野望というのには、ささやかな願いだな、と一人呟いた。
「何か、仰いました?」
李斎が、赤茶の髪を揺らし、振り返った。
「いや、何でもない」
「そうですか」
そう言って、李斎はまた書棚の整理を始めた。
ここは李斎の官邸だ。
ふと思い立って書棚の整理を始めたのはいいが、夢中になり過ぎて収拾がつかなくなった、と笑っていた。
驍宗は、用意された酒の杯を片手で玩びながら、李斎の背中を見ていた。
棚には、書籍だけでなく、何かの小箱やら、小さな花を挿したほっそりとした花瓶やらも詰めている。
折角、詰めたものをもう一度、取り出しては、また詰めたりとしている為、今夜中には終わらないんじゃないか?と思うが、言ってしまっては、李斎がふくれてしまう事が想像出来て、驍宗は口に出さないでいた。
しん、と静まり返った中、李斎が動くたびに衣擦れや、書籍などと書棚がこすれる音がする。
まるで、この世に二人きりしかいないようだ、と思いながら驍宗は酒を口に含んだ。
たまに訪れるこの李斎の官邸は、いつも静かでいて、温かい。
そして、過ごす時間は、穏やかな時間だ。
驍宗は取り立てて何も語らないし、李斎もまた、問い詰めたりはしない。
時間を共に共有するだけ。
そうやって、李斎は何も言わずに驍宗を受け入れる。それが、言葉に言い表せないほど嬉しい、と驍宗は思う。
どれだけ自分の事を理解しているのか、分からないけれど、確かに全てを受け入れてくれるというのは、本当に嬉しいものだ。
出会った頃、泰麒を挟んで色んな話をした。
泰麒がいない所でも、様々な事を語り合った。
あの時、新鮮に感じたものだ。
泰麒と一緒にいる時には、優しい表情を常につけていたが、いない時には、本当にさっぱりとした物言いで、辛辣だった。二重人格者かと思ったが、今になって思い返すとあれは、泰麒に対する母性愛とか、そういうものがあったのだろう。そして、自分には、本音を見せてくれていたのだろう。泰麒に対してとは違う本当の姿を。
あの頃、話していても退屈を覚えなかった。
今では、取り立てて話さなくても、気詰まりを感じたりする事がない。
きっとそれは、二人の間に、遠慮とかそういうものがあまりない、という事なのだろう。
驍宗は酒を杯に注ぎ、くいっ、と呑み干した。
たん、と卓に杯を置き、立ち上がる。
「どうかなさいました?」
驍宗が立ち上がったのに気づいたのか、李斎が振り返る。両腕に抱えた書籍が零れ落ちそうだった。でも、李斎はそれらを落とさなかった。驍宗がいきなり行動を起こしても。
「何をなさるんです……?」
上目遣いで李斎は驍宗を睨んだ。
書棚に押し付けながら、驍宗は李斎の体を抱き締め、唇を奪っていた。
「離れて下さい。ここが片付かないです」
「野望があるのだ」
「はい?」
驍宗は李斎の非難を軽く無視し、李斎の赤茶の髪を掻き揚げた。さらり、と髪が肩の上で踊った。
「野望というのには、ささやかなものだが、私にとっては野望なのだ」
「そうですか。頑張って下さい」
「冷たいな、もっと応援してくれてもいいではないか」
「何を仰るのです。主上の事ですから、自力で叶えてみせるでしょう」
李斎はふいっ、と横を向いてそう言った。
その頬に一つ、唇を落とす。
次第に赤くなる頬を見ながら驍宗は、耳元で囁いた。
「自分一人で叶えれるものならば、とっくにそうしている。自分一人では無理だから言っているのだ」
野望というには、あまりにもささやかな願い。
このまま、ずっと時を過ごせればいい。
一つの時間を共有し、喜びも悲しみも、そして苦しみも、全て共有出来ればいい。
ずっと。
~了~
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