つかの巻物が運ばれてきて、脇の小卓に載せられたところである。
ずっと法令集を読んできたのだが、これは、その天綱地綱に定められた事柄の、実際
の運用記録だった。驕王末期にはあらゆる行事が派手となり、法外な費用が使われてい
る。それで、和元年間よりずっと遡って、もっとも常識的でお手本となる時代を、女官
長は選んだらしい。
「それは…?」
李斎は、巻物の下のごく小さな帙に目を留めた。絹が張られているが、題字がない。
「先の后妃のおつけになっておられた覚書でございます」
李斎は手元に引き寄せた。おそらくは他の記録と同時代のもので、説明しなかったと
ころをみると、参考として持ってきたのだろう。
白瑪瑙の爪を外すと、薄青の表紙の冊子が五。一冊を下ろし、幾頁か見ていた李斎は、
女官長に聞いた。
「…これ、他にどのくらいありますか」
「同様の帙で、六ございます」
李斎がちょっと首を傾けた。女官長がそれに答えた。
「ほぼ毎日おつけであったようですが、私的な記録であるため、ご本人がお持ちになら
れるなどして、一部しか残ってはおりません。ただいま御文書庫に保管されております
のは、およそ、二十年分弱かと」
李斎は捲っていた一冊を閉じると、出しておいてくれるよう頼んだ。全てかと確かめ
た女官長に頷き、ちょっと笑った。李斎の方からこうしたことを頼んだのは、初めてで
ある。
「黒巻も、やっと、あと三巻で読み終えるから、行事記録と並行して読めば、無理には
ならないと思います」
女官長はわずかに目を開いた。
「……三巻、でございますか」
李斎は肩を竦め、苦笑した。
「思ったより時間がかかりました…。昔から、法令を読むのは遅くていけない」
頭を振り、先代王后の日記をもとどおり帙に収めると、李斎はまた、先ほどまでの続
きを、目で追い始めた。
「…」
背後の女官長は、珍しく少し瞬いてその姿を眺め直した。李斎は、宮中典令綜覧を、
読んでいる。
宮中典令綜覧というのは、膨大な量の法令集だ。略して綜典、別称を「黒巻(こっか
ん)」という。巻物が黒い亜麻布で装丁されているためだ。天綱に定められた、王宮に
かかわる数条を頂点として、その下に地綱、これに細則に附則がつき、各々の時代に加
えられる天官府規則、天官長令、次官通達(内宰令)…と、王宮諸事についての現行法
規の全てとなると、恐ろしい量に膨れ上がる。
李斎はこれを与えられ、端から学ばせられた。
いやしくも后妃たるもの、最低限、後宮に関わることだけでも、一通りは知っておか
なくてはならない。いま現在、運営されていない物理的な後宮の諸事が、学習から外さ
れたものの、李斎にはその分、正寝について学ぶ必要があり、どちらかと言えばそちら
方が厄介であった。
李斎は華燭から今日まで、日中の大半を、これらの学習に費やしている。
夕餉の後も、驍宗は大抵、なんらかの仕事と書見を、正寝でもする。ひとりで過ごす
その間、李斎はひたすら条文を読んでいた。
女官長は、胸の中で頷いた。
黒巻は、大学を出たばかりの官吏を泣かせる量だ。そもそも彼女の生徒は、机仕事が
苦手である。黒巻を積み上げられたときには明らかに、弱った、という様子さえ見せて
いた。
ただ、苦手だからと言って、この后妃は手を抜かない。一度始めれば没頭し、大変な
集中力を示す。
一刻ほど書見した頃に、いつもならば驍宗が一度戻ってくる。だが今日は、主上はお
留守である。女官長は頃合いを判断し、茶を淹れて休憩をすすめた。一息入れた後は、
李斎の希望で、字の練習を四半時ばかり、というのが大体のいつもの日程だった。
慶へ向かう途上で妖魔に襲われ、命を拾った代わりに利き腕を失って、一年半が経つ。
もともと運動能力の秀でている李斎は、日常生活の支障をかなり克服していたが、文字
となるとまだ、子供の域を出ていない。
実は過日、公式の祝詞とは別に、奏南国宗后妃から、李斎宛に便りが届いた。后妃明
嬉の直筆で、内容は、嫁いだばかりの李斎を気遣う、温かな、心こもったものであった。
本文を官に浄書させた上で自署をし、返書した李斎だったが、前にもまして、いずれ
は自筆の書簡をしたためられるようにならなくては、との思いが強くなっていた。
机上に、玻璃窓から冬の陽光が射し入る。火炉には花文様の鉄瓶がかけられたままで、
ちりんちりんと小さく鳴っていた。
墨を磨り始めた李斎に、傍らに控える女官長が言った。
「今日は、陽の照ります割に大層冷え込んでおります。午後から、暖房(かん)をお入
れ致しましょうか」
「そうして下さい。主上は、今日は下ですから、さぞ冷えて帰られるでしょう。上でさ
え朝は、霜柱がかなりあったくらいだから…」
「今朝はどちらまで」
李斎は毎朝、園林の奥の方まで歩いてくる。
「いつもの、北園(ほくえん)です。葉の落ちた枝の間から見ると、すっかり冬の空に
なっていますね…」
ゆったりと話す李斎に、女官長はさようでございますか、と答えて、再度、李斎の背
中を眺めた。しゃんと背を立て、墨を磨(す)っている姿には、非の打ち所がなく、ど
うやら彼女の基準を満たしている。
「――后妃におかれては、このところ、姿勢がよろしくおなりあそばされました」
女官長の言に、李斎は途端に嬉しそうに、ちょっと背を反らしてみせた。
「だいぶ筋の力がもどって、肩に肉もついたからか、真直ぐにしていて苦にならなくな
ったみたいです。やはり負荷をかけたのが、よかったようですね」
さらに強く両肩を引いてみせ、李斎は笑んだ。
右袖も左と対象にわずかに広がる。このところ日中、曲げた腕の形に重りを入れた布
製の義手を付けている李斎である。その仮の腕ごと袖を少し上げられるほどに、李斎の
右肩の周囲の肉は、戻りつつあった。
「それに、あの体操の効果でいらっしゃいましょう」
李斎の袖の動きが止まった。
「あ。いや。それは……ですね、その」
「湯殿でも、お湯におつかりの時間よりも、体操なさっておられる時間の方が長いご様
子でございますし、…ことによると朝なども園林の奥でなさっておいでなのではござい
ますまいか」
李斎の沈黙は、それが事実だと語っている。
李斎は紙を見つめ、女官長が暴露するであろうその続きを待った。実際、あらゆる人
目のない時間をとらえては、筋力をつけるための鍛錬をしていた。
「拝見いたしますに、」
――あれ。もうひとつはばれてないのか。李斎が心で首を傾けたとき、
「后妃のご健康とお体の姿勢には、運動は必要で、効果的であると存じ上げます」
「……そぅ?」
ちょっと吃驚した李斎に女官長は、耳を疑うようなことを、いつもの顔と声で言った、
「つきましては、今後、朝餉までのお時間は、後宮で運動あそばされてはいかがでござ
いましょう」
「……」
女官長はちらと一瞬后妃の顔に目を滑らせた。まともに目を見開き、女官長をぽかん
と椅子から見上げている。
「…。なんでございましょうか」
「本当に、いいの?」
聞き方がまるきり子供である。女官長は内心たじろいだが、表には出さなかった。
「そのように申し上げました。お住まいがどちらであろうと、あなた様は本来が後宮の
主、およそ二声宮以外の場所へのお立ち入に、差し支えはございません。東宮には馬場
がございますし、今日中に草を刈らせておきます。馬を数頭お入れしますので、ご自分
でお選びになられるとよろしいでしょう。それから小官は詳しく存じませんが、」
女官長は一層の無表情で付け加えた。
「鍛錬には、木でこしらえた剣や槍などがあるのだとか。あちらでならば、そういった
ものを、多少振り回したりなされようとも、誰の目にもふれることはないと存じます」
「ありがとう女官長。とても、嬉しい」
李斎は真直ぐに女官長を見、心からそう言うと、破顔した。
女官長はわずかに眉を動かした。
衒いのまったくない、この后妃のこういうところが、女官長は苦手である。李斎の言
動が心に触れ、どうかすると気持ちの遣り取りをしてしまいそうになるのを、非常に警
戒していた。それでもこうした不意打ちには、多少の動揺を禁じえない。
そのため、后妃というものは感情をあまり顔に出すものではないと、諭すべきところ
を、必要なことを手配したまでで謝意を表して頂く立場ではない、とせいぜい無表情で
言っただけになった。
公私の隔てに厳しく、教育係の天官たる職務上の立場を貫かんとする女官長は、苦手
な理由についてはそれ以上、考えないようにしていた。
だが、いくら考えずとも、彼女はこの出来の悪い生徒を、好いている。
「失礼いたします」
声に振り返ると、黒い官服を着けた正寝の官が、書状を手に、扉口で平伏していた。
正寝の官、といっても、この一角は事実上の後宮だから、必ず女性の官が来る。
女官長が立って行き、書状を受け取る。
「冬官府から使者が参っております。大司空琅燦殿、本日、ご機嫌伺いに罷り越したし
との口上と、お手紙でございます」
「琅燦殿が?」
型どおりの訪問伺いの短い書面だが、李斎の顔が輝く。琅燦とは、華燭の宴席以来、
もう一月以上会っていなかった。
李斎は早速、会う旨を伝えて使いを返した。
ひとりの昼食をすませてしばらくしたその午後に、正寝付の女官が扉口にあらわれ、
平伏の後立ち上がると、立礼したまま、独特の歌うような節回しで、来訪者を告げた。
「大司空が、参りました……」
朝食を終えた驍宗が、布で口を拭いながら、忘れぬうちにと前置いて、言った。
「今日は、昼餉に戻られぬ。そのつもりで」
李斎は首を傾けた。李斎が王宮に上がってから、どんなに多忙な日も外殿から内殿へ
移る前に、最低一度は正寝に戻った驍宗である。特に大事が起きたとは、聞いていない。
「どちらかに、おでましになられるのでございますか」
うむ、と驍宗は答える。
「地官、夏官の主立ったものたちと、鴻基の街と近郊の数県を、見てくる。雪の前に、
一度この目で見ておきたい」
李斎は頷いた。
この年のわずかな量の収穫も終わり、冬が本格化する直前であった。飛燕に会うとき
に禁門から眺めれば、遠くの峰はもう白く、穏やかな雲海にかこまれた白圭宮にも、連
日霜が降りて、明け方など既にかなりの寒さだ。雪が降るのはもう時間の問題だった。
そして、瑞州の内でさえ、まだ妖魔は出ると聞く…。
「お気をつけて、おでかけ下さいませ」
思わず案じた声になった李斎に言ってやる、
「大丈夫だ。瑞州師が警護につく。新しい中将軍も同道させるゆえ」
「はい」
笑んで頷いた李斎に、驍宗は問うた。
「後任がどのようにやっておるか、聞かぬのか」
「いいえ」
李斎は笑んだまま、きっぱりと答えた。
「わたくしが気にかける筋ではございません」
「そなたに手伝わせておるらしいぞ」
意外な言に、李斎は目を見開き、首を傾けた。
「それは、どういう…」
「たまたま朝議の席で話題になったゆえ、私も今日、初めて知った。初の閲兵で将軍が
した訓示が、全兵士の心をとらえたということだ。いわく、――われわれは劉軍である、
と」
初めての閲兵式で、若い指揮官は、台上で叫んだ。
――赤誠の心で、主上台輔にお仕えせん。我等、劉軍なり。
その一言に、彼自身の前任者に抱く尊敬、そして目の前の全兵が抱く李斎への思慕の、
全てがあった。兵の顔は輝き、軍吏は涙を押さえながら、拳を空に突き上げて鬨声をあ
げたという。
「…あの者が、ですか」
李斎は思わず、胸を押さえていた。
「顔は知っていたか」
李斎は頷く、
「話したことは一度もありませんでしたが。…大人しくて寡黙すぎるが、戦場では勇猛
果敢、人物がよいから、運があれば指揮官になれるだろう、などと、昔、演習のおりに、
師帥たちが評価していたひとです」
驍宗は笑った。
「確かに、そういう男であるようだな。よもや私の耳に入るとは思っていなかったらし
い。話が出されると、首まで赤くして、下を向いたままであった」
驍宗は笑みながら、白湯を一口飲んだ後、真顔になった。
「そなたの後任は、誰がなっても難しい。あの若い将軍が、どうやって切り抜けるかと
思っていたのだが、見事にやったようだ。これで、安心して任せられる」
驍宗の言葉に、李斎も心が熱くなる思いであった。
王師の将軍としての勤務が非常に短い期間であったにもかかわらず、李斎は兵に愛さ
れていた。李斎の軍であったということで、阿選は最後まで、瑞州師中軍を信じなかっ
た。それゆえ、中軍が『国賊軍』の汚名とともに、承州から鴻基に戻されたあの暗い春
からこの夏までの六年半余、国のどこで内乱が起きても、ついに一度も鴻基から出さず
に、飼い殺したのだ。
中軍がいまの規模で残存したのには、そうした理由があった。
『大逆の将の軍』は、師帥にいたるまでがすべての冬器の返還を命じられ、全兵卒も
通常は丸腰で、剣さえ持たせられなかった。空行師からは、騎獣が奪われた。組織立っ
た逃亡や反逆ができぬよう、常に武装した禁軍右軍を監視につけられ、ただ土木作業の
ためだけに、生かされていた。それは徒刑に等しかった。兵営は牢だった。
体の維持という名目で、木刀、木槍で訓練はするものの、武人としての誇りは踏みに
じられ、自分たちを貶める偽王に「食わされている」というやりきれなさは、農民上が
りの一兵卒の心さえも、痛めつけた。
その頃には、どう情報が操作されようと、阿選が真の謀反人であること、無実の罪を
着せられた李斎が生きて、各地で反阿選の兵を挙げ奔走していることを、誰もが知って
いた。その乱が鎮められるたび、彼らは絶望と戦い、李斎がまだ生きていることが伝わ
ると、感謝の祈りを捧げて、再びひそかに希望を燃やした。
劉軍、とは、その頃、誰からともなく自らをそう呼び始めたものであった。
阿選への怨念と李斎への思慕で生き続けた彼らは、蓬莱へ流されて帰れるはずのなか
った台輔を取り戻して帰国したのが、他ならぬ自分たちの将であると知り、狂喜した。
鴻基の内側からの火の手は、彼らによって上がったのである。鴻基を守る禁軍は、武
装はしていても、もはや彼らの半分以下で、しかも、驍宗帰還の報に浮き足立っていた。
市民は、この六年半、生活を守る工事はしても、自分たちに刃を向けることのなかった
兵士たちを、覚えていた。千を越す首都の民が、呼びかけに応じた。工具、木杖を手に
した中軍は、市民と共に、怒涛の勢いで禁軍に迫り、これを説得し、開城させたのであ
る。
その後、驍宗軍に合流して武器を与えられた彼らの働きは、恐ろしいほどであったと
いう。
李斎は鴻基入城後に、心を込めて彼女の最後の閲兵を行い、兵を労った。
隻腕でよいからとどまってほしい、というのが、兵士たちの本音であったが、彼女は
辞職した。驍宗の后妃として白圭宮に入ることになったのは、李斎には予想もしなかっ
た成り行きだったが、兵らにすれば、王后におなりだと聞かされたからこそ、どうにか
受け容れられた辞職であった。それだけに、後任への思いは複雑であり、新任者の苦労
を誰もが案じたのだった。
いつまでも自分が未練のように、中軍を気にかけては、新将軍の妨げとなると思い、
様子を尋ねることさえしなかった李斎だが、いま、一軍の結束を聞かされると、たまら
なく嬉しかった。
妻の押さえきれぬ笑顔に、微笑んでいた驍宗は、ゆっくりしすぎたことに気づくと、
さて、と白湯の椀を置いた。
「そろそろ着替えた方がよいな。それにしても、騎乗するのも久しぶりだ」
驍宗が立ち上がり、李斎も席を立った。驍宗が考えるような口ぶりで、振り返る。
「…帰りが、はっきりせぬ。常の夕餉の時刻には間に合わぬかも知れぬゆえ、そなたは」
「あ、はい。お待ちしております」
驍宗は一瞬黙った。
「待っていてくれるか」
「はい」
李斎が素直に答えて、驍宗はちょっと複雑な面持ちになった。
「うむ」
瞬き、わずかに口元を歪めた。
「では、行って参る」
嬉しかった驍宗は、難しい顔で告げた。そのとき、李斎はたいそう元気良く、出て行
く夫に、声をかけた、
「お早くお戻りあそばされませっ」
驍宗の歩みが、止まった。
部屋に居た女官全員が、息を飲み、女官長の顔もかすかにだが、一瞬強ばった。
驍宗が驚いた顔で振り返る。
だがどうやら、一番驚いたのが、その言葉を発した当人だったようだ。
「…、」
李斎は口を閉じるのも忘れていた。王師の話で高揚したとはいえ、いまの声は、王后
が王を見送るには少し大きすぎた。そして内容は、宮中にあっては庶民的にすぎていた。
驍宗が今日一日、宮殿を空けると知って、大変な昔、父が少し遠出する日に、母が言っ
て送り出していた「早く帰ってくださいね」が、転がり出てこようなどとは、思いもよ
らなかった。
沈黙の中、驍宗が突如、声を上げて笑った。
女官たちが驚いて主上の方を見た。驍宗は笑いやめると、先ほどの李斎よりも大きな
声で、こう言った。
「あい分かった。できるだけ早く帰る」
そして、また笑いながら、出かけてしまった。
「今日は、昼餉に戻られぬ。そのつもりで」
李斎は首を傾けた。李斎が王宮に上がってから、どんなに多忙な日も外殿から内殿へ
移る前に、最低一度は正寝に戻った驍宗である。特に大事が起きたとは、聞いていない。
「どちらかに、おでましになられるのでございますか」
うむ、と驍宗は答える。
「地官、夏官の主立ったものたちと、鴻基の街と近郊の数県を、見てくる。雪の前に、
一度この目で見ておきたい」
李斎は頷いた。
この年のわずかな量の収穫も終わり、冬が本格化する直前であった。飛燕に会うとき
に禁門から眺めれば、遠くの峰はもう白く、穏やかな雲海にかこまれた白圭宮にも、連
日霜が降りて、明け方など既にかなりの寒さだ。雪が降るのはもう時間の問題だった。
そして、瑞州の内でさえ、まだ妖魔は出ると聞く…。
「お気をつけて、おでかけ下さいませ」
思わず案じた声になった李斎に言ってやる、
「大丈夫だ。瑞州師が警護につく。新しい中将軍も同道させるゆえ」
「はい」
笑んで頷いた李斎に、驍宗は問うた。
「後任がどのようにやっておるか、聞かぬのか」
「いいえ」
李斎は笑んだまま、きっぱりと答えた。
「わたくしが気にかける筋ではございません」
「そなたに手伝わせておるらしいぞ」
意外な言に、李斎は目を見開き、首を傾けた。
「それは、どういう…」
「たまたま朝議の席で話題になったゆえ、私も今日、初めて知った。初の閲兵で将軍が
した訓示が、全兵士の心をとらえたということだ。いわく、――われわれは劉軍である、
と」
初めての閲兵式で、若い指揮官は、台上で叫んだ。
――赤誠の心で、主上台輔にお仕えせん。我等、劉軍なり。
その一言に、彼自身の前任者に抱く尊敬、そして目の前の全兵が抱く李斎への思慕の、
全てがあった。兵の顔は輝き、軍吏は涙を押さえながら、拳を空に突き上げて鬨声をあ
げたという。
「…あの者が、ですか」
李斎は思わず、胸を押さえていた。
「顔は知っていたか」
李斎は頷く、
「話したことは一度もありませんでしたが。…大人しくて寡黙すぎるが、戦場では勇猛
果敢、人物がよいから、運があれば指揮官になれるだろう、などと、昔、演習のおりに、
師帥たちが評価していたひとです」
驍宗は笑った。
「確かに、そういう男であるようだな。よもや私の耳に入るとは思っていなかったらし
い。話が出されると、首まで赤くして、下を向いたままであった」
驍宗は笑みながら、白湯を一口飲んだ後、真顔になった。
「そなたの後任は、誰がなっても難しい。あの若い将軍が、どうやって切り抜けるかと
思っていたのだが、見事にやったようだ。これで、安心して任せられる」
驍宗の言葉に、李斎も心が熱くなる思いであった。
王師の将軍としての勤務が非常に短い期間であったにもかかわらず、李斎は兵に愛さ
れていた。李斎の軍であったということで、阿選は最後まで、瑞州師中軍を信じなかっ
た。それゆえ、中軍が『国賊軍』の汚名とともに、承州から鴻基に戻されたあの暗い春
からこの夏までの六年半余、国のどこで内乱が起きても、ついに一度も鴻基から出さず
に、飼い殺したのだ。
中軍がいまの規模で残存したのには、そうした理由があった。
『大逆の将の軍』は、師帥にいたるまでがすべての冬器の返還を命じられ、全兵卒も
通常は丸腰で、剣さえ持たせられなかった。空行師からは、騎獣が奪われた。組織立っ
た逃亡や反逆ができぬよう、常に武装した禁軍右軍を監視につけられ、ただ土木作業の
ためだけに、生かされていた。それは徒刑に等しかった。兵営は牢だった。
体の維持という名目で、木刀、木槍で訓練はするものの、武人としての誇りは踏みに
じられ、自分たちを貶める偽王に「食わされている」というやりきれなさは、農民上が
りの一兵卒の心さえも、痛めつけた。
その頃には、どう情報が操作されようと、阿選が真の謀反人であること、無実の罪を
着せられた李斎が生きて、各地で反阿選の兵を挙げ奔走していることを、誰もが知って
いた。その乱が鎮められるたび、彼らは絶望と戦い、李斎がまだ生きていることが伝わ
ると、感謝の祈りを捧げて、再びひそかに希望を燃やした。
劉軍、とは、その頃、誰からともなく自らをそう呼び始めたものであった。
阿選への怨念と李斎への思慕で生き続けた彼らは、蓬莱へ流されて帰れるはずのなか
った台輔を取り戻して帰国したのが、他ならぬ自分たちの将であると知り、狂喜した。
鴻基の内側からの火の手は、彼らによって上がったのである。鴻基を守る禁軍は、武
装はしていても、もはや彼らの半分以下で、しかも、驍宗帰還の報に浮き足立っていた。
市民は、この六年半、生活を守る工事はしても、自分たちに刃を向けることのなかった
兵士たちを、覚えていた。千を越す首都の民が、呼びかけに応じた。工具、木杖を手に
した中軍は、市民と共に、怒涛の勢いで禁軍に迫り、これを説得し、開城させたのであ
る。
その後、驍宗軍に合流して武器を与えられた彼らの働きは、恐ろしいほどであったと
いう。
李斎は鴻基入城後に、心を込めて彼女の最後の閲兵を行い、兵を労った。
隻腕でよいからとどまってほしい、というのが、兵士たちの本音であったが、彼女は
辞職した。驍宗の后妃として白圭宮に入ることになったのは、李斎には予想もしなかっ
た成り行きだったが、兵らにすれば、王后におなりだと聞かされたからこそ、どうにか
受け容れられた辞職であった。それだけに、後任への思いは複雑であり、新任者の苦労
を誰もが案じたのだった。
いつまでも自分が未練のように、中軍を気にかけては、新将軍の妨げとなると思い、
様子を尋ねることさえしなかった李斎だが、いま、一軍の結束を聞かされると、たまら
なく嬉しかった。
妻の押さえきれぬ笑顔に、微笑んでいた驍宗は、ゆっくりしすぎたことに気づくと、
さて、と白湯の椀を置いた。
「そろそろ着替えた方がよいな。それにしても、騎乗するのも久しぶりだ」
驍宗が立ち上がり、李斎も席を立った。驍宗が考えるような口ぶりで、振り返る。
「…帰りが、はっきりせぬ。常の夕餉の時刻には間に合わぬかも知れぬゆえ、そなたは」
「あ、はい。お待ちしております」
驍宗は一瞬黙った。
「待っていてくれるか」
「はい」
李斎が素直に答えて、驍宗はちょっと複雑な面持ちになった。
「うむ」
瞬き、わずかに口元を歪めた。
「では、行って参る」
嬉しかった驍宗は、難しい顔で告げた。そのとき、李斎はたいそう元気良く、出て行
く夫に、声をかけた、
「お早くお戻りあそばされませっ」
驍宗の歩みが、止まった。
部屋に居た女官全員が、息を飲み、女官長の顔もかすかにだが、一瞬強ばった。
驍宗が驚いた顔で振り返る。
だがどうやら、一番驚いたのが、その言葉を発した当人だったようだ。
「…、」
李斎は口を閉じるのも忘れていた。王師の話で高揚したとはいえ、いまの声は、王后
が王を見送るには少し大きすぎた。そして内容は、宮中にあっては庶民的にすぎていた。
驍宗が今日一日、宮殿を空けると知って、大変な昔、父が少し遠出する日に、母が言っ
て送り出していた「早く帰ってくださいね」が、転がり出てこようなどとは、思いもよ
らなかった。
沈黙の中、驍宗が突如、声を上げて笑った。
女官たちが驚いて主上の方を見た。驍宗は笑いやめると、先ほどの李斎よりも大きな
声で、こう言った。
「あい分かった。できるだけ早く帰る」
そして、また笑いながら、出かけてしまった。