その日は月の綺麗な日だったから。
だから、軽く殺し合いでもしようかと思った。
多分、それは殺したい相手が自分より先に死んでしまいそうな、いなくなってしまうような、そんな根拠の無い予感に駆られたせいかも知れない。
それとも、やっぱり月が綺麗だったせいかもしれない。
そんなことは、まぁどっちでもよかったのだけれども。
だから、相手の家を目指して、酔ったような足取りで道を歩いた。理由にしたはずの月は途中で隠れ、暗闇が濃く辺りを覆っていた。帰りは雨が降るかも知れないと思い、なおさら急いだ。肩をぽんぽんとバットで叩く。見慣れた道だった。酒を飲みに行くため歩いたり。意味なく向かったり。土産を持っていったり。来るなといわれているのに会いに行ったり。何度も繰り返し歩いた道だった。けれども、途中、冗談のように道は遮られていた。
白い線が、一本。灰色の道路を横切るように引かれている。
黒く塗りつぶしたような闇の中でも、それは酷く目立った。思わず、その直前で立ち止まる。一種後、子供の落書きかとそう思い、踏み越そうとした瞬間だった。
「動かないで」
月は見えなかった。雲は霞んでいた。それでも、不思議とそれは見えた。
それだけが、見えた。
黒光りする、銃口。白い手に握られたリボルバー。
気づいたときは、それは随分近くにあった。しかし、止まる必要などなかった。そんな脅しは聞かないで、問答無用に近寄り、バットを一振りすればそれで済んだ。けれども、わざわざ立ち止まったのは、ただ純粋に驚いたからだ。銃口を向けてきた相手が、あまりに意外だったからだ。
まず、銃口を握っている白い指に目がいった。長い黒髪が僅かになびく。細い肢体が、闇の中に優美な線を描いていた。十七、八を超えるか超えないかの少女だった。甘やかさの中に、強さを感じさせる顔立ち。その頬の白くすべらかな線と大きな瞳は、今も昔も変わりない。
見慣れているはずなのに、まるで別のものに見えるその姿。
「その線を、越えたら撃つから」
哀願する響きはそこにはなかった。ただ、淡々と事実のみを語る。少女が手に持っているのは、安物のリボルバーだった。握りにくいグリップ、黒く光る銃身、耐久度の低いシリンダーを持った粗悪な武器。使い捨ての、弾が出るだけの壊れやすい銃。それでも、これだけ近くで狙い撃つには十分だった。細く白い指はしなやかで、その向こうの目が、まるで猫のように光っていた。
まるでドラマのワンシーンのようだ。
それも、酷く喜劇的な。
「なんやぁ、桐生ちゃんのとこの遥ちゃんやないかい? 一体どないしたんや?」
「―――――とぼけないで」
口調は冷たかった。一端のやくざでも、自分にこんな口をきく人物はいない。一体、いつの間にこの少女はここまで育ったのか?こんな風に育ったのか?そう思ったら、酷く愉快で、面白かった。
「おじさんの、ところに行く気なら帰って」
「どうしてや?」
そう言って、所々へこんだバットを肩の上で弾ませる。それに、少女はちらりと道路に引かれた線を見た。真っ直ぐに、チョークで引かれた白線。まるで子供の落書きのようだ。ここから先は自分の領地だと、歪んだ線を引く、子供の遊び。何の意味も無い国境。それでも、向けられている銃口は本物だ。
ここと、ここが境界線。踏み越えれば戦場だ。
「今日は、薫さんが、死んで三日目だから」
少女の声に、感情は無かった。その声は、静かに凍っていた。
ふと思いをはせる。そういえば、すっかり忘れていた。覚えていたはずなのに、気がつけば記憶から零れ落ちていた。
あの女性が死んで三日目。
些細なことで逆恨みしたヒットマンの、流れ弾から、大事な男を庇って三日目。
最期に笑って、取り乱した顔を叱り付けて、礼を言ったというのだから、あの女らしい話だった。
「ああ、そうやったな……誰も彼もが、桐生ちゃんを一人にしてよう死ぬわ」
ぼんやりと呟く。ほんまになぁと言いながら、ぶんとバットを振る。それに、少女は頷いた。
「そうね、だから、今のおじさんは死ぬことに惹かれてる」
手に持った銃口が揺らがない。その指は重さを感じないかのように固まったまま。まるで冗談のように、少女が銃を構える光景は続く。
「今のおじさんは簡単に死ぬことへ傾いてしまうの。だから、真島のおじさんは桐生のおじさんに会わないで。このまま、帰って」
「だから、どうしてや?」
「あなたからは、血の匂いがするもの」
さらりと少女はそう言った。
鉄錆びの、紅色。滴る肉の色。
そんなものは、この少女には分からなかったはずだというのに。
「何や、そんなことまで、分かるようになってしもうたんか?」
尋ねる。少女は答えなかった。何も言わなかった。
それが答えだった。少女は、大切に育てられた。それこそ、ガラスの箱に仕舞われているかのように。閉じ込められているかのように。大切に大切に育てられた。血に触れないように。汚れないように。歪まないように。その体に万が一でも傷などつくことのないように。健やかに優しいままで育つように、祈るように大切にされた。けれども、目の前で自分を守って傷つく人がいれば。あるいは、箱の周りが血で汚れれば。
その肌が汚れなくても、紅色の匂いも、色も覚える。
錆びた、色の紅。普通の子供として育つには、彼女はあまりに色々なものを見すぎた。
その果てが、この光景なのか。とそう思う。
撃鉄の降ろされた、リボルバーを握って、戦場に立つように立っている。
「今、あなたがおじさんを殺そうとしたら、きっとおじさんは死んでしまうから」
「何やぁ、桐生ちゃん。そんなにへこんどるんか?」
「うん。きっと、自分でも気づいてないけど。すごく、すごく疲れてる。おじさんを、止めるものはもうないから。薫さんは死んでしまった。東城会も、今は安定してる。私は――もう育ってしまった」
それは、自嘲的な響きだった。そう言って、自分の体に少女はちらりと目を走らせた。育った足、手、腕。女の形に、あと少しで辿り着く体。幼さを失った体は、あと少しで育つことを止める。
いつまでも子供の腕だったのなら、銃口など構えられなかった。
「育ったなぁ。リボルバー、構えられるくらいにな」
「『一人でも、生きていける』くらいに、だよ」
揶揄する響きに答えた声は、欠片も揺らがない。
真っ直ぐにこちらを睨む瞳は、落ち着き過ぎていて逆に恐ろしい。感情がそこにない。静かな湖面のようだ。欠片も揺らがない、感情を握り潰して、殺している。機械のようなその表情が気に入らなくて、軽く尋ねた。
「桐生ちゃんは、嬢ちゃんのモンやないで?」
「そうだよ。おじさんは、あなたのものでも、私のものでもない。薫さんのものだった。でも、今は誰のものにもなれない」
一瞬だけ、声に悲しさが滲んだ。哀れんでいるのか、悲しんでいるのか。自分のことをか、彼のことをか。その心は分からなかった。ただ、ほんの少しだけ唇を噛み締めた。その動作だけが、昔の強いけれども弱かった少女の面影を引き戻す。
「なれないんだよ」
守ると誓った者を守れなかったのならば、最早、彼は孤独になるしかないのだ。
そのことを嘆きながら、徐々に少女の顔から表情が消えていく。リボルバーを必死になって構える腕。ほんの一瞬だけ、その白い指が、痛々しいものに見えた。
「ああ――――」
あまりにも、孤独な、その姿。
愛しているのに、愛されているのに。本当の意味で、愛されないことを知っている。
「嬢ちゃんは、女になってしもうたんやなぁ」
ゆっくりと、呟く。それに少女は答えた。淡々と。嘆きも、誇りもせず。変わったものは、変わってしまった。それに、何も感じていないかのように。
「そう、だから私が守らないといけない」
鉄の軋む音がする。リボルバーがゆっくりと鳴く。そんな気がした。それは幻聴だったけれども。合わせるように、バットをもう一度肩にぶつけた。
「そうか――――――」
ぽんっと軽い音。肉を打つ、硬い音。目の前にいるのは、あの少女ではなかった。そのことを確認する。小さな、かわいらしい、傷つけてはいけない生き物ではなかった。ただ、こちらを殺すつもりで立っていた。迷うことなく、そこにいた。
小さく、呟く。
「なら、本気でいかせてもらうわ」
重く曇った空は、灰の色に滲む。風が遠くで渦を巻いている。水を孕んだ空気が、徐々に強くなる。
やがて、最初の一滴が地に落ちる。まるで涙のように、静かに落下する。
白線が滲む。じわりと水滴の中に拡散する。
それが合図だった。男は、踏み越しては、行けない線をあまりに軽く踏み越した。そして、少女は躊躇わなかった。
銃声が鳴り響く。終幕を告げる、ベルのように。
何かに別れを、告げるかのように。
サタデー・ナイトスペシャル
安物の拳銃と、どうしようもない愛情
だから、軽く殺し合いでもしようかと思った。
多分、それは殺したい相手が自分より先に死んでしまいそうな、いなくなってしまうような、そんな根拠の無い予感に駆られたせいかも知れない。
それとも、やっぱり月が綺麗だったせいかもしれない。
そんなことは、まぁどっちでもよかったのだけれども。
だから、相手の家を目指して、酔ったような足取りで道を歩いた。理由にしたはずの月は途中で隠れ、暗闇が濃く辺りを覆っていた。帰りは雨が降るかも知れないと思い、なおさら急いだ。肩をぽんぽんとバットで叩く。見慣れた道だった。酒を飲みに行くため歩いたり。意味なく向かったり。土産を持っていったり。来るなといわれているのに会いに行ったり。何度も繰り返し歩いた道だった。けれども、途中、冗談のように道は遮られていた。
白い線が、一本。灰色の道路を横切るように引かれている。
黒く塗りつぶしたような闇の中でも、それは酷く目立った。思わず、その直前で立ち止まる。一種後、子供の落書きかとそう思い、踏み越そうとした瞬間だった。
「動かないで」
月は見えなかった。雲は霞んでいた。それでも、不思議とそれは見えた。
それだけが、見えた。
黒光りする、銃口。白い手に握られたリボルバー。
気づいたときは、それは随分近くにあった。しかし、止まる必要などなかった。そんな脅しは聞かないで、問答無用に近寄り、バットを一振りすればそれで済んだ。けれども、わざわざ立ち止まったのは、ただ純粋に驚いたからだ。銃口を向けてきた相手が、あまりに意外だったからだ。
まず、銃口を握っている白い指に目がいった。長い黒髪が僅かになびく。細い肢体が、闇の中に優美な線を描いていた。十七、八を超えるか超えないかの少女だった。甘やかさの中に、強さを感じさせる顔立ち。その頬の白くすべらかな線と大きな瞳は、今も昔も変わりない。
見慣れているはずなのに、まるで別のものに見えるその姿。
「その線を、越えたら撃つから」
哀願する響きはそこにはなかった。ただ、淡々と事実のみを語る。少女が手に持っているのは、安物のリボルバーだった。握りにくいグリップ、黒く光る銃身、耐久度の低いシリンダーを持った粗悪な武器。使い捨ての、弾が出るだけの壊れやすい銃。それでも、これだけ近くで狙い撃つには十分だった。細く白い指はしなやかで、その向こうの目が、まるで猫のように光っていた。
まるでドラマのワンシーンのようだ。
それも、酷く喜劇的な。
「なんやぁ、桐生ちゃんのとこの遥ちゃんやないかい? 一体どないしたんや?」
「―――――とぼけないで」
口調は冷たかった。一端のやくざでも、自分にこんな口をきく人物はいない。一体、いつの間にこの少女はここまで育ったのか?こんな風に育ったのか?そう思ったら、酷く愉快で、面白かった。
「おじさんの、ところに行く気なら帰って」
「どうしてや?」
そう言って、所々へこんだバットを肩の上で弾ませる。それに、少女はちらりと道路に引かれた線を見た。真っ直ぐに、チョークで引かれた白線。まるで子供の落書きのようだ。ここから先は自分の領地だと、歪んだ線を引く、子供の遊び。何の意味も無い国境。それでも、向けられている銃口は本物だ。
ここと、ここが境界線。踏み越えれば戦場だ。
「今日は、薫さんが、死んで三日目だから」
少女の声に、感情は無かった。その声は、静かに凍っていた。
ふと思いをはせる。そういえば、すっかり忘れていた。覚えていたはずなのに、気がつけば記憶から零れ落ちていた。
あの女性が死んで三日目。
些細なことで逆恨みしたヒットマンの、流れ弾から、大事な男を庇って三日目。
最期に笑って、取り乱した顔を叱り付けて、礼を言ったというのだから、あの女らしい話だった。
「ああ、そうやったな……誰も彼もが、桐生ちゃんを一人にしてよう死ぬわ」
ぼんやりと呟く。ほんまになぁと言いながら、ぶんとバットを振る。それに、少女は頷いた。
「そうね、だから、今のおじさんは死ぬことに惹かれてる」
手に持った銃口が揺らがない。その指は重さを感じないかのように固まったまま。まるで冗談のように、少女が銃を構える光景は続く。
「今のおじさんは簡単に死ぬことへ傾いてしまうの。だから、真島のおじさんは桐生のおじさんに会わないで。このまま、帰って」
「だから、どうしてや?」
「あなたからは、血の匂いがするもの」
さらりと少女はそう言った。
鉄錆びの、紅色。滴る肉の色。
そんなものは、この少女には分からなかったはずだというのに。
「何や、そんなことまで、分かるようになってしもうたんか?」
尋ねる。少女は答えなかった。何も言わなかった。
それが答えだった。少女は、大切に育てられた。それこそ、ガラスの箱に仕舞われているかのように。閉じ込められているかのように。大切に大切に育てられた。血に触れないように。汚れないように。歪まないように。その体に万が一でも傷などつくことのないように。健やかに優しいままで育つように、祈るように大切にされた。けれども、目の前で自分を守って傷つく人がいれば。あるいは、箱の周りが血で汚れれば。
その肌が汚れなくても、紅色の匂いも、色も覚える。
錆びた、色の紅。普通の子供として育つには、彼女はあまりに色々なものを見すぎた。
その果てが、この光景なのか。とそう思う。
撃鉄の降ろされた、リボルバーを握って、戦場に立つように立っている。
「今、あなたがおじさんを殺そうとしたら、きっとおじさんは死んでしまうから」
「何やぁ、桐生ちゃん。そんなにへこんどるんか?」
「うん。きっと、自分でも気づいてないけど。すごく、すごく疲れてる。おじさんを、止めるものはもうないから。薫さんは死んでしまった。東城会も、今は安定してる。私は――もう育ってしまった」
それは、自嘲的な響きだった。そう言って、自分の体に少女はちらりと目を走らせた。育った足、手、腕。女の形に、あと少しで辿り着く体。幼さを失った体は、あと少しで育つことを止める。
いつまでも子供の腕だったのなら、銃口など構えられなかった。
「育ったなぁ。リボルバー、構えられるくらいにな」
「『一人でも、生きていける』くらいに、だよ」
揶揄する響きに答えた声は、欠片も揺らがない。
真っ直ぐにこちらを睨む瞳は、落ち着き過ぎていて逆に恐ろしい。感情がそこにない。静かな湖面のようだ。欠片も揺らがない、感情を握り潰して、殺している。機械のようなその表情が気に入らなくて、軽く尋ねた。
「桐生ちゃんは、嬢ちゃんのモンやないで?」
「そうだよ。おじさんは、あなたのものでも、私のものでもない。薫さんのものだった。でも、今は誰のものにもなれない」
一瞬だけ、声に悲しさが滲んだ。哀れんでいるのか、悲しんでいるのか。自分のことをか、彼のことをか。その心は分からなかった。ただ、ほんの少しだけ唇を噛み締めた。その動作だけが、昔の強いけれども弱かった少女の面影を引き戻す。
「なれないんだよ」
守ると誓った者を守れなかったのならば、最早、彼は孤独になるしかないのだ。
そのことを嘆きながら、徐々に少女の顔から表情が消えていく。リボルバーを必死になって構える腕。ほんの一瞬だけ、その白い指が、痛々しいものに見えた。
「ああ――――」
あまりにも、孤独な、その姿。
愛しているのに、愛されているのに。本当の意味で、愛されないことを知っている。
「嬢ちゃんは、女になってしもうたんやなぁ」
ゆっくりと、呟く。それに少女は答えた。淡々と。嘆きも、誇りもせず。変わったものは、変わってしまった。それに、何も感じていないかのように。
「そう、だから私が守らないといけない」
鉄の軋む音がする。リボルバーがゆっくりと鳴く。そんな気がした。それは幻聴だったけれども。合わせるように、バットをもう一度肩にぶつけた。
「そうか――――――」
ぽんっと軽い音。肉を打つ、硬い音。目の前にいるのは、あの少女ではなかった。そのことを確認する。小さな、かわいらしい、傷つけてはいけない生き物ではなかった。ただ、こちらを殺すつもりで立っていた。迷うことなく、そこにいた。
小さく、呟く。
「なら、本気でいかせてもらうわ」
重く曇った空は、灰の色に滲む。風が遠くで渦を巻いている。水を孕んだ空気が、徐々に強くなる。
やがて、最初の一滴が地に落ちる。まるで涙のように、静かに落下する。
白線が滲む。じわりと水滴の中に拡散する。
それが合図だった。男は、踏み越しては、行けない線をあまりに軽く踏み越した。そして、少女は躊躇わなかった。
銃声が鳴り響く。終幕を告げる、ベルのように。
何かに別れを、告げるかのように。
サタデー・ナイトスペシャル
安物の拳銃と、どうしようもない愛情
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