「散歩に行かないか?」
「は?」
思わず間抜けな声を出した。だが、取り返しはつかない。既に言葉となり、驍宗の耳に届いた。
「知っているか?もう春なのだぞ。今、桃の花が見頃だ」
「さようですか」
李斎は窓の外から話しかけてくる驍宗に戸惑ったかのように首をひねった。
「ですが、このような時刻ですと、花もよく見えないのではないのですか」
もう深夜といっても差し支えのない時刻だ。
月明かり、星明りで見ようにも限界があるし、小さな手燭だけでは間近な所しか見えないだろう。
「それがそうでもない」
「はぁ……」
躊躇っているとじれったそうに驍宗は李斎の二の腕を掴み、引きずり出そうとする。
「ちょっ、おやめ下さいませ!」
危ない、とばかりに窓枠に縋った。
「だったら、早く来い」
「知りませんでした」
「何がだ?」
「主上がこのようなせっかちな方だったとは」
「そうか」
「ええ、そうです。暫くお待ち下さい」
そう言って、李斎は室内に戻り、春先用の褞袍を肩に羽織った。
窓枠に手をついて、飛び降りるように外に出た。
「どうして、自分の官邸から抜け出さなくてはいけないのでしょうね」
「そんな事、気にしていたら、身が持たないぞ」
「持ちたくありませんから」
くす、と驍宗が笑う。
「良いではないか。たまには」
「ええ、本当にたまにはならば」
恨めしげに上目遣いで見る。
「じゃあ、行くか」
話を反らし、驍宗はさっさと歩いた。
「誤魔化すのへたですね」
「そういう李斎は、誤魔化されるのがへただ」
「誤魔化されたくありませんから」
「そうか」
「そうですよ」
暫く歩くと、余所の家々から、甘い香りが漂ってきた。
桃の花特有の甘くて優しい香りだ。
その優しい香りは、ふんわりと李斎の鼻腔をくすぐった。
「ほら、見えるだろう」
「ええ」
確かに暗い夜道だったが、そう高くない墻壁の上から見える桃の木は、小さいけれど、たくさんの灯籠によって華やかな演出をされていた。
「知りませんでした」
「私も今日まで知らなかった」
灯りに使う油だって、そんなに安い物ではないだろうに。
贅沢な事だ、と眉を顰めたくなったが、やはり綺麗なものは綺麗だ。
住人はどこの誰だかしらないが、粋な事だ。
たくさんの灯籠は、足場が組まれ、高い所にも設置されている。
まるで、この家の住人は、道行く人にも見てもらいたいようだ。
二人だけで、花を見るなんてない事だから、李斎は心が弾んだ。そっと手を伸ばすと、驍宗がその手を掴んで握ってくれる。
いつまでもこの場にいるのもへんなので、また歩き出した。
真夜中の散歩は、長いようで短かった。
~了~
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