彼女の気持ち
「遥、帰ろう!」
下校の時間になり、女子生徒たちは口を揃えて声をかける。日直で、日誌を職員室に持って行ってきたばかりの遥は大きく頷いた。
「校門までならいいよ」
「えー!また遥、駅の方に行っちゃうの?」
少女の1人が口を尖らす。堂島家に世話になる際は、いつもの下校ルートと違い、電車に乗って帰るので友人とは校門を出た後は
正反対の道になるのだ。遥は申し訳なさそうに手を合わせた。
「ごめんね、月曜からまた一緒に帰ってくれる?」
別にいいけど、と別の女子生徒が首をかしげた。
「遥って二つ家があるわけ?今日帰るのはどういうおうちなの?」
「えー……と」
説明に困って彼女は口ごもる。回りくどく、桐生の、昔の、仕事先の、上司の家と言ってもいいのだが、どうして昔の上司の家に
世話になるのだと聞かれたりしたら、今度こそ説明のしようがない。さんざん悩んだ挙句、遥は答えた。
「と、遠い親戚、かな?」
言った後に彼女は思う。桐生は弥生を姐さんだと言っていた。「姉さん」と変換すれば、保護者の兄弟なわけだから、親戚だと言っても
大きく言えば間違ってはいない、はず。恐る恐る友人を見ると、彼女達は顔を見合わせた。
「親戚かあ」
「いいなあ、うちも家から離れて過ごしたいな」
どうやら不信感は抱かれてないようだ。遥は胸をなでおろす。少女達は彼女を促した。
「ほら、行こう。遥」
「あ、うん」
遥は手早く荷物をまとめ、皆について歩く。教室を出たので携帯の電源をそっと入れると、メールが一件届いていた。
「あれ……」
遥は幾分歩く速度を遅めてメールを確認する。差出人は、彼女のよく知っている人物からだった。
『校門前、早く出て来い』
驚いて彼女は立ち止まる。こんな場所にその人物がいること自体、ありえない事だ。しかし、その人がこういった悪戯をするようにも
思えない。悩んでいると、少し離れたところで友人が声を上げた。
「遥、何やってんの?早く~!」
「あ、う、うん!」
遥は小走りに彼女達の方へかけていく。半信半疑のまま、彼女は靴を履き替え校門へと急いだ。
道路わきに停めた車の中で、男は不機嫌そうに煙草をふかしている。少し離して停めているとはいえ、小学校の前に車を止めて
若い男が人待ち顔をしているのは、不審者以外の何物でもない。
「何やってんだ、あいつ……」
呟いた時、遠くから遥が出てくるのが見えた。彼女は、何かを探すように辺りを見回している。男は大きく溜息をつき車から降りた。
「遥、こっちだ」
声を聞き、遥は視線を動かす。彼女は男を見つけると顔を輝かせた。
「あ、大吾お兄ちゃん!本当にいた!」
嬉しそうにかけて行く遥を見て、そばにいた数人の少女達は顔を見合わせる。大吾は腕を組み、彼女を見下ろした。
「本当にいた、って人を珍獣みたいに言うな」
「だって、お兄ちゃんがこんなところに来てるとは思わなかったんだもん」
口を尖らす遥に、大吾は大きく溜息をついた。
「メール送っただろ、出てくるの遅えんだよ」
「日直だったんだもん。それに、教室内では携帯の電源入れるの禁止なんだよ」
日直、教室、懐かしい単語の連続に、大吾は遠い目をする。そういえば、自分が小学生時代は携帯がなかった。今はそういう校則が
あるのか。時代の流れとは恐ろしいものだと思った。
「ねえ、遥。この人誰?」
二人のやり取りを眺めていた少女達が、好奇心に負けて問いかけてくる。遥は大吾をちらりと見上げ、曖昧に笑った。
「えと……お世話になってるおうちの人」
少女達はその瞬間黄色い声を上げた。その異様な雰囲気に、大吾はわずかに後ずさる。この小さくて騒がしい生き物は一体なんだ。
遥も流石に友人の反応に驚いているらしい、言葉もなく固まってしまう。彼女達はかっこいい、だの、大人、だの、ちょっと怖そう、だの
言いたい放題だ。やがて、それぞれの感想が出尽くした頃、1人が大吾に小走りに寄ってきた。
「あ、あの、私、遥と仲良くさせてもらってます、神田といいます!」
大吾は驚いたように少女を見下ろす。こういう時は何て言うものなのだろう。彼は戸惑いながらもわずかに笑みを浮かべ、小さく
頭を下げた。
「それは……どうも」
「私、野本です!」
後ろの方でもう1人が手を上げる。それにつられるように次々と、中村です、打田です、と手を上げだす。名前を聞いて一体、どうしろと
いうんだ。困ったように遥を見ると、彼女は手を体の後ろで組んだまま、その状況をぼんやり眺めていた。この年頃の少女達は
何を考えているのかさっぱり分からない。大吾は無難に切り上げる事にした。
「それじゃ、今後とも、こいつと仲良くしてやってくれ。ちょっと急ぐし、こいつは連れて行くから」
はーい!と少女達は大きく手を振る。大吾は乾いた笑いを浮かべ、手を振り返すと車に乗り込んだ。
「遥、乗れ」
「あ、うん。みんな、またね」
遥は助手席に乗って皆に手を振る。少女達が見送る中、車は滑らかに加速していった。
小学校を後にしてから、遥はしばらく黙ったまま窓の外を眺めていたが、ふと思い出したように大吾を見た。
「お兄ちゃん、車乗れたんだ」
大吾はああ、と正面を見つめたまま苦笑を浮かべた。
「免許は持ってたからな。ムショに入った後にも、一応手続きだけはしてあったんだ。まあ、遊んでる分には車がなくてもやっていけたし
東城会で仕事をするようになったら、それこそ運転する機会もなくなったからな。たまに忘れねえようにこうやって車に乗る事にしてんだ」
「それで、わざわざ来てくれたの?」
首を傾げる遥に、大吾は肩を竦めた。
「車動かしてくるって言ったら、お袋が『ついでに遥も連れて帰っておいで』ってうるせえのなんの。まあ、ここまで来るとなると仕事も
休めるし。それで仕方なくな」
「……そっか」
遥は幾分残念そうに窓の外に視線を移す。信号で車を停め、大吾は彼女の頭を小突いた。
「どうしたんだよ」
「なんでもないよう」
遥は頭を押さえて首を振る。彼は首をかしげていたが、やがて信号も変わる。車を出しながら、大吾は口を開いた。
「お前と同い年の女ってのは、みんなああなのか?」
「え?何で?」
驚いたように視線を向ける遥に、大吾は溜息をついた。
「なんつーか、元気だよな」
「元気だもん」
素直に突っ込む遥に、大吾は首を振った。
「そうじゃなくて……やたらとやかましい」
遥は苦笑を浮かべ、視線を落とした。
「そうだね、私もよくお兄ちゃんにうるさいって言われるもんね」
「ああ、そうだな」
大吾は小さく笑う。それを聞いて遥はそっと溜息をついた。
彼女は同級生が大吾に対して騒いでいるのを見て、正直うんざりしていた。自分も傍から見たらこうなのだろうかと思う。彼の周りで
うるさく付きまとっている姿は、同じ年代である自分から見ても気持ちのいいものではない。大吾が困っている顔を見ると、尚更実感する。
堂島家で世話になっているからと色々してはいたが、結局自分は周囲の好意に甘えてしたつもりでいるだけの子供なのだと思った。
沈黙している遥に苦笑を浮かべ、大吾は続けた。
「でも、甘かった」
「甘かった?」
顔を上げる遥に、大吾は頷いた。
「さっきのガキどもと並べてみたら、お前の方が何倍もマシだった」
「え……」
遥は言葉を失う。彼はハンドルを切りながら言葉を続ける。
「うちでも、本部でも、自分の分をわきまえて動ける奴だからな、お前は。もしあいつらを本部に入れてみろ、あの調子で引っかき
まわされんのがオチだ」
この言葉はどう捉えたらいいのだろう。彼女は慌てたように声を上げた。
「で、でも私だって迷惑かけたりするよ。本当は私みたいな子供は、本部にいちゃいけないんだよね。でも皆さんすごく優しいから
やかましいのを我慢してくれてるんでしょう?」
あのな、と大吾は遥を睨んだ。
「仕事に支障が出るくらい迷惑な存在なら、その時点で本部には入れねえよ。そのことは、お前がうちに来た頃に本部を歩かせて
その様子を組員に報告させた。もちろんその組員からの評価も含めてな。その上での決定だ。いくらお袋のお気に入りだからって
本部はガキが無条件にいていい場所じゃねえんだ」
初めて聞いた事実に、遥は目を丸くした。自分の知らないところで、そんなことが行われていたなんて思わなかった。どうりで本部に
立ち入った当時の組員は厳しい目をしていると思った。それも全て自分が最低限ここにいていい存在かどうか見定めていたのだ。
黙りこくった彼女に、大吾は苦笑を浮かべた。
「お前、ずっとそんなこと考えてたのか?」
「……うん」
遥は小さく頷く。大吾は彼女の頭を乱暴に撫でた。
「ばーか」
「ばかだもん」
そっぽを向く遥を笑い、彼はハンドルを握る。彼女はふと大吾の横顔を眺め、ぽつりと呟いた。
「あとね、お兄ちゃんが他の子に笑ってるのを見るの、ちょっと嫌だったんだ」
「は?」
驚いたように彼女を見る大吾に、遥は不満そうに声を上げた。
「大吾お兄ちゃん、私にはあんな風に笑ってくれないもん」
「お前な……それは無理」
うんざりしたように首を振る彼を見て、遥は運転席に身を乗り出した。
「何で?」
問われ、大吾は噛み付くように怒鳴った。
「なんでお前に作り笑いしなきゃいけねえんだよ、面倒くせえな!」
「作り笑い……」
そう、と彼はきまりが悪そうに宙を睨んだ。
「あそこでガキども睨んでみろ、即行先公呼ばれんだろ。不審者扱いされて警察に引き渡しになったら、シャレになんねえだろうが」
「そ、そうだね……」
遥は納得したように頷く。大吾は彼女をちらりと眺め、溜息混じりに告げた。
「そんなに俺、お前に冷たいか?」
「うん」
「……今すぐ車から飛び降りろ」
「あ、嘘、嘘!わざわざ迎えに来てくれる、優しいお兄ちゃんです!」
どうだかな。大吾は慌ててフォローを入れる遥に肩を竦め、アクセルを踏み込んだ。車は加速して高速に乗る。遥は彼を覗き込み
そっと微笑んだ。
「また車に乗せてね」
「わかんね」
素っ気無く答える大吾を怒るわけでもなく、遥は何かを思い描くように遠い目をした。
「それで、二人で遊びに行こうよ。お弁当持って。また海もいいよね、山もいいな。上流の綺麗な川とかで水遊びしたいよ。前にテレビで
見てすごく涼しそうだったんだ。あとねえ、天体観測したいな。授業で星座の探し方教えてもらったの。それでね……」
「お前な、そんなに沢山休みが取れるわけねえだろ」
次々にあふれ出す彼女の提案に、大吾は呆れる。遥はそれを聞いて彼を覗き込んだ。
「少しだったら、付き合ってくれるの?」
しまった、と大吾は言葉を詰まらせる。遥の期待に満ちた目が、彼女の方を向いていなくてもわかる。彼はしばらく沈黙していたが
やがて根負けしたように声を上げた。
「まあな」
「やったー!今から計画立てちゃうよ、いいよね!」
遥は無邪気にはしゃいでいる。大吾は小さく溜息をついて彼女を眺めた。
「言っとくが、いつになるかわかんねえからな」
「うん、わかってる」
頷いてはいるが、彼女の頭の中はもう二人で遊ぶ計画でいっぱいのようだ。何を言っても上の空の彼女に呆れ、大吾は前を走る車に
視線を向けた。さて、この先彼女が提案した計画をこなすためには、どれだけ休みをとればいいだろう。そして、それを申請した時の
弥生の渋い顔が目に浮かぶようだ。
まあ、何とかなるか。彼は呟くと、わずかに表情を和らげた。
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